ディアパソン210E-5

 ある方から、下記のようなメールをいただきました。
 
 『はじめまして。マロニエ様の面白く興味深い記事を読ませていただき、メールしてます。私はマロニエ様ほどピアノは弾けませんが、いまグランドピアノが欲しくて探しているところです。私もディアパソンの210か211がいいなと思っていますが、その後マロニエ様のディアパソンはいかが でしょうか?
 ディアパソンの183でも悪くはなく、ヤマハやカワイよりはとても気に入りました。先日210を弾いて183よりとても素直で、ピアノが歌ってる感じがしました。オーバーホール後のご様子、また更新して下さい。楽しみにしてます。それでは。』
 

 ディアパソンについては、もうすでに何度か書いているので一応の区切 りとしているつもりでしたが、このメールへの返信を兼ねて、直接メールの回答になるかどうかわかりませんが、いま思うところを書いてみたいと思います。
 
 まず結論から先にいいますと、ディアパソンはこの価格帯の日本製ピアノとしては稀に見る名器だと改めて思うと同時に、他の大手メーカーのピアノとは比較することそのものが無意味では?と感じるほど、明瞭な個性を持っていると思います。
 とりわけオオハシデザインの3機種については、「ピアノとはかくあるべし」という設計者の理念がひしひしと伝わり、弾いていてまさにピアノと、さらには設計者と対話しているような気にさせられるのは他の量産ピアノではちょっと経験できない最大の要素だろうと思います。
 
 Y社K社のピアノは、もちろん素晴らしいものだと思いますし、価格に対する機械的品質という点ではおそらく世界一だと位置付けることも可能でしょう。マロニエ君はこれらの点を努々否定するものではありませんが、もしY社K社のようなピアノが心底好きな人、あるいはピアノ(の弾き心地や音の出方)とはこういうものだという感覚が染み込んだ人の場合、ディアパソンの評価は大きく二分されるだろうと思います。
 それはピアノが発してくる個性や価値がまったく異なるし、Y社K社のピアノにはないであろう欠点(と捉えるかどうかはともかく)も抱え持っているからです。
 
 ただ、Y社K社のピアノを好きだという人の中には、音やタッチや楽器の特性に拘りと云うよりは、どちらかというとピアノというものに対する漠然とした普遍性、定評、安心感、大メーカーならではのブランド性などを期待している場合も少なくないようで、さまざまなピアノに触れてみて、本当に自分がピアノに求める要素が何であるかが確立されないまま、無難な選択という点からこれらにされてしまう場合も少なくないだろうと思います。
 とくにピアノの個性に開眼していない時期は、技術者や先生の意見に従順になりますし、そこでディアパソンを勧めてくるということはまずないでしょうから、いよいよディアパソンは異端児の位置付けになるわけです。
 
 スポーツジムの器機ではありませんが、ピアノを楽器と云うよりは一種の訓練用具と捉えて、音大のピアノ科などを目指した猛練習、あるいは入学後もひたすら酷使に供する強靱さが第一というのであれば、Y社K社のピアノはうってつけかもしれませんが、本当を云えばそのような場合にでも、そういう価値基準が本当に正しいのかといわれれば、マロニエ君は必ずしもそうとは思いませんし、ディアパソンが酷使に耐えられないひ弱なピアノだとも思いません。
 
 マロニエ君個人の好みや私見だけで云うなら、ディアパソンはその価格から想像するところを大幅に上回るほどの素晴らしいピアノだと断言します。とくに素晴らしいのは、大橋氏設計のグランドは「楽器である」という点で、これは「芸術品である」という道に通じるものです。個性や癖もあるけれど、好きな人にとってはとにかく弾いていて楽しいし、弾き手の気分をいつも新鮮にしてくれ、真に心地よい愉悦で満たしてくれます。ピアノの音とは本来こういうものだろうなと思わせるような実直で太い音が、こちらの弾き方に応じてさまざまに表情を変えながら反応してくる点は、ちょっと代え難いものを感じますし、弾くたびにある種の高揚感さえ感じてしまいます。ちょっと触れないでいると弾きたくてウズウズしてくると同時に、弾くときには音楽に対する姿勢を正されるところのあるのもディアパソンの不思議です。
 
 こういうことは、少なくとも大手メーカーの量産ピアノというカテゴリーにあるピアノでは、マロニエ君の経験した限りに於いては、まずありません。Y社K社のピアノの中には、こだわりの技術者による入念な調整によってハッとするほど美しい音を出すまでに仕上げられた個体があることももちろん知っています。しかし、率直に云うときれいだけどあとに何も残らない。ただきれいというだけで、そこに音楽の深い部分に結びつく何かの力が介在することなく終わってしまう印象です。
 
 当たり前のことですが、「いかなるピアノも管理次第・調整次第・技術者次第」というのは動かせない鉄則ですが、だからといってピアノが生まれ持った性格や器はどんなに調整を尽くそうとも変えられません。それは設計と、素材と、組立によって決まってしまうことで、これを後から技術者の調整によって変えることは不可能です。Y社K社のピアノもディアパソンも、持てる能力から最大限の美しさを引き出すのは技術者の仕事ですが、そのピアノの根底に在るものや性格を変えることまではできませんから、その根底にあるものが相容れないとなればそれ以上の手立てはないわけですから、ここの見極めは大事です。
 
 では、ディアパソンの根底にあるものは何かというと、まずその音には設計者の理念があり、楽器としての尊厳を感じます。音には太さと清涼感があって美しく、しかも純粋な飾らない清々しさみたいなものを感じるのです。しかもその美しさを十全に引き出すには自分の弾き方にも大きく依存された部分が残されていて、弾き手もピアノの美しい響きを作り出すために貢献するよう責任の一端が科せられています。少しでも気持をおろそかにすると、たちまち音は荒れ、響きのバランスが崩壊するのは、ピアノを弾いているのにどこか弦楽器を奏しているような気分になることしばしばです。
 常に心すべきは、その音色の保持、響きやデュナーミクに対する注意深さで、絶えず自分の出す音をよく聴くという必要が生じます。自分の出す音をよく聴くということは、つまるところ音と音楽がマッチしているかということの点検の連続でもあり、これが必然的に音楽にも注意を払うことに繋がります。
 良いピアノは表現力の幅が大きく、タッチに関する微妙な違いに即座に反応するので、下手な弾き方をするとたちまちそれが音として現れ、今の弾き方はよくなかったということが如実に認識できます。曲や曲想にそぐわない音が出るとピアノと作品の両方から拒絶されたようで、だからこそより音楽の求めに沿った演奏をするようになり、この点がディアパソンが楽しさと同時に弾く者の音楽性をごく自然に鍛えてくれるピアノだとマロニエ君が考えているところです。いや、逆に、そういう意識を常に喚起させられる点そのものが楽しいのかもしれません。
 
 ディアパソンは食べ物に喩えるなら、とくに高級でもないけれども老舗の味で、代々受け継がれた流儀で、ちゃんとダシをとるところから順を追って省略なしに作られた料理。対して大手メーカーのピアノはチームで開発した科学の裏付けのある華やかなご馳走のようで、必要とあらば何万食でも同じものが準備可能な料理のような気がします。
 
 こう云うと、ディアパソンとはいっても初期のもの以外はカワイの工場で量産された量産品に過ぎないということを仰る向きもあるでしょうが、実際のピアノはカワイとは似ても似つかぬ、なんの共通点も持たないピアノであることに寧ろ驚きを感じてしまいます。ボストンがやはり機構的にカワイピアノと何一つ(グランドの足やペダルは共通のようですが)通じるものがないのと同じようなものを感じますし、そういう意味ではカワイ楽器というのはつくづくユニークな会社だとも思います。
 
 よくピアノの価格の構成要素とは、つまるところ設計費と材料費と人件費(今はさらに設備費?)の集合体だといわれます。アジア生産の劣悪なピアノなどは、この3つがいずれもずさんですし、逆にヨーロッパの高級品はいずれも手間ひまを惜しまぬ労作であり逸品ですから、あのような価格になるのだと思います。
 
 その点で云うと、ディアパソンは設計はすでに大橋幡岩氏が創り上げていたものをカワイが引き継いで製造されますが、根本の設計から支柱の組み方まで、カワイから流用できるものはどうでもいいようなパーツ以外はほとんどなかった筈です。
 また価格の点から云っても、ディアパソンに使われた材料がとくに高級だったとも考えられませんし、作り込みや出荷調整もどれ程のことがなされたか非常に疑わしい限りです。その点だけでいうなら、現在は伝説の職人である乗松さんなどが誇りをもって入念な調整をやっておられるような話も聞きますから、却ってこの分野は向上しているのかもしれませんが、詳しいことはよくはわかりません。
 
 ただ、マロニエ君に云わせると、やはり大橋氏の設計によるディアパソンは基本というか、生来持っているものがとにかく素晴らしく、とりわけマロニエ君の好みに合うピアノだということを痛感しています。おそらく大橋氏の確かな設計は、カワイでの製作に引き継がれても充分に耐え得るだけの揺るぎないものがあったのだろうと思います。スーパーの材料でも、目も醒めるようなご馳走を作れる鉄人レシピといったところでしょうか。
 
 もちろん材料や作り込みにコストを惜しまなければ、それに越したことはありませんが、逆にどんなに材料が良く念入りに作られても、肝心の設計が悪かったらピアノはどうしようもありません。現在のスタインウェイが素材等のコストダウンの波を被っても、尚スタインウェイの地位を維持できているのは、やはりその秀逸な設計に拠るところが大きいと思われます。
 
 スタインウェイといえば、その普及ブランドであるボストンもカワイの工場製ですが、これも一流の技術者の手にかかると望外の能力を発揮すると云われていますから、やはりピアノに於いては設計というものは動かし難い個性と能力をまちがいなく決定してしまうことを思わずにはいられません。
 
 マロニエ君のディアパソンに話を移すと、その音は週単位で熟成されたものへと変化して、最近ようやく安定期に入った感じです。いまではベヒシュタインに迫ると云えばその親バカ加減に笑われそうですが、でも、それぐらいの太くて透明感のある「ああ、いかにもピアノの音だ!」と思えるような澄んだ音が出るようになりました。また、ディアパソンが楽器らしいと思える点は、弾いているとピアノ全体がわななくように小刻みに振動していて、奏者の耳はもちろん、手と足にもそれを感じて、その感触には思わず陶然となってしまうことしばしばです。本当に弦が鳴り、駒から響板へとその振動が伝わって、ピアノの音へと還元されていることを身体で実感として感じることのできるピアノです。
 
 実を云うと、ながらく使っていたカワイのGS-50も手放すことなく、別の場所に置いてはいるのですが、そこそこ気に入っていたはずなのに、最近ではまるで興味が消え失せ、触ってみようと云う気も起きないほど、マロニエ君にとっては魅力が失われてしまったことも告白しなくてはなりません。
 
 そればかりか、練習嫌いといいますか、ピアノは好きでもそれほど毎日弾きまくるというタイプではなかったマロニエ君ですが、ディアパソンがやってきて、さらには日々その音がよくなるにつれ、毎日弾きたくてうずうずしてしまうのは自分でもびっくりです。
 
 ディアパソンはタッチコントロールを要求するピアノだといわれますが、それはまったくその通りです。美しい音を出すためには管弦楽器のような美しい音の出るスポットを探らなくてはなりませんし、なにより音楽的な気分をもって弾かなくてはいけません。雑なタッチをすればすぐにそれがバレてしまいますから、そういう意味ではまったく油断ができないし、同時に乱暴と云っては語弊がありますが、曲によっては、むしろ衝撃音を必要とするということも、とくにベートーヴェンなどでは珍しくありませんが、そういうときにはそういう気分で弾いてみると、まさにそんな荒々しい表現になってくれる表現力は驚くばかりです。
 
 誤解を恐れずにいうと、楽器はどんな弾き方をしても美しい音が出ることが必ずしもいいこととは思えませんし、やはり美しい音や響きというものは演奏する人がそのつど丹念に作っていくものだと思います。また、そうでなくては生の楽器を楽しむ意味も半減するわけで、電子ピアノの限界というものもそのあたりにあるのかもしれません。
 
 電子ピアノという言葉が出たついでに云うなら、ディアパソンの音は現代的ではないけれども、美しい色彩感と透明感があり、発音は鮮烈でエッジの立ったくっきりした音ですが、にもかかわらず決してキンキンした耳や脳が疲れるような音でないのは、やはり昔ながらのアコースティックピアノだけが出し得る楽器の音だからだと思います。こういう音は、どの電子ピアノからも類似の音はまず聞かれることのないものだろうと思います。
 
 その点でディアパソンは、清濁両面の音が出る表現力にあふれた「楽器」であって、決して単なるピアノの音発生装置ではないようです。美しい音が中核を成すのは当然としても、必要とあらばそうでない音も出せなくては本当の楽器とはいえないと思います。それは美醜というものは常に相対する関係にあるからかもしれません。
 
 また、優れた楽器ほど、その特性に合わせた奏法というものがあって、人と楽器とが互いに依存し合う関係にあることが本来の姿であるということを、いまさらのように再認識するようになったのも今回のディアパソンに毎日接するようになってからのことで、いろいろなことを与えたり提起したりしてくれるという点でも、このピアノはマロニエ君にとっては予想以上に大きな存在であり、もはや先生のような存在といえるかもしれません。
 
 …気が付けば、マロニエ君のディアパソンに対する印象を縷々述べただけの駄文になりましたが、とにかく日本のピアノの中にあって、少なくとも量産ピアノとして少数ながらも生産が続けられているブランドとしては、まったく個性的なブランドだと云って間違いないと思います。とりわけこのピアノの直接の生みの親である大橋幡岩氏の設計による、
170、183、210の3機種にはその血脈がダイレクトに受け継がれていましたが、現在その直接的なDNAを受け継ぐモデルは183を残すのみとなってしまっているのはまったく残念とい
う他はありません。
 
 とりわけグランドピアノの最高バランスとされる210/211サイズでは何年も前に「Ohhashi Design」は消滅。その後このサイズのグランドは一応ディアパソンを名乗ってはいるものの、実体はカワイのRX-6ベースとしたデュープレックススケールをもつモデルに取って代わり、メーカーに確認を取ったところ、ボディや響板はカワイとすべて同一とのことでした。ディアパソンとしての差異は、現在も木のアクションであることや、出荷調整は工場内のディアパソンエリアで行われるなど、RX-6とのいちおうの差別化はあるにしても、これはいわば他家から養子に入ってその名を名乗っているお婿さんのようなもので、一族の血を受け継ぐモデルとは、どう贔屓目に解釈しても云えないものになりました。
 
 冒頭のメールをくださった方とは、その後数回のメールの往復や電話などでも連絡を取り合うまでになりました。マロニエ君としてはディアパソンは心底気に入っているピアノではありますが、それはあくまでも個人的なものであって、他者にとってどうかとなれば話はまったく別です。なにしろ現代の標準的なY社K社のピアノとはいろんな意味でずいぶん違うピアノですから、軽々にお勧めすることは厳に慎みました。趣味のピアノ選びばかりは理屈ではなく、要は自分の感性に合ったものでなければ買って傍に置いて弾いて楽しむ意味がまったくありません。
 感覚的にもY社K社のピアノを好む方も大勢おられると思いますし、そちらのほうが大多数だろうとも思います。そんな人が他人からの受け売りでディアパソンの古いモデルを購入して後悔するようなことにでもなれば、それこそ取り返しがつきません。
 
 しかし、聞けばこの方はすでに購入を念頭において驚くほどの数のピアノを弾いて回られておられるようで、その数多い体験の結果、やはりご自分にはディアパソン以外に求めるピアノはないというところまで行き着かれたのだそうです。しかも聞いてみれば、ピアノの他にヴァイオリンも弾かれるとのことで、やはり楽器としての響きや音色に関してはピアノだけに触れてきた方とは違ったこだわりがおありのようで、その方の耳にはディアパソンだけが最後まで残るピアノだったというお話で、こういう方にはディアパソンはうってつけだと思います。
 
 マロニエ君の知り合いにもディアパソンのグランドをお使いの方が何人かいらっしゃいますが、みなさん共通しているのは、ご自分のピアノをとても気に入って弾いておられ、他のメーカーにはあまり関心がないという印象があります。
 誰にでもというわけにはいかないものの、その音や個性に魅力を感じられる方ならば、ディアパソンはきっとかけがえのないピアノになること請け合いです。ただし困ったことには、このピアノの場合、実物に触れる機会がほとんどないので、必然的にその魅力にも接することがないままになってしまうことがほとんどと云うところでしょうか。
 
 オオハシモデルの中でも、大型の210/211は本当に欲しい方はあるときに買っておかないと、もともとの生産台数が少ない上、すでに生産中止から久しく、入手はますます困難になると思われます。現にこのメールをくださった方によれば、メーカーの方も同様のことを言ってお られたとのことでした。
 それでも一般的な人気という点ではY社K社のピアノより低いため、価格もそのぶんやや安めであることは、これから購入しようという人には自分の欲しい稀少性の高いピアノが安く買えるという点でありがたいことです。
 
 ディアパソンはベヒシュタインに倣って、ドビュッシーなどがふさわしいという定説がありますが、マロニエ君のまったく独断で云うならば、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト等が得意なのは云うに及ばず、同時にショパンも美しくたおやかに奏でてくれるのは大したものだと素直に思います。
 ショパンの名手で一時代を築き上げたコルトーが演奏会や録音に使ったのは、大半が戦前のプレイエルでしたが、どこかしらそれにも通じる雰囲気さえ持っているのは驚くほかはありません。もちろんプレイエルのあの独特な軽さはないけれども、なかなかの雰囲気があると思います。もし、小さめのハンマーに取り替えて、より明るめの整音と調律をしてもらえば、あるいはフランスピアノのようなニュアンスも出てくるような、そんな気配さえ感じます。
 
 超高級品の世界は別として、少なくともこの価格帯で、これほどピアノを弾いているという実感と喜びに包まれ、拙い自分の演奏でも、それに酔いしれることができるピアノなんて、そうそうないのは確かだと思います。
 しかし、技術者さんサイドから見れば、Y社K社の高い製品力や作業性の良さに慣れていて、そこに魅力を感じる方などは、ディアパソンなど歯牙にもかけない方もいらっしゃるようです。また、購入される方も、電子ピアノからスタートして生ピアノに移行されるような場合は、やはりY社K社の新しいもののほうが違和感がないかもしれず、それはそれでわかるような気もします。
 
 まあ、いろいろ云っているとキリがありませんが、とにかくディアパソンはいったんハマるとかなり魅力的なピアノで、楽器としてこれほどのコストパフォーマンスの高いピアノをマロニエ君は他に知りません。
 
