ディアパソン210E-2

 ディアパソンの210Eを工房に運んで、2ヶ月が経ちました。
 
 はじめは全体のクリーニングと入念な調整のつもりが、やはりプロの目で隅々まで詳細に見てもらうにつれ、次々に問題が浮上、相対的なバランスの問題もあり、ついにはオーバーホールに近いような大修理を受けることになりました。
 
 考えてみれば当然なのですが、いかにあまり弾かれていなかったとは云え、まず単純に、30数年を経過した弦やハンマーが今尚健在であるはずがありません。これらのパーツはボディやフレームとは違い、純粋に消耗品と考えるべきもので、クルマで言えばタイヤやプラグやバッテリーみたいなものでしょうから、ピアノを蘇らせたいなら交換も致し方のないことだと思われます。
 
 ディアパソンの210Eには、ドイツ製の有名なレンナーのハンマー、レスローの弦が標準で使われていますが、それも30年以上経てばほとんど意味を成しません。ピアノが工房に運び込まれて後、はじめにここを訪れたときには、アクション一式は完全にボディから抜き取られ、鍵盤もバラバラの状態でした。
 作業台の上に置かれたアクションを見ると、ハンマーは摩耗こそさほどではないものの、見るからに古びており、レンナーとはいってもアンダーフェルト(ハンマーの中心近くに巻かれた赤や青や緑色のフェルト)のないタイプで、下半分はグレーに染められているのが心なしか汚れのようにも見えてしまって、まるでネズミの頭が並んでいるようで、まったくそそられないものでした。
 
 どんなにボディをピカピカに仕上げても、気合いを入れて調整してもらっても、その内部にこのハンマーがある限りは何をやったところで結局は限界があることを認識せざるを得ません。
 我が家のカワイでも経験しましたが、古いハンマーに何をやってみても、所詮は新しいものには敵いませんし、それも自分が長く弾いてきたピアノならまだしも、これから長い付き合いが始まろうというピアノが、始めからそんな状態というのでは気分も晴れませんから、思い切って交換という選択肢以外にはありませんでした。
 
 ところが、そんな決心も束の間、弦も使おうと思えば使えないことはないとのことですが、せいぜい10年?15年だろうという見立てで、せっかくハンマーを交換するのに、その新しいハンマーが叩く弦が残りの賞味期限が少ないご老体とあっては、これまたなんとも不釣り合いであるし、弦交換はできることならピアノが工房にあるうちにやるべきだということから、作業範囲はみるみる拡大していきました。
 
 それは、他の細かいブッシングクロスなども同様で、工房での作業だからこそ腰を落ち着けてゆっくり出来る事が数多くあるわけで、だからこそ仕上がりのクオリティも期待できるというものです。
 そうなると、なにもかもが「この際だから…」というひとことに括られ引っぱられるように、象牙鍵盤の漂白、黒鍵の黒檀への交換、果ては錆のあったペダルの金属棒まで取り替えることになりました。 
 
 これだけの事をやるとなると、どんなにお安くしていただいてもそれなりのドカンとした金額にはなってしまいますから、正直ずいぶん悩みました。しかし、ここで中途半端にケチっても、結局最後に不満が残るようなやり方では、そもそも一体何のためにこのピアノを買ったのか、何のために工房に運び込んでまで入念な整備をしたのかという根本的な問題に突き当たります。
 中途半端なことをするぐらいなら、いっそ何も交換せず、現状で可能な限りの調整に徹するほうが、まだ一貫性もあるし、潔くもあるでしょう。でも、それもイヤでした。
 個々のパーツや調整はピアノ全体の音や機能に繋がり、その全体が有機的に結びつくときこそ楽器として真の能力を発揮するはずで、ならば交換すべきは交換して、一定の要件を満たすことが求められます。
 
 こうなると、予算オーバーなんてものでは済まない次元に突入しますが、まあ所詮は趣味道というものはそういうことだと、半ば諦めとやけくその後押しもあって思い至ったわけです。
 
 ピアノ本体を上回る高額な整備代というのも、なんだかバランスが悪いような気もしますが、それを云いだせば、そもそも中古ピアノなんて、多くの場合が仕入れ値よりはるかに高額な整備をして(しないところもあるようですが)、外装も美しく仕上げることで売値が付けられ、ようやく販売されるのが大半ですから、そう思えばそれほどおかしな話でもないと考えることもできる。
 まあ、お金の話はつまらないのでやめましょう。
 
