ルイサダ新譜雑感

 ジャン=マルク・ルイサダによる、「ショパン:14のワルツ&7つのマズルカ」というCDが先ごろ発売されました。
 
 ルイサダのショパンのワルツといえば、1990年代にリリースされたドイツグラモフォンをもうだいぶ聴きました。…だいぶ聴いたのは事実ですが、正直云うとマロニエ君は取り立てて素晴らしいとも思っているわけではありません。しかしショパンに冷淡だった故吉田秀和氏がこの演奏を評価したことや、ショパンのワルツ集はリパッティ以外にこれといった決定盤もないことから、一定の評価を保ち続けていられたのだろうとも思われます。
 
 というわけで、本来なら新録音だからといっていまさらという感じでしたが、このCDはマロニエ君の地元である福岡シンフォニーホールで昨年行われたRCAのセッション録音であること、さらにはプロデューサーをなんとコード・ガーベン!!(ミケランジェリなどの録音を担当)が務めていること知り、そんなところからつい買ってしまいました。
 
 ピアノはルイサダと結びつきの強いヤマハであることは当然としても、写真を見ると2台のヤマハピアノがステージに並べられています。その理由は、1台は弾くためのピアノ、そしてもう1台はダンパーペダルを踏んだ状態にされたピアノなのだそうで、こうすることで弾かれないほうのピアノの開放弦が共振して、より豊かなニュアンスや倍音効果を得るという試みらしく、ヘェェこういう方法があるのかと驚きました。
 
 さて使用ピアノは当然のごとくCFXかと思っていたら、ライナーノートやネット上の記述にも「CFIIIS」とあり、これには首を捻りました。何枚かある写真ではルイサダが弾いているのはCFXで、その左にCFIIISが並行して置かれています。もちろん写真が絶対とは限らず、試行錯誤の末に「弾くピアノ」と「響かせるピアノ」を入れ換えて、発売されたCDに使われたテイクはCFIIISのものだったということもあるでしょう。したがって使用ピアノはCFIIISとなっているの「かも」しれません。
 
 ただマロニエ君は、わざわざ浜松からCFXを運び込むなど、ルイサダをフルサポートしているヤマハの意気込や要請からしてもCFXだったのでは?と思いました。
 しかし、そうなるとCFIIISという記述は間違いということになり、ヤマハというメーカーも絡んだメジャーレーベルのレコーディングのデータで、こんな初歩的なミスがあるとも思えず、そのあたりはどうも釈然としません。
 
 事実はひとつなのに、ここでマロニエ君があれこれ憶測してみてもはじまりませんが、ただ純粋に音ということだけでいうなら、たしかにCFIIISのようにも思われます。
 CFXの音があまりに軽くブリリアントでニュアンスに欠けるとしたら、その点では、やや古いCFIIISのほうがある種の節度感と憂いがあって、それが品位にも繋がり、そちらが好ましいという判断だったのかもしれません。
 
 それはともかく、ここで聞くヤマハは、偏見抜きに聴いてみると、たしかにこれはこれで整った美しい音だと思ったのも事実です。
 とくに日本人という民族だけが持つきめの細かさ、ムラのない均一感などは数あるピアノの中でも最高レベルのものでしょうし、伝統工芸的なものと最新のテクノロジーがこれほど見事に融和しているのは例がないかもしれません。
 
 日本人だけがもつ最上級のおもてなし精神でピアノを作るとこうなりますよという、わかりやすさがある反面、個性や表現意欲には及び腰で、優等生趣味が前に出ている点も日本的だと思います。
 
 とりわけ響きという点では日本らしさを感じます。
 西洋のようなメンタリティのない日本という土地柄なのか、響きに抜けがなく、享楽や官能といったものが皆無な上に、本質的にある種の暗さがあります。唐突ですがここがファツィオリとの最大の違いのような気もします。
 
 逆説的にいうと、どうしても開放されない隠微なものが支配しているところがヤマハピアノの個性なのかもしれません。誤解を恐れずにいうなら、ピアノはなんでもかんでもパワーがあって、あけすけに解放されさえいればいいとも思いませんから、これは要するに使い方しだいだろうとも思うのです。
 非常に利口な柴犬のような魅力はあると思いますし、私達日本人の血液の中にはそういうものが否応なく流れていると思うのです。
 
 ヤマハの音が表向きどんなに華やかにみえても、その本質は陰性で、日本人の内向的な遺伝子が抜けきれない、まさに日本の音だとしみじみ思いました。
 ただし、これは悪いと云っているのではなく、それだからこそ表現出来る音楽や演奏形態、あるいはそういう方向を目指す芸術もあるだろうということです。
 
 もとが暗いから、派手な音造りをするとヤマハはちょっと品性を失うわけで、そういう場面で本領を発揮するピアノではないということをあらためて感じたのです。
 直接的な音そのものの明暗もさることながら、ピアノ全体が生まれもった性格そのものに日本的暗さが染み込んでおり、西洋の文物のような明朗さはないということでもあるでしょう。だからヤマハはコンチェルトなどではあまり収まりがよくないのだと思います。
 
 そういう意味から云うと、カワイのほうが無理をせず、日本的暗さに敢えて抗おうとは思っていないようで、だからある意味でそれなりに首尾一貫したピアノだとも思います。その点、ヤマハはいまだにその面での折り合いをつけきれないでいるようで、イメージとキャラクターがバラバラという印象が拭えません。
 人間にも地味な人ほど目立つことへの憧れが強いという意外な法則があるように、ヤマハが華やかさへの憧憬を捨てきれず、もがけばもがくほど、その挑戦の裏には日本的な暗さが潜んでいるように感じます。
 
 谷崎潤一郎が生きていて、もしもピアノ好きだったら、日本のピアノも『陰翳礼賛』の中に書いたかもしれないなどと思ってしまいます。
 

 ルイサダの演奏に触れるのをすっかり忘れていました。
 
 とはいっても、ルイサダは予想以上にルイサダだなぁ…というのがとりあえず感じた率直なところです。
 高い評価をされている方には申し訳ないけれども、マロニエ君にはルイサダの演奏には20数年前から折に触れ接しており、CDはもちろんのこと、実演にも接しましたが、どこをどうひっくりかえしてもその価値がもうひとつわかりかねるのです。
 
 そもそも彼の不思議な名声からすれば、まず、そのテクニックはかなり危なっかしいものという印象が終始拭えません。そしてその危なっかしいテクニックそのものが彼の演奏の中心となり、美意識や音楽表現の在り方にまで深く根をはり絡みついているような気がします。その演奏には常に技巧上の不安がつきまとい、お得意のショパンでもバラードなどになると大丈夫だろうか?という気にさせられます。
 
 個性や解釈という点においても、これを音としてまともに聴いて理解するのはマロニエ君にとっては至難です。たとえば次のフレーズやパッセージの入りに意味不明の「間」があって、それが本当に必要な間なのか、ないほうがいい単なる息継ぎなのかもよくわかりませんし、そのつど身構えてそこをぽんと飛び移るようにして次に進んでいく、あれはいったい何なのかと思います。
 
 他にも意表をつくようなアクセントや強弱のつけかた、突然でてくる内声(しかも断片)の強調、不自然で大仰なルバートはご当人はわかってやっているのかもしれませんが、聴く側にはまったく意味不明で、むしろ音楽の滑らかな進行を著しく妨げるものとしか感じられません。
 唐突に釘でも打ち込むようなスタッカートがでてきたかと思うと、お次は演歌のこぶし並にこってりしたルバートがかかったりと、耳が左右に引っぱられるようです。
 
 あたかも、おそろしく運転に向かない人がハンドルを握ったような急発進、必然性のないライン取り、安定しないスピード、カックンブレーキなどで恐いし遅いし、同乗者はフラフラにさせられるようです。
 
 そもそも、フランスのピアニズムは伝統的に線の流れに重きを置く流派で、フランス人はいうに及ばず、そこで育った安川加寿子をはじめ田中希代子、花房晴美、横山幸雄など、音楽に於ける流れというものの重要性は叩き込まれているという印象があります。
 
 ところがルイサダは、流れなどなんのその、どんな小品でも音楽はたえず寸断され、小間切れとなって、ディテールは小細工にまみれ、テンポも安定しないとなると、マロニエ君のようにその真価が理解できない耳には、指の弱さを考慮した解釈を後付しているようにしか聞こえないのです。
 
 こう批判するのもどうかと思いますが、ルイサダは世界的に活躍するメジャーピアニストの一人であり、政治家とプロの芸術家は批判にさらされるのも仕事のうちですから、その点では変な遠慮はすべきではないと考えています。
 
 というわけで、マロニエ君はこの人の演奏を聴くと、いつも息が詰まるような閉塞感に襲われてしまいます。どちらかというとアマチュアの演奏を聴いているときの苦しさに近いものがあるかもしれません。
 
 とりわけこの新録音で懸念されたのは、昔のドイツグラモフォンから出したワルツよりも、よほどキャリアを積み、年齢的にもピアニストとして円熟期に入っているべき年齢にもかかわらず、その演奏はますます固く、霊感がなく、小さく閉ざされているように思われたことです。
 
 このCDを何度か繰り返して聴いていると、どうしようもなく気分が塞いでしまい、以前のワルツはこれほど窮屈ではなかった記憶があり、敢えて23年前のそれを聴いてみることにしました。するとそこにはアッと驚くばかりの輝きがあり、この人なりの個性と魅力が比較
にならないほど鮮やかに聴かれることに驚愕してしまいました。それほど今回の新録音には覇気もなければ、円熟も、新しい挑戦も感じられないもので、いったいどうしたのかと思いました。
 
 もともと好ましいと思っているわけではなかった旧録音でしたが、このときほど素晴らしく感じたことはこれまでに一度もなかったように思います。更にいうなら、まだ好ましい時代のスタインウェイの輝かしいサウンドがそこにはあり、ずいぶん続けて新しいCDを聴いていたせいもあって、酸素の薄い部屋から、明るく光り輝く開放的な場所へ全身解き放たれたようでした。
 演奏も比較にならないほど自由と創意と詩情(そしてそれなりの必然性)にあふれており、深化するどころか、この変貌ぶりにはまったく理解に苦しむばかりでした。
 

 実を云うと、このルイサダの旧録音のワルツ集はマロニエ君にとってはいわくつきのCDでもありました。もう時効だと思われますので書きますと、それはかれこれ十数年前の事。
 当時、マロニエ君としてはこれまでにない本格的なコンサートチューナーの方とめぐり逢ったのですが、その方の音へのこだわりは並大抵ではないものがあり、コンサートや録音に忙しく飛び回る方でした。そんな方に自分のピアノの音造りをしていただくことになり、期待で胸は膨らみ、すっかり舞い上がったものでした。
 
 今でもピアノの音がわかるなどとはとても思いませんが、当時はさらに未熟で、どういうふうにお願いして良いのやら皆目わからない状態でした。それでも生意気に「自分の好みというものがあります!」というようなことを言うと、その方は尤もなことだと受け止めてくださり、それがどういう音か、ぜひ知りたいと言われたのでした。
 マロニエ君としては自分なりに積み重なったピアノの音に対する理想のようなものが漠然とありましたが、しかしそれはひとつではないし、それを他者に伝えるのは容易なことではありません。どうしたものかと悩んでいると、「では貴方がこれだと思うピアノの音が入ったCDを僕に渡してください」という提案をされました。
 
 なるほどとは思いつつ、さてそういわれても咄嗟には思い浮かびません。当時からCDだけは夥しい枚数がありましたので、その中から「これ」という1枚を選び出すのは至難の技で、とてつもない課題を突きつけられたと思いました。こんなとき普通のピアノマニアなら、さしあたりミケランジェリのCDなどが候補に挙がるのかもしれませんが、マロニエ君はそれでもありませんでした。
 そんな中で敢えて選んだのがルイサダが1990年に収れたワルツ集でした。当時このCDから聞こえてくるスタインウェイの艶やかな解放された音は自分の理想のひとつでしたから、ともかくそれを送りました。
 
 ところが、その反応は意外なもので「あれがお好きなんですか…?」という、明らかにやや鈍い反応でした。マロニエ君としては好みがあるなどと言ったまではいいけれど、まったく音に対するセンスや理解がないと思われたようで、サッと血の気が引いたのを覚えています。びくびくしながら「私は好きなんですが…お好みじゃありませんでしたか?」と聞いてみると、「うーん、僕はあまりいいとは思わなかった」といわれ、さらに続けて「あれはピアニストが演奏によって作っている音で、ピアノじたいはごく普通、調律もありふれた調律だと思う」と、にべもなく言われてしまいました。
 
 このときの率直な印象は、専門家が実践で目指しているものは途方もなく深いところの話のようで、マロニエ君ごときの表面的な好みでどうこう云うような次元ではないらしいことを思い知らされたようで、すっかり自分に自信を無くしていました。
 
 ところが、それから何年も後のことですが、ネットを見ていると調律の世界で神様のように言われている辻文明さんがお亡くなりになったことを知ります。ヤマハのコンサートグランドの開発に関わったり、数々の世界的ピアニストのコンサート調律、中でも内田光子のコンサート(CDも?)では純正律で調律されるなど、氏の高名は業界に広くとどろくものでした。
 その辻文明さんご逝去に関連する書き込みの中に、ある技術者の方が驚くべき事を書かれていることを発見します。なんと、ルイサダのショパンのワルツ集で調律をしたのは辻文明さんだったとあり、これには心底びっくり仰天しました。1990年にハンブルクで録音されているので、てっきり調律はスタインウェイ社の技術者あたりがやっているのだろうと信じて疑いませんでしたし、データの中にもプロデューサーがコード・ガーベン(新録音と同様)であるなど、録音スタッフの名がいくらかあるけれど、辻さんのお名前はまったくありませんでした。
 
 「スタインウェイのお膝元だからああいう好ましい音が作れるのだろう」「しかし、一流の技術者からみればべつに大した調律ではないらしい」「すばらしい調律とはいかなるものか」というのが何年もマロニエ君が抱き続けてきた思いでしたから、さすがにこれを知った時は衝撃でしたし、いくぶんは名誉回復されたような気分になったのも正直なところでした。
 
 ここで「あれは、ありふれた調律」と言われた方を否定するつもりは毛頭ありません。その方がそう感じられたことも尊重したいし、それほど調律というものも多種多様で、軽々に判断できるものではないということだろうと今は素直に思います。どんなに素晴らしいピアニストでも、いいと思わない人も必ずいるのと同じでしょうか。まあそれでも、本当にいいものは好みを超えていいという真理があるのも事実ですが…。
 
 そういう次第で、マロニエ君は間違っていようと何であろうと、人のいいなりにはならず、最終的には自分の耳だけを信じることにしていますし、それ以外にはないと思うのです。
いうなれば、自分の感性に極力敏感でありたいと思っているわけです。
 

 ついでに、ごく最近のことですがルイサダ繋がりで面白いことがあったので付記しておきます。
 冒頭に書いた、福岡シンフォニーホールでの録音では、弾くための第1ピアノ、開放弦を共鳴させるだけの第2ピアノがあるということで、その発想そのものに驚かされたのは既に書いた通りです。それをまさか数日後に自分が体験するとは、夢にも思っていませんでした。
 
 ディアパソンのタッチ改善のため、ついに第一歩を踏み出すことになり、技術者の方が来宅され、アクションを工房に持ち帰ることになりました。
 鍵盤全体を運び出すのかと思っていたら、今回はアクションのみを取り外して持ち帰られる由で、残った鍵盤は再びピアノに戻され、アクションの帰りを待つことになりました。
 
 運び出しを一緒に手伝って外に出たために、車に積むと自然の流れでそのまま帰られてしまい、部屋に戻るとピアノは鍵盤蓋などが外されたバラバラの状態でした。自分で拍子木を左右に戻すなどしていると、部品がボディに当たるたびにピアノがゴーンゴーンと鐘のように響きますすぐに「ああそうか」と気付きましたが、ピアノのキーはアクションが上に載った状態で、はじめてバランスピンから先が下に落ちています。アクションがなくなるとキーはバランスピンより手前が重くなり、つまりすべてのキーが押し下げられた状態となります。そのため当然ダンパーは上がった状態となり、結果すべての弦が開放弦となるのです。
 
 これはもしや!?
 ルイサダの新録音でステージに2台のピアノが並んでいた、もう一台の開放弦を共振させるだけの第2ピアノとはこの状態であることに気がつき、すぐに大屋根を開けて、横にあるもう1台のピアノをまずは単音で弾いてみました。すると、弾いていないはずのディアパソンからかすかにファ~ンという響きが立ちのぼってきて、弾いていないピアノの弦が鳴っていることがわかりました。
 低音域をフォルテッシモの和音で、次高音のメロディなどいろいろ試しましたが、とくに中音以上で共鳴しやすく、わずかながら響きの膜がかかったような効果があることを体験できました。ルイサダにあやかってショパンのワルツをあれこれ弾いてみると、たしかに響きに複雑な色合いが混ざり込んでくるような感じです。
 なんとなくそれはわかったものの、自分で弾いている限りは、もう一台の共振効果はそれほど明瞭に感じ取ることができるわけではなく、しかと何かを掴んだわけではありません。これは少し距離を置いて聴く人にとってこそ効果があるような気もします。
 
 思わず、自分一人で試すのももったいなくて誰か呼ぼうかと思いましたが、この状況を本当に喜びそうな人というのはよくよく考えてみると、そうは思いつきませんでした。おそらくマロニエ君の周囲には、この状態に興味を持ってくれそうな人というのは思い当たりませんでしたし、ルイサダの録音の経緯から順を追って説明しなくちゃいけないのかと思うと、なんだか急に面倒臭くなり、けっきょく止めましたでもこれは面白い体験でしたから、もしピアノを2台並べてお使いの方は、一方のピアノのダンパーペダルを誰かに踏んでもらうか、あるいはペダルの後ろに挟み物などをして開放弦の状態を作れば、簡単に試してみることができるはずです。
 
 この効果が広く認知されたら、今後ソロリサイタルでも、ステージ上に2台のピアノが並ぶというようなシチュエーションが出てくるのかもしれません。

ディアパソン210E-8

 端から見れば滑稽な親バカよろしく、さんざんディアパソン210Eの素晴らしさをまくし立てているマロニエ君ですが、それを読んだ知人などが、そんなにいいんだったらぜひ一度弾かせて欲しいと口々にいってくださいます。
 
 快諾するのはもちろんですが、同時にいつもハッと我に返って、ピアノとして非常に重要な未解決の問題が残っていることを思い出してしまいます。
 ピアノとしてのディアパソンについて書いていることには嘘偽りはありませんが、本当に他人様に「さぁドーゾ!」と言い切るだけの自信があるのかとなると、現在只今はいささか事情が異なるのです。
 
 というのも現在の我が家のディアパソンは、すでに繰り返し書いているように、昨年春に新調したレンナーハンマーの重量バランスに起因するタッチに大きな問題を抱えたままの状態で、ひとくちに云うとキーが重い故の弾きにくさがあり、それは現在もほとんど変わっていません。
 ハンマー交換と併せて鉛詰めがされているおかげで、ダウンウェイト(キーの軽重)そのものがとくに重いというわけではありませんが、シュワンダ―アクションのシングルスプリングの特性と相まって、キーのストローク後半にハンマーの重さがぐっとのしかかってくるようです。
 さらにはその中で精一杯の調整をしているために、戻りもやや鈍めとあって、現代の軽快なタッチのピアノに慣れた人が、いきなりこの状態を弾いたら、音色云々の前に「重い」「弾きにくい」と感じてしまうだろうと心配になるわけです。
 