 最後にどう贔屓目に見ても覆らないディアパソンの欠点をひとつ。
 それはペタッと平面的なペダルで、足が僅かながら痛くなってしまいます。これだけはY社K社のように垂直方向にも丸みをもったペダルの方が絶対に使いやすいと思いますので、いつの日か、可能であれば取り替えたいものだと思っていますが、互換性がないようなら諦めるよりありません。

ディアパソン210E-4

 その後、最後のタッチ調整を終えたとのことで、もう何度目かはわかり ませんが工房を訪れました。
 このころには、やはりハンマーがほんの僅かにオーバーサイズ(タッチ との関係から)ということが判明しており、これでダメなら工房のご主 人はハンマーを再び全交換することも辞さないという、驚くべき決意の あることを事前に聞かされており、マロニエ君としても半ば沈痛な気分 で工房に赴きました。
 
 果たしてそこで触れてみたディアパソンは、前回よりも確実にタッチが軽くなっており、かすかな重さは残っているものの、ハンマーの再交換が必要というほど深刻なも状態とは思えませんでした。
 ピアノのオーバーホールが一種のギャンブルであることは、マロニエ君もこの頃にはさらに認識を深めていましたし、これはこれで悪くないと思えるものもありました。
 
 工房のご主人のほうでも、昨日電話したあと(さらに調整を続けられたのだと察せられますが)一晩おいたら、全体にさらに少し軽くなっていたということで、欲を云ってもキリがないし、二ヶ月半にわたって精魂込めて仕上げてくださったご主人をこれ以上困らせるのは本意ではなく、一定の納得が得られたことでもあり、この状態で納品してもらうこ とになりました。
 

 ついに深いマホガニー仕上げのディアパソン210Eは、長きに渡った大修理を終えて、初めてマロニエ君宅に到着しました。我が家はごくゆるやかな坂道の途中に建っているため、一階部分が通常の二階に相当し、クレーンを使って、いったん庭までつり上げられて、そこから人力で家の中へと運ばれます。
 
 ボディはもちろん、こまかな金属部分まで丹念に磨き上げられているおかげで、買ったときのどこか老いさらばえたような気配は微塵もなく、「新品のよう」といえば誇張が過ぎるにしても、とにかくいたるところがあまねく光り輝いており、さらにはディアパソン独特のやや暗いマホガニーが本来の色合いが美しくよみがえり、そのえもいわれぬ上品な佇まいには目を奪われました。
 
 実を云うと、色物(木目)のピアノを初めて買ったマロニエ君ですが、実際に部屋に据えられてみると、なるほどこれまでに味わったことのない魅力があることがわかり、急に黒いピアノがつまらないもののように思えてくるのですから、人間の感覚とは勝手なものです。 とはいえ、最近ときどき目にする、あまりにも派手な色合いの木目ピアノは、商品のインパクトを高めるためか、色調が強烈すぎるようにも感じていましたが、その点でもこのマホガニーは色に節度と気品があって、じつに好ましいものでした。
 
 このピアノは、シリアルナンバーからメーカーに問い合わせたところでは、1970年代の終わり頃に製造されたものでした。当時のディアパソンが他のカワイに比べてとくに上質な素材を使っていたとは思いませんが、少なくとも集成材やMDFなどを現代のピアノのように多用しすぎることはなかった時代のピアノであることが窺われ、例えば大屋根なども現代のピアノのように鏡のようにフラットではなく、あちこちに歪みのようなも のが散見されるなど、正味の木材(質はともかく)を多く使っているということが随所に偲ばれます。
 譜面台上のフタを開け閉めする際にも、蝶番を介してパリパリというような音がして、いかにも古い乾燥した木材という印象で、屋根の重量もとても軽いのが印象的です。価格帯から云っても、特に上質な木材を使ったとは思えませんし、ただ木だというだけで手放しで喜ぶわけにもいきませんが、それでも人工素材まみれのピアノよりは所有することに喜びを感じ、自己満足できる余地があるというものです。
 
 その点では、今どきの量産ピアノは、どこと云わずボディの大半は集成材などの人口素材が大半で、そのため非常に重いのが通例です。この重さの正体は、木の重さより、それをプラスチックのように固めてしまう接着剤などの重みなのだそうで、それらが最新の工作機械によって自在に整形され、いくらでも必要な形状に精度高く削り出されるために、塗装してしまえば完璧に美しいパーツになるようです。
 先日も新品グランドピアノの並ぶ店頭で、大屋根の平滑さを確認すべく、目線を移動させながら光の映り込み具合を確認してみたところ、ぶれや歪みはまったくなく、まさに黒いガラスのように完璧なフラット面だったのは異様なくらいでした。ただの木でこれほどの平滑面が作り出せるとはとても思えず、木の成分も混入していると云うだけの、工業技術が作り出した狂いや誤差などとは無縁の高精度なパーツというべきで、おそらくはプラスティックでそっくりコーティングしたような分厚い塗装も、その無機質な美しさに一役買っているのでしょう。
 
 いくら精度は高くても、そのぶん重量は嵩み、小柄な女性などではフタを開くだけでもかなりの負担になるでしょうし、ましてや大屋根の開閉などは危険と隣り合わせなほど重くなってしまっています。だいいちそんなものばかりの寄せ集めで作られたピアノが、本当に楽器として人に感銘を与えるか…となると甚だ疑問です。
 
 その点では、古いピアノや、ヨーロッパの良心的な造りのピアノは大抵屋根も軽く、ニューヨーク・スタインウェイなどもこの部類に入ると思います。そんな木の軽さがこのディアパソンには残っていて、見た感じも、工業製品然とした精度の高い美しさはありません。だからといって手作りというわけでもなく、これはカワイの工場で作られた量産ピアノであることは間違いないのですが、少なくとも行き過ぎたテクノロジーの波にさらされないで済んだ世代のピアノであることは確かで、いかにも昔の流儀で作られた「楽器」という雰囲気が色濃く残っているのは、マロニエ君としてはとても嬉しいことでした。
 
 ピアノが工芸品的な美しさに溢れるぶんにはどれほど丁寧に作り込まれても、そこには人の手によって作られたものだけに宿る美と贅沢さで人を魅了するものですが、片や工業製品然とした美しさの場合は、ピアノから楽器らしさや使い手のイマジネーションを失わせ、車や電気製品と同様の立派な商品にしか見えません。
 
 そういう意味では、我がディアパソンはお世辞にも作りの美しさを自慢できるようなピアノではなく、それはだいたいこの時代の量産ピアノはこんなものだったのではないかと思いますが、それでもいかにも楽器らしい佇まいを持っているという点では、同時代のカワイにもヤマハにもなかったことだろうといまさらながら自信を深めているところ。その一点だけでもディアパソンは非常に所有する価値のあるピアノで、この価格帯でこの種の満足と愛着を抱けるのは日本では唯一ディアパソンだけだとマロニエ君は思うのです。
 
 話は戻り、このピアノの白鍵は象牙で、実用上は指が滑るので好きではないのですが、ついていたものは仕方がないので、漂白をしてもらいました。それも徹底的にホワイトニングするのではなく、適度に黄味を残した感じに仕上げられたようでした。さらには黒鍵を象牙白鍵に合わせるという意味から、この際と思って黒檀に貼り替えてもらったのですが、この黒檀がいわゆる墨のような真っ黒ではなく、やや色褪せたダークグレーぐらいの感じで、それがいかにも昔からそうだったようにまわりと調和して、なかなか味わい深い雰囲気を醸し出しています。
 さらにはマホガニーの深い色調の木目と相俟って、マロニエ君はこれまでに何台もピアノを買いましたが、視覚的にこんな雰囲気のあるピアノは初めての経験で、これはまったく予想外のことでした。
  また、作業の為に工房にあるときとは異なり、やはり実際に部屋に置いてみると木目のピアノは周囲の景色と色彩的な調和が生まれ、とくにヨーロッパの人達は家庭用ピアノには黒よりも木目を好むというのは実感としてわかるような気がしました。ひとくちに云うなら上品で優しい感じが漂い、これに比べると黒はいかにも無骨で威圧的で表情というものがないことが分かりました。
 

 視覚的には大変結構で満足なのですが、弾いた感じはというと、本来の音色には程遠く、モコモコとした上に鳴りも一向に芳しからざる状況で、これがいつまで続くのだろうかと思うと、ついため息が出てしまう状態でした。
 むろん永久とは思いたくはないし、ともかく一日も早く「弾き込み」を済ませる必要があるようで、工房のご主人も「音大生あたりに毎日弾いてもらうといい」とか「できるだけ弾いて、ピアノをいじめてください!」と言われてしまいました。オーディオでいうところのエージングが必要というわけですが、果たしてそれでどこまで辿り着けるか、…甚だ不安で心もとない気分でした。
 
 一念発起というわけでもないのですが、そうなると、マロニエ君がたかだか短時間、ポロポロ弾いたぐらいではとても埒があかないと思われ、翌日から思い切ってゲンコツで全音域を叩いてみるという荒技に出てみました。ピアノにこんなことをしたのは初めてで、いわば人間打鍵機のつもりなのですが、実際には衝撃が手の骨にまで達して痛いのなんの、とてもじゃありませんがやってられないので、2日目からは軍手をはめてこの作業に挑みました。 それでも多少衝撃が緩和される程度で、基本的には嫌な感じの痛みが骨身にしみることには変わりありません。苦痛だし、疲れるばかりで虚しくもあり、なによりも楽器に対してこういう野蛮な行為そのものがイヤになり、とうとう三日坊主の言葉の通り、三日間続けただけでこれは止めてしまいました。
 
 それからは、下手なベートーヴェンなどをできるだけ強めにしっかり弾いてみることにして、暇さえあれば何でもいいからせっせ弾き込んでみるように心がけていたところ、それから数日が経ったころでしたが、突如ハッと気がついたのは、初期のモコモコ状態を少しだけ抜け出していることでした。予想していたよりも早い時期での変化でした。
 
 いっぽうタッチにはやはり問題が残り、このピアノはシュワンダー式のアクションを持っているため、調整にも機構的な制約があるようで、そのための壁が立ちはだかっていることがやがてわかりました。シュワンダー式の良いところは、タッチのはじめがやわらかく、下に行くにしたがって抵抗が増すという点で、これを弾きにくいとする意見もあるそうですが、マロニエ君はまったくそうは思わず、バランスよく調整さえされていれば、このほうが入力(タッチ)に対して敏感かつ軽快でコントロールがしやすく、個人的には今の主流たるヘルツ式よりもある部分ではよほど弾きやすいと思います。
 これに対して、ヘルツ式のアクションで調整の悪いものにしばしば見受けられるのは、はじめに抵抗があり、その後はストンと落下してしまうという、音色や強弱のコントロールが非常に難しいものです。デリケートなタッチを狙っても反応せずに音が出ず、そこでちょっと力を込めると今度は必要求以上の大きな音が出てしまうという困った弊害もあるように感じます。
 もちろん、いずれの場合も調整やバランスがよくないことには本来の好ましい感触は得られないわけですが。
 
 ちなみにこの両者の違いは、ウイペンに付けられたレペティションレバーを支えるスプリングが、シュワンダーではシングル、ヘルツではダブルというところで、ダブルではキーの戻りなど個別の調整ができるのに対して、シングルでは常に調整は他の要素とのトレード関係にあるということのようですが、なにぶん素人なので間違っていたらすみません。
 
 我がディアパソンに戻ると、若干大きめのハンマーがついているため必然的にダウンウェイトが重く、それを極力解消すべくさまざまな調整や方策が採られたわけですが、なるほどシュワンダー式アクションの特性らしく、はじめは軽いタッチになっているものの、後半のアフタータッチにあたる部分でタッチが急に重くなるという困った動きになってしまっているようです。
 そのため、穏やかな曲をゆったり弾いているぶんにはさして問題はないのですが、少しでも速いパッセージやフォルテが連続する場面になると、いきなり指に少なからぬ負担がかかってくるという困った特性が露わになりました。
 また、そのためにフォルテ以上の音を出そうとすると、タッチの下のところで強めの抵抗が待ち受けているために、最後の一撃というか、打鍵の押し込みが足りなくなり、結果としてパンチの効いた音が出しづらいことも判明しました。
 

 そういう状況の中で、納品から2週間ちょっと経過したところで工房のご主人が調律にみえました。
 さらにこのとき、部屋の状況に合わせて調整が加えられた結果、ひとまずこれで良しとすべき状態になったようにも思いますし、しばらくはこの状態で楽しく付き合っていこうと思います。…というか、そもそもピアノに限りませんが、自分の身の程をわきまえるというのは大切なことで、あまりにもひとつのことに妥協を排して最上を求めすぎると、そのことばかりが目的となり、本来の楽しみが置き去りにされるので、マロニエ君は昔からこの種のことはある程度の納得ができたら、それ以上は追い込まないことに決めています。
 そこには自分の性格も関係しており、ひとたび追求し出すと際限がなくなり病的になってしまう性分なので、過去にもずいぶん自分で自分を傷めつけたと思えるようなことが多々ありました。そんな果てしない苦痛から自分を逃がすための本能的な知恵なのでしょう。
 
 これは一見、妥協のようにも思われがちで、それをまったく否定もしませんが、そもそも最高最良などというものは常に手に入らないところにあるものだという認識ですし、その最後の領域を追求することは、それ以前の全行程よりもずっと大きな苦労と苦痛を伴い、さらには相応のコストをも要するということを経験的に知っているからでしょう。プロの芸術家や何かの研究者ならいざ知らず、ただ好きなことをして楽しく遊びたいアマチュアにはそんなものはまっぴらゴメンとばかりに避けているわけです。
 
 そうは言っても、温湿度管理や細かな調整の依頼など、そのための労は決して惜しまず、自分のできる最大級のことをやっているつもりなので、むろん完璧ではないけれども概ねそれで打ち止めとしています。これ以上エネルギーを使っては本末転倒に陥るだけで、結果は常に不満、いつも楽しめないという悪循環にはまってしまいます。だから適度なところで見切りをつけて、あとは心おきなく楽しむ側にまわりたいというのがマロニエ君流の趣味のスタンスです。
 

 我が家にやってきた当初はモコモコと寝ぼけたような冴えない音のディアパソンでしたが、それがなんと、納品からひと月が経過したいま、まるで別物のように変わりました。まずはじめは工房のご主人が、極めて薄くした安全な硬化剤とやらをちょっとだけ使ってもらいましたが、そこでまず変化が起こり、それをきっかけにしたように音が日に日に変わってきたのです。
 さらにはこのところ、熱心にこれ一台を弾き通してきた甲斐あってか、今では音に色艶が加わり、ズンと重みのある音色が出てきて、これぞディアパソンというピアノになってきました。あとは問題のタッチになにか改善策があればいうことなしで、やはりディアパソンは期待に違わぬ素晴らしいピアノだと再認識しているこの頃です。

ディアパソン210E-3

 先日、ハンマーの交換が終わったとの連絡を受けて、さっそく工房に行きましたが、期待に反して音は茫洋として捕らえどころがなく、さらにタッチは鈍重で、第一印象はものの見事に期待外れなものでした。
 
 工房のご主人によれば、ピアノのオーバーホールというのはえてしてこうしたもの(事前にそれは聞いていましたから仕方ありませんが)なのだそうです。発音の重要な要である弦とハンマーが新しくなると、それらが本来の鳴りに至るまでは一定の弾き込み時間と調整を要するとのことでした。新品のハンマーは弦溝がないために弦への接触面が小さく、とりわけ低音などは本来の鳴りとパワーが出ないのだとか。
 
 早い話が、新しいハンマーは新品の硬いジーンズみたいなもので、それが身体に馴染んでくるには忍耐強く履き込んでいく必要があるように、ピアノも相応の慣らし運転が必要ということのようです。その時期を抜け出るまでは、オーバーホール前の状態のほうが良かったという事例はいくらでもあるそうです。
 
 さらに厳密に云えば、弦とハンマーを交換したからといって、必ず良い結果が約束されているということでもないらしく、新しい弦やハンマーにも個性や相性などがあり、どのような結果が出るかは実際に取りつけてみるまでわからないというのが実情のようです。もちろん一般に技術者の方は、そこにビジネスも絡んでいるので、どこまでありのままを伝えられるかは個人差があるとは思いますが、掛け値なしの事実としてはどうやらそういうことのようです。
 とくにオリジナルの音や雰囲気が気に入っている場合は、それがオーバーホールによって失われることもしばしばだそうで、そのためこの工房のご主人は、自己所有の戦時中に製造された名器のオーバーホールに、いまだに踏み切れないとのことでした。
 
 こういうわけで、オーバーホール直後のピアノというのは、期待に胸膨らますであろう所有者をしばしば裏切り、落胆させるのだそうで、きっと固くて美味しさのまったく出ていない青い果実のようなものなのでしょう。尤も、果物なら放っておけばほどほどに熟れてくるものですが、ピアノの成長・熟成には一定の時間と労力がかかりますから、これは焦らず気長に構える必要があるようです。
 
 こういうときにピアノメーカーが持っている打鍵機(正確な名前は不明)があれば、労せずして全てのキーを夥しい回数打ち鳴らすことができ、初期の固さや馴染みの悪い状態を短時間で通過できるようですが、そんなものはないし、ここはまあゆっくり弾き込んでいくしかないのかもしれません。
 打鍵機による初期慣らしは工場で製造されたピアノは必ずやっていることですし、昨年見た映画『ピアノマニア』でも、エマールがバッハのフーガの技法録音のために使うピアノが新しいハンマーに交換され、やはりこの打鍵機にかけられるシーンがあったのを思い出します。
 
 我が家に来たら、打鍵機には遠く及びませんが、できるだけ指運動を兼ねて全音域を使い、スケールや半音階を繰り返してみようと思ってはみたものの…意気地のないマロニエ君のことですから早々に挫折するのは確実で、ディアパソンらしいとろみのある音になるのはいつになることやら…。
 
 それはまあいいとしても、キーが思ったほどには軽くならなかったのは計算外でした。もちろんオリジナルの法外な重さに比べると確実に軽くはなっているものの、できれば46?8gぐらいの感触を期待していたところ、そこは構造的な壁があるようでなかなか苦戦されたようです。
 
 鉛詰めはかなりされたようですが、それでもせいぜい50gぐらいで、これ以上は戻りが悪くなるのでいちおうの限界ということでした。この生来のキーの重さというのがカワイ/ディアパソンの悪しき特徴のひとつで、それが為に、それなりに深みのある好ましい音を持っているにもかかわらず、技術者の間ではこのメーカーを好まないという人が少なくないようです。
 
