象牙の価値

 ありがたいことに、このホームページのお陰で連絡をくださる方の中には、そこから電話やメールでのやりとりをすることが稀にあって、中にはさらに稀にですが一定のお付き合いにまで発展する場合があるのは、こんなくだらない事でもせっせと書き続けたことへのご褒美のようで嬉しい限りです。
 
 そういうご縁で、やはりピアノには強い拘りをお持ちの方がおられ、折しもピアノを購入されるところだったことから連絡をいただき、そこからいろいろなやりとりがはじまりました。はじめに連絡をいただいたのは、好みのピアノを探し求めるため、その方の地元にあるピアノ店などをあちこちと回られている最中というタイミングでした。その後は、したたかに事前調査された上でずいぶん遠方にまで足を伸ばされるなど、相応の時間もかけて相当数を弾いて回られた結果、ついにある一台のピアノに辿り着かれたようでした。試弾された延べ台数で云うと、おそらくは軽く数十台というところでしょうから、そのエネルギーたるや大変なものですが、楽器選びというのはそこまでしてでも、自分の音楽生活の伴侶を選ぶところにひとつの醍醐味があるのかもしれません。
 
 さて、その方が紆余曲折の果てに選ばれたのは、ある一台の古いグランドで、それが最終的に最も自分の感性に合ったとのことでした。マロニエ君としては、もちろん弾かれる方の好みに合致したピアノであることは当然としても、できるだけ整備の行き届いた、技術者の手が細かく入ったもの、あるいは消耗品の状態をよくよく確認されて将来にわたって心配なく使っていける状態であるかどうかも判断の重要項目にされたほうがいいと言っていたのですが、そういう条件を満たしたピアノも中にはあったようですが、残念なるかな楽器として気に入られなかったというのですから、これはどうしようもありません。
 
 そして、この方がタダモノではないのは、これだけの台数を(新幹線に乗ってまで)広く見てまわられた結果、最終的にこれだ!と思われたのは消耗品は弦もハンマーも要交換のピアノで、普通の人ならあまり手を出さないであろう代物だったことでした。もちろんマロニエ君は見ても触ってもいませんからどんなものやら話で聞く以外はまったくわかりませんが、よほどその楽器の持つ潜在力や個性が気に入られ、心に期するものがあったのだろうと思われます。(購入は決まったものの、まだ納入前で、お店とはいろいろな交渉事もあれば作業等も完了していないので、現時点ではピアノのメーカー名など具体的なことは敢えて書かないでおきますが、後でその時期が来れば書かせていただくかもしれません。)
 
 そのピアノはそこそこ古い楽器で、消耗品関係の使用期限はとうに過ぎているため、なんとこれから購入店の工房でオーバーホールをされるとのことで、その意気込みたるやあっぱれだと思いました。普通ならそこそこ自分の条件に合うピアノがあれば、すでに整備の行き届いた安心できる状態のものを買うのが常套的ですが、この方は決してそういう安全な幹線道路を進もうとはされませんでした。
 たとえそのための時間や費用がかかっても、自分が本当に気に入った楽器を見つけ出し、それをオーバーホールしてから自宅に迎え入れるというのはある意味で理想的な購入方法かもしれません。
 もちろんオーバーホールによって、多少は現在そのピアノがもつ個性が変わることはあると思いますし、とりわけ技術者はそのあたりを心配しますが、マロニエ君の経験から云っても、そこからまた時間をかけて自分の好みに仕上げていけばいいことでもあるし、意外なことに、ピアノは根底のところでもっている器や個性、つまり人間で云うところの人格にあたる部分は少々のことでは変わらないようなので、趣味としてピアノを買うにはこういうプロセスを経ていくのはいかにも楽しいやり方には違いないと思います。(もちろん普通はなかなかしませんが)
 
 マロニエ君もつい調子に乗って愚にもつかないアドバイスをさせていただきましたが、そのひとつはピアノはいったん納入されたら、他の楽器のようにケースに入れて持ち運ぶわけにもいかず、よほどの事でもない限り、ピアノが様々な作業(とくに重整備)を受けられる工房に再度運ばれるなんてことは、まずないという覚悟をしなくてはいけないということでした。人間で云えば、もし病気をしても家から出られず、かかりつけの医者の往診のみで、一切病院には行けないようなものです。したがって自宅での調整レベルで済まないことは、ともかくピアノが工房にあるうちに可能な限りの想像をめぐらせて、集中的に希望を出して
おく必要があるということです。つまりピアノに於いては、大修理に類することは「そのうち」とか「順次」というこちら側の都合はいっさい通用しないと云う意味です。
 
