ディアパソン210E-3

 先日、ハンマーの交換が終わったとの連絡を受けて、さっそく工房に行きましたが、期待に反して音は茫洋として捕らえどころがなく、さらにタッチは鈍重で、第一印象はものの見事に期待外れなものでした。
 
 工房のご主人によれば、ピアノのオーバーホールというのはえてしてこうしたもの(事前にそれは聞いていましたから仕方ありませんが)なのだそうです。発音の重要な要である弦とハンマーが新しくなると、それらが本来の鳴りに至るまでは一定の弾き込み時間と調整を要するとのことでした。新品のハンマーは弦溝がないために弦への接触面が小さく、とりわけ低音などは本来の鳴りとパワーが出ないのだとか。
 
 早い話が、新しいハンマーは新品の硬いジーンズみたいなもので、それが身体に馴染んでくるには忍耐強く履き込んでいく必要があるように、ピアノも相応の慣らし運転が必要ということのようです。その時期を抜け出るまでは、オーバーホール前の状態のほうが良かったという事例はいくらでもあるそうです。
 
 さらに厳密に云えば、弦とハンマーを交換したからといって、必ず良い結果が約束されているということでもないらしく、新しい弦やハンマーにも個性や相性などがあり、どのような結果が出るかは実際に取りつけてみるまでわからないというのが実情のようです。もちろん一般に技術者の方は、そこにビジネスも絡んでいるので、どこまでありのままを伝えられるかは個人差があるとは思いますが、掛け値なしの事実としてはどうやらそういうことのようです。
 とくにオリジナルの音や雰囲気が気に入っている場合は、それがオーバーホールによって失われることもしばしばだそうで、そのためこの工房のご主人は、自己所有の戦時中に製造された名器のオーバーホールに、いまだに踏み切れないとのことでした。
 
 こういうわけで、オーバーホール直後のピアノというのは、期待に胸膨らますであろう所有者をしばしば裏切り、落胆させるのだそうで、きっと固くて美味しさのまったく出ていない青い果実のようなものなのでしょう。尤も、果物なら放っておけばほどほどに熟れてくるものですが、ピアノの成長・熟成には一定の時間と労力がかかりますから、これは焦らず気長に構える必要があるようです。
 
 こういうときにピアノメーカーが持っている打鍵機(正確な名前は不明)があれば、労せずして全てのキーを夥しい回数打ち鳴らすことができ、初期の固さや馴染みの悪い状態を短時間で通過できるようですが、そんなものはないし、ここはまあゆっくり弾き込んでいくしかないのかもしれません。
 打鍵機による初期慣らしは工場で製造されたピアノは必ずやっていることですし、昨年見た映画『ピアノマニア』でも、エマールがバッハのフーガの技法録音のために使うピアノが新しいハンマーに交換され、やはりこの打鍵機にかけられるシーンがあったのを思い出します。
 
 我が家に来たら、打鍵機には遠く及びませんが、できるだけ指運動を兼ねて全音域を使い、スケールや半音階を繰り返してみようと思ってはみたものの…意気地のないマロニエ君のことですから早々に挫折するのは確実で、ディアパソンらしいとろみのある音になるのはいつになることやら…。
 
 それはまあいいとしても、キーが思ったほどには軽くならなかったのは計算外でした。もちろんオリジナルの法外な重さに比べると確実に軽くはなっているものの、できれば46?8gぐらいの感触を期待していたところ、そこは構造的な壁があるようでなかなか苦戦されたようです。
 
 鉛詰めはかなりされたようですが、それでもせいぜい50gぐらいで、これ以上は戻りが悪くなるのでいちおうの限界ということでした。この生来のキーの重さというのがカワイ/ディアパソンの悪しき特徴のひとつで、それが為に、それなりに深みのある好ましい音を持っているにもかかわらず、技術者の間ではこのメーカーを好まないという人が少なくないようです。
 
 そういえばマロニエ君の知り合いのピアノもカワイ(グランド)はどれも一様にキーが重く、そのぶん弾きやすさを大いにスポイルしているのは間違いありません。メーカーとしては樹脂製アクションへの転換などよりも、こちらのほうがまずもって手を付けるべき重要項目だったのではないでしょうか。
 少なくとも、音では決して負けてはいないどころか、むしろ誠実なピアノらしささえ感じられるカワイのトーンがあるにもかかわらず、ヤマハがこれほど支持されるに至った理由のひとつは、ひとえに優れたアクションに象徴される製造クオリティにあったのかもしれません。
 
 車もそうですが、企業としてはトヨタの圧勝でも、クルマ好きの中には日産の堅実さや乗り味、あるいは不器用であっても、その中に潜む作り手のスピリットを好む人達も少なくないことにどこか似ているような気がします。もしもカワイ/ディアパソンがヤマハ並みのアクションを持っていたとしたら、長年にわたる評価も少しは違ったものになっていたかもしれません。
 