 そんなもどかしい状態の中で、あるひとつの事実に辿り着きました。弾いていて気持の良いピアノの条件を、強いて2つに分けるとすれば、ひとつは音色や響き・楽器としての表現力など、ピアノから出る音に関する部分。もうひとつはタッチの軽重や俊敏性、あるいは強弱が思いのままになるタッチコントロールの容易さにかかわる物理的な領域です。
 
 しかもこの両者は互いに密接に関連し合っているので、完全に切り離して考えることはできないということも定説とされていますが、それでもやはり、ある程度は音とタッチは別だと見ることも一面に於いては可能であるし、必要でもあることです。それをむやみに関連付け過ぎて、ついにはこちらの物理的要望がどうしても分かってもらえない技術者さんもおられるために、ずいぶんもどかしい思いをさせられた苦い経験もありました。
 
 さて、気持ちのいいピアノとはこの両者がバランスよく揃っているのはいうまでもありません。しかし、どちらがより我慢できないかということになると(もちろん程度問題にもよりますが)、音が気に入らないほうがずっと耐え難いことだと今のマロニエ君は思います。安っぽいキンキン音だとか耳に突き刺さるようなデリカシーのない衝撃音は神経にこたえるし、とても我慢のできるものではありません。
 
 その点では、我がディアパソンの場合は音や響きなどがそれなりに気に入っているため、本来ならとても我慢できそうにもない重めのタッチも、不満を感じながらもなんとかお茶を濁していられるということが、今回はからずも分かったような気がしています。
 
 まあ、早い話がピアノたるもの、音や響きが気に入って、さらにはこちらが望むような表現力が備わってさえいれば、七難隠すということなのかもしれません。
 
 ディアパソンの音には色の濃さと太さがあり、音自体もつややかで美しいのですが、その美しさはただの甘ったるいキズのない表面的なものではなく、弦の振動が響板に増幅されてピアノの全身が鳴っているという、ごまかしのない正味のところから出る美しさだと思います。また、弾き方によってさまざまに表情を変えてくれる点が、いかにも楽器然としており、いろいろ弾き方を変えてみるとあれこれの違いが出ておもしろく、そのあたりも非常に気に入っているところです。
 
 これがいまどきのよくある量産ピアノなら、音の性格も無機質であっけらかんとしており、その上でただ明るいか暗いか、キンキンかモコモコかぐらいしかありません。
 とりわけあるメーカーのピアノなどは、弾き込むにつれて音はしだいに先鋭的になり、とても美しいとは思えないキンキン系の攻撃的な音に変化します。これが嫌だという人が多い反面、中にはこういう音に耳が慣れてしまっているのか、はたまた音に関する感性がまったく違うのか、こういう音をパワーのある華やかなピアノだとして好まれ、逆にそうではない別メーカーのピアノを鳴らないだのダメだのと否定される場合もあるのですから、人の好みというものはいろいろで驚いてしまいます。
 この手の音が嫌な人は、技術者に頼んで、ハンマーに針刺しなどをしてもらって極力その手の音の要素が出てこないように押さえ込むような方法がとられるようですが、しかし生来のピアノの性格がそうなので、しばらく弾いているとまた同じ事の繰り返しになるだけです。
 
 ディアパソンはまったくその点が違っていて、その音色には明暗の他にもいろいろな表情が備わっていているようで、それで自分の表現を作り出すことを自然に覚えていきます。それをどう使うかは奏者の判断や技量、美意識に任されているように感じるし、だから弾くのが楽しいのだと思います。はじめから人工的に整ったピアノではなく、あくまで演奏されることで収束していくピアノで、最後のところを弾き手に委ねているところが、マロニエ君はディアパソンの最も魅力的なところだと思います。
 もちろんディアパソンとて、しばらく弾いていれば弦溝が深くなって、相応の鋭い感じの音になってくるのは例外ではありませんが、その場合でも、基音に嫌なものがなく、自然の木の感触や楽器としての息吹を感じる音なので、他のピアノのように不快感が神経に刺さってくるようなことはありません。
 
 誰が弾いても整った音がでるピアノが今風なら、この時代のディアパソンはまったく違う価値観で作られた昔流儀のピアノです。今のピアノはうわべの愛嬌はよく身なりもきれいですが、ただそれだけで、心の微妙な部分の話になるとパッタリ理解できない人のような印象です。
 
 それはやっぱり表現力が限られているからだと思います。
 表現力などと偉そうなことを書くと、まるでマロニエ君が作品の深いところまで表現できるだけの演奏技量を持っているように誤解されれも困りますが、下手は下手なりに、音楽の好きな人であれば楽器の表現力というものは非常に重要な要素だということで、それによって楽しくも退屈にもなるのです。
 
 だらだら書くのが、いつもながらのマロニエ君の悪いクセですが、このようなわけで弾きにくいタッチを辛抱しながら、それでも弾きたくなるのがディアパソンの偉大さだと日々感じているところで、これがもし逆で、音がガマンできない状況だったら、とても猶予はなかったでしょう。それこそどんな無理をしてでも調整をお願いすることになるのはきっと間違いありません。
 現代は騒音という問題が常にピアノにつきまとい、場合によっては他のことよりもひときわ厳しく扱われる印象もありますが、それだけ音というものが人間にとって苦痛の種だといえる証左なのかもしれません。マンションなどのピアノのトラブルが、まさか音色の問題とは思いませんが、ある種のピアノなどは弾いている本人でさえとても耐えられない場合があるわけで、やはり音は苦痛と常に隣り合わせであることを認識する必要があると思います。
 
 テレビの「もしものコーナー」じゃありませんが、もしもマロニエ君がCDを出すほどの天才で、多少のわがままや酔狂も通るようなピアニストであったなら、レコード会社を説き伏せて、1枚ぐらいはバッハやベートーヴェンなどを、調整の行き届いた古いディアパソンで録音したいと希望するかもしれません。
 
 それは冗談としても、これほどテクノロジーが発達した現代ならではの楽しみとして、少しは楽器を主体にした、おもしろい趣向のCDが出てきても良さそうな気がしますが、一向にそのような流れになりそうな気配はないようです。いまさらあってもなくてもいいようなCDを自己満足的に出してもどうせ売れないのなら、いっそおもしろい冒険をして欲しいと思うのは、無責任なマニアの戯れ言かもしれません。でも、ただお定まりの新しくて固くて響きの縮こまったようなスタインウェイで収録されただけのCDが1枚増えるより、何倍もおもしろい挑戦だと、ここは本気で思うのです。
 
 大半のピアニストはお定まりのピアノしか弾きませんが、プレトニョフなどは現代のスタインウェイなどが気に入らずにブリュートナーでベートーヴェンの協奏曲を録音したり、カワイを気に入ったりしていると聞きます。またカツァリスやデームスも楽器としてのピアノマニアでもあり、この人達はいろいろなピアノで録音したりするありがたい演奏家です。日本人ピアニストでは故園田高弘氏がそうで、スタインウェイが中心ではあったけれどもヤマハ、カワイはもちろん、ブリュートナーその他のいろいろなピアノを使って録音などをされています。
 また、現在の有名ピアニストの中で楽器にこだわりをみせるのがアンドラーシュ・シフで、彼はバッハをスタインウェイで、シューベルトをベーゼンドルファーで、ベートーヴェンをその両方で弾いて全集を完結させたと思ったら、最近は最後のop.111のソナタとディアベッリ変奏曲などを古い戦前のベヒシュタインと、さらにはベートーヴェンハウスにあるさらに100年前のフォルテピアノで演奏したりと、おもしろい試みをしてくれています。
 
 本来は、このように一流演奏家になればなるほどいろいろな楽器にも興味とこだわりを持つのが自然ではないかと思うのですが、大勢はそうではないところがピアノの不思議な点だともいえると思います。
 
 マロニエ君はディアパソンを弾くようになってから、ある意味ばらけた音のピアノをなんとか演奏でまとめるという試みが、いかに音楽の原初的な価値や楽しみに迫るかということを、いまさらのように教えられた気がします。器楽演奏者の中でも、ピアノの人がどこか浮いているのは、自分の出す音に対するこだわりや責任意識の無さからくる図太さ故ではないかと思います。他の楽器は音を作るということが演奏行為と分かちがたく常に求められるから、音と音楽が密接であることが本能的にわかっていますが、ピアノだけは音は楽器や技術者任せで、自分の仕事ではないと思っているところからくる無関心が、やがて音楽への無関心にも繋がり広がっているように感じることが少なくありません。
 
 もちろんディアパソンは欠点も多く、いわゆる完璧とは程遠いピアノです。とりわけ技術者の中にはあんなものと一笑に付す方もおられると思います。しかし、少なくともディアパソンのような価格帯のピアノで、これほど音楽とか演奏に対する意識を高めてくれ、ピアノを弾く楽しさを根本から再確認させてくれるピアノはちょっと思い当たらない気がします。
 
 さて、話は戻って、その欠点のひとつが冒頭にも書いている重いタッチで、その対策を、ついにひとつの方法へと的を絞りました。これが吉と出るか凶と出るかはわかりませんが、とりあえずこの1年余を経て、考えに考えたあげくの結論です。これはいずれまたご報告します。

自然だった頃

 ネットでピアノに関するあれこれの記述を読んでいると、いろいろ面白いことを教えられます。そんな中にはピアノのオーバーホールに関するものをいくつか見かけますが、それらをあちらこちらと拾い読みしてきた感想など。
 
 概ね共通しているのは、(主に日本製ピアノに関することですが)きちんとしたオーバーホールを施して蘇った古いピアノは、現代の基準に照らしても、かなり好ましいピアノになる事例が多いことが、主に関わった技術者によって述べられていることです。
 また、すべてのピアノがそうだとはいえないものの、大まかな時代の傾向としては、むかしのピアノのほうがネットでピアノに関するあれこれの記述を読んでいると、いろいろ面白
いことを教えられ天然の木材の使用率が高く、さらにはフレームの製法等の問題もあってか、音がやわらかく響きも豊かで耳にも優しいという特徴が述べられています。
 
 とくに30年以上経過したピアノは、使われ方や設置環境によっても違うので一概には云えないものの、まあだいたいオーバーホールをしても不思議ではない状態にあるといえるでしょう。とはいえ、ピアノのオーバーホールはかなりの手間と費用を要することなので、簡単にできることではありません。
 
 日本製のグランドは近年海外へ転売されることが甚だしく、数が減り、国内の中古価格もかなり高騰していて、そのため比較的オーバーホールの対象にはなりやすくなっていると思われます。その点で云うと、アップライトの場合はまだいくらか玉数が多いことと、グランドより安い販売価格のバランスから、よほどの名器や愛着があるなどの理由がないと、なかなかオーバーホールまで漕ぎ着けるのは難しいかもしれません。
 
 ともかく、個人のピアノであれ、お店の商品であれ、ピアノの潜在価値や費用の面などの諸問題をかいくぐって、ようやくオーバーホールの判断が下され、作業着手の運びとなります。マロニエ君からみれば、オーバーホールを受けるピアノは製造されて数十年間弾かれ、尚これからも長く使われるということを意味するわけで、非常に幸福なピアノだと思います。
 
 いくつもの記述から認識させられる事は、やはり昔のピアノは今とは使われている材料が格段に異なるという点でしょう。もちろん古い日本製のピアノは大半が普及品ですから、特に厳選された高級木材というようなことはないと見るべきです。それでも使うべきところに使うべき木材が「普通に」使われているという、当時はまだ当たり前のことが実行さ
れており、人工素材あるいは粗悪な木材(およびMDFなどの木材モドキ)を多用するのが当たり前になってしまった現在から見れば、それだけで有り難いような気にさせられます。それほど「当たり前のことが、当たり前ではなくなった」というのが現代の常識ということでもあります。
 
 つまり古いピアノは素材面から見ても、楽器としての資質が今よりいいから、それが正しいオーバーホールを受けることで、予想以上の結果を生み出すということだろうと思います。
 
 あるメーカーの古いレギュラー品のグランドでいうと、同メーカーが後年発売したプレミアムシリーズよりもずっと良い音がする場合もあるのだそうで、こういうことひとつをみても、製造されるピアノの基底となる部分の質がしだいに低下しているのは、少なくとも専門家は皮膚感覚としてわかっておられるようです。こうなると、この数十年、メーカーがやっていたのはなんだったのかという疑念も頭をよぎります。
 
 もちろん楽器制作のスキルが大きく進歩した部分がなかったとは決して思いません。
 より無駄のない科学的で合理的な設計へと進化しているのかもしれないし、パーツの精度などは昔とは比較にならないほどアップしているのはわかります。部品点数が多く、しかもミクロの精度が求められるアクションなどの複雑な機構部分は、これら高精度のパーツが積み重なることでロスのない正確な動きを作り出すわけで、こういう一面は現在のほうがめざましい進歩と遂げている部分だろうと思います。
 
 でも、これらの精度面の進歩では追いつかないほど、もっとも大切な本質の要素が低下しています。ピアノの細胞とも云える天然資源は入手困難となり、人件費は高騰、さらに追い打ちをかけるように購買需要は衰退の一途を辿り、いいピアノを作るための環境は二重三重に悪化していったという現実も見過ごすことのできない事実です。
 
 さらにメーカーは慈善事業ではありませんから、新品が売れて利益が上がらなくては経営も立ち行きません。どうしても新品・新製品が好ましいという価値観を形成・浸透させていくのも、営業サイドの戦略としては当然でしょう。でも、現実問題としてピアノの本源的な能力がどんどん落ちていくことは、現実として避けられない。これをなんとかして挽回すべく、輝くばかりの塗装、傷ひとつない目も醒めるような美しい仕上がり、表面的には非常に整った甘く華やかな音色などを出してみせることで、なんとか新品の魅力を維持しているというところでしょうか。
 
 その結果なのかどうかはわかりませんが、ピアノに対する考え方はいつのまにか一般の消費財と同様の捉え方をされていて、新しいものがよいという価値観が優勢となり、これを覆すことはなかなか容易ではありません。もしかしたら、現代のピアノは一定の時期に買い換えていくことを前提とした安い組み立て家具のような造りで、オーバーホールするよ
うな値打ちはないのかもしれません。
 しかし、パソコンや家電が新しいほうが良いというのはわかりますが、ピアノにその価値観を安易に持ち込むのはいかがなものかと思います。
 
 ネット上の質問コーナーなどでも、音が気に入ったというそれなりの中古と、より新しめで値段も高い中古があって、どちらを選んだらいいでしょう?という類の相談がよくありますが、「弾くのはアナタなのだから気に入ったものを買うべき」という意見があるいっぽうで、「古いピアノは先のことを考えると不安」「予算さえ許すなら新しいものの方が安心だ」「自分なら多少の無理をしてでも新しめのピアノを買う」という意見が必ず登場します。そして新しいピアノのほうがモノとして確かで、安心で、間違いのない買い物であるような方向に話が収束していくのがいつものパターンです。
 
 仮に相談者が自分の感性や好みを優先して古いほうに傾きかけても、「やめたほうがいいです」「オススメしません」「私なら多少の予算オーバーでも、絶対に新しいピアノにします」といった横やりが入り、相談者も、そういわれるとまた不安になってオロオロしはじめます。
 
 こういうやりとりを見るたびに、回答者は何を根拠にそんな知った風なことをいうのかと思います。
 だいたい中古ピアノにおける不安というのは何を言いたいのか、マロニエ君にはまるでわかりません。平均的にいっても、ピアノは耐久性という面ではどうかすると戸建て住宅より上を行く場合もあると思います。もちろんピアノも傷みもしますしパーツは消耗していきますが、他の製品にくらべたら圧倒的に長持ちするものだと思います。本体の寿命ともなると亀のように長寿です。
 
 中古といってもボロボロであるとか、現物確認もしないで買うというようなケースならいざ知らず、自分の目で見て、弾いて、触って、それで納得して気に入ったのなら、それ以上なにを不安だといういうのでしょう。逆に言えば、どれほどピカピカできれいでも、その塗膜の下は人工素材とコストダウンのためのハイテク技術の集合体アンドロイドともいえる新しいピアノの、一体どこが安心なのかと思います。
 
 そもそも、ピアノなんてよほど酷い使われ方でもしない限り、そうそう故障するものでもないし、買うときにきちんと整備されていれば、それが数年で役に立たないほど傷むなんてことは聞いたことがありません。
 もちろん中には何度販売店に相談しても望む音が得られないなどの事例はあるでしょうが、多くはピアノが悪いというより、販売店の商売に対するスタンスとか技術者の誠実さの問題が大半だと思われます。
 
 むしろある程度の中古のほうがそれだけの年月にも耐えてこられた証でもあるし、この先の健全な見通しもできるように思います。
 逆に、マークだけは安心のブランドでも、実際どこの国の工場で作られたかも疑わしいようなピアノであったり、最新の自動ライン&人工素材でロボットによってばんばん作られる新しいピアノ、あるいは近隣諸国の工場から半完成のパーツを掻き集めて組み上げたようなピアノのほうが、床を玉がころがっていく欠陥住宅ではありませんが、将来どんな状
態になるのか、マロニエ君はよほど不安を覚えます。
 
 新しいピアノは見た目はきれいですし、ピアノに限らず新品というものは理屈抜きに気持ちがいいのはわかります。でも、一皮剥けば人工素材満載で、天然木を響かせるはずの楽器としては、その実態はかなりユーザーを裏切ることになっているかもしれず、それは外部から見えないぶんよくよく心しておくべきだと思います。
 もちろん古いピアノの中にもいろいろあって、名も無き外国製品の中にはあっと驚くような酷い造りのピアノもたくさんあるようですし、日本製でも3流品もあれば、管理がずさんであったり、消耗が激しくて賞味期限がとっくに過ぎてしまったものもあるということは頭に置いておくべきです。
 要は、あくまでも信頼できるメーカーの作ったちゃんとしたピアノで、根底がしっかりしたものであることが前提です。
 
 そういう認識の上に立っていれば、古くても質のいいピアノを必要なだけ修理して使ったほうがどれだけ豊かな音楽生活を送ることができるかと思います。
 
 ピアノが他の楽器と違うところは、素人が手に負えない複雑な機械としての側面があり、そのサイズや重量からインテリアとしての佇まいもあるわけで、複合的な要因をもった特殊な楽器であるというところではないかと思います。
 他の多くの楽器は、練習や演奏するとき以外はケースにしまっておわりですが、ピアノはいつも「そこに存在」しているわけで、ある程度、人の目を楽しませ、持ち主の心を満足させるものであってほしいとマロニエ君は思います。
 
 そういう意味では少し古いピアノは、適度な情緒があり、辿ってきた時間があり、自分と出会った運命までもストーリーとして背負います。まして現行品より好ましい素材で作られているとなれば、そういう部分にも人の心は説明のつかない満足と喜びを感じられると思います。
 こういう部分に反応する感性は、そもそも音楽を愛する感性とも通じているものではないしょうか。音楽それ自体がきわめてエモーショナルなものですが、しかるにそのための楽器がただ工業的に立派な物体というのではなにかが欠落していると思います。
 
