CDの怪しい気配

 最近CD店に行くと感じることだが、行く度にわずかずつではあるが、どことなく勢いがなくなってきている気がして、それを思うとあまり愉快ではない。
 以前ならクラシックの売り場は静かでも、それ以外のスペースではそれなりに活気があったものだが、最近ではそちらも以前のような元気がないように見えてしまう。これがマロニエ君の杞憂ならいいのだが、雰囲気というものには理屈を超えた何かがあって、なんだかそのうち突然撤退などということがあるのではないかと内心ヒヤヒヤしてしまう。
 
 商品構成にもそれはあらわれていて、行けば自分の興味のあるところは隅から隅まで見尽くすので大体覚えているものだが、商品の入れ替わりが遅く、売れない物はいつまでたってもそこにある。だからだろうが新しい(新譜とは限らない)商品は少しずつは入ってきているものの、ショップに本来望みたいような活気もなければ商品がたえず動いているという感じもあまりない。見渡せば同じフロアにあるジャズの売り場もずいぶん静かな感じがするから、おそらくはCDビジネス全体が被っている不況の波ということだろか。
 
 また、レコード会社のほうも市場が慢性的に冷え込んでいるために、過去の商品をさまざまに組み替え、値段を下げて再販することや、輸入物では以前ならあり得なかったような網羅的な全集など、セット物や再販廉価シリーズなどで価格を落とすという、どう見ても不本意と思われるやり方で凌いでいるようだ。そうは言っても、とりあえず買う瞬間に安いというのは理屈抜きにCD購入者にとっては、直接ありがたいことには違いないし、マロニエ君もさんざんその恩恵に浴しておきながらこんなことをいうのも忸怩たるものがあるけれども、この調子で行くとそのうちどん詰まりを迎えるのではないかという心配が頭から離れることがないのである。
 
 もちろん世界的に景気が持ち直し、音楽文化の分野にも豊富な資金と需要が流れ込むようになれば事は解決だろうが、そう都合のいいように行くはずもない。景気といっても経済はこれからはよりアジア主導の時代になるだろうから、西洋音楽が商業的に再び花開くとも思えない。さらにはIT革命の矢継ぎ早な進歩と徹底により、文化芸術まで危機にさらされているようで、これは世の中の仕組みそのものの変化だろうから、ちょっとしたことでは歯止めがかかりそうにもない。
 
 そんな厳しい状況に反して、甚だつまらない、到底売れる見込みのないような新譜の出てくる数はやたら多くて、とてもではないがそんなものにいちいち付き合ってはいられない一面もあるのは不思議である。
 とはいっても、新譜でも価格は輸入盤ならずいぶん安く、メジャーレーベルの新譜であっても、おしなべて2千円以内で買えるようになったのは以前なら考えられなかったことで、素直にありがたいことに間違いない。輸入盤ということは、業者が海外から仕入れて売っているのは明らかだから、明らかに薄利多売で、仕入れ値は果たしてどれぐらいなのか、あるいは肝心の演奏者に支払われるの金額はどれだけかと思うと、つい心配にもなる。
 
 また、よくわからないのが国内版という代物で、同じ内容でもこれになると値段は一気に千円ぐらいのアップになってしまうわけで、曲名表記や解説が日本語になっているというだけで、なぜそんなに高くなるのかがいまもってわからないし、納得できないことのひとつである。しかも、国内版の解説といったって昔のような立派な読み応えのある解説文ならまだしも価値が納得できるというものだが、3つ折ぐらいのペラペラの紙に、肩書きだけは音楽評論家というような人の名で、まことに通り一辺のどうでもいいような文章が載っている程度で、あとは判で押したような演奏者の経歴などだから、ほとんど価値のあるようなものではない。あんなもので千円近くアップなんてとんでもない!そのぶんでもう一枚安いCDでも買ったほうが100倍マシというものだ。
 
