演奏者の色直し

 コンサートに限ったことではないけれど、人が「良かれと思って」やっていることの中に、「ああ…それはしないほうがいいのに…」と切実に思うことってないだろうか。とりわけそのマイナス面も省みず、嬉々としてやっているときの当人の姿は、なんとも痛々しく見えるもので、あの瞬間は実に辛い気分になるものだ。
 
 いつもながらのマロニエ君の個人的な印象だが、コンサートでいうなら、日本人(とくに女性奏者)のちょっと思慮の足りない、やり過ぎのステージ衣装がそれである。どうしてああいう趣味なるのかはわからないが、かなりの確率で目にするのが、まさに田舎の結婚式の貸衣装そのままのような、見る者をギョッとさせるような知性や文化にはおよそ似つかわしくないド派手なだけのドレスである。これでもかといわんばかりの強烈な原色や、いかにも表面的で主張がましい奇抜なデザインの、およそ音楽とはかけ離れた品位のないドレス。素材がまた遠目にもいかにも化繊といわんばかりの安っぽい代物だが、ご当人は至って大真面目で、その場に浮いたようなケバケバしいドレスを嬉しそうにお召しと見える。本来のシックや洗練、演奏者としての見識や文化意識とはほど遠いものだ。
 
 当然ヘアースタイルやメイクにもその感覚は波及し、コンサートという目的に適ったTPOなどどこ吹く風としか思えないものだ。その道のプロの手も入っているようで、今風ということになっているのだろうが、ほとんどキャバクラ感覚としか見えないような仕上げのものが少なくなく、いろんな暑苦しい飾り物なども多用されていて、いったい何のための装いかと思ってしまう。
 あれで当人は夢みるような豪華で素敵な装いのつもりなのかもしれないが、客席から冷めた目で見ればあの手合いはマイナスのため息以外の何物でもないし、どう見ても美しいなどとは思えない。なかには動くたびにきらきら光る粉みたいなものを頭に振りかけている人もいて、悪趣味なだけでなく、演奏中からだが動くたびに絶え間なくキラキラと小さな光が明滅したりするので、じつに目障りかつストレスで仕方がないことまである。
 実際、多く目にする最近のステージ衣装は、昔ならほとんど娼婦の衣装と断じられても仕方がないようなものが多く、およそ堅気の女性、ましてや人前で演奏という行為を行う者──いやしくも芸術家のはしくれが──身につけるようなものとはとうてい思えない。この人達には気品とかエレガンスといった概念や美学は欠落しているのか…。
 
 演奏の如何を云々する前に、この手の出で立ちで登場されると、もうそれだけで気分が滅入ってしまう。「それはあなたの主観だ」といわれたらそれまでだけれども、あの手の服装はまずもってそれを選び、決定する人の知的レベルを相応のものだと感じるのは、どんな説明をされようとも決して覆ることはない。ああいう上っ面の豪華さというものへの無抵抗は、まずもって根底にある泥臭さと貧しさの裏返しのようにしか思えない。軽薄で表面的な豪華さへの憧れが、コンサートのステージ衣装という口実を得て、一気に節操なく噴き出しているようだ。
 あの手の衣装を本気で素敵だと信じている、そのいかにも底の浅いセンスは、その人およびその時間や空間が安っぽくウソっぽく見えてしまうだけだ。せっかくこれから演奏を聴こうというのに、奏者の人柄や教養までもを疑い、日頃の厳しい練習や研鑽のかたわらで、こういう安っぽい衣装選びに心を浮き立たせ、エネルギーを費やしていたのかと思うと、もはやそういう人の演奏にはとても期待などもてないという気分に陥るばかりだ。
 
 要するに今どきの結婚式や、子供の発表会のお人形さんスタイルの延長線上から一歩も出ない感覚なのだろうが、世界の一流とされる女性奏者で、あんな泥臭い歌謡ショーみたいな格好で出てくる人は、マロニエ君はほとんど見たことがなく、日本人(もしくは若干のアジア系奏者)だけの悪しき特徴のようにも思える。
 
 そもそも、ファッションの根幹にある精神的支柱は美意識と思想とTPOであり、自分の個性と目的に対して最も相応しい装いをすることが美しくもあり、そこに自ずと品位も備わり、見る人の目にも心地よく映るはずだ。ただキラキラしたタンスの隅のフランス人形のような、デコレーションケーキみたいな衣装を着ることがステージと聴衆の求めではない。
 
 コンサートの伝統に則り、出演者がフォーマルな装いでステージに挑もうというのはよくわかるし、それがまた聴衆への礼儀だとも言える。男性が敢えて機能的でない燕尾服を着るのもそのためだ。しかし、フォーマルな服装とはほんらい何であるかを考えてもらいたい。アカデミー賞の授賞式のようなお祭りイベントに行くのではなく、あくまでコンサートの舞台で偉大な芸術家の作品を演奏するためのいわば「仕事着」という認識があまりにも欠けているのではないだろうか。演奏家の服装にも一定の文化意識を感じさせるような節度と見識、大げさに言うなら思想を持つことを強く望みたい。
 まさかとは思うが、日本で最も有名な女性ピアニストの驚くべき悪趣味な服装センスが、長い時間をかけて伝染病のように蔓延しているのだろうか。
 
 さらにとどめを刺すのが、コンサートの前半と後半でときどきあるお色直しだ。
 今時こういう言い方をしちゃいけないことはわかっているが、それでも敢えて言わせてもらえば、クラシックのコンサートのような性質の内容、さらにはせいぜい2時間にすぎないステージにもかかわらず、前後でわざわざ衣装を取り替えてファッションショー気分で登場するところをみると、その勘違いたるや悲劇と喜劇をいっぺんに見せられるような気になる。ご当人は得意の絶頂で、そのためにずいぶん前から準備したものなのだろうが、見せられるほうは、いたたまれない気分になってしまう。そして、当人の心中たるや、いかようなものかとあれこれ考えてしまう。おそらくは、ごく単純に自分が主役となり、スポットライトと称賛を浴びて、優越感でご満悦なのだろうとは思うが。
 
 ご当人は自己露出の極みで、大勢の視線の中で見られる快感に酔いしれているのかもしれないが、この手の勘違いはほどほどにしてほしい。お客さんは田舎の結婚式に来たのでもなければ、貸衣装の見本市に来たわけではない。だいいちコンサートのドレスは、芝居の衣装のようにそれ自体が意味のある小道具とは違うのだから、途中でべつのものに取り替えたからといって何の意味もない。もしクラシックのコンサートで奏者が色直しをすることに何か合理的な、もしくは音楽的な理由があるというのなら、ぜひとも教えて欲しいものだ。
 
 そもそも演奏家は、わざわざいうまでもないことだけれども、自分の姿を見せることが本業の女優でもなんでもない。そして、率直に言わせてもらえば見せるに値する容貌を有しているわけでもない。その点においてはあくまでも凡庸なシロウトだという客観的事実をはっきり自覚しなくてはならないはずである。この人達がステージに立つことができる理由は音楽家であり楽器演奏をするからなのであって、ドレス姿の露出会ではないにもかかわらず、その機に乗じて別の勘違いをしてもらっても、誰もありがたくもなんともないのである。大半の人は口に出さずとも心の中で嗤っているはずだが、それがなぜ当事者にはわからないのだろうか。
 ついでながら趣味の問題は横に置くとしても、あまりにデコラティヴなドレスを着込み、過剰なアクセサリーをつけて派手にすればするだけ、そこから出る顔そのものはよりいっそう寂しく見えるという現実があることも当人は考えるべきではないか。昨日まで自宅で庶民的な生活をしていた人が、突然そういう衣装を身につけて着飾っても、それをただちに着こなすことはできないのが当たり前である。
 文化意識というものの第一歩は己を厳しく客観視できるかどうかではないか。とくにそれが厳しく求められるのはステージという半ば公の場に立つ人間であるのはいうまでもない。
 
 これほど独りよがりな自己満足の現場を、痛いような気持で目撃せざるを得ないとき、なにかいいようのない傷みを伴うものが神経の中へ切り込んでくるような感覚に襲われる。そこには本人の勘違いと滑稽と客観性の欠如以外には何一つ見出せず、少なくともマロニエ君はお寒い気分でガクガクと震えるばかりだ。わけても、後半さらに色直しをして、どうだ!とばかりに出てきた日には、もう耐え難いストレスになる。
 まさかそんなドレス姿の自分を見て、観客が賛嘆と羨望のため息でも漏らすとでも思っているとしたら、究極の勘違いというものであるし、これはまさに滑稽の極みと言うべきだろう。それでも、本人は間違ったことをしている認識は毛頭ないのだろうし、非日常の快感に酔いしれているのは否定できないだろう。
 ステージ上で自分の全身が衆目にさらされることに快感を覚えるのだとしたら、その人は早々に音楽などやめて別の道にでも進んだらどうかと思うのだが…。
 
 音楽に限ったことではないが、芸術家はその演奏や作品など、芸術的本分によってのみ自己を表出するのであって、年末の歌番組のような衣装を着込んで人の注目を集めたいのだとしたらあまりにも情けない。だいたいこういうことをやりたがる人はセンスも悪いけれども、教養も知的レベルも決して高いとは言えず、卑俗な自己顕示欲だけが一人歩きしている。
 仮に演奏という道をその人なりに究め、音楽で磨き込んだセンスがあるとしても、それが教養として服装その他にまで応用できるほどのものではないとすれば、音楽自体も概ね大したものではない筈である。この手のドレスアップ趣味、ましてや色直しなどをする人で、演奏は見事だったという場面にはマロニエ君はまず立ち合ったことはない。人の内面は外側に顕れるといわれるように、これもまた同様だろう。
 もし本人にインタビューしたら何と答えるのかは知らないけれど、ひとつのコンサートの前後半で色直しをするような人は、要するに演奏だけでお客さんを満足させる自信がないのだろうとマロニエ君は最終的に思っている。もちろん、そんな人がドレスを途中で着替えたからといって聴いている人達が視覚的な満足を覚えるわけでは絶対にないのだけれども。
 
 ステージ上の出し物には、視覚的な要素を含めて観客を満足させるものもある。オペラやバレエはその最たるものだし、ビジュアルの要素が重要な役割を果たすステージは他にもいろいろあるだろう。しかし、通常のクラシックコンサートでは、演奏・音楽こそが主役であって勘違いのドレスショーではないことは、いまさらだけれどもはっきり申し上げておきたいところである。
 
 少なくともステージに立とうというほどの演奏技術を備え、そのための厳しい研鑽を積んできた御仁なら、それに相応しい見識も身につけて欲しいし、目的に適った出で立ちで演奏行為に及んでいただきたいものだ。

車検のように

 マロニエ君はこんなホームページを作るぐらいだから、さぞかし自分のピアノには万全を期しているだろうとご想像の向きもあるかもしれないが、実はそれほどではない。
 もちろんまったくの無頓着ではないし、自分のピアノのコンディションは良好であって欲しいと願う気持ちは大いにあるけれども、そのために日頃から万全の状態を維持すべく最高を目指しているのかといえば、そのようなことはない。いうなれば「そこそこ」という程度に過ぎない。
 
 もちろんピアノ管理の基本ともいうべき温湿度の管理には留意しており、日に何度か湿度計のチェックはするし、年中除湿器はスタンバイしている。補助的にダンプチェイサーなどの器具も取りつけているのは以前も述べた通りである。
  しかし、それは現実的妥協的に好ましい結果が得られればそれに越したことはないという程度のことで、意識的に過度なこだわりは持たないようにしているのである。ひとつにはピアノのコンディションで最高を目指そうなど容易なことではなく、マロニエ君ごときがそんな思い上がった目標を持てるはずもないというわきまえぐらいは持っているつもりだ。
 
 というのも、もしそれを追求しだしたなら、それは決して甘い道ではないだろう。その領域に足を踏み入れたが最後、ピアノに対して気の休まるときはなくなるだろうし、ほがらかにピアノを楽しむ精神的余裕は一気に奪い取られることは目に見えている。だいいちそうなったら、ピアノの状態を万全に整えれば整えるだけ、当然自分の拙い演奏技術の問題を切り離すことはできないばかりか、部屋の音響の問題やらなにやら、際限なく諸問題が関連して否応なしに発生してくるわけで、そんなことに立ち向かうだけの意志力も体力も経済力もないからはじめから降参しているわけだ。そのような精神的消耗戦を本能的に避けるべく、その点では自分の中の安全弁がなんとか稼働しているのだろうとも思われる。
 
 音やタッチに限らず、物事の最高を求めるということは、半端なことではない。行き着くところ楽しみではなく不満と苦闘の連続になるわけだし、同時にそれは自分には分不相応な要求であり、マロニエ君はとてもじゃないが自分がそんな求道者ではないことは自分が良く知っている。さらにはこれを追求し出すと、どうあがいても自分の求めるものなど手に入りっこないものだ。結局どんなピアノでも気に入らず、どんな技術者でも満足は出来ないし、ついには終わりがないのだから、最終的に音楽やピアノを楽しんでいる時間なんてないだろう。
 
 聞くところでは、最高とされるピアノを購入し、あらゆる妥協を廃してこれに挑むも、どうにも納得がいかないというぬかるみにはまったような状況の連鎖に落ち込んで苦しむ人もいるというのは何度か聞いたことがある。何人もの一流技術者を呼び寄せても尚、望むような結果は得られず、あげくはピアノそのものを買い換えるなど、傍目には道楽三昧のように見えても、本人してみれば大変な苦悶の連続となるのである。
 
 趣味道においてこんなことを言うのも憚られるが、せっかく大枚をはたいたあげく、そんな苦しみの道に突入するなどマロニエ君はまっぴらである。だから自分のピアノで最高を求めるなどという自分の分際を超えた幻想を抱くことは厳に慎んでいるわけである。
 こういうわけで、あくまでも現実的な範囲内で自分のピアノができるだけ弾いて気持ちの良い状態であって欲しいとは思うのがせいぜいで、普通に高水準と思われる調整を、できるだけ優秀な技術者によってやってもらったら、もうそれで充分なのである。
 
 さて、マロニエ君は国産ピアノと輸入ピアノの2台を使っているが、後者のほうはタッチに不満を抱えていて、それが慢性病のようになかなか解決できないでいた。そこで長年お世話になった技術者の方には申し訳ないけれども、医学でいうところのセカンドオピニオンのごとく、別の技術者の意見も聞いてみたくなり、敢えて別の技術者に診てもらうことに踏み出した次第である。
 それからの技術者の方々との具体的な経過は書いても無意味なので割愛するが、現在の技術者によって非常に好ましい結果をあげることができて、ひとまず満足を得て、ようやく目標の山をひとつ登ったというところだろうか。
 
 この調律師さんは、コンサートやレコーディングはもちろんのこと、いわゆる海外の有名コンクールなどの経験も豊富ないわゆるコンサートチューナーで、いささか畏れ多い気もしたが、結局この方に昨年秋のひと月の間に3回ほどお出でいただくことになった。
 
 はじめの2回は主に各所の入念な点検とタッチ調整、そして最後には調律と、都合8時間ほどを費やしておこなってもらった。主には懸案であった重いタッチの改善を主目的に取り組んでいただき、そこを中心としながら各所の附随する諸々の点検・調整となる。
 まずはキーの重さの測定から。その結果、キーが重いことは客観的な数値にも表れており、どういうわけか大半が50gをオーバーしていて、これでは弾きにくいのは当然である。
 とりわけ中央部における基準が49gであるべき35鍵ほどは、僅か一箇所をのぞいてすべて大きく基準をオーバーしており、わけても13鍵ほどは50g台後半であったのだから驚かされた。
 
 キーの重さは基本的にハンマーの質量と、それに対応してキーの側面から埋め込まれた鉛の重さとの相互関係、あとは打鍵からハンマーの跳躍に至るアクション内のさまざまな摩擦や関節の健全かつスムーズな動きなどがこれを決定するようだ。
 診断の結果、特段の大きな問題がないことから、まずは各所の細かい点検となった。最終的に鉛の重さの変更(追加)によって調整することも視野にはあったようだが、それはいちおう最後の手段というわけである。というのも鉛を重くすれば、そのぶん軽くはなるが、キー自体が重くなっただけ返り(沈んだキーが元に戻ろうとする力と速度)が鈍くなるので、俊敏性を犠牲にするというマイナス面があることは忘れてはならない。
 
 あとから聞いたことだが、このときやったことは、要するにホールのピアノが年に一度受ける保守点検のようなものだったらしい。
 ホールの場合は通常2日間16時間をかける行われるようだが、今回はその要点のみ半分の時間で行ったということになり、積み残した課題は次の調律のときに着手するという家庭向きのプランを立てていただくことになったのはありがたかった。
 
 88のキーの重さを測定し、そのすべてを記録。それを記入するための一覧表のようになった用紙まで準備されており、この方はいつもこのようなやり方でご自分の手がけるピアノのはじめの状態と、仕事の結果がどう変わったかを数値による記録としても残されているようである。
 
 そういうわけで作業開始からしばらくは、ほとんど音のでない作業が延々と続くことになり、各部各所の点検と調整が主な作業らしい。
 2日目、一通りの点検作業がようやく終わって再び一斉測定となったが、すでにこの時点で大幅な改善がなされていることが明らかで、キーによって多少のばらつきがあるものの、軒並み数グラム軽くなっていることが判明した。特筆すべきは、これらはすべて各部の動きの滑らかさなどを追求することで達成された結果だということだろう。
 
 それでもまだこのピアノの標準よりも若干重めで、こうした一覧表を作ると、作業前後の変化が一目瞭然だから、ただ感覚中心に仕事をするだけでなく、データを取るということは変化の経過が捉えられ、客観的な証拠として後々さまざまな考察の資料にもなるわけで、きわめて有効なことだと思われた。
 
 それから3週間ほど間を置いて、調整したピアノがその後どのようになったかのチェックに来られることになる。来宅早々、ただちに3度目のキーの重さ測定になったが、さらに平均して1~2グラム軽くなっていることが判明して、これならほぼ標準の数値内にまずまず収まったことになり、結果は上々でひと安堵というわけである。
 
