調律師の悲哀

 世にいう調律師。正しくはピアノ技術者。
 この仕事こそピアノの健康を整え、病気を治療し、新たな生命を吹き込むピアノの主治医である。時に整体師となり時に外科医にもなる。この調律師の技術があってはじめてピアノは時を経ても尚ピアノでいられる。ところが、実際の現場にあってはさまざまな制約や無理解が多いらしい。まずその元凶のひとつに、依頼者サイドのこの仕事に対する無知がある。
 例えば、一般的にはピアノ本体は高いお金を出して買っても、その維持管理にはなかなかお金はかけない。日本人は全般的に信頼性が高い故障しない商品というものに慣れていて、ピアノも無意識のうちにそちらに分類されているのではないかと思うがどうだろう。楽器には絶えず管理や手入れが不可欠で、ピアノを所有するということは、折々に手入れもしていく事だという単純素朴な事実をまず知らない。必要なのはメーカーの定めた年に一回の調律だけで、それ以外にやらなければならない多くの整備や調整項目があるなどとは、大半の人はまず思ってもいないだろう。

 そもそも調律師という言葉が良くない。この職種名称によって仕事の内容は「調律」という一点にあっけなく規定されてしまった。ある調律師が言った言葉だが「我々の仕事は“調律”以外ではまず金が取れない。状態がひどくてやむをえず調整や修理に何時間かけても、客はそれを有料の仕事とはなかなか見てくれない。調律は有料でもそれ以外はサービスという観念が根深くあるから、調律代以外の請求をするのはなかなか難しい。下手に請求してマイナスイメージを持たれては、以降仕事が来なくなる恐れがあるような気がして、泣く泣くサービスにしてしまうこともある。」というような、なんとも気の毒な、笑うに笑えぬ嘆きを聞いたことがある。

 あらためて言うまでもないことだが、ピアノの内部は大半が消耗品の集合体である。それでも他の一般的な機械類に比べたら耐用年数はかなり高い方だと思うが、それでも消耗品は必ず消耗する。どんなに適切に調整されたものでも、弾いていれば必ず音やタッチは狂ってくるし、変化してくる。
 ところが、一般的なピアノユーザーはそのあたりがまずわかっていない。「ピアノの寿命」ということに対しても、日頃の管理やメンテによって良い状態を維持しながら、少しでも長持ちさせるという知識も考えもないために、ピアノが古くなれば要するにモノがダメになるわけだから、廃棄するか買い換えるしかないという発想である。逆にいえば、ダメにならない限りはピアノは半永久的にピアノの機能を有しているものと思うようで、やはりユーザーは調律だけしていればいいと思っている。

 これには実はメーカーにも責任の一端があって、へたに手入れを勧めて寿命を延ばすよりは、適当な期間をおいて買い換え需要が見込めることの方がいいというのが本音だから、専門家の言いなりのユーザーはいつまで経っても正しい知識やそれに基づく自分の考えとか価値観を持つには到らない。
 このような背景のもと、無知なユーザーはできれば調律なんてお金のかかることさえもしたくないので、それ以外のことはサービスで当然と言った感覚である。調律師の職業人としての苦悩も尽きないわけだ。

 ところが中には調律師のほうにもひどいのがいて、ユーザーの無知を良いことに、必要箇所の修理・調整で難なく事足りるピアノを、少々のことでは復活する見込みのない酷いポンコツのように言いつのる。修理代のほうが高くつきますよというような殺し文句を巧みに使い、ユーザーの心理を操ってまんまと買い換えへともっていく、いわば「調律師の顔をした営業マン」の類も多くいると聞く。
 だが、ひどいのはそういう調律師だけでもない。ユーザーの中にはピアノはほとんどほったらかしで、内部はサビとカビのオンパレード、ひどいときにはピアノ自体がネズミの巣になっていたりで、調律師が自分本来の仕事などとてもできないようなピアノも少なからずあるというから、そんな客は買い換えを勧められても仕方ないような気もする。どっちもどっちというところか。

 そういう場合はともかくとしても、誠実な調律師にしてみても、決められた料金と時間の中でいかにして良心的な仕事をするかという選択の問題があり、必然的に妥協的な仕事にならざるを得ない場合が多いといえる。だからとてもやりにくい仕事ではあるけれど、それでも時間=料金をあまりにドライに割り切る人だと、やはりいい仕事ができる筈はない。そこは誠実な仕事の積み重ねによって客の信用を得て、少しずつピアノのメンテの必要性や、それには料金がかかることを説いて、理解させないことには道はないという気がする。
 技術はあっても、それをプロとして思う存分発揮できるフィールドが乏しいというのは、とても辛いことだと思うが、だからそこに下手な調律師が入り込む余地もあるということかもしれない。

CDは食料品?

 自分で言うのもなんだが、マロニエ君は昔からかなりCDをよく買う方だと思う。
 繁華街に出かければ、CD店を素通りすることはまずない。

 さて、かねてより思う事だが、CDというのは他の販売商品とは決定的に違うところがあると思う。それは中を確認して納得の上で購入することが、基本的にできない商品という点だ。店によっては、試聴コーナーのあるところもあるが、それは店側の選んだほんの一部のCDにすぎない(しかしそのお陰でマロニエ君は買わずにすんだCDが何枚もあり、その分は他のCD購入に充てることができる)。

 一般的にこんな買い方がまかり通るものはあまり無いのではと思う。 
衣服でも、家庭用品でも、文房具でも、マンションでも、車でも、電気製品でもしかり。いずれも商品がどういうものか一応の確認ができ、服は試着し、車は試乗ができ、電気製品でも大半はある程度試すことは可能だ。