 いずれにしろ、メジャーレーベルも大変な苦労をしているらしいことは肌で感じてしまう。たとえば老舗中の老舗であるグラモフォンやデッカなど、昔であればこのレーベルの専属アーティストになるということは、それだけで大変な権威性を有し、いわばレーベル自体が演奏に対する厳格な審査をやっていて、製品化したものには無言の保証をしているのと同義であった。ちょっとやそっとの才能やコンクール優勝者として話題になったからといって、これらの専属になるなんてことはできなかったが、それも今ではすっかり様変わりしており、他社と同じくアーティストというよりは楽器の弾けるタレントを片っ端から捕まえて製品化しているという感じだ。
 
 具体的な名前を書くことはやめておくが、昔なら到底無理であっただろうと思われる若い演奏家が、今は次々に契約して、たいしたこともないディスクがポンポンとリリースされている。どの世界もそうだが、昔のような殿様商売と言ったら語弊もあろうが、格式の高さを看板にしていた一流店は苦戦を強いられ、生き残るために頭の切り換えを求められるようになったことは間違いない。要するに威厳や質を重視しながら誇り高いのれんで商売をやっていける時代はきれいに過ぎ去ったということだろう。
 かつてのようにその一流レーベルにあった理念なり哲学を堅持し、厳選されたものだけを製作・発売するのではなく、第一義として現代の市場で売れるという結果を出せそうなものなら、どんどん妥協的に作るようになった。同時に昔のようなCDの価格維持もできなくなり、どこも値下げ競争という荒れた海を泳いでいる。これは製品の質的内容の維持という意味ではたいへん残念なことだと思う。
 
 そうかと思うと、かつての名盤をリマスターしてSACDのような高級オーディオに対応するようにした製品もチラホラ見かけるが、これはかなり価格が高くなる上に、客のほうでもその価値を享受できるだけの高度なオーディオ機器を揃えていることが前提となり、これは到底主力商品にはなれない気がする。
 
 いっぽう日本人はあらゆる場面で自虐的という見方が政治・外交・経済などでされているが、これはCDについても同じようなことが言えるような気がする。
 以前も書いたので極力重複は避けたいところだが、まさか売れないことのへの意趣返しでもなかろうに、国内のレーベルが製作するCDはとにかく単価が冗談のように高すぎる。
 日本人が国内で発売するCDの大部分は3000円ラインで、これは著名アーティストであっても、無名の新人でもかわらない、まるで均一料金のごときだ。枚数の見込める人気アーティストの場合は、明白な商魂の逞しさを感じさせるいっぽうで、無名に等しい新人の新譜などがぬけぬけと3000円のプライスタグをつけるのは、なんとも思い上がりのようでもあり、同時に売れない腹をくくっているかのようで哀れを感じる。
 ほとんど実績らしい実績もない若い新人が、CDでは最高額から市場にデビューしたといって、どういう意味があるのかまったくわからない。こう言ってはなんだが、CDに関してはマロニエ君のような酔狂な人間をもってしても、そのアンバランスな価格では買う気がなくなるのだから、ましてや一般的に商品力があるはずがない。
 本来なら実力、知名度、商品力などの観点からすれば半額でも充分だろう。
 
 いっぽうで少数存在する国内の有名演奏家の場合は、今度はその人気に悪乗りせんばかりに、これまた決して値下げはせず、まるでお盆や正月前には、どこも季節商品の値段が申し合わせたように高騰するのと似たような、日本人流商売の悪しき伝統の流れを感じるのである。
 あまりこれをやられると、そのアーティストの顔まで儲け主義の片棒を担いでいるように浅ましく見えてくるから、本来はマイナスにもなると思うのだが、営業側はそのような演奏家の本来の価値や将来へ繋がる配慮など知ったことではなく、目先の収益のことしか頭にないのだろう。
 
 逆に、有名人でない演奏家がCDを製作する場合、ほとんどの場合は売れないという前提の防御策から事はスタートし、演奏者ははじめから途方もない枚数を自ら買い受ける義務を背負わなければならないらしい。
 それでも演奏者はなんらかのレーベルから自分のCDがリリースされるという魅力と権威付け(になると信じている)に抗しきれず、その理不尽な条件を呑んでいるという。ちなみに自費製作のCDでは全国的な規模の販売ルートには乗せることはできないというやむを得ぬルールがある。
 こんなシステムが横行している限り、日本人の演奏家も本当に力のある人が、それにふさわしい健全な活躍をすることはできなくなるだろう…というかすでになっているはずだ。いまやネットの時代だが、海外のCDは新譜であってもなぜあんなに安いのかが不思議というか、こういうものが先進国並みの価格に安定しない限り、日本は本当の文化国家とはいえないのではないだろうか。
 
