ルイサダ新譜雑感

 ジャン=マルク・ルイサダによる、「ショパン:14のワルツ&7つのマズルカ」というCDが先ごろ発売されました。
 
 ルイサダのショパンのワルツといえば、1990年代にリリースされたドイツグラモフォンをもうだいぶ聴きました。…だいぶ聴いたのは事実ですが、正直云うとマロニエ君は取り立てて素晴らしいとも思っているわけではありません。しかしショパンに冷淡だった故吉田秀和氏がこの演奏を評価したことや、ショパンのワルツ集はリパッティ以外にこれといった決定盤もないことから、一定の評価を保ち続けていられたのだろうとも思われます。
 
 というわけで、本来なら新録音だからといっていまさらという感じでしたが、このCDはマロニエ君の地元である福岡シンフォニーホールで昨年行われたRCAのセッション録音であること、さらにはプロデューサーをなんとコード・ガーベン!!(ミケランジェリなどの録音を担当)が務めていること知り、そんなところからつい買ってしまいました。
 
 ピアノはルイサダと結びつきの強いヤマハであることは当然としても、写真を見ると2台のヤマハピアノがステージに並べられています。その理由は、1台は弾くためのピアノ、そしてもう1台はダンパーペダルを踏んだ状態にされたピアノなのだそうで、こうすることで弾かれないほうのピアノの開放弦が共振して、より豊かなニュアンスや倍音効果を得るという試みらしく、ヘェェこういう方法があるのかと驚きました。
 
 さて使用ピアノは当然のごとくCFXかと思っていたら、ライナーノートやネット上の記述にも「CFIIIS」とあり、これには首を捻りました。何枚かある写真ではルイサダが弾いているのはCFXで、その左にCFIIISが並行して置かれています。もちろん写真が絶対とは限らず、試行錯誤の末に「弾くピアノ」と「響かせるピアノ」を入れ換えて、発売されたCDに使われたテイクはCFIIISのものだったということもあるでしょう。したがって使用ピアノはCFIIISとなっているの「かも」しれません。
 
 ただマロニエ君は、わざわざ浜松からCFXを運び込むなど、ルイサダをフルサポートしているヤマハの意気込や要請からしてもCFXだったのでは?と思いました。
 しかし、そうなるとCFIIISという記述は間違いということになり、ヤマハというメーカーも絡んだメジャーレーベルのレコーディングのデータで、こんな初歩的なミスがあるとも思えず、そのあたりはどうも釈然としません。
 
 事実はひとつなのに、ここでマロニエ君があれこれ憶測してみてもはじまりませんが、ただ純粋に音ということだけでいうなら、たしかにCFIIISのようにも思われます。
 CFXの音があまりに軽くブリリアントでニュアンスに欠けるとしたら、その点では、やや古いCFIIISのほうがある種の節度感と憂いがあって、それが品位にも繋がり、そちらが好ましいという判断だったのかもしれません。
 
 それはともかく、ここで聞くヤマハは、偏見抜きに聴いてみると、たしかにこれはこれで整った美しい音だと思ったのも事実です。
 とくに日本人という民族だけが持つきめの細かさ、ムラのない均一感などは数あるピアノの中でも最高レベルのものでしょうし、伝統工芸的なものと最新のテクノロジーがこれほど見事に融和しているのは例がないかもしれません。
 
 日本人だけがもつ最上級のおもてなし精神でピアノを作るとこうなりますよという、わかりやすさがある反面、個性や表現意欲には及び腰で、優等生趣味が前に出ている点も日本的だと思います。
 
 とりわけ響きという点では日本らしさを感じます。
 西洋のようなメンタリティのない日本という土地柄なのか、響きに抜けがなく、享楽や官能といったものが皆無な上に、本質的にある種の暗さがあります。唐突ですがここがファツィオリとの最大の違いのような気もします。
 
 逆説的にいうと、どうしても開放されない隠微なものが支配しているところがヤマハピアノの個性なのかもしれません。誤解を恐れずにいうなら、ピアノはなんでもかんでもパワーがあって、あけすけに解放されさえいればいいとも思いませんから、これは要するに使い方しだいだろうとも思うのです。
 非常に利口な柴犬のような魅力はあると思いますし、私達日本人の血液の中にはそういうものが否応なく流れていると思うのです。
 
 ヤマハの音が表向きどんなに華やかにみえても、その本質は陰性で、日本人の内向的な遺伝子が抜けきれない、まさに日本の音だとしみじみ思いました。
 ただし、これは悪いと云っているのではなく、それだからこそ表現出来る音楽や演奏形態、あるいはそういう方向を目指す芸術もあるだろうということです。
 
