ピアノファクトリークジラ

 クジラという名は直に聞いたわけではないが、きっと黒いグランドピアノの風体の比喩なのだろう。代表の川内さんは、福岡を拠点として活躍する優秀なピアノ技術者であり、併せてピアノの販売も手掛けられている。
 事務所とお住まいは街の中心部だが、福岡市の南西部のほどよい距離に位置する山間に、この方はなんとも理想的な工房をお持ちである。もともとは氏のホームページを見てそこを訪ねてみたのが川内さんと知り合うきっかけだったが、会ってみるとマロニエ君と同世代ということもあって、以来親しくお付き合いさせてもらっている。
 
 山間の工房は、木を多用したあたたかな雰囲気の建物。内部にはたくさんのピアノが所狭しと並んでおり、それらを取り巻くようにたくさんの道具類や各種部品などがいたるところに秩序正しくぎっしりと置かれている。もっとも売れ筋とおぼしき国産有名メーカーのライトアップが数多くストックされているのは当然としても、中にはきたる日のレストアをじっと待つように、厳格な造りの戦前型グランドピアノなどがさり気なく壁の隅に数台立て掛けてあったりで、どこにどういうお宝が転がっているやら油断できない。
 
 都市部から近いといっても、やはり山の気候は違う。しのぎやすい澄んだ空気があたり一面を支配していて、開け放った窓からは街中では望むべくもない自然の息吹と心地よい緑の香りがゆったりと流れ込んでくる。街の喧騒から解放された静寂と、さらにこの工房が徹底して木材だけで作られているので、ピアノとの相性も良いし、訪れる人にとってもたいへん居心地が良い。
 
 こういう素敵な「隠れ家」を見せられると、我々のようなマニアはますますピアノ趣味への甘美な興味が増幅しそうになる。いつか自分もこういう趣味だけの別宅みたいなものが持てたら…などと、およそ不可能な夢物語を想像してみたりするが、不可能でも考えるだけでなんとも楽しい。
 
 ここに来ると、楽しいばかりだけでなく、とても勉強になる。というのは、ピアノのアクションの話一つにしても、川内さんがさっと振り返ってあちこち手を延ばせば、そこには部品やら何やらの現物がほとんどなんでも揃っていて、すぐに話の現物が目の前に出て来る。難しい話だけを聞かされるのと違って、実物を使っての実地説明をしてもらえるので、マロニエ君のようなメカ音痴でも少しは内容が理解できたりするので、そのへんも嬉しいところである。しかも、ここはプロの技術者の仕事場だから、素人が通常まずお目にかかれないようなものがごろごろしているのである。
 
 この工房の奥には、まこと美しい、赤ワインのグラスを灯りにかざしたような色のポリッシュドマホガニーのカワイのグランド(KGー2D)がある。20年近く前のピアノだそうだが、ほとんど使用されずにいたものを買い受けられた由で、見た目にはほとんど傷みらしきものがなく、きわめて状態が良い。近年はピアノも森林資源の保護とメーカーのコスト低減という二重苦により、坂道を転げるように材料の合理化が進んでいるらしく、それを考えるなら現行品より材質も良く、さらに言うなら「本物の木材使用の比率」もずっと高いはずだ。これは裏を返せば、現行品は機種にもよるだろうがプラスティックや木の屑を固めて形成した部品がかなり使われているらしい。それらも、本物の木材部分も、等しく表面は分厚い塗装で覆われているので、素人にはわからないけれども。
 
 話を戻す。そのマホガニーのグランドをちょっと弾いてみると、日本のナンバー1メーカーの、妙に耳慣れたあの例の音とは明らかに違う種類の、なかなかふくよかな良い音がする。とくに低音域はヨーロッパのピアノにも通じる適度な鋭さと迫力もあり、私としては日本製なら個人的にこちらのほうを好む。ただしこの年代のピアノはアクションがシュワンダー式という古いタイプで、かつキーの鉛が重めに設定してあるらしく、その結果としてキーが鈍重で、軽快俊敏な反応という点に問題が残る。この点はウイペンをヘルツ式に交換するなどの手を入れれば解決できるらしいので、ならばぜひそうしてみられては?と聞くと、そのぶんのコストが不可避的に価格に反映されるので、市場の相場との兼ね合いから判断がなかなか微妙であるらしい。やはり商売は趣味と違うから大変である。なんなら私も「もう一台」としてこのピアノが欲しいくらいだが、悲しいかな個人的な予算が許さない。
 
 川内さんはピアノの他にも、よろずモノや道具に対して大変好奇心の強い方である。身の回りの実用品に対しても、そこに必ずある一定の風合いやこだわりを求められるようだが、これもなんとなくわかるような気がする。
 ひとくちにピアノ技術者といってもさまざまだけれども、本当に誠実な仕事というのはそういう生来のマニア的な一面を持った性格の人でないと…できないことなのかもしれない。

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