コンクールのピアノ

 若い無名のピアニストにとって、国際コンクールへ挑戦して目覚ましい結果を出すことは、世界へと躍り出る最も実際的なチャンスを掴む出発点となるように、ピアノメーカーにとっても著名コンクールで公式ピアノに認定され、最良の楽器を提供することはきわめて大きな意味があるらしい。
 さらにはそのピアノをコンクールのステージで弾くコンテスタントの数や頻度や割合、そして最終的にはその勝敗結果までもが、メーカーにとっても大きな勝負の場であることはまぎれもない事実のようであり、そこに繰り広げられる各メーカーの意気込みは生半可なものではないようだ。
 
 以前マロニエ君は、国際コンクールはピアノメーカーにとっての「ピアノのワールドカップ」と書いた覚えがあるけれど、やはりそれは間違いではなかったようだった。
 先日をちょっと話をしたメーカーの営業マンは、何度か「国際コンクールで使われているお陰で…」というフレーズを使っていたのが印象的だった。こういう事実は末端の営業現場や社員の意識の中でも、有形無形の効果を上げているものと思われる。
 
 例えば昨年のショパンコンクールではスタインウェイ、ヤマハ、カワイ、ファツィオリの4社が公式ピアノと認定されていたが、これにより、漠然と現在の実質的な最先端ピアノメーカーは、要するにこの4社だという印象がなんとなく出来上がったのではないだろうか。その他にも一流メーカーはあるけれども、大舞台で戦える諸要素を兼ね備えているのは、現状ではこの4社であるというように。世の中はえてしてそういうイメージを持ってしまうものだ。
 
 ショパンコンクールでのピアノ選びはその4社だから、マロニエ君は単純に4台の中から各人がチョイスするものと思っていたところ、たしか本で見た記憶によると、ピアノ選びに供されるピアノは実に7台だそうで、そこに添えられていた小さな写真を見ると、ワルシャワフィルハーモニーのステージは大屋根を全開にされたコンサートグランドが所狭しと並べられ、さながらピアノの展示場のような様相であった。
 ショパンコンクールでは、伝統的にスタインウェイはホール備え付けのピアノが使われることになっているのだが、他社は選りすぐりの逸品をこのためにずいぶん前から準備して持ち込むのだから、スタインウェイだけがただ単にホールのピアノを奥からゴロゴロ出してくるなんて、俄にはとても思えない。ピアノメーカーにとって、この上ない真剣勝負という場であることを考えると、ただのホールのピアノなんて額面通りには受け取れないから、もしかしたらコンクール開催に合わせてホール側が買い入れているという裏事情もありそうな気がする。
 
 実際に昨年のショパンコンクールに出向いて、一次から決勝まですべてを聴いたという知人から、マロニエ君はCDを拝借してこれを連日連夜聴き通した時期があった。ちなみに会場では毎日のように、前日の演奏が一枚のCDにまとめられ、これを来場者に配布しているというのだからその手回しには驚く。知人が持ち帰ったのは配布されたらしい20枚中、決勝最後の3枚を除く実に17枚に及ぶCDであった。
 その印象を簡単にいうなら、もはやどのピアノも甲乙付けがたい一級品というべきで、たとえどれを選んでもそれによる決定的な有利不利はないように思われる。マロニエ君の独断と偏見で言えば、もっとも中立的で偏りがないのはカワイ、旋律に華や輪郭があるのはヤマハ、絢爛とした輝きはファツィオリ、そしてスタインウェイはあくまでスタインウェイだが、昔よりも器が小さくなっていることは否めない。
 
 聴いていて、ある意味でのピアノらしさを感じたのは意外にもカワイとヤマハで、その逆はスタインウェイだった。スタインウェイがピアノらしくないという意味ではまったくないけれども、少なくとも個々の音の粒や色艶を楽しむというより、全体的なトーンとして聴かせるピアノだとあらためて思った。もっとも音響的で管弦楽的であるから、ピアノとしずかに向き合って、しみじみと私的な時間を味わい噛みしめるといった向きの要求には応えきれないかもしれず、このピアノはやはり生まれながらの華と品格を併せ持つ舞台俳優のようなもので、あくまでの鑑賞者の耳に届く音の在り方を前提として設計製造され、そこにすべての照準が合わされているようだ。
 もとよりコンクールのピアノがあまりに私的内省的では困るけれど、そういう一面を僅かでも感じさせ得るかどうは重要な点であるといいたい。
 そういう点で、スタインウェイが本当にショパンの音楽に潜む内的表現に向くのかと突き詰めていけば、究極的には疑問が残るが、それを言い出したらファツィオリなど、さらにその上を行く豪華絢爛を目指しているようでもある。ファツィオリの音を聴いていると思い出すのは、以前、スカラ座の舞台でフランコ・ゼッフェレッリの眩いばかりの装置によるトスカやトゥーランドットが大きな注目を集めた折に、ある大物批評家が「あまりにも舞台が豪奢に過ぎて、その精神はプッチーニの意に反するのではないか?」という疑問を呈したことがあったが、そういった楽曲との違和感をファツィオリには感じる。
 ファツィオリとヤマハは、音そのものは大変美しく華やかだが、海でに喩えると色彩の見事に比して「水深」が浅い感じがする点と、音にもうひとつ明確な個性がないところが共通しているような気がする。
 