 そういえばマロニエ君の知り合いのピアノもカワイ(グランド)はどれも一様にキーが重く、そのぶん弾きやすさを大いにスポイルしているのは間違いありません。メーカーとしては樹脂製アクションへの転換などよりも、こちらのほうがまずもって手を付けるべき重要項目だったのではないでしょうか。
 少なくとも、音では決して負けてはいないどころか、むしろ誠実なピアノらしささえ感じられるカワイのトーンがあるにもかかわらず、ヤマハがこれほど支持されるに至った理由のひとつは、ひとえに優れたアクションに象徴される製造クオリティにあったのかもしれません。
 
 車もそうですが、企業としてはトヨタの圧勝でも、クルマ好きの中には日産の堅実さや乗り味、あるいは不器用であっても、その中に潜む作り手のスピリットを好む人達も少なくないことにどこか似ているような気がします。もしもカワイ/ディアパソンがヤマハ並みのアクションを持っていたとしたら、長年にわたる評価も少しは違ったものになっていたかもしれません。
 
 昨年から今年にかけて、カワイはSKシリーズに続いて普及型まで、大半のグランドのサイズをすべて2cm延長して、その分はキーの長さに充てられているようですから、もしかするとこの点が改善されているのかもしれませんが未確認です。
 
 キーのダウンウェイトにはハンマーの重さにも重要な関係性があり、以前もハンマーの重さ実験の結果として書きましたが、ハンマーの重さがわずか1g重くなると、それは鍵盤側では実に5倍にあたる約5gが加重されることになり、もう少し軽いハンマーがあればかなり事情は変わったかもしれません。
 ただし、小ぶりなハンマーはタッチに軽さをもたらすぶん、当然ながら音も軽めでどちらかというとパワーも限られたものになりがちで、マロニエ君は本来的にはあまり好みではありません。
 
 我がディアパソンに話を戻すと、今回取りつけたハンマーの木部はマホガニー(最も軽いとされる)のレンナー・ハンマーですが、ヘッドは厚みのある普通サイズのハンマーでした。それを標準装着のハンマーと比べると、ほとんど同サイズのハンマーだったらしく、昔は普通にこのサイズのハンマーが付けられていたようで、こんなところにも時代を感じることができるようです。小さめのハンマーを使い出したのはわりに最近の傾向で、昔は相対的にたっぷりしたサイズのハンマーがついていたために迫力ある音がしていたものですが、最近ではスタインウェイでさえそういう方向にシフトしているようですから、深みや迫力よりイージーでブリリアントというのは世界的な傾向なのかもしれません。
 若いピアニストは指はよく動くし、難曲も弾くだけはさらさら弾けてしまいますが、演奏そのものに覇気やエネルギーがなく、軽いピアノでさえ充分鳴らそうともしない省エネ演奏ですから、聴きごたえも薄く、感動とは程遠いものであるのも致し方のないことだと思われます。もちろん大きな音を出せばエライというわけではありませんが、逆にダイナミックレンジを小さくすることが芸術性が高いわけではないことも事実です。
 

 ところで、ピアノをメーカーとして評価する場合、とくに技術者間の評判では、ヤマハを好む技術者さんは我々の予想よりも遙かに多くいらっしゃるというのが実情でしょう。
 技術者は当たり前のことですが技術を通じて仕事し、それを生業として報酬を得るわけですから、その評価はときとして楽器としての芸術性よりも、よくできた機械的優秀さや作業効率の良さ、信頼性の高さに拠るところが大きくなってくるのは否めません。とりわけ小さなパーツの集合によって構成されるアクション部分では、ひとつひとつのパーツの精度が抜きんでて素晴らしいヤマハは、この点で世界一という人も多いのです。
 技術者にとって、確かさがあり、仕事のしやすい対象を憎からず思うのは当然で、職業人として自然なことだと思います。逆に、いくらやっても思い通りの結果が出しにくい、手間ばかりかかるピアノというのはどうしても心証が悪くなるのも頷けます。
 
 一説によれば、名器の誉れ高い、さるドイツの手作りメーカーもアクションはヤマハからの供給を受けているのだそうで、マロニエ君はその高貴な音色もさることながら、弾きやすさにも感心していたものですが、どうやらそれはヤマハのアクションという陰の力があってのことのようでした。
 
 その点で云うなら、ディアパソンはヤマハに比べて機械的に未完未熟の部分が多く、技術者を手こずらせることも少なくないようです。音色の点でもヤマハ的な尺度で見れば美しく揃っているとは言い難く、ムラやばらつきも多いでしょうし、おまけにタッチも鈍重で調整が難しいとなれば、もうそれだけで次々と減点対象となってしまうでしょうね。
 
 マロニエ君も、そういう事実があることは客観的にわかるのですが、ディアパソンの魅力は、曲を弾いたときのなんとも形容しがたい楽器らしさを感じるところだと思います。その音は、変な添加物を使わない自然食のようで、今どきの新しいピアノのような華やかさや洗練はないけれども、素朴さの中に本来の旨味や風合いがある、そんなピアノだと思うのです。高級ではないけれど真っ当に作られた昔の家具と、よくできた今風の手軽でモダンな家具の違いのようなものでしょうか。ちょっとぐらいダサくても、本当に手に馴染んで気持が和み、長く愛用するとなると昔流儀の製品は強味です。
 これは均一性や製造精度という観点とは別領域の価値基準となり、ここからが技術者とユーザーの判断が二分されるところだろうと思います。
 
 巷でアコースティックピアノ(生ピアノ)という言葉をよく使いますが、ディアパソンこそまさに生ピアノそのもので、肉筆の文字や絵のような、今まさにハンマーが弦をたたき、それが駒を通して響板に伝わり、ピアノの響きとなって広がってくるという感覚を直接的に感じることができるのは、国産ピアノではディアパソンが随一だと思いますし、少しだけ弾かせてもらったことのある手作りのシュベスターにもこれに通じるキャラクターがあったことを思い出します。
 
 多くの国産量産ピアノにありがちな特徴といえば、音は大きいけれど日本人の顔みたいにペチャッと平面的で、美しさもどこか造花チックで情感に乏しく、無機質な機械のような感じのものが少なくないように感じます。その点ディアパソンの音はふわりと浮いたような自然な余韻があり、ちょっと古い感じはあるもののピアノを弾いているという実感があるのが一番の特徴ではないかと思います。弾く人に楽器を鳴らして音楽する喜びを与えてくれ、たとえ自分の拙い演奏であっても、それが生の音として自分の耳に伝わり、同時に指先や身体の感触と感性に直結していく過程は、このピアノでないと得られない感覚だいう気がします。
 
 そこには、人工的でない、良い意味での洗練されすぎないものがあり、ピアノという楽器の原点に触れられるような気さえするのです。その点では大手の量産ピアノは、たしかに音はムラなく揃っているし、誰にでもわかりやすい華やかさと滑らかな弾きやすさがあり、手触り耳あたりが良いのは確かでしょう。しかしマロニエ君に云わせると、どこか「電子ピアノのような生ピアノ」というパラドックスを抱えているように感じますし、この状態が経年変化でどうなるのだろうという疑問も感じるわけです。
 喩えて云うと、えらくスタイリッシュな建て売り住宅の展示場を見せられているようで、素敵なんだけどどうしても正味の本物には見えず、壁の裏がどうなっているのか…素材は実は何なのか…どこまで信用して良いかわからない猜疑心と不安感が常につきまといます。いま見えているものがすべてであって、それ以上の発見はおそらくないという予感…。
 
 もちろんピアノの全音域がムラなく整って、洗練された美しい音を奏でることは、ピアノ造りのセオリーからすれば正しいことでしょう。しかし、それがコストや生産効率追求と同時並行的に高度な工業技術によって表面的に作り出された精度の権化のようなものであるならば、それが楽器として音楽の本質に迫り、弾く者の感性を磨き、作品の真価を歌い上げることができるだけの潜在力があるかどうかは甚だ疑問です。
 
 また、楽器というものは音楽を文字通り音として結実させるための道具ですから、その楽器そのものがあまりにも美しい音で完結され過ぎていると、演奏されても意外につまらないものになる気がします。あくまで演奏されたことによって収束され完成していくような、そんな余地を残したピアノをマロニエ君は好みます。
 
 まったく異なる個性ですが、強いてスタインウェイとディアパソンに共通したものを探すとすれば、それは、ただ人差し指でポンポンと単音を鳴らしたり、意味のない音階を弾いただけでは、必ずしも均質で音の美しいピアノではないということでしょうか…。それどころか、むしろ雑味のある、評判ほどにもないピアノのように感じられる方も多いはずです。しかし、ピアノの真価はそれらの音が音楽となったとき、一体どのような作用をもたらすか、その場にどれだけの風をおこすか、肝心な点はここにあるような気がするのです。
 
 例えば、マロニエ君のまったくの個人的な好みでいうならば、ベーゼンドルファーは木の温もりだとか、最も人の声に近いとか、ウィーンの貴婦人のような雅びた美しさがあると言われますが、あまりにもピアノをデリケートな美術品のような次元へと昇華させてしまった結果、その音色のたおやかなシルクのような美しさは却ってピアノのストレートな魅力に欠けるといったらお叱りをうけるでしょうか。その点ではマロニエ君はベヒシュタインのほうがまだしもピアノらしいという気がします。
 
 白洲次郎夫人で随筆家の白洲正子さんは、文化に造詣が深いのはもちろん、大変な美食家だったそうですが、正子さんを良く知る人の言葉によれば、彼女は京都などの過度に雅致を極めた料理の類はあまり好みではなく、そこには必ず一片の野趣がなくては納得しなかった、という話を聞いたことがありますが、これはマロニエ君のピアノの好みにも通じるものがあり、ベヒシュタインにはその野趣を感じるわけです。
 
 その流れのずっとずっと下流のところにディアパソンの魅力も連なるように思うわけで、これがマロニエ君が二度目のディアパソン(しかも30年以上も前の)をわざわざ買った理由かもしれません。
 話がずいぶん勝手な方向へと蛇行しましたが、果たしてオーバーホールまでしたディアパソンが思い通りのピアノになってくれるかどうか、これはまったくの未知数です。

ディアパソン210E-2

 ディアパソンの210Eを工房に運んで、2ヶ月が経ちました。
 
 はじめは全体のクリーニングと入念な調整のつもりが、やはりプロの目で隅々まで詳細に見てもらうにつれ、次々に問題が浮上、相対的なバランスの問題もあり、ついにはオーバーホールに近いような大修理を受けることになりました。
 
 考えてみれば当然なのですが、いかにあまり弾かれていなかったとは云え、まず単純に、30数年を経過した弦やハンマーが今尚健在であるはずがありません。これらのパーツはボディやフレームとは違い、純粋に消耗品と考えるべきもので、クルマで言えばタイヤやプラグやバッテリーみたいなものでしょうから、ピアノを蘇らせたいなら交換も致し方のないことだと思われます。
 
 ディアパソンの210Eには、ドイツ製の有名なレンナーのハンマー、レスローの弦が標準で使われていますが、それも30年以上経てばほとんど意味を成しません。ピアノが工房に運び込まれて後、はじめにここを訪れたときには、アクション一式は完全にボディから抜き取られ、鍵盤もバラバラの状態でした。
 作業台の上に置かれたアクションを見ると、ハンマーは摩耗こそさほどではないものの、見るからに古びており、レンナーとはいってもアンダーフェルト(ハンマーの中心近くに巻かれた赤や青や緑色のフェルト)のないタイプで、下半分はグレーに染められているのが心なしか汚れのようにも見えてしまって、まるでネズミの頭が並んでいるようで、まったくそそられないものでした。
 
 どんなにボディをピカピカに仕上げても、気合いを入れて調整してもらっても、その内部にこのハンマーがある限りは何をやったところで結局は限界があることを認識せざるを得ません。
 我が家のカワイでも経験しましたが、古いハンマーに何をやってみても、所詮は新しいものには敵いませんし、それも自分が長く弾いてきたピアノならまだしも、これから長い付き合いが始まろうというピアノが、始めからそんな状態というのでは気分も晴れませんから、思い切って交換という選択肢以外にはありませんでした。
 
 ところが、そんな決心も束の間、弦も使おうと思えば使えないことはないとのことですが、せいぜい10年?15年だろうという見立てで、せっかくハンマーを交換するのに、その新しいハンマーが叩く弦が残りの賞味期限が少ないご老体とあっては、これまたなんとも不釣り合いであるし、弦交換はできることならピアノが工房にあるうちにやるべきだということから、作業範囲はみるみる拡大していきました。
 
 それは、他の細かいブッシングクロスなども同様で、工房での作業だからこそ腰を落ち着けてゆっくり出来る事が数多くあるわけで、だからこそ仕上がりのクオリティも期待できるというものです。
 そうなると、なにもかもが「この際だから…」というひとことに括られ引っぱられるように、象牙鍵盤の漂白、黒鍵の黒檀への交換、果ては錆のあったペダルの金属棒まで取り替えることになりました。 
 
 これだけの事をやるとなると、どんなにお安くしていただいてもそれなりのドカンとした金額にはなってしまいますから、正直ずいぶん悩みました。しかし、ここで中途半端にケチっても、結局最後に不満が残るようなやり方では、そもそも一体何のためにこのピアノを買ったのか、何のために工房に運び込んでまで入念な整備をしたのかという根本的な問題に突き当たります。
 中途半端なことをするぐらいなら、いっそ何も交換せず、現状で可能な限りの調整に徹するほうが、まだ一貫性もあるし、潔くもあるでしょう。でも、それもイヤでした。
 個々のパーツや調整はピアノ全体の音や機能に繋がり、その全体が有機的に結びつくときこそ楽器として真の能力を発揮するはずで、ならば交換すべきは交換して、一定の要件を満たすことが求められます。
 
 こうなると、予算オーバーなんてものでは済まない次元に突入しますが、まあ所詮は趣味道というものはそういうことだと、半ば諦めとやけくその後押しもあって思い至ったわけです。
 
 ピアノ本体を上回る高額な整備代というのも、なんだかバランスが悪いような気もしますが、それを云いだせば、そもそも中古ピアノなんて、多くの場合が仕入れ値よりはるかに高額な整備をして(しないところもあるようですが)、外装も美しく仕上げることで売値が付けられ、ようやく販売されるのが大半ですから、そう思えばそれほどおかしな話でもないと考えることもできる。
 まあ、お金の話はつまらないのでやめましょう。
 
 弦はむろんレスローを使うことになり、巻弦ではレスローに加えて、これまたドイツのデーゲンの銅線を巻いてもらうことになりましたが、これは特筆大書すべきことでもなく、だいたいレスローにはデーゲンの銅線を巻くのが定石のようです。あとから聞いたところでは、巻線はピアノのメーカーや機種ごとに異なる弦の長さを一本一本測って、それを浜松の業者に依頼して巻いてもらうのだそうです。
 
 先日は、弦の張り替えがおわったとのことで、まずは古いハンマーを使って全体的な音の傾向の確認と、取り替えるべきハンマーの選定を検討するための試弾をおこないました。
 すでにこの工房で目にするのが三回目となる我がディアパソンですが、ボディはあらかた磨かれているものの、大屋根は外された状態で、足も作業用のものに交換されたままで、ひとくちで云えばバラバラで、まだ全体を俯瞰するには至りません。ただひとつの大きな違いは、弦が外されて骨だけのフレームだった前回とは異なり、真新しい弦がハープのように美しく張られ、手前には新しいチューニングピンが眩いばかりに輝いており、これだけでも新品のような鮮烈な印象を覚えました。
 
 ところが弾いてみると、まったく期待はずれなもので、音には芯がなく不揃いで、キーは重く、これはちょっと…というのが率直な印象です。この時点では、あくまでもオリジナルのハンマーによる音出しのテストのようなもので、ここのご主人が一音ずつ整音や調律を変えながらいろいろ試してみると、音はおもしろいように変化を繰り返していきます。
 
 そんな過程の中からマロニエ君が気に入った音、気に入らない音、好ましいと感じる音など、あれこれと感想を述べると、そこからこちらの大まかな好みを把握して、できるだけそれに沿った音造りの指針にしようということのようでした。
 マロニエ君は中音から上は、音に芯はあるけれども、それをふくよかさで包み込んでいるような、全体としてはやわらかな音が好きですが、低音域ではそれよりはいくぶんメリハリの効いた明晰さと、それでいてパワーのある、重心の低い響きを好みます。
 
 新品を含む多くのピアノが、貧弱で輪郭がなく、ぼやけた感じの低音の上に、いかにもブリリアント風な中高音が乗っているのとは真逆といえるかもしれません。
 
 工房のご主人は、はじめアベル(ドイツ)のハンマーを使う心づもりだったようですが、マロニエ君の好みに対する理解が進むにつれ、むしろレンナーのほうが好ましいと判断されたようで、こちらを選択ことになりました。ちなみに一般的にはレンナーのほうが重厚な音造りに向いているとされ、アベルはその点ではやや軽快で明るい音という性格なのかもしれません。その違いについてはマロニエ君は実感として語るだけの経験はなく、あくまで聞いた限りの話ですし、両社共にいろいろなハンマーがあるようですから、一概にどうということも云えませんが…。
 
 本当は、整音の本で読み知ったロンセンというメーカーのハンマーに興味がありました。アメリカの小さな会社のようですが、取扱店の説明によると、ロンセン・ハンマーは黄金期(戦前)のピアノの響きを目指しており、密度が高く、伸びがあり、弾力性に富み、力強さと輝きがあるということで、これが本当ならまさに理想のハンマーだと思いました。とくに製造過程で特徴的なのが、手動機械による丁寧な作りに加えて、ローヒートという手法が採られている点のようです。これはフェルトに高熱を加えない製造法で、天然素材であるフェルトのためには好ましいものの、手間がかかるためか大量生産では不可能とされており、世界中の技術者が望んでいたものと記述されています。
 
 写真を見ると、通常のハンマーの白いフェルトと、中心部にある色つきのアンダーフェルトの間に、もうひとつ異なる調子のフェルトの層が存在していて、このようなハンマーの断面はこれまでに見たことがないので、おそらくこれがロンセン・ハンマーの特徴の大きな鍵を握っているのではないかという気がします。
 
 このフェルトに強い興味を覚え、工房のご主人にもその旨を伝えたのですが、返ってきた返事は「いかに良いとされているものでも、自分で使ってみた経験のないものを、いきなりお客さんのピアノにつけることは無謀、それは技術者として無責任な事であって、自分にはできない」というものでした。
 マロニエ君としてはそこに多少の冒険があるにせよ、ものは試してみなくちゃわからないのだから、その結果がどうなろうとも構わないとまでは云いませんが、しかしまったくダメということはないだろうと推察するので、やってみてもいいじゃないかと内心思うのですが、このご主人はこうだと言い出したら説き伏せることは無理なので、今回はロンセンは諦めることにしました。
 