 ところがCDだけは、特別なものを除き事前に中を確かめ納得した上で購入することはできない。わからないまま購入の決断を迫られ、お金を出して自分の所有物とした上で、はじめて封を切り、再生装置にのせてようやくその内容に触れることができる。その段階でどんなに嫌いな演奏だとわかっても、失敗だったと悔いても、もう遅い。申し出たことはないが、気に入らないから返品することはおそらくできないだろう。
 したがってCDに投じるコストには、必ず捨て金の余地を残さねばならない。LPの時代じゃあるまいし、いまどきこんなことおかしくないだろうか。いや、LP盤でもマロニエ君が子供のころ、乞えば店員が丁寧な所作でかけてくれたっけ。こんなところにもCDが売れない理由の一端があるのではないか。
 開けてからのお楽しみでは、まさに福袋と同じだが、まさかCDを買うために年中お正月気分でいるわけにもいかない。

 生のコンサートや芝居、美術の展覧会などが代金先払い結果は後のお楽しみというのはわかるけれども、書籍や絵画なら、どんなに高尚なモノでもあっても、売買する際は商品なのだから、充分手にとって納得してからの購入ができる。逆に事前確認ができないものとして思いつくのは洗剤や薬品などだが、これはやむを得ない。できそうでできないのはCDである。
 買って試すまで結果がわからないという点では、食料品と同じではないか。デパ地下などでは一部の商品に限って試食ができる点で、僅かに試聴ができる仕組みのCDは共通しているように思う。

 この点をほんの僅かでも解決しようとしているのが大型CD点のネット販売で、ホームページ上では各CDに試聴機能が付加されている場合があるから、これもせいぜい役立ててはいるが、これもやはり一部のCDだけだし、本当に試聴してみたいような珍しげなCDには大抵その機能はない。おまけにこれらは試聴時間がきわめて短時間に制限されているので、たとえばモーツァルトやベートーヴェンやショパンの協奏曲などは、第一楽章でピアノが入ってくる前に終了となるなど、欠点も多い。それでも無いよりはマシだが。

 マロニエ君はやってみたことはないが、近年はネットからのダウンロード購入など、さまざまな配信形態も生まれ、従来通りにCDを買うという行為がいよいよ減っていく傾向にあるのだろう。

 これだけ販売競争の厳しい世の中で、こんな売り方ではCD業界も衰退の一途をたどるような気がする。とくにクラシックは昔のようなカリスマ演奏家は絶滅寸前で、それを引き継ぐべき若いスターはどれも小粒でパッとしないから、レコード会社もなんらかの対策が必要ではないか。対策と言っても音楽家の本分以外のルックスやタレント性重視の傾向に走ることにも猛反対!

 こんなお寒い状態でも、懲りずにCDを買う事がやめられないマロニエ君のようなアホはそう多くないのだから、普通なら音楽離れがおこり、わけても世界規模といわれるクラシック離れは甚だしいものになる(なっている?)だろう。
 音楽産業も未曾有の危機というべきか。

ファツィオリを聴いて

 ファツィオリ使用の演奏会に行って来た。
 モデルはF308という、同社のフラッグシップたる最大のモデルだ。
 前半はごく近距離で、後半はホール中央席で聴いたが、結論から言うと残念ながらマロニエ君の好みのピアノではなかった。
 何枚か手許に持っているファツィオリ使用のCDを聴いて感じていた事が、実演でもあまりにそのままで、ややマイナスだった印象が好転することはなかった。CDの音なんぞはアテにならないと力説する人が多いが、一定の技術のもとに録音された物なら、後からどんな色づけや編集をしても、楽器の実像は変えられないことも併せて確認できた。CDで感じていた疑問は疑問のまま、違和感は違和感のまま、ステージ上の現物ピアノの発する生の音で確認できたのは、いちおう納得できたということにはなる。

 ファツィオリは今や世界屈指の高級ピアノ市場に名乗りを上げ、短期間で高い評価を得るに至ったようだが、実際に聴いてみて、これが今ヨーロッパで大絶賛の、現代最高峰の超高級ピアノ!…となると、マロニエ君はちょっと疑問が残る。

 まずは開演前に調律師が出す音を聴く。中高音などを単発で聴くぶんにはなるほど甘やかな伸びのある音が聞こえるし、低音は広大な響板と長い弦の作用か、豊かに湧き上がるような響きを持っている。

 しかし、ひとたび曲になると、なぜか一本調子で退屈する。ピアノが音楽を雄弁に語れず、音もしくは音の飛び方に開放感がないので次第に息苦しさを感じてくる。音色は現代的な明るめの音だが、正直言ってマロニエ君の耳には音色から来るこの楽器の個性がわからなかった。これぞファツィオリの音というべき個性がどこにも感じられず、制作者がどんな音色や響きを理想としているのかも、わかる人にはわかるのかもしれないが、残念ながらマロニエ君にはわからなかった。スタインウェイとヤマハを混ぜ合わせたような音にしか聞こえない。

 材料などはすべて最高級とされるものが使われている由だが、単純な意味での贅沢感みたいなものは確かに感じなくはなかった。ただし料理やお菓子などでもそうだが、最高の素材を使ったものというのは確かにそれなりに美味しいかもしれないが、どこかしら素材に依存しすぎて全体がバラバラな印象があり、一つの作品としての収束性に乏しくて一種の虚しさが残る。ピアノに限ったことではなく、少なくともマロニエ君は最高のものずくめというのが、却って貧しさの裏返しのような気がして抵抗感を覚えるし、その手の世界特有な鬱陶しさを感じる。
 素材が大事じゃないとは決して言わないが、もっと別の要素、例えば作り手の狂気に近いような感性のほとばしりや、目から鼻に抜けるような技の冴え、危ういところでほとんど奇跡のように保持される天才的なバランスみたいなものなど、尋常から突き抜けて高みに達した何かが欲しい。超一流の楽器とはそういうものだとマロニエ君は思っている。

 素人の私がこんな事を言うのもなんだが、ピアノにとって第一に大切な点は、基本設計そのものではないかと思う。それがあってこそ材質や工作の質の高さも生きてくるような気がするのだが。

