ユジャ・ワン

 マロニエ君にとって、これまでの中国人ピアニストの中には個人的に聴 きたいと思う人がほとんど見あたらず、それはあのフー・ツォンでさえ自分の好みではありませんでした。とりわけユンディ・リ以降の世代に至ってさらにその傾向には拍車がかかり、日の出の勢いのラン・ランの躍進によってその印象も極まれりという観がありました。
 強いて云えば、さらに若い世代のニュウニュウがやや芸術家気質というか、繊細な感受性の持ち主らしき気配を認めるべき存在のように少しは思いますが、それとてまだまだ線が細く、突出して素晴らしいと感じるほどには至らないというのが正直なところです。
 
 ラン・ラン旋風の中からしだいに頭角をあらわしてきたユジャ・ワンに関しては、聴いてみる機会がないままでしたし、とりたてて強い関心もなかったのが正直なところでした。ドイツ・グラモフォンからいくつかのCDがリリースされていたものの、ピアノの中華風味はもう結構というわけで自分で購入してまで聴いてみたいとまでは思い至りませんでしたし、テレビで一度だけ海外の音楽祭に出演しているところをわずかに目にしたことはあったものの、他の演奏家も出演している場で、なにしろ、あまりの過激な衣装というかその異様なビジュアルに圧倒されて、やたら指の動く人だということはわかったものの、見るからに苦手意識のほうが先に立ってしまって、あまり熱心に「聴く」ことはしないままで終わってしまっていました。
 
 そんなユジャ・ワンでしたが、今年の4月にトッパンホールで行われた彼女のピアノリサイタルの様子がBSのクラシック倶楽部で放送され、先日ようやく録画を見ましたが、あにはからんや彼女はまさに天才だと思いましたし、中国人ピアニストとしては今後とも注目して行きたい人だと本当に思うことのできた初めての人となりました。
 
 ラヴェルのラ・ヴァルス、リーバーマンのガーゴイル、ラフマニノフのソナタ第2番、シューベルト=リストの糸を紡ぐグレートヒェン、プロコフィエフのトッカータを弾きましたが、まったく乱れることのないとてつもないテクニックの持ち主であるだけでなく、どこにも違和感のない、角の取れたまともな音楽がそこに流れていて、中国人ピアニストもついにここまでの次元に到達したのかと、強い感銘を受けたというのが率直な印象です。
 
 「クラシックピアノが弾けるキャラの立ったタレント」としての要因からか、ラン・ランが今を旬とばかりに世界を股にかけた売れっ子ピアニストとしての扱いを受けてはいますが、マロニエ君にいわせれば、彼はピアノを弾くことで現代中国を世界に宣伝してまわる超一流の芸人にしか見えません。彼のような人が世界の第一線で活躍し、超一流の音楽家と共演を繰り返し、果てはウィーンのムージークフェライン(ウィーン学友協会大ホール=通称「金のホール」)でリサイタルをするに至って、世の中の音楽に対する尺度や権威が完全にひっくり返ったのかとしばらく頭がクラクラしたものです。
 ところがユジャ・ワンは同じ中国人ピアニストでも完全に格の違う存在で、もはや国籍がどこなどというのは問題ではない圧倒的なピアニストであり、他を寄せ付けない、これぞ若手の中に出現した本物だと思いました。
 
 ただ、昨今の世界的なクラシック離れの中にあっては、純粋に演奏云々ということよりも、チケットの売れる、儲かるタレントという点がとりわけ重要なようですから、興行主としてどっちが好ましいのか、そこのところは知りませんし興味もありません。しかし純粋にピアニストとして見るなら、ユジャ・ワンは音楽性・技巧いずれの点においても他の中国人ピアニストの追従を許さない異次元に棲むピアニストだと確信しました。
 
 まず特筆大書すべきは、彼女はその演奏において、音楽的にまったくなにものをも企むことがなく、ストレートに作品世界に入り込み、その作品の本質たるべきものを至極真っ当なかたちで感じ取り、さらに自分の感性とテクニックを通じて、あるがままに恐れることなく演奏しているという点だと思います。
 さらに大事な点は、余計なものを追加したり、必要なものを見落としたりという、演奏家としてあるまじき行為に及ぶことなく、作品のもつ本来の姿を、自然に、克明に浮かび上がらせることができることで、そのための天分がこの若い女性には備わっているということでしょう。当然の結果として、その音楽は非常にまともであり、そのまともさをピアノに向かって行使するだけでも充分に聴かせる演奏にすることのできる、ずば抜けた技巧と、作品に対する素直な感受性を持っていることが何よりの彼女の強味なんだと思いました。真の力を持った演奏家というものは、どんなに音数の少ない緩徐楽章などにおいても、聴衆の音楽への集中を逸らすということがなく、その音楽は人々の耳を引き寄せたまま、当たり前のように着々と前進していきます。これは力のない人にはまずできないことです。
 