 カワイはどこも悪くないんだけれども決め手がないというか、不思議なくらい、これだというなにか心に残るものがない。いわゆるオーラがないキャラクターだろう。ヤマハの新型はなかなか純度の高い美しい音を出すけれど、その鳴り方や反応の良さには、どこか優秀な小型グランドのような印象があり、少なくともコンサートグランド特有の量感や芳醇があまり感じられない。ショパンとの相性ということに限って言えば、いかにも磨き抜かれた美音ではあるが、惜しいことには憂いがない。
 
 現代のピアノの欠点は、ステージでの華やかさを意識し、オールマイティを旨とし、総合点平均点を重視するあまり、無傷の造花のような美しさにばかり傾きすぎているような気がする。
 概して芸術の構成要素には暗い悲しみをたたえた理不尽さとか、陰陽が常に対をなしているのであって、笑いの絶えない陽気で幸福な場所にだけ芸術の花が咲くなんてことのほうが、ほとんど稀である。
 そんな芸術作品を奏でるのに、あまりにあっけらかんとした、子供の肌みたいな意味の美しさばかりをピアノの音に求めること自体が少し間違っているのではないだろうか。
 
 
 さて、先日まで読んでいたジョーゼフ・ホロウィッツ著「国際ピアノコンクール」という本に出てくる話としては、1989年のヴァン・クライバーン・コンクールの様子が克明に描かれている。何事においてもクライバーン・コンクールはピアノコンクールの中では突出してあらゆる要素の規模が違うようで、そこがいかにもアメリカという豊かな国の面目躍如というところかもしれない。そのピアノ選びに供されるのは実に8台で、参加者1人あたり使用ピアノを決めるのに1時間が割り当てられ、これが終わるだけでも一週間を要するというのだから、なんとも気の長い話である。
 
 その1989年開催における8台の内訳は、クライバーン財団所有でクライバーンが自ら選んだニューヨーク・スタインウェイと、同じくクライバーンがロンドンで選んだハンブルク・スタインウェイ、さらにはニューヨーク本社から届けられるもう1台のスタインウェイ、それに、ボールドウィン、ベヒシュタイン、ベーゼンドルファー、カワイ、ヤマハという陣容だそうである。当時はボールドウィンが参戦しているところがいかにもアメリカと言うべきだが、それにしても圧巻である。
 
 ちなみにクライバーン財団の2台のスタインウェイは、クライバーン・コンクールの正式な技術員(クラヴィーアバウマイスター)を勤めているというラパポート夫妻という技術者によって管理されているのだそうで、残りのピアノはそれぞれメーカーの技術者が担当したらしい。このコンクールにかける各メーカーの意気込みは大変なもののようで、例えばカワイなどは1台のピアノのために5人の技術者(うち3人は日本から)を派遣したというのだからその力の入れようがわかるというものだ。にもかかわらず、このときはカワイ(だけではない)を弾く出場者はいなかったというのだから、まさに努力と忍耐と屈辱の世界でもあるようだ。
 
 実際に本選で使われたのは、39人中、ラパポート夫妻の管理下におかれていた2台のスタインウェイが実に29名に達し、残りの6人がニューヨークからメーカーが持ち込んだスタインウェイを選び、3人がヤマハ、1人がボールドウィンというもので、ベヒシュタイン、ベーゼンドルファー、カワイを選んだ者はいなかったらしい。
 それにしても、ここからもわかる通り、このラパポート夫妻が手がける2台のスタインウェイの圧倒的な人気には驚かされるばかりで、メーカーの送り出したピアノ&技術者も及ばなかったというわけだから、よほど素晴らしいピアノなんだろう。
 コンクールには表沙汰にはできないいろいろな噂も飛び交うから、穿った見方をすれば、このクライバーン財団の2台のスタインウェイを使ったほうが有利だというような裏情報と動きがあったのでは?とも思わなくもないが、しかし一昨年の2009年では辻井伸行氏が一貫して弾いたのがやはりクライバーン財団のスタインウェイだったけれど、たしかに良いピアノだったという印象は今でも持っているから、やはりそれだけの弾き手が選ぶに値するピアノなのかもしれない。
 
 そう思うと、やはりピアノはいつもながらいうように、管理者・技術者の果たす役割がいかに甚大であるかということを裏書きしたことにもなるだろう。「氏より育ち」という言葉もあるが、ピアノは氏だけでも育ちだけでもダメで、両者が高い次元で見事にバランスしたときにしか最良の結果は生まれない。
 