 ファツィオリを聴いていてまず率直に感じることは、わくわくさせるものがない点だ。その原因の一つが、全域にわたって、音色の変化があまりにも無さ過ぎる点ではないだろうか。これを技術者サイドではムラがなくて素晴らしいと言う人もいるだろうが、マロニエ君の耳には、とりあえずきれいな音が上から下まで順番に並んでいるだけで、ぜんぜん面白味がない。
 遊び好きで、太陽と情熱の国イタリアにしては、ずいぶんとお堅くて慎重な優等生だ。とりわけ音楽的な躍動が感じられないし、音色の変化や陰翳の乏しさは、まるで何を演じても芸の変わらない俳優のよう。これならば、長年この点で非難され続けた日本のピアノに対する評価は何だったのだろうと思う。なのに、ファツィオリの話となると、誰も彼も別格扱いして褒めちぎるのは、ちょっと不可解である。
 素材、手間、工作、制作時間など、いわば工芸品として見れば、ファツィオリは最上級の商品なのかもしれないが、楽器としてのピアノの本分には、他社の幾つかの世界的メーカーのピアノには未だにすごいものがある!とあらためて感じた。

 ファツィオリはマスコミにもよく登場し、作りの豪華さや金メッキのパーツ類など、音以外の部分でも高級品としてのわかりやすさを持っており、多くの美しい宣伝写真やロゴデザインなど、人の耳目を引き寄せる話題には事欠かない。
 ことにイタリアと言えば誰知らぬ者のない芸術の国であり、ピアノ発祥の国。かのストラディヴァリウスはじめクレモナの名匠達がいた国、ミケランジェロからフェラーリまで、とにかく超一流のありがたい要素が無尽蔵に揃っているわけで、極東の島国とは違ってイメージは作りは思いのままだろう。
 そういう背景を前に、この現代に敢えて100年前のピアノの黄金時代そのままのような工法と厳選された貴重な材料によって少数生み出される理想の超高級ピアノ。響板はストラディヴァリウスと同じ地域で取れた貴重な木材云々。現代人は、このようなローテクづくめのエピソードには案外抵抗力が無く、コロッと参ってしまうところがある。私の知り合いでも、ITやハイテク関連の人達に限って、やたらに古い車やカメラや真空管などを有り難がり、崇め奉っているのである。

 終演後にステージ上で見学のチャンスが与えられたが、ボディ外板の内側に貼られたこれでもかといわんばかりの贅沢な木目装飾など、好きな人にはたまらないものがあるのだろうが、マロニエ君にはちょっとやり過ぎの成金趣味のように見えた。
 すこぶる美人で、大層なセレブらしいが、どうにも表面的で好きになれない女性。
 マロニエ君にはファツィオリはそんなピアノのような気がした。

ピアノは機械?

 ピアノは楽器であると同時に、巨大で複雑な「機械」でもある。

 ひとたび工場から出荷されると、あとはどんな境遇に置かれるかも知れないピアノ。
 とりわけホールやスタジオのピアノは施設の備品であり、他の楽器のように所有者の愛情のもとでぬくぬくと生きられる箱入り娘というわけにはいかない。それでいて、大舞台での活躍という武功は立てなければならず、まことに辛い境遇に生きる戦士のようなものだ。

 ピアノの調整は、素人の手出しを許さない専門家の領域である。
 日本では一般にこの職業を調律師と呼ぶが、調律はピアノメンテの中の作業項目の一つに過ぎないのだから、本来は「ピアノ技術者」というべきだろう。そしてその技術者の技術はピンキリなのだが、普通の人にはなかなか判断のつくものではない。
 専門的な仕事というのは、なかなか素人に巧拙がわかりにくいものだが、中でも調律はそのわかりにくさが強いもののひとつではないだろうか。音やタッチの良し悪しも、わからない人のほうが圧倒的に多いし、なにか感じるものがあってもどう表現して良いかもわからない。下手な調律師でも、調律した直後だけは音程が揃うことでパッと明るくなり、とりあえず良くなったように感じるものだし、そもそもタッチなどまで細かい注文を付けてくる客はほとんどいないのが実情らしい。調律がどんなに下手でも、ピアノなら人身事故や健康被害がおこるわけでもなく、明解な責任を追及されることもないから、まさに玉石混交の世界だと言える。
 下手な調律師でも、短期間の講習を受けるなどしてメーカー認定の資格などを得ることで、もっともらしく重要な現場にも立つことになることもあるわけで、怖い話ではある。

 一方、メーカーサイドも普通の調律師がそれなりに仕事になるよう、構造的には世界基準を持っていなければならないし、マニュアル化された技術を普及させなければならない。
 あまり理想を追求しすぎて調整枠を広げたり、独創的な機構をもたせたりすれば、そのぶん特殊な知識や経験、あるいは応用力が必要となり、技術の低い技術者では対応が困難となってピアノは本来の性能を発揮できなくなる。
 別項で述べた、メジャーなメーカーで独立アリコートなどを採用しないところが多いのは、ひとつには技術者にそこまでのレベルを期待していない為ではないかと思える。

 私見だが、名だたるメーカーが本当に目指すところは、絶頂点の輝きではなく、その少し下にある「平均点の高さ」ではないだろうか。すなわち製品の均質化であるような気がする。昔のスタインウェイなどは惚れ惚れするような個体があったかと思えば、あれっと首を傾げたくなるようなものもあった。いわゆるばらつきがあった。これは生産クオリティの問題に加えて、保管状況や技術者のレベルに、その差が大きく影響した為だろうという気がする。
 つい先日読んだ本にも、スタインウェイのニューヨーク工場勤務者の談話として、必要なハイテク化によって製品の安定度が増したという意味のくだりがあった。また、ある専門家の話によると、ピアノの構造の中核である響板のニスを、最近はけしからんことに厚塗りしてくるようになり、その為に楽器の鳴りに悪い影響が出ているとのことであった。 
 おそらくメーカーはデメリットは重々承知の上で、敢えてニスを厚塗りすることで、温湿度などの悪影響から響板を保護することのほうを選んだと思える。現に以前のスタインウェイの響板は環境によるのだろうが、表面に無数のクラックが入ったり割れが生じたりしていた。
 要は安全武装したピアノということだろう。

