ディアパソン210E-8

 端から見れば滑稽な親バカよろしく、さんざんディアパソン210Eの素晴らしさをまくし立てているマロニエ君ですが、それを読んだ知人などが、そんなにいいんだったらぜひ一度弾かせて欲しいと口々にいってくださいます。
 
 快諾するのはもちろんですが、同時にいつもハッと我に返って、ピアノとして非常に重要な未解決の問題が残っていることを思い出してしまいます。
 ピアノとしてのディアパソンについて書いていることには嘘偽りはありませんが、本当に他人様に「さぁドーゾ!」と言い切るだけの自信があるのかとなると、現在只今はいささか事情が異なるのです。
 
 というのも現在の我が家のディアパソンは、すでに繰り返し書いているように、昨年春に新調したレンナーハンマーの重量バランスに起因するタッチに大きな問題を抱えたままの状態で、ひとくちに云うとキーが重い故の弾きにくさがあり、それは現在もほとんど変わっていません。
 ハンマー交換と併せて鉛詰めがされているおかげで、ダウンウェイト(キーの軽重)そのものがとくに重いというわけではありませんが、シュワンダ―アクションのシングルスプリングの特性と相まって、キーのストローク後半にハンマーの重さがぐっとのしかかってくるようです。
 さらにはその中で精一杯の調整をしているために、戻りもやや鈍めとあって、現代の軽快なタッチのピアノに慣れた人が、いきなりこの状態を弾いたら、音色云々の前に「重い」「弾きにくい」と感じてしまうだろうと心配になるわけです。
 
 そんなもどかしい状態の中で、あるひとつの事実に辿り着きました。弾いていて気持の良いピアノの条件を、強いて2つに分けるとすれば、ひとつは音色や響き・楽器としての表現力など、ピアノから出る音に関する部分。もうひとつはタッチの軽重や俊敏性、あるいは強弱が思いのままになるタッチコントロールの容易さにかかわる物理的な領域です。
 
 しかもこの両者は互いに密接に関連し合っているので、完全に切り離して考えることはできないということも定説とされていますが、それでもやはり、ある程度は音とタッチは別だと見ることも一面に於いては可能であるし、必要でもあることです。それをむやみに関連付け過ぎて、ついにはこちらの物理的要望がどうしても分かってもらえない技術者さんもおられるために、ずいぶんもどかしい思いをさせられた苦い経験もありました。
 
 さて、気持ちのいいピアノとはこの両者がバランスよく揃っているのはいうまでもありません。しかし、どちらがより我慢できないかということになると(もちろん程度問題にもよりますが)、音が気に入らないほうがずっと耐え難いことだと今のマロニエ君は思います。安っぽいキンキン音だとか耳に突き刺さるようなデリカシーのない衝撃音は神経にこたえるし、とても我慢のできるものではありません。
 
 その点では、我がディアパソンの場合は音や響きなどがそれなりに気に入っているため、本来ならとても我慢できそうにもない重めのタッチも、不満を感じながらもなんとかお茶を濁していられるということが、今回はからずも分かったような気がしています。
 
 まあ、早い話がピアノたるもの、音や響きが気に入って、さらにはこちらが望むような表現力が備わってさえいれば、七難隠すということなのかもしれません。
 
 ディアパソンの音には色の濃さと太さがあり、音自体もつややかで美しいのですが、その美しさはただの甘ったるいキズのない表面的なものではなく、弦の振動が響板に増幅されてピアノの全身が鳴っているという、ごまかしのない正味のところから出る美しさだと思います。また、弾き方によってさまざまに表情を変えてくれる点が、いかにも楽器然としており、いろいろ弾き方を変えてみるとあれこれの違いが出ておもしろく、そのあたりも非常に気に入っているところです。
 
 これがいまどきのよくある量産ピアノなら、音の性格も無機質であっけらかんとしており、その上でただ明るいか暗いか、キンキンかモコモコかぐらいしかありません。
 とりわけあるメーカーのピアノなどは、弾き込むにつれて音はしだいに先鋭的になり、とても美しいとは思えないキンキン系の攻撃的な音に変化します。これが嫌だという人が多い反面、中にはこういう音に耳が慣れてしまっているのか、はたまた音に関する感性がまったく違うのか、こういう音をパワーのある華やかなピアノだとして好まれ、逆にそうではない別メーカーのピアノを鳴らないだのダメだのと否定される場合もあるのですから、人の好みというものはいろいろで驚いてしまいます。
 この手の音が嫌な人は、技術者に頼んで、ハンマーに針刺しなどをしてもらって極力その手の音の要素が出てこないように押さえ込むような方法がとられるようですが、しかし生来のピアノの性格がそうなので、しばらく弾いているとまた同じ事の繰り返しになるだけです。
 
 ディアパソンはまったくその点が違っていて、その音色には明暗の他にもいろいろな表情が備わっていているようで、それで自分の表現を作り出すことを自然に覚えていきます。それをどう使うかは奏者の判断や技量、美意識に任されているように感じるし、だから弾くのが楽しいのだと思います。はじめから人工的に整ったピアノではなく、あくまで演奏されることで収束していくピアノで、最後のところを弾き手に委ねているところが、マロニエ君はディアパソンの最も魅力的なところだと思います。
 もちろんディアパソンとて、しばらく弾いていれば弦溝が深くなって、相応の鋭い感じの音になってくるのは例外ではありませんが、その場合でも、基音に嫌なものがなく、自然の木の感触や楽器としての息吹を感じる音なので、他のピアノのように不快感が神経に刺さってくるようなことはありません。
 