 もちろん、これは各人の価値観に依存されることなので、どっちが正しいということでもないでしょうが、よく相談の回答で目にするのが「あなたが趣味で楽しむぶんにはいいと思いますが、音大を目指すとか、コンクールに出るとか、そのための練習用としては…云々」という、さも尤もらしいくだりを目にすることがしばし目に止まります。でも、これはまるで音大が指のスポーツ学校であるかのような響きで、その練習にはその酷使に耐えるだけの新しくて丈夫な器具が必要であると言われているみたいです。
 つまり音大やコンクールで加点を得るためには、同系統の新しいピアノを買い揃えておくことが有利だという考え方です。自分のピアノのそのあたりと食い違いの少ないものを選ぶのが賢明であると云うことだと解釈できますが、これってあまりに貧しい感性ではないかと思います。じゃあフルコンでも買うのかと思いきや、そうではなく結局お定まりの最も売れ筋のレギュラーモデルに落ち着くわけです。
 
 こういう感覚だけでピアノを選び、音大に行ったりコンクールに出たりして、その結果自分はどうありたいのか、何のためにピアノをやりたいのかとふと思います。
 
 子供のころから長いことキーシンが使ったピアノは恐ろしく年代物のオンボロで、その音は昔の西部劇にでてくる安酒場のピアノようでしたし、ショパンコンクール優勝のラファウ・ブレハッチは、古いアップライトで練習を続けた結果優勝したなど、必ずしもピアノの機械的頑丈さだけが最優先の要素ではないことは証明されています。
 
 仮に古くてオンボロでも、どこかに音楽的な要素をもったピアノで練習を積んできた人のほうが、いろんなピアノへの対応力も養われるし、無意識のうちに音色を作る、表現の工夫をするなどの習慣が身についているものです。こうしたことが、いざ出るところへ出たときに、結局は良い演奏をすることにもなり、楽器に対してのスタンスも違ってくるとマ
ロニエ君は信じています。
 逆を云えば、スポーツ鍛錬器具のような感覚で新品ピアノを使って育ってきた人は、タッチとスイッチは同義語で無神経、表現にも幅も工夫もなく、ただ難易度の高い曲を、作品の意味もわからぬまま義務的にバリバリ弾けることだけに目的をもっているようです。
 これで聴く人に音楽の喜びや深い感銘を与えるような演奏ができるようになりたいなどとは、勘違いや思い上がりもいいかげんにしてほしいものです。
 
 もちろん現在の新しいピアノを否定しようというような意図はさらさらありませんし、新しいなりの良さもたくさんあることでしょう。繰り返しますが、それは個人の価値観に大きく左右されることで、それぞれが新しいピアノの(あるいは古いピアノの)どこに満足し、どこに不満を抱くかは、各人で違うと思います。
 でも、例えばの話ですが、もしマロニエ君が自分の子どものためにピアノを買うというような状況になったとしたら、予算的に国産の新品グランドを買うことが可能であっても、己の信念において絶対にそれだけはしないと思います。
 
 古いピアノと(今どきの)新しいピアノの決定的な違いは、古いピアノには語りがあることです。自分の出した音が自分のタッチの結果の音として返ってきて、美しい音/汚い音を選びながら音楽を作っていくダイレクトさがあり、ピアノの音や反応には生々しい情感があって、そういうものの総和が演奏の喜びとなり、ピアノを弾く楽しさにつながります。
 
 新しいピアノは、弾きやすく、音ムラがなく、新築のマンションのような美しさと爽快感がありますが、すぐに飽きてしまいます。ピアノは機械として存在し、耳ざわりのいい音をだすも無表情で喜怒哀楽がありません。
 
 楽器の練習をするのに必ずしも高級器を買い揃える必要はないと思いますが、弾く人の感情の変化に反応する楽器であることは必要だと思います。それがあれば古くてもボロでも音が不揃いでも構いません。
 マロニエ君はこの点が最もピアノ選びの大切なところだと信じています。

ディアパソン210E-7

 先日、ディアパソンのオーバーホールをやっていただいた工房をお邪魔しました。
 
 かねてよりの懸案である、我が家のディアパソンの重いタッチの問題を解消するには、究極的に2つの道しかないだろうというところへ突き当たっており、それに関連する訪問でした。
 
 ひとつはウイペンをダブルスプリングに交換することでタッチの軽快感を得ること。もうひとつはハンマーを現在よりも軽量なものに交換することで解決を図るというものです。
 ウイペンをダブルスプリングのものにすればタッチがより現代的かつ俊敏なものになり、併せて調整もしやすくなるのは論を待たないようです。戻りも強まって連打性も上がり、交換作業もそれほど大変というわけでもないようで、技術者さんは機械的な優秀性をわかっておられるので以前から一貫してこれをお薦めです。
 しかし、ウイペンを交換するということは、タッチの特性が根本的に変わってしまうことを意味します。シュワンダー式と呼ばれるシングルスプリングがもつ、しっとり感のあるタッチを好むマロニエ君としては、このフィールを失いたくないという思いが根底にあるのです。
 
 この点に関するこだわりは再三にわたり技術者さんにはお伝えしているので、そうなると必然的にハンマーの交換と云うことになります。しかし、ハンマーというものはメーカーごとに品質や個性もさまざまで、一概に良し悪しを予測することはできません。
 ひとつのメーカーの中にもいろいろなサイズや種類があり、ピアノとの相性もあるので、あらかじめ確かな予測を立てることは難しく、技術者さんによれば「取りつけてみるまでわからない」のが本音なのだそうで、半分はギャンブル感覚でないとできないという印象です。
 
 ただしこれは音色に関する問題であって、物理的な結果はある程度は見えています。
 つまり現在より軽いハンマーに交換すれば、そのぶん軽くなることだけは確かで、この点だけはギャンブルではありません。シャンクから先が1g軽くなれば、鍵盤側ではその5倍相当の5g軽くなるという明瞭な法則があるからです。
 しかしそれに伴って音色も変化してしまうため話はややこしく、どうにも見通しの立てづらい領域に突入します。大雑把にわかっていることは、軽い、小さめの、あるいは薄いハンマーを取りつければ、それだけ弦に対する衝撃度が変わり、それが音色にストレートに反映されます。大きめの重さのあるハンマーは重厚で充実した音を生み出しますし、逆に軽いハンマーは音も軽量になることは基本的に避けられません。当然パンチや迫りといったものもスケールの小さなものにダウンしてしまいます。
 
 もちろん場合によっては小ぶりなハンマーでしか出せない、繊細な音色や表現性というのもあるかとは思いますが、全体としてはやはり大きめのハンマーのほうがパワーもあるし、表現力がより豊かなものであるのは否めません。いわゆる「ピアノらしい音」という点でも大きなハンマーのほうがそれらしく、小ぶりになるほど運動的に弾きやすいかもしれませんが、アコースティックピアノならではの魅力や弾いたときの喜び、おおげさにいうと陶酔感みたいなものは、どうしてもある程度のサイズのハンマーに分があるようです。
 
 ハンマーの大小軽重による違いは、例えて云うならスポーツの男子と女子ぐらいの差、あるいは体格でいうと成人と高校生ぐらいの差があるというのがマロニエ君の実感です。
 

 さて、今回の工房訪問は、やや小ぶりな日本製ハンマーと、新旧取り替えられたウイペンによる差を体験させていただくことが目的でした。この工房では、いつ行っても折々のピアノが整備されていますが、目指すピアノは約50年前のヤマハのグランドNo.G3で、このピア
ノが現在オーバーホールされており、新しいハンマーとダブルスプリングのウイペンへの取り付けが終わったという段階でした。
 今回使われたハンマーは日本のピアノハンマーの名門メーカーの製品で、このメーカーを使う海外の一流メーカーもあると聞きますが、今回のハンマーはここのレギュラー品であるようでした。
 
 おそらく、いろいろな種類のハンマーが製造されている筈ですが、実は今回このヤマハに使われたハンマーはマロニエ君の予想とはまったく違ったものでした。それは新品にもかかわらずカチカチに硬いハンマーで、取りつけただけの状態ではキンキンした、まるで弾き潰されて賞味期限が過ぎたピアノのような音が出ています。それをひたすら針刺しをおこなうことでフェルトに弾力を持たせ、ピアノらしい音を作っていく というタイプのようでした。
 
 目の前で針刺しをして、その変化を見せていただきましたが、硬い音はなかなか普通の状態になるのも大変なようで、かなり針刺しをした後でも、根底にある硬さはなかなか取れない気配を感じます。もちろん何度か繰り返していくことで本来の音色に到達するものとは思いますが、このべらぼうな硬さはちょっとした驚きでした。
 よほどフェルトを硬く巻いているのかと思いましたが、どうやらそんな立派な事情ではないようでした。技術者さんによれば、巻きが硬いのではなく、はじめから硬化剤等によって固められているのだろうということです。このようなハンマーへの対処として、軟化剤の使用も考えているとのことでした。
 
 軟化剤とは字のごとく、硬くなったハンマーフェルトを柔らかくするケミカルで、弾力を失ったフェルトに必要な柔軟性を復活させるものだというのは聞いたことがありますが、硬化剤の使い過ぎにも効果があるのでしょうか…。ただしこうなるとフェルトは薬品で硬くされたり柔らかくされたり、もはや薬漬けというべきでしょうか。本来望ましいことではないでしょうけれども、このようなハンマーには必要な手立てというのも頷けますし、もともとそれをとやかく云うに値するようなフェルトではないのかもしれません。
 
 ハンマーフェルトは高級なものほど毛足が長く、柔軟性や好ましい弾力を有していて、音質にも決定的な効果をあらわします。しかし、年々天然素材の確保が難しいのがご時世です。廉価品になるほど毛足の短いそれなりの羊毛を使うことになり、そこで活用されるのが硬化剤などのケミカル品で「くっつける」という目的もあるのかもしれません。木材も集成材などが活用されるのは当たり前、食肉でも加工肉なるものが市場に出回る時代です。フェルトの羊毛も、品質に応じていろいろな工夫が施され、レギュラー品としてのニーズに対処しているのでしょう。
 
 いずれにしろ、マロニエ君の常識では、新品のハンマーはなかなか音が出ないものと頭から思い込んでいましたし、現に昔の新しいピアノなどは大抵そうでした。昨年ディアパソンにつけたレンナーハンマーも、はじめのうちはなかなか音が出ず、しばらくは輪郭のないぼやけた感じの状態でかなり我慢を強いられたものです。
 こういう状態を脱するために、新しいハンマーには最小限の硬化剤を使ったり、打弦位置に電熱コテをあてて音にエッジを出したりするのでしょうが、今回のハンマーはそういう定説をまったくひっくり返すようなものでした。
 
 おそらく知らないのはマロニエ君のみで、一部ではこういうハンマーも充分に浸透しているものかもしれません。考えてみれば、レギュラー品の場合、針刺しだけで音造りができれば作業も単純でしょうし、はじめからメタリックな派手な音が出るのは、その点でも時代のニーズに適っているのかもと思いました。
 ピアノビジネスの現場では、よい材質のフェルトを時間をかけて弾き込み、整音を繰り返すといった悠長なことをしている暇もないでしょうし、今どきはすぐにパッと結果が出ないとやっていけない競争の時代なのかもしれません。当然コストの問題もあるでしょう。
 さらにはピアノも時代と共にボディが鳴らなくなり、そのぶん硬いハンマーで華やかな音を出すことで、楽器のポテンシャルが低下しているぶんの辻褄合わせをしているような気もします。つまり何もかもが昔とは逆の事情ばかりが重なっているということかもしれません。
 

 ダブルスプリングのヘルツ式ウイペンですが、たしかにタッチの機敏性に秀でて、調整もしやすくなり、タッチの後半(下半分)が軽くなっているぶん、俄然軽く、スポーティにさえ感じます。同じダウンウェイト、すわなちキーに錘を乗せて沈み込みの重さを計測すると、約50gとしても、シュワンダーはそれなりの重さをたえず引きずっているのに対して、ヘルツでは遥かに軽くてサッパリしたタッチを実現できるようです。
 
 体感的にはそれが同じ重さだなんて、とても信じられないぐらいの違いがあって有無を言わさぬものがあるのは確かです。
 これはシングルスプリングが下に行くほど重くなるのに対して、ダブルではそれがないために圧倒的に軽やかなタッチになり、シングルに慣れた指には、まるでタッチの後半にパワーアシストがついているようです。理屈ではわかっていたものの、同じピアノのオリジナル(シングル)と交換後(ダブル)を弾き比べてみると、嫌というほどその違いを痛感させられます。こまかな欠点はあるとしても、これほどの差が出るのでは、世の流れがこちらに変わってしまうというのも無理からぬことだと納得させられます。
 
 多くの技術者がヘルツを信奉するのも道理ですが、シュワンダー式の持つ、ピアノを弾くなんとも言えない喜びというか、味わいのようなものも薄くなり、優秀な機械の気持ち良さとドライさがセットになっている点がやはり気にはかかります。
 同じ表現をすれば、シュワンダーは前時代的な機械の未完成さの中に、歌うようなタッチ感による音楽との一体感がセットになっているともいえるでしょう。
 
 両方とも、優れたものとその裏で犠牲にされているものが、まさに逆のかたちで内包されていると思われ、そういう意味では「完成の域に達して、もはや改良の余地がない」とされるピアノアクションには、いまひとつこの部分が克服されていないようにも感じます。この両者の美点を結びつけたアクションこそマロニエ君は最終完成形なのではないかと思いました。
 
 もしシュワンダーに超えがたい欠陥があり、それはヘルツでしか克服できないというのであれば、ヘルツに交換して、それを極力シュワンダー風味の調整ができればとも思いますが、そういう余地や可能性があるものなのか、機構的なことはわからないのでなんとも言えません。技術者さんにその点はを聞いてみると「基本的にはできない」けれども、試行錯誤でやってみなくてはわからないというものでした。
 
 今回の日本製のハンマーは、いずれにしてもマロニエ君の好みとは大きくかけ離れたもので、この手のハンマーに取り替えるという選択肢は完全に消えました。
 さらにいうと、工房にあったピアノのうち何台かを弾かせていただくと、小さめのハンマーをもつピアノはたしかに軽快で、安楽なタッチを有しているのは間違いありません。しかし、マロニエ君の指がこのところ重いタッチに慣れているということもあるでしょうが、あまりに軽く抵抗が無さ過ぎると、これが本当に弾きやすいということなのか…という戸惑いと疑問があったことも事実です。
 
 さらには小さめのハンマーは、サラリと弾けばきれいな音を出していると感じる反面、厚みがなく、音の密度感とかダイナミズム、表現力がおしなべて痩せてしまうことは否めません。打鍵のエネルギーが小さいぶん粗が目立たないということもありますが、全体としてはピアノのサイズに比べてどうしても声量が控え目の、草食系ピアノになってしまうといったら言い過ぎかもしれませんが、方向としてはやはりそんな感じです。つまり、ボディ全体がわななくような朗々と鳴る楽器とは一線を画する、予めリミットを定めた上での美しさと弾きやすさを優先したピアノになってしまう気がしてしまいます。
 
 こうなるとピアノに何を求めるかという本質的な問題に行き当たります。
 要は音を含む、楽器としての総合的な能力や醍醐味みたいなものを取るか、それよりは弾きやすい軽く快適なタッチという機構上の利便性を取るかということになると思います。
 
 力の要らないイージーな弾きやすさを否定するものではありませんが、楽器というものは(いい意味での)ある程度の抵抗感や、いい音を出すための努力を必要とする余地が残されていなくてはなりません。ろくな腕もないクセして、おまえごときが何を云う!と思われるかもしれません。たしかにその通りです。でも、たとえ下手くそでも、いいピアノが与えてくれる絶妙の感触と、そこから得られる喜びの幅や奥行きを探ろうとする過程は、ピアノに触れる以上は必要なものではないかと思うのです。
 
 さて、我がディアパソンはハンマーをやや軽量なものに交換するか、機構をダブルスプリングに変更するか、はたまたこのまま我慢して行くか、三者択一しかないようです。

メーカーの体質

 知人が新しいピアノを購入されたので、お披露目のご招待をしていただきました。
 
 ピアノはとても素晴らしいものでしたが、購入過程で経験された店側とのやりとりに関して、ちょっと驚くような生々しい話を聞きました。そのために敢えてメーカー名などは書かないで話を進めます。
 
 このピアノは日本の大手メーカーが製造販売するもので、ラインナップの中でもプレミアムシリーズ(シリーズ名ではなく、レギュラーに対するプレミアムという暫定的な意味)という位置付けで、価格もレギュラーシリーズに比べて遙かに高額なものとなります。
 
 ところが購入にまつわるメーカーの対応たるや、「プレミアム」とは程遠い、俄には信じられないような次元の話の連続で、今どきそんなことがまかり通るのかと、ただただ驚かされました。
 結論からいうと、知人は新しいピアノを買った喜びよりも、あとに残った不快感のほうが払拭できず、納品以来、ずっとこの件で心が晴れずに悩まされているというのですから、高いお金を出して素敵なピアノを買ったことがそんな結果を呼び込むなんて、どうにも割り切れない話です。
 
 まずこのシリーズでは、値引きが一切なく、これは以前からマロニエ君も耳にしていました。しかもそれはいささか過剰では?と思えるほどの、まるで軍規のごとき徹底ぶりで、一部のうわさではどんな有名な演奏家や得意先である音大の教授クラスであっても、このシリーズを買うにあたっては例外なく定価で購入しているとかで、それほどこのルールは厳格に運用されているということのようです。
 まあ、これは製品に対するメーカーの考えなのでしょうから、それはそれでひとつの見識なのかもと、そこまでなら思います。
 
 しかし、通常であれば本体の値引きが「1円もない」代わりに、せめて付属品をつけるなどささやかなサービスを付帯することで、お客さんの不満を少しなりとも補おうというのが一般的な常識ではないかと思います。
 とりわけグランドピアノのような高額商品、おまけにプレミアムシリーズの中型サイズともなると、その購入過程での微々たるサービスは当たり前のことだと思っていましたが、それらも一切ない、しない、というのはまるで融通の利かない田舎武士のようで、ただただ唖然とするだけでした。
 
 スタインウェイのような最高ランクの価格のピアノでも、値引きはもちろんありますし、下取りピアノの高額査定、高級ベンチ(椅子)などのサービスが適宜なされるようですが、このメーカーでは一円も値引かないばかりか、下取りは買い取り業者よりも安く、付属品のサービスもなにひとつナシ!という、ほとんど売るという熱意や姿勢がないかのような頑なな姿勢は、ちょっと異様というか、逆に高級品を取り扱う経験をしてこなかった会社なんだなぁ…という気がしてしまいます。
 
 メーカー側は「製品に対する圧倒的な自信の表現」というところなのかもしれませんが、自信の本質と必要なサービスを完全に履き違えてしまっているように思います。むやみにお高くとまって努力をせず、「売ってやる」のが高級品だと思っている単純思考が、むしろ貧しい印象を覚えます。
 サービスという当たり前のことをするのが卑屈なことで、それを一切しないことが高級品および高級品の売り方だと思っているのだとしたら、これは勘違いも甚だしいことで、逆にいうとこういう対応を是として改善もされないまま続いていることに、このメーカーの基本的な体質を垣間見るような気さえしてしまいます。
 
 そんな接客姿勢のあらわれのひとつが、このメーカーは値引きしない話になると、すこし変な調子を帯びてくることです。「世界的にも有名なピアニストの某氏も先ごろ(このピアノを)買われましたが、あれほどの人でも一切値引きはなく定価です!」「有名な○○音大では教授達が自分の教室に(このピアノを)置くことがステイタスになっているみたいですねぇ。」「値引きがないことは、不公平がないということです。」などという自慢話を連綿と聞かされて、その話しぶりにもどこか上から目線な響きがあったことを思い出しました。
 ところがマロニエ君のこの知人の場合はさらにそれを上回るものでした。いろいろと云ったようですが、その中でも極め付きは「値引きはお客様のためにならない」という聞き捨てならない言葉まで口にしたそうです。
 通常ならこれだけの高額商品を買っていただくのに、一切値引きができないことは会社の方針として仕方がないとしても、それを申し訳ないという姿勢で慎重に話をもっていくことで、購入者へなんとか理解を取りつけようと努力するのが常道だろうと思いますが、これは理解を促すどころではありません。買ってくださるお客さんに恐縮するどころか、逆に侮辱的なお説教をしているわけです。
 