 さらに、現在はCDやコンサートも実力とそれに附随した人生ドラマを兼ね備えた人でないと集客力がないというが、これも実に嘆かわしいことである。マロニエ君はべつに空虚な理想論ばかりを言い立てようという気は毛頭無いけれども、やはり芸術家はその芸術行為それ自体で自らを世に問い、勝負をかけ、それによってのみ評価をされる、そういう当たり前の時代がやってきて欲しいと願うが、どうもその見込みはなさそうな気がする。
 
 つい先だっても、人から「CDはそのうち無くなるらしいですよ。だから大事にしておかないと、もういろんな音楽が聴けなくなりますよ!」といわれて、それが本当かどうかは知らないけれども、とりあえず聞いただけで暗澹たる気分になってしまった。
 ネット配信なんていったって、それはたった今欲しい物だけを刹那的に我が身に引き寄せて、厳密にいえば音楽さえも次々に使い捨てにすることのようにしか思えない。それで本当に手応えのある、人間の感性や生理に適ったライブラリー形成・文化の集積・構築などできるはずもないと思うけれど、そんなことは吹き飛んでしまうような時代である。
 
 先日読んだ雑誌には、現在尚、あまたのLPレコードを持っている人は少なくないだろうが、それをすぐに再生できる環境を整えている人は僅少だということが書かれていた。プレーヤーは持っていても電機製品の宿命で、しだいに動作には困難が生じ、修理のためのパーツもメーカーにさえ存在しなくなり、さらに買い換えも極めて困難であるという。また直接の消耗品であるカートリッジなども、極めて狭い範囲の、高額な製品の中から妥協的に選ばざるを得ず、最終的には音源をデジタルへ移行する手段を講じる以外に現実性の高い道がないだろうというのである。
 マロニエ君もまさにこれに該当し、自分としてはかなり夥しい量のLPを所蔵しているが、再生されることもないまま貴重な空間を占拠しているだけだから、なんとも身につまされる話であった。
 
 バブルの頃のような浮かれた時代がよかったなどと阿呆なことを言うつもりはないが、文化が衰退傾向にある昨今の状況に追い打ちをかけるように東日本では大震災が発生し、そこから原発停止、節電、経済の疲弊など、暗く厳しい問題ばかりが何事にも先行する時代が我々の目の前にあるらしい。これが当分は続きそうな今日、ついとりとめもない暗い話ばかり書いてしまったが、願わくはもう少しゆっくり穏やかに、少なくとも文化芸術の分野ぐらいは、最低限の水準は維持しておいてもらえないものかと思うばかりである。
 かつての悪しき社会主義の為政者でさえ、文化芸術の重要性は認識してこれを擁護してきたのだから。
 
 新しいIT機器が登場するたびに、既存の多くのものがそれによって滅ぼされていくような、そんな凶器のようにしか感じられないことが恐ろしいと思うこの頃である。

藤井ピアノサービス

 ひとくちにピアノの専門店といっても、そのスタイルはいろいろだ。
 メーカーの直営もしくは系列の販売店のたぐいならば取扱いブランドも自ずと決まっていて、特定ブランドの現行ラインナップのピアノに触れることができるが、本当にピアノ好きのマニア心を刺激し満足させるようなディープな店というのは、必ずしもそういう店ではないのが趣味の世界のお定まりというものである。
 
 マニアの心を捉えて離さないのは、フリーの技術者が個人経営でやっている、銘柄もさまざまなピアノを置いている工房兼店舗の類であろう。その点ではメーカー系列の店舗は構えは立派だが、同じブランドの新品が大小ズラリと並んでいるだけで、あくまでも営業中心のいささかドライな販売の現場である。
 その点、趣味性、意外性、さまざまな発掘発見、技術的興味、混沌の魅力、店主のピアノに対するこだわりとか哲学のようなものに触れるといったようなことは、ほとんど個人経営のピアノ店でしか味わえない魅力である。
 