 弦はむろんレスローを使うことになり、巻弦ではレスローに加えて、これまたドイツのデーゲンの銅線を巻いてもらうことになりましたが、これは特筆大書すべきことでもなく、だいたいレスローにはデーゲンの銅線を巻くのが定石のようです。あとから聞いたところでは、巻線はピアノのメーカーや機種ごとに異なる弦の長さを一本一本測って、それを浜松の業者に依頼して巻いてもらうのだそうです。
 
 先日は、弦の張り替えがおわったとのことで、まずは古いハンマーを使って全体的な音の傾向の確認と、取り替えるべきハンマーの選定を検討するための試弾をおこないました。
 すでにこの工房で目にするのが三回目となる我がディアパソンですが、ボディはあらかた磨かれているものの、大屋根は外された状態で、足も作業用のものに交換されたままで、ひとくちで云えばバラバラで、まだ全体を俯瞰するには至りません。ただひとつの大きな違いは、弦が外されて骨だけのフレームだった前回とは異なり、真新しい弦がハープのように美しく張られ、手前には新しいチューニングピンが眩いばかりに輝いており、これだけでも新品のような鮮烈な印象を覚えました。
 
 ところが弾いてみると、まったく期待はずれなもので、音には芯がなく不揃いで、キーは重く、これはちょっと…というのが率直な印象です。この時点では、あくまでもオリジナルのハンマーによる音出しのテストのようなもので、ここのご主人が一音ずつ整音や調律を変えながらいろいろ試してみると、音はおもしろいように変化を繰り返していきます。
 
 そんな過程の中からマロニエ君が気に入った音、気に入らない音、好ましいと感じる音など、あれこれと感想を述べると、そこからこちらの大まかな好みを把握して、できるだけそれに沿った音造りの指針にしようということのようでした。
 マロニエ君は中音から上は、音に芯はあるけれども、それをふくよかさで包み込んでいるような、全体としてはやわらかな音が好きですが、低音域ではそれよりはいくぶんメリハリの効いた明晰さと、それでいてパワーのある、重心の低い響きを好みます。
 
 新品を含む多くのピアノが、貧弱で輪郭がなく、ぼやけた感じの低音の上に、いかにもブリリアント風な中高音が乗っているのとは真逆といえるかもしれません。
 
 工房のご主人は、はじめアベル(ドイツ)のハンマーを使う心づもりだったようですが、マロニエ君の好みに対する理解が進むにつれ、むしろレンナーのほうが好ましいと判断されたようで、こちらを選択ことになりました。ちなみに一般的にはレンナーのほうが重厚な音造りに向いているとされ、アベルはその点ではやや軽快で明るい音という性格なのかもしれません。その違いについてはマロニエ君は実感として語るだけの経験はなく、あくまで聞いた限りの話ですし、両社共にいろいろなハンマーがあるようですから、一概にどうということも云えませんが…。
 
 本当は、整音の本で読み知ったロンセンというメーカーのハンマーに興味がありました。アメリカの小さな会社のようですが、取扱店の説明によると、ロンセン・ハンマーは黄金期(戦前)のピアノの響きを目指しており、密度が高く、伸びがあり、弾力性に富み、力強さと輝きがあるということで、これが本当ならまさに理想のハンマーだと思いました。とくに製造過程で特徴的なのが、手動機械による丁寧な作りに加えて、ローヒートという手法が採られている点のようです。これはフェルトに高熱を加えない製造法で、天然素材であるフェルトのためには好ましいものの、手間がかかるためか大量生産では不可能とされており、世界中の技術者が望んでいたものと記述されています。
 
 写真を見ると、通常のハンマーの白いフェルトと、中心部にある色つきのアンダーフェルトの間に、もうひとつ異なる調子のフェルトの層が存在していて、このようなハンマーの断面はこれまでに見たことがないので、おそらくこれがロンセン・ハンマーの特徴の大きな鍵を握っているのではないかという気がします。
 
 このフェルトに強い興味を覚え、工房のご主人にもその旨を伝えたのですが、返ってきた返事は「いかに良いとされているものでも、自分で使ってみた経験のないものを、いきなりお客さんのピアノにつけることは無謀、それは技術者として無責任な事であって、自分にはできない」というものでした。
 マロニエ君としてはそこに多少の冒険があるにせよ、ものは試してみなくちゃわからないのだから、その結果がどうなろうとも構わないとまでは云いませんが、しかしまったくダメということはないだろうと推察するので、やってみてもいいじゃないかと内心思うのですが、このご主人はこうだと言い出したら説き伏せることは無理なので、今回はロンセンは諦めることにしました。
 