 メーカーは、一部の圧倒的な素晴らしさより、悪評の徹底的な排除を目指しているように見受けられる。
 その為には、ピアノの両面である楽器と機械のバランス比率にそっと修正を加え、機械的な安定を与えることで得られるメリットを優先し、メーカーとしての体面をしたたかに維持しているように思える。

 理想を追求し過ぎると、そのぶんリスクも増大する。
 音楽芸術の分野でこのような選択がなされるということは寂しいことではあるが、楽器メーカーは企業であって工場は芸術家のアトリエではないことを思い起こせば、やむを得ないことなのかもしれない。

調律師もいろいろ

 調律師といっても巧拙様々であることは別項で述べた。
 あるときマロニエ君が偶然目にして驚いたことだが、某有名メーカーのショールームに用があってたまたま行ったときのこと、ズラリと並んだグランドピアノ群の調律を二、三人で同時にやっているところだった。まさか調律という作業を同じ場所で同時に何人もがやっていることじたい衝撃だった。さらにそのやり方はこれまで我々が長年慣れ親しんだ方法、すなわち中央のAを基準に調律師の鍛えられた耳と技術によって、順次音程をとっていくのではなく、それぞれの目の前にはノート型のパソコンがあり、その画面に映し出される曲線を見ながら淡々と事務作業のように調律を行っていたのである。見れば男女混合の若い人ばかり。

 機械で合わせる調律があることは、マロニエ君の知人がやはりこの手のソフトを使って自分のピアノの調律をして楽しんでいることもあり存在ぐらいは知ってはいた。事の是非はともかくとして、すごい時代になったもんだとその時は思った。これには良い点も当然あるわけで、ひとつにはパソコンのデータに基づいたばらつきのない調律が誰でも可能というメリットがあり、下手な調律をするより安定した結果は得られるし、使い方次第という点で単純にこれを否定するつもりはない。さらにショールームのピアノには商品としての均一性などが求められるだろうから、これはこれで効率の良いことかもしれない。
 とは言ってみたものの、やはりちょっと驚きの光景ではあったし、それを営業時間中に何憚ることなくやっていることに、クールに割り切ったメーカーの企業方針を見せられてようで、あまり見たくはない現場に行き合わせてしまった感は否めない。おそらく本物の調律師なら、技術者としてまだまだ成長過程にある若い人達が、そういうものに頼って調律をするなど、受け容れがたいことだろうし、彼らがピアノ技術者として本物への高みへ向かって登っていく人達ではないだろうと直感した。

 マロニエ君はべつにコンピュータが無条件にダメで、昔ながらの職人の勘と経験による仕事ならすべて良しと単純に言うつもりはないし、ピアノ技術者を苦行の精神主義のように捉えているわけでもない。
 しかし、ある意味では調律の世界ほど奥の深い玄妙な世界もないのであって、調律に対する様々な考え方とか、僅かなさじ加減一つ、ユニゾンの取り方一つで、ピアノはいかようにも表情を変える楽器であるのは事実である。ピアノ技術者のなすべき幾多の作業の中でも、究極的には、調律こそは極めればそれ自体が芸術の領域に到達できる唯一の精髄であり、大げさに言えば孤高の領域だろう。しかし、若いうちにパソコン画面を見て機械的に音程を揃えるような経験をすれば、いつまでたってもその道の芸術家は生まれることはないだろう。それはコンピュータを使う事そのものより、そういう安易性を体験してしまうことで、技術習得への姿勢や意欲、ひいては音への価値観や審美眼になんらかのマイナス影響があるような気がしてならない。芸術の本質はデータにはあらわれない領域に棲んでいる。その最も重要な勘どころや調律の多彩な可能性など、経験的に学び取っていくことを独立して修得することは不可能だろう。データに依存する習慣のある人は、データがないことにはからきし歯が立たないし、不測の事態に遭遇しても応用がきかない。
 ある高名な調律家は言う、「キッチリ合った調律ほど聞いていてつまらないものはない」と。
 確かにそうだろう。声楽や弦楽器は、音程を取ること自体が音楽表現上のテクニックであるし、その音程とは音楽の命じるまま臨機応変に微妙に変化したり僅かにズレたりするものだ。そういう技巧的余地が悲しいかなピアノ演奏には残されていないぶん、調律家はピアニストや演奏される作品を念頭におきながら、精妙巧緻な調律を施すことによって、ピアノに輝かしい生命感と表現力を与えている。

 そうは言っても、現実に会社に勤務すれば会社の意向に従わなければならない。会社は企業体である以上、当然ながら効率や費用対効果の判断にはさだめし厳格だろう。しかし本物を輩出する背後にあるもの、それはどうしても採算を度外視した価値世界であり、飽くなき修練と追求と労苦の集積である。
 同じ調律師といっても、かくもたどる道が異なれば、最後に行き着く先は「調律家」と「調律社員」ということになるのは致し方ないことか。

フレームを奏でるスタインウェイ

 先日NHKの音楽番組で、とある海外の合唱団の日本公演のもようを放送していた。
 みるともなしに見ていたのだが、しばらく合唱のみのパートが続き、その後にピアノの音が加わってきた。そのときの衝撃はいまも忘れられない。左隅に置かれたピアノはおなじみのスタインウェイである。
 この如何にも耳慣れた名器の華麗な音の正体がこのとき、咄嗟に理解できたように感じたのだ。しばらく合唱の声に耳が慣らされた後だった為に、ひときわ鮮明にその特徴を感じられたことと思うが、スタインウェイの音の核心はフレームにあるということがつくづくわかった。あの力強くて美しいスタインウェイの華麗な音色は、ほとんどフレームによってもたらされていると直感したのだ。