 そうはいっても、ピアノは一般的な意味での商売のしやすい商品とは言い難く、修理や販売で店が成り立って行くのは容易いことではない。昨今は実用品でもなかなかモノが売れない時代となり、ましてやピアノ購入のニーズなど巷にそうあふれているはずもない。たとえ音楽は好きでも、弾けない(もしくは弾くことに興味がない)人にとってはピアノは無用の長物であり、購入に至るのはごく限られた数になる。しかも、一度買えばパソコンのように何度も買い直すようなものでもないから、決して動きのいい商品ではないだろう。
 さらには近隣への音の問題や、重くて大きな図体ゆえの設置事情など、ピアノはいわばローテクの塊で、社会学的にも購買者にのしかかる制約は数多い。近年そこへ入ってきたのが軽量便利で安価な電子ピアノで、この電気製品が本来のピアノのニーズをいよいよ侵食し圧迫している。
 ピアノのある生活を心の滋養のひとつとして捉える風雅は、残念ながら年々失われているようだ。
 
 そういう諸々の背景があってか、現在はピアノ店そのものが減少傾向に転じて久しく、ほとんど無いに等しいと心得ねばならない。全国的にも極めてその数は少ないのが実情だし、ましてや自分の居住エリア内ともなれば、それに該当する店の存在などほとんど絶望的である。
 
 そんな中、知人のピアノ好きのひとりが懇意にしている店で、鹿児島県は薩摩川内市にある藤井ピアノサービスというのがあり、彼はここからシゲルカワイを購入している。聞けばずいぶんいろいろなピアノがあって、店主のこだわりも相当なものらしい。マロニエ君はかねてから一度は行ってみたいと思っていたところ、ようやくその機会が巡ってきて、開通間もない九州新幹線を利用してここを訪問することになった。
 
 「川内」と書いて「せんだい」と読むが、宮城県の仙台と区別するために、敢えて薩摩川内市と呼ばれているのではないかと想像する。
 駅に降り立つと、そこは決して大きな街ではなく、印象としては北部九州でいうなら唐津市ぐらいだろうか。それなりの都市部でもこれはというピアノ店はほとんどないのに、果たしてこんな小さな街に本当にそんなディープな店があるのだろうかという思いがどうしても頭をよぎる。
 駅から普段の自分ならば絶対に歩かないような距離をトボトボと知人について行くことしばし、町の商店が居並ぶ広い通りに面して藤井ピアノサービスはついにマロニエ君の目の前に現れた。
 ドアを入ると、いかにも昭和といった雰囲気の店内には一台のレストアされたカワイのグランドが目に飛び込み、その他は多くのアップライトピアノ(主に日本製)が所狭しと並んでいる。
 
 藤井氏を紹介されて挨拶を交わし、ひとまずはとりとめもない話をするが、大変気さくな方でまずは安心する。傍らにいる作業用エプロンを付けた若い女性もピアノ技術者なのだそうで、調律はもちろんのこと、なんと修理までをこなすという本格派なのだそうで大したものである。主にこの二人で店は切り盛りされているらしく見受けられた。
 入口近くに置かれたカワイはNo.650という40年以上前の中型グランドだが、新品と見まごうほどに美しく仕上げられ、赤のフェルトも鮮やかに、フレームも現代流のしっとりした茶色がかったゴールドに塗られている。その見事な仕上がりがまずもってこの店の仕事の上質さを静かに語っているようだ。しかし、藤井氏は単なるピアノ技術者には留まらない追求の人で、創意工夫の達人らしい。
 