 誰が弾いても整った音がでるピアノが今風なら、この時代のディアパソンはまったく違う価値観で作られた昔流儀のピアノです。今のピアノはうわべの愛嬌はよく身なりもきれいですが、ただそれだけで、心の微妙な部分の話になるとパッタリ理解できない人のような印象です。
 
 それはやっぱり表現力が限られているからだと思います。
 表現力などと偉そうなことを書くと、まるでマロニエ君が作品の深いところまで表現できるだけの演奏技量を持っているように誤解されれも困りますが、下手は下手なりに、音楽の好きな人であれば楽器の表現力というものは非常に重要な要素だということで、それによって楽しくも退屈にもなるのです。
 
 だらだら書くのが、いつもながらのマロニエ君の悪いクセですが、このようなわけで弾きにくいタッチを辛抱しながら、それでも弾きたくなるのがディアパソンの偉大さだと日々感じているところで、これがもし逆で、音がガマンできない状況だったら、とても猶予はなかったでしょう。それこそどんな無理をしてでも調整をお願いすることになるのはきっと間違いありません。
 現代は騒音という問題が常にピアノにつきまとい、場合によっては他のことよりもひときわ厳しく扱われる印象もありますが、それだけ音というものが人間にとって苦痛の種だといえる証左なのかもしれません。マンションなどのピアノのトラブルが、まさか音色の問題とは思いませんが、ある種のピアノなどは弾いている本人でさえとても耐えられない場合があるわけで、やはり音は苦痛と常に隣り合わせであることを認識する必要があると思います。
 
 テレビの「もしものコーナー」じゃありませんが、もしもマロニエ君がCDを出すほどの天才で、多少のわがままや酔狂も通るようなピアニストであったなら、レコード会社を説き伏せて、1枚ぐらいはバッハやベートーヴェンなどを、調整の行き届いた古いディアパソンで録音したいと希望するかもしれません。
 
 それは冗談としても、これほどテクノロジーが発達した現代ならではの楽しみとして、少しは楽器を主体にした、おもしろい趣向のCDが出てきても良さそうな気がしますが、一向にそのような流れになりそうな気配はないようです。いまさらあってもなくてもいいようなCDを自己満足的に出してもどうせ売れないのなら、いっそおもしろい冒険をして欲しいと思うのは、無責任なマニアの戯れ言かもしれません。でも、ただお定まりの新しくて固くて響きの縮こまったようなスタインウェイで収録されただけのCDが1枚増えるより、何倍もおもしろい挑戦だと、ここは本気で思うのです。
 
 大半のピアニストはお定まりのピアノしか弾きませんが、プレトニョフなどは現代のスタインウェイなどが気に入らずにブリュートナーでベートーヴェンの協奏曲を録音したり、カワイを気に入ったりしていると聞きます。またカツァリスやデームスも楽器としてのピアノマニアでもあり、この人達はいろいろなピアノで録音したりするありがたい演奏家です。日本人ピアニストでは故園田高弘氏がそうで、スタインウェイが中心ではあったけれどもヤマハ、カワイはもちろん、ブリュートナーその他のいろいろなピアノを使って録音などをされています。
 また、現在の有名ピアニストの中で楽器にこだわりをみせるのがアンドラーシュ・シフで、彼はバッハをスタインウェイで、シューベルトをベーゼンドルファーで、ベートーヴェンをその両方で弾いて全集を完結させたと思ったら、最近は最後のop.111のソナタとディアベッリ変奏曲などを古い戦前のベヒシュタインと、さらにはベートーヴェンハウスにあるさらに100年前のフォルテピアノで演奏したりと、おもしろい試みをしてくれています。
 
 本来は、このように一流演奏家になればなるほどいろいろな楽器にも興味とこだわりを持つのが自然ではないかと思うのですが、大勢はそうではないところがピアノの不思議な点だともいえると思います。
 
 マロニエ君はディアパソンを弾くようになってから、ある意味ばらけた音のピアノをなんとか演奏でまとめるという試みが、いかに音楽の原初的な価値や楽しみに迫るかということを、いまさらのように教えられた気がします。器楽演奏者の中でも、ピアノの人がどこか浮いているのは、自分の出す音に対するこだわりや責任意識の無さからくる図太さ故ではないかと思います。他の楽器は音を作るということが演奏行為と分かちがたく常に求められるから、音と音楽が密接であることが本能的にわかっていますが、ピアノだけは音は楽器や技術者任せで、自分の仕事ではないと思っているところからくる無関心が、やがて音楽への無関心にも繋がり広がっているように感じることが少なくありません。
 
 もちろんディアパソンは欠点も多く、いわゆる完璧とは程遠いピアノです。とりわけ技術者の中にはあんなものと一笑に付す方もおられると思います。しかし、少なくともディアパソンのような価格帯のピアノで、これほど音楽とか演奏に対する意識を高めてくれ、ピアノを弾く楽しさを根本から再確認させてくれるピアノはちょっと思い当たらない気がします。
 
 さて、話は戻って、その欠点のひとつが冒頭にも書いている重いタッチで、その対策を、ついにひとつの方法へと的を絞りました。これが吉と出るか凶と出るかはわかりませんが、とりあえずこの1年余を経て、考えに考えたあげくの結論です。これはいずれまたご報告します。

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