 昔からうすぼんやりと感じていたことではあるが、イメージとして、スタインウェイは響板品質に対し最上級の価値や執着みたいなものがあるようにはどうしても感じられなかった。もちろんピアノである以上、響板は大事でないはずはないけれども、他のメーカーほど神経質に響板を最重要視しているようには思えなかったし、そんな単純なことでスタインウェイのあの音色が生まれるとは本能的に思えないでいた。では何なのか。それはわからないけれども、全体の類い希な設計の賜物というイメージだった。

 巷間言われていることに、世界の三大メーカーの特徴として、ベヒシュタインは響板のみを鳴らし、ベーゼンドルファーはフレーム以外の木材すべてを鳴らし、スタインウェイはフレームを含めた楽器全体を鳴らすという言葉がある。もちろんこれは各メーカーの特徴を大雑把にわかりやすく表現した名言で、ある程度当たっているだろう。
 世界の名器といわれる楽器には、筆者などでは表現しきれないそれぞれ独自の個性や魅力があって、極上の素晴らしさを有していることは言うまでもない。

 しかし、スタインウェイだけは他のどのピアノとも異なる、他を寄せ付けない世界が完璧な形で存在していて、とにかくこれが大きな謎だった。ステージや録音の世界ではスタインウェイは圧倒的な覇者でありスタンダードであり、悪くいえば独占に近い様相を見せているけれど、ピアノ一般の標準という点からいうと、この楽器はきわめて異色の存在であるように思えてならない。

 それらの謎がフレームというキーワードによってわかりかけてきたように思える。
 スタインウェイの音の秘密は、例えていうならプリウスが電気とガソリンエンジンのハイブリッドであるがごとく、響板とフレームのハイブリッドピアノだとは言えないだろうか。それを100年も前からやっていたのであるから感嘆せずにはいられない。
筆者は素人なので専門的なことはわからないが、あのスタインウェイ独特の音色のざらつきもフレームによるものだと思える。そして弦を叩いて響板の発した音を、フレームが引き継いで空気中に増幅させていく。

 一般にピアノの音は、木の音を主体としたピアノは上品でやわらかくて、それだけでまるで何か最上のもののようにいわれるが、筆者にはどうかすると、木の音色に特有のある種の野暮ったさを感じることも少なくない。でも、自然とか木とかいうと、疑いもなく最上のものであるかのように言われる傾向が、とくに通人の間にはないだろうか。そういう人達は大抵スタインウェイ否定派である。
 また、これも個人的な印象だが、響板にこだわったピアノは中音などに、ふくよかでえもいわれぬ美しさと歌心を持っていることがある反面、どこか一本調子でお説教臭いところがあり、弾かれる作品に対する多面性がないことや、あるいは低音域はゴツンとかブワンといった不恰好な音色だったりすることがある。

 スタインウェイ以外にフレーム依存度の高いピアノといえば、わずかにグロトリアンとプレイエルを思い浮かべる。グロトリアンは先祖で繋がっているから当然としても、プレイエルのあの華やかさ、明るさの中に潜む悲しみ、軽快だが陰翳に富む音色など、その陰にはフレームが大きく介入したものだと感じるのだがいかがだろうか。
 ショパンのような圧倒的な洗練と、極限まで磨き抜かれ作品を、木の音のするピアノで弾いてもどこかミスマッチになるのは、理由がわかるような気がする。

ホールの音響

 近ごろのコンサートと来たら、「行きはよいよい帰りはこわい」ではないが、期待して行っても十中八九は落胆し、おまけにひどく疲れて帰途に就くことになる。止めどもなく生あくびが出て、良い音楽を聴いて楽しみたいという願いが裏切られ、こんなことなら家でCDでも聴いていれば良かったと後悔したことが今までに何回あったことだろう。

 もちろん第一には演奏それ自体のつまらなさもあるけれども、その陰に隠れたもう一つの理由は、ホール音響の劣悪さからくる不快感のせいで、脳が疲労させられるからだと特に最近思うようになった。
 昔はホールと言っても多目的ホールだったし、時代が時代だったから、建築に際しても音響などにはほとんど言うべき配慮はされなかったことだろう。オーケストラやリサイタルを聴いた同じホールで、また別の日にはバレエ公演や芝居を見ることはごく普通のことだった。そのために残響の少ない、コンサートにはあまり向いていないホールが多かったことも事実だった。ところが1980年代あたりを境に日本の音楽文化も成熟して新たな局面を迎えたということなのかどうかは知らないが、「コンサート専用ホール」というのが姿を現し始め、以降、雨後の竹の子のごとく全国にこの手のコンサートホールが乱立するようになった。
 この現象は、音楽ファンとしては喜ぶべき事であるはずだが、実情はそうではないとマロニエ君は思っている。
 このコンサート専用ホールの登場に伴い、必然的に音響学というジャンルが設計段階から採り入れられることになり、豪華さと併せて凝った反響板や美しい木材を随所に惜しげもなく使った眩いばかりの内装が施され、残響何秒というような数値が当たり前のように求められる時代を迎える。しかし、そこで活躍するのは肩書きは立派でも、おそらく本当の音楽を知らない理系の専門家達であり、科学的に理想とされる数値だけが一人歩きをしはじめたのではないだろうか。
 その結果、ともかくもホールはよく響くようにはなった。なったけれども、マロニエ君が本当に美しい響きだと思えるようなホールは知る限りでは全体の一割もない。
 音響の専門家というような人達が優秀な頭脳を注いで作り上げた空間であるはずなのに、そこに飛び交う音は、腰の座らない、つかみどころのない、輪郭のぼやけた騒音のオンパレードである。とくにピアノリサイタルの場合は悲惨で、一つのアタック音だけでも壁や床などへ幾重にもぶつかり合い、音の方向性も定まらない。ピアノから出た音は、客席に届く以前に散り散りとなり、パレットの絵の具を引っ掻き回したようにめちゃくちゃに混ざり合い、とてもじゃないがまともに聴いてはいられない。もはや演奏の良し悪し以前の問題で、これではピアニストもお客さんも、あまりにも不幸ではないか。
 まるでエコーをかけすぎたマイクか、さもなくば銭湯にピアノを置いて弾いているようなものだ。あんな音なら床や壁が木でもガラスでもコンクリートでも、大差はない。誤解しないでいただきたいのは、マロニエ君は本来ホールの音響などにはぜんぜんうるさいほうではなく、むしろ無頓着な部類だった。グルメではなく、なんでも美味しいとよろこぶ口だった。それでも近ごろのホールのあまりに次元の低い“雑音響”には、音楽を愛する者としてとても我慢できないし、そういう場所でしかコンサートが聴けなくなった現状が情けない。