 キーを軽くすることは、論理的にはハンマーの重さに対する手前側の鉛の重さなどで調整するのがこの分野の定石になっているが、実際にはその前になすべき事があるわけで、それはアクションが問題なく設計通りの滑らかな働きをしているかという、至極当たり前の部分を丁寧に点検することである。
 ピアノの鍵盤やアクションには摩擦部分とか多くの関節類が存在し、それらの複雑な動きが幾重にも積み重なることで、ひとつのタッチが成り立っているというわけだから、それらひとつひとつの正常な動きを確認しながら良好なタッチを作り出すことが必要というわけである。
 
 重軽の問題はもちろん、しっとりしたタッチやスコンと抜けたようなタッチ、コントロール性に優れたタッチ、あるいはその逆の状態は、すべてこれらの小さな摩擦や抵抗など各所の働きの集合によって決定するものだから、やはり普段はどうしても見過ごされがちではあるけれども、こういう部分の丁寧な点検・調整というのは大事だということを痛感させられた。そもそもピアノのアクションを中心とする可動部分は木と皮とフェルトの集合体なので、放っておいてもコンディションは常に変動する。弾いてももちろん変わるし、逆に弾かない状態が続くことも好ましくなく、それはそれで健康な動態とは言い難い状況に陥るだろう。白状すれば、マロニエ君はこのピアノは普段ほとんど弾かないという状態が続いており、結果として楽器が運動不足になっていたことは大いに反省させられた。
 いうなればピアノのコンディションというのは我々の体の健康管理のようなもので、これで絶対ということはないし、やはり適度な運動や好ましい環境を整えることは重要であるようだ。
 
 そういう意味ではピアノの保守点検というものは、本来的にはべつにホールのピアノだけの専売特許ではないのであって、理想的にはすべてのピアノに与えられる仕事であったならこれほど望ましいことはないだろう。しかし、実際にはそういうことには一切注意を払わない人が大半で、ピアノは音さえ出ていればそれでいいというのは、このような分野への認識がなく、周知がまったく不徹底だからであろう。
 少なくとも好ましい弾き心地や、敏感な表現力を持ったピアノを弾くことに喜びや価値を見出す人ならば、調律以外に保守点検、もしくはそれに類することは極力おこなったほうが自分のピアノの魅力が何倍にも増すことは間違いないと思われる。
 家庭用のピアノでも技術者の手が入れば入るだけピアノのコンディションはよくなるのは当然なのだから、ホールのように毎年というのは無理だとしても、例えば車にだって2年に1度の車検というものがあるように、隔年でもいいし、それが無理なら3年に1度でもいいから軽い保守点検を実施すると、ピアノ本来がもつ能力が格段に高く発揮されて、コンディションは見違えるほど素晴らしいものになることは間違いない。
 現に我が家のピアノは以前に比べると、弾くのが倍も楽しくなったのは、ひとえにこの点検と調整のお陰である。
 
 マロニエ君の想像だが、家庭用ピアノの大半は本来の性能をじゅうぶん発揮できないでいる、なんらかの慢性病みたいな状態だと思われるが、持ち主はほとんどそれには気付かず、当然ながら点検など考えてみたこともないだろう。多くの調律師も内心ではわかっていても、そのための仕事や費用はとうてい評価されないものだから、はじめから諦めているというところだろう。
 
 多くの人は、年に一回調律することでちゃんとピアノの面倒を見ている気になっているかもしれないが、これは明らかに間違っている。調律は音程を合わせて発音の性格を作り出す仕事であって、1時間強からせいぜい2時間の仕事。その他の調整などはしてもついでというかオマケみたいなものに過ぎないし、今どきはメーカーからやってくる調律師さんでも調律以外の仕事は一切しない人が少なくないらしく、もはやメーカーもそのような微妙な(しかしこれこそ非常に重要な!)領域を敢えて切り捨てているということだろう。
 
 とにかく保守点検は調律どころではない、その遙か何倍もの時間と手間を要するのものだが、これは技術者側にしてもお客さん側の認識がないからお金にならず、したがって仕事にならないという深刻な背景があって、それは一向に改善の兆しさえないのは非常に不幸なことと言わざるを得ない。
 
 技術者が手を入れ、そこから出来上がるピアノのコンディションというのは、要はセッティングである。車の開発然りで、開発のかなりの部分を占めているのはこのセッティングであって、エンジンの出力やトルクカーブ、入力に対するサスペンションの反応やハンドリング、安全な挙動や快適な乗り味など、ありとあらゆることはセッティング次第であるし、それ如何によっては設計そのものに変更が生じることもある。セッティングという微妙な磨き込みの領域があってこそ、真に優れた一流のフィールが生まれる。
 
 本来の性能を活かすも殺すも、あるいは使用者が快感に浸ることができるか幻滅するかも、このセッティングの精妙さにかかっているといっても過言ではないだろう。ピアノもまったく同様と言いたいが、相手が木と皮とフェルトの集合体となると、それは金属とガラスとプラスティックで構成される車などより、よりいっそう不安定で、そのぶん技術者の感性と技術と手間を必要としているわけである。
 
 なにしろピアノは、調整が悪くても、明確な故障ではない限り、そのまま使われるし、そこに明確な損害とか生命の危険があるわけでもないから、厳しい結果責任をとわれることがない。だから、その領域の問題は常にあいまいで、いつまでたっても正しい認識が浸透しないのである。しかしながら優秀な(あるいは良心的なと言い換えても良いが)技術者が腰を据えて調整したピアノの弾き心地というのは、理屈抜きに格別なものがあって、同じピアノでもまったく別次元のものになっている。
 
 そしてピアノのユーザーの大半は、ピアノのコンディションに対してあまりにも不感症だといって間違いないだろう。無知というのは、この世にこれほど強いものはないのであって、問題があることさえ認識できないということは、自ずと不満もおこらないわけだから、家庭用のピアノで調律以外に保守点検など、おそらく発想にもないことである。
 
 蛇足ながら、タッチというのは、もちろんキーの軽重もあるし、滑らかさによっても、音色によってもその印象はさまざまに変化する。重すぎても軽すぎてもいけないし、強弱のコントロールが奏者の意のままであることが重要であるのはいうまでもない。
 またグランドの場合、サイズとタッチの重さが比例するように思われているふしもあるが、これはまったく誤りで、実際には小さなグランドにもかかわらずキーの重いピアノというのも意外に多いものだし、逆に最大のコンサートグランドが予想外に軽やかな弾き心地であることも珍しくない。
 
 このような現象が起こる理由は、コンサートグランドはホールなどの所有で上記のような保守点検を毎年受けているために、かなり好ましい状態が保持できているのに対して、家庭用の小さなグランドなどはコスト優先で、そもそも出荷調整も不充分な上に、技術者による入念な調整がほとんどされていないという現実があるように思われる。
 ごく小さなピアノなのに、実際はダウンウェイト(キーを下に押し下げる重さ)が平均60グラム前後というようなピアノも珍しくないようで、それだけ本来よりうんと弾き辛いピアノなのに、持ち主がまったくそれに気付かないで「こんなもの」と思って長期間使い続けられているピアノが現実にはごろごろしているようだ。調律の際に技術者にそのことを相談しても、事はついでやサービスで解決するような範囲ではないから、あれこれと言葉でお茶を濁されて終わってしまう場合がほとんどのようだ。
 こういうピアノも少しでも保守点検的な作業を受けることで、きっと別物のように生まれ変わるに違いないが、そのためにはピアノオーナーのほうも相応の認識が必要となってくるのは当然である。
 
 マロニエ君の知る範囲でいうと、一般的にピアノのオーナーは、ピアノの維持管理費は調律費用以外はないものと決め込んでいる。それがまずいけない。
 考えてみれば、所有するだけで毎年税金がかかるわけでもないし、ガソリンや電気を食うわけでもないのだから、それだけでも健気というものだろう。そこらも評価して、せめてもう少しピアノのために予算をとってあげたらどうだろうか。気持ちよく弾くためのピアノの健康維持費として、調律料金以外に一定額を投じるようになったら、ピアノはめざましく生まれ変わるはずだと思うのだが。
 技術者にしてみても、お客が一定の認識をもってそういう仕事を依頼してくることのほうが、仕事としてもどれだけやりがいがあるかわからないと思うのだが…。

ニューヨークとハンブルク

 ありそうでなかなかないのがスタインウェイのニューヨーク製とハンブルク製の弾き比べ(聴き比べ)の機会である。
 滅多にないこの機会に思いがけなく恵まれ、隣り合わせに並んだ2台のD(コンサートグランド)の弾き比べをすることができた。
 
 ただし製造年には差があり、ニューヨーク製が約20年前のもの、ハンブルク製は2年前ということで、この点はいささか公平を欠く気もするが、同じサイズ、同じ場所、同じ技術者という条件は満たしているのだから、まあ現実的にこれ以上の贅沢は言ってはいられない。
 
 これまでにもずいぶんこの両者の違いについては、あれこれと考え、体験してきたことなので、なにもいまさらとは思ったけどれも、考えてみたらニューヨークVSハンブルクというのは実は書いたことがなかった。
 たぶんこのテーマは書くのが恐いもののひとつでもあり、無意識のうちに避けてきたのかもしれない。そこで今回再確認できたことや、新たに感じたところもあるので、思いつくままに書いてみる。もちろん間違っていることもあるだろうから、その際はよろしくご指導願いたい。
 
 端的にいうと、この両者の決定的な差は「お国ぶり」の違いであり、「明晰さ」であるとあらためて思った。
 
 過去の日本では、スタインウェイは長いことドイツのピアノと認識されていたのに対し、近年は、ニューヨークに本社が存在するあくまでもアメリカのピアノ会社であり、それをドイツでも生産しているだけとする主張が出てきている。
 もちろんこれは間違ってはいない。しかし、それではそもそも純血種のアメリカピアノなのかといえば全くそうではなく、スタインウェイ一族はドイツ人のピアノ製造屋一家で、その設計も彼らを中心としておこなわれたが、その創業の舞台が工業力の優れた19世紀中頃のアメリカであったというに過ぎない。産業革命後のアメリカの工業力をバックにして、その技術を使いながら、ドイツ人によって作り上げられたピアノというべきだろう。
 はっきりしていることは両国の長所をブレンドして出来た奇蹟のピアノだということ、そしてドイツだけでもアメリカだけでも、絶対にあのようなピアノが完成することはなかったということだろう。
 要するにアメリカにあってもドイツにあっても、スタインウェイピアノは人間で言うところのハーフなのである。おそらくは19世紀のスタインウェイはいずれの生産品でももっと似通っていたに違いないが、時代と共に両所の拠点も安定して、長い年月の間で少しずつアメリカ風・ドイツ風へと変わってきたのではないだろうか。
 しかも気質としてアメリカとドイツというのは、ある意味では両極端の国柄であり民族性だから、違いが出るのは当然だろう。
 
 今回弾き比べをしたのは、なにしろサイズは最大のD型ではあるし、いずれも深く良く鳴ることにおいては並々ならぬものがあり、朗々とその美音を奏でてくれるは言うまでもないが、その響きの中でも常に個々の音の色艶と輪郭を損なわないのがハンブルク製で、ニューヨーク製は時としてその点がわずかに曖昧になるが、ではそれが悪いのかといえばまったくそうではなく、これこそがこの同一メーカーにして国籍の違うピアノの個性だと思われる。
 あくまでも端然と演奏を描き表すハンブルクに対して、ニューヨークは曲を大きな響きの中に滲ませながら聴かせようとする。これは一種の寛大さとも言えるかもしれない反面、時としてやや不明瞭となる場合もあるだろう。しかし、温かく豊かに音楽を表出しようとする性質であるのがわかるし、その点ではハンブルク製にはドイツの一流品のどれもに通じる機能優先主義と、どこか冷たさがあるのも否めない。
 
 同じスタインウェイという名のピアノでも、誰にも分け隔てなくフレンドリーで温かなニューヨーク、対してハンブルクには一種の誇り高さと威厳が感じられる。さあ一緒に音楽をしましょう!と語りかけてくるニューヨーク、しっかり練習して出直してこい!というハンブルク、そんなところだろうか。
 
 ハンブルクスタインウェイは他のドイツピアノと比べてみると、さすがにコテコテのドイツ人ではなく、流暢に英語を話すドイツの国際人という気がするが、こうしてニューヨーク製と並べて弾き較べてみると、やはりまぎれもないドイツピアノだと思わせられるのはどうしようもないほどで、何事も比較する相手次第である。
 ニューヨークは弾いていると、音にもハンブルクにはないような僅かなばらつきがあったり、タッチもどこか曖昧な点などが残っていたりして、いわゆる完璧主義的に一分の隙もなく作り込まれた超高級品という雰囲気ではないけれども、どうかすると音と音とが微妙に混ざり合って、えもいわれぬ色あいが立ち上ってくるところなど、喩えて言うとちょっぴりアルコールの入った愉快な歌を聴くようである。
 ひとつひとつの音として点検していくと、必ずしも万全とは言い難いところがある反面、音の響きがまるでゆらめく陽炎のように現れて、気が付くとその場の空気までも動かしてしまうようで、最後には見事にバランスの取れた、帳尻のあった音楽を描いてくれるところはどこか生き物のようでもある。
 
 音楽というものがあくまでも歌であり高揚感であると捉える向きには、ニューヨークスタインウェイは恰好のピアノになるような気がする。別の言い方をすると、ピアノそれ自体が必要以上に前面に出張ってくることがなく、音楽を演奏されてはじめてピアノとしての価値や存在理由を現し始める性格を持っているように思われる。
 また、パッと見は大して力強くは鳴っていないようでいながら、実は楽器全体はものすごく良く、それこそ身を震わすほどに鳴っているのもニューヨークの特徴だろう。
 いうなれば、演奏がいったん楽器の中へ透過するようにアレンジされて音に現れてくるような感じといえばいいだろうか。
 
 その点ではハンブルクはずいぶんと厳格な音の出し方、響き方をして、あくまで居住まいを崩すことがない。基礎教育もしっかり叩き込まれたピアノで、いかに本社はニューヨークにあろうとも、こちらはヨーロッパの歴史と奥行きを感じさせる。
 あくまで基本はクラシック音楽を前提とした、芸術表現を目的としているといった楽器だという厳かな気配があるし、しかもいかなる目的にも対応できる懐の深さも併せ持っているのだから、まさにピアノの優等生だろう。音色も艶やかで、もちろん演奏をしても見事におさまりをつけるピアノではあるが、ひとつひとつの音も念入りに磨かれており、いかなる場合も一定の美しさと気品を湛えている。
 
 また外観のデザインにもディテールには小さくない違いがあり、ニューヨーク製はとくに鍵盤周りのボディのシャープな造形はなんとかいう歴史的なデザイナーによるもので、まさに戦前のニューヨークの街そのもののような都会的で鋭敏な美しさが際立っている。音ではなく、造形の点だけでいっても、このピアノがもっとも絵としてサマになるのは、あのカーネギーホールのステージだろうし、ディテールの造形の楽しみはニューヨークが一段上のような気がする。
 その点ではハンブルク製は、あくまでもオーソドックスで機能を極限まで追いかけることで到達した、これ以外にはないというモダンピアノの手本となるべき造形で、これはのちの多くのピアノのデザインにもはかりしれない影響を与えたように思われる。
 
 再度音の話に戻ると、ハンブルク製は芯の強い硬い音&甘く柔らかな響き、ニューヨーク製は芯はさほど強くなく柔らかい音&甘味は薄いがゆらめく響き、とこのような違いになるような気がする。音に色艶があってカッチリしているのがハンブルクなら、常に音同士が滲み合ってさまざまな中間色を出そうとしているのがニューヨーク製だろう。
 
 その違いは一般的にハンマーの違いが大きいようにいわれることがるが、マロニエ君はニューヨーク製にハンブルクのハンマーを付けたピアノも何台か弾いた経験によると、とうていハンマーの違いが両者の個性のすべてとは思われなかった。ニューヨークにハンブルクのハンマーを付けると、なるほどその音はニューヨークの純正の音とはやや違ったものになるし、そこには若干キレの良さが加わる。しかし、それでハンブルクの音になっているかと言われたら、それはまったくのNo!なのであって、あくまでもニューヨークの音の本質にはなんら変化はなかった。ハンマーが違うぶん、ちょっと目先がかわったぐらいのもので、持っている声帯はまったくかわっていない。
 
 では何が違うのか。
 それは判然とはしないが、おそらくはマロニエ君の直感で言うと、フレームの成分やなにかと、あとはボディの材質ではないかと思う。これはもちろん確かなことではない。あくまでもマロニエ君の素人判断による消去法で得た結論で、実際は間違っているかもしれないことはよくよくお断りしておく次第である。
 因みに響板は、以前は両者産地の違うものを使っていたが、現在(21世紀以降)は北米産のものに統一されているという事も聞いたので、最新の2台を比べたらどのような結果が出るのか興味のあるところだ。
 
 基本的な設計はまったく同一だが、音構成の思想面で大きな違いを感じる事がある。
 とくにピアノ全体の鳴りの中で、弦楽器のようにボディを積極的に鳴らそうという思想はニューヨーク製のほうがより強いようで、弾いてみるとそれをひしひしと感じるのは事実である。その点ではハンブルク製は、響板、フレーム、ボディの響きには化学調合のような厳格な比率によって決定されているようで、当然ボディの響かせかたの配分も違うようにも思われるし、あくまでも響板とフレームに対する依存度が高いような印象だ。
 これに対してニューヨークは鳴らせるものはなんでも鳴らすということなのか、ボディまで大いに鳴らし、同時に響板への依存度がやや低くなっているのかもしれない。響板と並んで木のボディまで鳴らすという思想には、ちょっとベーゼンドルファーにも通じる特性をごく一部に感じてしまう。音色は全く違うけれども、全身が弦楽器的に共鳴して、それでいてどこか軽やかでちょっと線の細いところがある点などは、やはり一種の共通点のようにも感じる。尤もこういう意見はてんでわかっちゃいないと猛攻撃を食らいそうだから、このへんでやめておこう。
 
 もとに戻って、音の違いはボディの塗装にもあらわれており、ハンブルク製は80年代までは艶消しが主流だったが、以降はより高級とされる艶出しが標準となり、他社のピアノと同様に分厚い塗装がされていて、これがボディの鳴りを多少封じ込めているのはあるらしい。同時に艶出し塗装では音が硬く鋭くなるのだそうで、以前の艶消しの時代のピアノのほうが一層やわらかさがあるのは、ピアノにとっては塗装も音を決める要素のひとつだということだろう。
 スタインウェイにはボディの構成材料を紹介するためにシステムピアノというものを昔からしばしば作っているが、このピアノは各部位に異なる木材がどのように使われているかを見せるために、意図的に塗装をされていないが、そのためにこのピアノは塗装されたピアノより軽くて良く鳴るといわれている。
 