 でも、ロンセン・ハンマーに興味津々なのは今も変わりはないので、いつかなんらかのかたちでぜひ試して欲しいものだと思っています。
 
 またキーの重さについては、このピアノを前オーナー宅で試弾したときより、尚一層重く感じられたのはどういうわけだろうかと思いましたが、そこはよくわかりません。
 この時代のカワイやディアパソンは、なに故にこうまでキーを重く作ったのか、まったく理由がわかりません。この点では知人のお宅にあったカワイも、やはりキーが鉄ゲタのように重く、驚いたばかりです。
 
 工房のご主人もカワイ/ディアパソンに見られるこの悪しき特徴は以前から苦言を呈しておられるところですが、我がディアパソンがまだしも幸いだった点は、ダウンウェイトを調整するための鉛の量/数が極端に少なく、ところどころにはまったく埋め込まれていないキーもあるほどで、これなら新たに鉛を入れる余地がかなりあるというわけで希望が持てるような気がしました。
 
 ピアノによっては、すでに鉛がかなり入っていてもまだまだ重いものがあるようで、それ以上鉛を入れるとキーの木材の強度に問題が生じる(下手をすれば折れる)ほか、キーの戻りが悪くなるという弊害も出てくるので、鉛詰めといっても限界があるようです。
 
 音やタッチがどこまで改善されるか、楽しみのようでもあり不安でもありますが、まあ好きで買ってしまったピアノで、マロニエ君にご縁があったわけですから、少々の失敗だったとしても悔いることはないと思いますが…。
 
 実はこの日、このディアパソンでなによりもマロニエ君の気に入った点は、外装の深みのあるマホガニーのなまめかしい美しさでした。これまでにも何台かのグランドピアノを購入してきましたが、すべて黒で、木目というのは実をいうと初めてなのですが、これが思いのほか色っぽい印象だったのは嬉しい誤算でした。
 はじめは積年のホコリやくすみがピアノ全体を覆っており、それほどとは思いませんでしたが、入念に磨き込まれることで本来の輝きを取り戻し、黒のピアノには望むべくもない典雅な雰囲気があるのは、これぞ木目ならではの魅力だと思いました。
 そうは云っても、ピアノは楽器なわけですから、どんなに見た目がよくても肝心の音が良くなくては仕方がありませんが、そこはディアパソンの潜在力と工房のご主人の腕を信じるしかありません。
 
 
(追記)
 ロンセンのハンマーについては、どうしても体験者の話を聞いてみたいという思いが強く、とうとう輸入元に電話して、どのような特徴やメリットがあるハンマーかを直接尋ねてみました。果たして、とても親切に説明していただいたのですが、生来やわらかいハンマーで、第一整音の必要がないというものでした。
 
 そして最終的には、硬化剤を使いながら音色を作っていくというタイプのハンマーなのだそうで、これは咄嗟にアメリカ製のハンマー(フェルトはドイツ製ですが)の特徴だろうと推察しました。まさにニューヨークスタインウェイとハンブルクスタインウェイの違いのひとつがこの点にあり、明るくふくよかな音を求めるならニューヨーク、重厚で輪郭のある発音ならハンブルクという個性の違いがありますが、これはひとつにはピアノに対する理想理念の違いであり、それがハンマーの特性の違いにも現れていると思われます。
 
 整音をするにしても、やわらかいハンマーに硬化剤を使うか、あるいは時間をかけて弾き込むことで音を作っていくニューヨークに対して、ハンブルクはレンナー製の固く巻かれたハンマーを針でほぐしながらヴォイシングしていくわけで、マロニエ君はどちらにも捨てがたい魅力があると思っていますが、ディアパソンは方向性としてはベヒシュタイン的な、くっきりとした野太い音を出すピアノでもあるので、それにはレンナーの方がピアノの性格に合っているような気がしましたし、工房のご主人のレンナーという判断はさすがに正しいと思われました。
 さてそこから、どれだけ透明感と洗練、そして音楽性のある品位を与えられるかが技術者の腕とセンスということになるわけで、大いに期待しているところです。

ディアパソン210E

【事の起こり】
 このほど、まったくの偶然の成り行きによってピアノを買うことになり、自分でも驚いています。
 出所はネットオークションで、ここにひょろっと出てきた、深い赤みがかったマホガニー仕上げのディアパソン210Eで、もちろん中古です。
 
 マロニエ君がディアパソンを好きなことは折に触れ書いてきたつもりですが、生みの親である大橋幡岩氏は日本のピアノ界の黎明期に活躍してその名を残すピアノの名工であり設計の偉人です。氏の設計によるピアノは初期のヤマハからホルーゲル、ディアパソン、晩年のオオハシピアノまで数多くありましたが、いずれも現在では年々数が減っています。
 
 ディアパソンは戦後ほどなくして大橋氏が日本楽器(現ヤマハ)を退社したのちに、新たに自分の理想のピアノとして設計・製作したもので、後にこのブランドはカワイ楽器に引き継がれて生産されますが、とくに大橋氏が自ら手がけた時代のディアパソンは採算度外視のピアノだったようで、これでは会社として立ち行かなくなるのは当然でしょう。
 大橋氏はピアノ設計の偉人には違いないとしても、優れた経営者ではなかったということですが、一流の職人というのはえてしてそういうものです。
 
 この数十年にわたって製造販売されているカワイ楽器製造のディアパソンは、クルマでいうならフランスで生産終了したシトロエンの名車2CVがポルトガルの工場で作られたり、ドイツで生産を終えたVWの初代ビートルが、その後もブラジルで長らく生産を続けられたようなものかもしれません。
 カワイの製造とはいっても、大橋氏がそれを承諾することで生産が引き継がれたわけですから、れっきとしたディアパソンであるには違いありませんが、ではこれが真性のディアパソンだと大手を振って言い切ることができるかどうかとなると、なんとも微妙な立ち位置にあるピアノということになるでしょう。
 それでもヤマハやカワイとはまったく趣(とりわけ発音特性)の異なるピアノであることは誰もが認めるところです。大橋氏が設計したディアパソンは量産型としては170、183、210(いずれも奥行きの長さ)と3種ありますが、大橋氏自身はのちにコンサートグランドの設計もしており、これは試作機まで作っていたようです。
 
 音色の特徴としては、ドイツ的な実直で太い発音を有し、日本のピアノとしては珍しくタッチコントロールによる反応が敏感である点、さらには大橋氏がベヒシュタインの技術者シュレーゲルの指導影響を受けたということから、ベヒシュタイン的だと喩えられることもあり、これはある程度は頷けるものがあります。また、最近目にした文章では中音のふくよかさなどはベーゼンドルファーにも通じるものがあるという感想を述べたものもあり、この点はマロニエ君もわずかながら頷けるところではあります。
 しかし、基本的な音のクオリティとしてはそれら名器と肩を並べるものと考えるのは間違いで、あくまでも好意的な喩えと受け止めるべきであり、較べるべきは同じ価格帯の他社の量産ピアノだと思います。
 
 それはそうだとしても、ディアパソンが日本のピアノとしてはヨーロッパ的な要素を多分に持ったピアノであるという点ではやはり異色の存在であり、にもかかわらず、その不当なまでの注目度・知名度の低さは到底納得できるものではありません。そうは云ってもカワイ楽器の後ろ盾があったお陰で今日までこのブランドが生きながらえることができたことも事実で、独立した会社(ディアパソンが産まれたのは大橋氏が創設した浜松楽器)のままであれば、とっくの昔にその会社も名前もこの世から消えて無くなっていたかもしれないのですから、カワイ楽器にはともかくも感謝の念を持つべきでしょう。
 
 現在でもディアパソンは独立したメーカーとして存在し、表向きは何種類ものモデルがラインナップされていますが、その内実は設計までもがカワイピアノそのものになってしまいました。現存するモデルのうち大橋氏の設計したものは1機種だけで、あとはすべてカワイのレギュラーシリーズをベースにするまでに整理され、悲しいかなマークだけがディアパソンになっているわけで、こうなるとさすがに大橋氏のDNAは求めようもありません。それに較べればフレームに「Ohhashi Design」と刻印されていたモデルは、なんとか大橋氏の血脈を受け継いだと云える最後のピアノであったと思うわけです。
 
 ちなみに、現在1機種だけ残っているグランドは奥行き183cmのモデルで、それ以外は設計から響板の材質に至るまで、大部分がカワイのピアノとまったく同じということになります。カワイとの最大の違いはアクションがいまだに木を使っている点と足や譜面台の形状、あとは微々たるパーツの違いで、それを仕上や出荷調整の段階でディアパソンの生え抜きのスペシャリストの手で丹念に行われるというものにすぎません。
 
 早い話が、カワイピアノのディアパソン・スペシャルとでもいったほうがイメージが掴みやすいかもしれません。その点では同じくカワイで製造されるボストンのほうが、設計そのものがカワイとはまったく異なるので、まだこちらの方がブランドの個性を維持していると見ることができるでしょう。
 
【210E】
さて、オークションに出てきたピアノに話を戻すと、このピアノにマロニエ君が心惹かれた理由というのは、ディアパソンでも滅多なことでは出てこない210Eという稀少モデルだったからです。もともと少ないディアパソンの中で仮に183が10台あっても、このサイズは1台あるかないかではないでしょうか。
 一般論として、グランドピアノは2mを境に一気に素晴らしさが出てくると言われています。マロニエ君の私見ですが、近代のグランドピアノが開発され、様々に改良を重ねつつ次第に完成されていった19世紀は、現在のような量販のノルマもなければせせこましい住宅事情などもなかったことでしょうから、製造者はその楽器形体に最も相応しいサイズを自由に割り出して、理想的な設計をしていたのではなかろうかと思います。
 つまりグランドピアノをそれらしくバランスよく作るにはこのあたりが最良であったのだろうと思います。そしてさらに大きなコンサートピアノへと発展していくようです。
 
 この210cm前後のサイズで最も有名かつ高い完成度で広く知られ愛好されているのがスタインウェイのB型(211cm)で、それに続けといわんばかりに各ピアノメーカーもこのサイズのモデルは必ずといっていいほど作っています。日本でもカワイではRX-6とSK-6の二種を作っていますし、ヤマハにC6X?CF6までたしか4種類ぐらいこのサイズで質だけを変えたピアノを作るほどで、この大きさはグランドピアノのいわば黄金分割ということなのかもしれません。
 ヤマハの中型の定番といえばC7ですが、個人的には弾いてみてC6のほうが自然なバランスと密度感があって好ましい印象を持っていますが、不思議にヤマハの場合セミコンなどといってC7に人気があり、C6の数はかなり少なめのようです。というか、以前のヤマハはC5の次はC7で、C6はあとから出てきたモデルという事情もあるように思います。
 
【稀少性】
 また話が逸れましたので、再度話を戻します。
 マロニエ君の記憶する限りにおいて、ヤフーオークションでこれと同型のピアノが出た(業者以外で)のは、10年ほど前だったか一度あり、関東の方で、どこだかの別荘に置いているピアノを処分するからということで出品された事がありました。そのときはどうにもこちらの態勢が整わないために連絡を取ることもなく終わってしまいましたが、そのピアノのことはその後もずいぶん長い間引きずりました。そして、どんな無茶をしてでも買っておけばよかったということを何度繰り返して思ったかしれませんが、なにしろピアノは価格といい大きさといい、その場の思いつきで買えるものではないことは、たぶんクルマ以上かもしれません。
 
 今回オークションでそれを見つけたときは、驚きというよりはなにやら自分の運命の中に置かれた出来事が満を持して静かに目の前にやってきたような気がしました。そのひとつが出品地で、福岡県とは関門海峡を挟んで隣県となる山口県だったということもあったと思います。これがもし新幹線や飛行機を乗り継いで行くような遠方であったなら、また気持ちも違ったかもしれませんが、山口ならどんなに遠くても車で往復できる距離です。
 
 自分でも不思議に落ち着いた気持ちで出品者に連絡を取ってみたところ、すぐに返事がありました。マロニエ君は何事も返事などの遅い、時間的なテンポの鈍い人が大の苦手で、まずこの時点で好印象を得たと思います。果たしてメールをくださった方はピアノのことはまったく不案内の代理出品をされた方で、このピアノを弾いおられた方は既に遠方に嫁がれていて、ピアノは山口のご実家に置かれているということでした。すでに話の決まった方がおられるならそれもやむなしと思っていたところ、数件問い合わせはあったけれどいずれも決まっていないとのこと。
 見せていただけるなら当方は行く用意があると告げると、ご親切なことに、こちらが焦らなくて済むようにとすぐにオークションを停止してくださり、ここでまたマロニエ君としては自分の運命的なものが絡んでいるような気分が加速されてしまったのでした。
 
 それから程なくして、嫁がれた女性の方からもお電話をいただくなど、本格的なやりとりが始まりました。その後、ご実家の都合もあり少し日をおいてから見に行くことになりました。事前にご実家においでのお母上とも話しましたが、いずれの方々もいかにも長州人らしい、真面目で折り目正しいきちんとした一族のお人柄がとりわけ印象的でした。
 
 出発までかなり日にちのあることを幸いに、あちこちの運送屋に電話したり、ネットの同時見積もりのようなところに登録するなどして運送費を調べましたが、この210Eはピアノが平均的グランドより大きいことと、距離も片道200kmを超えることから予想以上の価格しか出てこなかったのは誤算のひとつでした。
 そもそも、ピアノを見る前からすでにこれだけの調査を開始していたということは、気持ちの上ではほとんど購入するということが前提になっている証拠で、実はもうすっかり舞い上がっていたのです。
 
【見に行く】
 いよいよその日がやって来ました。
 なにしろ往復400kmのドライブですから前日にガソリンを満タンにし、ささやかな手土産などを準備して友人に同行してもらい、勇み立って出発しました。いつも思うことですが、関門大橋を渡って山口県に入るとあたりの景色というか雰囲気は一変し、もはや九州ではないエリアに踏み入れたことをしみじみ実感させられます。
 出発から3時間、カーナビのお陰で迷うことなく目的地に到着し、さっそくお母上が応対をしてくださいました。応接室のようなところでしばらく歓談をしたのち、いよいよピアノの置かれている部屋に案内されます。
 
 ピアノの上には専用カバーではないものの、やわらかな広い布が掛けてあり、それを少しはぐってピアノの一隅を見たとたん、これは上物だと直感しました。言い忘れていましたが、このピアノは34年ほど前に新品でこの家に嫁いできたピアノで、いわゆるワンオーナー、時間は経っているけれども大事にされた個体だというのはすぐにわかりました。
 なにしろ34年という歳月ですから、内部にはそれなりのホコリなどはありますし、塗装にも全体にくもりが出ています。しかし、ほとんどキズらしいキズはなく、それほど弾かれていないこともわかりました。今はなき一枚象牙の鍵盤で、外装は深みのある美しいマホガニーです。
 
 調律などはずいぶん長いことやっておられないとのことで、音を出してみてもそれは頷けましたが、しかしその奥にある潜在力といいましょうか、ピアノとしての器のようなものはとても優れたものがあるのが素人ながら伝わってくるようで、アクションにもガタやヘタリなどがないのも好印象でした。
 少しだけ最近練習したばかりのショパンのマズルカを弾きましたが、なかなかいいピアノで、この時点で心は決まりました。
 
【折り返しか一本張りか】
 ちなみにこのピアノはディアパソンの一部機種に採用される一本張り仕様ではなく、ヒッチピンのところで折り返してくる一般的なスタイルのものですが、ハンマーはレンナー、弦はレスローが使われています。
 一本張りに関しては、もともとマロニエ君は懐疑的な面があり、技術者の中にもそのような意見の人が多くいらっしゃいます。というのも芯線の部分を一本ずつ独立して張ったことによる効果は、理論としてはわかるけれども、なかなか音としての効果が明瞭に確認しづらいということのようです。
 この点をディアパソンに聞いてみると、「較べて弾いていただきますと、やはり一本張りのほうが好ましいと言われるお客様が多いです」とのことでしたが、これは調整の問題もあるだろうと内心思いました。もしディアパソンの言うような効果が明確にあるのなら、とりわけ高級ピアノメーカーはこぞってこのシステムを採用するはずではないでしょうか。
 
 他の主なピアノメーカーでこれを採用しているのは、思いつく限りベーゼンドルファーぐらいで、本当にそんなに価値があるのであれば、普通サイズでさえ一千万、コンサートグランドでは2千万という高級ピアノなどは当然これを採用するはずだと思うのですが、実際にはスタインウェイもファツィオリもヤマハCFXもまったく採用しないのはなぜかと思ってしまいます。
 
 それよりも深刻な問題だと感じたのは、ある技術者さんの記述で、一本張りは必然的にフレームに開けるピンの穴の数が倍増することになり、平均的に20トンという猛烈な力がかかり続けるフレームにとっては、これで強度が弱くなるという問題があるということで、これが事実かどうかはわかりませんが、たしかに言われてみるとそんな気もしなくもないことです。
 
 現行のディアパソンのDR-500などは、カワイのRX-6がベースですから積極的に倍音を響かせるデュープレックスシステムが存在していて、しかるに一本張りを採用というのは論理的にどういうことなのか、このあたりのことはマロニエ君にはまったく理屈がわかりません。
 あるピアノ購入のための冊子によると、1本張りは弦を張るときの手間が余計にかかるわりに効果は疑問であるとのことで、これはピアノの響きが悪かった時代の古楽器的な発想だと述べられています。「隣の弦に干渉が少ないので純粋な音がするというのが売りだが、音がスーと消えていって共鳴しないので音に膨らみがなく、表現力の乏しいピアノになるために、今ではほとんどのピアノが採用していない。珍しさや個性的という点ではセールスポイントにはなっても、性能的には見るべきものはなく、むしろマイナスである」とありました。
 
 真偽のほどはわかりませんが、マロニエ君としては個人的にこのピアノが1本張りでなかったことは幸いだったと思っています。
 
【まずは入院】
 この日は一旦帰宅し、翌日オーナーである女性に電話して、結果的に購入することになりました。その一週間後には長らく住み慣れた家からこのディアパソンは搬出されることになったわけですが、ピアノはいつもいうようになにしろ整備であり調整であり、つまりは技術者しだいです。とりわけ長く深い眠りにあったピアノを目覚めさせるには、いろいろと手を入れる必要もあるため、このピアノの最初の行き先は我が家ではなく、知り合いの工房ということになりました。
 はてさて、これからどれぐらいの時間がかかるかわかりませんが、ここでゆっくりと再起のためのあらゆる作業を受けることになると思います。