 昨年から今年にかけて、カワイはSKシリーズに続いて普及型まで、大半のグランドのサイズをすべて2cm延長して、その分はキーの長さに充てられているようですから、もしかするとこの点が改善されているのかもしれませんが未確認です。
 
 キーのダウンウェイトにはハンマーの重さにも重要な関係性があり、以前もハンマーの重さ実験の結果として書きましたが、ハンマーの重さがわずか1g重くなると、それは鍵盤側では実に5倍にあたる約5gが加重されることになり、もう少し軽いハンマーがあればかなり事情は変わったかもしれません。
 ただし、小ぶりなハンマーはタッチに軽さをもたらすぶん、当然ながら音も軽めでどちらかというとパワーも限られたものになりがちで、マロニエ君は本来的にはあまり好みではありません。
 
 我がディアパソンに話を戻すと、今回取りつけたハンマーの木部はマホガニー(最も軽いとされる)のレンナー・ハンマーですが、ヘッドは厚みのある普通サイズのハンマーでした。それを標準装着のハンマーと比べると、ほとんど同サイズのハンマーだったらしく、昔は普通にこのサイズのハンマーが付けられていたようで、こんなところにも時代を感じることができるようです。小さめのハンマーを使い出したのはわりに最近の傾向で、昔は相対的にたっぷりしたサイズのハンマーがついていたために迫力ある音がしていたものですが、最近ではスタインウェイでさえそういう方向にシフトしているようですから、深みや迫力よりイージーでブリリアントというのは世界的な傾向なのかもしれません。
 若いピアニストは指はよく動くし、難曲も弾くだけはさらさら弾けてしまいますが、演奏そのものに覇気やエネルギーがなく、軽いピアノでさえ充分鳴らそうともしない省エネ演奏ですから、聴きごたえも薄く、感動とは程遠いものであるのも致し方のないことだと思われます。もちろん大きな音を出せばエライというわけではありませんが、逆にダイナミックレンジを小さくすることが芸術性が高いわけではないことも事実です。
 

 ところで、ピアノをメーカーとして評価する場合、とくに技術者間の評判では、ヤマハを好む技術者さんは我々の予想よりも遙かに多くいらっしゃるというのが実情でしょう。
 技術者は当たり前のことですが技術を通じて仕事し、それを生業として報酬を得るわけですから、その評価はときとして楽器としての芸術性よりも、よくできた機械的優秀さや作業効率の良さ、信頼性の高さに拠るところが大きくなってくるのは否めません。とりわけ小さなパーツの集合によって構成されるアクション部分では、ひとつひとつのパーツの精度が抜きんでて素晴らしいヤマハは、この点で世界一という人も多いのです。
 技術者にとって、確かさがあり、仕事のしやすい対象を憎からず思うのは当然で、職業人として自然なことだと思います。逆に、いくらやっても思い通りの結果が出しにくい、手間ばかりかかるピアノというのはどうしても心証が悪くなるのも頷けます。
 
 一説によれば、名器の誉れ高い、さるドイツの手作りメーカーもアクションはヤマハからの供給を受けているのだそうで、マロニエ君はその高貴な音色もさることながら、弾きやすさにも感心していたものですが、どうやらそれはヤマハのアクションという陰の力があってのことのようでした。
 
 その点で云うなら、ディアパソンはヤマハに比べて機械的に未完未熟の部分が多く、技術者を手こずらせることも少なくないようです。音色の点でもヤマハ的な尺度で見れば美しく揃っているとは言い難く、ムラやばらつきも多いでしょうし、おまけにタッチも鈍重で調整が難しいとなれば、もうそれだけで次々と減点対象となってしまうでしょうね。
 
 マロニエ君も、そういう事実があることは客観的にわかるのですが、ディアパソンの魅力は、曲を弾いたときのなんとも形容しがたい楽器らしさを感じるところだと思います。その音は、変な添加物を使わない自然食のようで、今どきの新しいピアノのような華やかさや洗練はないけれども、素朴さの中に本来の旨味や風合いがある、そんなピアノだと思うのです。高級ではないけれど真っ当に作られた昔の家具と、よくできた今風の手軽でモダンな家具の違いのようなものでしょうか。ちょっとぐらいダサくても、本当に手に馴染んで気持が和み、長く愛用するとなると昔流儀の製品は強味です。
 これは均一性や製造精度という観点とは別領域の価値基準となり、ここからが技術者とユーザーの判断が二分されるところだろうと思います。
 