 マロニエ君の居住地は福岡市であるが、市の中心部にも最高グレードを謳ったコンサートホールがあるけれど、その音響の酷さと言ったらない。先日も日本が誇る世界的閨秀ピアニストのリサイタルに行ったが、彼女の指から紡ぎ出されるデリケートな演奏の妙技は、このめちゃくちゃな音響のために半分も聞き取ることができなかった。
ここに限ったことではなく、近隣の大小様々なホールはだいたい似たような傾向である。今後は益々そういう会場でしかピアノリサイタルを聴けないのかと思うと暗澹たる気分になる。

 今年の音楽の友の誌上インタビューで、ポリーニがかつての東京文化会館のクリアーな響きがなつかしいというようなことを語っていたが、これも過剰な音響を暗に批判しているマエストロの精一杯の言葉だとマロニエ君は解した。
 いっぽう、売れない無名のピアニストが、ごく稀に古い会場を使うことがあるのだが、音響設計など皆無に等しい古びたホールの響きが、実はピアノにはとても素晴らしかったりする。世の中、いったいどうなっているのだろう!

 新しいホールはどこも豪華でモダンで立派だけれども、そこが音楽をぶちこわしにする場所だと思うとまったくやりきれない。

技術者のレヴェル

 技術者の技術的レヴェルを見分ける尺度とはなんだろうか? そのひとつして以下のようなことを平生よりマロニエ君は思っているので、ちょっと怖い内容だが書いてみることにする。

 そもそもピアノ技術者の要件とはなにか? 
 これは簡単なようで難しい問題だが、大別すれば純粋な技術水準とあとひとつはそれを使いこなすセンスといえるのではないか。どんなに高度な技術があっても美的センスがなくてはダメだし、センスがあっても技術が低いとそれを具現化できない。つまり美的センスや音に対する価値観も大事な技術の一つであるとも言い換えることができよう。そんなわかりきったことをくだくだしく言うまでもなく、本物の技術者というのは不思議にわかるものだけれど。
 一般的には有名楽器店や一流メーカーお抱えの技術者であるとか、どこそこのホールの専属であるとか、有名ピアニストの御用達、あるいはコンサートのリクエストが多いなど、まあ自分は一流でございますと表現する通俗的な手段はいろいろあるだろう。だが実際にはそれだって疑わしいし、さらに家庭のピアノ調整で上手くて誠実な技術者を捜して判断することは至難の業だろう。
 要するに、マロニエ君は肩書きが全て無意味だとまでは言わないが、それを安易に信用してはいけないと思っている。そういう立派な肩書きをもっていても、ごく平凡な仕事しかできない人も現実にいるし、肩書きとは逆に仕事の酷いことで有名な人もいる。それがこの世界の現実である。技術は技術でも処世術に長けていることも肩書き獲得には重要なようだ。しかし、市井の片隅で、ことさら派手なスポットライトを浴びるような出番はなくとも、優秀で良心的な技術者は、少数だがちゃんと棲息しているのも事実なのである。
 ただし、そうでない「並&並以下」の技術者がわんさかいる中から本物を探し出すのは容易なことではない。めちゃくちゃに散らかった部屋の中から真珠の一粒を探し出すぐらいの覚悟で、根気よく本物の技術者を見いだし、なおかつ「お任せ仕事」にしないで、できたらこちらも勉強しながらお付き合いさせていただきたいものだ。

 マロニエ君としては、まず技術者の評価基準の要である仕事の技術は当然だけれども、専門家でもないこともあり、今回は敢えて別の視点から見ていきたいと思う。
 はじめに技術者の「気質」に注目したいと思うのであるが、本物の技術者には、資質として音に対するセンスと手間暇かかる作業への忍耐力、さらにはある一定のマニア性のようなものをもっていなければならないと思う。良い技術者か否かの分岐点は、単なる技術の巧拙のみではなくて、技術者の良心の部分がピアノ調整という仕事には、想像以上に大きく関わってくる問題だからだ。いわゆるピアノ技術者の仕事は、やるべき事をやり始めたら際限がなく、逆に省略しようと思えば、いくらでも省略できる世界だ。その決断ラインをどこに持ってくるか、その時に良心が大きくものを言う。

 マロニエ君が良心的な技術者として信頼を置くO氏は次のような興味深いことをおっしゃる。
『自分は特別すぐれた技術を持っているわけじゃない。ただ、もし他の人と違う点があるとすれば、それは技術者として「ごく基本的なこと」「当たり前のこと」こそ第一と心得て、まずそれを忠実にやっているだけです。だれでも調律師学校に行けば等しく教わる基本的なことなんだが、実はプロになるとこれをおろそかにしている人が多いんですよ。』
 つまり、まずは基本的なこと、当たり前のことをやるだけで、ピアノはめざましく良くなるというわけだ。ここまでで9割は完成しており、あとの1割、ここが神業の領域だと思っている。