 ニューヨーク製は昔から伝統的にラッカーを薄く塗って半艶だしのヘアライン仕上げというのにしてあるのが特徴であるほか、ボディには楓材なども使われているために、ピアノが全身でわななくように鳴る特徴があるようだ。
 ただし、このラッカーのヘアライン仕上げは非常に傷つきやすいという弱点があり、古くなったニューヨーク製にはかなり疲れた感じに見える個体が多いのも、ひとつにはこの弱い塗装に原因があると思われる。
 
 状態の良いニューヨーク製は非常によく鳴るけれども、音の輪郭や鋭さという点ではハンブルク製が勝るから、奏者が弾いていて直接的な手応えを感じるのはハンブルクかもしれない。逆に最近ではニューヨーク製にもハンブルク製同様の艶だし仕上げも出てきており、全体に響きの柔らかいニューヨーク製では、むしろこちらの方が音にも多少メリハリが出て好ましいようにも感じる。
 ただしこのあたりについてはある雑誌によるニューヨーク工場での取材結果として、塗装の違いは音には一切関係ないと断じられていたが、それは到底納得できるものではない。ポリエステルの艶出し仕様はあきらかに硬い音がするし、これは科学的にも証明できるものであるというのを聞いたことがある。
 
 見た目のデザインの違いなどはたくさんあっていちいち書くにも及ばないと思われるが、全体としての製造クオリティは誰がどう見てもハンブルクが一歩リードしているのは異論を待たない。この点では少し前のメルセデスとキャディラックぐらいの品質の差はあると考えた方がいいだろう。
 
 作り手側の思想としても、全体的に音に直接関係しないところはニューヨーク製は手間暇を省略する傾向があり、コンサートグランドでも鍵さえない(一時期ついていた時代もあるが)とか、ハンブルク製ではサイドにある大屋根を留めるL字状の金具もない、あるいはボディ内側の木目の化粧板も貼られないなど、全体に質素な印象となるのは免れないだろう。
 ちなみにボディ内側垂直面の木目は、ハンブルク製は戦後から1960年初頭あたりまでの十数年間は無かったが、その後は復活して今日に至っている。いっぽうニューヨーク製は一度もこれがつけられた時期はなく、外装が木目仕上げの場合はこの限りではないが、黒のピアノだとフレーム以外は外も内も黒一色で、もう少し華やかさがあってもいいような気がする。
 
 ボールドウィンやメイソン&ハムリンなどにもボディ内側の木目はないから、もしかするとアメリカピアノの伝統的な流儀なのかもしれないが、現在では中国製のピアノでもこれはあるから、もはやそれ無しを貫くのは稀少な存在とも言えるだろう。
 
 これ以外の違いをいうと鍵盤両脇のボディ腕木の形状(丸形と角形)の違いや、大屋根のつっかえ棒の形状、ペダルの金属プレートの有無、大屋根内側の補強棒の数などがあるが、基本的な設計や寸法は同じである。
ただしピアノのような図体は大きいけれども精密機械の場合は、ほんとうに細かいことの集積によって全体が成り立っているので、設計は同じでも両者の個性がかなり違ってきている。
 とは言っても、基本的な音の構成は同じだから、両所のスタインウェイ同士をくらべると違いがあるけれども、他社のピアノと比べたときの違いとなると、これはもう根本的な違いというか、まったくの別物になるわけである。
 
 全体の佇まいとしては、ニューヨーク製はまさにニューヨーク的なシャープでスタイリッシュな印象で、いかにも小股の切れ上がった秀逸なデザインといえるだろう。ちなみにスタインウェイの廉価版であるボストンやエセックスのエクステリアデザインのベースは、角ばった椀木や大屋根のつっかえ棒・譜面立ての形状などを見てもニューヨーク・スタインウェイであるのは明らかだ。
 
 この点でいうと、ハンブルクの外観はいかにも常套的なピアノデザインの文脈に貫かれており、そこにはいかにもドイツ的な落ち着きと機能美が備わっているから、このハンブルクのスタイルがのちに世界的なピアノのデザインの標準になっていった気がする。ちなみにヤマハやカワイも、デザインのルーツはハンブルク・スタインウェイであることは疑いようがないし、とくに昔のカワイのグランドなどは、ほとんどそのコピーに近いような姿をしている。
 
 スタインウェイのことを取り扱った本によると、作り込みの丁寧さではハンブルク、材質の良さではニューヨークというのがおおまかな結論のようでもあるし、それは現物に触れても概ねそのような印象だ。
 マロニエ君の経験でも、たしかにニューヨークのほうがボディの材質は良いのではないかと思われることがあるし、ある有名な塗装技術者の談によればニューヨークスタインウェイは再塗装のために古い塗料を落とすと、そのまま黒を吹き付けるのが惜しくなるような美しい木目が出てくるという話を聞いたことがあり、実際にそれで黒に塗り潰す予定を変更して、素地の良さを生かした木目に仕上げたということもあるらしい。
 
 また、両所のD型を例にとると、大屋根の内側に取りつけられた補強棒はハンブルクが2本なのに対してニューヨークでは実に4本となっている。ひとつにはアメリカのほうがピアノの上に人が乗ったりと、扱いそのものがいささか乱暴な国柄ということもあるだろうが、それだけ材質が良いから強度がないということも言えるのではないだろうか。例えば譜面台の上のフタを開くときに手にかかる重みでいうと、若干だけれどもニューヨークのほうがあきらかに軽いのである。ちなみに大量生産のピアノは日本製などもかなり重いが、これは木の重さではなく専ら合板にするときの樹脂や接着剤の重さが加わったものだから、軽い方がより自然な材木に近いものだと想像できる。
 ただし音色からひとつだけ感じることは、唯一ハンブルクのほうが材質がいいのではないかと思われるのが響板で、それがあのハンブルク独特のこくのある音色を作り出しているような気がする。ちなみにハンブルクの響板は北ドイツのスプルースであったらしいが、これもごく最近では統一されているというから、すでにその差は無くなっているというわけだろうけれども。
 
 さまざまな合理化も進められているようで、そのすべてが悪いことばかりでもなく、最近では良い意味での機械化の導入で工作の精度が上がったり、両者のパーツが共通化されたりと、いろいろな変化が起こっているようで、そこにも一長一短があるようで、今後はそれぞれどんなピアノになっていくのかは見守るしかないだろう。
 ただし声を大にして言っておきたいことは、なんでもかんでも手作りが最良というわけではなく、無数のパーツの製造や組み付け等に機械が導入されることで、均等な優れた工業製品が出来るという一面があることも忘れてはならないという事だろうし、とりわけアクションなどはその最たるものではないだろうか。
 
 最後にサイズのことに触れておく。
 ニューヨーク、ハンブルク両所で生産されるモデルはほぼ同じで、奥行きの長さで言うと、小さいほうからS=155cm、M=170cm、O=180cm、A=188cm、B=211cm、C=227cm、D=274cmとなる。
 ただし、C型は戦後のニューヨークでは生産されていないし、少し前まではO型はハンブルクのみで、このサイズに相当する機種はニューヨークではL=179というのがあったが、現在はO型に統一されている。
 
 このサイズを見てちょっと奇妙に感じるのは、AとBでは大きさがいきなり23cmも開いてしまうことで、ヤマハやカワイでいうところの5サイズモデルが存在しないのはラインナップバランスからするとちょっと不自然である。
 この点は、実は戦前のニューヨークにはA3という奥行き200cmのまさにそこにすっぽりはまるモデルがあったのだが、もう長いことカタログから落ちてしまっている。
 あるピアノ店店主の証言によると、このA3こそはコンサートグランド以外でのスタインウェイの最高傑作であったらしく、その完成度の高さにはまったく目を見張るものがあったのだという。スタインウェイ社自身も予想しなかったほど素晴らしいピアノだったそうで、これが存在していると逆に看板商品であるBが喰われてしまう恐れがあり、だから生産を中止したに違いないとの見解だった。マロニエ君も少しだけ触れたことがあるが、たしかにバランスがよく、Bにくらべてなんら遜色ない素晴らしいピアノだったことは記憶に残っている。
 このA3についてはハンブルク製の存在は聞いたことがないし、おそらくニューヨークでのみ生産されたようであるが、その点は確認はとれていない。
 
 スタインウェイ社は、表向きは昔ながらの職人の手作りを貫いていると標榜しているが、実際に長くスタインウェイピアノに触れてきた技術者の話によると、最近は良い意味での機械化の恩恵でパーツや組み付けの精度が上がり、工業製品としての品質はよくなっているとのことだった。しかし、それとひきかえに材料や一部工法の変更による質の低下は否定できず、その精度向上をもってしても性能の低下分には差し引きで追いつかないようである。そのあたりの焦りからか、突如として奇妙な仕様変更などをしたかと思うとユーザーや技術者の猛反対にあってまた元に戻すなど、いろんなことをやっているようで、さしものピアノ界の覇王も安閑とはしていられないご時世のようだ。
 
 なぜこのようなことになるのかといえば、それは企業体として利益を追求するためで、そのためには出来るだけ安く効率よく安定した製品を作って、一台でも数を多く売るという命題があるからにほかならない。
 欧米や日本のような成熟経済の国では販売は横ばいなので、今後は中国や南米、アフリカなどに期待がかかっているのだそうで、企業としてはそれが正道かもしれないが、ものはなにしろ世界最高峰のピアノなのであって、その期待に応えるべき極上のピアノを求める我々の心情からすれば、深いため息が出るばかりである。
 
 ピアノメーカーなんぞ吹けば飛ぶような零細企業でも構わないから、むかし通りの特別なピアノを少量作る誇り高いメーカーであって欲しいと願うのは、われわれの単なるロマンなのかもしれない。しかし音楽や芸術はそもそもロマンを描き出す心情なくしては成り立たないものでもあると思うのだが。

コンクールのピアノ

 若い無名のピアニストにとって、国際コンクールへ挑戦して目覚ましい結果を出すことは、世界へと躍り出る最も実際的なチャンスを掴む出発点となるように、ピアノメーカーにとっても著名コンクールで公式ピアノに認定され、最良の楽器を提供することはきわめて大きな意味があるらしい。
 さらにはそのピアノをコンクールのステージで弾くコンテスタントの数や頻度や割合、そして最終的にはその勝敗結果までもが、メーカーにとっても大きな勝負の場であることはまぎれもない事実のようであり、そこに繰り広げられる各メーカーの意気込みは生半可なものではないようだ。
 
 以前マロニエ君は、国際コンクールはピアノメーカーにとっての「ピアノのワールドカップ」と書いた覚えがあるけれど、やはりそれは間違いではなかったようだった。
 先日をちょっと話をしたメーカーの営業マンは、何度か「国際コンクールで使われているお陰で…」というフレーズを使っていたのが印象的だった。こういう事実は末端の営業現場や社員の意識の中でも、有形無形の効果を上げているものと思われる。
 
 例えば昨年のショパンコンクールではスタインウェイ、ヤマハ、カワイ、ファツィオリの4社が公式ピアノと認定されていたが、これにより、漠然と現在の実質的な最先端ピアノメーカーは、要するにこの4社だという印象がなんとなく出来上がったのではないだろうか。その他にも一流メーカーはあるけれども、大舞台で戦える諸要素を兼ね備えているのは、現状ではこの4社であるというように。世の中はえてしてそういうイメージを持ってしまうものだ。
 
 ショパンコンクールでのピアノ選びはその4社だから、マロニエ君は単純に4台の中から各人がチョイスするものと思っていたところ、たしか本で見た記憶によると、ピアノ選びに供されるピアノは実に7台だそうで、そこに添えられていた小さな写真を見ると、ワルシャワフィルハーモニーのステージは大屋根を全開にされたコンサートグランドが所狭しと並べられ、さながらピアノの展示場のような様相であった。
 ショパンコンクールでは、伝統的にスタインウェイはホール備え付けのピアノが使われることになっているのだが、他社は選りすぐりの逸品をこのためにずいぶん前から準備して持ち込むのだから、スタインウェイだけがただ単にホールのピアノを奥からゴロゴロ出してくるなんて、俄にはとても思えない。ピアノメーカーにとって、この上ない真剣勝負という場であることを考えると、ただのホールのピアノなんて額面通りには受け取れないから、もしかしたらコンクール開催に合わせてホール側が買い入れているという裏事情もありそうな気がする。
 
 実際に昨年のショパンコンクールに出向いて、一次から決勝まですべてを聴いたという知人から、マロニエ君はCDを拝借してこれを連日連夜聴き通した時期があった。ちなみに会場では毎日のように、前日の演奏が一枚のCDにまとめられ、これを来場者に配布しているというのだからその手回しには驚く。知人が持ち帰ったのは配布されたらしい20枚中、決勝最後の3枚を除く実に17枚に及ぶCDであった。
 その印象を簡単にいうなら、もはやどのピアノも甲乙付けがたい一級品というべきで、たとえどれを選んでもそれによる決定的な有利不利はないように思われる。マロニエ君の独断と偏見で言えば、もっとも中立的で偏りがないのはカワイ、旋律に華や輪郭があるのはヤマハ、絢爛とした輝きはファツィオリ、そしてスタインウェイはあくまでスタインウェイだが、昔よりも器が小さくなっていることは否めない。
 
 聴いていて、ある意味でのピアノらしさを感じたのは意外にもカワイとヤマハで、その逆はスタインウェイだった。スタインウェイがピアノらしくないという意味ではまったくないけれども、少なくとも個々の音の粒や色艶を楽しむというより、全体的なトーンとして聴かせるピアノだとあらためて思った。もっとも音響的で管弦楽的であるから、ピアノとしずかに向き合って、しみじみと私的な時間を味わい噛みしめるといった向きの要求には応えきれないかもしれず、このピアノはやはり生まれながらの華と品格を併せ持つ舞台俳優のようなもので、あくまでの鑑賞者の耳に届く音の在り方を前提として設計製造され、そこにすべての照準が合わされているようだ。
 もとよりコンクールのピアノがあまりに私的内省的では困るけれど、そういう一面を僅かでも感じさせ得るかどうは重要な点であるといいたい。
 そういう点で、スタインウェイが本当にショパンの音楽に潜む内的表現に向くのかと突き詰めていけば、究極的には疑問が残るが、それを言い出したらファツィオリなど、さらにその上を行く豪華絢爛を目指しているようでもある。ファツィオリの音を聴いていると思い出すのは、以前、スカラ座の舞台でフランコ・ゼッフェレッリの眩いばかりの装置によるトスカやトゥーランドットが大きな注目を集めた折に、ある大物批評家が「あまりにも舞台が豪奢に過ぎて、その精神はプッチーニの意に反するのではないか?」という疑問を呈したことがあったが、そういった楽曲との違和感をファツィオリには感じる。
 ファツィオリとヤマハは、音そのものは大変美しく華やかだが、海でに喩えると色彩の見事に比して「水深」が浅い感じがする点と、音にもうひとつ明確な個性がないところが共通しているような気がする。
 
 カワイはどこも悪くないんだけれども決め手がないというか、不思議なくらい、これだというなにか心に残るものがない。いわゆるオーラがないキャラクターだろう。ヤマハの新型はなかなか純度の高い美しい音を出すけれど、その鳴り方や反応の良さには、どこか優秀な小型グランドのような印象があり、少なくともコンサートグランド特有の量感や芳醇があまり感じられない。ショパンとの相性ということに限って言えば、いかにも磨き抜かれた美音ではあるが、惜しいことには憂いがない。
 
 現代のピアノの欠点は、ステージでの華やかさを意識し、オールマイティを旨とし、総合点平均点を重視するあまり、無傷の造花のような美しさにばかり傾きすぎているような気がする。
 概して芸術の構成要素には暗い悲しみをたたえた理不尽さとか、陰陽が常に対をなしているのであって、笑いの絶えない陽気で幸福な場所にだけ芸術の花が咲くなんてことのほうが、ほとんど稀である。
 そんな芸術作品を奏でるのに、あまりにあっけらかんとした、子供の肌みたいな意味の美しさばかりをピアノの音に求めること自体が少し間違っているのではないだろうか。
 
 
 さて、先日まで読んでいたジョーゼフ・ホロウィッツ著「国際ピアノコンクール」という本に出てくる話としては、1989年のヴァン・クライバーン・コンクールの様子が克明に描かれている。何事においてもクライバーン・コンクールはピアノコンクールの中では突出してあらゆる要素の規模が違うようで、そこがいかにもアメリカという豊かな国の面目躍如というところかもしれない。そのピアノ選びに供されるのは実に8台で、参加者1人あたり使用ピアノを決めるのに1時間が割り当てられ、これが終わるだけでも一週間を要するというのだから、なんとも気の長い話である。
 
 その1989年開催における8台の内訳は、クライバーン財団所有でクライバーンが自ら選んだニューヨーク・スタインウェイと、同じくクライバーンがロンドンで選んだハンブルク・スタインウェイ、さらにはニューヨーク本社から届けられるもう1台のスタインウェイ、それに、ボールドウィン、ベヒシュタイン、ベーゼンドルファー、カワイ、ヤマハという陣容だそうである。当時はボールドウィンが参戦しているところがいかにもアメリカと言うべきだが、それにしても圧巻である。
 
 ちなみにクライバーン財団の2台のスタインウェイは、クライバーン・コンクールの正式な技術員(クラヴィーアバウマイスター)を勤めているというラパポート夫妻という技術者によって管理されているのだそうで、残りのピアノはそれぞれメーカーの技術者が担当したらしい。このコンクールにかける各メーカーの意気込みは大変なもののようで、例えばカワイなどは1台のピアノのために5人の技術者(うち3人は日本から)を派遣したというのだからその力の入れようがわかるというものだ。にもかかわらず、このときはカワイ(だけではない)を弾く出場者はいなかったというのだから、まさに努力と忍耐と屈辱の世界でもあるようだ。
 