 大工の職人であったというお父上から受け継いだ技術者としての気質が、藤井氏をピアノの世界でも型破りでアクティヴな革新者へと導いたようである。
 驚くべきは藤井氏の考案による独自のシステムが数種ある由で、そのひとつがアップライトピアノが構造的に背負うタッチのハンディを解消し、グランドと同等の働きをさせるという画期的なものであるらしい。詳細はマロニエ君のような素人にはわからないが、既存のアクションにこのシステムを装着することでそれは可能となるようだ。
 おそらくはダブル・エスケープメントというグランド用アクションが持つ、打鍵後キーを半分戻すことで次の打鍵が可能な状態を維持する機構をアップライトのアクションにも持たせるということだろうと思われる。ちなみにアップライトのアクションはシングル・エスケープメントといって、キーを完全に戻した後でしか次の打鍵はできないとされている。
 このシステムを装着したピアノが二台あったが、なるほど連打性がアップしているようで、さらにはアップライト特有のスッと鍵盤が落ちていく感触がいくぶん違うようで、これは単音を鳴らしてみた程度では正直いってわかりにくいが、おそらく腰を据えて曲を弾いてみればその違いが明瞭になるだろうと思われた。
 
 このシステム、すでに大手メーカーからも探りを入れられているというのだから、これが本格的に採用されることになれば、ピアノ界では一種の機構革命となるのであろう。ちなみにその名は「グランドタッチ」で、ついヤマハの電子ピアノの「グランタッチ」を連想させる。ヤマハの「グランタッチ」が電子ピアノの中に本物のグランドピアノのアクションを搭載しているのに対し、藤井氏の「グランドタッチ」はアップライトのアクションをグランドのそれと同様な機能を持たせることで、連打性などをグランド並みに向上させるというもの。いずれもグランドピアノのタッチ感をグランド以外で実現しようという発想が根底にあるという点では、名前のごとく共通した思想だといえるかもしれない。この藤井氏考案のシステムは驚いたことにすでに国際特許も取得済みというのだから、これはすでに一個人のちょっとしたアイデアといった枠を飛び越えて、普遍性を有するれっきとした革新技術として大きく羽ばたこうとしていることが窺える。
 
 ちなみにこの「グランドタッチ」の説明会を開催すべく、マロニエ君がここを訪れた約10日後には、グランドタッチ装着のアップライトピアノを3台!トラックに積み込んで、新潟、埼玉、大阪などへ説明会の大巡業へと出発される由だった。これは、おそらく総行程4000キロに迫るであろう大がかりなもので、行く先々には興味を示すピアノ技術者の面々が待ち受けているとのことだった。ピアノ技術者に留まらない開発者の顔をも持ち、このあとに述べるような店舗を作りあげ、必要とあらばエネルギッシュな行動力まで併せもつという、何事によらず藤井氏は有能でアクティブな行動人である。
 
 
 さて、この1階部分だけでもピアノ技術者が営むたいへん立派な店であるが、驚きはここからで、1階のこの工房兼ショールームはあくまでその序章に過ぎない。音楽で言うならブルックナーのシンフォニーの導入部のようで、広大な世界に通じるここはまさに静かなる入口というところか。1階での話が一息ついたところで、いよいよ上階へと案内してくださることになった。
 藤井氏の先導によって入口近くにある階段を上ってついていくと、すでに階段を数段昇ったあたりから、1階とは何か違った空気が流れ出したのをかすかに感じたが、その先にいかなるものが広がっているのか期待と不安に包まれながら後に続いて階段を上る。
 
