ディアパソン210E

【事の起こり】
 このほど、まったくの偶然の成り行きによってピアノを買うことになり、自分でも驚いています。
 出所はネットオークションで、ここにひょろっと出てきた、深い赤みがかったマホガニー仕上げのディアパソン210Eで、もちろん中古です。
 
 マロニエ君がディアパソンを好きなことは折に触れ書いてきたつもりですが、生みの親である大橋幡岩氏は日本のピアノ界の黎明期に活躍してその名を残すピアノの名工であり設計の偉人です。氏の設計によるピアノは初期のヤマハからホルーゲル、ディアパソン、晩年のオオハシピアノまで数多くありましたが、いずれも現在では年々数が減っています。
 
 ディアパソンは戦後ほどなくして大橋氏が日本楽器(現ヤマハ)を退社したのちに、新たに自分の理想のピアノとして設計・製作したもので、後にこのブランドはカワイ楽器に引き継がれて生産されますが、とくに大橋氏が自ら手がけた時代のディアパソンは採算度外視のピアノだったようで、これでは会社として立ち行かなくなるのは当然でしょう。
 大橋氏はピアノ設計の偉人には違いないとしても、優れた経営者ではなかったということですが、一流の職人というのはえてしてそういうものです。
 
 この数十年にわたって製造販売されているカワイ楽器製造のディアパソンは、クルマでいうならフランスで生産終了したシトロエンの名車2CVがポルトガルの工場で作られたり、ドイツで生産を終えたVWの初代ビートルが、その後もブラジルで長らく生産を続けられたようなものかもしれません。
 カワイの製造とはいっても、大橋氏がそれを承諾することで生産が引き継がれたわけですから、れっきとしたディアパソンであるには違いありませんが、ではこれが真性のディアパソンだと大手を振って言い切ることができるかどうかとなると、なんとも微妙な立ち位置にあるピアノということになるでしょう。
 それでもヤマハやカワイとはまったく趣(とりわけ発音特性)の異なるピアノであることは誰もが認めるところです。大橋氏が設計したディアパソンは量産型としては170、183、210(いずれも奥行きの長さ)と3種ありますが、大橋氏自身はのちにコンサートグランドの設計もしており、これは試作機まで作っていたようです。
 
 音色の特徴としては、ドイツ的な実直で太い発音を有し、日本のピアノとしては珍しくタッチコントロールによる反応が敏感である点、さらには大橋氏がベヒシュタインの技術者シュレーゲルの指導影響を受けたということから、ベヒシュタイン的だと喩えられることもあり、これはある程度は頷けるものがあります。また、最近目にした文章では中音のふくよかさなどはベーゼンドルファーにも通じるものがあるという感想を述べたものもあり、この点はマロニエ君もわずかながら頷けるところではあります。
 しかし、基本的な音のクオリティとしてはそれら名器と肩を並べるものと考えるのは間違いで、あくまでも好意的な喩えと受け止めるべきであり、較べるべきは同じ価格帯の他社の量産ピアノだと思います。
 
 それはそうだとしても、ディアパソンが日本のピアノとしてはヨーロッパ的な要素を多分に持ったピアノであるという点ではやはり異色の存在であり、にもかかわらず、その不当なまでの注目度・知名度の低さは到底納得できるものではありません。そうは云ってもカワイ楽器の後ろ盾があったお陰で今日までこのブランドが生きながらえることができたことも事実で、独立した会社(ディアパソンが産まれたのは大橋氏が創設した浜松楽器)のままであれば、とっくの昔にその会社も名前もこの世から消えて無くなっていたかもしれないのですから、カワイ楽器にはともかくも感謝の念を持つべきでしょう。
 
 現在でもディアパソンは独立したメーカーとして存在し、表向きは何種類ものモデルがラインナップされていますが、その内実は設計までもがカワイピアノそのものになってしまいました。現存するモデルのうち大橋氏の設計したものは1機種だけで、あとはすべてカワイのレギュラーシリーズをベースにするまでに整理され、悲しいかなマークだけがディアパソンになっているわけで、こうなるとさすがに大橋氏のDNAは求めようもありません。それに較べればフレームに「Ohhashi Design」と刻印されていたモデルは、なんとか大橋氏の血脈を受け継いだと云える最後のピアノであったと思うわけです。
 
 ちなみに、現在1機種だけ残っているグランドは奥行き183cmのモデルで、それ以外は設計から響板の材質に至るまで、大部分がカワイのピアノとまったく同じということになります。カワイとの最大の違いはアクションがいまだに木を使っている点と足や譜面台の形状、あとは微々たるパーツの違いで、それを仕上や出荷調整の段階でディアパソンの生え抜きのスペシャリストの手で丹念に行われるというものにすぎません。
 
 早い話が、カワイピアノのディアパソン・スペシャルとでもいったほうがイメージが掴みやすいかもしれません。その点では同じくカワイで製造されるボストンのほうが、設計そのものがカワイとはまったく異なるので、まだこちらの方がブランドの個性を維持していると見ることができるでしょう。
 