 実際に本選で使われたのは、39人中、ラパポート夫妻の管理下におかれていた2台のスタインウェイが実に29名に達し、残りの6人がニューヨークからメーカーが持ち込んだスタインウェイを選び、3人がヤマハ、1人がボールドウィンというもので、ベヒシュタイン、ベーゼンドルファー、カワイを選んだ者はいなかったらしい。
 それにしても、ここからもわかる通り、このラパポート夫妻が手がける2台のスタインウェイの圧倒的な人気には驚かされるばかりで、メーカーの送り出したピアノ&技術者も及ばなかったというわけだから、よほど素晴らしいピアノなんだろう。
 コンクールには表沙汰にはできないいろいろな噂も飛び交うから、穿った見方をすれば、このクライバーン財団の2台のスタインウェイを使ったほうが有利だというような裏情報と動きがあったのでは?とも思わなくもないが、しかし一昨年の2009年では辻井伸行氏が一貫して弾いたのがやはりクライバーン財団のスタインウェイだったけれど、たしかに良いピアノだったという印象は今でも持っているから、やはりそれだけの弾き手が選ぶに値するピアノなのかもしれない。
 
 そう思うと、やはりピアノはいつもながらいうように、管理者・技術者の果たす役割がいかに甚大であるかということを裏書きしたことにもなるだろう。「氏より育ち」という言葉もあるが、ピアノは氏だけでも育ちだけでもダメで、両者が高い次元で見事にバランスしたときにしか最良の結果は生まれない。
 
 さて、そのコンクールにおけるピアノメーカー各社の熾烈な競争であるが、記述によると、各メーカーからは主催者に対してものすごい圧力がかけられるらしい。この本によれば、このときのクライバーン・コンクールには、ピアノメーカーがすべて無料で、実に20台ものピアノを持ち込んできたというのだから、その意気込みにはさすがの主催者側もたじろいでしまうだろう。
 それを責任者の判断で総数を8台に制限し、財団の2台のスタインウェイは外せないから、残り枠は6台ということになったらしい。
 ちなみに8台というのは、ステージにピアノを並べて出場者にピアノ選びをさせるには、物理的にそれが限界だったからというものだそうだ。
 
 ちなみにコンクールには、多くの政治的、人脈的、その他様々な事情が複雑に絡み合っているらしいことは、古くから良く知られていることである。使用されるピアノもそれらの要素から解放されることはむろんないわけで、演奏者が本当に純粋に好みの楽器を選んでいるかどうかも疑わしいのではないか。
 だいいち、出場者の事前の訓練そのものも、主観や個性を出さず、選曲からなにから、すべての事柄をコンクール仕様に仕上げてくるわけだから、ショパンだけを演奏するショパンコンクールは別としても、その他のコンクールでは課題曲の選択範囲も制限があるし、その中で同じ曲を20人も弾くものがあるかと思えば、ひとりも弾かないようなものがある。
 これは好みが偏っているというよりは、審査基準に有利に働くための選択なのであって、だから逆にあまり知られていない現代曲などを弾く場合も、審査のために有利と見た場合が多いらしい。
 
 ちなみにブラームスのコンチェルトは選択範囲には入っているものの、現実的には審査員・聴衆ともに時間的に長すぎて飽きられてしまい、その時点で不利になるから誰も弾かないらしい。
 
 誰も彼もがこうした基準で動いているのだから、当然ながらピアノ選びも、審査に有利という点で中には不本意でもスタインウェイを選ぶような人もあるような気がする。
人間は予備知識に弱いから、スタインウェイを基準にするなら、他社のピアノを弾くコンテスタントに対しても、それだけですでになんらかの固定観念をもって聴いている可能性もないとはいえないだろう。
 
 マロニエ君の理想としては、国際コンクールでは、ピアノはできるだけ多くのメーカーの参入を認めて、その種類を増やすのがいいと思う。ただし予断を許さないためにも、鍵盤蓋やサイドのロゴマークは黒いシートでも貼りつけて、すべて隠しておくのがいいのではないかと思う。それもわかる人にはわかるのは仕方がないが、すくなくともそれで演奏と音に集中できるというものだ。ピアノにはすでに有名なメーカーとかブランド性みたいなものがあるので、そういうものに左右されないで演奏を聴くことが出来るようにすることがフェアなやりかたではないかと思うのだが。
 
 昔のピアノの品評会やコンクールの中には、ピアノごとカーテンのようなものの中に隠して、音だけを聴いて審査員が純粋に判断するというのがあったらしく、想像するといささか滑稽な気もするが、これはこれでひとつのキッパリした方法だと思われる。
 
 ただし通常の国際コンクールでは、ピアニストとしての資質も評価されるのだから、演奏する姿まで覆い隠すのはどうかと思うけれども、まあせめてピアノのロゴマークぐらいは隠してもいいのではないだろうか。ショパンコンクールなどでは、コンテスタントの名前や出身国などをアナウンスする度に、使うピアノのメーカーまでマイクで発表されているが、果たしてそれは本当に必要なことかどうかマロニエ君にはわからない。
 
 尤も、現実的にはいろんなビジネスとしての事情も深く関わっているだろうから、ロゴマークを黒いシート隠すなど、とてもじゃないが、そこに命をかけているメーカーはどんな奥の手を使ってでも承知しないだろう。
 あるメーカーなどは、会場関係者の制止を振り切って、開演寸前に現地スタッフが大きなロゴマークをピアノの側面に貼るために駆け込んだりするらしいし、別のメーカーもここ2年ぐらい前からカメラがピアニストの顔を狙う角度にメーカー名が映り込むよう、フレームの垂直面にまでわざわざメーカー名を入れるというような露骨なことまでやっており、もはやここまでくると宣伝も行き過ぎでうんざりという気がする。
 
 現代のような消費社会においては、大きな物事をビジネスの要素抜きで進めることは不可能なのかもしれないが、もう少し本質を見失わないゆとりが持てないものかと思うばかりである。
 同時に、その激戦の中に、日本のピアノが二社も入っていることは大変なことだと思わないわけにはいかないだろう。日本人が、明治から西洋音楽というものをはじめて知って、まったくのゼロからスタートしたことを考えると、楽器造りほど伝統や土壌がものをいう分野において、これはまさに奇蹟に等しい気がするのである。

アメリカのスター崇拝

 かつてアメリカのピアニストをダメにしたのはホロヴィッツの存在といわれた時期があった。これはまだホロヴィッツが存命中の話である。現在只今はどうだかわからないが、まあ多少はもう影響力は薄まったことだろう。
 
 ホロヴィッツが生きているころの彼の存在といったら、それはもう尋常なものではなかったし、とりわけアメリカでは神にも匹敵する存在だったような印象がある。19世紀のヴィルトゥオーゾがそのまま現代に姿をあらわしたがごとく、神秘のベールに包まれたホロヴィッツの動静はたえず人々の関心であったように思い出す。
 アメリカで生まれ育ったあらゆるピアニスト、さらには学生やピアノ学習者までもが、このカリスマの存在とその魔性の演奏から、何らかの影響を受けなかった者はいないとまで言われていた。
 人々は、ホロヴィッツの演奏を通じて、ホロヴィッツ自身はもとより、その背後にうっすらと透けて見えるラフマニノフやアントン・ルビンステイン、ハデレフスキー、ホフマンなどのあの黄金時代の空気を生々しく嗅ぐことまで同時にできたのだろうと思う。ホロヴィッツはそんなカリスマによる歴史的な時代そのものを、自らの強い存在感と魔性によって、20世紀の終わりまでそれを体現することのできた唯一人だったに違いない。
 そんなスーパースターどころではない魔力の影響から完全に遮断されるなんてことが、当時のアメリカのピアノ界でできただろうか。生きたホロヴィッツがいる、それだけでアメリカのピアノ界は世界に向かって燦然たる輝きを放っていた。こんな人は現在は一人もいないのはいうまでもない。
 
 そして、もうひとりのスーパースターがヴァン・クライバーンであろう。いまある本を読みながら、つくづくと感じるところがあるのである。その本自体は20年以上前に書かれたものだから多少現在とは内容が異なる部分もあるとは思うが、当時のクライバーンコンクールを中心にした入賞者の悲喜劇が綴られた本で、冷戦構造の緊張の中、モスクワの地で開催された第1回チャイコフスキーコンクールにおいて、まったく無名であったアメリカの田舎出身のヴァン・クライバーンという純朴な青年が優勝の栄冠を勝ち取ることになる。微妙な米ソの政治バランスまで絡む中に誕生したピアノのヒーローは、いらいシナトラかプレスリーのようなスーパースターとして祭り上げられ、アメリカはその後数十年間にわたって、クライバーンの劇的ドラマからも計り知れない影響を受けたという確信を持つに至った。
 
 クライバーンコンクールが世界の名だたるコンクールの中でも際立ってアメリカ的ゴージャスの異彩を放っていることは、ご存じの方も多いだろう。
 国際ピアノコンクールとしての純然たるレヴェルも今やトップクラスのものとなっているが、1962年に始まったこのコンクールは、開催地をあえてニューヨークにせず、テキサス州ダラスのすぐ側に位置するフォートワースという牛の町で開催されることになる。ここで開催されるようになった理由は、コンクールの運営をアメリカの富裕層からの資金提供で賄うため、意図的にそういう層の多いダラスやフォートワースとなったらしい。
 時代も良かったものと思われるが、この地にはアメリカの石油産業、航空産業、そしてなにより畜産業が集中しているために非常に経済的にも豊かな地域とされているらしい。強力なリーダーシップのある有志の呼びかけに、地元の多くの財界人が呼応するかたちでクライバーンコンクールはスタートを切る。
 
 ホロヴィッツという神が君臨しているとしても、やはり彼は出自が亡命ロシア人であり、アメリカのコンクールの大看板としては、ピアノのアメリカンドリームとでもいうべきアメリカ生まれのアメリカ育ちの純朴な青年であることのほうが望ましく、だからこそこういうコンクールが立ち上がったのはいうまでもないだろう。
 このピアノの一大スター、ヴァン・クライバーンの名の元に、ピアノの国際コンクールがいわゆる地元あげての大イベントになった。一説によるとクライバーンがチャイコフスキーコンクールに優勝してアメリカへ凱旋帰国してほどなくして、やはくもこのコンクールの構想があったというから驚くが、このときのアメリカ人の熱狂のほどが伺える。
 
 運営の鍵を握ったのは、地元の大富豪などで組織された財団であり、当時から破格な賞金や参加者への歓待ぶりなどは、世界の他のコンクールの追随を寄せ付けぬ圧倒的なものがあったようである。すべての面で豊かで明快なアメリカを地で行ったコンクールだといえよう。
 フォートワース市をあげてのイベントとなったクライバーンコンクールは、それまでクラシック音楽など聴いたこともない人達までを巻き込んでのお祭り騒ぎとなっていくのに大した時間はかからなかったという。開催期間中連日連夜にわたって開かれるレセプション、パーティ、関連イヴェントなどは際限もなく続くのだそうで、審査員などはもちろんお付き合いをこなすだけでもヘトヘトらしいし、ときにはコンテスタントでさえも例外ではないようだ。
 ところが、それだけのお祭り騒ぎにしては、肝心のコンクール会場はとくに前半などはホールに空席が目立ったりするらしく、ショパンやチャイコフスキーのように連日大入満員というわけでもないようである。要するに地元で開かれる世界的コンクールというイベント性ばかりが一人歩きして、クラシック音楽に対する真の意味での関心や理解はやや追いついていないのかもしれない。
 
 以前、なにかの雑誌に中村紘子女史が書いていたけれども、このコンクールは要するにピアノなどに興味のない地元の富裕層にとってのお祭りイベントという側面が強いのだそうで、コンクールの運営に携わる幹部クラスの女性が、当時の審査員の一人だった世界的ピアニストのワイセンベルクが通りかかるのをみて「あの人だれ?」と傍にいる人に向かって聞いたそうだ。「ワイセンベルクよ!」と答えると、その女性は「何をする人?」と言ったのだとか。
 
 ともかく万事がこんな調子らしいけれども、それでも地元の熱心な支えによってこのコンクールはともかく大きく成長したことは間違いない。そのエネルギーの源は「地元からスーパースターを生み出したい」という無邪気な思いと、入賞者へ与えられる賞のアメリカ式物量にも追うところが大きいのではないだろうか。
 優勝者への賞金もさることながら、それどころではないのがその副賞で、2年間にわたるアメリカ国内およびヨーロッパを始めとする海外へのコンサート出演がまさにそれで、いかにもアメリカ人の好みそうな輝ける成功物語の幕開けといったところであろう。
 
 そのコンサートというのが数量においてハンパなものではなく、昨日までただの音楽学生だった若者が、一夜にして演奏のために東奔西走する生活に突入、向こう2年間これを送らなければならなくなるのである。
 それまで経験したことのないような過密スケジュールの真っ只中にいきなり投げ込まれ、ホテルからホテルを渡り歩く根無し草のような生活を強いられることで、練習する時間もなく、中には精神的にもボロボロに消耗してしまうピアニストが何人もいたということだから、これはいかに豪快なアメリカといえどもちょっとやり過ぎではないだろうか。
 この本によると2年間で実に300回という途方もないステージが与えられ、うち50回がオーケストラとの共演というから尋常なものではない。
 気前が良いといえば違いないが、そこには本物のピアニストを育むという面での深さや地道さがなく、何事も派手な大スターを好むアメリカ人の単純思考が裏目に出た結果ではないだろうか。
 
 これは世界的な売れっ子ピアニストが自然にそれだけの数をこなせるよう、精神面、経験面、レパートリーの面で、それに耐えうるだけのスタミナを着実に身につけた上でならいざ知らず、ひと月前まで学生だったような若者にいきなりこういう生活を強いるのはいくらなんでも行き過ぎだと言うべきである。
 もっと言うなら、充分に経験を積んだ人気ピアニストでも、これだけの回数を消化するとなると当然演奏の質は落ちるはずで、本当に心ある芸術家は自分の演奏クオリティを維持するために活動量を厳しくセーブしている。ましてや若い修行中のピアニストなのだから、その芽は大切に育てていくべきであるが、そのあたりはコンクールの運営サイドにはなかなか理解されないのだろう。
 
 そういう意味で、これはあまりに仕組まれたピアノのアメリカンドリームが空回りしていると言わざるを得ない。コンクールが若い優勝者へ、ピアニストとしてのチャンスをつくってやって世界への扉を開くというのももちろんウソではないだろうが、それにしてもここまで極端なことをする必要がどこにあるのか…以前はわからなかったけれども、この本を読んでいると、べつに書いてあるわけではないが、しだいにその真相が見えてきたような気がした。
 
 それは「あの夢をもう一度」、クライバーンのような歴史的なスターを、こんどはアメリカのコンクールから世界へ送り出したいという財団やアメリカ人の願望ではないだろうかということ。
 かつてのヴァン・クライバーンはチャイコフスキーコンクールの優勝によって時のアイゼンハワー大統領は狂喜し、帰国後は宇宙飛行士並みのパレードがおこなわれ、この優勝によってクライバーンの生活は文字通り一変し、人々が熱狂するロック歌手並みのスーパースターへと祭り上げられたわけであるが、アメリカ人はこの手のことがとにかく好きなのであろう。
 若い才能あるピアニストを育てるという、真っ当な芸術文化への貢献というよりは、自分達も熱狂できる「あの夢をもう一度」の精神がこのコンクールを動かしているような気がしてならない。
 
 その結果、優勝を勝ち得たその途端、待っているのは怒濤のような過密スケジュール、以前では考えられなれなかった有名オーケストラとの相次ぐ共演、メディアからの取材等々、これはアメリカ人が大好きな成功物語の筋書きそのものではないか。ピアノじゃないが、こんなスター誕生のくだりは何度か映画で見たような覚えがある。
 コンクールの優勝者をよってたかってスーパースターに作りあげようという、ある意味、ショービジネスに手慣れたアメリカ人特有の気質そのものみたいな方法論があるようで、金と力による物量もってすればそれが可能だと思っているような奢りを感じるのはマロニエ君だけだろうか。
 クライバーンやホロヴィッツが勝ち得た人気には当人達のピアノを弾く能力もさることながら、彼らが持っている資質やカリスマ性、背後にある社会のドラマなどが偶然に絡み合った末に出来上がったものであって、こういうことは仕組ん祭り上げたからといって出来ることではない気がするのだが。
 とりわけピアニストは受ける評価も厳しく、クラシック音楽そのものがいわゆるショービジネスとはやや趣の異なる面があるために、社会のほうでもそう簡単に大スターとして遇してくれることはなかなか難しいだろう。
 
 これが見事に裏目に出たものか、クライバーンコンクールからは逆にこれというピアニストが出ないと陰口をたたかれる時期がずいぶん長いこと続いてしまったようだが、それはピアニスト本来の意志とは無関係に仕組まれたスケジュールを消化することだけで精一杯という、本質を置き去りした結果ではないだろうか。
 こういう実績の伴わない必然性のない苛酷で分不相応なスケージュールは、却って若い才能を枯らしてしまうことになりかねないし、だいいち当のクライバーン本人もチャイコフスキー優勝後はあまりのスーパースターぶりに自分の才能も精神もすり切れさせてしまって、ながらく悲痛な時期を過ごした。本来のピアニストとしての実のある活動が、すっかり出来なくなって、長いこと隠遁同然の生活に転落してしまったことは有名である。
 
 それでもなんでも、アメリカという国はスターを製造しては騒ぐのが根っから好きで、これは音楽がどうとか個人がどうという価値を超えた、ほとんどあの国の人達の体質なのだと思われる。
 自然に子供を授かるのと同じように、スーパースターの出現も過度に人工の手を加えたりせず、ある程度自然の成り行きに任せた方がいいような気がするが、彼らの頑なな思い込みには通じないことかもしれない。きっとショービジネス界の裏側にも通じた彼らは、何度失敗しても、それ自体に魅力があって懲りないのだろう。
 
 ヒーロー崇拝がアメリカの特徴というのはわかるが、音楽芸術の面にまで、あまりに表面的なヒーローを求めすぎるのは、かえって稀有な才能を潰してしまうことにもなりかねないだろうし、近ごろではそんな風潮がアメリカ以外にも広がりつつあるのを感じて、暗澹たる気分になる。
 最近話題のランラン、ユジャ・ワン、ブニティアシヴィリなどはアメリカではないけれども、見ていて首を傾げるばかりで、どうみても現在の地位が彼の実力に応じたものとは思えない。というか、彼らはピアノの、つまり指のアスリートではないか。その運動能力の優れた者の中から、スター性・話題性を備えた者が目をつけられ、商業主義の強力な後押しを得ているという気配が背後に見えて仕方がない。
 