 そんな中、最近出てきたこの方の要望というのが、通常の人工素材の鍵盤を象牙/黒檀に貼り替えることでした。
 白鍵が象牙、黒鍵が黒檀というのは俗な言い方をすれば、良いピアノのひとつのステータスでもあり、たしかにその風合いにはなんともいえないものがあるのは確かですし、とりわけ少し古めのピアノではいかにも楽器らしい由緒正しげな風格さえ感じさせるものです。
 マロニエ君も、今年買ったディアパソンは白鍵はたまたま象牙だったのですが、どういうわけか黒鍵は普通のもので、そのアンバランスが気になりました。マロニエ君は鍵盤の材質にこだわるほうではなかったのですが、どうせならというわけで黒鍵を黒檀に変更してもらいましたが、自分でもこれはやってもらって成功だったと思います。
 
 昔は象牙が現在ほど貴重品ではなかったために、メーカーによってはアップライトでもちょっと上級モデルにはこれが使われたりしたものですが、白鍵は象牙、しかるに黒鍵は黒檀ではないというのは、なんとも解せない話です。
 もしかしたら、30年前は象牙より黒檀のほうが高価だったのだろうかなどと想像してみますが、それもどうも考えにくいので、やはりそこには一般受けする象牙だけは使っておいて、黒鍵は普通のフェノールでいいというコスト的な判断だったような気もしますが、真偽のほどはよくわかりません。
 
 ちなみに偶然読んだ、珍しいヴィオラに関する本の中の記述によれば、黒檀は昔から価値の高い木材で、それがこの書籍に出てくるヴィオラの糸巻き、指板、弦を引っぱるテールピースにすべて使われているということにも、著者はその楽器に一定の価値を見出す手がかりにしているようなので、やはり稀少で高価なものには間違いないようです。黒檀の特徴は「緻密で重くて硬い」ことだそうで、だから黒鍵などにも向いているようですが、これもまた最近は伐採が進んで良いものはないとのことで、良質の天然素材はいずれも厳しい状況のようです。
 
 そういうわけで、もともと貴重な黒檀がますます入手困難になってきたのか、国産ピアノでも上級機種の黒鍵については「黒檀調天然木使用」などとなっていますし、かの音楽大国ドイツでさえ、楽器製作のための森林伐採は禁止という法律ができたとかで、ハンブルクスタインウェイも今世紀に入ってからは響板にニューヨークと同じアラスカ産のスプルースを使うようになった(戦前のニューヨーク・スタインウェイはアメリカ西海岸のスプルースを使用していた由)りと、とかく天然素材というものが年々入手困難な貴重品目になっていくのは避けがたい流れのようです。
 
 まして象牙にいたっては、天然素材という枠組をはるかに超えて、いまや宝飾品に近いような貴重品に祭り上げられてしまった感があります。
 象牙は20年以上前にワシントン条約が締結され、以降は輸出入禁止品目となったため、一部の中古品を除いては象牙鍵盤はほぼ完全に姿を消してしまっています。こういうルールに対しては海外のメーカーのほうが潔い見識を持っているのか、どんな高級メーカーであっても一斉に象牙の使用は止めてしまっていますが、日本のメーカーの中には、大量に貯め込んでいたストックがまだあるのか、いまだにごく一部ですが国内で販売する新品ピアノに象牙鍵盤を使用しているものがあるのは驚いてしまいます。
 
 現在の一流メーカーは黒鍵こそまだ黒檀もしくはそれに準ずる木材を使っていますが、白鍵に関しては最上級の人工素材が使われ、これが大半の高級ピアノのスタイルになっているようです。
 
 マロニエ君のシロウト考えでは、水牛の角とか、ほかにも自然環境に大きな害をもたらさない範囲で、象牙の代用品がないものだろうかと思いますが、一向にそれらしい話を聞いたことはなく、やはり大量生産品に天然素材を使用すること自体が根本的に間違いなのかもしれません。片や人工素材もこれだけ驚異的なテクノロジーの発達の下では、象牙に匹敵するような理想的な物質が作り出せないものかと思いますが、そちらもこれという決め手はないようです。
 天然素材といえばちょっと気になるのは、現在の日本の高級車の内装には、贅沢嗜好の自動車評論家でさえ呆れるほどの超高級皮革などがこれでもかとばかりに使われているそうで、これは楽器どころではない実用品での贅沢仕様であって、どんなに高級車であっても車は10年も経てば大半は棄てられる運命です。クルマが好きなマロニエ君をもってしても、さすがにこれはいい気持ちはしません。どこかで歯止めをかけないと人間の奢りというものは留まるところを知らないようです。
 