 ピアノ(に限らず器楽の)演奏を語る上で、技巧のことを最優先に置くのはもちろん不賛成ですが、しかしユジャ・ワンの演奏を見ていると、その桁違いの技巧が彼女の音楽に余裕と自然の息づかいを与え、そのぶん邪念なしに作品世界に没入できているという現実をまざまざと認識させられてしまいます。
 技巧に余裕があるから、変な辻褄合わせのための解釈めいたことをしなくて済むし、やたらと伸ばしたり縮めたり、不自然な間を取ったり、意表をつくアクセントを強調したりという、自己確立のための小細工を施した傷跡が一切なく、彼女の感興や呼吸は、作品が要求するそれにいちいち適って一体化しているのは驚くべきことだと感じました。その結果、作曲家によって作品に込められた構造や必然的な抑揚が、そのまま歪められることのない姿で演奏に反映されることになり、聴いていてなんの違和感も覚えずに済むばかりか、優れた作品とその演奏に触れることで得られる豊かさに満たされることは、まずもって心地よくありがたいことで す。
 聴く側にしても、技術的にも音楽的にも、安心してその演奏に身を委ねることができるのはやはり理屈抜きに音楽を聴く喜びにつながり、その先には極めて真っ当な感動と満足があるものだと素直に思えました。
 
 彼女が作品をどのように感じているかも良く伝わるし、音楽に偏りや不自然さがなく、活き活きとして、必然的で、太い流れに途切れることがないのは、やはり一流の演奏家だけに感じられる信頼感に触れた時に発生する充実感だと思います。
 少し前にもNHKの番組でリストのピアノ協奏曲を弾いた外国人ピアニストがいましたが、彼もまた最近の例に漏れず、なんということもないことにあれこれと意味ありげな表情を付けたり、鬱陶しいばかりに長い間を取ったりと、いかにも深いものを表現する演奏家であるかのような弾き方をしますが、概ねそのようなことをするのは、要するに自然に弾くだけではこれといった個性もインパクトもないための対策であって、演奏を粉飾しているに過ぎません。
 
 このような、もってまわったような演奏に共通した不快感というものが、ユジャ・ワンのそれには微塵も感じられないところは、当たり前のことが当たり前のこととして実行されるときのなんとも清々しい驚きがあるのです。作品がありのままの姿をとって今まさにそこに現出してくることに、もはや聴き手の我々のほうが新鮮な感覚をもってしまうほど、そうでないことが普通になってしまっているのかもしれません。これほどの充実した自然で自在なソロ演奏ができるピアニストが、老若男女を問わず、世界に今どれだけいるかと考えると、答えに窮するのが正直なところです。
 
 なにかというとテクニック(この場合、正しくはメカニックでしょうが)のレベルで演奏家を判断するのは、まるで収入で人を見る事と同次元のようで決して好きではありませんが、貧すれば鈍するという言葉があるように、技巧が貧しければ、それを補充するだけのあの手この手を(ときには間違った方法で)使うことで、まがいものの個性を打ち出すことで自分を印象づけて行かなくてはならなくなるのが、変な言い方ですがプロの演奏家の世界かもしれません。
 
 ユジャ・ワンの演奏にはそういう苦労や不純な動機がまったく感じないため、ストレートに自分と作品がリンクしていて、その感性の命ずるまま身を投げうって自在に演奏しているのがわかり、へんな言い方ですがあっけらかんとしています。こういうと、彼女はいかにもスーパーテクニックを武器にあれこれの作品を弾いているだけの超絶技巧のピアニストのように思われがちですが、決してそういうふうにもマロニエ君は思いません。
 たとえば、アムランなどには多少そういうところがあって、いささか情感が不足しているように感じるところもありますが、ユジャ・ワンは決してその手合いでもない、情感がつねにその演奏を支配しているところが驚きです。
 
 彼女の手は大きく、指は驚くばかりに分離しており、まるでそれ自体が別の生き物のように柔軟で苦もなく動く様は、それひとつをとっても彼女が尋常なピアニストでないことが窺われます。さらには一番重要なことですが、その手が紡ぎだすのは至ってまっとうな心地よい音楽であるということ。ピアノに対するセンスと情感に満ちていて、今後この人は世界のピアノ界のリーダー的存在のひとりとなるのだろうと思います。少なくとも彼女の演奏を受け取る側の尺度が、将来も正しく保持されるならばの話ですが。
 

