ディアパソン210E-6

 我がディアパソン210Eは、オーバーホール後10ヶ月が経過しました。
 
 弦やハンマーなどはますます楽器との馴染みが出てきたように感じられ、ピアノ自体も我が家の環境に慣れてきたのか、基本的にきわめて快調、元気で良く鳴るのはまったく喜ばしい限りです。
 ところが、そんな嬉しさを台無しにするほどの深刻な問題にずっとつきまとわれ、未だに解決の糸口さえ見えないことには参りました。
 
 その問題とは、人とピアノの最も直接的な接点であるところのタッチがどうしようもなく重いことです。しかも、あれこれの調整を試みるも好転に至らず、逆に深みにはまっていくようで、このままではこのピアノはピアノとしての価値や存在感を充分に発揮できそうにもない状況に突入しているようで、なんとも残念としかいいようがありません。
 
 軽くするための考えられる手段は、技術者さんを通じてあれこれやっていただきましたが、あちらを立てればこちらが立たずという感じで、一向に解消には至りません。要するに問題の核心は根本的なところにあることは疑いようもなく、その根本に手をつけずして、際限なく対症療法ばかりを繰り返してもムダだということがいよいよはっきりしてきたのです。
 
 大きな問題は2つで、1つはオーバーホール時に交換したレンナーのハンマーがこのディアパソンのアクション特性に対して大きすぎ(厳密にいえば重すぎ)ることで、このためにキーのダウンウエイトが決定的に重くなっていること。もうひとつはシュワンダーアクションが有するシングルスプリングのウイペンであるため、もともとの機能にも制約があり、ハンマーの重さに対応する調整機能枠が不足すること。いわばこの機構の宿命的な部分であり、それもあって世の趨勢がヘルツ式アクションに移行したのも自然な成り行きだったと思われます。とりわけ技術者間ではシュワンダーは構造的にまったく無価値のように捉えられている気配さえあるようです。
 
 解決策の一案として、ウイペンをヘルツ式のダブルスプリング方式に交換することを提示されてはいるのですが、マロニエ君はもともとシュワンダーアクションのもつ繊細でしっとりしたタッチのフィールが好きなので、これを現代的なヘルツ式に交換すれば重さの問題は一気に解決するとしても、同時に普通のピアノのタッチになるわけで、なかなかそこが踏み切れません。
 さらに、ヘルツ式アクションを持つピアノは別に所有していることもあり、ディアパソンはシュワンダーのまま温存しておきたいという考えもあるわけです。
 
 ちなみに、シュワンダーの良さはタッチがしっとりして、そのやわらかなタッチ感は弾く者の気分まで影響を与えるものだと感じます。具体的にはキーの下がり始めが軽く、下に行くにしたがって重くなる特性があり、これによって弱音域の微妙なコントロールがしやすいことと、ゆったり弾くぶんには歌うような演奏がしやすくなりますし、トリルなどもまるで笛で吹くようなまろやかなトリルになります。これに対してヘルツ式のアクションではストンと落ちるタッチでキーの戻りも早く、バリバリ弾ける人にとっては運動機能が高いのでこちらを好むほうが一般的なようです。
 
  ヘルツ式になればキーの重さも解決でき、同時に戻りなどの追従性が増すのでタッチの機敏性も向上するし、調整も俄然しやすくなるようです。しかし、それと引き換えに、あのなめらかな流れるようなフィール、ピアノと奏者の間をつなぐなんともいえない一体感のようなものは失われ、極論すれば、このピアノの楽しみが大幅に削り取られることが危惧され、それがどうしてもひっかかります。
 ちょっとした違いといえばそうなのですが、楽器のタッチというものは、ちょっとしたことがまさに一大事なのであって、やはり軽々に見過ごして判断することではないと考えなくてはなりません。
 
 尤も、言葉だけ繊細なタッチコントロールなんて言ってみたところで、現状は指に抗うような重さの甚だ弾きにくいタッチでしかなく、繊細さもへったくれもない状態なわけですから、とてもシュワンダ―の良さを享受できているとは言い難いのも正直なところ。それにくらべればヘルツへの変更はさしあたり遙かに好ましい結果が得られるだろうことは予測されようです。わずかのことに拘って、大事なことを失っていると云われたら確かにそこは否定はできません。
 それでも気が進まないのがやっかいで、ここで常套的な妥協をして、あとでまた後悔するような局面になったときにのことを考えると、やはり軽々な判断はできません。これが公共のピアノなら最大公約数的な価値が求められるのでそれでいいでしょう。しかしこのピアノはマロニエ君の個人所有の趣味のピアノであって、にもかかわらず趣味性で譲歩していては趣味道そのものを否定することになります。
 