 もとが暗いから、派手な音造りをするとヤマハはちょっと品性を失うわけで、そういう場面で本領を発揮するピアノではないということをあらためて感じたのです。
 直接的な音そのものの明暗もさることながら、ピアノ全体が生まれもった性格そのものに日本的暗さが染み込んでおり、西洋の文物のような明朗さはないということでもあるでしょう。だからヤマハはコンチェルトなどではあまり収まりがよくないのだと思います。
 
 そういう意味から云うと、カワイのほうが無理をせず、日本的暗さに敢えて抗おうとは思っていないようで、だからある意味でそれなりに首尾一貫したピアノだとも思います。その点、ヤマハはいまだにその面での折り合いをつけきれないでいるようで、イメージとキャラクターがバラバラという印象が拭えません。
 人間にも地味な人ほど目立つことへの憧れが強いという意外な法則があるように、ヤマハが華やかさへの憧憬を捨てきれず、もがけばもがくほど、その挑戦の裏には日本的な暗さが潜んでいるように感じます。
 
 谷崎潤一郎が生きていて、もしもピアノ好きだったら、日本のピアノも『陰翳礼賛』の中に書いたかもしれないなどと思ってしまいます。
 

 ルイサダの演奏に触れるのをすっかり忘れていました。
 
 とはいっても、ルイサダは予想以上にルイサダだなぁ…というのがとりあえず感じた率直なところです。
 高い評価をされている方には申し訳ないけれども、マロニエ君にはルイサダの演奏には20数年前から折に触れ接しており、CDはもちろんのこと、実演にも接しましたが、どこをどうひっくりかえしてもその価値がもうひとつわかりかねるのです。
 
 そもそも彼の不思議な名声からすれば、まず、そのテクニックはかなり危なっかしいものという印象が終始拭えません。そしてその危なっかしいテクニックそのものが彼の演奏の中心となり、美意識や音楽表現の在り方にまで深く根をはり絡みついているような気がします。その演奏には常に技巧上の不安がつきまとい、お得意のショパンでもバラードなどになると大丈夫だろうか?という気にさせられます。
 
 個性や解釈という点においても、これを音としてまともに聴いて理解するのはマロニエ君にとっては至難です。たとえば次のフレーズやパッセージの入りに意味不明の「間」があって、それが本当に必要な間なのか、ないほうがいい単なる息継ぎなのかもよくわかりませんし、そのつど身構えてそこをぽんと飛び移るようにして次に進んでいく、あれはいったい何なのかと思います。
 
 他にも意表をつくようなアクセントや強弱のつけかた、突然でてくる内声(しかも断片)の強調、不自然で大仰なルバートはご当人はわかってやっているのかもしれませんが、聴く側にはまったく意味不明で、むしろ音楽の滑らかな進行を著しく妨げるものとしか感じられません。
 唐突に釘でも打ち込むようなスタッカートがでてきたかと思うと、お次は演歌のこぶし並にこってりしたルバートがかかったりと、耳が左右に引っぱられるようです。
 
 あたかも、おそろしく運転に向かない人がハンドルを握ったような急発進、必然性のないライン取り、安定しないスピード、カックンブレーキなどで恐いし遅いし、同乗者はフラフラにさせられるようです。
 
 そもそも、フランスのピアニズムは伝統的に線の流れに重きを置く流派で、フランス人はいうに及ばず、そこで育った安川加寿子をはじめ田中希代子、花房晴美、横山幸雄など、音楽に於ける流れというものの重要性は叩き込まれているという印象があります。
 
 ところがルイサダは、流れなどなんのその、どんな小品でも音楽はたえず寸断され、小間切れとなって、ディテールは小細工にまみれ、テンポも安定しないとなると、マロニエ君のようにその真価が理解できない耳には、指の弱さを考慮した解釈を後付しているようにしか聞こえないのです。
 
 こう批判するのもどうかと思いますが、ルイサダは世界的に活躍するメジャーピアニストの一人であり、政治家とプロの芸術家は批判にさらされるのも仕事のうちですから、その点では変な遠慮はすべきではないと考えています。
 
 というわけで、マロニエ君はこの人の演奏を聴くと、いつも息が詰まるような閉塞感に襲われてしまいます。どちらかというとアマチュアの演奏を聴いているときの苦しさに近いものがあるかもしれません。
 
 とりわけこの新録音で懸念されたのは、昔のドイツグラモフォンから出したワルツよりも、よほどキャリアを積み、年齢的にもピアニストとして円熟期に入っているべき年齢にもかかわらず、その演奏はますます固く、霊感がなく、小さく閉ざされているように思われたことです。
 