 クライバーンコンクールでは、一昨年の同コンクールで優勝を果たした辻井伸行氏が、このアメリカのコンクールの副賞義務をどうこなしたのかはマロニエ君は知る由もないけれど、たしかに昨年の末頃にテレビで観たリサイタルの様子では、多少荒れ気味な印象だったのが気になったことを思い出さずにはいられない。

ネット購入のミスは

 ネットでの音楽ソフト購入に関して、甚だ納得のいかない思いをした。こういう事を書くのはどんなものかとずいぶん迷ったけれども、同様の事態を少しでも招かぬよう他者へ警告をしたいという思いもあり、ありのままを書いてみることにした。
 
 マロニエ君はCD購入に関しては店頭とネットの二本立てであることは以前述べたことがあった通りである。
 過日、いつものごとくCDなどと同時購入としてDVDを2点注文していたが、届いた商品のうちのひとつはブルーレイ版であった。
 注文履歴を確認すると、たしかにマロニエ君のほうが注文じたいは間違っていたようである。
 それというのもDVDとブルーレイはパッケージの写真も全く同一であったことと、他にも6点ほどを同時に注文をしていたので、つい注意が散漫になってしまったことが原因だと思われる。
 まずこの点がマロニエ君の不注意だったというのは間違いない。
 
 ホームページ上には「返品・交換」という項目があるから、ただちにそこへ入って、その理由を明記してDVDへの交換を希望し、差額については別の商品を購入するなどして追加料金も支払うつもりであることも付記した。もちろん商品は未開封である。
 ところが、数日経って届いた返信によると「不良品以外の返品・交換は一切受け付けていない」というにべもないもので、その冷淡な字面を見たとたんに強い不快感に襲われた。併せて書かれているところによれば、せめてものお情けのごとく、購入者側が「誤って重複注文」の場合に関してのみ、ギフト券での払い戻しに応じるが、その際は手数料600円也が発生するという内容であった。ちなみに今回の場合は上記の通りの事情で、重複注文ではない。
 
 生鮮品の類でもない、未開封・未使用の音楽ソフトの新品が、いったん購入したが最後、返品・交換できないというのは俄には納得できないものだった。
 
 電話で事情を聞こうにも、最近の企業というのはなかなか電話番号を書いていないのが通例なのはいうまでもなく、この点からしてその一方的なスタンスが見え隠れする。
 ここも同様だったが、なんとかそれを突き止め直接事情を聞こうと努めたしだいである。
 電話にも「只今混み合っている」との音声で門前払いされ、時間をおいて数回挑戦し、ようやく5回目ぐらいに人間がでた。
 果たして電話に出た女性は、さんざんこちらの名前や注文番号を聞いて手許の情報と照らし合わせたあげく、しゃべり出したことはコンピューターのように上記のメールの内容を再度朗読するように繰り返すばかりで、ほとんど自然な会話が成立しないのにはまったくもって驚かされることになる。何を言っても、どういう質問をなげかけても、同じ言葉を繰り返されるから、同じ言葉を繰り返すのはやめてほしい、きちんと問いに対する答えでが聞きたいという意味のことを言っても、まるで喧嘩でもふっかけてくるように、「こちらと致しましては…」という前置きがつくだけで、あとはまたメールと同じ言葉を繰り返すだけで、そのとりつく島のない冷たい対応に驚愕して、その不快感に鳥肌が立つようであった。
 
 言葉使いは丁寧でも、まったく人をナメたような、人を人扱いさえしていないととられても仕方のない、担当女性の横柄な人の情のかけらもない態度だった。そこでとっさにイメージしたのは、昔のSF映画によくある、科学技術の発達と企業の利益中心主義が横行する未来都市、人間性が根こそぎ剥奪されてしまった恐ろしい社会で、人間がゴミのように扱われるシーンだった。
 あるいは、悪質なクレーマーの言いがかりへの撃退と同様の対応をされているようで、この点でも著しい不愉快を覚え、思いがけず精神的にもかなりの不快を受けたことは間違いない。
 
 何をいっても頑として譲らず、あくまで「受けた注文内容に対して正しく商品を送っただけ。だから落ち度はない」というのが向こうの言い分のようである。
 しかし、人間はお互いに生身であり、人は生来間違いは犯すもので、それを完璧に排除するのは不可能だと思われる。ちなみに航空機などの安全設計も、操縦士がいかに厳しい訓練を受けた優秀なパイロットであっても、それが生身の人間である以上は必ず間違いを犯すものだという考え方があり、それを大前提とした設計がなされており、ヒューマンエラーというものを織り込んだ上で物事を合理的に構築することが、互いに共存する社会のありかたではないだろうか。ミスと故意は根本的に違うものであることはいうまでもない。
 
 この点に対してなんらの対処をすべきという思想が欠落しており、売ったものはそれっきりの一方通行で、こんなことで厳しい客商売がよくもやっていけるものだと、憤慨を通り越して呆れかえった。
 ネットというのは便利な反面で、こんな血も涙もないシステムの中へ悪意のない個人が落とし込まれ、情容赦なく処理されていくことには到底納得がいかない。
 このようなことが巷で言われるところの「自己責任」なのだろうか。
 
 ちなみに、この機会にマロニエ君はこの店から過去の購入履歴を見たのだが、我ながらあきれるほどで、自分で言うのも躊躇われるが、尋常な感覚でいうとおよそCDの購入代金とは思えないほどの購入実績があった。しかも、これまでに購入トラブルなどは一度たりとも起こしたことはない。マロニエ君としてはネットに関しては他店にわき目もふらず、専らこの会社から購入を続け、自分なりに一人の客としては可能な限り贔屓にしてきたつもりだった。
 
 こういう実績面も先方はデータから当然把握しているはずであろうが、だがしかし、そのようなことは一切関係ないらしい。なにしろ一にも二にもシステム、システム、なのである。この会社が独自に制定したルールというものがなにしろ絶対で、まるで封建時代の御上のお布令であるかのように、すべての上に君臨しているらしい。
 
 こういう相手といくら話しても時間のムダで、やみくもにこちらの神経が擦り切れるだけだと感じて静かに電話を切った。
 
 しかしどうにも納得できず、市の消費生活センターに電話相談することにした。
 そこでわかったことは、ネットでの商品販売に関しては現在の法律では遅れているのが実情で、要は現状に対して法律のほうが充分ではない面があるらしく、類似した問題が頻発しているとのことだった。
 このことが、相手を責め立てる法的根拠に乏しいということで、電話に出た担当者もまたかというニュアンスを滲ませていた。ちなみに、テレビで有名な通販会社などでも同様のトラブルがひきもきらないのだそうで、何事も表向きのイメージとは異なる裏の現実があるらしい。
 通販に関しては、ようやく2年ほど前にそのための一部法律ができたものの、それは緩いものでしかなく、現実的にはいまだに売る側がかなりの部分を好き勝手にやっているというのが現状らしい。
 とりわけマロニエ君も聞いていて大いに疑問を感じたことは、販売会社側が自分に都合のいいよう一方的に作ったルールだけがまかり通っているというところだった。上記の返品・交換には一切応じないというのも、そういった一方的ルールによるものであることは間違いない。
 
 とくにこの面においては、ネット通販は「特定商取引」というものにあたる由で、これにはクーリングオフの適用もないということだった。そこがまた販売者側には都合のいい点のようで、好き勝手に自分達のルールをお客に押しつけることのできる論拠らしく、返品・交換には一切応じないという強気な姿勢も、その法の適用外にあることをよくよく知り尽くしてやっていることは明白だろう。
 
 要するに通販での販売側の言い分としては、自宅などに訪問して誘導的に押しつけて売ったわけではなく、あくまでも購入者が自らの意志によって決定・購入したのであって、自分達はそれに基づいて販売しただけだから、そこに返品・交換すべき責任は不良品を除いて他は一切ないという論理である。
 今どきの名の通った会社になれば、当然弁護士などとも相談を重ねながらルールを制定しているはずで、ネット通販が特定商取引にあたるということから、そのあたりの義務の有無までじゅうぶん知り尽くした上で、法的義務の発生しないものはは容赦なく切り捨てていることが推察できる。
 
 とりわけ先方の主張を裏付けているところは、ネットには取引上の注意が記載されたページがあり、商品には説明があり(小さいが、CD、DVD、ブルーレイであることなど)、さらにはカートに入れた後では確認画面というものが出るわけで、これを見て購入者が最終確認したはずなのであるから、したがって責任はすべて客のほうにあるのだというロジックである。
 
 しかし、それでも人間には見落とすことはあるし、注意をしていてもミスをするのが人間というもので、その人間を相手に商売をしているにもかかわらず、そこになんら対処の手立てを講じることもなく、むしろ懲罰的なニュアンスさえ漂わせつつ全責任を客側にあると断罪するのであるから、その体質には驚くばかりである。
 マロニエ君に言わせれば、ここは役所でもなければ公的機関の手続きでも何でもない、そもそも民間の物品販売会社による商売なのだから顧客への多少のサービスという意味合いも含めて考えると、そのいかにも高慢でドライな対応には驚嘆した。
 
 それも、実際に会社側がなんらかの損失を被るというのならまだ理解できるとしても、現実的に購入した未開封のブルーレイ版を同じ内容のDVDに交換することが、果たしてどれだけの損害を被るというのだろうか。
 これは損害というよりも、本質的に販売者としての良心や倫理観の問題であり、その手間をすらコストと考えているのだろう。
 
 このような人間性を著しく欠いた商法が堂々とまかり通り、そこに疑問を感じるほうが切り捨てられるか、悪者にされてしまう世の中というのがほとほと嫌になる。
 試しにこの店の、東京の基幹店に電話して聞いてみたところ、店頭販売に関しては、商品が未使用でありレシートがあれば何の問題もなしに交換に応じるという回答であったが、それがまた疑問はますます深まる点なのである。
 なぜ店舗ではすんなり応じられることが、ネットではできないのか。それを聞いてみても、対応に出た人物も答え窮して、現状を詫びるばかりだった。
 
 要するに「会社側に落ち度はない」「それがルールだ」ということばかり連呼するのは、なぜそのようなルールになっているのかという理を尽くした説明のしようがないからであろう。店頭では可、ネットでは不可という矛盾に至ってはいよいよお客には説明ができないものと思われる。その理由とは、要するに法律の違いで、「通販では法的制約が少ないから、それに該当する義務もサービスも切り捨てて、販売側の都合を優先したルールを制定している」というのが真相だから、それはさすがに口にはできないのだろうし、店頭にいる各販売員にそこまでは知らされていないのかもしれない。
 
 仮に「重複注文」という、まるでアメリカの司法取引のような事実とは異なる理由を不本意に認めることで、ギフト券に変更してもらうにしても、そのための手数料600円とはこれまた不可解である。まるで罰則的費用を徴収されるみたいで、これでは一種の報復も同然である。コストというなら、なにかにつけ実際の店舗のほうがコストがかかるのは当然で、高額な家賃や税金・光熱費・人件費など、店を開けているだけでもネットショップよりはるかに高い費用を必要とするのは言うまでもないことである。
 その点、ネット上の処理ならば、いわば担当者の指先の処理だけで、それこそ包装の袋の一枚も要らないはずではないか。
 
 まるで説得力のない話だとしか思えないし、一般の消費者が皆、店頭での購入と通販での購入では、それほど自分に背負わされる義務とリスクが違うということをどれだけ知っているのかと思うが、おそらく知らない人のほうが圧倒的多数だろう。普通の善良な人間にとっての店頭と通販の違いとは、要は購入手段の違いだけであって、その背後にある法律が違うなどとはよもや思っていないはずだ。
 現実には、通販のほうが現物確認しないで買うわけだから、よほど返品・交換の可能性は高いはずだけれども、そこは法の不徹底を幸いに、販売者側は知らん顔を決め込む。
 もちろん会社によっては顧客サービスを重要視するという観点から、自主ルールでもってこれに応じているところもあるかもしれないが、日本は横並び社会だから、大手がそれをすればぞくぞくと他社も追随するのだろう。
 
 言うまでもないけれど、マロニエ君は今後ここから購入する気分は喪失している。
 むろん中にはこれしきのことで目くじらを立てることのほうが可笑しいと判断する向きもあるだろう。しかしマロニエ君としては、自分の好きな音楽とか、それにまつわる買い物について、あまりに過度にドライな世界、気の休まることのない注意ずくめの感覚を持ってこれにあたるなどは、やっぱりごめんなのである。

ピアニストの忘れ物

 数ある楽器の中でも、ピアノ弾きは最も自分の出す音や演奏を客観的に聞いていないといわれる。
 これは言い換えると、音楽家の中ではピアニストが一番耳を鍛えられていない種族ということかもしれないし、アマチュアレベルでもピアノ弾きは他の器楽奏者より、どうも耳が鈍いように思われる。
 
 ただし、ここでいう耳の良さとは正しい音程を聞き分ける耳のことに留まらず、ようするに自分がどれけの演奏ができているかという音楽的、もしくは評論家的な客観的な耳という意味も含んでいる。
 ピアノの音程は専門技術者によって固定されているから、演奏の過程で音程を作る必要がない(できない)上に、アクションという史上最高の打弦機構を備えることで、誰が弾いてもとりあえずピアノの音は間違いなく出るというピアノ固有の特性がもたらした結果であると言えるだろう。
 
 まったくの初心者にとって、管・弦楽器は音らしい音が出せない場所からのスタートとなるけれど、ピアノはタッチがどんなに拙劣でも、よしんば肘で叩いても、出てくる音はピアノの音になっているといういわば最低保証がある。これは鍵盤を押し下げさえすれば直ちにアクションという究極的な発音機構が働いて、その力をハンマーの適切な跳躍運動に変換し、これを機械的に作り出してくれるという他に例を見ない恩恵ゆえであるが、この助けが仇となって音色に対する感性が低くなっているという可能性は否定できない気がする。
 
 また、両手指に背負わされた音数ときたら他の楽器にくらべて突出して多く、それだけでもピアノの演奏は複雑かつ多忙を極めて余裕がないということにもなるだろう。オーケストラに匹敵する多種多様の音符の数々をたった一人でまかなうのだから、考えてみれば曲芸的な演奏形態を課せられているともいえるわけだ。
 
 さらには、ずば抜けて膨大なレパートリーを常に勉強する必要に迫られていること。こうした要素が折り重なって、ピアノ弾きはなかなか自分の演奏を客観的に聞くことができにくい環境に置かれているように思われる。
 ピアノ弾きは根本的に余裕がないのだろうが、それだけに自分の出している音や、ひいては音楽そのものに対する客観性が失われがちな楽器だといえるだろう。よほど積極的に自分の音を聴こうとしない限り、弾くという運動だけにエネルギーを費やして、あとのことに無頓着でいようと思えば、それもまったく不可能なことではない。
 
 そもそもピアノのあの大きな図体をみても察せられるというものだが、基本的に人間は、自分の体より大きなものを使いこなすということには、一部の例外はあるにしても、概ね無理な場合のほうが多いのである。
 そこには自ずと限界というものがあり、自分を見失う危険率がひじょうに高いというべきだろう。
 
 とくにソロなどでは、演奏行為そのものが多忙を極めており、自分の出す音色に耳を傾けたり、音楽の全容に思いを巡らし把握しながら演奏を進めるということは、かなり至難であるのは間違いない。ピアニストは自分の演奏を客観的に正しく判断することが難しく、独りよがりに陥りやすい上に音楽的な耳も比較的鍛えられていないから、仮に録音などして反省点があったとしても枝葉末節の点であることが多く、その判断が客観的に妥当なものかどうかは甚だ疑わしい。
 
 今年の5月に87歳で亡くなられた御大の田村宏氏は、ひと時代前の我が国ピアノ界屈指の名伯楽で、40数年にわたって東京芸大/芸高で後進の指導に当たられただけでなく、ピアニストとしても戦後は盛んに活躍された一人である。
 井口基成、安川加寿子、永井進などと並んで、文字通り日本のピアノ界の一つの時代を作り育て上げた人であることは異論を待たない。
 
 田村氏はとても厳しい教師としても有名で、その教え子の数だけでもおそらく大変な数にのぼることは間違いない。
 マロニエ君が子供のころ、ツェルニーの模範演奏として我が家にあった数枚のLPレコードも田村氏の演奏によるものだったことを思い出すし、とにかく人生をピアノに捧げた氏の功績は大変なものである。
 
 ごく最近、この田村宏氏の著書である『ある長老ピアニストのひとりごと』を読んだが、日本のピアノ演奏が今日のレベルを達成するために、その長い道のりを懸命に駆け登ってきたその時代こそが、氏がまさに現役として生きてこられた時代そのものだった。
 
 氏はピアニストとしての絶頂期にあって、ソロリサイタルを引退し、以降は専ら室内楽と後進の指導に全精力をつぎ込むという一大決心をする。
 この厳しい先生がさすがだと思ったのは、その最後のソロリサイタルを前にして、今は自分が他者からのレッスンを受ける必要があると判断し、自ら同業の井口秋子女史にその指導を依頼する。リサイタルを前に演奏を聴いてもらい、様々な意見やアドバイスを得たということが書かれていた。
 
 こういうことは、ピアノではなかなかないことで、ましてやプロのピアニストで芸大の教授ともなれば、いまさら同業他者の指導を仰ぐなど、まったくゼロではないにしても多くの場合、発想さえないことではあるまいか。
 自意識やプライドの問題はもとより、深い思い込みなど、あらゆることがその必要を認めないのだろう。
 また、一般的なピアニストにしても海外留学を含む修業時代が終われば、あとは自分ひとりで練習してステージに立つというのが当たり前だと思っているようだけれど、これがそもそも表現者としての大間違いである。
 
 その点でも、田村氏はさすがに見識の深い人物で、ピアノ指導界で当時これ以上ないという地位にありながらも、自分がコンサートで弾くとなると、やはり他者の客観的な意見をもとめたということ、その必要があると判断されたことは、この一点をもってもなるほど名にし負う大物だけのことはあると思わせられた。
 