 営業サイドでは、おそらく値引をしない(できない)ことに対してある種の後ろめたさがあるのかもしれず、それが逆に強気の抗弁へと形を変えて、虚勢を張っているようにも思えます。忸怩たる思いがあるからこそ、逆に攻撃的に出たりという逆の心理は人間には時折あることでしょうが、それが大切なお客さんへ向けられるとは驚くばかりです。
 良いピアノを買おうというときに、値引きなどという俗で不純なことを考えるべきではない!という意味なのか、その言葉の真意は計りかねますが、いずれにしろほとんど開き直りとも取れる発言で、これがプレミアムピアノの販売現場の実情なのですから情けないことこの上ありません。理由如何に問わず、こういうタブーまで飛び出すとは、良いピアノ以前の接客のイロハの問題というべきでしょう。
 
 値引きをしないのは専ら会社側のメリットを主軸に判断され決定されたことは、普通に思考力のある人間なら誰だってわかることで、そこへ「値引きはお客様のためにならない」という驚くべきこじつけは、常人の平衡感覚さえ疑います。
 このあとに述べる付属品の類に至るやり方にしても、それがそのままこの会社の体質や価値観を如実に表しています。
 
 その付属品とは、本体の数百万からみれば金額的にものの数でもないようなクリーナーのセットとか、たかだか布きれ一枚にすぎない鍵盤のカバーなどで、とどめは床に敷く数千円のインシュレーターまで頑としてサービスせず、あくまでも購入を迫るのだとか。その結果、インシュレーターだけはどうしても必要ということから「購入させられた」そうで、その凄まじさには口あんぐりでした。
 
 どうやらこれは、付属品類がセットにして別売りとされているため、それを言われるままに購入しないお客さんには、通常買うべきものを自分の意志によって買わないのだから、その結果何も付かないのは当然のことですよという、ほとんど懲罰的仕打ちのようにしか見えません。インシュレーターでさえそうなのですから、送料がサービスであるはずもなく、もちろん数万円也の費用をキッチリ請求されたということです。
 ここまで徹底したサービスゼロ精神が、鋼鉄の意志のように徹底して貫かれているのは、マロニエ君の知る限りでは他に思い当たるものがなく、そんじょそこらのお役所も顔負けの凄味を感じます。
 こうなると金額の問題というより、そもそも根底のところで大変な考え違いをしているようにしか思えませんし、これはお客さんの心証というものをまったく蔑ろにしているという重大性に気がつかないのだろうかと思います。
 
 まだあります。
 初回の調律が無料なのは業界の常識ですが、よほど距離があるとか僻地などならまだしも、市内中心部のロケーションにもかかわらず、「無料調律にも出張費用が発生」するのだそうで、数千円を別途請求されたというのですから、ここに至って、なんだか意味不明の残酷物語でも聞かされているような気分になりました。
 知人は驚いて、初回の無料調律なのに出張費がかかることへの疑問を投げかけたそうですが、その答えというのは、さすがにここに書くのも憚られるようなお粗末きわまりない内容で、誰が聞いてもウソだと思えるようなものだったようですが、もはやそれ以上の追求はされなかったようです。
 
 さらにはこのプレミアムピアノには、それに見合った格上のプレミアムな調律師が必要ということで、一回の調律費用もプレミアム料金、これに上記の出張費が加算され、さらに4月以降の消費税アップを想定すれば、通常の調律のたびに最高額紙幣が3枚ずつ消えていくことになります。これは調律料としては世界の名器さえ凌ぐ、マロニエ君の知る限り最高クラスというべきで、これでは良識と思考力をもったまともなお客さんなら、とても納得も定着もしないだろうと思います。
 
 しかもこれは裏を返すと、レギュラーシリーズのグランドを買っても、上級の調律師が来てくれる望みはないという逆説のようでもあり、いずれにしろ良い感じは受けません。プレミアムのほうを買ったお客さんには良い調律師をオススメし、該当技術者を優先的に派遣するというのならわかりますが、安いほうのピアノにはそれなりの技術者しか行かせないとメーカー自ら言っているようなものでしょう。
 
 もし技術者の格で調律費用に差をつけるのであれば、ピアノで分けるのではなく、お客さんの意志で「松」か「竹」かを選べるようにすべきではないかとも思います。お客さんのニーズもいろいろで、プレミアムを買っても調律は「竹」でいいという方もあるかもしれないし、レギュラーでも技術は「松」を求めたいという方もいらっしゃるはずです。それを決めるのはあくまでピアノの所有者ではないでしょうか。
 
 ピアノに限ったことではありませんが、高額商品を販売するということは、お客さんには広義での満足を売るのが販売側に科せられた商売の道義であり、どんな業種でもそのあたりの上質な対応や心得までを含めてはじめて老舗であったり一流店であったりするものです。その点でいうと、どんなに立派なピアノを作って、美しいカタログには歯の浮くような言葉を並べても、現実という扉の向こうで展開されるやりとりを聞かされると、所詮は○流会社だなぁとマロニエ君も期待しているメーカーだけにひどくがっかりさせられました。
 
 聞いていて、自分だったら絶対にそんな不愉快な店(メーカー)では買わないと強く思いましたし、その方もけっきょく不快感だけが残り、念願のピアノが届いてもまったく嬉しくなかったというのですから、こんな馬鹿な話があるだろうかと思うと同時に、結果的にお客さんをこんな気持ちにさせるようでは、今風にいうとメーカーのコーポレート・ガバナンスがめちゃめちゃというべきでしょう。
 
 ここまで書いたところで、ネットであれこれ調べてみると、ある大手のピアノ販売会社では、メーカーがここまで一貫して拒絶しているにもかかわらず、まったく同じシリーズ(もちろん新品)が、あっけなく値引き対象にされている事がわかりました。確認のため問い合わせをしてみましたが、果たしてその値引率は笑えないレベルのものでした。さらには上記のような付属品については「高低自在イス、キーカバー、クリーナー、クロス、インシュレーター」が(内容が少し変わるものの)無料でサービスされているようで、メーカーが声高に主張するこのシリーズの購入金額がいかなる場合でも同一であるという事実は早くも崩れたことになりますし、素人が簡単にネットで知ることができるものですから、 これをメーカーが知らないとはまさか言えないでしょう。
 
 マロニエ君はこれまで、日本製の新品ピアノを買うとしたら、やはりメーカーの直営店から購入するのが好ましいだろうと、特段の根拠もなしに思っていましたが、こういう実情を耳にすると一気に考えが変わってしまいました。
 
 ピアノを買うということは、購入時に気持ちよく商談や交渉ができることはもちろん、その後のサービスについても「安心」を買うようなものですが、これではまったく期待も安心も得ることはできないようです。
 高い技術をウリにしている専門店で買うか、はたまた安さを求めるなら価格で勝負する店で買ったほうが、どれだけキッパリ筋が通っているかわかりません。
 
 ちなみに、マロニエ君が懇意にしてもらっている技術者の方の中には、ご自身の工房とショールームを持たれて、大半は国産の中古ですがグランドからアップライトまで幅広く販売されています。しかも、どのピアノも例外なく惜しみない手が入れられ、中古でも外観は新品に迫るような美しさを持っていますし、とりわけ内部の整備は徹底して調整が施されています。それでいてアップライトの安いものでは20万円を切るものからありますが、必ず椅子、キーカバー、クリーナー、クロス、インシュレーターなどは新品が無料でサービスされますし、送料も一定距離の一階搬入分までが含まれているという、メーカーが見習ってほしいような驚くべきものです。
 
 こういう良質のピアノ店は次第に評判を呼び、多くの支持を得ていきますが、それにひきかえメーカーの体たらくと殿様商売ぶりには驚くばかりです。現代は良くも悪くもネットの時代で、情報が社会の主導権を握る時代ですから、こういうことを続けていれば、次第にとりかえしのつかない事に発展するのではという気がしてなりません。
 
 マロニエ君の私見ですが、商売繁盛の要のひとつはお客さんによる自主的な「口コミ」だと思います。これに勝る宣伝はないといっても過言ではありませんが、上記のような対応では決して発展的な良い噂が伝播されることはないことは明明白白で、その気がある人でも気持ちが萎えてしまうでしょう。
 
 
▲追記
 メーカーがおこなう調律やメンテには、技術レベルの保証と適正価格を含めた「安心」がセットで期待されており、当然それに応えるものであるべきだと思います。しかるに料金は高値水準かつ出張費などの請求をされるなど、その後も虚心に再考してみましたが、やはり一定の違和感を払拭することはできませんでした。
 というのもピアノはもともと所有者が持ち運びできない故に、技術者が出向く以外に選択肢がないという否応ない事情があり、これは家を動かせないのと同じです。
 
 そういう性質のものを製造・販売しながら、初回の無料調律からいきなり出張費を請求するという感性にまず違和感を覚えます。「無料なのは初回の調律の『作業』だけであって、出張の労には適用されませんよ」という意味以外のなにものでもありません。初回調律は、長いお付き合いになる技術者との初顔合わせでもあり、「これから先どうぞよろしく」というご挨拶の意味も大いにあるとマロニエ君は思います。その機会にさっそくドライな事実を突きつけられれば、相手は驚き呆れ、先行き不安に陥るばかりで、これを好意的に受け止めるのはかなり難しいと思われます。
 
 そもそも無料調律というものは、搬入されたばかりの不安定なピアノを、ひとまず当たり前の状態に整えるという意味があるとすれば、買ってくださったお客さんに本来の正しい状態の商品としてのピアノを一度まず提供するという意味で、これはメーカーの義務でもあるとも思います。つまりこれは突き詰めれば当然のことなのであって、サービスですらない。
 そんな段階から出張費を請求したところで、会社がどれほど潤うとも思えません。ここにこの会社の「何が得で、何が損なのか」という判断があまり機能していない体質が現れていると思います。
 
 ちなみに家を建てるのはもちろん、何らかの工事やリフォーム等をしても、その後のメンテやちょっとした用件があれば、すぐに施工業者はやってきてくれますが、そこでいちいち出張費などといわれたことはただの一度もありません。
 自動車業界では(それがたとえ安いコンパクトカーでも)、定期点検やオイル交換などでも、すぐに車を引き取りに来て、作業が終われば納車に来てくれます。そのためには2人が1台の車でやってきて、引き取った車と2台で帰り、完了後はその逆で車を届けて帰っていきます。これを件の調律の出張費の流儀で云えば、2人の社員が会社とお客さんの家を2往復するわけで、その移動にかかるエネルギーはピアノの比ではありません。にもかかわらず、このための費用などは一切請求されません。ことほどさようにユーザーの心を繋ぎ止めるべく、どこも一様にがんばって努力しているのです。
 
 ピアノでも、調律その他でいろいろな技術者が来宅されたことはこれまで数知れませんが、そこで出張費なるものを請求されたことはほとんどありません。会社の料金システム上、やむなく請求されることがあってもせいぜい千円程度です。
 もともとピアノ技術の仕事は、大々的な修理などを別にすれば、通常は技術者のほうが動くのは自明であって、いうなれば日々移動することもピアノ技術者の仕事だと考えるのが自然です。出張などと尤もらしい言葉を使わずとも、工具鞄ひとつ手に提げて動くのは彼らの仕事の日常であって、そう大げさなことではないと思います。さらに一件につき最低でも1~2時間、場合によっては丸一日かかる仕事になりますから、通常の営業職などよりむしろ移動量は少ないぐらいではないでしょうか。
 
 もちろん、そこに出張費を加算して請求することが不当であると言い切ることはできません。しかし、少なくとも自分の仕事や信頼を大事にする良心的な店や技術者は、お客さんの心証というものを大切に考えるはずです。
 
 マロニエ君は遠方の技術者さんともご縁があって、そういう方々にお出でいただいたことも数多くありましたが、どなたも出張費など口にもされず、むろん請求もされません。それは(想像ですが)仕事に対する認識とプライドでもあるのだろうと思います。もっと直截的に云うなら、仕事に赴くにあたっていちいち出張費を取るという、いかにもがめつい感じの マイナスイメージを背負いたくないという考えもあるかもしれません。
ピアノに限りませんが、プライドのない仕事をする人に限って、支払い時にあれやこれやと名目をつけて少しでも請求金額の嵩上げをしようとする印象があります。
 また、本文にも書きましたが、よほど遠方であるとかアクセスが困難というような客観的事情があれば別でしょうが、少なくとも街の中心部のお宅を訪問するにも一律3千円(距離によってはそれ以上)の出張費というのは、やはりどう考えても驚きです。また距離の算出方法は「各拠点からの距離」となっていますが、これもいかがなものかと思います。会社側の都合によって街の中心部から大きく外れたロケーションに店舗を作っておいて、そこを起点に距離を算出するというのはあまりに一方的というべきで、こういうルールはメーカー内のどのような過程を経て精査され、決定されるのか、甚だ疑問です。
 
 また、ピアノは調律や整調したあとから、「どうもこの音が…」「ここのタッチが」というような微調整を必要とする場合がありますが、毎回3千円也の出張費がかかるとなると、うかうか呼べないという気分にもなると思います。そういうことが積み重なると、だんだんに技術者とも疎遠になって、ピアノのコンディションも妥協的なものになりがちではないだろうかと危惧されます。というのも好ましいピアノの状態を作り出すことは、技術者との密接な関係なくしてはあり得ないからです。
 
 ちなみに、フリーの調律師さんがどのような料金システムを構築しようと、そこは自由度が大きく違うと思いますし、依頼する側も事前に納得の上であれば問題ではないでしょう。しかしメーカーからピアノを購入すれば、メーカー直属の技術者によるメンテが不可分のものとして付帯してくるわけで、そこに納得や安心が得られないことは、お客さんにとっては甚だ不幸なことです。
 もしも、これを自分の意志と判断によって断ち切り、あえて別の技術者に後のケアを依頼するというのは、よほど腹を括ってからでないとできることではありません。
 
 しかし、このメーカーが随所でみせたお客さんの心情を一切寄せ付けない、有無を云わさぬ対応ぶりは、その「よほどの腹を括らせる」に充分だったようで、その方は今後は別の技術者にピアノを任せることも検討中といいますから、それもむべなるかなという気がします。
 この一連の対応でメーカーが頑としてお客さん側へのサービスや譲歩を拒んで、一部金銭的な請求をしたのは、全部合わせてもたかだか1万円相当ぐらいのものだったのでは?というのがマロニエ君の印象です。金額的にはたったそれっぽっちのことですが、要は金額の問題ではないというのがこの話の本質なのであって、お客さんの心は著しく傷つき、掻き乱され、癒しがたい不快感に苛まれました。ひいてはこのメーカーに対する失望の念に溢れてしまったのですから、経営側から見てもこんなばかげた、損得の引き合わない話はないはずだと思います。
 もはやこの方が自分の知り合いなどにこのメーカーのピアノを推奨することは絶望的ですし、ご当人も二度と購入することはないと断言しています。
 
 ピアノメーカーにとって、自信をもって販売できる高品質のピアノを作ることはなにより大切なことで、立派な製品の存在は社員の士気も挙がることでしょう。だからといって、その「自信」が進む方向を間違えて、お客さんの心情に対する配慮まで蔑ろにするようではあまりにお粗末というものです。試弾、商談、納品、アフターケアという一連の流れの中で問われる接客姿勢やサービスの質も、正しい意味でピアノの品質に見合ったものでなければ、せっかくのピアノが泣いてしまいます。
 
 サービスというものは、もちろん金銭的物質的な側面もありますが、本質的にはお客さんの気持ちになって事を進めようとする、接客の人間性だとマロニエ君は思います。

調整と管理

 昨年のことですが、見知らぬ方からメールをいただきました。
 半年ほど前に購入されたピアノの調子が思わしくなく、何度お店に訴えても解決してもらえないので、とうとう購入店のフォローに見切りをつけ、ネットで解決のための調査を開始されたとのこと。その過程でこのホームページにも行き当たられたということでご連絡をいただき、意見を聞きたいというものでした。
 
 大変光栄なことですが、いうまでもなくマロニエ君は専門家でも技術者でもない一介の素人です。単なるアマチュアのピアノ好きですから、これという適切かつ責任のもてるアドバイスは出来ないし、その資格もないことをお伝えした上での、あくまで一般ピアノユーザー間の雑談としてのやりとりとなりました。

 メールのやりとりから始まり電話でも話をしましたが、それによれば半年ほど前に、ある名器と呼ばれる素晴らしい某アップライトピアノを購入されたものの、期待に反して部分的に抜けの悪いこもったような音および音域があり、何度か購入店にそのことを言われたそうです。その結果なにかしらの作業はやってくれたらしいのですが、とうてい納得できるような結果には至らず「これ以上は無理です」という最後通告を告げられるに及んで、ピアノとはそういうものだろうか?というのがお尋ねの主旨でした。

 繰り返しますが、マロニエ君は専門家ではありませんし、ましてやそのピアノを見たことも触ったこともないのでなんとも言いようがありませんでしたが、それでもあれこれと伺った話を総合すると二つの問題に行き当たるように思いました。
 至極当たり前の話で恐縮ですが「調整」と「管理」の問題です。

 とくに調整は技術的な問題もさることながら、多くの場合、お店および技術者の良心の問題が絡むことで、一部の不誠実な販売店の中には面倒臭い調整などやりたがらず、だから当たり前のように状態のすぐれないピアノがそのまま購入者の手許に届けられるという悪しき慣例があようです。もちろんそうではないところもありますし、お店もあまりナメたことをしていたら信用にもかかわるので、きちんとした販売姿勢を貫くお店があるいっぽう、中には残念ながら感心できない店および技術者が一部には確実に存在しているようです。シロウトはピアノの音やタッチなどわからないと高をくくっているのか、できるだけ手間暇をかけずに利益だけを追求するお店があるのは事実です。

 かたやピアノの管理というのは、主には温湿度の管理ですが、こちらはいうまでもなくピアノの所有者側の責任です。この方はこの点ではあまり熱心ではなかったようで、なんと音によってはハンマーが戻ってこないものがあるらしく、もともとの調整も良くなかったのでしょうが、それに加えて管理の問題が追い打ちをかけたようにも感じました。あまりにも当然すぎる結論ですが、でもやはりそうだろうと今でも思います。

 どうやら購入されたお店というのがいろいろな楽器を取り扱う総合楽器店で、ピアノの専門店ではないようでしたし、聞いてる限り優秀なピアノ技術者がいるような感じではなさそうで、この種の店では込み入った整調や整音はほとんどしない(できない)場合が少なくないので、大いにその可能性はあるだろうと思いました。
 邪推すれば、通り一遍の調律だけをする調律師がいるか、あるいはメンテ関係は、お店のいいなりになる外部の技術者に委託していて、一定以上の料金の発生する正しい修理・調整はせず、なんとか対症療法で凌いで、そのうちにお客さんが諦めるのを待つという思惑があるのかもしれません。