 困るのは自信過剰の人だ。この手合いは必要な謙虚さを失い、視野や価値観が狭くなっていて、独善的な偏った仕事しかできない。自信を持つことは大切だが、それが強権的に先行するとその先にはもう進歩はない。謙虚で柔軟で、常に新しいことに対する興味や向上心を失っていない人こそ、優れた技術者の要件の一つだと思う。
 もうひとつ、マロニエ君はピアノに限らず、さまざまな技術者の評価ポイントとして「他人(とくに同業者)を褒める人かどうか?」という点にも注目している。だいたい他人を素直に褒める人は自分に自信と余裕があり、それでいて自分の仕事に対しては厳しく純粋であると経験的に感じる。逆に他人を褒めない人は競争心ばかり旺盛だが実は自分は大したことはないと知っているので、他者をけなすことで自らを優位に立たせようとするらしい。

 良い仕事のできる人は自分のペースを守り、ときに無邪気な一面さえ持っているものだが、逆の場合、自分の実力や技量を正視せず、自己主張に躍起である。他人を褒めるどころか、だいたい何でも片っ端からケチをつけたがるし、なんでもかんでもとにかく批判になる。それもいかにも雑談的にさりげなく言う。自分の基準はそれほどの高みにあると訴えたいのだろう。この手合いは人を認めないという点においてはほとんど執念のようで、こちらはただただ驚く他はないし、見ていて哀れであるが、当人は精一杯の主張を展開して一定の効果を得たつもりなのだろう。傍目には、それをやればやるだけその人が矮小化され拗くれて見えるのに、当人はどうしてもその点に気がつかないらしい。

 上記のようなことは、お店の体質にも(営業サイドであれ技術サイドであれ)同様のことがほとんどそのまま言える。別項でも少し書いたが、何かにつけよその批判をしながら、自店アピールを巧みにやるような店は底が知れている。聞かされるほうにはバレバレで、この場面に遭遇するとなんともいたたまれない思いをする。
 最後にマロニエ君が技術者の諸氏に知っておいてほしいと思うことは、たとえこちらが専門的な知識や経験がなくとも、その人の技術的レベルというのは不思議に透けて見えるものだということを、どうかお心に留めておいて欲しいということです。もしかすると、却って専門家のほうがいろんな評判や柵もあり、知識や経験が邪魔をして、シンプルな事実がわかりにくい場合もある。
 これは他の業種でも同じだが、優れた本物の技術者の腕というのは、意外にわかりやすいものかもしれない。子供の弾くモーツァルトが素直で美しいように、素人の感覚というのは素直であるぶんとても鋭くて怖いものなんです。ただし、この人はダメだと思っても日本人は黙っていますが。

独立アリコート

 アリコート──この場合のアリコートとは通称で、正しくはデュープレックス・スケールまたはデュープレックス・スケーリングのこと。
 これ、日本製ピアノでいうと、カワイはマロニエ君の思い違でなければ50年以上前から装着されていたと思う。一方のヤマハは、ある時期までベヒシュタインを手本にしていたという話は耳にするが、そのせいかどうかはわからないけれど、たしか1960年代まではアリコートは付いていなかった。ヤマハにアリコートが付くようになったのは、外装のデザインが一新され、足はわずかなカーブを描く形状となり、それまでのやや野暮ったい印象のあったYAMAHAのロゴが、現在の縦長でスマートなものになってから後のことだったと記憶している。しかしこのデザインになってからしばらくは、随所に使われるフェルトの色はベヒシュタイン風の渋くくすんだ上品なモスグリーンで、なかなか味わいがあったと個人的に思う。ついでながらフェルトの色で言うと、カワイは長らくあざやかなブルーものを使うことが多く、マロニエ君はのちにブリュートナーの青いフェルトを見たときに「カワイのようだ」と思ったぐらい、昔のカワイはブルーのイメージが強かった(ブルー以外が無いわけではなかったようだけれど)。ところが今はほとんどのピアノが申し合わせたように赤フェルト一色で、こんなところにも個性や社風が無くなってきたように感じる。
 ついでながら本来のアリコートとは、上記のブリュートナーが共鳴のための為だけに、三本弦の横に打弦されることのない第4の弦を張った機構のことらしい。

 さて、あるところで聞いた話なのだが、通常のアリコート(数音ぶんをひとまとめにして、三本弦を駒の後ろ部分で引っかける金属のパーツ。これにより打弦時に弦長に応じて計算された倍音効果が得られる)を、あえてバラバラの独立したアリコートへと変更することで、その押さえの位置を一音ずつ任意最適に位置を変えられるようになる。その結果、各音ごとに望ましい倍音効果が得られる最適ポイントに調整が可能となり、より美しい本来の響きが得られると力説する技術者の方がいらした。氏曰く、量産品のアリコートでは倍音調整しようにも一音ずつの調整ができないので、アリコートといっても見た目だけで、実際には倍音といえるようなものではなく、ただ出鱈目な雑音を出しているだけという。
 理屈としてはわかるのだが、いかにして最適の位置を探り当てるのだろう。科学的な測定なしにこれをやり遂げるとなると、相当の経験と職人的直感力が必要であろうし、正に手間と根気の世界に違いない。
 いずれにしろ推奨者はこれ以上のものはないかのようにその素晴らしさを力説され、しかもそれだけの作業を出張作業という限られた場所と時間内で理想的に完遂できるといわれたのだが、理論はともかく、全体としてはちょっと鵜呑みにすることはできないような気がした。