 実は技術者さんも、ご自身の工房に2台の性格の異なる古いグランドをお持ちで、そのいずれもがシュワンダーなのですが、以前からそのタッチがお好きではないのだそうで、近い将来2台ともヘルツへ交換される予定だそうです。
 マロニエ君は何度もこの2台を弾かせてもらっていますが、率直にいってどこが悪いのかと首をひねるばかりなのですが、人の好みや納得するポイントというのは様々で、微妙で、実に難しいところです。とくに技術者の方は、ピアノをどうしても技術的機能的な側面から見られるので、機械として欠陥の多いこのシングルスプリングは技術者としての価値観と生理に合わないのだろうとも推察されます。
 
 しかし、マロニエ君としては、確たる根拠もないけれども、シュワンダーのアクションを持つピアノは、その発音機構で鳴らして演奏するほうが、そのピアノの良さや、味わい、音質など、いろいろな要素にけっきょくのところ適っているのではないか?という漠たる考えが残ります。
 これは決して懐古趣味を弄んでいるわけではなく、新しいものでも良いものは良いわけで、そこに中途半端な情緒論を持ち込むことが正しいかどうかはわかりませんが、昔のピアノと今のピアノでは音作りに対する感性も異なり、ピアノが生まれ持った性格や時代背景もあるわけで、アクションだけを今風にして現代のピアノ同様にバンバン弾けるようになっても、それが果たして本当に正解なのか…マロニエ君にはわかりません。
 ただ一つ思うことは、昔のピアノには昔のピアノの成り立ちと流儀があって、それが全体のバランスにも大きく寄与しているような気がするということです。それほど楽器というのは深いところの微妙なものが全体に波及し司ることもあるわけで、その原点を尊重することも大切なような気がするのです。
 
 最近たまたま読んだ本にありましたが、古いレコードのコレクターに云わせると、蓄音機には蓄音機ならではの良さがあって、表現の幅は狭いけれども、出てくる音には豊かな倍音と独特の生々しさがあって迫ってくるものがあり、それは後年のレコードや再生装置では決して味わえないものだと述べておられたのは非常に印象的でした。
 
 マロニエ君としては自分なりの考えとして、設計された基本のバランスというものは欠点も含めて尊重し、可能な限り崩すべきではないという原理原則があるような気がするわけです。これは建築でも美術品でも車でも、あらゆることに共通する定理みたいなもので、いわば文化意識のひとつだと思うのです。
 ただ、マロニエ君は取り立ててオリジナル至上主義などはなく、いいものはなんでも取り入れることはむしろ進んでやってみたいところもあるくらいの柔軟性はあるつもりです。それなのにどうしてもシュワンダ―にだけは拘ってしまう自分があるのは、ひとつにはヘルツのあのタッチがもともとあまり好きではないということも根底にあるからかもしれません。
 
 ピアノのリビルドにかかわる一流の技術者の方々は、まったく独自の考察と判断と良心に基づいて、古い機構を現代の機能的なアクションに入れ換えられることが多々あるようで、もちろんマロニエ君はそれを否定するものではありませんし、それによって欠点を克服して弾きやすいピアノに生まれ変わり、結果として新たな可能性が広がり、多くの人を喜ばせているとしたら素晴らしい事だと思います。
 しかしそこには、そのことと引き換えに失われたものがあるのでは?という個人的な憂慮の念を完全に消し去ることができないことも事実です。
 
 もうひとつはハンマーをより小ぶりというか、要は重量の軽いものへ交換することで、このピアノが現在抱え持っているもう一方の根本的な問題を取り除くというやり方です。しかしそのためには新品に取り替えて一年も経たないレンナーハンマーをむざむざ捨て去ることを意味するわけで、それもなぁ…と思うのです。
 加えて交換のためには大変な手間暇とコストを必要とすること、さらにはハンマーが変われば音がガラリと変わってしまい、しかもそれがどんなものになるかは予測が立てられないということが懸念されます。とはいえ、ピアノ本体は変わらないのですから、違うハンマーを付けたからといって、まったく別のピアノになるわけでもないと思うし、今が取り立てて最高の音だというわけでもないのだから、それならそれでもいいかという半ばやけくそ気分も少しはあるわけです。
 