北米読者の方から

 ついブログばかり書いて、こちらのほうはすっかりご無沙汰状態が続きました。
 
 昨年12月の初め頃でしたが、北米在住の方からメールをいただきました。
 マロニエ君の拙いHPを見ていただいてるとのことで、ありがたいやら恥ずかしいやら、そしてネットというものの凄さをいまさらながら痛感したところです。
 
 その後は、何度かメールの往復が続きましたが、とてもピアノに興味をお持ちでお子さんもピアノを弾かれ、現在はヤマハのC7をお持ちとのことでした。
 
 さて、その内容ですが、私一人が読んで終わらせるのは惜しいようなアメリカのピアノ事情の一端が書かれていますので、ご了解を得て、以下の通り掲載させていただきます。
 
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(第1便)
 
 いつもブログを拝見しています。私は北米在住の読者です。
 
 ちょっとスタンウェイについてです。
 私は小さなウェブショップでピアノとは関連ない手作 り品を“Steinway Style”と名付けて売っていました。カワイスタイル、 Grotrian Style でも何でも良かったのです。その品は月1-5個売れた程度のホビーショップでした。ある有名ブログにこの手作り商品が紹介され たのですが、その後、スタンウェイ&サンズ社の商標部門の弁護士から「スタンウェイの名前を使うな」「我が社の品質と由緒ある名を利用した」「今後使わないと記した文書を送致せよ」という旨の警告書が届きました。
 スタンウェイ社は、私のこの商品を紹介してくれたブログやウェブサイトからもその商品写真を削除させました。所詮ホビーだったので、一挙に手作りの意欲も失せました。。怖かったです。
 
 私は大昔にスタンウェイブルバードの治安の悪いスタンウェイ工場付近に住んでいたことがあり、名前に馴染みがありました。子供がピアノを習いだしてからスタンウェイ信仰(スタンウェイが一番)をもちました。この件では安易に名前を使ったのでおろかで浅はかでした。
 そしてそれ以上にこの社の威圧的な実態に驚きました。担当者からのメールはなく、いきなり弁護士による警告書送付。アメリカ人でさえ驚いていたことです。
 
 Steinway & Sons社は昔からトレードマーク、ブランド作りに厳格に巨額を投入しているようです。
 私のようなスタンウェイ信者の方に、知っていただきたいのは、それらがピアノ価格に含まれているということです。
 
 さて、私の子供が通うスタジオの一室に、Maison & Hamlin と Haessler というピアノがあります。両方とも、とくに小型のHaesslerは美しく繊細な響きは、スタンウェイMのパフォーマンスをはるかに上回っています。
 おそらくコンサート用のピアノなら、スタンウェイDは絶品の一つでしょう。家庭用やスタジオ用で、他と比べるとスタンウェイはオーバープライスだと思います。
 私の9歳の子供が、発表会でヴィラロボスのオポリシネーロをスタンウェイDで弾きましたが、「アクションが遅くてさ、良くないピアノ~」と文句をたれていました。うちは中古ヤマハC7です。自宅練習用で、今となれば、同じくらいの値段の中古スタンウェイMを買わなくて正解でした。
 また5’3”(M?)のベビーのスタンウェイはハンブルク製でもキンキンでのっぺりしてまったく良くありませんでした。この所有者は日本人でしたが、オーバープライスでも買いたい人はいるのですね。
 
 あるピアノセールスマンの方から言われたことです。
 ピアノは新品を買った方がいいと。最新技術を選んだ方がいいそうです。そして修理がいらないのはいいことだと。たしかに実際に体験したのは、うちのあたりではヤマハの代理店がまずいピアノテクニシャンを紹介したことにより、なんだか元の音も損なわれてしまいました。あり得ないことがあったのです。もしかしたら、スタンウェイの代理店なら、あのような素人くさい調律師を送らなかったかもしれません。ヤマハ社のカスタマーサビースは良かったのですが。末端ではこれもブランド名による差かも知れませんが、私は素人なのでわかりません。 
 
 そして、シゲルカワイのロゴですが、私もまったく好きではありません。ピアノにあれが付いてくるのはいやですね。あのロゴはフェラーリーかなにかのデザイナーということで採用されたのですか?その分が上乗せだとなお嫌です。SKの評判がいいだけに残念です。
 スタンウェイ&サンズのは好かれるロゴだと思います。Haesslerのロゴもいまいちですが、SKのような勘違いがありません。ロゴはある程度はすっきりシンプルであれば、長い年月にわたって無駄がないと思います。カワイにはあのSKのロゴをどうにかしてほしいです。
 いろいろな要素が織りなして,満足いくピアノが出来上がるわけですよね。私はスタンウェイ信仰がなくなりました。もっと多くの方がBluthner, Grotrian, というすばらしいメーカーにも注目してほしいと思いました。 そして、日本の企業を応援しています。
 
 読んでくださってありがとうございます。乱文スペル間違い等失礼します。
 今後とも更新を楽しみにしています。
 
 在米読者より
 
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(第2便)
 
 お返事ありがとうございます。
 マロニエ君のブログはこだわりがあって読んでいて楽しいです。エル=バシャをググってたどりつきました。
 改めて思えば、今は個人も企業もネットがあれば、世界がマーケットなので、スタインウェイは個人であろうが見つけ次第徹底駆除しているのでしょうか。Steinwegの名称も使用許可させなかったらしいとのことで、半端ではないですね。
 こちらは公立小中学校に音楽の授業がない代わりに、大学、コミカレで専門と教養課程で音楽が学べるみたいです。そして併設のホールにはスタインウェイがたいてい設置のようです。子供の発表会ではそういうスタインウェイ使用でも日本のようにありがたがる人もおらず、そしてただみたいな低料金です。日本人のスタインウェイ信仰から解けた私の違った観点をお知らせしたかったのです。
 
 さて、ご存知かもしれませんが260台のスタインウェイピアノを保有するジュリアードが、去年はじめてファツィオリを一台購入したそうです。
 マロニエ君のブログでもこのピアノについて取りあげてらっしゃいましたよね。私はYT(YouTube?)で女の子が上手に弾いているのをみるだけですが、ファツィオリの甘い音色と丸い蓋にお洒落な金ロゴが気になっていました。黒と金の光り方が気のせいか違います。。。とブランド志向とか見た目に再びつながってしまうのですが。実際に聴きたいです。
 
 ちなみにシゲルのロゴ同様に日本人の女性ピアニストに多いふりふりドレスや髪型や姿勢も好きではないです。ああいうのはハロウィーンの仮装衣装みたいです。音楽に遊び心って大切ですが違う気がします。子供のコンクールもなんだか宗教っぽくって。
 
 私はカリグラフィー、西洋習字に日々浸っているので、シゲルのロゴにはがっくりきていました。
 クラシック音楽の出版物には、それはとても美しいカリグラフィーが表紙になっています。カリグラフィーも2~300年前に一旦完成され、以後は廃れていっています。が、シゲルのロゴはありえません。
 真実はわかりませんが、あのシゲルのロゴはカワイアメリカからの案で実現したとか?カリフォルニアには入れ墨人口が多めですが、へんてこりんな英語書体でも何でも平気なひとが多いみたいです。シゲルのロゴと変な英語書体の入れ墨は発想的には一致します。
 
 さて、アメリカの著名カリグラファーは日本の漫画用ペン先と墨汁を使うのですよ。これ一つ例にとっても日本の職人仕事は素晴らしいです。でも日本人は輸入品のペン先とインクを買いたがります。(これがさほど良くない) それに日本にはいい収集家が多くて、貴重なジャズ、クラシカルのレコードとかはほとんど日本へ流れると言われています。
 スタインウェイも移民一世が手がけていた時期には良かったでしょうが、アメリカ生まれの手作業と耳では今後良くないかも、ですよ。
 
 おっしゃる通り、この田舎のカリフォルニアのピアノテクニシャンは白人で、どの人も仕事が今一つらしいです。ブログで書かれていたことはぴったり当てはまりました。うちの場合はなぜか黒鍵の位置が2つ入れ替わっていたのをテクニシャンが気づかずに全作業終了、ど素人の私が中を見て発見したんです。
 さらに音も乱れてしまって。新品がいいと漏らしたセールスマンは移民でしたので、アメリカ生まれのテクニシャンのいい加減さを知っていたのかもしれません。
 
 アメリカ人は不器用なのに極端に歯や車や家とかピカピカにする傾向があるのですよね。そしてそのほうが幸せそうにみえるんです。
 では、マロニエ君、わざわざ律儀にお返事をくださってありがとうございます。これほど奥深く一気に読んだブログは他にありません。エルバシャさんは私も見た目からでは買わないと思いましたが、お陰様でいまは毎日聴いています。
 お体に気をつけてお過ごしください。
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(第3便)
 
 昨日、ファツォリって3~40年ほどの歴史のピアノと知って驚きました。
 今年、大赤字のNYCのスタインウェイのショールーム兼ホールが売却されましたが、今時ピアノだけで成長企業なんてあるんですね。イタリア製の手作り時計を買う日本人って多いそうです。
 アメリカにもハイエンドの手作りオーディオ、ターンテーブルもじわじわ売れているそうです。共通点は遊び心のある美しいハイエンドの手作り品…こんな時代にできることはあるものですね。他にもすばらしいこてこてのファミリー経営のピアノメーカーがあるみたいですけど。
 それにしてもオーナーも改良改良!と表に出て、デザインに相当こだわってアップルみたいですね。ここが大切なんですね。ファツオリのホールで来春ユジャワンのリサイタルがあります。きっとピアニストが弾きたくてそこで弾くと想像します。しばらく前にユジャワンとMTTのコンチェルトへ行きましたが、そのときのアンコールはTea for two。
 このピアノメーカーにはぜひ注目継続してほしいです。
 では、ブログを楽しみにしています。
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(第4便)
 
 思い出したのが、「ライカのライバルは中古ライカ」。ヤマハはかなりの中古でもカスタマーサービスに応じてくれるので,ピアノは理不尽なビジネスですよね。ファツィオリ、中古が出回らない、デザインもいい、半分趣味のプライベートオーナーって、見ている側からすると夢と希望が垣間見えていい感じです。シゲルのロゴは気にすると腹が立つし、スタ社は裏でなにかする体質なので、ファツィオリのいいところに注目しているこの頃です。カワイにはシゲルのロゴをなんとか清算してほしい気持ちでいっぱいです。
 
 あと私もCarl Zeissとかアナログオーディオ好きです。マイクロフォーサーズのカメラ用に外付けマイクを買う為にネットリサーチしました。こちらでは結構そういうデジタルカメラ/ビデオ用外付けマイクは豊富に売られているのですが、日本ではあまりないですね? 日本の小さい優秀なマイクやオーディオのメーカーが多く存在するのに。カメラ本体の企業は他社マイクの互換性には関せずです。そんな環境ゆえか日本人はビデオや写真撮りにものすご~くこだわっても、同時に音質には妥協するみたいです。
 デジタルのビデオと録音性能については、企業同士が結集して盛り上げてほしいです。きくところによるとウォークマンとかオリンパスのカムコーダーの録音性能がすごく良いそうです。ところがそういった内蔵マイクが社内他製品に使われていなかったりとか、あっさり製造終了で残念です。体制がバラバラなんですよね。普通のアメリカ人は不器用でダサめなのに、映像+音、録音のソフトつくりになると突如秀でるので驚きです。
 ソフト全般が苦手な日本の会社とは対照的です。ソフトをつくってアップデートの方がローコストで儲けが続きますからね。日本、がんばってほしいです。
 
 で、ふと思ったのが、もしかしてダニイルのCDのファツィオリの音がいまいちなのは、録音機材とか取り扱う人が不慣れなゆえ、音をよく拾えなかったかも。今後、よく弾きこなせて,録音もいいならファツィオリの音ももっと面白くなるかもしれません。
 私、ベートーベン嫌いですが、これは聴いてみたいかな。。。です

 
 ダニイルは昨年アメリカで、スタインウェイを弾いた後のインタビューで「どのピアノにも個性がある」「好きなピアノはイタリアのファツィオリ、ヨーロッパと日本でよく弾く」と答えています。こう正直だと、この人は一流スタッフによるいいアルバムを作ってもらえるのかと思ったりします。
 
 こちらの、おそらく大きいホールではスタインウェイ以外を使用することがなかなか出来ないようです。理由はユニオン(ホール関係者の組合)が強くて、不慣れなことをしたがらない(賠償問題になるから)、またホールとスタインウェイ社と強いつながりがあることらしいです。 
 
 どなたかもスタンウェイについて書かれているのを見つけました。
http://ameblo.jp/sydneysensei/day-20120903.html
 
 本音を綴るブログをいつも探しています。楽しみにしています。お忙しいところわざわざお返事いただきありがとうございます。また追々気になることをお知らせしますね。
 
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 以上が、これまでにいただいたメールの主な部分です。
 
 以下はマロニエ君が書いた返信に、新たに追加した自分なりの考えをまとめたものです。
 
 昔からアメリカは訴訟社会というのは話には聞いていましたが、やはりそのようで考えさせられました。
 たしかに、企業は自社のブランドイメージを守るためにあらゆる手を尽くしているのでしょうから、そのあたりの管理(監視?)はことのほか厳しいのかもしれませんが、大々的な名前の侵害などならともかく、あくまでホビー程度の事案に対して、いきなり弁護士からの警告という手段で相手に恐怖さえ抱かせるというのは、やり方としてはもう少しソフトに段階を踏むべきだと思います。
 同じ大国でも、こういうことの野放図な中国とは対極にある国のようですね。
 
 スタインウェイのピアノの価格がオーバープライスかどうかは私にはよくわかりません。それは各人の価値観が決めることとも云えるでしょう。中古ともなれば個体によってもコンディションには大差が生じ、まさに玉石混淆だろうと思います。ただし理想的に調整されたスタインウェイはやはりピアノ界の頂点に君臨するメーカーのひとつであることは間違いないと思います。
 
 そもそもスタインウェイというピアノは弾いて楽しむというよりは、遠くまで鳴り響く音で「聴かせる」ためのピアノだと思われます。そのためか演奏者はもちろん、すぐそばで聴くと、必ずしも美しい音ではないのですが、ちょっと距離を置くとスタインウェイの美音と響き、不思議とサマになる音楽性などの点において真価が発揮されるということは何度も経験しています。
 逆に自宅で弾いて楽しむぶんには、スタインウェイでなくても遙かに美しく、より繊細で豊かな表現が楽しめるピアノはいろいろあると思います。
 そういう意味では、スタインウェイはあくまで聴かせるためのピアノであり、人に例えるなら舞台俳優だと思ったらいいと思います。
 
 また、私も再三再四書いていることですが、ピアノの素晴らしさの半分を決めるのは主治医であるテクニシャンのレベルです。これでピアノは生死を分けるほどに変わりますから、そのあたりを抜きにして一概にどのメーカーがどうというのは言えません。調整の優劣を抜きにしてただ目の前のコンディションだけでメーカーを云々することは甚だ危険であると思います。
 どんなに素晴らしいピアノでも、調整が不充分で弾きっぱなしの楽器は決して真の実力を発揮することはできませんが、だからといって二流メーカーのピアノに優秀な技術者がどんなに手を入れても、基本設計を超えた実力を引き出すことも、これもまた絶対にできません。この部分に幻想を抱いてしまった自信過剰な技術者ときどきがいて、無知な人達を洗脳しているのは失笑してしまいます。
 これは「調整の可能性」と「設計による限界」を履き違えているだけのことです。
 
 ピアノ技術の世界は、想像以上に繊細で専門的で、しかも向学心と芸術性を要する高度な仕事で、忍耐強さや誠実さ、鋭い感性が他の仕事よりも強く要求される分野です。
 私は思うのですが、この仕事はアメリカ人にはあまり向いていない仕事ではないか?ということです。
 日本人が本気で調整したスタインウェイはゾッとするほど素晴らしいものがある反面、アメリカから届いたばかりのニューヨークスタインウェイなどをみると、使い方は荒っぽく、コンディションも冗談かと思うほど酷いものがあったりしますから、これはお国柄や民族性の問題かもしれません。
 
 伝統を重んじる民族と、消費文化の体質では、ピアノに対する意識も根本のところで異なるものがあるのかもしれません。
 
>あるピアノセールスマンの方から言われたことです。 
>ピアノは新品を買った方がいいと。最新技術を選んだ 
>方がいいそうです。そして修理がいらないのはいいこ 
>とだと。
 
 これなども、ピアノに対してほとんど車と同じような捉え方をしているようで、いかにもアメリカ的な発想だと感じました。
 それに20世紀初めにほとんど改良の余地のないところまで完成されつくしたピアノに最新技術なんてものはほとんどありません。強いて云うなら同じ部品を作るにも、ひとつずつ熟練工が作るよりは、ハイテクの機械を使って作れば、より精度の高い均質なものができるという点では、一部頷けますが…。
 それよりも、ほとんど技術者の調整や腕をアテにしていない発想から出た言葉のような気がしました。
 
 日本では、とくにこだわりの強い店やお客さんは、新品のピアノでも出荷調整を数日間かけて重ねるなどして、職人の魂を吹き込むごとく絶妙の状態を作り出す事がありますし、ピアノは手をかければかけるだけ素晴らしい楽器になります。(もちろん、手のかけ方が間違っていなければの話ですが)
 
 逆に、ほとんど何の手入れもしないで、ただ弾きっぱなしの道具のように割り切るならば、そんな逆境に一番強いのは、パーツと組み付け精度に優れるヤマハとカワイで、その逆境における耐久性と品質は世界一だろうと思います。ただし、この場合の「世界一の品質」というのは、世界一の音という事とはまったく別次元の話ですが。
 
>私はスタンウェイ信仰がなくな りました。
スタインウェイ以外にも素晴らしいピアノはいろいろあるということは同感です。但し、ホールでリサイタルやコンチェルトを聴く場合に限っては、私自身いまだにスタインウェイ信仰があるのは事実で、信仰と云うよりは、現実にこういう場でほかのメーカーのピアノでは、本当の満足が得られたことはほとんどないということです。
 やはりそこが「舞台俳優」ということでしょうか。
 
 コストダウンの世の中では、同じメーカーの製品でも良質の素材を使って手間暇のかかった昔の製品が好まれ、それが新品のライバルなることは、とくに趣味性の高い世界ほど多いようで、これはスタインウェイも少し前から云われていることです。この状態に手を打つべく、スタインウェイ社は自社内にリビルドピアノ部門を作ってしまったことからもそれは伺えます。 
 