 さて、2階に行くと、状況はまさに一変する。
 1階のいくぶんこまごまとした印象とは打って変わって、2階は一気に広々とした開放感があり、そこに輸入物のアップライトが整然と並んでいるが、どれもが並の楽器ではないのである。マロニエ君の悪いクセで、何台ものピアノが並んでいる場所では、展覧会を見るように一台ずつ順序よく見ていくことができずに、思いのまま好き勝手に見てしまうばかりで、どれだけのメーカーが何台あったというようなことは正確に思い出せないのだが、突出して印象的だったのは新旧のベヒシュタインのアップライトであった。
 というのも、そもそもマロニエ君はアップライトにはグランドほど猛烈な興味はないのだけれども、それでもベヒシュタインのそれには昔から格別の敬意を払っている。最高峰のコンサート8の素晴らしさを筆頭に、それよりも小さなサイズのアップライトもベヒシュタインはどれも際立って高品質で、アップライト全体として見ればおそらく世界一だと思っている。
 この2階にあった新しいほうのベヒシュタインはやや小ぶりなサイズだったが、アップライトとは思えぬ上品な音が端正に揃っているのは、やはり世界の一級品というほかない。タッチもそれを裏付けるように非常に繊細かつムラのないもので、いかにもドイツ製品らしく誠実に作り込まれたものだけが持つ独特の上質感がある。もう一台は戦前のコンサート8だったが、これがまたその無骨な外観とは裏腹な気品に満ちたふくよかな音、そのまろやかなタッチなど、優雅の極みのようなピアノである。
 現代の消費社会では、だれでもお金さえ出せばこういうピアノを手にすることもできるわけだが、本質的にこのコンサート8のようなピアノは一般庶民のための楽器ではないということが、その感触からも伝わってくるようである。ほかにもスタインウェイの小型やホフマン(ベヒシュタインの廉価ブランド)などもあったが、気がついたら触れてもいなかったのが今にして思えば非常に残念である。それほどこういう場では、自分の関心のあるピアノにばかり偏って惹きつけられてしまい、満遍なく見ることを忘れてしまっていて後から後悔するばかりだ。
 
 ここには一台だけほとんど新品に近いベヒシュタインのA-190というグランドがあったが、これも以前別の項で書いた、すべてがベルリンで作られるベヒシュタインの純正シリーズの、ひとつ下にあるアカデミーシリーズというモデルだが、ちょっと触らせていただいたところでは、これがまたなかなか上質なピアノだった。ベヒシュタインとしてはむしろ明るい感じの鳴り方をしていて、これは音質に対しては非常に良心的なプライスではないかと思う。正直に言うと、むしろ純正ベヒシュタインのほうの普通サイズのグランドの中には、値段ばかり高くて、新品でもさして良いとは思われないものも何台か経験しているので、却ってこちらのほうが好ましいのでは?とさえ思えてくる。
 
 音はまろやかさのなかに明瞭な芯があり、現代的かつヨーロッパ的と言っていいかもしれない。いかにもヨーロッパ産の響板を使っているという感じの立体感のある音だったし(実際の産地は知らないが…)、タッチもなめらかで密度感があり、大変好ましいものだった。また現代のベヒシュタインは製品仕上げの美しさでも抜きんでたものがあるが、その良き社風を受け継いでか、このAシリーズも作りがたいへん丁寧で美しいのも印象的だった。
 
 そんなこんなを見て、触って、感じていると、さらにこの上に3階があるのだそうで、今度はそちらに案内されることになった。
 1階/2階だけでも、もうかなり満腹気味になっていたのだが、3階はまさにトドメの一撃を受ける場所だった。
 そこには3台のグランドが大屋根まで開けられた状態で居並んでおり、その鮮烈な光景は入口に立つ者の目に生々しく突き刺さってくる。
 中央にはカワイのコンサートグランドEXがあり、その美しい競走馬のような姿をこちらに晒しながら、近づきがたいようなオーラを発しながら静かに佇んでいる。
 
 これは一体なんということだろう…。
 川内駅に降り立ったときの印象では、およそピアノ店だけでもあるのかどうか、ましてや輸入物の高級機など無縁に思われたものだが(こういう言い方をしては失礼かもしれないが、実際福岡にさえこういう店がないのだから、体験的にそう感じてしまうのも致し方ない)、知人に導かれてここにやって来て、とりあえず普通のピアノ店らしき店に入ったものの、階段を上るたびに目の前の世界が魔法のように変わっていくという、まったくもって不思議な体験をしてしまい、どうも自分の中のバランスが狂っていくようでもある。
 これは意外というよりは、ほとんど何かのトリックのような感じというほうが正しいかもしれない。
 
 言い忘れていたが、カワイのEXの左右にはベーゼンドルファーの200とベヒシュタインのA-190、さらには最近生産を止めてしまったプレイエルのアップライトが置かれている。
 