 マロニエ君の本音をいうと、だったらいっそ、フランスピアノのように、やや小ぶりで柔らかめのハンマーを付けるということにも一筋の希望というか意義を感じるし、それにはロンセン社のローヒート加工のハンマーを使ってみるということも、いまだに心惹かれることとして考えてしまいます。
 そうすればタッチの重さは解決、フィールもシュワンダーならではの特性が保持され、おまけにちょっとフランスピアノ的なテイストも得られるとなれば、これがマロニエ君としてはベストなのですが、ロンセン社のハンマーとなると、これがまた主治医たる技術者さんがとても同意しそうにもなく、それを説得する自信もありません。
 
 失敗を是正するための作業であるのに、冒険なんてとんでもない!という話になるのは目に見えています。多くの技術者が認める評判の良いハンマーを取り付けることが「冒険」というのもいささか神経質すぎるようにも思いますが、技術者さんはそれぐらいすべてにおいて慎重なスタンスをとられているということのようです。
 
 「小ぶりで柔らかめのハンマー」などというと、アクション同様オリジナルを損なうことのように思われるかもしれませんが、技術者さんによると、もともとのハンマーは今も工房に保管されており、今付いているレンナーに比べるとずいぶんと軽いものだったらしいことは驚きでした。となると、現在のほうがはるかにイレギュラーな状態だということも明らかで、これを元の重さに戻すと云うことは先述の論理においても、本来のバランスを取り戻すという点で意味のあることのように思うのです。
 
 ちなみに、ハンマーに関しては、現在のオーバーホールに使われる大半のハンマーは、レンナーやアベルといった輸入品、もしくはそれに準ずる品質とされる日本製ですが、そのどれもが固くプレスされたフェルトを特徴としているように思います。これを針刺しでほぐしながら弾力を生み出し整音するわけですが、現代のハンマーはあまりにも時代のニーズに歩み寄りすぎて固すぎではないかという気がします。天然素材の減少とコストダウンによって鳴らなくなったピアノを、さも鳴っているように見せかけるために固すぎるハンマーは存在しているように思えてなりません。
 たしかに固いハンマーは初期から輪郭のある明快な音を出しますから、現代のようなスピードと消費の時代には簡便でニーズに合っているのかもしれませんが、すぐに音が固くなりすぎてキンキンしてしまい、そうすると針刺しでほぐすという作業の繰り返しです。しかし、本来は良質の羊毛をつかった少し柔らかな弾力をもつハンマーが、弾き込むにつれ(多少の硬化剤の助けを借りながらも)しだいにつややかな音を出してくる場合のほうが、本来のありかたではないかと思うのですが…どうなんでしょう。固いハンマーをほぐして弾力を作るより、もともと一定の弾力を有するハンマーのほうが正統な流れのような気がするのですが。まあそこはハンマーの材質、好み、ピアノの特性、弾き手の好み、技術者の考え方しだいでいかようにも解釈できるのかもしれませんが。
 
 どういうハンマーが最適かの判断は別としても、ハンマーを取り替えるというのは、現実的にいろいろと重くのしかかる問題が山積で、おいそれと決断のつくものではありません。
 あまり悩んで沈み込んでもしかたがないので、しばらくは現状のままでガマンして楽しもうかと思い、最後はやむなくそう言ったのですが、技術者さんから返ってきた言葉はそういう詭弁を許さぬもので、「いやぁ、この状態じゃ楽しめないでしょう!」とガツンと一発云われてしまいました。
 
 …たしかにそうでした。
 その後しばらく弾いてみて、以前よりもさらに一層厳しくなったような重苦しいタッチは、喜びを見出す余裕もないほど苦痛が先行し、指先から伝わるその感触はしだいに胸に広がってくるようです。
 ヴァイオリンなどならとりあえずケースにしまって、視界から消しておくという手もありますが、ピアノの図体ではそれもできず、その姿を見るたびに深いため息がでるばかりです。
 