 しかし、その方にしてみれば、買ったお店からやってくる技術者からそこまで言われることは甚だ無念だったことでしょうし、長い時間苦しまれたようでした。追いつめられてか、状態の良いとされる名器とはいっても、しょせんは中古なので解決のためにはオーバーホールをしなくてはいけないのだろうかとまで真剣に考えられたそうです。しかし、聞けばもともとあまり弾かれていないピアノで、内部はとてもきれいなのだそうで、ハンマーなどは真っ白とのことですから、マロニエ君としても話の感じからして、いきなりオーバーホールが必要とは思えませんでした。そもそもピアノを売ってわずか半年で、お客さんにそこまで拭えぬ不満を感じさせるお店というのも、正直いかがなものかと思いました。
 ちなみに別の店で試弾された同メーカーのピアノではまったくそのようなことはなかったらしく、ではなぜそちらを買われなかったかというと、現在のものよりもグレードが低いモデルだったので、どうせ買うなら良いほうをというお気持ちだったそうです。

 大きな買い物をするときは、単純にこういう心理が働くのはわかりますし、グレードの上下に影響されて決断してしまうということも通常ありがちなことだと思われます。
 お店側もこういう部分につけこんで、視覚的にきれいで立派な商品に見えるよう、見た目ばかり磨き上げて商談をまとめ、売れればただちに運び出し、あとはササッと調律をするだけという、よくあるパターンだろうと思われます。これにあまり好ましくない管理環境が追い打ちをかけることで、ピアノは本来の実力とはかけ離れたコンディションに沈んでしまうことも大いにあると思われます。
 目先の利益だけを追い求めがちなお店にしてみれば、おそらくピアノの調整ほど手がかかって儲けにならないものはないわけで、そもそもピアノの音や調整結果には絶対の基準もないため、これはほとんどお店のプライドと良心の問題につきると思います。これと逆なのが見栄えの良さで、誰の目にもわかりやすく見える部分をピカピカに仕上げることは、お客さんの購買意欲に直結することなので、この点だけは突出して力を入れるのだろうと思います。

 あとは音が出ない、キーが戻らないなど、誰にもわかる故障だけはないようにしておいて、それ以外は現状で押し通してしまうというもの。とくにピアノを初めて購入するお客さんだったりすると、判断力は無いに等しく、ほとんどがお店の言いなりになってしまうことも、こういう不誠実な状況を作り出しやすい一因だと思われます。


 そもそもピアノの内部の、楽器としての領域の精魂込めた調整というものは、大変なわりにやってもなかなか理解されない部分でもあり、販売者/技術者としての道義を別にす、しないならしないでも済んでいく類と割り切ってしまえば、それで済んでしまう場合も多いのかもしれません。
 いくら誠実な仕事をしてもそれが相手に評価され理解されなければ、ビジネスとして成り立ちにくいということも裏事情としてはあるでしょう。

 買いにくるお客さんにしても、これという明確なピアノの音色の好みや、良し悪しを聞き分けるだけの豊富な経験、もろもろの判断力を持った人のほうが圧倒的に少数派であって、大半は判断基準さえよくわからない、お店の説明や身勝手なトークを素直に信じるタイプだと思われます。中には価格ばかりにこだわって、コンディションそっちのけでちょっとでも安い方に流れてしまう相手もあるでしょうから、このあたりはなかなか難しいところではあると思います。

 いっぽう、ピアノに於ける温湿度管理の意識というのは、なかなか理解・実行されることが難しく、温湿度計を買い込んで、これを許容範囲の数値に保ち、さらには年間を通じて維持していくのは、よほどのピアノ好きでもない限りなかなか実行は大変です。当然ながら、エアコンや除湿器などを作動させるにはコストもかかりますが、だれしも生活はあくまで人間様が主役で、ピアノ中心ではないので、すぐにこれを実現するのは難しい面があると思います。
 ピアノ店でも、年間を通じて温湿度管理をやっている店のほうが珍しく、お客さんにはその必要を説きながら、自分の店では人間のための空調以外はなにもしないところがたくさんあります。

 まさに『言うは易く、行うは難し』でしょう。
 知り合いの技術者さんによれば、温湿度管理を「やっている」と自認するピアノを生業とする方やプライベートホールのオーナーのような本格派でさえ、どんなに口を酸っぱくして云っても普段は何もせず、ピアノを使うときだけエアコンや除湿器を入れるのだそうですが、それではやっていないのとほとんど同じです。
 日頃の自分のそんな管理は棚に上げて、あとからあれこれとクレームをつけてくるのもこの手合いのようで、ある方は曰く「魚の産地や鮮度だけはやたらとうるさいくせに、買った魚を冷蔵庫にも入れずに放っておいたら鮮度が落ちたと、それを売った魚屋のせいにするようなもの」というのは、あまりにその通りで爆笑したことがありました。

 良いピアノを手に入れると云うことは、良いピアノとして維持していく ことでもあります。購入するための資金と置く場所以外にも、そのピアノを健康な状態に維持できるだけの、最低限度の認識と覚悟がなくてはせっかくの良いピアノも、しだいに不健康な問題児になっていくようなものといったら言い過ぎでしょうか。
 むかし作家の曾野綾子さんが「犬を飼うなら、最低でも10年はいかなることがあっても飼い続けるだけの覚悟がなくては飼うべきではない」とおっしゃったそうですが、まさにその通りで、もちろんピアノは動物ではありませんが、すくなくとも家具や電気製品とは根本的に違うわけで、所有者の管理の仕方にもその人の文化意識や価値観が投影されるのは確かです。

 マロニエ君の知る技術者さんのひとりはひじょうにおもしろい考えの方で、調律その他の技術料は、お客さんのピアノ管理の状態によって決めるというのです。日頃から温湿度管理をきちんとやっている人のピアノの場合は安くなり、そうでない場合は高くなるというものです。これは別にピアノ管理の悪さに対する懲罰的な価格を請求するというのではなく、管理の悪いピアノほど状態も悪く、それだけ作業にも手間ひまと時間がかかり大変だからという至って合理的な理由によるもので、ある意味当然の料金設定なのです。

 しかも驚くべきは、ピアノを何らかのかたちで生業とする先生やピアニストにも、一向にこの温湿度管理を実行しない方が少なくないようで、ピアノはことほどさように楽器として慎重に管理されることが少なく、そのくせキーを押せばちゃんと満足な音が出てくるのが当たり前、そうするのは調律師の責任というふうに捉えられていることが多いのは呆れるばかりです。ガソリンさえ入れれば故障知らずで走ってくれる日本車のように、年に一回調律さえすればあとは問題なく使える道具と信じて疑わない認識なのかもしれません。

 こういう人は長年ピアノとそういう付き合い方をしてきているので、いまさら温湿度管理といわれても、果たしてコストをかけてまでそれを実行するのかとなると、体質的感覚的習慣的経済的なものが邪魔をして結局はできないと思います。しかも温湿度管理には終わりがありません。極論すれば1年365日なのですから、「たかがピアノ」のためにそんなことやってられるか!という気持になるのもわからなくはありませんが。
 でも、不思議なのは、それをやったとしてもべらぼうなコストがかかるわけでもないのに、それはあくまで不実行。そうかと思うと、中古でさえ何百万もする高級ピアノは買いたがったりするのですから、まったく理解に苦しみます。モノとしてのピアノは大枚はたいてで
も欲しいけれども、その管理には僅かでもコストをかけるのはいやだというわけです。
 関係ありませんが、自分はベンツに乗っているのに、子どもの給食費を払わない親がいるというような話をつい思い出してしまいます。

 これが車なら車両代金以外にも購入時から登録諸費用はかかるし、乗れば常に燃料を消費し、毎年の税金、保険料、さらに故障をすれば数万円単位の修理代がかかることも稀ではありません。タイヤも減ったら交換し、2年に一度は車検があり、果たしていくらになることやら。それに較べれば、ピアノの管理費なんてものの数ではないぐらい安く済むものなんですが、それでもなかなか実行されないようです。


 誤解無きように云っておきますが、冒頭に書いた方がそうだと云っているわけではありません。書いているうちにだんだんに話が一般論に逸れてきたというだけで、その方は早速にも除湿器を回されているようで、その限りではありませんので念のため。

 話を戻しますと、現実的な妥協策としては「ダンプチェイサー」というすぐれものがあり、ピアノの中に取りつける棒状の除湿装置で、料金も2万円弱、取り付けも簡単(自分でもできます)で、電気代もたしか年間数百円というものなので、まずはこれを取りつけられることをお薦めしました。とくに中がむき出しにならないアップライトでは効果が大きいようです。

 多くの技術者の方はダンプチェイサーの効果を認めておられ、ご自分のお客さんにも推奨されているようですが、中にはどういうわけかこれがめっぽう嫌いで、断固として否定される方もあるのも事実のようです。
 マロニエ君のピアノは温湿度管理もした上で、このダンプチェイサーも使っていますが、それによって調律もどうかすると2年ぐらい経っても狂いが非常に少ないというようなことがあります。

 また、調律が狂わないと云うことは、単にそれだけに留まらず、あの複雑なアクションも多湿や温度差によって受けるダメージが少なくなるということでもあり、総合的に見るとコスト面はもちろん、ピアノが健康で弾くのが楽しくなれば気分的にもその効果は決して小さなものではありません。
 というか、「いい気分」「良好な状態」というのもは、直接の数字にはあらわれませんが、大変なコストに匹敵するものだと思います。

 調律が狂う要因はいろいろあるとしても、最大のものは温湿度の変化によるもので、季節や天候、ホールなら楽器庫とステージの温湿度差、あるいは空調による変化、あるいは照明、いずれもそれによる温湿度が原因だろうと思います。これはピアノを持ち運びする巨匠クラスの専用ピアノと随行の技術者にとっても例外ではなく、朝イチにピアノを会場に運び込んでも、会場の温湿度にピアノが順応するまでは調整も出来ず、ひたすら待つしかないようです。

 これも技術者さんから聞いた話ですが、さる有名な日本人ピアニストの自宅にあるスタインウェイを備えた練習室は温湿度管理が徹底していて、24時間365日一定に維持されているので、ピアニストの猛練習にもピアノはびくともせず、よって調律もほとんど狂わないのだとか。この話の真偽のほどは確かめようもありませんし、多少の尾ひれはついているかもしれませんが、まあそれぐらい温湿度管理はピアノの健康を左右するということの証明ではあると思われます。

 いっぽう、素晴らしい調整を期待するなら、購入時の店選びを慎重にすることですが、これはなかなか業界の人が言うようにスムーズにはいきません。気に入ったピアノの在庫のタイミングもあれば、自宅との距離、判断の未熟さなど、そうそう他人が云うほど思い通りにはいかないものです。
 そして購入店の技術に不満があれば、最終的には別の技術者に頼るより他はありません。ところが、こういうことだけはいやに遠慮深くなったり気を遣ったりで、「違う人にやってもらったらお店に悪いのでは…」というようなことをひどく心配される方がいらっしゃいます。

 それもわからなくはありませんが、ピアノは適切な調整あってのものであり、その点で満足できない購入店に変な義理立てをして、いつまでも不本意な状態のピアノを弾き続けることは、これこそナンセンス以外のなにものでもありません。何度か依頼してみて、どうしても一定の結果があげられない場合は、思い切って技術者を変える以外に道はないというのがマロニエ君の持論です。
 それでも尚、その決断が下せない人もいらっしゃいますが、誠意のない(技術のない)購入店になぜそこまで気兼ねしてガマンするのかがまったくわかりませんし、忘れてはならないことは、購入したピアノはもはや自分の所有物であって、自分の楽器を誰に調整してもらうかは自分が決めることであるし、それはまさしく所有者の自由だということです。
 ピアノの販売店や技術者とはできる限り良好な関係を保ちたいという心情はわかりますが、しかしお友だちではないのですから、そこは一般的な人間関係と混同しない方が賢明だと思います。

 そうかといって、むやみやたらと技術者を変えるのもどうかとは思いますし、要は程度問題というべきでしょう。

 ただし、技術者選びは意外に難しいものです。ネットで探すのもひとつの方法ですが、本当に優秀な技術者さんはネットではヒットしないともいわれており、よさそうな店を探して出向いてみて、それとなく技術者を探している旨を聞いてみるのもいいかもしれません。いいピアノ(高級品ではなく、よく調整されたという意味)を置いている店はやっぱり良い技術者を知っているものですし、技術者自身が経営するお店も珍しくありません。
 ちなみにマロニエ君だったら、間違ってもピアノの先生などに良い技術者の紹介は頼みません。もちろん例外はいらっしゃるでしょうが、例外はあくまでも例外であって、多くの場合、ピアノの先生ほどピアノという楽器のことがわかっていない人達もいないということを経験的にもよくわかっているからです。楽器のことでピアノの先生を頼みにするのは、ピアノに対する認識の根本的な誤りのはじまりといってもよく、これだけは避けた方が賢明だとマロニエ君は強く言いたいです最近はあまり機会もありませんが、ピアノの先生のところにあるピアノの管理の悪さは驚くばかりで、はっきり言って耳を疑います。これにくらべたら素人のほうがよほど素直な耳を持っているというべきで、根気よくピアノ店をまわったりしていれば、たちまちピアノの先生以上の判断力が備わると思います。

 またピアノを持つ知り合いなどに聞いてみるのもひとつの方法ですが、その場合の信頼度は、相手がピアノのことをどれぐらいわかっている人かということに尽きます。ただなんとなく某さんに来てもらっていて、「親切で丁寧でいいみたいよ」ぐらいの情報ならあまり信じない方が賢明です。

 最終的には自分で判断するよりないことで、少し時間がかかっても探しながら何人か試してみるうちに、必ず自分に合った技術者と出会えると思います。

 いいピアノの条件としては、もちろん好ましいメーカーによって製造された優れたピアノであることは極めて重要ですが、それに肉薄するほど重要なのは良い技術者との関係で、彼らはいわばピアノの生殺与奪の権を握っているといっても過言ではありません。ピアノは良い技術者なしには良いピアノとして機能しないという絶対的な定理があってこれは肝に銘じるべきです。ところが一般的な認識では、物としてのいいピアノは欲しいけれども、技術者の重要性という点になると、これをあきらかに実質より低く見ている場合が多いようです。
 かくいうマロニエ君自身も昔を思い出せば、こういう認識をほとんど持っておらず、ただメーカーから定期的にやってくる調律と、そのついでにおこなわれるちょっとした調整で十分なのだと思っていました。そこに変化が起こったのは自分が本当に好きなピアノを買ったことで、そこからいろいろな技術者の方と出会い、さまざまな経験や認識を得ることになったに過ぎず、偉そうなことは言えないのです。

 誠実な技術者の手が入ったピアノは弾いていて豊かで幸福な気分になれるものですが、調整を受けていない、もしくは志の低い技術者によってただ調律だけされている類のピアノは、どことなく不健康で不幸な感じのピアノになっているものです。

 どんなに立派な血統書つきの高価な犬でも、きちんとした躾と健康管理をしなくては、ただのがさつで野放図な駄犬にすぎないと云われますし、雑種でもきちんと愛情をもって飼われた犬は利口で、飼い主に従順でなんともかわいいものです。

 ピアノの管理というものは、いざやってみればそれほど大変というわけでもなく、技術者も一度良い方と出会っておけば、あとは継続していくだけなので、この二つが揃ったらピアノは相当御機嫌になりますから、ぜひ実行されることをおすすめします。
 もちろんマロニエ君がやっている管理はほどほどのものでしかなく、もしこれを徹底させようとすれば際限がない筈で、とてもそんなことはできません。しかし、何もしないよりは、ほどほどでもやらないよりピアノはずっと健康になることは間違いありません。

 一般的にピアノの湿度管理では50%~70%あたりが推奨の目安となっているようですが、マロニエ君の場合はこれは経験的自己基準で40%~55%あたりとしています。年間を通じてこの数値内に収めるというのはそれなりに骨も折れますが、できないことではありません。

ディアパソン210E-6

 我がディアパソン210Eは、オーバーホール後10ヶ月が経過しました。
 
 弦やハンマーなどはますます楽器との馴染みが出てきたように感じられ、ピアノ自体も我が家の環境に慣れてきたのか、基本的にきわめて快調、元気で良く鳴るのはまったく喜ばしい限りです。
 ところが、そんな嬉しさを台無しにするほどの深刻な問題にずっとつきまとわれ、未だに解決の糸口さえ見えないことには参りました。
 
 その問題とは、人とピアノの最も直接的な接点であるところのタッチがどうしようもなく重いことです。しかも、あれこれの調整を試みるも好転に至らず、逆に深みにはまっていくようで、このままではこのピアノはピアノとしての価値や存在感を充分に発揮できそうにもない状況に突入しているようで、なんとも残念としかいいようがありません。
 
 軽くするための考えられる手段は、技術者さんを通じてあれこれやっていただきましたが、あちらを立てればこちらが立たずという感じで、一向に解消には至りません。要するに問題の核心は根本的なところにあることは疑いようもなく、その根本に手をつけずして、際限なく対症療法ばかりを繰り返してもムダだということがいよいよはっきりしてきたのです。
 
 大きな問題は2つで、1つはオーバーホール時に交換したレンナーのハンマーがこのディアパソンのアクション特性に対して大きすぎ(厳密にいえば重すぎ)ることで、このためにキーのダウンウエイトが決定的に重くなっていること。もうひとつはシュワンダーアクションが有するシングルスプリングのウイペンであるため、もともとの機能にも制約があり、ハンマーの重さに対応する調整機能枠が不足すること。いわばこの機構の宿命的な部分であり、それもあって世の趨勢がヘルツ式アクションに移行したのも自然な成り行きだったと思われます。とりわけ技術者間ではシュワンダーは構造的にまったく無価値のように捉えられている気配さえあるようです。
 
 解決策の一案として、ウイペンをヘルツ式のダブルスプリング方式に交換することを提示されてはいるのですが、マロニエ君はもともとシュワンダーアクションのもつ繊細でしっとりしたタッチのフィールが好きなので、これを現代的なヘルツ式に交換すれば重さの問題は一気に解決するとしても、同時に普通のピアノのタッチになるわけで、なかなかそこが踏み切れません。
 さらに、ヘルツ式アクションを持つピアノは別に所有していることもあり、ディアパソンはシュワンダーのまま温存しておきたいという考えもあるわけです。
 
 ちなみに、シュワンダーの良さはタッチがしっとりして、そのやわらかなタッチ感は弾く者の気分まで影響を与えるものだと感じます。具体的にはキーの下がり始めが軽く、下に行くにしたがって重くなる特性があり、これによって弱音域の微妙なコントロールがしやすいことと、ゆったり弾くぶんには歌うような演奏がしやすくなりますし、トリルなどもまるで笛で吹くようなまろやかなトリルになります。これに対してヘルツ式のアクションではストンと落ちるタッチでキーの戻りも早く、バリバリ弾ける人にとっては運動機能が高いのでこちらを好むほうが一般的なようです。
 
  ヘルツ式になればキーの重さも解決でき、同時に戻りなどの追従性が増すのでタッチの機敏性も向上するし、調整も俄然しやすくなるようです。しかし、それと引き換えに、あのなめらかな流れるようなフィール、ピアノと奏者の間をつなぐなんともいえない一体感のようなものは失われ、極論すれば、このピアノの楽しみが大幅に削り取られることが危惧され、それがどうしてもひっかかります。
 ちょっとした違いといえばそうなのですが、楽器のタッチというものは、ちょっとしたことがまさに一大事なのであって、やはり軽々に見過ごして判断することではないと考えなくてはなりません。
 