【210E】
さて、オークションに出てきたピアノに話を戻すと、このピアノにマロニエ君が心惹かれた理由というのは、ディアパソンでも滅多なことでは出てこない210Eという稀少モデルだったからです。もともと少ないディアパソンの中で仮に183が10台あっても、このサイズは1台あるかないかではないでしょうか。
 一般論として、グランドピアノは2mを境に一気に素晴らしさが出てくると言われています。マロニエ君の私見ですが、近代のグランドピアノが開発され、様々に改良を重ねつつ次第に完成されていった19世紀は、現在のような量販のノルマもなければせせこましい住宅事情などもなかったことでしょうから、製造者はその楽器形体に最も相応しいサイズを自由に割り出して、理想的な設計をしていたのではなかろうかと思います。
 つまりグランドピアノをそれらしくバランスよく作るにはこのあたりが最良であったのだろうと思います。そしてさらに大きなコンサートピアノへと発展していくようです。
 
 この210cm前後のサイズで最も有名かつ高い完成度で広く知られ愛好されているのがスタインウェイのB型(211cm)で、それに続けといわんばかりに各ピアノメーカーもこのサイズのモデルは必ずといっていいほど作っています。日本でもカワイではRX-6とSK-6の二種を作っていますし、ヤマハにC6X?CF6までたしか4種類ぐらいこのサイズで質だけを変えたピアノを作るほどで、この大きさはグランドピアノのいわば黄金分割ということなのかもしれません。
 ヤマハの中型の定番といえばC7ですが、個人的には弾いてみてC6のほうが自然なバランスと密度感があって好ましい印象を持っていますが、不思議にヤマハの場合セミコンなどといってC7に人気があり、C6の数はかなり少なめのようです。というか、以前のヤマハはC5の次はC7で、C6はあとから出てきたモデルという事情もあるように思います。
 
【稀少性】
 また話が逸れましたので、再度話を戻します。
 マロニエ君の記憶する限りにおいて、ヤフーオークションでこれと同型のピアノが出た(業者以外で)のは、10年ほど前だったか一度あり、関東の方で、どこだかの別荘に置いているピアノを処分するからということで出品された事がありました。そのときはどうにもこちらの態勢が整わないために連絡を取ることもなく終わってしまいましたが、そのピアノのことはその後もずいぶん長い間引きずりました。そして、どんな無茶をしてでも買っておけばよかったということを何度繰り返して思ったかしれませんが、なにしろピアノは価格といい大きさといい、その場の思いつきで買えるものではないことは、たぶんクルマ以上かもしれません。
 
 今回オークションでそれを見つけたときは、驚きというよりはなにやら自分の運命の中に置かれた出来事が満を持して静かに目の前にやってきたような気がしました。そのひとつが出品地で、福岡県とは関門海峡を挟んで隣県となる山口県だったということもあったと思います。これがもし新幹線や飛行機を乗り継いで行くような遠方であったなら、また気持ちも違ったかもしれませんが、山口ならどんなに遠くても車で往復できる距離です。
 
 自分でも不思議に落ち着いた気持ちで出品者に連絡を取ってみたところ、すぐに返事がありました。マロニエ君は何事も返事などの遅い、時間的なテンポの鈍い人が大の苦手で、まずこの時点で好印象を得たと思います。果たしてメールをくださった方はピアノのことはまったく不案内の代理出品をされた方で、このピアノを弾いおられた方は既に遠方に嫁がれていて、ピアノは山口のご実家に置かれているということでした。すでに話の決まった方がおられるならそれもやむなしと思っていたところ、数件問い合わせはあったけれどいずれも決まっていないとのこと。
 見せていただけるなら当方は行く用意があると告げると、ご親切なことに、こちらが焦らなくて済むようにとすぐにオークションを停止してくださり、ここでまたマロニエ君としては自分の運命的なものが絡んでいるような気分が加速されてしまったのでした。
 
 それから程なくして、嫁がれた女性の方からもお電話をいただくなど、本格的なやりとりが始まりました。その後、ご実家の都合もあり少し日をおいてから見に行くことになりました。事前にご実家においでのお母上とも話しましたが、いずれの方々もいかにも長州人らしい、真面目で折り目正しいきちんとした一族のお人柄がとりわけ印象的でした。
 
 出発までかなり日にちのあることを幸いに、あちこちの運送屋に電話したり、ネットの同時見積もりのようなところに登録するなどして運送費を調べましたが、この210Eはピアノが平均的グランドより大きいことと、距離も片道200kmを超えることから予想以上の価格しか出てこなかったのは誤算のひとつでした。
 そもそも、ピアノを見る前からすでにこれだけの調査を開始していたということは、気持ちの上ではほとんど購入するということが前提になっている証拠で、実はもうすっかり舞い上がっていたのです。
 