 しかしこれはピアノに限ったことではなく、どんな楽器、どんな分野でも、他者の意見を求めるというのは自分のパフォーマンスの客観的な姿を知る上でひじょうに重要な事なのである。
 
 ましてや、ピアニストが危険なのは冒頭にも書いたように、客観的に自分の演奏と向き合うということが甚だしく難しい上に、人の意見というものに対する謙虚さがどちらかというと欠如しているからである。
 ピアノは他者との交流や協調がなくとも、自分一人で演奏が完結できるという、見方によれば極めて特殊で孤独な楽器ということでもあり、なかなか人の意見や評価というものに慣れていないということがあるように思われる。だが、本当に良い演奏を目指すなら、音楽のわかる信頼できる人に演奏を聴いてもらって意見を仰ぐことは最も重要なことだと思われるし、そういう手間暇をかけることが演奏者としての道義でもあるように思う。
 
 アメリカの作曲家兼批評などの文筆活動をするE.ベイコンも著書「ピアノに関するノート」の中で次のように書いている。
 『君の演奏の技術的判断に対しては、仲間の芸術家の意見を聞け。 君の芸術の判断に対しては素人か、さもなければ、嫉妬よりも成長ぶりに心奪われている芸術家の意見を聞け。 ごく無邪気な人か非情に賢明な人のみが、党派、宗教、同人仲間を越えて真実を告げるだろう。』
 
 海外の一流といわれるピアニストの多くが、常に自分の演奏を然るべき相手に聴いてもらい客観的な意見を求めているというのはあまり知られていないが、どうも事実であるらしい。しかもそれはベイコンの言う通り、大抵の場合ピアニストではないようだ。ポリーニなどは昔から自分の奥さんがそれで、どんなに素晴らしく弾けても彼女がOKを出さない限り、彼は決してステージでそれを弾くことはなく、このために当日になって曲目を変更することさえあるのだという。
 また海外でも活躍する日本の著名ピアニストの場合も然りで、演奏に際しては常に信頼をおく人物の意見を聞くことが長年のスタイルになっているとかで、その人物とは本当に音楽のわかる、実は音楽の素人なのだそうだ。
 
 このアドヴァイザーは同業者は余り望ましくないことはさほど説明の必要のないことで、何事においても同業者というのは良いことはないのである。単純に言えば、同業者とはすなわちライバルなのだから。
 ピアニストは音楽に通じた審美眼のある信頼の置ける人物を、ひとり捕まえておくことは自分のよりよい音楽活動のためには極めて重要なことだろう。人の意見というのは、自分が思いもよらない部分を突いてくるものであるし、それがなによりの彫琢に繋がる。
 
 
 およそピアノリサイタルなどをきくと、どこか不自然でしっくりこないことが多いように感じられるものだ。
 練習不足とも思えないし、それなりの才能もあるように見受けられるが、解釈が生煮えであったり独善性が散見されたり、なにかをまったく見落としていたり、大いなる過ちを犯していたりと、なにしろその人なりの音楽がきちんと整っていない場合が多い。それを本人の音楽性といってしまえばそれまでだけれども、そうはいってもまだまだ才能の余地があると認められる場合が少なくないし、マロニエ君はこうしたケースを見受けるたびにひじょうに残念な、惜しい気がするのである。
 その点では、まだそれを感じないのはコンクールの演奏で、良し悪しは別としても、その人なりの方向性のはっきりした練り込まれた演奏だと思われる。それは言うまでもなく、自分一人の練習ではない、指導者をはじめとする余人のチェックを経ながら仕上げてきた演奏だから、それなりの鍛えられた姿をしている。
 
 ピアニストが音楽家で、音楽家が芸術家であれば、ステージの演奏に際しては、これぐらいの謙虚な手間をかけるのは当然であるはすだが、それを実行しているのはきっと驚くほど少ないだろうと思われる。とくに日本人には少ないはずだ。
 独善性ひとつでも、自分のスタイルを確立できた演奏者が確立した納得ずくのものであれば、なるほどそれもいいだろうが、どうもそういう類のものではない場合が多すぎる。本人が気付いていない部分、あるいは確信がもてないままの状態というのがあまりに多すぎるが、それもある意味当然なのだから、そこはステージに乗せる前に人に聴いてもらうことが重要なのである。
 どんなに料理の達人でも、味見もせず人に試食もさせないでメニューを作り、お客さんに料理を出すということは暴挙だし、そんなことはまずしないだろう。
 
 ところがピアノの場合はその暴挙が普通だし、演奏者自らが味見をすることは出来ない。ホールのピアノの位置や響きを確認しようにも、自分の出す音を客席から確認することさえ不可能なのである。したがって、どうしても他者の評価を求める意外に道はなく、それに基づいて自分が同意した部分を手直ししていくということになる。
 
 連日連夜、はたまた長い期間、孤独の練習を重ねているとしだいに判断力が鈍るのは致し方ないことだ。自分の紡ぎ出す音を、第三者の耳を通して確認することは、単に人の評価を求めるということに留まらない、もっと広義の本源的な間違いや勘違いも洗い出すことに繋がるのである。
 これは別に芸術の世界に限ったことではなく、ありふれた事務書類でも、経理でも、別の人間によって確認の目を通すことが必要なことはもはや社会常識であるといいたい。
 そんな中、ピアニストだけがなんらチェックもなしにレッスン室から一気にステージへと向かうことは、端から見ると度胸を通り越して無謀であり、傲慢とも思い上がりとも言えるわけだが、ご当人達はおそらく自分の行動になんの疑問も感じていないのだろう。そして疑問にも感じていないことは、あらためようもないのである。
 
 レッスンを受けるのは修業時代のみのことであり、それ以降は自分で自分を管理する、それがプロに課せられた責務というような認識ではないだろうか。現在はよく知らないが、美術の世界では他人の意見というのは作家はひじょうに気に掛かっているもので、これはべつに通俗的な意味でのウケを狙っているのとは違い、自分のやっていることが果たして正しいかどうか、常に第三者のフレッシュな感じ方や意見を参考にしながら自分を問いただして軌道修正しているわけである。
 物書きもそうで、ある程度原稿ができると編集者や身近の人間などに読ませて、つねにその意見や感想というものを尊重している。それは確かな自己表現のためにも人の感覚をも頼りにしているわけだろう。むろん誰に意見を求めるか、その人選と信頼性はひじょうに重要な点であるが。
 
 そんな中で、マロニエ君の知る限りでは音楽家だけが、わけてもピアニストなどはまずそういう類のことを最もしようとせず、そんなスタンスでいい仕事(演奏)などできるわけがないと言いたい。
 また神童演奏家などが、二十歳を過ぎると急速に輝きを失うことは珍しくないが、それはそもそも天才にとって20代というのは不毛の時代であることもあるけれど、それに加えて、陰で支え続けた信頼に足る教師の導きを離れるなどの変化があるためだとも思われる。いかに才能はあっても、それを正しく矯正しながら誘導する人間の一人や二人はいないことには、嶮しい道を迷わず進むことなど出来ようはずもない。
 
 スポーツ界ではこれは常識で、どんなに優れた選手や天才的なプレイヤーでも、監督やコーチなどの導きなしに、自分一人の判断のみで引退までの期間をトッププレイヤーとして活躍することなど絶対に無理である。これはいかなるスポーツでも同様でおそらく例外はない。
 こういうことはちょっとジャンルを変えればみんなわかっているはずなのに、なぜか音楽では人の意見や評価を必要ともせず、へたをすると拒絶さえするらしいから、その勘違いにはまったく開いた口がふさがらない。
 
 多くのピアニストの演奏というのは、マロニエ君は自信を持っていうけれども、本人が思っているよりは、はるかに、いたるところがよほど不完全な歪んだ演奏をしているということだ。プロもアマも同様で、人の意見を素直に聞くということは、それだけ演奏に磨きをかけることでもある。
 
 そもそも音楽をやっている人に、心から音楽に献身して謙虚な気持ちでこれに当たり、素晴らしい演奏をしたいと純粋に思っている人がどれだけいるかも甚だ疑わしい。
 むかし聞いた話だが、我が国最高といわれる現役音大生(女性)によれば、結婚する相手は同じ学内ではないどころか、音楽とは縁もゆかりもない男性が望ましいというのが圧倒的多数とのだった。その理由というのがまた驚愕の内容で、へたに音楽のわかる人だと自分の演奏を批判される可能性があり、それが彼女達のもっとも忌み嫌っていることなのだという話だった。とにかく自分の演奏について人からとやかく言われたくない、これが当時の彼女達の共通した気分だったのだ。
 
 そもそもこういうことを言う時点で、どんなに優れた演奏技術を持っていたとしても、気構えの点でその人はすでに終わっている。批判こそは芸術家を鍛える、欠くべからざるトレーニングでもあるのだから。

個体差と選定

 このところ、ピアノの個体差や選定に関する事で話題になることがあり、いろいろと考えさせられるところを思いつくまま書いてみた。
 
■まず個体差について。
 ピアノの個体差といっても実に様々であって、これはとても一概に言えるようなことではないけれど、ピアニストや技術者は、主にホールにあるピアノに関しても個体差が激しいと言いい、それはもちろんある意味で当然だろう。
 
 ただし、なぜかスタインウェイが槍玉に上がることが多く、ひとつにはホールなどではそれだけこのピアノの数が多いということでもあるのだろう。ただ、スタインウェイに対して、日本製ピアノが持っているような独特な逞しさを期待しているのだろうか?と思われるふしもあり、その言葉のニュアンスには製品の日本的耐久性と、楽器としての評価が、微妙な加減にオーバーラップしているようでもある。ただ単にスタインウェイをばらつきの多い楽器と捉えて、これがいかにも欠点であるかのように語られてしまう感じがなくもない。
 
 こういう捉え方は、楽器の個性を深く理解することなく、一括りに判断された結果のような気もするが、もう少し内奥まで踏み込んで考えてみる必要があるように思われる。
 とくにスタインウェイに対しては、このピアノに携わっていない、もしくはメインではない技術者の意見というものには、どうも妙に手厳しい響きがあるように感じるのはマロニエ君だけだろうか。管理が充分でないことに原因があることはあまり考慮せず、スタインウェイといっても実際には出来不出来があり、玉石混交であるかのように示唆的に語る専門家などは意外に少なくない。
 
 そもそも、楽器それ自体にある個性と特性、個々のピアノの状態のばらつきは区別して考える必要があるように思う。
 環境や調整如何によっても左右されやすいピアノは、言い換えるならナイーヴで演奏表現に長けたピアノということでもあるだろうし、欧米の名器といわれる楽器は日本製ピアノが持っているような逆境に対する逞しさのようなものは持ち合わせていないだろう。
 人間でも同じだが、鈍感な人は状況にも左右されにくい反面、こまやかな感受性とか繊細な反応、触れれば切れるような鋭敏さもない。
 
 ひとくちに個体差といっても、その内容や原因は後天的なものが大半ではないだろうか。
 製造時期による違いはあるとしても、管理の違い、使用頻度の違い、パーツの消耗の度合い、そしてなにより技術者の違い、これらが複合的にあいまって一台のピアノの状態を成立させているのであって、時が経てば経つほど各個体の状態差は強まっていくものである。マロニエ君は直感として思うのだけれども、よい楽器、優れた楽器というのは、物としては弱いものだということだ。
 しかし、日本人は物として強いこと、作りが堅牢なこと、如何なる場合もコンディションにばらつきが少ないことを、品質の本質のように考る習性があり、これをそのままピアノにも当てはめる向きも少なくない。日本製ピアノの劣悪な環境や取扱いに対する影響の少なさを品質とする変な評価基準があるものだから、スタインウェイなどのもつ、物としての弱さが気に入らないのかもしれない。故障のない日本車が一番という考え方と同じだろう。
 これはなんでも平均化してグラフのように物事を判断する日本人の特徴のような気もするがどうだろうか。
 
 しかし良い楽器というのは、ある意味で脆弱さを抱え持っていることは当然なのであって、そもそも楽器というのはそういうものだという認識が弱いような気がする。人間でもそうで、芸術家、わけても天才は人間的にはバランスが良いとは言えないし、昔は多くが夭折もしている。仮にショパンやシューベルトが病気のひとつもしたことのない頑健な体と精神を持った逞しい男だったら、あんな作品を遺し得たとはとても思えない。
 
 スタインウェイでいう個体差とは、繰り返すが管理や使われ方の問題であって、表現力のないゴツイ家具のようなピアノと較べられてはメーカーもさぞかし心外のことだろうと思われる。
 もちろん如何なる理由を並べ立ててみたところで、演奏者が快適に演奏できないのであれば意味はないけれども、そのことと、楽器の生まれ持った能力とは本来別問題であり、コンディションの悪いピアノがあったとすれば、それは広く管理上の責任だと思われる。そして管理の悪さに対する不平不満が突出して少ないのが日本製大手メーカーのピアノなのだろう。
 技術者に言わせると日本製のピアノというのはずば抜けて作業がし易いのだそうで、それをもって高い評価をする人が多いが、それはただ技術者の仕事が楽にできるというだけのことではないか。もちろん、めちゃくちゃな作りでは困るけれども、ピアノの良し悪しは音楽を奏でたときの芸術的な評価が第一であってほしい。
 
 マロニエ君に言わせると、本当の小規模なメーカーの手作りピアノの類は別として、今どきの近代的な工法から生まれるピアノの場合、同じ時期に作られた同型の場合、楽器の潜在力としての個体差はゼロとまでは言わないが、それが人が言うほどの甚大な違いがあるようにはとても思えない。日本の大手メーカーはむろんのこと、近年はスタインウェイもこちらに分類して差し支えないのではないだろうか。
 厳密には響板に使われる木材の部位のわずかな違いから生じるものとか、ボディの誤差や組み付け精度による微かな差はあるわけで、車や電気製品とは違うけれど、逆にいえばいまどきの車や電気製品だって、厳密にいえば個体差がないとは言えないのである。
 そんなピアノでも、中にはごく稀に突出して良いものと悪いものの両極はあるだろうけれども、それは確率的には猛烈に低いと感じる。
 
 それよりも、個体差というなら、いわば先天的なものより、上記のような環境その他、様々な要素がもたらす状態の違いのほうが、本質的にどれだけ大きな要因だろうかと思われてならない。
 さらには弦やハンマーなど消耗品の消耗の度合いや、アクションの状態や調整具合によっても大きな差が出るだろうし、技術者の技量やセンスによっても無視できない違いが現れてくる。ただしそれは技術者しだいで、どんなに立派な肩書きをたくさん名刺に刷り込んでいるような人でも、どうしようもなくセンスのない、冴えない技術者というのもいらっしゃるのはまぎれもない事実だから、こういう人に長々と引きずられるとピアノも所有者も不幸である。
 
 したがって個々のピアノの状態は、専ら所有者・使用者・技術者の三者責任であると思われるわけで、それによる悪い結果を、一言のもとにメーカーのせいにするのはいささか筋違いというもの。
 どんなにすばらしい楽器が存在しても、そのコンディションを維持するための調整を折々に技術者に依頼しなくては、ピアノは荒れていく一方でどうにもならない。逆にいうとどんなにすばらしい技術者がいたにしても、仕事の依頼がなくては技術者のみなさんは動けないわけだから、これは専ら所有者の責任である。
 ホールに於いてはそこがシステム化されているわけだが、それも技術者しだいの部分は小さくないし、それ以外のピアノでは管理者の認識ひとつだろう。逆に、どんなに管理を心がける所有者がいても、やってくる技術者のセンスや技量が劣れば、ピアノはまちがいなく輝きを放たない。
 ピアノが生まれもった能力、所有者の意識、高い技術をもった技術者、この3つがうまく揃ったときにピアノは文字通りの素晴らしいピアノになるわけで、そのうちのどれが欠けても決して達成できないだろう。
 
 
■新品ピアノの「選定」について。
 よく、もっともらしく「ここのピアノは誰々(有名ピアニストなど)の選定」などと言うけれど、マロニエ君に言わせれば、それがどれほどの意味があるのか、その価値や意義が判然としない。
 ピアニストはピアノの機構面での専門家ではないし、一体どこをどう選定しているのかということが、もう少し具体的に説明されてもよいのではないだろうか。ホールなどのピアノ選定とはいっても、その判断基準は甚だあいまいで、これという根拠があるようには思えないし、ピアニストによっても判断はあれこれと変わるだろう。
 結局のところ、ピアニストが選ぶピアノというのは、そのピアニストの主観とか好みに負うところが多く、特定のホールに収められ、そこで長い年月をさまざまな弾き手に使用されるにあたって、本当に相応しいピアノが正しく適切に選択されているなどと関係者は言い切れるのだろうか。
 
 こう言っては身も蓋もないが、ホールとピアノの関係にわずかな権威性をつけるため、ちょっとありがたい感じのエピソードを添えるため、慣習的にやっている欺瞞行為としか思えない。現代のホールに収められるようなメジャーなメーカーのピアノで、しかも新品なのだから、数台あるうちのおおよそどれを持ってきたって間違いなどあるはずもないだろうし、現実的に選んだ違いがもたらす明白な結果なんて後で誰にわかるというものでもないだろう。ほとんどなんの意味もないことを、さも意味ありげにご大層にやっている事としかマロニエ君は思わない。
 
 さらに、ピアノは技術者の調整次第で前後左右上下に変化するわけで、選定に準備されたピアノは、たまたまその場(瞬間)での状態に過ぎず、それは喩えていうなら女優や芸能人に付いて仕事をするスタイリストとかメイクのやり方みたいなもので、仕上がりはさまざまに変化するものであるし、だけど中の人間は同じ人だから、メイクで変化は付けても別人にはならないということ。それをある日一日の様子や姿かたちだけを見ただけで、将来までの結論を出してしまうようなものだろう。これはよほどの目利きでなければできる判断ではなく、本来の容姿の真価とか演技の実力、あらゆる可能性などを知るには長いお試し期間が普通は必要なのであって、それは一朝一夕にわかるものではない。
 