 このCDを何度か繰り返して聴いていると、どうしようもなく気分が塞いでしまい、以前のワルツはこれほど窮屈ではなかった記憶があり、敢えて23年前のそれを聴いてみることにしました。するとそこにはアッと驚くばかりの輝きがあり、この人なりの個性と魅力が比較
にならないほど鮮やかに聴かれることに驚愕してしまいました。それほど今回の新録音には覇気もなければ、円熟も、新しい挑戦も感じられないもので、いったいどうしたのかと思いました。
 
 もともと好ましいと思っているわけではなかった旧録音でしたが、このときほど素晴らしく感じたことはこれまでに一度もなかったように思います。更にいうなら、まだ好ましい時代のスタインウェイの輝かしいサウンドがそこにはあり、ずいぶん続けて新しいCDを聴いていたせいもあって、酸素の薄い部屋から、明るく光り輝く開放的な場所へ全身解き放たれたようでした。
 演奏も比較にならないほど自由と創意と詩情(そしてそれなりの必然性)にあふれており、深化するどころか、この変貌ぶりにはまったく理解に苦しむばかりでした。
 

 実を云うと、このルイサダの旧録音のワルツ集はマロニエ君にとってはいわくつきのCDでもありました。もう時効だと思われますので書きますと、それはかれこれ十数年前の事。
 当時、マロニエ君としてはこれまでにない本格的なコンサートチューナーの方とめぐり逢ったのですが、その方の音へのこだわりは並大抵ではないものがあり、コンサートや録音に忙しく飛び回る方でした。そんな方に自分のピアノの音造りをしていただくことになり、期待で胸は膨らみ、すっかり舞い上がったものでした。
 
 今でもピアノの音がわかるなどとはとても思いませんが、当時はさらに未熟で、どういうふうにお願いして良いのやら皆目わからない状態でした。それでも生意気に「自分の好みというものがあります!」というようなことを言うと、その方は尤もなことだと受け止めてくださり、それがどういう音か、ぜひ知りたいと言われたのでした。
 マロニエ君としては自分なりに積み重なったピアノの音に対する理想のようなものが漠然とありましたが、しかしそれはひとつではないし、それを他者に伝えるのは容易なことではありません。どうしたものかと悩んでいると、「では貴方がこれだと思うピアノの音が入ったCDを僕に渡してください」という提案をされました。
 
 なるほどとは思いつつ、さてそういわれても咄嗟には思い浮かびません。当時からCDだけは夥しい枚数がありましたので、その中から「これ」という1枚を選び出すのは至難の技で、とてつもない課題を突きつけられたと思いました。こんなとき普通のピアノマニアなら、さしあたりミケランジェリのCDなどが候補に挙がるのかもしれませんが、マロニエ君はそれでもありませんでした。
 そんな中で敢えて選んだのがルイサダが1990年に収れたワルツ集でした。当時このCDから聞こえてくるスタインウェイの艶やかな解放された音は自分の理想のひとつでしたから、ともかくそれを送りました。
 
 ところが、その反応は意外なもので「あれがお好きなんですか…?」という、明らかにやや鈍い反応でした。マロニエ君としては好みがあるなどと言ったまではいいけれど、まったく音に対するセンスや理解がないと思われたようで、サッと血の気が引いたのを覚えています。びくびくしながら「私は好きなんですが…お好みじゃありませんでしたか?」と聞いてみると、「うーん、僕はあまりいいとは思わなかった」といわれ、さらに続けて「あれはピアニストが演奏によって作っている音で、ピアノじたいはごく普通、調律もありふれた調律だと思う」と、にべもなく言われてしまいました。
 
 このときの率直な印象は、専門家が実践で目指しているものは途方もなく深いところの話のようで、マロニエ君ごときの表面的な好みでどうこう云うような次元ではないらしいことを思い知らされたようで、すっかり自分に自信を無くしていました。
 
 ところが、それから何年も後のことですが、ネットを見ていると調律の世界で神様のように言われている辻文明さんがお亡くなりになったことを知ります。ヤマハのコンサートグランドの開発に関わったり、数々の世界的ピアニストのコンサート調律、中でも内田光子のコンサート(CDも?)では純正律で調律されるなど、氏の高名は業界に広くとどろくものでした。
 その辻文明さんご逝去に関連する書き込みの中に、ある技術者の方が驚くべき事を書かれていることを発見します。なんと、ルイサダのショパンのワルツ集で調律をしたのは辻文明さんだったとあり、これには心底びっくり仰天しました。1990年にハンブルクで録音されているので、てっきり調律はスタインウェイ社の技術者あたりがやっているのだろうと信じて疑いませんでしたし、データの中にもプロデューサーがコード・ガーベン(新録音と同様)であるなど、録音スタッフの名がいくらかあるけれど、辻さんのお名前はまったくありませんでした。
 