 私は残念ながらファツィオリの音やピアノとしての個性はあまり好みではないのですが、それでも後発の新興メーカーが高級ピアノの分野に勇躍進出して、一定の成功をおさめることができたということは称賛に値すると思っています。こういうメーカーの出現が、既存メーカーにも揺さぶりをかけ、襟を正させることになれば大いに結構なことだと思います。
 
 メールで紹介されていた、別の方によるスタインウェイに関する文章も読みましたが、その手の話をはじめるとキリがないほど汚ない話題が際限なくでてくるものです。日本のメーカーもここではとても書けないような事をやっているとだいぶ前から聞きますし、そういうことを考えると信頼できるメーカーなんてものはひとつもないと思います。
 それはピアノに限らず企業というものは大なり小なりそういう性質でなければ立ち往かないものだろうと思います。アフリカの弱肉強食の掟のごとく、食うか食われるかの世界なんでしょう。
 表面ではいかにも美しい立派な看板の裏で、汚泥にまみれたダーティな顔を持っているのはどこも同じだと思います。
 
 それにしても、歴史と伝説に彩られたスタインウェイ社のニューヨークのショールームが売却されたというのは衝撃的な話でした。そんな調子では、そのうちスタインウェイ社そのものも中国の企業などに買収されたりしやしないかと思うと暗澹たる気分になりますが、こればかりは凡人の想像の及ぶところではなく、成り行きに任せるしかありませんね。
 せいぜい好きな音楽を一日でも長く楽しみたいものです。
 
 また、たのしいメールをお待ちしています。
 マロニエ君

実験室

 懇意の調律師さんのご協力を得て、おもしろい実験をおこなってみましたので、以下、事の経緯と報告です。
 
 マロニエ君が日頃使っているカワイのグランドGS-50については、軽すぎるタッチと音がやや薄っぺらであることが日頃から気にかかっている点でした。カワイのグランドは、それが伝統なのかどうかは知りませんが、重いタッチの個体がかなり多いことは現在でも事実のようです。中にはこれがメーカーが設定したものとは俄には信じられないほど重いものもあり、技術者の間ではカワイのタッチの重さは半ば常識のようになっているという話も聞いたこともあります。
 
 ところが、マロニエ君の愛用するGSシリーズは、ちょうどヤマハがGシリーズからCシリーズに発展したように、それまでのKGシリーズの重さのある音色から脱して、より現代的で華やかな音を目指して作られた派生シリーズだと聞いています。
 たしかにカワイによくある曇天のような重さの音色ではなく、どちらかというと明るめ音色のようでもありますが、それも別に大したものではないし、なにより奥行きが2m以上もあるわりには、全体的に音が軽く、お世辞にも重厚だとか深みのある音色とは言えない印象です。唯一奥行きがものをいうのは低音域で、これはさすがに2m未満のモデルには望めない響きがあるにはありますが、それもとくに自慢するほどのものでもありません。
 
 さて、その現代的で華やかな音を目指した故かどうかはわかりませんが、とにかくこのGSシリーズはタッチがカワイとしては例外的に軽く、むしろ軽すぎて心もとないほどでした。これについてはずいぶん前から調律師さんに相談して、ついにはキーに埋め込まれた鉛をドリルで一定量削り落とすなどして、軽さを減ずるための処置をやってみたりもしましたが、効果のほどはごく軽微に留まり、その後も軽すぎるタッチと音は概ねそのままで解決には至っていませんでした。
 一般的に、タッチの重いピアノを軽くするのはずいぶん骨の折れる作業のようですが、その逆もなかなかどうして簡単ではないことを悟りました。
 
 いっぽう、音色のほうもとくに悪い音とまでは思いませんが、なにぶんにも音に太さや深みがなく、全体的にサラリとした軽い感じの音でしたので、この点もなんとか解決できないものかと、打弦距離やスプリングの調整などで精一杯の肉付けになるであろうことをやってもらってはみたものの、こちらも効果の程はごく僅かで、とくにめざましいものではなく、基本的には不満は不満のまま残存し、今日に至っていました。
 
 マロニエ君の直感では、ハンマーが賞味期限を過ぎているであろうことに加えて、そもそもサイズ自体もちょっと小ぶりなのではないかという疑いがありました。要するに、主たる問題点はハンマーにあり、これを使う限りなにをやっても無駄ではないかという諦めムードが広がり、それを調律師さんにぐずぐずとぼやいてみたのです。すると、とくだんハンマーが寿命ということはないと思うが、サイズに関しては、たしかに少し小さいほうかもしれないというのが調律師さんの見解でした。
 
 それからほどなくして、調律師さんがマロニエ君のピアノの問題点がハンマーに起因するものかどうかを試すために、一度テストをしてみましょうということでレンナーのハンマーを持参して来られました。ひとつだけハンマーを取り替えてみることによって、音の変化を見てみようというわけで、中央よりオクターブ上のEs(変ホ)がこのレンナーハンマーに交換されました。
 するとその効果はてきめんで、これまでに聴いたことのないような太い力のある音になりました。しかもそのレンナーハンマーは、肉眼でもあきらかに今ついている純正ハンマーよりサイズがわずかながら大ぶりで、ハンマーが小さい気がするというマロニエ君の予感は裏付けられたかたちとなりました。 
 
 ちなみに調律師さんが持ってこられたレンナーのハンマーはなんとグランド一台分で、実はこれ、自分の工房にあるカワイのセミコンのオーバーホールのために新品を取り寄せたものでした。このハンマーに取り替えて一年近く使ってみたものの、整音やらなにやらで試行錯誤を繰り返したあげく、どうしてもご自身の納得できる結果が得られず、ついにこのハンマーに見切りをつけて、次にはアベル社のハンマーへと全て交換されたのですが、そのときに取り外したハンマーの一揃いを持参して来られたというわけです。
 
 そのカワイのセミコンは調律師さんのピアノなので、勉強や研究を兼ねて、お客さんのピアノではしないような針刺しなどをずいぶん繰り返えされたのだそうで、もはや本来の能力は有していないとのことですが、なにしろほとんど使っていないので、見たところは真っ白で新品のようです。しかし調律師さん自身はこれを良いハンマーだとは決して思っておられず、この日はただ単に付け替えてその変化を確認するために持ってきただけとのこと。
 しかしマロニエ君にしてみれば、これでもじゅうぶんに好ましいふくよかな音が出ているし、話によると、もう使わないからそのうち廃棄するつもりとのことで、「欲しいならあげますよ」なんて言われたものだからもう大変です。現在のハンマーよりも格段に素晴らしい音を生み出す、この新品みたいなハンマーが一台ぶんゴッソリ棄てられるだなんて、そんなもったいないことがあるものかと思いました。
 
 だったら、差し当たりこれでいいからハンマーを交換して欲しいと申し出たのですが、もともと気に入らないから外してしまったハンマーであるのに、それを別のピアノ(それも調律師さんにしてみればお客さんのピアノ)に取りつけるなんぞ、技術者として賛同しかねるというわけで、あまりいい顔はされなかったのですが、マロニエ君があんまりわあわあ言うものだから、粘り勝ちで、とりあえず前向きに検討してみるというところまで押し切りました。
 
 それから数日後、調律師さんから連絡があったのですが、それによるとひとつ問題があって話はそう簡単ではないことが判明しました。というのも、このレンナーのハンマーヘッドを使うためには、当然シャンク(ハンマーを先端に取りつけるための細長い棒)に取りつけて接着しなくてはなりませんが、マロニエ君のピアノのシャンクとは穴の大きさがわずかに異なるので、このまま単純に交換はできず、そのためにはシャンクを新しく一台分購入しなくてはならないとのこと。
 
 ちなみにまっさらのハンマーヘッドには、シャンクを通す穴はあいておらず、使うピアノ(シャンク)によって穴の直径や角度が異なり、取りつけるピアノに合わせて穴を開けることになります。穴は技術者が自分で開ける場合もありますが、多くの場合は部品業者に発注する際に指定の大きさと角度が伝えられ、それに従って穴開けされた上での納品というのが一般的な流れのようです。
 
 もうおわかりだと思いますが、この場合のレンナーのハンマーヘッドは、一度カワイのセミコンに取り付けされて、数ヶ月後に取り外したものなので、そのピアノに合わせた穴が開けられており、その穴の大きさがシャンクと一致しなければ取り付けはできないわけです。 普通は使うシャンクに合わせてハンマーヘッドに穴開けをするわけですが、この場合、すでに開いている穴に合わせたシャンクを買い揃えなくてはならないという逆の手順になるわけです。
 
 ところが、このシャンクもピアノ一台分ということになると、ハンマーヘッド一式ほどではないものの、決して安いものではないらしく、そんなあべこべなお金をかけるぐらいなら、現在の純正のシャンクをそのまま使う前提で新品のハンマーヘッドを購入し、一から整音した方がどれだけ賢明であるかという説明を受けました。まったくその通りで、ぐうの音も出ないほどに、もっともなご意見でした。
 
 こういうわけで、ハンマーの交換については下手な廃物利用はしないで、実行する場合は新品を取りつけるということで両者考えの一致を見て、これは一件落着しましたが、その前段階の実験としてひとつの提案をしました。
 それは、ひとつだけ交換したレンナーハンマーによる「音の変化」にまつわる課題です。
 
 このレンナーハンマーは、現在付いているカワイの純正ハンマーよりモノが新しくてフェルトにも弾力もあり、品質もいいであろうことは当然としても、興味を覚えたのは、ハンマーの質量でした。GS-50の純正ハンマーがやや小ぶりであることは先に述べた通りで、交換されたレンナーがひとつだけサイズが大きくなったぶん、音にもタッチにも明らかな変化が起こり、ハンマーそのものがもたらす固有の音質の問題を別とするなら、あとはハンマーヘッドの重さに重要な意味があるように思ったのです。
 
 すると調律師さんはその点は否定されず、実は自分の工房にある別のピアノにもその面である細工をしているという話を聞きました。その方法は、他言無用とのことなのでここでは書きませんが、同じ発想によってちょっと手を加えることで、ひとつの実験をしてみることになりました。
 それは簡単にいうと、ハンマーヘッドになんらかの方法で僅かな重さを加えることによって、打弦そのものの圧力とパワーが増すのではないかということです。
 さらにその副産物として、軽すぎるタッチも重いほうへと変化させることにも繋がり、だとすれば一石二鳥というわけです。一般的に、ハンマー部分の重さの増減は、鍵盤側ではその5倍の影響が出るという法則があります。すなわちハンマーが1g重くなれば、キーのダウンウェイト(鍵盤の重さ)は5g重くなるというセオリーがあります。
 
 その実験のために、調律師さんは幾日もの間、あれこれとアイデアを講じてくださり、ついにひとつの方法が決定されました。それはコロンブスの卵みたいなものですが、鉛の板に両面テープを貼り、それをハサミで小さなかけらほどの大きさに切って、ハンマーフェルトのすぐ下の木の部分の前後に貼り付けるというものです。この調律師さん曰く、何をするにしても自分のモットーは「絶対にピアノを壊さないこと!」なのだそうで、結果が芳しくないときは、すぐにも旧に復することができる方法でなければ着手実行しないという強い信念があるそうで、たしかにこれならば嫌なときは直ぐ剥がせばいいわけです。
 
 薄い鉛の板に両面テープを貼り付けた状態から小さな四角形が切り出され、それを88の各ハンマーの前後2ヶ所ずつ、合計176個が丹念に貼り付けられました。使った鉛の正確な総量は不明ですが、ハンマーひとつあたり約1gといったところのようです。
 
 初めに次高音の1オクターブにこの状態を作って様子を見ましたが、明確な効果がありそうなのでこれでやってみることになり、すべてのハンマーに同様の作業が施されました。
 作業は2時間足らずで終わり、アクションが定位置に押し込まれたところで軽く弾いてみると、あっと驚く手応えが指先に伝わり、いきなり圧倒されました。さらには鍵盤蓋を取りつけて、譜面台を差し込んで、いつも弾くときと同じ状態に戻して弾いてみると、指先の抵抗はいよいよ強まり、今までの弾き方ではとても間に合わないことが判明。しかしこれは「実験」なのだから、しばらくの間はこれで弾いてみることを決意して、とりあえずこの日の作業は終了となりました。
 
 マロニエ君も自分が希望して納得したことではあるし、調律師さんは「嫌なときはいつでも元に戻せますから!」と言い置いてこの日は帰って行かれました。一人になってじっくり試してみることにしましたが、弾きはじめからものの2、3分ぐらいが経過したところでしょうか、これはとても弾けない!と早くも後悔の念が頭にのぼってきたほど、その変化は甚しいものでした。簡単に言えばまるで別のピアノになったほど、一斉にタッチが重くなっています。
 
 冒頭に述べたように、このピアノのタッチは長いこと「軽すぎる」ことが悩みでしたが、それに馴れてしまって弱くフニャフニャになった指が、この急変した重さにたちまち音を上げたわけです。
 さっそく専用の錘でダウンウェイトを計測してみると、平均して52g前後という値が出ました。それまでこのピアノは概ね45~47gといったところでしたから、おしなべて5gかそれ以上重くなっていることがわかりました。ハンマーの重さの違いに対して鍵盤側ではその約5倍の変化がおこるということはピアノ技術の常識だそうですが、追加した重さはハンマー1本あたり、やはり1g前後と考えて差し支えないようです。
 
 それにしても、昔の日本のピアノは、キーの重さが50g後半から、中には60gを超すものもざらだったのですから、これは今から考えてみるとすごいなあと思わずにはいられません。レッスンのメトードも今ほど発達していなかったこともあるでしょうが、このかなり重いキーも、ピアノの練習がスポ根的な要素を帯びた原因のひとつであるような気もします。「鍵盤に赤い血が付いた」なんて話も誇らしげな武勇伝の様相を帯びていましたから、まさに鍵盤との格闘だったのでしょう。
 
 いずれにしろ、この重さは一時的なもので、これを機会に多少を指を鍛えるにも好都合ぐらいに今は思っていますが、毎日この重さのキーを弾いていると、まるで柔道家が鉄の下駄を履いているような、そんな自虐的な気分になってしまいます。
 
 ところが、今回の実験で最も驚くべきは、実はタッチよりも音色の変化でした。これこそこの実験の最大の目的だったわけですが、こちらは更に驚くべき変化が起こりました。
 このピアノの音色は、冒頭にも述べたようにその軽すぎるタッチが象徴しているように、これといって嫌味もないけれど深みとパワー感のないもので、今風に言うと「草食系」とでもいうべきか、少なくともそのサイズに相応しい音が出ているとは言えませんでした。ところが、ハンマーヘッドの下部にこの小さな鉛片を貼り付けたとたん、その音は一変したのです。
 ひ弱な町人が、いきなり眼光鋭い侍になったようで、力強い、いかにも逞しい芯のある音色に変化したことは期待以上で、俄に同じピアノとは思えないほどズシッと重みのある音に急変したのです。音だけに留まらず、音の粒にもキレが出てアタック音も明快になり迫力も出ましたが、強いて言うと音色の多様性という点ではそれほど色のパレットがあるとも思えません。それでも、今ならベートーヴェンなどでもサマになりそうな音で、ここまで変化するとは思いもよりませんでした。
 
 しかも特筆すべきは、ハンマーそのものはまったく同じものである上に、今回は調律も整音もまったく手をつけておらず、やったことといえばハンマーヘッド下部にわずか1gのウエイトが加えられたのみで、その他の要素はすべて同じ条件なのですから、こんなにわかりやすい比較もないと思います。
 
 鍵盤からアクションに至る各所に何ひとつ手をつけなくても、ハンマーのわずかな重さの違いが及ぼすその影響の大きさに驚き、ピアノという楽器がいかに精妙な様々なバランスの上に成り立っているのかということがあらためてわかりました。ハンマーにも材質やメーカー、形状やサイズなど様々なものがあるだけでなく、シャンクの材質などもあれこれ揃っているのは、重さひとつを取ってもその違いがピアノに少なくない影響を及ぼすからということを如実に感じることができたように思います。
 ハンマーそのものの性質に加えてシャンクを合体させた状態での重さがどうなるのか、またシャンクの材質によっても重さやしなり具合が変わり、さらに厳密にいうならただの棒っ切れに見える1本1本のシャンクにも厳密にいうと鳴りの良否があるのだそうで、これを追求し出すと文字通り際限がないようです。
 
 シャンクの材質にもいろいろあって、カバ、シデ、マホガニー、ローズウッドなどがあり、それぞれ木によってしなりの性質とか重さなどの違いがあるようで、どういう性格のハンマーを取りつけるかによっても、それを支えるシャンクの選択はいかようにも変わってくるでしょう。
 さらには、もともとのピアノの持っている潜在力や性格、使用環境や弾く人の好みまで考慮しながら適切な選択をするのは技術者のほうでも並々ならぬ経験と判断力を要することで、絶対という答えのない世界だけに難しいところです。
 
 今回は、ハンマーヘッドの下部に1gほどの重さを加えただけでも、ピアノの性格が変わってしまうほどの違いが現れるということがわかったのは大変な収穫でしたし、よい勉強にもなったと思います。繰り返しますが同じハンマーでも重さがわずかに増しただけでこれほどの違いなのですから、ハンマーそのものが別の上級品に変われば、その変化は推して知るべしで、ピアノはさらに様々な次元の中でとりどりの変化を起こすことは間違いありません。ただし、その結果がすべて良い結果へと向かうかどうかはまったく保証の限りではなく、そこが楽器の難しいところでしょう。
 
 それから数週間が経過しましたが、さすがに重い鍵盤にも馴れてはきたものの、現在の状態はあくまでも実験の途中の一時的なものと見るべきで、最終的にはもう少し軽い方が好ましいのは間違いないところです。そこで、そろそろウェイトを半分に減らそうかと考えていましたが、そんな矢先に大手楽器店主催によるピアノフェスタという大規模な展示会のようなものがあり覗いてみました。
 そこであれこれのピアノの鍵盤に触れてみたところ、意外なことに、輸入物を含む多くのアップライトピアノの鍵盤が思ったよりもずっと重いのには驚かされました。きっと現在の我が家のカワイと大差ないぐらいの重さのピアノが何台も会場にあり、普通に売られているのを目の当たりにすると、これしきの重さに疲れてきたという自分が急に意気地なしに思えてしまいました。(もともと意気地はないのですが)
 これらのピアノを購入される方々は、おそらくこれぐらいの重さを普通と思って弾き続けられるのだろうと思うと、なんだかもうわけがわからなくなってくるようですが、たかだか自分のピアノのことなのだから、なにもそれを基準にする必要もないわけで、やはり最終的には自分の好みの重さになれば、それでいいのだと改めて思い始めているところです。
 