 それが例えばどこどこのホールに本当に相応しいピアノかどうかなど、そんなことが選定室でチョロチョロッと弾き比べたぐらいで正しくわかるなんて、マロニエ君は申し訳ないがとても信じられない。本気で選ぶなら、少なくとも3~4台の同型をホールへ持ってきてステージ上で弾き比べるぐらいのことをしないとわからないし、そこまでしても判断する人によって結果はコロコロ変わるはずだ。さらにそこへ技術者の調整の問題まで介入してくれば、事はさらに複雑化し、それはもう大変なことになるだろう。
 選定しているのは、ほとんどその日その場その瞬間での状態にすぎず、しかも大抵は一人の選定者のあやふやかつ主観的な判断に過ぎない。ピアニストは要するに弾いてみて自分が弾き心地のいいピアノ、自分の表現したいものを可能とするピアノが良いピアノということになるのはやむを得ないし、それを責めることはできないだろう。
 この点は、まだ信頼のおける技術者のほうが適任かもしれない。
 
 これがもし、欧米のように貸出ピアノが盛んな場所の話で、自分の演奏に使うピアノをピアニストが選定するのとは本質的な目的が違うのであって、この場合は一晩限りのピアニストとピアノの相性さえよければ良いわけだから、主観で結構、大いに納得できるわけだ。そこではその楽器の潜在力や普遍性にまで気を回す必要はない。
 
 そして、本当にピアノがわかる人は目先のタッチや音色ではなく、ボディそのものが生まれ持っている能力を冷徹に見抜くことができるのだろうが、少々のピアニストで本当にそんなことができているのだろうか…。調整まですべて自分で行うツィメルマンにいわせると、多くのピアニストのピアノに対する判断は見当違いでナンセンスだというような意味の発言をしてるぐらいだ。
 だから、「誰々の選定」は要するにひとつのセレモニーだと考えればすべてが納得がいく。著名ピアニストがわざわざこのホールのためにと最良のピアノを選んで、フレームにサインのひとつもすれば、それはもはや機械的に納入されるただのピアノではない特別なものとなり、それでめでたしめでたしということかもしれない。
 
 個人のピアノでも、よく浜松まで行って何台の中から選んだなどと恭しげに言うけれども、それでどれほどの選定ができたかとなると甚だ疑わしいし、首を捻るような話である。
 なぜなら、だいたい選定室にあるピアノはお客さんに違いが明確になるよう、明・華・深といった感じに数種類の音色に振り分けて音作りされているというから、たまたま事前に技術者によってそれらしきヴォイシングがなされたというだけのことで、そんな程度の差なら、要するに整音の違いだけということではないのか。
 そして、選定室で選んだピアノが、生涯その音を出し続けるのかといえば、そんなことはあるはずもないことで、ピアノの音というのは弾き進むうち、調整を重ねるうち、さらには環境でどんどん変わるものである。
 
 極端な話、同型が何台もあるなら、その場でアクションを入れ換えただけで、結果は二転三転するだろう。マロニエ君に言わせると、音色やタッチは一時的なもので、しかも技術者の調整によって変化するものなので、本来選定すべきはピアノのボディの能力を見極めることだが、これができるのはメーカーの人や相当の経験を積んだ技術者だけではないだろうかというのが正直なところ。どうまちがってもピアノ先生なんぞにできる判断ではない。
 
 現実には、お客さんはたまたまそのときにピアノに施されている調整の、おそらくは何通りもあり得たはずの結果の中の、あくまでひとつの状態を、まるで永遠の姿のように錯覚して選んでいるだけであって、いいかえるならその瞬間の整音、整調、調律の結果を選定しているにすぎない。上記のメイクと同じである。
 これは要するに、ピアノそのものではなくてアクションを選定している、もっと言うなら整音されたハンマーを選定しているだけのような気がするわけである。
 ところが、選んでいる側にしてみれば、そんな認識はまずまったくないはずで、そこで弾いて感じた差は、そのまま正味そのピアノそのものの個性だと信じているに違いない。
 冒頭に述べた個体差というものの認識がここにも出てくるのであって、ここでいう個体差は技術者の「仕事差」である場合が大半ではないのかとマロニエ君はいいたいわけである。
 
 こう書くと、そんなことはない!いかに新品であってもボディの個体差も必ずあるわけで、それらの要素の総和による一台一台の違いであるはずだと言われそうな気がするが、とりわけ日本の大手の作るピアノの場合、何から何まで大半の製造作業を精巧優秀な機械がやっており、そこに職人ならではの技術が介在する余地はほとんど無い。
 とりわボディは、昔のピアノの世界でいうところの誤差など無いに等しい精巧なパーツを、これもまた精巧な工作ロボットの寸分狂わぬ動きによって組み立てられており、あるとすれば具体的にどういう部分がどういう風に一台一台の差が出るのかマロニエ君のほうがぜひとも聞きたいほどだ。
 
 それでも僅差があるというのなら、その程度は主に金属で作られる車にだってあるわけだ。すなわち同じ新車の中から、タイヤメーカーぐらいしか違わないものを「これ」だと選んでいるような気がする。
 
 本当にボディを選ぶなら、理想的には数台のアクションを入れ換えて較べてみるべきで、ヴァイオリンなら1本の弓であれこれの楽器を弾き比べる、あるいは複数の弓と本体の組み合わせでさまざまな角度から楽器の価値や性格を確かめることができるが、ピアノは現実的になかなかそういうことができないし、頼んでもメーカーはやってはくれないだろう。ピアノ本体とアクションは、まるで生涯の伴侶のごとく、ピアノが生まれたときから深く結びつけられている。
 こういうところがピアノ選定のからくりのような気がしてしまうのだ。うすぼんやり感じることは、選定という言葉の概念と実体が本質的に齟齬を生んでいるということ。
 
 高名なピアニストがどこそこのホールのピアノを選定してフレームにサインしたり、どこどこ先生のピアノはわざわざ浜松まで行って選んできたピアノというのは、もちろんすべてが無意味だとはいわないけれども、その実体たるや甚だあいまいで根拠薄弱なものとしか受け止めることができない。だから、いかにもそれが特別なものであるかのように恭しく語られてしまうと、マロニエ君はつい心の中で無性に苦笑してしまいたい気分になってしまうのである。
 
 とりわけ選定室を置いているような大メーカー、もしくは輸入元の取り扱うようなピアノで、新品の同じモデルで、一台は素晴らしい出来、一台はお粗末な出来というようなことがあるとは到底思えないし、同様に生まれながらに性格の違うピアノがあるなんて思えない。それをいうのは、きっとピアノを楽器として語るときのファンタジーだろう。
 
 そんなことよりも購入後の楽器との付き合い方、日ごろの手入れだとか、音楽に愛情を感じるような演奏をすることのほうがよほど大事だと思われるが、先生などは選定などは勇んでするが、この点はおどろくほど大胆なことが多くて驚くような話ばかり聞こえてくるのは、まるで笑い話である。
 
 そういう意味では選定というのは、せっかくピアノを買うお客さんに、「自ら選定する」という楽しみと、いわば思い出作りのために、ささやかに仕組まれ演出されたサービスイベントのような気がしてしまう。そして数台の中から自分が選んだということに、得も言われぬ満足を心に刻みつけるための儀式というほうがよほどわかりやすいだろう。
 
 もちろんそれがすべてだと言いきる気はなく、同じ大手メーカーのピアノでも、価格の高い、職人の手間暇のかかったピアノではやはり多少の違いがあるかもしれないが、普及品ではどこまで意味があるのかどうか甚だ疑わしい。
 技術者が整音などをちょっとやりかえたら、きっとまた全然違った結果がでるはずだし、広い選定室と自宅では音響特性じたいも大いに変わるのだから、これは考え出したら疑問点ばかりが増えていく。
  こう考えると、ほとんど自己満足の世界ではないかと思うばかりだが、しかし自己満足というのも人間にとっては幸福をもたらす大切なものだろうから、それはそれで大きな意味があるといえばあるのだろう。
 
 最後にひとつマロニエ君が驚いた経験を書くと、以前ある新しいホールに新品のスタインウェイが納入され、そのピアノ開きのコンサートを聴きに行ったのだが、なんとも薄っぺらで響きがなく音も貧相で、これまでで最低ではないかと思えるようなピアノだった。ついには品質がここまで落ちたのかとさえ思った。ちなみに、このピアノも有名ピアニストによる選定というお墨付きがあるらしいのだが、一体なにを選定したのかとその面でも呆れたものだった。
 数年後に再びそのホールでのコンサートに行くことになったが、はじめの印象が強烈だったので当然ピアノにはまったく期待していなかった。ところがそれはものの見事に裏切られ、同じピアノとは俄には信じられないような、しっとりと深い音を出す本物の素晴らしいピアノに一大変身を遂げていたのである。聞けばひじょうに名のある優秀な技術者の方がこのピアノを入念に調整されているとのことで、ははあ…どおりでと思った。技術者によってここまで変わるという、まさに典型的な事例を見るようだった。
 かくのごとく、ピアノの状態と選定とはこんな関係なのであって、素晴らしいピアノであり得るか否かは、ひとえに優れた技術者の腕にかかっている。

美音の架け橋

 山口県のスタインウェイ特約店の社長にして調律師の松永正行氏が、文芸社から著書を出されることになり、すでに全国書店ならびにネットなどで発売されている。
 これは松永氏が数年間をかけて綴った渾身の作であり、マロニエ君も折りある事に何度か一部を読み聞かせられ、あるいは感想などを求められた経緯があるから、それがこうして一冊の本として結実し、出版・発売の運びとなったことはそれなりの感慨がある。
 
 『美音の架け橋』というタイトルのその本には、「スタインウェイアカデミー物語」という副題も付いている通り、氏が東京のスタインウェイ・ジャパンに於いて行われたスタインウェイアカデミー技術認定資格試験に参加し、奮闘の末にこれに合格するまでの、技術者としての体験記録であり、折々の心理などまでもをリアルに綴った、実に2週間にわたるピアノ技術者のドキュメントである。
 
 松永氏は若い時分にはアトラスピアノやかの杵渕ピアノなどで修行を重ね、その後、故郷の山口県で戻ってピアノ店を開業し、現在ではスタインウェイの特約店となっているが、いわゆるただの特約店とかただのコンサートチューナーという枠にも収まらない音の挑戦者である。独自の音の美学を追い求めて突き進む氏の仕事は多くのコンサートの他、CDなどでもその音色に接する事が可能である。
 通常の店舗等で入手が可能なCDとしては、ピアニスト杉谷昭子女史のリリースするベートーヴェンのピアノソナタ全集他があるし、松永ピアノのホームページでは、氏の所有によるスタインウェイによる、ロシアの俊英パーヴェル・ネルセシアンのコンサートのライヴ録音も既に相当数が発売されており、こちらも容易に購入もできるので、手軽にその音を聞くことも可能である。
 
 氏はありきたりの、ただ決められた割り振りの調律では満足しない、独自のピアノの美の世界を持つ人である。
 そのためにはコストや労苦を厭わず、あるいは業界のなんらかの勢力にも屈することなく、己の理想を追い求め、絶えずコンサートやCDという実践においてその結果を世に問うという異色の調律家といえる。
 
 松永氏には音に対する確固とした美学と哲学があり、氏の手がけたピアノというのは、独特の響きと律動をもった特別なピアノであるといっても差し支えないだろう。
 松永氏の調律を言葉に表すのは非常に難しいことであるし、そもそもマロニエ君がそれを表現するに値するほど理解しているとも言いかねる故に、その困難はなおさらである。
 すくなくとも既存のありふれた調律には決して満足せず、常に自分の求めるものを探っている技術者としての姿勢には、出来上がった技術の繰り返しに安穏とする並み居る技術者とは一線を画する人で、音の求道者であることは間違いない。
 
 ピアニストをはじめ、あちこちのホール、さらには普通の家庭のピアノまで、彼の作り出す音に惚れ込んだお客さんというのも全国に散らばり、一調律師とは思えぬ、まるで演奏家のようなその活躍ぶりには驚かされるばかりで、今日は大阪、明日は東京と彼が山口の店にいることはあまりないようである。
 
 この松永氏独特の音に対する美学とこだわりは、なによりも実際のコンサートでこそ多くの人が聴くことが出来るよう、氏はあらゆる手を惜しまずに尽くしている。
 
 ご承知の方も多いとは思うが、各ホールに例外なくピアノの保守管理を託された専任の調律師というのが決まっていて、それ以外の人が調整目的にホールのピアノに触れることは認められていない。仮にピアニストの要望があったにしても、その場合は、ホールの専任調律師が傍らで見守る中、調律などわずかな調整のみが許されるという程度で、これはだいたい全国どこでも似たようなルールである。
 このルールの前では、どんなに優れた調律師であろうとも例外とはならない。
 
 いささか杓子定規という気もしないではないが、技術者にもテリトリーというものがあるだろうし、ひとくちにピアノ調律師といっても様々だから、中にはあまり腕の良くない人や、独善的であったり、ピアニストの求めに応じて特種な調整などを施してしまうという危険があるらしい。したがって、このような一見厳しいルールは、実際にそのような問題が起こった中から生み出された保護策ともいえるのだろう。
 ホールのピアノは公共性を持つものだから、あくまでもスタンダードな状態を維持することが求められるのはいうまでもない。よって、あまり特種な調整などをやってもらっては困るというのも頷けるし、中には整音などは元に戻せない事態が起こることもあり、基本的な決まり事として、ある一定の規制がかけられることは、ピアノがホールの所有物である限りやむを得ないだろう。
 
 では、ホール専任の技術者なら絶対間違いないのかといえば、むろんそんな筈もなく、肩書きはホールのピアノの保守管理担当でも、そこには当然ながら技術的な優劣が存在することも厳然たる事実で、外部の技術者からみてあるホールのピアノの状態は「???」と思うようなことも珍しいことではないらしい。
 
 専任の調律師の技術的優劣はさておくにしても、決められた技術者以外の人が手を出すことができないのがホールのピアノのルールであるし、稼働率の高いホールなどでは専任調律師は複数になっているが、彼ら以外は調整などできないことには変わりない。
 
 もちろん、このような規制はあくまでもホール所有のピアノに対するものであって、外部から別のピアノを持ち込む場合は、これらの規制が適用されることは一切なくなるわけで、それは当然だろう。
 
 このような状況の中にあるわけだから、松永氏にしてみれば、全国どこにでもあるホール備え付けのスタインウェイでは自分の理想とする音や響きを求めることは到底できことではないし、それを望むピアニストらの要求にも応えることができないことを悟り、自前で新品のスタインウェイのD型(コンサートグランド)を準備し、さらにこれを数年ごとに買い換えることで、常に出動体制を整えるということまでやっているのだから、氏の音に対するこだわりの強さがこれだけ見てもわかるというものだろう。
 自己所有のピアノであれば、どのような調整をして、どのような音造りをしようとも、ホールの管理者からも文句の出るところではない。氏はこのピアノを携えて、全国あちこちのホールを飛び回り、自分の理想とする音のコンサートを開催している。欧米のようにピアノの貸し出し業の少ない我が国にあっては、氏のスタインウェイはかなりの旅する距離が嵩んだ1台という事になるだろう。
 
 こういうやり方は日本ではあまり一般的ではないが、ヨーロッパではミケランジェリやポリーニの御用達であるイタリアのファブリーニなどはこのスタイルを採ることで有名で、ポリーニは来日公演の度にこのファブリーニのスタインウェイを空輸してくるほどだ。その挙げ句にホールのピアノと比べて、ホールのスタインウェイを弾く場合もあるというのだから呆れるが、楽器へのこだわりとはおよそそういう不合理なものだろう。
 
 松永氏に戻ると、氏はピアニストの要求、あるいは会場毎に変化する異なる響きの環境に対応するため、ノーマルのアクションと別に、もう一台、まったく異なる整音を施した第2のアクションを準備していて、これらを随時入れ換えることで更に幅広い要求に応えようとしているわけである。
 ノーマルアクションのふくよかで落ち着きのあるスタインウェイの音色に対して、もう1台のアクションはよりブリリアントかつ色彩的な音造りがなされている。
 そしてこの第2のアクションこそ、松永氏の理想の音を結実させるための、いわば松永アクションというわけだろう。
 
 松永氏の理想とするピアノの音は、音そのものが美しいことは当然としても、それが主にコンサートにおいて音が遠くまで飛ばなくてはいけないという理念があるらしい。そしてこれは、主には整音と調律の二つによって達成されているようだが、これらはピアニストやホール環境によっても左右されるので、それらの要素が常に理想の結果を生み出さないこともあるようで、このあたりがピアノ技術者の仕事の難しさでもある。
 
 マロニエ君のまったく個人的な印象で言うと、コンサートで聴く松永氏の音は普通のスタインウェイにもまして音が立体的で、よく通る。極端にいうなら、ピアノ本体より少し上の方で音が出ているような印象さえある。
 そのためか、近くで聴くと松永氏のピアノはそれほどの甘さややわらかさはあまりなく、どちらかというと筋肉質のしなやかな音だといえるかもしれない。
 大別すれば固い音の部類に属するだろうが、だからといって決してキンキラした音ではなく、非常に抑制の利いた美しい茶室のような隅々まで見極められた隙のない美音であるといいたい。
 
 氏曰く、コンサートで聴衆が真の感動を覚えるには、演奏が素晴らしいことは当然だとしても、その素晴らしい演奏を支えるピアノもそれに値するものでなくてはならない。そのためにはまずホールの隅々にまで美しいピアノの音が満遍なく鳴り響くこと、それによって聴衆の耳は美音によって満たされなければならないといういうものらしい。
 この点ではスタインウェイは生まれながらに、「スタインウェイの遠鳴り」といわれるように、音が遠くまで力強く鳴るという、他のピアノとは決定的に異なる最大の特徴を持っているわけだが、松永氏はそれを自分の技術によってさらに何層にも高めようということなのかもしれない。
 
 
 前置きが長くなったが、この『美音の架け橋』は一読しただけなので、もう少し時間をおいて再読するつもりにはしているが、大まかな印象としてはスタインウェイアカデミー技術認定資格試験に参加すべく、飛行機で東京に向かう場面からはじまり、これから始まる二週間の実地試験の様子を中心としながら、折々に様々な話へと展開するものだ。
 ちなみに文中に出てくる中心的人物の試験官ヤング氏とは仮名で、現在のスタインウェイを代表する最も有名な、いわば看板調律家である。ショパンコンクールなども大事な局面では彼が登場するようだし、内田光子などの世界的なピアニストの信任も厚い人物なので、その名をご存じの方も多いこととは思うが、ここでは故あって仮名になっているらしいから、わざわざマロニエ君が実名をバラす必要もないと思われるので、この場では敢えて書かないでおく。
 