 2階はまだ自分の意志でピアノに近づいて、いろいろと眺め回す感じであったが、3階はもはやピアノから発せられる磁力によって、ふらふらと吸い寄せられるごとく中へ入っていくようだった。
 そして、この空間はほぼカワイEXによって支配されているという観がある。もちろんベーゼンドルファーの200も普段なら滅多にお目に掛かることのできない名門ブランドの稀少なピアノであり、価格だけならむしろこちらのほうがEXよりもいくぶん高いのかもしれない。しかし、グランドピアノの中でもコンサートグランドというのは別格で、問答無用に辺りを払う圧倒的な存在感があり、さしものベーゼンドルファーもここではEXの太刀持ちか露払いといった感じがあるのは否めない。
 
 カワイEXはその外観デザインもとても優れていて、この点ではいくぶん鈍重な印象のあるヤマハより、はるかにスタイリッシュで洗練された優美さを持っており、見ているだけでもその造形と存在感には惚れ惚れさせられる。
 ちなみにピアノはどれも同じ形だと思っている人も少なくないだろうが、もちろん基本は酷似しているが、どのメーカーのピアノもディテールなどの形がすべて少しずつ違うことで、結果的にはそれぞれの個性となってあらわれている部分でもある。
 ヤマハとカワイでももちろん細部の形状は異なり、マロニエ君の私見では、好き嫌いを別にすれば全体的にはヤマハのほうがやや洗練されたそつのないデザインだという気がするし、カワイはわずかながら後れをとっているところがある。
 
 ところがコンサートグランドに限ってはこれが逆転し、カワイのほうがその姿はとてもエレガントでヨーロッパ風であるし作りもさすがに美しい。その点ヤマハはいかにもヤマハという感じで、仕上げは上質だが肝心のプロポーションが日本人体型というか鈍重であまりよろしくない。コンサートグランドともなると、音や響きはもちろんだが、ステージでライトを浴び、聴衆の目に晒されるものであるだけに、その立ち姿も観賞に堪える美しいものでなくてはならないとマロニエ君は思っている。この点では最新鋭のCFXは基本のプロポーションはそのままディテールのデザインだけが変更され、マロニエ君の目にはますます変な方向に行ってしまったというのが率直な印象だ。
 
 話は戻るが、こんな空間に案内されて、どうぞ好きなだけ弾いてくださいといわれるのだから、「据え膳食わぬは男の恥」ではないけれど、さしものマロニエ君も恐る恐る手を伸ばさずにはにはいられない。そして、その興味はどうしてもEXに向かってしまうのが自分で抑えられない。
 ちょっと触れてみただけでも、とても素晴らしいピアノであることは忽ちわかる。タッチもしっとりと柔らかくて軽いし、音も非常に落ち着いていて、すべてに余裕があって申し分ない。マロニエ君は折に触れて書いてきたように、人前でピアノを弾くのは超苦手だけれども、ピアノサークルのお陰で少しは強制的に慣らされた部分もあるし、だいいちこんな垂涎ものの状況で物怖じしていては、せっかくのご馳走を食べ損なうことになり、ついに欲が勝ってしばらく何曲か弾いてみた。
 
 果たして、このEXは本当に弾いていて気持ちのいい極上のピアノだった。
 音はいわゆる個性的ではないけれど良い意味での素直さがあって、カワイならではの実直な理想主義が最も純粋な形で結実しているという印象だ。まるで訛りのない美しいピアノの標準語を聞いているようで、本来なら一人になって2~3時間弾いてみたいところである。ピアノにも当然ながら「もういい」と思うものと、いつまでも弾いていたいと思わせるものがあるが、このEXは明らかに後者にあたる快適無比なピアノだった。
 
 横にはせっかくベーゼンドルファーの200とベヒシュタインのA-190、プレイエルのアップライトがあるというのに、結果的に大半の関心がこのEXに注ぎ込まれてしまった。ピアノ好きにとって──というのは語弊があるかもしれないので少なくともマロニエ君に限っては──コンサートグランドには一種の魔性のようなものがあると思われる。
 あの非日常的に長くスリムなボディ、潮が満ちてくるような悠然とした余裕と底力、そこから出てくる華やかでしかも落ち着いた音など、それはこのサイズのピアノだけが持つ次元の世界がそこにはあるのであって、その前では普通サイズのピアノは、たとえベーゼンドルファーでもなんでもとりあえず霞んでしまう。ピアノの良し悪しにはいろいろあるが、一定以上の楽器であれば、あとは弦の圧倒的な長さ、響板の広さこそが勝敗を決するというのも、いささか乱暴なようだが真理のひとつではあるまいか。
 