 フランスの著述家、エティエンヌ・バリリエ氏に『ピアニスト』という作品があり、その内容はある中国人女性ピアニストをめぐって、二人の音楽評論家がネット上で激しい論争をするという想定のもとに書かれた、小説とも、書簡集とも、戯曲ともつかないおもしろい読み物になっていて、折しも最近これを読み終えたばかりでした。
 その中国人女性ピアニストは名前こそメイ・ジンとされているものの、読むなりこれはユジャ・ワンのことであるのは明白でした。
 
 そもそもこのような作品が書かれるきっかけになること自体、ユジャ・ワンの存在や、その演奏能力の与える衝撃の大きさを物語っているわけで、それだけの大器であり、本家のヨーロッパ人にも相当の衝撃を与えていることは間違いないということを裏付けているように思われます。
 作品に登場する二人は老練な音楽の理想主義者と、その弟子でもある若い懐疑論者の二人で、途中でその論争は白熱の極みに達し収束は不可能なように思われるところまでエスカレートしますが、終盤には若い懐疑論者もメイ・ジンの演奏の素晴らしさを認識するという作りになっています。
 
 東京でのコンサートに話を戻せば、とりわけラフマニノフのソナタは傑出した演奏で、そのパワー、壮大な広がり、雄渾さ、うねるようなロマンティシズム、全体とディテールの対比など、いずれをとっても大変見事なもので、最近のコンサートでよく味わわされる消化不足を一気に解消してくれるような演奏でした。
 
 コンサートに出かけたり、テレビの音楽番組を観たり、CDを聴いたりするのは、それによって喜びを感じ、満足感に浸り、豊かな気分になりたいためにやっていることですが、どうも最近はそれに値する演奏家が激減して、まるで株式市場全体が低迷するように落ち込んでいるというのがマロニエ君の率直な感想ですが、そんな中からなんとも頼もしいピアニストが出てきたものだと思わずにはいられません。
 
 個々のピアニストを見ていても、まあ多少の才能はあったにせよ、科学的な裏付けに基づく最先端の無駄のない訓練方法によって、昔なら早々に脱落したような人が分不相応な演奏技術だけを身につけて生き残り、着飾って演奏家を名乗り、ステージに立ってCDまで出しているという、およそ自分の力量以上の身分を獲得しているような人が、現代では決して少なくありません。
 当然演奏もそれなりのものでしかなく、難しい曲でもなんでもただ音符を追って指が動くというだけで、そこにはなんのオーラも音楽的フェロモンもなく、芸術家としての厚みのある存在感などないのは当然です。ごく普通の人の中にも高学歴の人がたくさんいるのと同様、楽器を持たせれば難しいことができますよというだけで、そんなものを見せられても困るだけですが、これがやたら多いのです。聴く者の心が引き込まれ、感銘を覚え、心が熱く高ぶるようなことはほとんどないのが常態化しており、聴いた後も「はあそうですか」という感じで終わってしまい、翌日には忘れてしまうような演奏。
 
 そういう点でも、ユジャ・ワンはあきらかにその類ではなく、まさに天から選ばれし者だけが授かった稀有な才能を持つ本物の演奏家でした。ピアノリサイタルというものは、文字通りピアノ1台で行われるソロコンサートですが、これを高い充実感をもって、最後まで聴き手を裏切ることなく弾ききるというのは並大抵のことではありません。多くの場合は、その良さよりも欠点や力不足のほうが浮き彫りになってしまう、まさに苛酷な形式のコンサートだと云っていいかもしれず、このソロリサイタルのチケットを購入し、わざわざ会場まで赴いてくれた聴衆に、音楽的な、あるいは演奏そのものとしての正味の喜びや感銘を与えられる人がどれだけいるでしょう。
 
 世界的なクラシック不況は、時代背景やさまざまな要因が複合的に折り重なったものだと見るべきですが、そのひとつとしては本当に掛け値なしの充実した演奏を提供できる大物演奏家の不在、もしくは激減によって、演奏家も小粒になり、コンサートそのものに魅力がなくなってしまったということを多くの人が、コンサートの現場で肌で感じてしまうことも、コンサート離れが起っている一因だろうと思います。
 
 昔に比べて音楽をする人の平均的演奏能力がずいぶん上がったといわれますが、そんなことは聴衆にはまったくどうでもいいことであって、一握りの特別な才能を持った、ずば抜けて素晴らしい演奏が聴けるコンサートに自分が立ち会えたときに喜びを感じ、心に衝撃を受け、満足を覚えるのはいうまでもありません。
 現代はあまりにもステージに立つべきではない人が、なんらかの欲求や処世術、不見識によってステージに上がってしまうことがしばしばですが、ユジャ・ワンはその点でも、ステージに立つべき人間として生を受けた数少ないピアニストのひとりだと久しぶりに思わせられました。
 