 幸いにも思慮深い調律師さんのお陰で、その作業はわざわざ来ていただかなくても、マロニエ君のようなシロウトでも、前後二つある鉛板の片方を剥ぎ取ればいいだけのことですから、その気になればすぐにできるだろうと思います。

Yoshii9

 過日は、我が家のピアノの主治医である調律師さんがピアノの調整ではなく、純粋にお遊びにいらっしゃいました。こうしてお仕事でなしにお出でいただけることはとても嬉しいことです。
 
 その遊びの主たる目的は、面白いスピーカーがあるから試聴してみてくださいというもので、どんなものがやってくるのやら楽しみでした。
 前触れでは、一切の色がつかない、ありのままの音が出るなかなか面白いスピーカーというだけで、オーディオに疎いマロニエ君には想像もつきませんでした。
 我が家には一通りのオーディオセットは揃っているものの、マロニエ君自身は音楽やピアノは好きでも、まったくオーディオマニアの類ではないので、そこそこの音が出ればそれでじゅうぶんというタイプなのです。したがってオーディオの世界のことはほとんどなにも知らず、もうずいぶん昔に当時そこそこいいものとされたもので買い揃えたきりで、当然この世界の話題も、トレンドも、なにも捉え切れていないのは云うまでもありません。
 
 約束の時間にピンポンが鳴り、ガレージの前まで出迎えにいくと、話の様子ではごく簡単なものかと思っていたら、意外やそれなりに大きな筒状の物体が二つと、道具類が入っているとおぼしき箱が二つ、すでに車から降ろされており、それらが門扉の前に置かれていました。
 
 家の中に運び入れたところ、果たしてその筒状のものがスピーカーだそうで、高さはピアノの高さから判断して優に1mはありそうでした。
 さっそくセッティングとなりましたが、スピーカーの他に小さなアンプまであり、そこにCDプレーヤーやLPのターンテーブルなどを繋ぐというもので、互いを繋ぎ合わせるだけでもちょっとした時間はかかり、さすがにラジカセのようにコンセントに差し込んだらすぐパッと音が出るというものではないようでした。
 
 それにしても不思議なのはその形状で、直径わずか10cm足らずの細長い筒の先端に、カーオーディオ用ぐらいの小さなスピーカーがたったひとつ天井方向に向けてちょこんと取りつけられているだけで、音が出る場所はここだけと知ったときには、思わずエッ?と狐につままれたような気になるものです。そこにどんな魔法が仕掛けられているかはともかくも、この大きさや全体の構成からみても、およそ本格的なスピーカーという分類からは大きく外れた姿形をしており、はてどんなことになるのやらという不思議な状態におかれました。
 
 なにしろこの調律師さんご自身が本物の音にうるさい、きわめて厳しい耳をお持ちの本格派であることから、彼がそこまでいうからには、ある一定の音質はするのだろうという予測はしましたが、もしもこの調律師さんとは無関係の状況で、何の説明も無しにこのスピーカーだけを見せられたなら、申し訳ないけれども到底こんなものでいい音が出るなんて想像すらできなかったと思います。
 
 昔から綿々と続く高級スピーカーの世界ならば、JBLとかタンノイといったブランドを思い浮かべますが、それらはみなむやみに大きくて立派な、ほとんど高級家具のような佇まいであたりを払い、見るからに高音質を予感させるものですが、目の前にあるのはおよそ比較の対象にさえならないくらい小さくて簡素な作りで、今どきはちょっとした電気製品でももう少しは押し出しの効く立派な成りをしているでしょう。
 見た感じは、強いて言うならニトリにでも売っていそうな、安い照明器具か筒状の扇風機あたりといった風情でしかなく、要するにそれほど常識破りな、見るからに頼りない形状だというわけです。
 
 そうこうするうちにセッティングが完了し、いよいよそのスピーカーが音を出す時がきました。
 固唾を呑んで耳を澄ましているところへ流れ出てきた音の第一印象は、音質がどうのこうのという前に響きが非常にやわらかで立体的で、まったくコセコセしたところがないということでした。そして音自体もひじょうに繊細で美しいものであることも追っつけわかりました。少なくともその音の発生の仕方からして、既成概念とはまったくかけ離れたところにあるスピーカーということだけは、聴きながらまず呑み込めました。
 
 高性能スピーカーといえば、普通はもっといかにもパワフルで、聴く者の全身をその秀逸なサウンドで浸してわななくといったイメージがありましたが、まったくそういった類ではない。
 スピーカーから3mぐらい離れたところで聴いていましたが、音がむこうからこっちに向かってくるのではなく、スピーカーのまわりに神々しい泉が湧き出すように音楽が活き活きとその姿をあらわしています。
 
 この感覚は何かに似ていると思ったら、要は生演奏で楽器から出てくる音を直接聴いている、あの感覚だったのです。このとき初めて調律師さんがしきりに言っておられた「指向性がない」ということが如何なるものか実感としてわかりました。
 通常のスピーカーはあっちからこっちへと音が川の水のように流れてくるわけで、聴く側はその流れに相対していなくてはなりません。したがって聴く者もそのスピーカーに対してどこに位置するかが当然の問題になりますし、逆にいうとどこにスピーカーを置くかが非常に重要な要素となるのはこれまでの半ば常識でした。
 
 ところがこのスピーカーはそういう従来のオーディオのルールがまるきり無関係といわんばかりに、なにか超越した場所に端然と存在しているようです。音は実際の演奏からでてくるそれのようにどっち向きと云うことでなく、あるがままに「発生」しているのであって、必ずどのあたりに置かなければいけないとか、どっちを向けなくてはいけない、あるいは必ずこのあたりで聴かなくちゃいけないという縛りがないわけです。
 まるで噴水から水が噴射されるように、あるいは木の枝があらゆる方角に向かって自由に枝葉を伸ばしていくように、音が自然に湧き出てくるに委せています。こちらは専らその音に自分の耳を集中させればいいだけのことで、その音質の良さもさることながら、その音の在り方そのものに心地よさを覚えて、気分まで自然でリラックスして、より純粋に音楽にだけ耳を傾けることができるのが驚きでした。
 
 音における指向性という言葉は何度か耳にする言葉でしたが、それは実際のオーディオではこういうことなのかということを如実に体験し、同時にそれがいかに心地よいものかということも実体験としてわかりました。
 音の方向だけでなく、音それ自体もいかにもピュアなもので、録音現場の空間の中に流れていた音はおそらくこういう音だったに違いないと思わせられるようなものです。まさに音楽がいま目の前で生まれ出るように聞こえてくるのは驚くべきものがありました。それに比べると、従来のスピーカーで聴く演奏は、楽器から出てきた音が録音機材とかオーディオ機器といったものを通過して、その結果ようやくこちらの耳に到達しているという夾雑物がある印象です。
 
 つまり、このスピーカーを聴く前と後では、オーディオの音に対する尺度がガラリと変わってしまい、同時にまったく新しいオーディオの時代が到来したことを悟らされました。
 
 よく物流経路の話で、産地直送とか工場直売といった言葉を聞くことがありますが、このスピーカーの音はまさにそんな感じで、演奏者の生演奏がそっくりそのまま直接自宅に届けられてくるようで、これならば普段の音楽を聴くという喜びがどれだけグレードアップされるかと思われ、同時にますます中途半端なコンサートなどにエネルギーを使って出向く意味がどれほどあるものか、あらためて見直しを迫られるという、一種の危惧さえ感じないではいられません。
 
 実際にこのスピーカーシステムをお持ちくださった調律師さんは、こうして良質の音や音楽に日常的に触れていると、コンサートに行ってもなかなか満足の得られるものでないことが見えてしまって、だんだん足が遠退いたということを仰っていましたが、大いに納得するところでした。
 こんなシステムがなくても、近ごろのマロニエ君などはコンサートに行くことにはいろんな意味で疑問を抱えていましたから、これはますます生のコンサートにとっては脅威的な存在になるかもしれません。
 世の中には生の演奏をほとんど神聖化して、CDで聴く音楽をまがい物のように断じる向きもありますが、マロニエ君などはその手段や形態がなんであれ、いいものはいいわけで、同時に生のコンサートでもほとんど時間の無駄としか思えないような劣悪なものが少なくないとも思っています。
 
 そこへこんなスピーカーを体験した日には、よほどの理由でもなければ家で素晴らしい音楽を好きなだけ聴いていたほうがどれほど有意義かと思ってしまいます。
 似たような状況はテレビにも通じる一面があるようで、デジタル放送の開始とそれを映し出すデジタルテレビの飛躍的な高性能化のおかげで、スポーツ観戦のチケットの売れ行きが鈍ったという話を聞いたことがありました。わざわざ高いチケットを買って時間と労力を使って会場に出向いて、小さな豆粒のような選手の動向を追いかけ回すより、最良最適のアングルで撮影された鮮明無比な映像によって、時間や場所に縛られず自由に楽しむことができるようになり、結果としてよほどの場合でない限りテレビで充分という流れが生まれてきているという話でした。
 
 もちろんコンサートにしろスポーツの試合にしろ、現場でなくては味わえない空気や時間の流れがあることはわかりますが、そうはいっても費やす費用や労力を天秤にかければ、現場の魅力ばかりをそれほど絶対視するわけにもいかなくなるでしょう。
 
 話をスピーカーに戻すと、普通の(といってもマロニエ君の家のものとの比較になりますが)スピーカーとの一番の違いは、やはり響きの立体感と音の柔らかさがもたらすリアル感だったと思います。
 この二つは生の音楽に欠くべからざる要素で、硬さのあるオーディオ的に作られた音というのは、それだけで現実の音とは似て非なるものに変化しているとも云えるでしょう。
 
 なるほどと思ったのは調律師さん曰く、一般的なスピーカーをはじめとするオーディオ機器では、どんなに優れた機器であっても固有の性格や色や表現の特徴というべきものがあるのだそうで、それはオーディオ自体が楽器化していると言い換えることもできるようです。そうすると出てくる音は、音源にある音の忠実な再現と云うよりは、それらの機器の価値観や個性を通過してくることで発生する「脚色された音」ということになり、しかもそれが常に好ましいほうに脚色されるとも限りません。いうなれば音源のもつ音とオーディオのもつ音という二者が織りなす折衷的な音ということにもなるのだろうと思われます。
 
 しかもスピーカーなどは高級品になればなるほど、サイズは巨大化し、コーンはまさに楽器のような威容に満ちたサイズとなります。世界の名だたる一流メーカーのスピーカーは、ほとんどが例外なくこのパターンの製品で、価格もそれに見合った、あるいは不当とも思える高額商品となって、よほど懐に余裕のある好事家しか我がものにしてこれを楽しむことはできません。
 またそのようなスピーカーを鳴らすとなれば、アンプやプレーヤーなどもそれに見合う高級品を揃えるというのが常道で、必然的に価格も桁違いの世界に突入するのは常識ですね。世の中にはオーディオのために家まで建てて、機材だけでも数千万円といった巨費を投じてまで、そこに自らの欲求を満足させる人もあると聞きますが、こうなるとオーディオ趣味は底なし沼に足を取られるごとく、永遠に終わりのない無軌道な道を酔狂に突き進むようにも思われます。
 
 そんなオーディオマニアにこのスピーカーシステムを聴かせると、大半の人達は困惑し、俄には受け容れられないという態度を示すらしく、なかなかその良さを認めようとはしないのだとか。でも、それはそうですよね。このスピーカーの良さを肯定することは、下手をすればこれまで自分がやってきたことを全否定することにも繋がりかねないのだそうですから。人間にとって自分を否定することほど辛く不本意なことはありませんから。
 
 大事なことを言い忘れていましたが、このスピーカーは「Yoshii9」というもので、由井啓之氏という音響エンジニアの作だそうで、TIMEDOMAINという会社から発売されています。ネットなどで見てみると、この分野でかなりうるさい人達からも一定の評価を得ているようで、相当に評判が高いことは間違いないようです。
 価格は消費税込みの315,000円で、絶対額としては決して安いものとは思いませんし、とりわけ思いつきで購入するにはちょっと二の足を踏む価格です。しかし、よくある高級オーディオのほとんどナンセンスとも思える数字から見れば桁違いにお安く、圧倒的に現実的な数字です。この価格ならよほどのマニアでなくても、その気になれば購入可能な範囲の価格であるというところが、なんとも上手い具合に設定されているんだなあと思ってしまいます。
 
 それと、普通は良いスピーカーを買った場合、それに見合った性能のアンプやプレーヤーを取り揃えなくてはいけないという問題が附随するものですが、このYoshii9の場合はこの点にもぬかりはなく、手の平に載るような小さなウミガメみたいなアンプがセットになっていて、あとはそこへCDなりLPなりiPodなり、自分の好きな機器を繋げばいいだけなので、このあたりも実になんとも現実的で、その簡単さもますます購買意欲をそそられる点です。
 
 CDプレーヤーとして調律師さんが持ってこられたのは、これがまたどこにでもありそうなソニーのウォークマン風のポータブルCDプレーヤー(7000円ぐらいの由)でしたが、曰くこれで充分なのだそうで、正確にいうならむしろこういうプレーヤーのほうが好ましいというのには重ね重ね呆れました。
 呆れついでにもうひとつ書いておくと、スピーカーやアンプなどを繋ぐケーブルですが、これもオーディオの常識ではさも高そうな太い専用ケーブルがありますが、あれも由井氏に云わせると逆にダメなんだそうで、見るとどれもパソコンのACアダプターについているコード並みにひょろひょろと細いものばかりで、ここにも設計者の豊富な経験と深い思慮が息づいているようでした。
 
 かくのごとく、従来の高級品や高性能ツールの面子を片っ端から叩き潰していくような成り立ちであるにもかかわらず、実際にその美しく気品に満ちた清澄な音を、まぎれもなく自分の耳で聴いているわけで、ちょっと頭が混乱してくるようでした。どこを見渡しても高級だの最上級だのといった世界のものはなく、見た目も至って簡素な筒状のスピーカーが頼りなくぽつねんと置かれており、アンプもプレーヤーもポータブル並の物ばかり。然るに出てくる音はなんとも形容しがたい艶めかしくも気品のあるもので、今そこで演奏しているようなリアルさに肉薄するもの。これは実に困ったものを教えていただいたと思いながらも、マロニエ君もいつかはぜひとも手に入れたいもんだと思っているのは言うまでもありません。
 
 ひとしきりこのスピーカーの音を聞いた後、時を変えて我が家のオーディオを聴いてみると、とくに悪い音とは思いませんでしたが、音が向こうからこっちに来るという特性自体が、妙に鬱陶しい、押しつけがましい、そして古臭いもののような気がしてしまいました。
 
 音楽は、向こうから一方的に向かってくるのを風のように浴びるのではなく、美しく鳴り響く空間に同席するようにして聴くほうが好ましいと、ことさら思うようになりました。

映画「ピアノマニア」-追記

 映画『ピアノマニア』のメインでもあったエマールの「フーガの技法」のCDをあらためて聴いてみました。ほとんど80分弱の録音なので一度通して聴くだけでも結構長いのですが、数日にわたっておそらく10回以上は聴いたと思いますし、現在もしばしば聴いています。ここでは敢えて演奏については語ろうとは思いませんし、それはじゅうぶんに見事なものだったと思います。
 印象的なのはピアノの音で、映画に於いてもエマールはシュテファンにクラビコードやチェンバロなど、バッハの音楽に求められるいろいろな楽器の要素を兼ね備えた音を望むとしきりに云っていましたが、それはなるほど見事に叶えられた音になっていることがわかり、まずその点にびっくりさせられました。ピアニストの要望をこれほど正確に汲み取って、実際の音として表すことのできる技術とはやはり大変なものだと素直に思いました。
 
 ただし、その音は個性的だとは思いますが、特殊で、個人的にはあまり好みではなかったことも事実ですし、またこういう音がバッハに相応しいということになるとしたら、モダンピアノでバッハを弾くと云うことにある種の難しい課題が突きつけられたような気もしないではありません。
 予想したよりも、肉感のない、少し枯れたいぶし銀のような音で、いわゆる極限までコントロールされたピアノの美音の精華に身を浸し、心ゆくまで楽しむといった種類の音ではなかったように思いました。
 
 マロニエ君はどちらかといえば響きのやわらかい、甘く伸びのある色彩的な音色が好きですが、このピアノは色彩感も特定の階調にだけ意図的に限定したような、どちらかというと暗めの音で、全体にストイックで遊びのない音色だったことがまず意外でした。
 古楽器の醸し出すさまざまな要素を求めすぎて、それが却って中途半端に終わってしまっているようにも聞こえましたが、そのわりには演奏がそういうピアノの音色を十全に生かし切っているか?ということになると、マロニエ君はとくにそのようにも思えませんでした。調律師にはたいそううるさく云うわりには、自分は結構自由に弾いている印象すら受けました。全体に、エマールという人のやることがどこかあともう一押しがないような気もしましたが、もしかすると、その一押しのなさが彼の理想として目指している境地なのかもしれません。
 
 いろいろな考え方があるとは思いますが、マロニエ君なら、現代のピアノでバッハを演奏するのであれば、楽器の音色や性格に対してある程度の注意は払うとしても、決して過剰な手を入れ過ぎることはせずに、その楽器のもつ性格に合わせて演奏したほうが、もっと方向の定まった結果が出るようにも思いますし、敢えて古楽器的な風合いを出したいのなら、いっそ思い切って古い楽器──モダンピアノでもかなり年季の入った楽器など──を使うというのも一興だろうと思います。
 それと、個人的にはピアニストがあまりにも技術者の仕事の具体的な領域に踏み込んで、微に入り細にわたって注文を出すのはどうかという気もしなくはありません。
 
 もちろん結果としてこのエマールのCDは出色の一枚であるとは思いますが、ことピアノの音に関していうと、ピアニストが技術者に出すべき希望や注文というものにも、おのずとここまでという一線があるような気がします。なぜなら、ピアニストは楽器調整の専門家ではないわけで、あまりその領域に足を踏み入れすぎると、技術者のほうでも前後左右一貫した本当に納得のできる仕事ができなくなるような、完成度の高い仕事が却ってできにくくなるような危惧を覚えてしまいます。
 その結果、技術者のエネルギーは専らピアニストから出された項目をとにかくクリアし、要望を達成することにばかり注がれて、最終的にどこかバラバラな、首尾一貫しない性格のピアノになってしまう危険を感じてしまうのです。そういう意味では、技術者もある程度以上のことに関しては、最終局面においてはピアニストの意見を黙って却下するぐらいの度量も必要なんじゃないだろうかと思ったりするわけです。
 