 話が逸れました。
 その方は、オーバーホール後にご自宅へ納入されるということは、このピアノとは腰を据えた長い付き合いになるというわけで、これを機に鍵盤を象牙/黒檀にぜひとも貼り替えたいという希望をお持ちのようでした。マロニエ君も貴重な象牙といえども、もし中古品があれば当然古いものだろうから、それならリーズナブルな価格では?と安易に想像していましたし、さらには少し古いピアノにはそこそこの中古品のほうが却って雰囲気的にもマッチングが良いだろうと思い、両方の理由から中古品を勧めたところでした。それにだいいち、もし仮に新品象牙が手に入るとしても、それはかなり高価だろうから、それに見合う価値があるようにも思えませんでした。(もちろん価値があるかどうかはお金を出す人が決めることではありますが。)
 というわけで、その方も象牙は中古品があればそれで構わないということで、すぐさま工房に鍵盤貼り替えの問い合わせをされたようです。
 
 数日して報告があり、先方からの回答によると象牙/黒檀とも交換は可能の由。価格は黒檀への交換は5万円、そして注目の象牙は中古品でも17万円!、合わせて22万円也。ちなみに象牙は新品もあるらしくその価格はなんと50万円!!!とのことで、これにはさすがのマロニエ君も聞くなり椅子から転げ落ちそうにました。
 いまや貴重な象牙であることは充分承知していましたが、ここまで高額になっていようとは思いもよりませんでしたし、これでは象牙鍵盤をもつアップライトピアノなんて、下手をすればピアノ本体よりも象牙のほうが金銭的価値があるということにもなりかねません。
 
 これぞ需給バランスの法則が導き出した結果というべきか、稀少性というものはえてしてそういうものなのかとも思いましたが、そうはいってもやはり驚きでした。しかもこのお店というのがオーバーホールに要する価格も極めて良心的で驚いていたぐらいですから、そんなお店が象牙に限って突然価格をつり上げてくるとも考えにくく、これはごく標準的な価格、もしくは少し安いぐらいだろうと考えるのが順当だろうと思います。
 
 ここまで象牙が貴重で高価ともなると、人間の心理というのは不思議なもので、キッパリあきらめるか、ますます欲しくなるかのいずれかで、ますます欲しくなるほうが多いのかもしれません。モノに限らず、手に入らないもの、困難なものを乗り越えてでも何かを求めるのが人間の習性でもあることは否定しようもありませんから。
 自分のディアパソンにはたまたま使われていただけで、さしてラッキーと思っていたわけでもなかった象牙でしたが、この状況を知らされるや、なんだか急にありがたいもののような気がしてきますから、我ながらまったく節操がないというべきです。
 
 裏を返せば、昔はそれほど象牙欲しさに乱獲されていたということでもあり、人間のエゴと残虐性を思い知らされます。ワシントン条約の締結以降は、象たちにも少しは安全がもたらされているのだろうかとも思いますが、それでも一部の密猟などは絶えることはないのでしょうね。
 
 ここにきてあらためて考えてみたことですが、ピアノはフレームや弦などの金属以外は、すべて木やフェルトなどの天然素材で作られているものの、奏者の指が触れる大事な鍵盤は、いくら高級品とは云えプラスチックというのは(黒鍵は黒檀や自然木としても)、鍵盤はいってみればピアノの顔でもあり、家で云えば門構えや玄関のようなものですから、感性
としてはどうも興ざめな部分であるように思ってしまいました。
 そういうご時世なのだから仕方がないといえばそれまでですが、やはり理想を云えばなんらかの天然素材であったほうが楽器としての佇まいやまとまりという点で、好ましいように思います。以前はマロニエ君自身、象牙は状態によっては滑りやすいということでひどく敬遠していたこともあり、ほとんど関心を払わない部分でしたが、冷静に楽器としての品格や佇まいとして見つめてみると、やはりプラスチックというほうが違和感があることに気付かされました。
 
 もしかしたら、自分のピアノが鍵盤がプラスチックか天然素材かという違いによっても、弾く人の心情に何らかの影響があるかもしれず、ひいては演奏も変わってくる可能性もあるかもしれないなどと、そこまで考えるようになってしまった自分にも併せて驚いているところです。単純にいっても、人によっては鍵盤をぶっ叩くということがありますが、プラスチックと象牙とでは、やっぱりぶっ叩くにはプラスチックのほうが心おきなくぶっ叩けるかもしれないし、その点では象牙をぶっ叩くのは、どこか躊躇するものがあるかもしれません。
 
 良い演奏をする基本のひとつは、楽器を愛でるという基本的な気持にも多くが依存しているのではないかと思います。その点ではピアノはいささか大きすぎるし、自分で持ち運びも調整もできないので、この点がややおろそかになる場合があるようです。さりとてピアノがその愛でる気持を必要としない例外だというわけではなく、自分の楽器に対して愛情深さがあるとないとでは演奏もずいぶん違ってくる筈です。そんな要素の一端を担っているとしたら、楽器の素材もやはり大事だということですね。
 
 さて、その方のその後はというと、お店の方との交渉の結果、いくぶんの割引があった由で交渉は妥結し、これからオーバーホールと共に鍵盤も全部交換されることになり、しだいにすごいピアノになっていくようです。
 さぞかし出来上がりが楽しみなことでしょう。

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