 さて、そのコンクールにおけるピアノメーカー各社の熾烈な競争であるが、記述によると、各メーカーからは主催者に対してものすごい圧力がかけられるらしい。この本によれば、このときのクライバーン・コンクールには、ピアノメーカーがすべて無料で、実に20台ものピアノを持ち込んできたというのだから、その意気込みにはさすがの主催者側もたじろいでしまうだろう。
 それを責任者の判断で総数を8台に制限し、財団の2台のスタインウェイは外せないから、残り枠は6台ということになったらしい。
 ちなみに8台というのは、ステージにピアノを並べて出場者にピアノ選びをさせるには、物理的にそれが限界だったからというものだそうだ。
 
 ちなみにコンクールには、多くの政治的、人脈的、その他様々な事情が複雑に絡み合っているらしいことは、古くから良く知られていることである。使用されるピアノもそれらの要素から解放されることはむろんないわけで、演奏者が本当に純粋に好みの楽器を選んでいるかどうかも疑わしいのではないか。
 だいいち、出場者の事前の訓練そのものも、主観や個性を出さず、選曲からなにから、すべての事柄をコンクール仕様に仕上げてくるわけだから、ショパンだけを演奏するショパンコンクールは別としても、その他のコンクールでは課題曲の選択範囲も制限があるし、その中で同じ曲を20人も弾くものがあるかと思えば、ひとりも弾かないようなものがある。
 これは好みが偏っているというよりは、審査基準に有利に働くための選択なのであって、だから逆にあまり知られていない現代曲などを弾く場合も、審査のために有利と見た場合が多いらしい。
 
 ちなみにブラームスのコンチェルトは選択範囲には入っているものの、現実的には審査員・聴衆ともに時間的に長すぎて飽きられてしまい、その時点で不利になるから誰も弾かないらしい。
 
 誰も彼もがこうした基準で動いているのだから、当然ながらピアノ選びも、審査に有利という点で中には不本意でもスタインウェイを選ぶような人もあるような気がする。
人間は予備知識に弱いから、スタインウェイを基準にするなら、他社のピアノを弾くコンテスタントに対しても、それだけですでになんらかの固定観念をもって聴いている可能性もないとはいえないだろう。
 
 マロニエ君の理想としては、国際コンクールでは、ピアノはできるだけ多くのメーカーの参入を認めて、その種類を増やすのがいいと思う。ただし予断を許さないためにも、鍵盤蓋やサイドのロゴマークは黒いシートでも貼りつけて、すべて隠しておくのがいいのではないかと思う。それもわかる人にはわかるのは仕方がないが、すくなくともそれで演奏と音に集中できるというものだ。ピアノにはすでに有名なメーカーとかブランド性みたいなものがあるので、そういうものに左右されないで演奏を聴くことが出来るようにすることがフェアなやりかたではないかと思うのだが。
 
 昔のピアノの品評会やコンクールの中には、ピアノごとカーテンのようなものの中に隠して、音だけを聴いて審査員が純粋に判断するというのがあったらしく、想像するといささか滑稽な気もするが、これはこれでひとつのキッパリした方法だと思われる。
 
 ただし通常の国際コンクールでは、ピアニストとしての資質も評価されるのだから、演奏する姿まで覆い隠すのはどうかと思うけれども、まあせめてピアノのロゴマークぐらいは隠してもいいのではないだろうか。ショパンコンクールなどでは、コンテスタントの名前や出身国などをアナウンスする度に、使うピアノのメーカーまでマイクで発表されているが、果たしてそれは本当に必要なことかどうかマロニエ君にはわからない。
 
 尤も、現実的にはいろんなビジネスとしての事情も深く関わっているだろうから、ロゴマークを黒いシート隠すなど、とてもじゃないが、そこに命をかけているメーカーはどんな奥の手を使ってでも承知しないだろう。
 あるメーカーなどは、会場関係者の制止を振り切って、開演寸前に現地スタッフが大きなロゴマークをピアノの側面に貼るために駆け込んだりするらしいし、別のメーカーもここ2年ぐらい前からカメラがピアニストの顔を狙う角度にメーカー名が映り込むよう、フレームの垂直面にまでわざわざメーカー名を入れるというような露骨なことまでやっており、もはやここまでくると宣伝も行き過ぎでうんざりという気がする。
 
 現代のような消費社会においては、大きな物事をビジネスの要素抜きで進めることは不可能なのかもしれないが、もう少し本質を見失わないゆとりが持てないものかと思うばかりである。
 同時に、その激戦の中に、日本のピアノが二社も入っていることは大変なことだと思わないわけにはいかないだろう。日本人が、明治から西洋音楽というものをはじめて知って、まったくのゼロからスタートしたことを考えると、楽器造りほど伝統や土壌がものをいう分野において、これはまさに奇蹟に等しい気がするのである。

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