 尤も、言葉だけ繊細なタッチコントロールなんて言ってみたところで、現状は指に抗うような重さの甚だ弾きにくいタッチでしかなく、繊細さもへったくれもない状態なわけですから、とてもシュワンダ―の良さを享受できているとは言い難いのも正直なところ。それにくらべればヘルツへの変更はさしあたり遙かに好ましい結果が得られるだろうことは予測されようです。わずかのことに拘って、大事なことを失っていると云われたら確かにそこは否定はできません。
 それでも気が進まないのがやっかいで、ここで常套的な妥協をして、あとでまた後悔するような局面になったときにのことを考えると、やはり軽々な判断はできません。これが公共のピアノなら最大公約数的な価値が求められるのでそれでいいでしょう。しかしこのピアノはマロニエ君の個人所有の趣味のピアノであって、にもかかわらず趣味性で譲歩していては趣味道そのものを否定することになります。
 
 実は技術者さんも、ご自身の工房に2台の性格の異なる古いグランドをお持ちで、そのいずれもがシュワンダーなのですが、以前からそのタッチがお好きではないのだそうで、近い将来2台ともヘルツへ交換される予定だそうです。
 マロニエ君は何度もこの2台を弾かせてもらっていますが、率直にいってどこが悪いのかと首をひねるばかりなのですが、人の好みや納得するポイントというのは様々で、微妙で、実に難しいところです。とくに技術者の方は、ピアノをどうしても技術的機能的な側面から見られるので、機械として欠陥の多いこのシングルスプリングは技術者としての価値観と生理に合わないのだろうとも推察されます。
 
 しかし、マロニエ君としては、確たる根拠もないけれども、シュワンダーのアクションを持つピアノは、その発音機構で鳴らして演奏するほうが、そのピアノの良さや、味わい、音質など、いろいろな要素にけっきょくのところ適っているのではないか?という漠たる考えが残ります。
 これは決して懐古趣味を弄んでいるわけではなく、新しいものでも良いものは良いわけで、そこに中途半端な情緒論を持ち込むことが正しいかどうかはわかりませんが、昔のピアノと今のピアノでは音作りに対する感性も異なり、ピアノが生まれ持った性格や時代背景もあるわけで、アクションだけを今風にして現代のピアノ同様にバンバン弾けるようになっても、それが果たして本当に正解なのか…マロニエ君にはわかりません。
 ただ一つ思うことは、昔のピアノには昔のピアノの成り立ちと流儀があって、それが全体のバランスにも大きく寄与しているような気がするということです。それほど楽器というのは深いところの微妙なものが全体に波及し司ることもあるわけで、その原点を尊重することも大切なような気がするのです。
 
 最近たまたま読んだ本にありましたが、古いレコードのコレクターに云わせると、蓄音機には蓄音機ならではの良さがあって、表現の幅は狭いけれども、出てくる音には豊かな倍音と独特の生々しさがあって迫ってくるものがあり、それは後年のレコードや再生装置では決して味わえないものだと述べておられたのは非常に印象的でした。
 
 マロニエ君としては自分なりの考えとして、設計された基本のバランスというものは欠点も含めて尊重し、可能な限り崩すべきではないという原理原則があるような気がするわけです。これは建築でも美術品でも車でも、あらゆることに共通する定理みたいなもので、いわば文化意識のひとつだと思うのです。
 ただ、マロニエ君は取り立ててオリジナル至上主義などはなく、いいものはなんでも取り入れることはむしろ進んでやってみたいところもあるくらいの柔軟性はあるつもりです。それなのにどうしてもシュワンダ―にだけは拘ってしまう自分があるのは、ひとつにはヘルツのあのタッチがもともとあまり好きではないということも根底にあるからかもしれません。
 
 ピアノのリビルドにかかわる一流の技術者の方々は、まったく独自の考察と判断と良心に基づいて、古い機構を現代の機能的なアクションに入れ換えられることが多々あるようで、もちろんマロニエ君はそれを否定するものではありませんし、それによって欠点を克服して弾きやすいピアノに生まれ変わり、結果として新たな可能性が広がり、多くの人を喜ばせているとしたら素晴らしい事だと思います。
 しかしそこには、そのことと引き換えに失われたものがあるのでは?という個人的な憂慮の念を完全に消し去ることができないことも事実です。
 
 もうひとつはハンマーをより小ぶりというか、要は重量の軽いものへ交換することで、このピアノが現在抱え持っているもう一方の根本的な問題を取り除くというやり方です。しかしそのためには新品に取り替えて一年も経たないレンナーハンマーをむざむざ捨て去ることを意味するわけで、それもなぁ…と思うのです。
 加えて交換のためには大変な手間暇とコストを必要とすること、さらにはハンマーが変われば音がガラリと変わってしまい、しかもそれがどんなものになるかは予測が立てられないということが懸念されます。とはいえ、ピアノ本体は変わらないのですから、違うハンマーを付けたからといって、まったく別のピアノになるわけでもないと思うし、今が取り立てて最高の音だというわけでもないのだから、それならそれでもいいかという半ばやけくそ気分も少しはあるわけです。
 
 マロニエ君の本音をいうと、だったらいっそ、フランスピアノのように、やや小ぶりで柔らかめのハンマーを付けるということにも一筋の希望というか意義を感じるし、それにはロンセン社のローヒート加工のハンマーを使ってみるということも、いまだに心惹かれることとして考えてしまいます。
 そうすればタッチの重さは解決、フィールもシュワンダーならではの特性が保持され、おまけにちょっとフランスピアノ的なテイストも得られるとなれば、これがマロニエ君としてはベストなのですが、ロンセン社のハンマーとなると、これがまた主治医たる技術者さんがとても同意しそうにもなく、それを説得する自信もありません。
 
 失敗を是正するための作業であるのに、冒険なんてとんでもない!という話になるのは目に見えています。多くの技術者が認める評判の良いハンマーを取り付けることが「冒険」というのもいささか神経質すぎるようにも思いますが、技術者さんはそれぐらいすべてにおいて慎重なスタンスをとられているということのようです。
 
 「小ぶりで柔らかめのハンマー」などというと、アクション同様オリジナルを損なうことのように思われるかもしれませんが、技術者さんによると、もともとのハンマーは今も工房に保管されており、今付いているレンナーに比べるとずいぶんと軽いものだったらしいことは驚きでした。となると、現在のほうがはるかにイレギュラーな状態だということも明らかで、これを元の重さに戻すと云うことは先述の論理においても、本来のバランスを取り戻すという点で意味のあることのように思うのです。
 
 ちなみに、ハンマーに関しては、現在のオーバーホールに使われる大半のハンマーは、レンナーやアベルといった輸入品、もしくはそれに準ずる品質とされる日本製ですが、そのどれもが固くプレスされたフェルトを特徴としているように思います。これを針刺しでほぐしながら弾力を生み出し整音するわけですが、現代のハンマーはあまりにも時代のニーズに歩み寄りすぎて固すぎではないかという気がします。天然素材の減少とコストダウンによって鳴らなくなったピアノを、さも鳴っているように見せかけるために固すぎるハンマーは存在しているように思えてなりません。
 たしかに固いハンマーは初期から輪郭のある明快な音を出しますから、現代のようなスピードと消費の時代には簡便でニーズに合っているのかもしれませんが、すぐに音が固くなりすぎてキンキンしてしまい、そうすると針刺しでほぐすという作業の繰り返しです。しかし、本来は良質の羊毛をつかった少し柔らかな弾力をもつハンマーが、弾き込むにつれ(多少の硬化剤の助けを借りながらも)しだいにつややかな音を出してくる場合のほうが、本来のありかたではないかと思うのですが…どうなんでしょう。固いハンマーをほぐして弾力を作るより、もともと一定の弾力を有するハンマーのほうが正統な流れのような気がするのですが。まあそこはハンマーの材質、好み、ピアノの特性、弾き手の好み、技術者の考え方しだいでいかようにも解釈できるのかもしれませんが。
 
 どういうハンマーが最適かの判断は別としても、ハンマーを取り替えるというのは、現実的にいろいろと重くのしかかる問題が山積で、おいそれと決断のつくものではありません。
 あまり悩んで沈み込んでもしかたがないので、しばらくは現状のままでガマンして楽しもうかと思い、最後はやむなくそう言ったのですが、技術者さんから返ってきた言葉はそういう詭弁を許さぬもので、「いやぁ、この状態じゃ楽しめないでしょう!」とガツンと一発云われてしまいました。
 
 …たしかにそうでした。
 その後しばらく弾いてみて、以前よりもさらに一層厳しくなったような重苦しいタッチは、喜びを見出す余裕もないほど苦痛が先行し、指先から伝わるその感触はしだいに胸に広がってくるようです。
 ヴァイオリンなどならとりあえずケースにしまって、視界から消しておくという手もありますが、ピアノの図体ではそれもできず、その姿を見るたびに深いため息がでるばかりです。
 
 こういう問題は人それぞれの感性や価値基準によっても解決の方法も違ってくると思いますし、おそらく大多数の人は作業も比較的簡単だというウイペンの交換だろうと思いますが、ここは自分に正直であるべきで、マロニエ君にとって最良の方法は、やっぱりハンマー交換かなぁ…と思います。
 だからといって直ちに実行というわけにもいかないのが辛いところです。
 
 
【追記】
 日曜日、ピアノ好きの知人が遊びにやってきたので、ついでにディアパソンの主治医である技術者さんの工房を訪ねました。この日は新旧のグランドが4台あり、一台はホルーゲルという大橋幡岩氏が設計した戦時中に作られたピアノ、あとはヤマハとカワイですが、オーバーホールを終えたC3の他は、いずれも50年前後昔の古いピアノばかりです。
 
 べつにそれを狙って行ったわけではなかったのですが、図らずもここでシュワンダーとヘルツ、両アクションの弾き比べをじっくりと行うことができたのは大いなる収穫でした。
 それにしても、こちらのご主人は自分でシュワンダーが嫌いといいながら、4台中3台はシュワンダーであるところが笑えます。
 
 ここにあるピアノはシュワンダーでも我がディアパソンのようにキーが重いこともなく、本来の軽さとしっとり感を併せ持っていて、マロニエ君の好みに近いものがあります。
 それでも交互に比較をしてみれば、ヤマハのC3はヘルツアクションの恩恵と、調整が仕上がったばかりという状態の良さも手伝って、単純な意味での弾きやすさという点では他を圧倒するものがありました。
 「弾きやすい」といっても言葉の意味は広いわけで、より踏み込んで言うなら「楽で簡単で確実」とでも云えばいいでしょうか。
 
 ムラがなく均一で、指の入力をアクション側が一定の力として容易く変換してくれるというか、嵩上げされた音に反映されるところは、ヘルツがこんにちのグランドの標準機構になった理由がまざまざとわかります。極端にいうと、少々好い加減なタッチでも、ちゃんとしたタッチとしてオマケしてくれて音にしてくれる寛大さで演奏者を助けてくれるということは云えそうです。
 その点、シュワンダーはダメなときはダメ、良くできたらピアノが盛大に褒めてくれる感じでしょうか。
 
 要はアクションを機械的スイッチとして見るか、楽器と人を繋ぐ生の意志疎通手段として見るかによってもその優劣の判定は大きく変わってくるように思います。
 純然たる機械として見れば、ヘルツの機能や安定性は疑いの余地がありません。しかし果たして楽器を奏するという行為が機械的優勢のみでいいのかという問題に立ち至ります。
 
 弦楽器や管楽器で、どんな弾き方をしても一定水準の音がびゅんびゅん出るとしたら、それが最高なんだろうかと思うわけで、やはりある一定の修練を積んだ弾き手が、入魂の演奏をしたときに、それに細かく反応する余地や可能性が楽器には必要で、これは誰がどう弾いてもそこそこきれいな音が出ることとは相反することです。
 
 もちろん、こんなことをとやかく云うに値するような演奏ができるマロニエ君ではありません。下手くそがなにをいっている!と云われたら一言もありません。しかし、下手は下手なりに、どんな簡単な小品であっても、その曲を通じて、いい音を出すための工夫や努力、いろいろな表現を試す過程にピアノを弾く喜びがあるのであって、指運動はしやすくても音楽的に無反応なピアノでは、楽しみの目的がかわってしまいます。日頃からそういう運動器具的なピアノにばかり接していると、練習の目的は指の運動能力の向上へと向いていくのはある意味当然だろうと思います。
 
 シュワンダーとヘルツを隣同士で弾き比べると、たしかにヘルツの正確さや弾きやすさ、機械としての頼もしさは光っているし、いっぽうのシュワンダーはどこか鈍くもたついたように感じることも事実です。
 ところが、おかしな言い方かもしれませんが、ピアノからしばらく離れて時間をおく、あるいは一晩過ぎてそれらのピアノを残像として思い出してみると、もう一度弾いてみたいと思うのは(マロニエ君は)やっぱりシュワンダーなのです。
 あの自然なタッチ感は人と楽器が一体化したように感じられ、ピアノを弾くという行為の本源に触れている気持になるのですから人の感性というのは不思議なものだと思います。
 
 人はときとして非効率的なものを好むもので、IH調理器が便利なことはわかっていても、わざわざ炭をおこして焼いたものに安堵と喜びを感じるようなものでしょうか。

稀少木目の怪

 世界屈指の高級ピアノメーカーには、何々記念などと銘打った限定モデルや特別仕様のピアノが折々に少量生産され、うやうやしげに「何台のみ」というようなふれこみで発売されますが、それらのモデルすべてではないものの、中にはちょっと訝しく感じることがあります。
 
 あまり大々的には書かれませんが、何かの折りにわかるところでは、想像をはるかに上回るプライスがつけられていて、ときとしてメーカーの誠実を疑うような印象を持つことがあるのです。
 
 外装のデザインそのものを凝った形状に作り替えるとか、意表を突く斬新なデザインのピアノとかなら、ワンオフもしくはそれに準ずるものとして価格も相当に高額なものになるのはまだわかるような気がしますし、あるいは細かな寄せ木細工とか手間のかかるさまざまな工芸処理がほどこされる場合などは、それなりの価格になるのも無理からぬことだろうと思います。
 ところがピアノ本体はほとんど標準モデルのままで、その外装だけがちょっと珍しい木目になっているだけのものが「限定」の名の下に、俄には信じられないような超高額プライスをひっさげて発売されるのは首を傾げてしまいます。
 
 最近もある有名メーカーからこの種の限定モデルが数種発売された由で、稀少な木目との説明ではあるものの、その値段は、一例を挙げると、ただでさえ高額な黒塗りの標準モデルの、さらに約1.7倍という恐ろしいまでのエクストラプライスで、一体その価格の根拠となるのはなんなのかと思ってしまいます。
 
 おまけに趣味的にもあまりよろしいとは思いませんが、そこはまあ各人の好みや主観の問題ですから、ここでの問題とは切り離すべきでしょう。
 
 仮に黒ポリッシュ仕上げで1000万円のピアノなら、外装がその稀少な木目であるだけで700万円の追加というわけですから、これはただごとではないわけで、なにをもってそんなに高額になるのか野次馬としては知りたくなってしまいます。
 中には基本モデルの2倍以上にもなる木目まであり、いかに数が稀少と云え、ほとんどバブリーなプライスという印象を覚えてしまいます。
 もちろんマロニエ君ごときがとやかくいわずとも、世の中にはそれをポンと買う人がいて、ちゃんと商行為が成立するのだから、よけいなお世話だと云われれば、たしかにそれまでの話ではありますが。
 
 ただ、新品ピアノにはれっきとした定価というものがあり、工業製品という一面をもった商品でもある以上、そういう部分も多少は常識的な、健全性のある価格設定という観点から問われるのもやむを得ないのでは?とも考えるところです。
 
 以前も書いたことがありますが、木目ピアノというのは誤解しておられる方が多いので、再度説明しておきますと、ピアノのボディを構成する木材は、強度や音響特性などさまざまな理由から最適とされるものが各メーカーで厳格に決められており、外観の仕上げが木目になるからといってボディに使う木材を内側から変更するわけではありません。
 
 では表面に見える木目は何かというと、あくまでも塗装前のピアノに貼り付ける、紙のように薄くスライスされた木目の化粧板なのであって、いうなれば、むかし女の子がお菓子などの空き箱に千代紙をきれいに貼って見栄えを良くして遊んだようなものです。
 つまり、いかにそれが銘木、珍木、稀少木材などといってはみても、それは決して無垢の木材ではなく、表面に貼り付けられた包装紙みたいなものであり、悪く云えば「張りぼて」にすぎません。そういう意味では、ホームセンターに売っているカラーボックスに張られた化粧板と同じ見せ方であって、そこがピアノの場合の木目は、楽器を構成する正味の木材をニスごしに見られる弦楽器などとは、意味するところが根本的に違う点だといえるでしょう。
 
 その証拠に、いかなるピアノメーカーも外観の木目の違いによる音の変化についてはひと言も言及しません。もしピアノのボディの木材が違うのであれば、それは音質に直接影響することなので、それによる音質の違いなどを大きくアピールするはずです。
 しかし、楽器としての材質は黒塗りピアノとまったく同じなのですから、音に変化がないのは当然で、そのあたりは常に曖昧にされ、カタログなどを見ても正確な説明は敢えて避けられているように感じます。木目が化粧板であるという事実の告知にはメーカーも販売店も消極的であり、聞かれればウソは言わないでしょうけれども、わざわざ進んで言う必要もないということなのか、購入者が勝手に勘違いしてくれるならそれに越したことはないというところかもしれません。
 
 というわけで、この点を弦楽器などと同じ解釈をすれば大変です。ピアノの木目を楽器そのものを構成する木材が見えていると思い込んでいたとしたら、そこに大金を支払った人にとっては、下手をすればとりかえしのつかない事態になりかねません。
 
 ところが、多くの人がいまだにその事をご存じない場合が多く、かくいうマロニエ君もずいぶん昔は疑いもなしにそんな風に思っていたものです。唯一の例外は、昔のピアノを再塗装するため古い塗装を落としたら、そこに思いがけない木目が出てきたということで、それを生かした仕上げにすることなどは稀にありますが、大半はなんの変哲もないただの朴訥な木目にすぎず、観賞にたえる美しい木目となると、やはりそれに相応しい木目の化粧板が貼り付けられるというのが常道でしょう。
 
 これと同じ手法は、高級車の内装にもしばしば見られることで、ダッシュボードやセンターコンソール、ドアトリムの一部に、さも高級木材を使っているかのような美しい木目が配され、革張りシートなどと相俟って高級感を演出しています。
 車の場合もウォールナット、マホガニー、バーズアイ、メープルなどさまざまな木目が車内の要所々々を彩り、乗る人の目や気分を楽しませているわけです。ちなみに車の場合は安全上の理由から整形されたアルミ板などにこの極薄のスライス木材が貼り込まれる場合が多いようです。
 車に較べれば、ピアノの場合は使う面積こそ違いますが、だとしても所詮は表面の貼り付けにすぎない木目仕様がここまで高額になるのかがどうもわかりません。
 
 いくら稀少木材などと云ってみても、仮に厚さ1cmの板から何十枚の化粧板が取れることを考えると、その付加価値の付け方が、いささかやりすぎでは?という気がします。もちろん天然のものなので、模様の出具合によって使えない部分もあるでしょうし、模様合わせなどに手がかかるというようなことはあるとしてもです。
 