 わずか3名という精鋭の受験者には、それぞれ一台ずつコンサートグランドを与えられ、次々に課せられる課題を実際のピアノを使いながら、実践訓練を受けるわけである。しかも全員が若い修行の身ではなく、すでに一人前のピアノ技術者としてプロの道を歩いている面々だから、皆一様に技術者としての矜持もあるわけで、それだけに緊張の高まりがある。ヤング氏とのやり取りや唐突な問い、そのひとつひとつが克明に描写されていて、思わず固唾を呑むような瞬間さえあるのだから、読者も間接参加している気にさせられる。
 
 松永氏はこの本の購読層を、ピアノの専門家に留めず、誰が読んでもおもしろいものにしたいという意向をお持ちのようだったが、通読してみての感想としては、そこにだけは疑問が残らないでもない。マロニエ君ぐらいピアノが好きな人間であれば、ピアノの技術者に対する関心も高いからとても面白く読むことはできたし、業界の人や技術者ならばそれはさらに興味は倍加するだろうと思われるが、ピアノにさほど関心のない人が普通に読んで面白いかどうかとなると、それはどうだろう…。
 この点に深く留意して書かれていることはわかるのだけれども、なにぶんにも内容がピアノという楽器の、さらにその内部機構という甚だしく専門的な領域に分け入っていくために、アクションのこまかいパーツの名前ひとつからしてわからないだろうし、それがどのような働きをするかなど、俄に図を見てもわかるはずはなく、それを理解するだけでも普通は難渋するに違いない。
 この本の大半は、その特殊分野が主軸となっていることで、この本の本来のおもしろさを専門性がかなり差っ引いてしまっているようにも思われる。しかし、折々に脱線しながら、あちこちに向かっていく話の枝々は実に興味深い面白い話であることも事実で、そういう部分を読むだけでもこの本を手にする価値があるとも言えるだろう。
 また、技術的なことはさておいても、純粋にプロの世界の人間ドラマを覗き見るという意味でなら面白いだろうとは思うが、やはり基本的には専門家を楽しませる作品だというのがマロニエ君の結論だ。
 
 尤も、一般ウケばかりを狙う底の浅いものよりは、一部の人向きではあっても物事の奥深くに案内される内容であるほうがよほど面白いというものだし、こういう本が出版されたことは、何事にも最大公約数的な価値を求める現代の風潮の中にあっては、たいへん画期的なことだと思われる。
 
 本の内容にいちいち触れることは敢えて避けたいと思うので、ご興味のある方はぜひお読みいただきたいものである。
 
 タイトル:『美音の架け橋』 単行本319頁
 著者:松永正行
 発行所:株式会社 文芸社
 定価:1600円

フランスの好み

 どういうわけか…というのもちょっと変かもしれないが、このところフランスではピアノといえば──コンサートや録音の現場では──ヤマハを好む一派が主流をなしているようで、この国でのヤマハの支持のされ方は我々日本人から見るとちょっと意外でもあり、驚きでもある。
 
 この現象、いつごろからとははっきりわからないけれども、気がつくと現役のフランス人有名ピアニストの大半が、申し合わせたようにみんなヤマハを弾いているのにはどうしたわけかと不思議に思うところであるし、同時に、これは非常に興味をそそられる点でもある。
 
 フランス人は、横並び大好きの日本人とは正反対のメンタリティを持った人達で、ことさら人と違うもの、自分独自のものでなくては気がおさまらないところがあるから、世界的なスタインウェイ偏重の流れに一定の抵抗心と実践力があるのだとすれば、それはフランスならあり得ることのような気がする。しかし同時に、個人レヴェルで見た場合、多くがヤマハという同一メーカーばかりを談合したように弾くのは、これはこれで一種の横並びじゃないかと解釈できないこともないところではあるが。
 とはいえ、何事においても独自性を重んじ、あくまでも自分達の感性や眼力で選び抜いたものを、独特の流儀で使いこなすというのはいかにもフランス人らしい点であろう。
 
 そしてそれが、自国のプレイエルではなく、他ならぬヤマハであるというところが正直言って驚かされるところだが、彼らのヤマハの使い方を見ていると、なるほどと思わせられる点もなくはない。
 
 まったくの想像だが、フランス人のヤマハ好みの火付け役は遠くはエリック・ハイドシェック、近くはジャン=マルク・ルイサダあたりではなかろうかとも思ってしまうがどうだろう。
 彼らはキャリアのはじめの頃はスタインウェイを使っていたし、ルイサダはさらにファブリーニ(イタリアの高名な調律家で、名匠タローネの弟子)のスタインウェイを弾くなどして録音をやっていた。マロニエ君の印象としては、ファブリーニのピアノはイタリア的な華やかさというよりは、非常にコントロールの行き届いたなめらかさがあり、同時に極めて精密で均一な鳴り方をするという印象がある。ハンブルクのスタインウェイをベースに、より精度を高めると共に、ところどころの音域間にある音色の段差などは極力抑えられてムラなく繋ぐなど、どちらかというと整然とした印象で、ファブリーニ氏の理想と個性に彩られたピアノになっていると感じられる。
 
 そのせいか、彼が手がけたプレイエルを2種類ほど録音で聴いたことがあるが、おそらく極上の調整がされているのだとは思うけれども、それがいささかやり過ぎなのか、ひどくつまらない、面白味のないピアノになっていたことは残念に感じたものだった。
 こういうことを言うと多くの技術者から叱られるかもしれないが、それでも敢えて言わせてもらえば、楽器というのは基本は素晴らしく調整されていなくてはいけないけれども、音造りの面にまで綿密を極めた仕事を行き届かせるあまり、生来の個性までもを押さえ込んでしまうことに繋がっていくやり方は感心できない。あくまで大局的見地に立って楽器が持って生まれたものを尊重しながらピアノに自由と健康を与え、最後のところでは良い意味でのアバウトさみたいなものさえも必要ではないだろうか。それが上手く作用することによって楽器が本来の声で開放的におおらかに鳴るものだと感じるし、こういう在り方のほうをマロニエ君は好む。
 
 そういう意味では、あまりに厳しく統制されたガチガチのピアノはまるで自由のない盲導犬のようで、どこか技術者の技術にしめつけられた窮屈さみたいなものを抱えていて好きにはなれない。それに、細緻を極めた調整をやりすぎると楽器の器までもが矮小化する場合があると感じるのはマロニエ君だけだろうか。機械的な調整はやりすぎるということはないけれど、そういう場合、往々にして調律師も相当の凝り性であろうし、彼らの中には楽器の個性を超越したところに理想の音というのがあって、それがどうしてもピアノに投影されすぎるような場合があるように感じる。
 楽器本来の持って生まれた音色や響きを絶対優先──場合によっては「理解」というべきかもしれない──させずに、優秀ではあっても調律師個人の主観と理想によって仕上げられたピアノというのは、一見とてもクリアーで素晴らしいように感じるが、不思議と深い感銘が得られない場合が少なくなく、結局はただ技術者の技ばかりを見せつけられるだけに終わってしまう。
 これはピアノ本来の特性や持ち味と、音造りの方向性や思想が、根本のところで噛み合っていないためだと思われる。
 
 ちなみに、横山幸雄氏が日本で現在進めている戦前のプレイエルを使ってのショパンの録音は、すでに3枚がリリースされたところだが、その調整の見事さには本当に舌を巻くし、日本人の技術というのはまさに世界の頂点だと言っても差し支えないと思う。よくぞここまで戦前のプレイエルを完璧といいたいまでに端正に仕上げたものだと思うが、ただひとつ残念というか心に添わない点は、では、これがこの楽器の本来の響きかどうかということになると、少なくともマロニエ君はどうしてもそうは思われないところがあるのである。
 
 フランスのヤマハに戻す。
 上記のファブリーニを弾いた後あたりから、ルイサダはヤマハを使うようになったとおぼろげに記憶しているが、もしかしたら間違っているかもしれない。ただ、ルイサダは現在彼が獲得しているピアニストとしての地位からすれば、指のメカニックは悲しいかな相応のものではないのは周知の事実だろう。彼の演奏するショパンの評価が高いのも、ひとつには彼が技巧的な劣勢をカバーするために追求され磨き込まれたところの成果ではなかろうかという推測がマロニエ君にはある。
 
 同じスタインウェイでも、技術者の手が存分に入ったピアノは、弾きやすさの点、音色の美しさという点では他の平均を大きく上回るものがあるが、当然ながら逆の場合もある。そういう機械的な確実性という観点から彼らがヤマハに辿り着いたのだとしたらじゅうぶん考えられることだろう。というのも、ヤマハは単なるアクションの問題だけでなく、その音色も含めた総合的な意味において、少なくともコンサートグランドの場合、とても弾きやすくピアニストに寛大なピアノであるということは言えるような気がする。
 
 ルイサダはコンサートはもちろん、録音なども現在はほとんど日本でやっているようだし、中堅のミシェル・ダルベルトや古典作品を得意とするアレクサンドル・タローもヤマハをヤマハを多用、いま最も期待される実力派フランス人ピアニストのひとりであるジャン=フレデリック・ヌーブルジェに至っては、年代や収録場所の異なるCDでもピアノはすべてと言っていいほど徹底してヤマハを弾いているようだ。
 逆にこの流れに入らないのはピエール=ロラン・エマールとエレーヌ・グリモーで、彼らは一貫して定番のスタインウェイを弾いているものの、フランス人ピアニストとしてはこちらのほうがちょっと異端な感じがするし、彼らの演奏はスケールこそ大きくはないものの、そのスタイルは国際規格であって、フランスという枠内にとどまってはいない。
 
 ひとついえることは、フランスで録音されたヤマハを聴いている限りにおいては、日本で聴くヤマハとはかなり違うという印象がなくもない。ひとくちに言うと、これがヤマハかと思うほど、とても繊細で音が柔らかく、やや小ぶりに上品にまとまっている。そしてピアノの個性があまり前面に出ることなく、演奏をあくまでも黒子的に支えているピアノという感じだ。
 これらの要素を考えていくと、もうおわかりかも知れないが戦前のエラールを連想させるタイプという気がしてくるわけで、ピアノは完全に脇にまわり、あくまで作品と演奏が主役となっている。
 
 ルイサダが日本でおこなった録音の中には、同じヤマハでも本当に美しい華やかな音色のピアノがあるかと思うと、いかにも日本的な味噌汁みたいなヤマハの音で思わず抵抗を覚えるものもあるが、その点、フランスでのヤマハには目のつまった上質な布地のようなしなやかさと上品さがあって、独特の節度ある美しさがはっきり聴き取れるのはマロニエ君も認めないわけにいかない。
 その代価というべきか、楽器としての大きさはないけれども、ベーゼンドルファーのような一種独特の臭味もなしに、弱音域の繊細さを表現できる垢抜けたピアノになっている点は大いに評価したい。
 ひょっとすると、はじめからフランス人たちは確信犯的に、ヤマハにスタインウェイ的なスケール感を見切った上で、ピアノにより華やかでセンシティヴな面だけを活かした音造りをやっているのかもしれないし、それに適った演奏によって洗練された音楽表現をしていることも考えられる。
 
 こういう成り立ちの演奏を聴いていると、なるほどスタインウェイのいかにもスケールの大きな華麗な音色は、フランス人ピアニストの好むデリケートなニュアンスには若干齟齬を生んでいたのかもしれないという気がしてくるし、それがしだいに理解できてくるところがおもしろい。
 楽器そのものが強靱かつブリリアントで、すでにスタインウェイという色の付いたピアノであること、またこのピアノの持ついかにも英雄的な性格が、彼らの軽妙で陰翳を必要とする感性にはやや合わないことは充分考えられる。
 
 さらにフランス人は、ピアノに対するイメージを、今日的なコンサートの基準であるホールよりも、ショパンの時代に見られるようなサロン的な規模のこまやかさのある楽器と捉えて、よりコンパクトでデリカシーに溢れた楽器であることを求めているようにも思われてくる。決して既存の基準に盲従することなく、そのようなイメージの問い直しができる点もフランスの文化の深さを感じさせられるところで思わず唸ってしまう。
 
 そういう意味では、フランス人のイメージにあるヤマハは、ヤマハ自身が本来目指しているものとは少々違ったニュアンスに落とし込まれている可能性もあるのかもしれない。つまり、フランス人はヤマハをあくまで自分達流にちょっと上手に使いこなしているように感じられるのだが、そういう実に巧みな、他では思いつかないような使い方を発見する彼らの独創性にはいまさらながら敬服する。要はヤマハを使っていても、それは決してヤマハに対する全的肯定ではないのだろう。
 
 かつて、ミシェル・ベロフやジャン=フィリップ・コラールが彗星のごとく世に出てきた70年代の録音などは、ピアノはスタインウェイだったが、その音はかなり通常のスタインウェイとは違うものだった。いかにもフランスピアノ的華やかさに溢れたもので、スタインウェイの持つ音の太さや荘重さを犠牲にしてでも、線は細いけれども贅肉をそぎ落としたようなシャープかつ華やかなピアノだった。とうてい他の国では受け容れられないピアノだったと思う。
 
 その他にもジャン・ドワイヤン、セシル・ウーセ、フランソワ=ルネ・デュシャーブルなどは一時期ベーゼンドルファーを使っていたが、ドワイヤン以外はこのウィーンの強いイントネーションに最終的に馴染めなかったのか、その後はスタインウェイを弾いたようだ。ベーゼンドルファーはもちろん素晴らしいピアノだが、ウィーン特有なある種の個性──野暮ったいことを逆手にとって崇高な美にまで高めたような──は、おそらくフランス的センスの前では、民族学的にも相容れないもののほうが大きいはずだ。
 名匠イーヴ・ナットはエラールとスタインウェイを引き分けていたようであるし、コルトーは大半をプレイエル、晩年にスタインウェイ、フランソワは多くをスタインウェイで弾いていたように思う。
 
 これほどフランス人ピアニストがスタインウェイを使いつつもそこに安住せず、さまざまなピアノの音色に試行錯誤してきたのは、自国のピアノが大戦を境に弱体化してしまい、同じDNAを持つピアノを失ってしまったためかもしれない。
 
 そして、このところ彼らが目をつけたのがヤマハということだろうか。少なくともフランスに於けるヤマハへの支持の高さは並々ならぬものがあるのは間違いないようで、この勢いなら少なくともパリでは、コンサート会場はもしかしたらヤマハのほうがスタンダードという可能性もあるだろう。
 
 そういえば、スタインウェイに鞍替えして、生産国の日本でさえもヤマハを弾かなかったショパンコンクールの覇者アヴデーエワは、パリでのリサイタルでは、あのオフィス着みたいな黒いパンツ姿からお姫様風ドレスに大変身して、再びヤマハを弾いているのにはまたまた驚いてしまった。
 まったく何がどうなっているやらこの業界のことはさっぱりわからないが、いずれにしてもフランスはやはり独自のものを失っていないということだろうか。
 
 面白いのは、これほどヤマハが異例の高い評価を受けながら、カワイは見向きもされず、その気配もないのはどうみるべきだろう?
 マロニエ君の想像では、カワイにはわずかながら伝統的ピアノの源流を思わせる色があるからだと思う。その色というのは、ドイツ的とまで明確には言い切れないけれども、強いていうなら中央ヨーロッパ的とてもいうべきで、少なくとも西ヨーロッパの明るくて軽い色彩と燦々たる光りのまぶしさはない。どちらかというと、わずかな陰鬱さと深いものを求める生真面目なピアノである点をフランス人は敏感にかぎ取って、自分達の求めるものとはやや異なる要素の存在を見逃していないのだろう。
 その点、ヤマハは明るめといえば語弊があるが、少なくとも現代的な音色でありながら、しかもこれという楽器が放つ主張がない。音だけを聞いているといったいどこのピアノかまるでわからないような匿名的かつ無国籍的な音だし、しかも古臭さのない音がするところを、フランス人は自分達の必要なところだけ上手く捉えて使っているように思われる。
 ヤマハの持つこれらの要素、さらにはピアノとしてのある種の寛大さ、楽器としての潜在力があまり大きくないことがフランス人の求める色合いにたまたま適合したのではないだろうか
 
 かつてのプレイエルのようにフランス人そのものから出てきたような個性ならば相性も抜群だろうが、そうではない場合は、却って特徴的な音色がないほうがいいことは、エラールのようなピアノが昔からプレイエルの陰でしっかりと同時並行的に支持されてきたフランスの土壌ならではと言えるかもしれない。
 
 現代のプレイエルはついにコンサートグランドをカタログに載せるに至り、その音色はたいそう柔らかなものではあったが、まだまだ完成の域には達しているとは言い難い印象だった。フランス人にはどんな評価を下しているのか聞いてみたいところである。
 ちなみに、プレイエルのコンサートグランドP280はバイロイトの老舗、シュタイングレーバーによって委託生産されているということを耳にしたので、日本のシュタイングレーバー輸入元であるS氏にその旨を聞いてみたところ、現在のプレイエルにはまだコンサートグランドを製造する力がないので、おそらくそういうことだろうという回答が返ってきた。
 
 それが事実だとするなら、やはりピアノは民族性が色濃く出てこその楽器なので、わけてもコンサートグランドともなればぜひとも自前で作って欲しいものだし、それができないのなら、他国の工房に委託してまで作る必要があるのかと思われる。ドイツで作られたプレイエルという構図は昔も一度あったことだが(シンメル)、それでは一体何のためのプレイエルかとも思うし、だいいちこれではドイツピアノなのかフランスピアノなのかも甚だわかりにくいものとなる。
 
 シュタイングレーバーはドイツピアノらしい規律と実直さの中に、柔らに薫るような肉感的な響きを併せ持ち、あたかもドイツの威厳と優雅と官能が共存しているといった印象があるが、あのプレイエルP280の柔らかな要素はシュタイングレーバーの潜在力を活かしつつ、フランス的に味付けを変えて出来上がったものというわけか。
 ただし、いまだ発展途上というべきで、フランス人ピアニストたちが歓迎しているようにもあまり感じない。
 
 そのうちこの新生プレイエルにフランス人が触手を伸ばすのかどうかは知らないが、ここ当分はヤマハを使い続けることになるような気もする。