 でも、ロンセン・ハンマーに興味津々なのは今も変わりはないので、いつかなんらかのかたちでぜひ試して欲しいものだと思っています。
 
 またキーの重さについては、このピアノを前オーナー宅で試弾したときより、尚一層重く感じられたのはどういうわけだろうかと思いましたが、そこはよくわかりません。
 この時代のカワイやディアパソンは、なに故にこうまでキーを重く作ったのか、まったく理由がわかりません。この点では知人のお宅にあったカワイも、やはりキーが鉄ゲタのように重く、驚いたばかりです。
 
 工房のご主人もカワイ/ディアパソンに見られるこの悪しき特徴は以前から苦言を呈しておられるところですが、我がディアパソンがまだしも幸いだった点は、ダウンウェイトを調整するための鉛の量/数が極端に少なく、ところどころにはまったく埋め込まれていないキーもあるほどで、これなら新たに鉛を入れる余地がかなりあるというわけで希望が持てるような気がしました。
 
 ピアノによっては、すでに鉛がかなり入っていてもまだまだ重いものがあるようで、それ以上鉛を入れるとキーの木材の強度に問題が生じる(下手をすれば折れる)ほか、キーの戻りが悪くなるという弊害も出てくるので、鉛詰めといっても限界があるようです。
 
 音やタッチがどこまで改善されるか、楽しみのようでもあり不安でもありますが、まあ好きで買ってしまったピアノで、マロニエ君にご縁があったわけですから、少々の失敗だったとしても悔いることはないと思いますが…。
 
 実はこの日、このディアパソンでなによりもマロニエ君の気に入った点は、外装の深みのあるマホガニーのなまめかしい美しさでした。これまでにも何台かのグランドピアノを購入してきましたが、すべて黒で、木目というのは実をいうと初めてなのですが、これが思いのほか色っぽい印象だったのは嬉しい誤算でした。
 はじめは積年のホコリやくすみがピアノ全体を覆っており、それほどとは思いませんでしたが、入念に磨き込まれることで本来の輝きを取り戻し、黒のピアノには望むべくもない典雅な雰囲気があるのは、これぞ木目ならではの魅力だと思いました。
 そうは云っても、ピアノは楽器なわけですから、どんなに見た目がよくても肝心の音が良くなくては仕方がありませんが、そこはディアパソンの潜在力と工房のご主人の腕を信じるしかありません。
 
 
(追記)
 ロンセンのハンマーについては、どうしても体験者の話を聞いてみたいという思いが強く、とうとう輸入元に電話して、どのような特徴やメリットがあるハンマーかを直接尋ねてみました。果たして、とても親切に説明していただいたのですが、生来やわらかいハンマーで、第一整音の必要がないというものでした。
 
 そして最終的には、硬化剤を使いながら音色を作っていくというタイプのハンマーなのだそうで、これは咄嗟にアメリカ製のハンマー(フェルトはドイツ製ですが)の特徴だろうと推察しました。まさにニューヨークスタインウェイとハンブルクスタインウェイの違いのひとつがこの点にあり、明るくふくよかな音を求めるならニューヨーク、重厚で輪郭のある発音ならハンブルクという個性の違いがありますが、これはひとつにはピアノに対する理想理念の違いであり、それがハンマーの特性の違いにも現れていると思われます。
 
 整音をするにしても、やわらかいハンマーに硬化剤を使うか、あるいは時間をかけて弾き込むことで音を作っていくニューヨークに対して、ハンブルクはレンナー製の固く巻かれたハンマーを針でほぐしながらヴォイシングしていくわけで、マロニエ君はどちらにも捨てがたい魅力があると思っていますが、ディアパソンは方向性としてはベヒシュタイン的な、くっきりとした野太い音を出すピアノでもあるので、それにはレンナーの方がピアノの性格に合っているような気がしましたし、工房のご主人のレンナーという判断はさすがに正しいと思われました。
 さてそこから、どれだけ透明感と洗練、そして音楽性のある品位を与えられるかが技術者の腕とセンスということになるわけで、大いに期待しているところです。

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