 最後に、これは書こうか書くまいかとずいぶん考えましたが、やはり敢えて書くことにしたのは、彼女のステージでの出で立ちについて。
 ユジャ・ワンがステージで身につける衣装は、その圧倒的な演奏能力とは真逆を行くような、ほとんど衣装と呼ぶことも憚られるほどの、過激なお色気ギャルかなにかのようで、このときも前半はダークグレーの片方の肩にだけ布が引っ掛かったような衣装で、下も挑戦的な超ミニ状態。ほとんどターザンの奥さんがジャングルから飛び出してきたようでしたし、後半はキャバクラ嬢もびっくりというようなド派手なピンクの衣装で、生地が胸のすぐ上でかろうじて身体に引っ掛かっているだけで、やはりこちらも下は超ミニで、足は限りなく付け根から全部が外に出ている状態。こちらはまるでプールか海水浴場からそのままホールに直行したごとくでした。
 おまけに足元は、おそろしくヒールの高い黒のパンプスで、それでペダルを踏むものだから、そのたびにつま先をぐいぐい下に押し込むようなちょっと不自然な動きになっていますが、それであれだけ抜群の演奏をするのですから、とりあえず聴衆はその違和感にしばらくの間惑わされ、目の前の現象にどう整理をつけていいのか当惑させられるのは、普通の平衡感覚の持ち主ならまず避けられません。
 
 個性的といえばそうなのかもしれませんが、あれほどの過激な姿でクラシックのソロリサイタルをおこなった器楽奏者というのもちょっといないのではないかと思います。彼女の場合、まずこのビジュアルというかペルソナによって、その驚くべき才能にもかかわらず、ずいぶん損をしているような気がしてなりません。
 
 現にこの時も、呆れるばかりの素晴らしい充実した演奏をし終えたにもかかわらず、客席からの拍手は不当なほど閑散としたもので、こういう扱いはいくらなんでもないだろうと驚きました。とくに聴いていて陶然となるほどの名演だったラフマニノフのソナタの後も、パラパラという義務的な拍手が聞こえるだけで、さすがにちょっと気の毒になると同時に、演奏者に対するその非礼は到底納得できるものではありませんでした。
 たしかにはじめはその奇抜な着衣に度肝を抜かれはしますが、そうだとしても最終的には演奏家は演奏が勝負なのであって、あの冷淡な態度がもし服装のせいだとしたら、聴衆の耳のレベルを疑わざるを得ません。
 
 その後、アバド指揮のマーラー・チェンバー・オーケストラとの共演で、ラフマニノフのパガニーニ狂詩曲と協奏曲第2番が入ったCDを購入しましたが、リサイタルの時ほどの輝きをダイレクトに感じることはなかったものの、そのいかにも安定した技巧と、ゆるぎない語り口はやはりタダモノではないと思いました。
 さらに感じたことは、やはり運動能力的にも格別に上手い人というのは、音やタッチにも余裕があるためか、ピアノがまったく悲鳴をあげることなく、常にやわらかで、深く落ち着きをもって、なにも格闘することなく太く鳴っていることでした。
 
 
[追記]
 その後、さらにもっとユジャ・ワンの演奏に触れてみたいと思い、とりあえずソロを聴いてみようとドイツグラモフォンから出ている『ユジャ・ワン デビュー! ソナタ&エチュード』と銘打つCDを購入してみました。内容はショパンのソナタ第2番、リゲティのエチュード第4/10番、スクリャービンのソナタ第2番、リストのロ短調ソナタというもの。
 しかし、このCDに限って云うなら、期待に反してそれほどの感銘は受けませんでした。もちろん抜群に上手い演奏ではあるし、彼女らし い演奏の特徴もあるにはあるけれども、全体としては技巧の勝った演奏で、音楽が筋肉質に過ぎ、スポーティな魅力に終始している印象で、これでは音楽に酔いしれるには至りません。
 先日テレビで見た今年のリサイタルでの、あの指先から解き放たれるような、音楽が自由に今そこで生まれて広がってくるような魅力は残念ながらまだありませんでした。
 このCDは2008年の収録なので、5年前(21歳)の演奏と云うことになるし、CDデビューということもあってか、まだまだ随所に固さがあるようです。ということはユジャ・ワンが
本当に光彩を放ち始めたのはこの1、2年のことではないかとも推察されました。
 桜前線ではありませんが、まさにこれからどこまでこの天才が大きく花開いていくのか、その開花状況が楽しみという、そんな目の離せない時期に差しかかっているのかもしれません。

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