 これには思いがけない後日談があって、ある別の知り合いの技術者の話によると、たまたまやむを得ない事情があって、現物を見ないまま下取りをするハメになった世界的ブランドのピアノが、なんとこの「独立アリコート」に改造してあったらしい。このピアノはさるマニアの所有だったものだそうだが、果たしてその効果は?というと、いかにお説は立派であろうとも、現実はとにかくハチャメチャであったらしい。元に戻すだけでもそれはもう大変な作業となり、とんだ貧乏くじをつかまされたと憤懣やるかたない様子であった。
 ちなみに、ヤマハもカワイも、さらにはスタインウェイも実は独立アリコートではない。また、ベーゼンドルファーやディアパソン(現行型は不明)にはこの機構そのものがない。しかし、新興の高級ピアノ、ファツィオリはこの独立アリコートを採用している。
 たしかに、この独立アリコートは最良のピアノ調整を可能にするための、さらなる調整余地を残すものとして、一つの理想形態であるようにも思える。しかし技術者にとってはそれだけ仕事の分量が増大し、同時に自分の技術も厳しく問われるだろう。そのための特殊技術や修練も必要とされ、おそらくは巧拙の差も出やすく、へたをするとピアノそのものが不安定になる恐れもあるような気がする。すなわち、その機能を知り抜いた技術者に恵まれれば最良の結果もえられようが、一歩間違えば悲惨な結果にもなりかねない両刃の剣のようにも思える 。

ピアノファクトリークジラ

 クジラという名は直に聞いたわけではないが、きっと黒いグランドピアノの風体の比喩なのだろう。代表の川内さんは、福岡を拠点として活躍する優秀なピアノ技術者であり、併せてピアノの販売も手掛けられている。
 事務所とお住まいは街の中心部だが、福岡市の南西部のほどよい距離に位置する山間に、この方はなんとも理想的な工房をお持ちである。もともとは氏のホームページを見てそこを訪ねてみたのが川内さんと知り合うきっかけだったが、会ってみるとマロニエ君と同世代ということもあって、以来親しくお付き合いさせてもらっている。
 
 山間の工房は、木を多用したあたたかな雰囲気の建物。内部にはたくさんのピアノが所狭しと並んでおり、それらを取り巻くようにたくさんの道具類や各種部品などがいたるところに秩序正しくぎっしりと置かれている。もっとも売れ筋とおぼしき国産有名メーカーのライトアップが数多くストックされているのは当然としても、中にはきたる日のレストアをじっと待つように、厳格な造りの戦前型グランドピアノなどがさり気なく壁の隅に数台立て掛けてあったりで、どこにどういうお宝が転がっているやら油断できない。
 
 都市部から近いといっても、やはり山の気候は違う。しのぎやすい澄んだ空気があたり一面を支配していて、開け放った窓からは街中では望むべくもない自然の息吹と心地よい緑の香りがゆったりと流れ込んでくる。街の喧騒から解放された静寂と、さらにこの工房が徹底して木材だけで作られているので、ピアノとの相性も良いし、訪れる人にとってもたいへん居心地が良い。
 
 こういう素敵な「隠れ家」を見せられると、我々のようなマニアはますますピアノ趣味への甘美な興味が増幅しそうになる。いつか自分もこういう趣味だけの別宅みたいなものが持てたら…などと、およそ不可能な夢物語を想像してみたりするが、不可能でも考えるだけでなんとも楽しい。
 
 ここに来ると、楽しいばかりだけでなく、とても勉強になる。というのは、ピアノのアクションの話一つにしても、川内さんがさっと振り返ってあちこち手を延ばせば、そこには部品やら何やらの現物がほとんどなんでも揃っていて、すぐに話の現物が目の前に出て来る。難しい話だけを聞かされるのと違って、実物を使っての実地説明をしてもらえるので、マロニエ君のようなメカ音痴でも少しは内容が理解できたりするので、そのへんも嬉しいところである。しかも、ここはプロの技術者の仕事場だから、素人が通常まずお目にかかれないようなものがごろごろしているのである。
 
 この工房の奥には、まこと美しい、赤ワインのグラスを灯りにかざしたような色のポリッシュドマホガニーのカワイのグランド(KGー2D)がある。20年近く前のピアノだそうだが、ほとんど使用されずにいたものを買い受けられた由で、見た目にはほとんど傷みらしきものがなく、きわめて状態が良い。近年はピアノも森林資源の保護とメーカーのコスト低減という二重苦により、坂道を転げるように材料の合理化が進んでいるらしく、それを考えるなら現行品より材質も良く、さらに言うなら「本物の木材使用の比率」もずっと高いはずだ。これは裏を返せば、現行品は機種にもよるだろうがプラスティックや木の屑を固めて形成した部品がかなり使われているらしい。それらも、本物の木材部分も、等しく表面は分厚い塗装で覆われているので、素人にはわからないけれども。
 
 話を戻す。そのマホガニーのグランドをちょっと弾いてみると、日本のナンバー1メーカーの、妙に耳慣れたあの例の音とは明らかに違う種類の、なかなかふくよかな良い音がする。とくに低音域はヨーロッパのピアノにも通じる適度な鋭さと迫力もあり、私としては日本製なら個人的にこちらのほうを好む。ただしこの年代のピアノはアクションがシュワンダー式という古いタイプで、かつキーの鉛が重めに設定してあるらしく、その結果としてキーが鈍重で、軽快俊敏な反応という点に問題が残る。この点はウイペンをヘルツ式に交換するなどの手を入れれば解決できるらしいので、ならばぜひそうしてみられては?と聞くと、そのぶんのコストが不可避的に価格に反映されるので、市場の相場との兼ね合いから判断がなかなか微妙であるらしい。やはり商売は趣味と違うから大変である。なんなら私も「もう一台」としてこのピアノが欲しいくらいだが、悲しいかな個人的な予算が許さない。
 
 川内さんはピアノの他にも、よろずモノや道具に対して大変好奇心の強い方である。身の回りの実用品に対しても、そこに必ずある一定の風合いやこだわりを求められるようだが、これもなんとなくわかるような気がする。
 ひとくちにピアノ技術者といってもさまざまだけれども、本当に誠実な仕事というのはそういう生来のマニア的な一面を持った性格の人でないと…できないことなのかもしれない。