【見に行く】
 いよいよその日がやって来ました。
 なにしろ往復400kmのドライブですから前日にガソリンを満タンにし、ささやかな手土産などを準備して友人に同行してもらい、勇み立って出発しました。いつも思うことですが、関門大橋を渡って山口県に入るとあたりの景色というか雰囲気は一変し、もはや九州ではないエリアに踏み入れたことをしみじみ実感させられます。
 出発から3時間、カーナビのお陰で迷うことなく目的地に到着し、さっそくお母上が応対をしてくださいました。応接室のようなところでしばらく歓談をしたのち、いよいよピアノの置かれている部屋に案内されます。
 
 ピアノの上には専用カバーではないものの、やわらかな広い布が掛けてあり、それを少しはぐってピアノの一隅を見たとたん、これは上物だと直感しました。言い忘れていましたが、このピアノは34年ほど前に新品でこの家に嫁いできたピアノで、いわゆるワンオーナー、時間は経っているけれども大事にされた個体だというのはすぐにわかりました。
 なにしろ34年という歳月ですから、内部にはそれなりのホコリなどはありますし、塗装にも全体にくもりが出ています。しかし、ほとんどキズらしいキズはなく、それほど弾かれていないこともわかりました。今はなき一枚象牙の鍵盤で、外装は深みのある美しいマホガニーです。
 
 調律などはずいぶん長いことやっておられないとのことで、音を出してみてもそれは頷けましたが、しかしその奥にある潜在力といいましょうか、ピアノとしての器のようなものはとても優れたものがあるのが素人ながら伝わってくるようで、アクションにもガタやヘタリなどがないのも好印象でした。
 少しだけ最近練習したばかりのショパンのマズルカを弾きましたが、なかなかいいピアノで、この時点で心は決まりました。
 
【折り返しか一本張りか】
 ちなみにこのピアノはディアパソンの一部機種に採用される一本張り仕様ではなく、ヒッチピンのところで折り返してくる一般的なスタイルのものですが、ハンマーはレンナー、弦はレスローが使われています。
 一本張りに関しては、もともとマロニエ君は懐疑的な面があり、技術者の中にもそのような意見の人が多くいらっしゃいます。というのも芯線の部分を一本ずつ独立して張ったことによる効果は、理論としてはわかるけれども、なかなか音としての効果が明瞭に確認しづらいということのようです。
 この点をディアパソンに聞いてみると、「較べて弾いていただきますと、やはり一本張りのほうが好ましいと言われるお客様が多いです」とのことでしたが、これは調整の問題もあるだろうと内心思いました。もしディアパソンの言うような効果が明確にあるのなら、とりわけ高級ピアノメーカーはこぞってこのシステムを採用するはずではないでしょうか。
 
 他の主なピアノメーカーでこれを採用しているのは、思いつく限りベーゼンドルファーぐらいで、本当にそんなに価値があるのであれば、普通サイズでさえ一千万、コンサートグランドでは2千万という高級ピアノなどは当然これを採用するはずだと思うのですが、実際にはスタインウェイもファツィオリもヤマハCFXもまったく採用しないのはなぜかと思ってしまいます。
 
 それよりも深刻な問題だと感じたのは、ある技術者さんの記述で、一本張りは必然的にフレームに開けるピンの穴の数が倍増することになり、平均的に20トンという猛烈な力がかかり続けるフレームにとっては、これで強度が弱くなるという問題があるということで、これが事実かどうかはわかりませんが、たしかに言われてみるとそんな気もしなくもないことです。
 
 現行のディアパソンのDR-500などは、カワイのRX-6がベースですから積極的に倍音を響かせるデュープレックスシステムが存在していて、しかるに一本張りを採用というのは論理的にどういうことなのか、このあたりのことはマロニエ君にはまったく理屈がわかりません。
 あるピアノ購入のための冊子によると、1本張りは弦を張るときの手間が余計にかかるわりに効果は疑問であるとのことで、これはピアノの響きが悪かった時代の古楽器的な発想だと述べられています。「隣の弦に干渉が少ないので純粋な音がするというのが売りだが、音がスーと消えていって共鳴しないので音に膨らみがなく、表現力の乏しいピアノになるために、今ではほとんどのピアノが採用していない。珍しさや個性的という点ではセールスポイントにはなっても、性能的には見るべきものはなく、むしろマイナスである」とありました。
 
 真偽のほどはわかりませんが、マロニエ君としては個人的にこのピアノが1本張りでなかったことは幸いだったと思っています。
 
【まずは入院】
 この日は一旦帰宅し、翌日オーナーである女性に電話して、結果的に購入することになりました。その一週間後には長らく住み慣れた家からこのディアパソンは搬出されることになったわけですが、ピアノはいつもいうようになにしろ整備であり調整であり、つまりは技術者しだいです。とりわけ長く深い眠りにあったピアノを目覚めさせるには、いろいろと手を入れる必要もあるため、このピアノの最初の行き先は我が家ではなく、知り合いの工房ということになりました。
 はてさて、これからどれぐらいの時間がかかるかわかりませんが、ここでゆっくりと再起のためのあらゆる作業を受けることになると思います。

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