 「スタインウェイのお膝元だからああいう好ましい音が作れるのだろう」「しかし、一流の技術者からみればべつに大した調律ではないらしい」「すばらしい調律とはいかなるものか」というのが何年もマロニエ君が抱き続けてきた思いでしたから、さすがにこれを知った時は衝撃でしたし、いくぶんは名誉回復されたような気分になったのも正直なところでした。
 
 ここで「あれは、ありふれた調律」と言われた方を否定するつもりは毛頭ありません。その方がそう感じられたことも尊重したいし、それほど調律というものも多種多様で、軽々に判断できるものではないということだろうと今は素直に思います。どんなに素晴らしいピアニストでも、いいと思わない人も必ずいるのと同じでしょうか。まあそれでも、本当にいいものは好みを超えていいという真理があるのも事実ですが…。
 
 そういう次第で、マロニエ君は間違っていようと何であろうと、人のいいなりにはならず、最終的には自分の耳だけを信じることにしていますし、それ以外にはないと思うのです。
いうなれば、自分の感性に極力敏感でありたいと思っているわけです。
 

 ついでに、ごく最近のことですがルイサダ繋がりで面白いことがあったので付記しておきます。
 冒頭に書いた、福岡シンフォニーホールでの録音では、弾くための第1ピアノ、開放弦を共鳴させるだけの第2ピアノがあるということで、その発想そのものに驚かされたのは既に書いた通りです。それをまさか数日後に自分が体験するとは、夢にも思っていませんでした。
 
 ディアパソンのタッチ改善のため、ついに第一歩を踏み出すことになり、技術者の方が来宅され、アクションを工房に持ち帰ることになりました。
 鍵盤全体を運び出すのかと思っていたら、今回はアクションのみを取り外して持ち帰られる由で、残った鍵盤は再びピアノに戻され、アクションの帰りを待つことになりました。
 
 運び出しを一緒に手伝って外に出たために、車に積むと自然の流れでそのまま帰られてしまい、部屋に戻るとピアノは鍵盤蓋などが外されたバラバラの状態でした。自分で拍子木を左右に戻すなどしていると、部品がボディに当たるたびにピアノがゴーンゴーンと鐘のように響きますすぐに「ああそうか」と気付きましたが、ピアノのキーはアクションが上に載った状態で、はじめてバランスピンから先が下に落ちています。アクションがなくなるとキーはバランスピンより手前が重くなり、つまりすべてのキーが押し下げられた状態となります。そのため当然ダンパーは上がった状態となり、結果すべての弦が開放弦となるのです。
 
 これはもしや!?
 ルイサダの新録音でステージに2台のピアノが並んでいた、もう一台の開放弦を共振させるだけの第2ピアノとはこの状態であることに気がつき、すぐに大屋根を開けて、横にあるもう1台のピアノをまずは単音で弾いてみました。すると、弾いていないはずのディアパソンからかすかにファ~ンという響きが立ちのぼってきて、弾いていないピアノの弦が鳴っていることがわかりました。
 低音域をフォルテッシモの和音で、次高音のメロディなどいろいろ試しましたが、とくに中音以上で共鳴しやすく、わずかながら響きの膜がかかったような効果があることを体験できました。ルイサダにあやかってショパンのワルツをあれこれ弾いてみると、たしかに響きに複雑な色合いが混ざり込んでくるような感じです。
 なんとなくそれはわかったものの、自分で弾いている限りは、もう一台の共振効果はそれほど明瞭に感じ取ることができるわけではなく、しかと何かを掴んだわけではありません。これは少し距離を置いて聴く人にとってこそ効果があるような気もします。
 
 思わず、自分一人で試すのももったいなくて誰か呼ぼうかと思いましたが、この状況を本当に喜びそうな人というのはよくよく考えてみると、そうは思いつきませんでした。おそらくマロニエ君の周囲には、この状態に興味を持ってくれそうな人というのは思い当たりませんでしたし、ルイサダの録音の経緯から順を追って説明しなくちゃいけないのかと思うと、なんだか急に面倒臭くなり、けっきょく止めましたでもこれは面白い体験でしたから、もしピアノを2台並べてお使いの方は、一方のピアノのダンパーペダルを誰かに踏んでもらうか、あるいはペダルの後ろに挟み物などをして開放弦の状態を作れば、簡単に試してみることができるはずです。
 
 この効果が広く認知されたら、今後ソロリサイタルでも、ステージ上に2台のピアノが並ぶというようなシチュエーションが出てくるのかもしれません。

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