 多くの方々は意外に思われるかもしれませんが、ヤマハは楽器製作のほかにもさまざまな品目の製造や開発の多部門を有する複合企業で、その中には楽器造りから得たノウハウを活かした別のビジネスも盛んにやっています。今もあるかどうかは知りませんが、以前はヤマハ家具というのがあって、家具の高級路線をねらった商品でした(家具屋からピアノメーカーになったファツィオリとは逆の流れですね)。
 この本題である木目加工品でいうと、ヤマハの天竜工場では、現在只今もレクサスなど自動車の内装に使う木目パーツの製造を請け負って大きなビジネスを営んでいる会社でもあるのです。これなどは元を辿ればピアノの木目仕様の製造経験を買われて発展独立したものであることは明らかです。
 
 その工場内にはあらゆる種類の天然の大木が所狭しと運び込まれ、どれも木目加工の素材として使われるようです。それらは「紙のように薄くスライス」され、高度な技術によってさまざまな土台に貼り付けられるにもかかわらず、最終的には、見た目に「分厚くて立派で温かみのあるウッドパーツ」へと変貌していくのだそうで、その魔法のような技術には少なからぬ感動さえ覚えるほどだそうです。
 表面に貼る木目として使用するために、それらの木材は驚くなかれ僅か0.2mmにスライスされるのだそうで、これは握りつぶせば手の中で粉になるほど薄いものだとか。単純計算でも厚さ1cmから50枚、10cmなら実に500枚もの木目の突板(化粧板)が採れると云うわけです。一般的なコピー用紙のひと包みが500枚で、その厚さを測ったら5cm弱ですから、10cmで500枚ということは、ちょうどコピー用紙2枚ぶんの厚さというところでしょう。
 これが見るもありがたい木目の正味の厚さであり実体なのです。
 
 かくのごとく薄くスライスし着色された木目を、車のパーツなりピアノなりに貼り付け、さらにその上から通常の黒塗りの塗装よりも分厚いという透明のクリアー樹脂を吹き付けていくらしいのですが、これにより木目はまるで琥珀のような質感と奥行感が出てくるというのですから驚きです。そして、それを丁寧に磨き上げるといよいよ透明感や深みが増し、土台を含む全体がいかにも「高級な厚みのある美しい木材そのもの」であるかのように見事に仕上がるのだとか。
 
 アルミ成形の土台に貼った車の内装パーツでさえそうであるのに、ピアノの場合はボディそのものがもともと木工品なので、まさかそれが張りぼてだなんて思わないのも致し方のないことです。ここまで人の目を欺くといえば言葉は悪いかもしれませんが、そんな知識のない人には、これはほとんどトリックに等しいと感じるのではないかと思います。
 
 それを高等技術いえばたしかにそうでしょうし、それだけ手間がかかるといえばそうでしょうけど、純粋に手間ということで考えれば、車のインテリアに使うパーツは種類も多く、形状も平坦なピアノとは比較にならないほど複雑ですが、現にヤマハではそれらを量産できているわけで、所詮はそれが可能な程度の手間にすぎないと思われます。
 
 ヤマハやカワイの標準的なサイズのグランドピアノでウォールナットやマホガニーの木目仕様を注文すると、その追加プライスは30万から40万ほどで、当然そこから利益が出ている筈ですから、手間賃といってもおおよその察しがつくわけで、いくら稀少木材/希少価値と いう付加価値とはいえ、そこには自ずと限度というものがあるような気がします。
 
 さらに注目すべきは、スタインウェイの廉価ブランドであるエセックスは中国生産であるものの、奥行き155cmのグランドでいうと、黒の艶出し仕上げが132万円であるのに対し、木目仕様はサペリ・マホガニーの艶出しで143万円、カワジンガ・ブビンガの艶出しで146万円と、それぞれ10万円強の差でしかありませんが、実物はとてもそれっぽっちの価格差とはおもえないほどきれいで立派な仕上がりだったことが印象的でした。
 また国内メーカーでも、なぜか昔からアップライトのほうがグランドよりも木目仕様が多くありますが、それらも基本的な工法は同じでないはずがありません。
 要するに、通常、黒や白の塗装をして上からクリアーを重ねて磨き上げるところを、色塗装ではなく化粧板を貼り付けた上にクリアーを厚く噴くという、料理でいう「ひと手間」かける程度だろうとマロニエ君は思ってしまうわけです。
 
 冒頭のような超高級限定ピアノの購入者は、相当にリッチな方には違いありませんから、こういう話そのものが野暮だと云えばあるいはそうなのかもしれません。が、しかし、リッチな方が何事にも寛大でおおらかかといえば大間違いで、そういう方ほど金銭やモノの価値にはよほどシビアというのも世の常ですから、さてどんな風に感じられるのだろうとつい思ってしまいます。
 マロニエ君の私見ですが、贅沢あるいは贅沢品というものは、ただ稀少で値段が高いことではなく、そこに客観性のある根拠があって説得力のあるものでなくては本当の贅沢とはいえない気がします。現代はどうも贅沢とか付加価値に対する概念そのものが低下しているような気がしてなりません。
 
 世界に何台などという希少性に価値を求めるにしても、果たして自分が購入しようとしている(あるいは購入した)ピアノの稀少木目なるものの実体が、実は画用紙よりも薄いペラペラの、いうなれば広いかつおぶしみたいなものを貼った表面処理にすぎないことを知ったなら、それでも購入の意志は揺らがないのか、あるいは特別なものを手に入れたという満足がまったくぶれずに持続していけるものなのか…マロニエ君にはわかりません。
 
 べつに貼りものが悪いといっているのではなく、ヨーロッパでは昔からいろんな装身具や家具などに皮を貼ったり、日本でも漆器や屏風などに金箔を張るなどの伝統工芸はあるわけですが、少なくとも購入者や所有者はそれが貼りものであることを重々認識した上でのことであり、そこが、ピアノに木目を貼り付けるという事とは、微妙にニュアンスが違うような気がするわけです。ピアノはもともとが木でできているが故に、なおさらその説明が不十分であれば大きな誤解を生み出すような危惧を覚えるのです。
 
 モデルによっても違いますが、標準の黒艶出し仕上げとの価格差は約560万円~1100万円という強烈なもので、これだけの価格差があるからには、ピアノの構造を知らない人は、まさか貼りものなどとは思わず、ピアノそのものが希少材で出来ていると思っても無理からぬことだと思うのです。
 
 いっそこれが純粋な美術品とか骨董品、あるいは新品が手に入らないヴィンテージフェラーリやオールドヴァイオリン、さらにはマイケル・ジャクソンやダイアナ妃が着た衣装などであれば、それはもうどんな途方もない値段がつけられようとも別世界の話ということで、端からその価格の根拠を問いただそうなどとは思いません。
 しかし、れっきとしたメーカーが販売する新品ピアノで、違うのは表面の木目だけというところが、その実質を問われかねない中途半端で不健全な立ち位置になり、なにやらひっかかるような気がしてしまうのでしょう。
 
 もちろんマロニエ君は欲しいとも思いませんし、その経済力もない、これはしがない野次馬の感想にすぎませんが。

象牙の価値

 ありがたいことに、このホームページのお陰で連絡をくださる方の中には、そこから電話やメールでのやりとりをすることが稀にあって、中にはさらに稀にですが一定のお付き合いにまで発展する場合があるのは、こんなくだらない事でもせっせと書き続けたことへのご褒美のようで嬉しい限りです。
 
 そういうご縁で、やはりピアノには強い拘りをお持ちの方がおられ、折しもピアノを購入されるところだったことから連絡をいただき、そこからいろいろなやりとりがはじまりました。はじめに連絡をいただいたのは、好みのピアノを探し求めるため、その方の地元にあるピアノ店などをあちこちと回られている最中というタイミングでした。その後は、したたかに事前調査された上でずいぶん遠方にまで足を伸ばされるなど、相応の時間もかけて相当数を弾いて回られた結果、ついにある一台のピアノに辿り着かれたようでした。試弾された延べ台数で云うと、おそらくは軽く数十台というところでしょうから、そのエネルギーたるや大変なものですが、楽器選びというのはそこまでしてでも、自分の音楽生活の伴侶を選ぶところにひとつの醍醐味があるのかもしれません。
 
 さて、その方が紆余曲折の果てに選ばれたのは、ある一台の古いグランドで、それが最終的に最も自分の感性に合ったとのことでした。マロニエ君としては、もちろん弾かれる方の好みに合致したピアノであることは当然としても、できるだけ整備の行き届いた、技術者の手が細かく入ったもの、あるいは消耗品の状態をよくよく確認されて将来にわたって心配なく使っていける状態であるかどうかも判断の重要項目にされたほうがいいと言っていたのですが、そういう条件を満たしたピアノも中にはあったようですが、残念なるかな楽器として気に入られなかったというのですから、これはどうしようもありません。
 
 そして、この方がタダモノではないのは、これだけの台数を(新幹線に乗ってまで)広く見てまわられた結果、最終的にこれだ!と思われたのは消耗品は弦もハンマーも要交換のピアノで、普通の人ならあまり手を出さないであろう代物だったことでした。もちろんマロニエ君は見ても触ってもいませんからどんなものやら話で聞く以外はまったくわかりませんが、よほどその楽器の持つ潜在力や個性が気に入られ、心に期するものがあったのだろうと思われます。(購入は決まったものの、まだ納入前で、お店とはいろいろな交渉事もあれば作業等も完了していないので、現時点ではピアノのメーカー名など具体的なことは敢えて書かないでおきますが、後でその時期が来れば書かせていただくかもしれません。)
 
 そのピアノはそこそこ古い楽器で、消耗品関係の使用期限はとうに過ぎているため、なんとこれから購入店の工房でオーバーホールをされるとのことで、その意気込みたるやあっぱれだと思いました。普通ならそこそこ自分の条件に合うピアノがあれば、すでに整備の行き届いた安心できる状態のものを買うのが常套的ですが、この方は決してそういう安全な幹線道路を進もうとはされませんでした。
 たとえそのための時間や費用がかかっても、自分が本当に気に入った楽器を見つけ出し、それをオーバーホールしてから自宅に迎え入れるというのはある意味で理想的な購入方法かもしれません。
 もちろんオーバーホールによって、多少は現在そのピアノがもつ個性が変わることはあると思いますし、とりわけ技術者はそのあたりを心配しますが、マロニエ君の経験から云っても、そこからまた時間をかけて自分の好みに仕上げていけばいいことでもあるし、意外なことに、ピアノは根底のところでもっている器や個性、つまり人間で云うところの人格にあたる部分は少々のことでは変わらないようなので、趣味としてピアノを買うにはこういうプロセスを経ていくのはいかにも楽しいやり方には違いないと思います。(もちろん普通はなかなかしませんが)
 
 マロニエ君もつい調子に乗って愚にもつかないアドバイスをさせていただきましたが、そのひとつはピアノはいったん納入されたら、他の楽器のようにケースに入れて持ち運ぶわけにもいかず、よほどの事でもない限り、ピアノが様々な作業(とくに重整備)を受けられる工房に再度運ばれるなんてことは、まずないという覚悟をしなくてはいけないということでした。人間で云えば、もし病気をしても家から出られず、かかりつけの医者の往診のみで、一切病院には行けないようなものです。したがって自宅での調整レベルで済まないことは、ともかくピアノが工房にあるうちに可能な限りの想像をめぐらせて、集中的に希望を出して
おく必要があるということです。つまりピアノに於いては、大修理に類することは「そのうち」とか「順次」というこちら側の都合はいっさい通用しないと云う意味です。
 
 そんな中、最近出てきたこの方の要望というのが、通常の人工素材の鍵盤を象牙/黒檀に貼り替えることでした。
 白鍵が象牙、黒鍵が黒檀というのは俗な言い方をすれば、良いピアノのひとつのステータスでもあり、たしかにその風合いにはなんともいえないものがあるのは確かですし、とりわけ少し古めのピアノではいかにも楽器らしい由緒正しげな風格さえ感じさせるものです。
 マロニエ君も、今年買ったディアパソンは白鍵はたまたま象牙だったのですが、どういうわけか黒鍵は普通のもので、そのアンバランスが気になりました。マロニエ君は鍵盤の材質にこだわるほうではなかったのですが、どうせならというわけで黒鍵を黒檀に変更してもらいましたが、自分でもこれはやってもらって成功だったと思います。
 
 昔は象牙が現在ほど貴重品ではなかったために、メーカーによってはアップライトでもちょっと上級モデルにはこれが使われたりしたものですが、白鍵は象牙、しかるに黒鍵は黒檀ではないというのは、なんとも解せない話です。
 もしかしたら、30年前は象牙より黒檀のほうが高価だったのだろうかなどと想像してみますが、それもどうも考えにくいので、やはりそこには一般受けする象牙だけは使っておいて、黒鍵は普通のフェノールでいいというコスト的な判断だったような気もしますが、真偽のほどはよくわかりません。
 
 ちなみに偶然読んだ、珍しいヴィオラに関する本の中の記述によれば、黒檀は昔から価値の高い木材で、それがこの書籍に出てくるヴィオラの糸巻き、指板、弦を引っぱるテールピースにすべて使われているということにも、著者はその楽器に一定の価値を見出す手がかりにしているようなので、やはり稀少で高価なものには間違いないようです。黒檀の特徴は「緻密で重くて硬い」ことだそうで、だから黒鍵などにも向いているようですが、これもまた最近は伐採が進んで良いものはないとのことで、良質の天然素材はいずれも厳しい状況のようです。
 
 そういうわけで、もともと貴重な黒檀がますます入手困難になってきたのか、国産ピアノでも上級機種の黒鍵については「黒檀調天然木使用」などとなっていますし、かの音楽大国ドイツでさえ、楽器製作のための森林伐採は禁止という法律ができたとかで、ハンブルクスタインウェイも今世紀に入ってからは響板にニューヨークと同じアラスカ産のスプルースを使うようになった(戦前のニューヨーク・スタインウェイはアメリカ西海岸のスプルースを使用していた由)りと、とかく天然素材というものが年々入手困難な貴重品目になっていくのは避けがたい流れのようです。
 
 まして象牙にいたっては、天然素材という枠組をはるかに超えて、いまや宝飾品に近いような貴重品に祭り上げられてしまった感があります。
 象牙は20年以上前にワシントン条約が締結され、以降は輸出入禁止品目となったため、一部の中古品を除いては象牙鍵盤はほぼ完全に姿を消してしまっています。こういうルールに対しては海外のメーカーのほうが潔い見識を持っているのか、どんな高級メーカーであっても一斉に象牙の使用は止めてしまっていますが、日本のメーカーの中には、大量に貯め込んでいたストックがまだあるのか、いまだにごく一部ですが国内で販売する新品ピアノに象牙鍵盤を使用しているものがあるのは驚いてしまいます。
 
 現在の一流メーカーは黒鍵こそまだ黒檀もしくはそれに準ずる木材を使っていますが、白鍵に関しては最上級の人工素材が使われ、これが大半の高級ピアノのスタイルになっているようです。
 
 マロニエ君のシロウト考えでは、水牛の角とか、ほかにも自然環境に大きな害をもたらさない範囲で、象牙の代用品がないものだろうかと思いますが、一向にそれらしい話を聞いたことはなく、やはり大量生産品に天然素材を使用すること自体が根本的に間違いなのかもしれません。片や人工素材もこれだけ驚異的なテクノロジーの発達の下では、象牙に匹敵するような理想的な物質が作り出せないものかと思いますが、そちらもこれという決め手はないようです。
 天然素材といえばちょっと気になるのは、現在の日本の高級車の内装には、贅沢嗜好の自動車評論家でさえ呆れるほどの超高級皮革などがこれでもかとばかりに使われているそうで、これは楽器どころではない実用品での贅沢仕様であって、どんなに高級車であっても車は10年も経てば大半は棄てられる運命です。クルマが好きなマロニエ君をもってしても、さすがにこれはいい気持ちはしません。どこかで歯止めをかけないと人間の奢りというものは留まるところを知らないようです。
 
 話が逸れました。
 その方は、オーバーホール後にご自宅へ納入されるということは、このピアノとは腰を据えた長い付き合いになるというわけで、これを機に鍵盤を象牙/黒檀にぜひとも貼り替えたいという希望をお持ちのようでした。マロニエ君も貴重な象牙といえども、もし中古品があれば当然古いものだろうから、それならリーズナブルな価格では?と安易に想像していましたし、さらには少し古いピアノにはそこそこの中古品のほうが却って雰囲気的にもマッチングが良いだろうと思い、両方の理由から中古品を勧めたところでした。それにだいいち、もし仮に新品象牙が手に入るとしても、それはかなり高価だろうから、それに見合う価値があるようにも思えませんでした。(もちろん価値があるかどうかはお金を出す人が決めることではありますが。)
 というわけで、その方も象牙は中古品があればそれで構わないということで、すぐさま工房に鍵盤貼り替えの問い合わせをされたようです。
 
 数日して報告があり、先方からの回答によると象牙/黒檀とも交換は可能の由。価格は黒檀への交換は5万円、そして注目の象牙は中古品でも17万円!、合わせて22万円也。ちなみに象牙は新品もあるらしくその価格はなんと50万円!!!とのことで、これにはさすがのマロニエ君も聞くなり椅子から転げ落ちそうにました。
 いまや貴重な象牙であることは充分承知していましたが、ここまで高額になっていようとは思いもよりませんでしたし、これでは象牙鍵盤をもつアップライトピアノなんて、下手をすればピアノ本体よりも象牙のほうが金銭的価値があるということにもなりかねません。
 
 これぞ需給バランスの法則が導き出した結果というべきか、稀少性というものはえてしてそういうものなのかとも思いましたが、そうはいってもやはり驚きでした。しかもこのお店というのがオーバーホールに要する価格も極めて良心的で驚いていたぐらいですから、そんなお店が象牙に限って突然価格をつり上げてくるとも考えにくく、これはごく標準的な価格、もしくは少し安いぐらいだろうと考えるのが順当だろうと思います。
 
 ここまで象牙が貴重で高価ともなると、人間の心理というのは不思議なもので、キッパリあきらめるか、ますます欲しくなるかのいずれかで、ますます欲しくなるほうが多いのかもしれません。モノに限らず、手に入らないもの、困難なものを乗り越えてでも何かを求めるのが人間の習性でもあることは否定しようもありませんから。
 自分のディアパソンにはたまたま使われていただけで、さしてラッキーと思っていたわけでもなかった象牙でしたが、この状況を知らされるや、なんだか急にありがたいもののような気がしてきますから、我ながらまったく節操がないというべきです。
 
 裏を返せば、昔はそれほど象牙欲しさに乱獲されていたということでもあり、人間のエゴと残虐性を思い知らされます。ワシントン条約の締結以降は、象たちにも少しは安全がもたらされているのだろうかとも思いますが、それでも一部の密猟などは絶えることはないのでしょうね。
 
 ここにきてあらためて考えてみたことですが、ピアノはフレームや弦などの金属以外は、すべて木やフェルトなどの天然素材で作られているものの、奏者の指が触れる大事な鍵盤は、いくら高級品とは云えプラスチックというのは(黒鍵は黒檀や自然木としても)、鍵盤はいってみればピアノの顔でもあり、家で云えば門構えや玄関のようなものですから、感性
としてはどうも興ざめな部分であるように思ってしまいました。
 そういうご時世なのだから仕方がないといえばそれまでですが、やはり理想を云えばなんらかの天然素材であったほうが楽器としての佇まいやまとまりという点で、好ましいように思います。以前はマロニエ君自身、象牙は状態によっては滑りやすいということでひどく敬遠していたこともあり、ほとんど関心を払わない部分でしたが、冷静に楽器としての品格や佇まいとして見つめてみると、やはりプラスチックというほうが違和感があることに気付かされました。
 