 こういう問題は人それぞれの感性や価値基準によっても解決の方法も違ってくると思いますし、おそらく大多数の人は作業も比較的簡単だというウイペンの交換だろうと思いますが、ここは自分に正直であるべきで、マロニエ君にとって最良の方法は、やっぱりハンマー交換かなぁ…と思います。
 だからといって直ちに実行というわけにもいかないのが辛いところです。
 
 
【追記】
 日曜日、ピアノ好きの知人が遊びにやってきたので、ついでにディアパソンの主治医である技術者さんの工房を訪ねました。この日は新旧のグランドが4台あり、一台はホルーゲルという大橋幡岩氏が設計した戦時中に作られたピアノ、あとはヤマハとカワイですが、オーバーホールを終えたC3の他は、いずれも50年前後昔の古いピアノばかりです。
 
 べつにそれを狙って行ったわけではなかったのですが、図らずもここでシュワンダーとヘルツ、両アクションの弾き比べをじっくりと行うことができたのは大いなる収穫でした。
 それにしても、こちらのご主人は自分でシュワンダーが嫌いといいながら、4台中3台はシュワンダーであるところが笑えます。
 
 ここにあるピアノはシュワンダーでも我がディアパソンのようにキーが重いこともなく、本来の軽さとしっとり感を併せ持っていて、マロニエ君の好みに近いものがあります。
 それでも交互に比較をしてみれば、ヤマハのC3はヘルツアクションの恩恵と、調整が仕上がったばかりという状態の良さも手伝って、単純な意味での弾きやすさという点では他を圧倒するものがありました。
 「弾きやすい」といっても言葉の意味は広いわけで、より踏み込んで言うなら「楽で簡単で確実」とでも云えばいいでしょうか。
 
 ムラがなく均一で、指の入力をアクション側が一定の力として容易く変換してくれるというか、嵩上げされた音に反映されるところは、ヘルツがこんにちのグランドの標準機構になった理由がまざまざとわかります。極端にいうと、少々好い加減なタッチでも、ちゃんとしたタッチとしてオマケしてくれて音にしてくれる寛大さで演奏者を助けてくれるということは云えそうです。
 その点、シュワンダーはダメなときはダメ、良くできたらピアノが盛大に褒めてくれる感じでしょうか。
 
 要はアクションを機械的スイッチとして見るか、楽器と人を繋ぐ生の意志疎通手段として見るかによってもその優劣の判定は大きく変わってくるように思います。
 純然たる機械として見れば、ヘルツの機能や安定性は疑いの余地がありません。しかし果たして楽器を奏するという行為が機械的優勢のみでいいのかという問題に立ち至ります。
 
 弦楽器や管楽器で、どんな弾き方をしても一定水準の音がびゅんびゅん出るとしたら、それが最高なんだろうかと思うわけで、やはりある一定の修練を積んだ弾き手が、入魂の演奏をしたときに、それに細かく反応する余地や可能性が楽器には必要で、これは誰がどう弾いてもそこそこきれいな音が出ることとは相反することです。
 
 もちろん、こんなことをとやかく云うに値するような演奏ができるマロニエ君ではありません。下手くそがなにをいっている!と云われたら一言もありません。しかし、下手は下手なりに、どんな簡単な小品であっても、その曲を通じて、いい音を出すための工夫や努力、いろいろな表現を試す過程にピアノを弾く喜びがあるのであって、指運動はしやすくても音楽的に無反応なピアノでは、楽しみの目的がかわってしまいます。日頃からそういう運動器具的なピアノにばかり接していると、練習の目的は指の運動能力の向上へと向いていくのはある意味当然だろうと思います。
 
 シュワンダーとヘルツを隣同士で弾き比べると、たしかにヘルツの正確さや弾きやすさ、機械としての頼もしさは光っているし、いっぽうのシュワンダーはどこか鈍くもたついたように感じることも事実です。
 ところが、おかしな言い方かもしれませんが、ピアノからしばらく離れて時間をおく、あるいは一晩過ぎてそれらのピアノを残像として思い出してみると、もう一度弾いてみたいと思うのは(マロニエ君は)やっぱりシュワンダーなのです。
 あの自然なタッチ感は人と楽器が一体化したように感じられ、ピアノを弾くという行為の本源に触れている気持になるのですから人の感性というのは不思議なものだと思います。
 
 人はときとして非効率的なものを好むもので、IH調理器が便利なことはわかっていても、わざわざ炭をおこして焼いたものに安堵と喜びを感じるようなものでしょうか。

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