 理想は、信頼のできる相性の良い技術者を見つけ出し、自分の好みや要望を懇切丁寧に伝えて、それに対する理解と結果が得られたと感じたら、あとはその技術者の才能とセンスに潔く下駄を預けるべきではないかと思うのです。少なくとも自分がピアニストであったならそうするだろうと思います。どんな分野でも言えることですが、あるところから先は、手を下す技術者の個人世界であり、自由裁量によって、自らの経験と信念と美学が命じる流れの中で仕事をしないことには、辻褄のあった結果はでないし、理想的な結果は生まれないという気がするのです。
 
 このフーガの技法で聴くピアノの音は、もちろん全体としては素晴らしいもののように聞こえはしますが、かすかにそのピアノの本来のものではない要素がねじ込まれているような、どこか不本意な感じが拭い切れませんでした。すくなくともシュテファン氏が本当にこれがいいと信じてやった結果なのかどうかということになると、マロニエ君は甚だ疑問を残すというわけです。
 
 そう考えると、ピアノ技術者という仕事は、常に微妙で難しい立場に立たされながら、そのいっぽうで高度な手腕を要求されているようにも思われます。あれだけの修練を要する細密で極限的な仕事を、絶えず他者の意志と制約と妥協を背負いながら敢然と挑まざるを得ないということ自体、そこに渦巻く精神的な労苦は大変なものだろうと察せられます。
 どんな不本意な仕事でも、最大限の誠実を注ぎ込んでやり遂げなければいけないという点では、ピアノ技術者にとって最も必要な精神的要素は「忍耐力」なのかもしれません。
 そして、そこがまたこの仕事は日本人向きでもあるのでしょうか。
 
 尤もシュテファン氏を見ている限りでは(あくまでも映画の上ですが)、そんなピアノ技術者の悲壮感というよりは、突きつけられた無理難題をひとつずつ突破していくことに半ばオタク的な快感と楽しみさえ感じているように見えましたから、そこまで突き抜けてしまえば鬼に金棒でしょうね。
 いずれにしろ、この『ピアノマニア』では映画とCDという二本立てであれこれと楽しむことができて、とても貴重な体験をさせてもらったと思っているところです。

映画「ピアノマニア」

 ピアノ界で話題の映画『ピアノマニア』を観てきました。
 映画に出るほうも、観るほうも、その名の通りピアノマニアのための映画でした。
 
 個人的には予想以上に楽しめた作品でしたが、楽器としてのピアノへの興味、あるいはピアニストや調律師の仕事ぶりに関心がなくては面白味も半減するのではと思われる、まさに特定の客層だけに的を絞った、ある種いさぎよい映画であったと思います。
 しかし、厳密にはまったくの専門的映画かといえばさにあらず。もしかすると時代の多様化にともなって、このようなマイナー作品が密かに持てはやされる時代なったのかもしれないとも考えてしまいました。
 
 だからかどうかはわかりませんが、前評判から察するに、よほど職人の専門的な仕事が満載で、難しい内容が具体的に語られるのかと思っていましたが、個別の作業の技術的説明などはあまりなく、概ねピアニスト&調律師が繰り広げる音の追求という面にピントを合わせた人間ドラマ風な映像作品だったという印象でした。そういう意味では、ピアノの知識がなくても楽しめるギリギリの仕立てになっているということなのかもしれません。
 
 一般的な尺度でみれば、上映場所も極端に少ないという事実が示すとおり、この映画は一般常識でいうところの集客性としてはかなり厳しいものだろうということは容易に察しがつきますが、意外や意外、マロニエ君が行った日には平日の午後だったにもかかわらず、80席ほどのシートはほぼ満席でしたし、福岡のシネマでは、当初は一週間の上映予定でその後は未定とされていたものが、終わってみればプラス二週間も延長されており、これは予想外の結果だったのではないかと思います。
 ただでさえウワサや情報好きで、その伝達能力は弦の振動のように素早い調律師業界では、この映画のことは早くからかなりの話題になっていたらしく、地域的物理的ハンディがない限り、日本中でおそらくはこれを観ないで終わる技術者のほうが圧倒的に少ないだろうと思います。
 
 内容は、シュテファン・クニュプファーという元スタインウェイの調律師が、さまざまなピアニストたちの要求を達成すべく、音造りのプロフェッショナルとしてアイデアと技術の限りを尽くして東奔西走するというドキュメンタリーでした。
 なかでもピエール=ロラン・エマールによるバッハの「フーガの技法」の録音のために、シュテファンが1年がかりで1台のピアノを準備し、調整を繰り返しながら望みうる最良の状態に仕上げていって、ついには録音セッションに供されるまでがこの映画の中核になっていました。
 
 エマールが次々に出してくる困難な要求は、シュテファンに決して安息を与えませんが、彼は決してそれをできないとは言わず、工夫と研究を繰り返しながらそれになんとしても応えるべく、あらゆる試行錯誤と努力を惜しみません。むしろ困難な要求が突きつけられるほどに、彼らは技術者魂に火がつき、テンションも上がってくるのかもしれませんし、ひいてはそれが彼らの技術や経験を磨きあげているともいえるでしょう。
 この世界はピアニストにしろ技術者にしろ、これが絶対というものは永遠にありません。ピアノの音にはもともとさまざまな要素が押しあいへしあいの状態で同居しているわけで、理想的なピアノの音なんてものは、つまるところ最終的には楽器と調整と奏者の妥協の産物だとマロニエ君は思っているわけですが、その妥協点がいかにその瞬間のピアニストの意向に叶っているかということかもしれません。
 
 はじめに出てくる109番というピアノはエマールのお気に入りでしたが、さらにシュテファン氏はスタインウェイ社に出向いてサブピアノを購入することで、エマールの求めに応えるべく音造りに最善を尽くそうとするようです。
 ところがメインピアノであった109番は突如として売却され(いわゆるレンタルピアノ会社の所有物だった由)、後半は245番というピアノがこれに代わります。
 
 明確な言葉などはなかったものの、マロニエ君の間違いでなければ、サブピアノは新しいものをシュテファン自身で購入したように解釈しました。売却される憂き目に遭わないためには自己所有するしかないからでしょうか…。
 
 いっぽう出所は不明ですが、245番はエマールにもいちおう受け容れられはするものの、フーガの技法録音までの1年間、ハンマーの交換を含むその調整は精緻を極め、最終的には音の崩壊ギリギリの領域をかすめていきます。(ちなみにこのピアノの番号はレンタルピアノ会社におけるナンバーという情報もありましたが、マロニエ君は単なるスタインウェイによる6桁のシリアル番号の、下3桁ではないかと思います。)
 
 印象的なシーンは多々ありましたが、いざ書こうとするとなかなかサッとは思い出せません。
 
 順不同でいうと、個人的にまっ先に思い出すのは、この映画に登場した主役級の2台のピアノ、すなわち109番と245番はいずれもかなり古いD型で、比較的新しいモデルは、上記のサブピアノと思われるものをエマールがコンチェルトで弾いたり、ブレンデルが弾いていたシーンを除いては出てこなかったと思いますが、ポスター用の写真は新しいモデルであるし、そのあたりはどうなっているのか正確なところは不明です。
 
 やっぱりこれは映画なんだと思ったのは、同じ場所、同じ登場人物による短いやりとりのシーンの中で、傍らのピアノだけが新旧違うものにパッと入れ替わっている場面があり、要するに別々の映像をいかにもひとつの場面であるかのように巧みにつなぎ合わせたものでしょう。ピアノが入れ替わっているなんて、普通はまず気付かないでしょうし。
 それはともかく、少なくともこの109番&245番の2台に関しては、ディテールから察するに、おそらく20年以上前、すなわち1980年代後半あたりのピアノだったように思います。
 
 それは言いかえれば、ここまで極限的かつ芸術的な音造りをするための素材として、ピアニストと技術者、さらには録音のプロ達(ドイツではトーンマイスターと言われる由)の要求を真実満たすことのできるスタインウェイの、最後の世代がこのあたりであるのかもしれないと推察されました。もちろんエマールというピアニスト個人の趣向と、曲がバッハという条件に於いてのチョイスといえるのかもしれませんが。
 いずれにしろスタインウェイ社は、映画を観た人にスタインウェイは現行品より古いもののほうが良いという印象を与えてはならないという営業サイドの判断なのか、サイドのロゴマークは現行モデル風の大きな書体のものになっていましたが、正確にいうと本来のそれとは少し異なっていましたから、2台とも映画撮影用にサイドだけを化粧直しされたものかもしれません。
 
 個人的にもこの時期を輝ける最後の世代として、以降スタインウェイのD(とりわけ今世紀に入ってから)は楽器としての潜在力が下降線を辿っていくという印象をもっていましたが、それをさりげなく裏付けていたように感じました。
 ちなみに普段いろいろなCDなどを聴いていると、この世代のピアノを使った録音では、音に現在のそれとは違う線の太さや馥郁とした響きがあり、音色もあきらかにメロウかつ楽器としての容量が大きいことがわかります。調整次第では交響楽的な響きから、詩的で甘いドルチェな音色にもすることも可能で、それにくらべると現行品は音の線が細くて肉感がなく、響きも固く小ぶりな印象です。これはメーカーがどのように抗弁しようとも厳然たる事実だと思われます。
 
 面白かったのは、大屋根を外したピアノでのコンチェルトの振り弾きの際に、音が散ってしまう問題に対する解決策として、ピアノのボディの上に被せて置く「反響板」なるものが制作され、それらは前後数箇所で分割されていて、それぞれ反響板の開く量が変えられるようになっていました。鍵盤側を客席に向けるかたちで配置される振り弾きのピアノでは、たしかに音がステージ上で理想的な方向に飛ばず、下手をするとオーケストラの音に埋没することも少なくないと思われます。さらには会場の音響特性によってはこれらの条件がいよいよマイナスに重なって、ピアノが思ったように鳴らないという問題が出るわけで、その対策としてこのような装置が考案されたようでした。
 これはピアノの上部に取りつける、いわば音のダクトみたいなもので、任意に音の流動を操作しようというのが目的ですが、見た瞬間あまり感心できないような気がしました。
 これもたしかシュテファンとエマールという二人のピアノマニアによる共同開発だったようで、コンチェルトでは一定の成果を上げたようでしたが、見てくれのほうはなんとも不恰好に思えました。
 
 さてそれを、フーガの技法の収録でも使ってみるシーンがあったのですが、反響板付きのとそうでないものが、控え室でプレイバックの聴き比べがおこなわれました。果たして映画用の理想的ではない音でも、あきらかに反響板付きは好ましくない不自然な品位のない音だということがわかり、これはたちまち却下されました。
 その際に誰かが印象的なコメントをこぼしました。正確な言葉は忘れましたが、要するに「見てくれの良くないものは、その効果も大したことはない」というような意味で、たしかに言えていると思いますし、機能を有するものにおける、これはひとつの真理だと思われます。
 ピアノ全般でも、スタインウェイのあの図抜けて美しいプロポーションは、その楽器としての性能に見事に裏付けられていると思われます。他社のピアノとスタインウェイでは、音が出る前から、そのスマートで凛とした佇まいの時点で、すでに勝敗は決まっている観さえあります。
 
 もうひとつ印象的なシーンで思い出すのは、シュテファンがエマールを伴って自分(?)の工房に連れてきますが、そこでは新しめのDの高音弦に向けて、BOSCHの電動工具の先端に黄色いテニスボールをつけた奇妙な装置がセットされていました。高音側の弦を機械に取り付けたテニスボールで連打して馴染ませている様子で、こうして新しいうちは延びやすい弦に集中的にストレスをかけて馴染ませているものと思われました。なにごともアイデア次第というところでしょうか。
 
 ピアニストはエマール以外にも数人が出てきました。
 引退間際の巨匠ブレンデルなどは、演奏シーンがあまりに少なくて却って不満が残りましたし、ブッフヒンダーなども立ったままの試し弾きだけで、そのあたりは観る人のことも考慮して、もう少しぐらいは映して聴かせて欲しかったと思いました。この点では準主役ともいえるエマールも同様で、あれだけピアノにこだわり抜いて演奏に挑んでいるわけですから、その結果としての演奏や音を聴かせる時間を少しは設けるべきではないかと思いました。
 およそ1時間40分弱の作品でしたが、せめてあと10~15分ぐらいを演奏を聴かせるシーンを作品の各所に配置してほしかったと思います。
 
 首を傾げたのは、ところどころにイグデスマン&ジョーというクラシック音楽をネタにするコメディの二人組が登場しますが、空手チョップでピアノを弾いたり木製の和音発生装置でラフマニノフを演奏するなど、必ずしもこのピアノマニアという極限の音造りというテーマにはそぐわないお笑いユニットが出てきたことは個人的には違和感がありました。
 たしかに専門的なことに偏りがちなこの映画の中で、ところどころで息抜きに笑いを取って観客を和ませるという狙いと演出なんだろうとは思いますが、YouTubeで見ている分はいいとしても、この映画にふさわしいものであったかといえば甚だ疑問でした。それにコメディアンのお笑い芸とはいえ、ああいう乱暴なピアノの弾き方というのはマロニエ君は体質的に嫌だし、ましてやそれをこの映画の中で見ることは、あまり嬉しいものではありませんでした。
 笑いは大いに必要ですが、その笑いの質は重要で、これは専らセンスの問題だと思います。笑えない笑いほど見ていてお寒くなるものもありません。
 
 笑いといえば思い出すのはラン・ランで、彼はなるほど現在の商業主義優先のクラシック界においては稀有な「タレント」なのかもしれませんが、芸術家の正味の価値として見た場合、マロニエ君は彼を正面切ってピアニストと捉える気分には到底なれませんし、あのマンガみたいな滑稽なパフォーマンスをするために、関係者が見守る中を、恭しくピアノ選びをしてどうのこうのといわれても、いまひとつしっくりきません。大きなイベントの主役なら、どんなピアノでも構わずガンガン弾くであろう強烈なキャラクターとの間に、大きなズレみたいなものを感じてしまいます。映画の中にあったハンガリー狂詩曲の終わりの部分、狂乱的に両手両足をバタバタさせる喜劇的な動きは笑うしかなく、あれこそがラン・ランの本質でありウリだろうと思います。
 
 いっぽう中心人物の一人であるエマールは、ピアニストとしての能力には一級のものがあるし、ピアノに対する要求も、画家が微妙な色彩の妙に寝食を忘れて没頭するように大変なものがあって、これを理解し技術的にピアノの音やタッチに反映させるのは並の仕事ではないと思われます。しかし、芸術家独特の内なるものの非凡さとエゴイスティックなまでのあくなき探求心を感じさせ、彼が並み居るピアニストではないことをはっきりと証明しているようでした。
 なるほどと思ったのは、自らの音楽的なスタンスについて「自分はあまり深いところまでは入らない」と言っていたことで、これはまさに本人ならではの核心をついた言葉だと思いました。彼は素晴らしいピアニストであることは間違いありませんが、この点が彼の演奏の特徴であると同時に、ある意味ではもうひとつもの足りない点でもあり、彼はもしかしたら音楽を静かな絵画のように捉えているのかもしれないと考えてみると、あの演奏が納得できました。彼は決して野暮な熱演はせず、新劇の俳優のように大げさな直接話法では決して音楽を語りません。
 ほとばしるような生命感の躍動や情熱の奔流によって聴く者を圧倒するのではなく、曲の構造や様式を知的な演奏を通じてじっくり再構築していくには、建築家が素材にこだわるように、たしかに楽器の響きや個性にも多くのことを依存するだろうと思われます。
 
 この映画を観ていると、舞台はヨーロッパであり、大物ピアニストが何人も登場してくるので、まるですべてが次元の異なる高度なことをやっているようにも見えますが、あくまでも調律師の仕事のレベルとして見た場合(このシュテファン氏ももちろん素晴らしい技術者であることは間違いないのでしょうが)、日本の優秀な調律師もなかなかどうして大したもので、決して彼らに負けてはいないと思いました。
 もし違いがあるとすれば、それは技術というよりも、それを必要とする芸術的な土壌という点であって、これはヨーロッパのほうがやはり深い根をはっていると思われる点でしょうか。端的にいうと、ヨーロッパのほうがより自然にこのような音楽芸術にかかわる職人的な仕事がやりやすい空気であるように感じました(もちろん実際のところはわかりませんが)。
 
 そのせいなのか、シュテファン氏などはとても明るく健康的にこの仕事に打ち込んでいるようで、その点では日本のピアノ技術者は必ずしも恵まれた環境にあるとは言い難く、狭い業界のなかで柵にまみれ、多くの制約制限と日々戦いながら、黙してストイックに頑張らざるを得ないという現実があるようです。
 どんなに技術的な高みに達しようとも、それがわかる人や環境が極端に少なく、通常は自分の仕事が理解されないという悲哀や、希望の持てない諦めの中で自らを叱咤激励しながら最良の仕事を目指すという、報われることの少ない苦しい仕事だろうと思います。
 
 このシュテファン氏の活き活きとした奮闘ぶりを観て、日本の調律師の皆さんは果たしてどのように感じられたのかと思わずにはいられません。すごいことをやるもんだと舌を巻いた人もいれば、自分ならもっと高度な仕事をやれる(やっている)と心の中で静かにつぶやいた方もいらっしゃるでしょうし、あれはどうも…と場面によっては疑問に感じられた方などもおられることと思います。
 へええと思ったのは、調律の時の音出しですが、シュテファンはかなりフォルテで音出しをして調律をやっていたこと、もうひとつは基本的に水平に回すべきチューニングハンマーをときおり下に押し込むように捻っていたことなどでした。これらのやり方についての是非は、技術者の間でもさまざまな意見があるようで、まさに賛否両論に分かれる技術上の問題のようで、マロニエ君などはただハァ…と思って眺めるのみでした。
 
 いずれにしろ、あのように一流の演奏家と組んでひとつのものを作り上げていくという仕事をバリバリやって、そこに全身全霊を尽くすことができるという環境と条件、すなわちその必要と理解が明確に存在するという点では、ヨーロッパはさすがだと思わずにはいられませんでした。
 どんなに己の技を磨き上げても、それを理解する土壌なくしては技術者が(あるいは職人が)報われることはありません。そこが究極的に理解されなくても存在理由を失わない芸術家と技術者の、最も根元的な違いなのかもしれません。
 
 エマールは、もし仮に彼の演奏が理解されなくてもエマールたり得るでしょうが、シュテファンはその能力に対するピアニストたちの理解と求めなくしては、あのシュテファンで居続けることはできません。
 そういう意味で、私達はもっともっと調律師の方々の仕事の本質を理解する必要があるのだと思わせられる映画だったようにも思います。願わくは日本人調律師のドキュメントも誰か作らないだろうかと思います。