 もしかしたら、自分のピアノが鍵盤がプラスチックか天然素材かという違いによっても、弾く人の心情に何らかの影響があるかもしれず、ひいては演奏も変わってくる可能性もあるかもしれないなどと、そこまで考えるようになってしまった自分にも併せて驚いているところです。単純にいっても、人によっては鍵盤をぶっ叩くということがありますが、プラスチックと象牙とでは、やっぱりぶっ叩くにはプラスチックのほうが心おきなくぶっ叩けるかもしれないし、その点では象牙をぶっ叩くのは、どこか躊躇するものがあるかもしれません。
 
 良い演奏をする基本のひとつは、楽器を愛でるという基本的な気持にも多くが依存しているのではないかと思います。その点ではピアノはいささか大きすぎるし、自分で持ち運びも調整もできないので、この点がややおろそかになる場合があるようです。さりとてピアノがその愛でる気持を必要としない例外だというわけではなく、自分の楽器に対して愛情深さがあるとないとでは演奏もずいぶん違ってくる筈です。そんな要素の一端を担っているとしたら、楽器の素材もやはり大事だということですね。
 
 さて、その方のその後はというと、お店の方との交渉の結果、いくぶんの割引があった由で交渉は妥結し、これからオーバーホールと共に鍵盤も全部交換されることになり、しだいにすごいピアノになっていくようです。
 さぞかし出来上がりが楽しみなことでしょう。

ユジャ・ワン

 マロニエ君にとって、これまでの中国人ピアニストの中には個人的に聴 きたいと思う人がほとんど見あたらず、それはあのフー・ツォンでさえ自分の好みではありませんでした。とりわけユンディ・リ以降の世代に至ってさらにその傾向には拍車がかかり、日の出の勢いのラン・ランの躍進によってその印象も極まれりという観がありました。
 強いて云えば、さらに若い世代のニュウニュウがやや芸術家気質というか、繊細な感受性の持ち主らしき気配を認めるべき存在のように少しは思いますが、それとてまだまだ線が細く、突出して素晴らしいと感じるほどには至らないというのが正直なところです。
 
 ラン・ラン旋風の中からしだいに頭角をあらわしてきたユジャ・ワンに関しては、聴いてみる機会がないままでしたし、とりたてて強い関心もなかったのが正直なところでした。ドイツ・グラモフォンからいくつかのCDがリリースされていたものの、ピアノの中華風味はもう結構というわけで自分で購入してまで聴いてみたいとまでは思い至りませんでしたし、テレビで一度だけ海外の音楽祭に出演しているところをわずかに目にしたことはあったものの、他の演奏家も出演している場で、なにしろ、あまりの過激な衣装というかその異様なビジュアルに圧倒されて、やたら指の動く人だということはわかったものの、見るからに苦手意識のほうが先に立ってしまって、あまり熱心に「聴く」ことはしないままで終わってしまっていました。
 
 そんなユジャ・ワンでしたが、今年の4月にトッパンホールで行われた彼女のピアノリサイタルの様子がBSのクラシック倶楽部で放送され、先日ようやく録画を見ましたが、あにはからんや彼女はまさに天才だと思いましたし、中国人ピアニストとしては今後とも注目して行きたい人だと本当に思うことのできた初めての人となりました。
 
 ラヴェルのラ・ヴァルス、リーバーマンのガーゴイル、ラフマニノフのソナタ第2番、シューベルト=リストの糸を紡ぐグレートヒェン、プロコフィエフのトッカータを弾きましたが、まったく乱れることのないとてつもないテクニックの持ち主であるだけでなく、どこにも違和感のない、角の取れたまともな音楽がそこに流れていて、中国人ピアニストもついにここまでの次元に到達したのかと、強い感銘を受けたというのが率直な印象です。
 
 「クラシックピアノが弾けるキャラの立ったタレント」としての要因からか、ラン・ランが今を旬とばかりに世界を股にかけた売れっ子ピアニストとしての扱いを受けてはいますが、マロニエ君にいわせれば、彼はピアノを弾くことで現代中国を世界に宣伝してまわる超一流の芸人にしか見えません。彼のような人が世界の第一線で活躍し、超一流の音楽家と共演を繰り返し、果てはウィーンのムージークフェライン(ウィーン学友協会大ホール=通称「金のホール」)でリサイタルをするに至って、世の中の音楽に対する尺度や権威が完全にひっくり返ったのかとしばらく頭がクラクラしたものです。
 ところがユジャ・ワンは同じ中国人ピアニストでも完全に格の違う存在で、もはや国籍がどこなどというのは問題ではない圧倒的なピアニストであり、他を寄せ付けない、これぞ若手の中に出現した本物だと思いました。
 
 ただ、昨今の世界的なクラシック離れの中にあっては、純粋に演奏云々ということよりも、チケットの売れる、儲かるタレントという点がとりわけ重要なようですから、興行主としてどっちが好ましいのか、そこのところは知りませんし興味もありません。しかし純粋にピアニストとして見るなら、ユジャ・ワンは音楽性・技巧いずれの点においても他の中国人ピアニストの追従を許さない異次元に棲むピアニストだと確信しました。
 
 まず特筆大書すべきは、彼女はその演奏において、音楽的にまったくなにものをも企むことがなく、ストレートに作品世界に入り込み、その作品の本質たるべきものを至極真っ当なかたちで感じ取り、さらに自分の感性とテクニックを通じて、あるがままに恐れることなく演奏しているという点だと思います。
 さらに大事な点は、余計なものを追加したり、必要なものを見落としたりという、演奏家としてあるまじき行為に及ぶことなく、作品のもつ本来の姿を、自然に、克明に浮かび上がらせることができることで、そのための天分がこの若い女性には備わっているということでしょう。当然の結果として、その音楽は非常にまともであり、そのまともさをピアノに向かって行使するだけでも充分に聴かせる演奏にすることのできる、ずば抜けた技巧と、作品に対する素直な感受性を持っていることが何よりの彼女の強味なんだと思いました。真の力を持った演奏家というものは、どんなに音数の少ない緩徐楽章などにおいても、聴衆の音楽への集中を逸らすということがなく、その音楽は人々の耳を引き寄せたまま、当たり前のように着々と前進していきます。これは力のない人にはまずできないことです。
 
 ピアノ(に限らず器楽の)演奏を語る上で、技巧のことを最優先に置くのはもちろん不賛成ですが、しかしユジャ・ワンの演奏を見ていると、その桁違いの技巧が彼女の音楽に余裕と自然の息づかいを与え、そのぶん邪念なしに作品世界に没入できているという現実をまざまざと認識させられてしまいます。
 技巧に余裕があるから、変な辻褄合わせのための解釈めいたことをしなくて済むし、やたらと伸ばしたり縮めたり、不自然な間を取ったり、意表をつくアクセントを強調したりという、自己確立のための小細工を施した傷跡が一切なく、彼女の感興や呼吸は、作品が要求するそれにいちいち適って一体化しているのは驚くべきことだと感じました。その結果、作曲家によって作品に込められた構造や必然的な抑揚が、そのまま歪められることのない姿で演奏に反映されることになり、聴いていてなんの違和感も覚えずに済むばかりか、優れた作品とその演奏に触れることで得られる豊かさに満たされることは、まずもって心地よくありがたいことで す。
 聴く側にしても、技術的にも音楽的にも、安心してその演奏に身を委ねることができるのはやはり理屈抜きに音楽を聴く喜びにつながり、その先には極めて真っ当な感動と満足があるものだと素直に思えました。
 
 彼女が作品をどのように感じているかも良く伝わるし、音楽に偏りや不自然さがなく、活き活きとして、必然的で、太い流れに途切れることがないのは、やはり一流の演奏家だけに感じられる信頼感に触れた時に発生する充実感だと思います。
 少し前にもNHKの番組でリストのピアノ協奏曲を弾いた外国人ピアニストがいましたが、彼もまた最近の例に漏れず、なんということもないことにあれこれと意味ありげな表情を付けたり、鬱陶しいばかりに長い間を取ったりと、いかにも深いものを表現する演奏家であるかのような弾き方をしますが、概ねそのようなことをするのは、要するに自然に弾くだけではこれといった個性もインパクトもないための対策であって、演奏を粉飾しているに過ぎません。
 
 このような、もってまわったような演奏に共通した不快感というものが、ユジャ・ワンのそれには微塵も感じられないところは、当たり前のことが当たり前のこととして実行されるときのなんとも清々しい驚きがあるのです。作品がありのままの姿をとって今まさにそこに現出してくることに、もはや聴き手の我々のほうが新鮮な感覚をもってしまうほど、そうでないことが普通になってしまっているのかもしれません。これほどの充実した自然で自在なソロ演奏ができるピアニストが、老若男女を問わず、世界に今どれだけいるかと考えると、答えに窮するのが正直なところです。
 
 なにかというとテクニック(この場合、正しくはメカニックでしょうが)のレベルで演奏家を判断するのは、まるで収入で人を見る事と同次元のようで決して好きではありませんが、貧すれば鈍するという言葉があるように、技巧が貧しければ、それを補充するだけのあの手この手を(ときには間違った方法で)使うことで、まがいものの個性を打ち出すことで自分を印象づけて行かなくてはならなくなるのが、変な言い方ですがプロの演奏家の世界かもしれません。
 
 ユジャ・ワンの演奏にはそういう苦労や不純な動機がまったく感じないため、ストレートに自分と作品がリンクしていて、その感性の命ずるまま身を投げうって自在に演奏しているのがわかり、へんな言い方ですがあっけらかんとしています。こういうと、彼女はいかにもスーパーテクニックを武器にあれこれの作品を弾いているだけの超絶技巧のピアニストのように思われがちですが、決してそういうふうにもマロニエ君は思いません。
 たとえば、アムランなどには多少そういうところがあって、いささか情感が不足しているように感じるところもありますが、ユジャ・ワンは決してその手合いでもない、情感がつねにその演奏を支配しているところが驚きです。
 
 彼女の手は大きく、指は驚くばかりに分離しており、まるでそれ自体が別の生き物のように柔軟で苦もなく動く様は、それひとつをとっても彼女が尋常なピアニストでないことが窺われます。さらには一番重要なことですが、その手が紡ぎだすのは至ってまっとうな心地よい音楽であるということ。ピアノに対するセンスと情感に満ちていて、今後この人は世界のピアノ界のリーダー的存在のひとりとなるのだろうと思います。少なくとも彼女の演奏を受け取る側の尺度が、将来も正しく保持されるならばの話ですが。
 

 フランスの著述家、エティエンヌ・バリリエ氏に『ピアニスト』という作品があり、その内容はある中国人女性ピアニストをめぐって、二人の音楽評論家がネット上で激しい論争をするという想定のもとに書かれた、小説とも、書簡集とも、戯曲ともつかないおもしろい読み物になっていて、折しも最近これを読み終えたばかりでした。
 その中国人女性ピアニストは名前こそメイ・ジンとされているものの、読むなりこれはユジャ・ワンのことであるのは明白でした。
 
 そもそもこのような作品が書かれるきっかけになること自体、ユジャ・ワンの存在や、その演奏能力の与える衝撃の大きさを物語っているわけで、それだけの大器であり、本家のヨーロッパ人にも相当の衝撃を与えていることは間違いないということを裏付けているように思われます。
 作品に登場する二人は老練な音楽の理想主義者と、その弟子でもある若い懐疑論者の二人で、途中でその論争は白熱の極みに達し収束は不可能なように思われるところまでエスカレートしますが、終盤には若い懐疑論者もメイ・ジンの演奏の素晴らしさを認識するという作りになっています。
 
 東京でのコンサートに話を戻せば、とりわけラフマニノフのソナタは傑出した演奏で、そのパワー、壮大な広がり、雄渾さ、うねるようなロマンティシズム、全体とディテールの対比など、いずれをとっても大変見事なもので、最近のコンサートでよく味わわされる消化不足を一気に解消してくれるような演奏でした。
 
 コンサートに出かけたり、テレビの音楽番組を観たり、CDを聴いたりするのは、それによって喜びを感じ、満足感に浸り、豊かな気分になりたいためにやっていることですが、どうも最近はそれに値する演奏家が激減して、まるで株式市場全体が低迷するように落ち込んでいるというのがマロニエ君の率直な感想ですが、そんな中からなんとも頼もしいピアニストが出てきたものだと思わずにはいられません。
 
 個々のピアニストを見ていても、まあ多少の才能はあったにせよ、科学的な裏付けに基づく最先端の無駄のない訓練方法によって、昔なら早々に脱落したような人が分不相応な演奏技術だけを身につけて生き残り、着飾って演奏家を名乗り、ステージに立ってCDまで出しているという、およそ自分の力量以上の身分を獲得しているような人が、現代では決して少なくありません。
 当然演奏もそれなりのものでしかなく、難しい曲でもなんでもただ音符を追って指が動くというだけで、そこにはなんのオーラも音楽的フェロモンもなく、芸術家としての厚みのある存在感などないのは当然です。ごく普通の人の中にも高学歴の人がたくさんいるのと同様、楽器を持たせれば難しいことができますよというだけで、そんなものを見せられても困るだけですが、これがやたら多いのです。聴く者の心が引き込まれ、感銘を覚え、心が熱く高ぶるようなことはほとんどないのが常態化しており、聴いた後も「はあそうですか」という感じで終わってしまい、翌日には忘れてしまうような演奏。
 
 そういう点でも、ユジャ・ワンはあきらかにその類ではなく、まさに天から選ばれし者だけが授かった稀有な才能を持つ本物の演奏家でした。ピアノリサイタルというものは、文字通りピアノ1台で行われるソロコンサートですが、これを高い充実感をもって、最後まで聴き手を裏切ることなく弾ききるというのは並大抵のことではありません。多くの場合は、その良さよりも欠点や力不足のほうが浮き彫りになってしまう、まさに苛酷な形式のコンサートだと云っていいかもしれず、このソロリサイタルのチケットを購入し、わざわざ会場まで赴いてくれた聴衆に、音楽的な、あるいは演奏そのものとしての正味の喜びや感銘を与えられる人がどれだけいるでしょう。
 
 世界的なクラシック不況は、時代背景やさまざまな要因が複合的に折り重なったものだと見るべきですが、そのひとつとしては本当に掛け値なしの充実した演奏を提供できる大物演奏家の不在、もしくは激減によって、演奏家も小粒になり、コンサートそのものに魅力がなくなってしまったということを多くの人が、コンサートの現場で肌で感じてしまうことも、コンサート離れが起っている一因だろうと思います。
 
 昔に比べて音楽をする人の平均的演奏能力がずいぶん上がったといわれますが、そんなことは聴衆にはまったくどうでもいいことであって、一握りの特別な才能を持った、ずば抜けて素晴らしい演奏が聴けるコンサートに自分が立ち会えたときに喜びを感じ、心に衝撃を受け、満足を覚えるのはいうまでもありません。
 現代はあまりにもステージに立つべきではない人が、なんらかの欲求や処世術、不見識によってステージに上がってしまうことがしばしばですが、ユジャ・ワンはその点でも、ステージに立つべき人間として生を受けた数少ないピアニストのひとりだと久しぶりに思わせられました。
 
 最後に、これは書こうか書くまいかとずいぶん考えましたが、やはり敢えて書くことにしたのは、彼女のステージでの出で立ちについて。
 ユジャ・ワンがステージで身につける衣装は、その圧倒的な演奏能力とは真逆を行くような、ほとんど衣装と呼ぶことも憚られるほどの、過激なお色気ギャルかなにかのようで、このときも前半はダークグレーの片方の肩にだけ布が引っ掛かったような衣装で、下も挑戦的な超ミニ状態。ほとんどターザンの奥さんがジャングルから飛び出してきたようでしたし、後半はキャバクラ嬢もびっくりというようなド派手なピンクの衣装で、生地が胸のすぐ上でかろうじて身体に引っ掛かっているだけで、やはりこちらも下は超ミニで、足は限りなく付け根から全部が外に出ている状態。こちらはまるでプールか海水浴場からそのままホールに直行したごとくでした。
 おまけに足元は、おそろしくヒールの高い黒のパンプスで、それでペダルを踏むものだから、そのたびにつま先をぐいぐい下に押し込むようなちょっと不自然な動きになっていますが、それであれだけ抜群の演奏をするのですから、とりあえず聴衆はその違和感にしばらくの間惑わされ、目の前の現象にどう整理をつけていいのか当惑させられるのは、普通の平衡感覚の持ち主ならまず避けられません。
 
 個性的といえばそうなのかもしれませんが、あれほどの過激な姿でクラシックのソロリサイタルをおこなった器楽奏者というのもちょっといないのではないかと思います。彼女の場合、まずこのビジュアルというかペルソナによって、その驚くべき才能にもかかわらず、ずいぶん損をしているような気がしてなりません。
 
 現にこの時も、呆れるばかりの素晴らしい充実した演奏をし終えたにもかかわらず、客席からの拍手は不当なほど閑散としたもので、こういう扱いはいくらなんでもないだろうと驚きました。とくに聴いていて陶然となるほどの名演だったラフマニノフのソナタの後も、パラパラという義務的な拍手が聞こえるだけで、さすがにちょっと気の毒になると同時に、演奏者に対するその非礼は到底納得できるものではありませんでした。
 たしかにはじめはその奇抜な着衣に度肝を抜かれはしますが、そうだとしても最終的には演奏家は演奏が勝負なのであって、あの冷淡な態度がもし服装のせいだとしたら、聴衆の耳のレベルを疑わざるを得ません。
 
 その後、アバド指揮のマーラー・チェンバー・オーケストラとの共演で、ラフマニノフのパガニーニ狂詩曲と協奏曲第2番が入ったCDを購入しましたが、リサイタルの時ほどの輝きをダイレクトに感じることはなかったものの、そのいかにも安定した技巧と、ゆるぎない語り口はやはりタダモノではないと思いました。
 さらに感じたことは、やはり運動能力的にも格別に上手い人というのは、音やタッチにも余裕があるためか、ピアノがまったく悲鳴をあげることなく、常にやわらかで、深く落ち着きをもって、なにも格闘することなく太く鳴っていることでした。
 
 
[追記]
 その後、さらにもっとユジャ・ワンの演奏に触れてみたいと思い、とりあえずソロを聴いてみようとドイツグラモフォンから出ている『ユジャ・ワン デビュー! ソナタ&エチュード』と銘打つCDを購入してみました。内容はショパンのソナタ第2番、リゲティのエチュード第4/10番、スクリャービンのソナタ第2番、リストのロ短調ソナタというもの。
 しかし、このCDに限って云うなら、期待に反してそれほどの感銘は受けませんでした。もちろん抜群に上手い演奏ではあるし、彼女らし い演奏の特徴もあるにはあるけれども、全体としては技巧の勝った演奏で、音楽が筋肉質に過ぎ、スポーティな魅力に終始している印象で、これでは音楽に酔いしれるには至りません。
 先日テレビで見た今年のリサイタルでの、あの指先から解き放たれるような、音楽が自由に今そこで生まれて広がってくるような魅力は残念ながらまだありませんでした。
 このCDは2008年の収録なので、5年前(21歳)の演奏と云うことになるし、CDデビューということもあってか、まだまだ随所に固さがあるようです。ということはユジャ・ワンが
本当に光彩を放ち始めたのはこの1、2年のことではないかとも推察されました。
 桜前線ではありませんが、まさにこれからどこまでこの天才が大きく花開いていくのか、その開花状況が楽しみという、そんな目の離せない時期に差しかかっているのかもしれません。