 巷でアコースティックピアノ(生ピアノ)という言葉をよく使いますが、ディアパソンこそまさに生ピアノそのもので、肉筆の文字や絵のような、今まさにハンマーが弦をたたき、それが駒を通して響板に伝わり、ピアノの響きとなって広がってくるという感覚を直接的に感じることができるのは、国産ピアノではディアパソンが随一だと思いますし、少しだけ弾かせてもらったことのある手作りのシュベスターにもこれに通じるキャラクターがあったことを思い出します。
 
 多くの国産量産ピアノにありがちな特徴といえば、音は大きいけれど日本人の顔みたいにペチャッと平面的で、美しさもどこか造花チックで情感に乏しく、無機質な機械のような感じのものが少なくないように感じます。その点ディアパソンの音はふわりと浮いたような自然な余韻があり、ちょっと古い感じはあるもののピアノを弾いているという実感があるのが一番の特徴ではないかと思います。弾く人に楽器を鳴らして音楽する喜びを与えてくれ、たとえ自分の拙い演奏であっても、それが生の音として自分の耳に伝わり、同時に指先や身体の感触と感性に直結していく過程は、このピアノでないと得られない感覚だいう気がします。
 
 そこには、人工的でない、良い意味での洗練されすぎないものがあり、ピアノという楽器の原点に触れられるような気さえするのです。その点では大手の量産ピアノは、たしかに音はムラなく揃っているし、誰にでもわかりやすい華やかさと滑らかな弾きやすさがあり、手触り耳あたりが良いのは確かでしょう。しかしマロニエ君に云わせると、どこか「電子ピアノのような生ピアノ」というパラドックスを抱えているように感じますし、この状態が経年変化でどうなるのだろうという疑問も感じるわけです。
 喩えて云うと、えらくスタイリッシュな建て売り住宅の展示場を見せられているようで、素敵なんだけどどうしても正味の本物には見えず、壁の裏がどうなっているのか…素材は実は何なのか…どこまで信用して良いかわからない猜疑心と不安感が常につきまといます。いま見えているものがすべてであって、それ以上の発見はおそらくないという予感…。
 
 もちろんピアノの全音域がムラなく整って、洗練された美しい音を奏でることは、ピアノ造りのセオリーからすれば正しいことでしょう。しかし、それがコストや生産効率追求と同時並行的に高度な工業技術によって表面的に作り出された精度の権化のようなものであるならば、それが楽器として音楽の本質に迫り、弾く者の感性を磨き、作品の真価を歌い上げることができるだけの潜在力があるかどうかは甚だ疑問です。
 
 また、楽器というものは音楽を文字通り音として結実させるための道具ですから、その楽器そのものがあまりにも美しい音で完結され過ぎていると、演奏されても意外につまらないものになる気がします。あくまで演奏されたことによって収束され完成していくような、そんな余地を残したピアノをマロニエ君は好みます。
 
 まったく異なる個性ですが、強いてスタインウェイとディアパソンに共通したものを探すとすれば、それは、ただ人差し指でポンポンと単音を鳴らしたり、意味のない音階を弾いただけでは、必ずしも均質で音の美しいピアノではないということでしょうか…。それどころか、むしろ雑味のある、評判ほどにもないピアノのように感じられる方も多いはずです。しかし、ピアノの真価はそれらの音が音楽となったとき、一体どのような作用をもたらすか、その場にどれだけの風をおこすか、肝心な点はここにあるような気がするのです。
 
 例えば、マロニエ君のまったくの個人的な好みでいうならば、ベーゼンドルファーは木の温もりだとか、最も人の声に近いとか、ウィーンの貴婦人のような雅びた美しさがあると言われますが、あまりにもピアノをデリケートな美術品のような次元へと昇華させてしまった結果、その音色のたおやかなシルクのような美しさは却ってピアノのストレートな魅力に欠けるといったらお叱りをうけるでしょうか。その点ではマロニエ君はベヒシュタインのほうがまだしもピアノらしいという気がします。
 
 白洲次郎夫人で随筆家の白洲正子さんは、文化に造詣が深いのはもちろん、大変な美食家だったそうですが、正子さんを良く知る人の言葉によれば、彼女は京都などの過度に雅致を極めた料理の類はあまり好みではなく、そこには必ず一片の野趣がなくては納得しなかった、という話を聞いたことがありますが、これはマロニエ君のピアノの好みにも通じるものがあり、ベヒシュタインにはその野趣を感じるわけです。
 
 その流れのずっとずっと下流のところにディアパソンの魅力も連なるように思うわけで、これがマロニエ君が二度目のディアパソン(しかも30年以上も前の)をわざわざ買った理由かもしれません。
 話がずいぶん勝手な方向へと蛇行しましたが、果たしてオーバーホールまでしたディアパソンが思い通りのピアノになってくれるかどうか、これはまったくの未知数です。

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