 話は脇道にそれるが、いぜんもあるピアノ店で新品のスタインウェイのBとDを弾いたことがあった。店の人の話ではとくにそのBは出来が良いとの話だった。しかし実際に弾いてみると、そんな説明もなんのその、Dのもつ落ち着きや深みはとにかく圧倒的で、それに対してBは中型の良く鳴るグランドぐらいにしか思えなかったし、ヤマハでも同様で、CFIIISのあとにC7を弾いたら、こう言っちゃ悪いがまるでペラペラでほとんどピアノですらないようだった。
 
 話を戻す。
 この藤井ピアノサービスの3階は、とくにホールのような構造の場所ではないけれど、音響的にも好ましく、音がほどよく響きつつ決して固く角張ったところがないのが心地よい。藤井氏もお仕事の合間合間にときどき姿をあらわしては椅子に座って、我々の拙い演奏に耳を傾けておられた。聞けばここでこうして聴くのが一番お好きらしく、自分にとっては最高の贅沢なのだという事で、さもありなんと思われる。
 また偶然かもしれないがこのEXは、音色・音量など、この環境にとてもジャストフィットしているようにも思われた。
 
 思い出したが、過去にマロニエ君はEXを使ったコンサートに何度か行ったことがあるが、そのときの印象としてはやはり全体のまとまりが良く──これはとくにピアノのような大型楽器ではとても大切な事──音色の美しさと音楽性も充分にあり、非常に完成度の高い実直なピアノだという好印象があったが、唯一惜しい点としては、大きなホールでは若干パンチがないことだった。
 この点はカワイもよく承知しているとみえて、SK-EXではまずもってこのパワーアップが図られたようだ。しかしマロニエ君が一度きり行ったSK-EXのコンサートでは、パワーは増強されているものの、EXに見られたような完成度がもうひとつ感じられないものだった。むろん、さらにその後、どんな改良がなされたかはわからないが。
 
 さてこの藤井ピアノサービスにあるEXは、カワイの社内で所有していたピアノの由で、どこかのコンクールに持っていくために作られたピアノの中から、最終的な選にこぼれた一台なのだそうで、以降は貸出などに使われていたピアノという来歴らしく、いわゆる普通のEXよりも優秀な一台らしい。
 
 それもその筈で、このピアノの音には端正な美しさがあり全体のバランスも非常に素晴らしい。音や響きにもムラのない清々しい健康体であり、しかも繊細さも併せ持つという完成度の高いピアノだと思った。ただ、強いていうなら、非常に美しいけれど性格はややおとなしいピアノだと思った。コンクールに出場しなかったのはこのおとなしさ故ではないだろうか。歌手などでも非常にリリックで繊細な美しい声を持ってはいるが、大劇場のオペラなどにはもう一つ声量の足りないというような、しかしきわめて高度な音楽性をもった優れたリートの歌い手などがいるものだが、このピアノはまさにそれだろう。
 大ホールのリサイタルやコンチェルト向きではないけれど、小規模なコンサートや私的な使い方をするには、まさに理想の一台のように思われる。マロニエ君はこういう自分の内面に語りかけてくるようなピアノが大好きで、例によって盗みに入って一台持ち逃げするなら迷うことなくこのEXである。とにかく素晴らしいピアノだった。
 
 余談だが、後日別所でスタインウェイの同サイズのピアノを弾いたら、その出てくる音のパワーと華々しさにはびっくりした。やはりこちらはステージこそが生きるべき場所のようであるし、おそらくは新しいSK-EXは他の強豪と同等のパワーと華麗さを身につけて国際舞台へと送り出されているのだろうと思われる。
 しかし、マロニエ君としてはいまだにこのEXの素晴らしさが心に残って離れない。
 
 もちろんEXと並んでいたベーゼンドルファーの200とベヒシュタインのA-190も弾いてみたが、EXを弾いた後ではいかんせん条件が悪い。ベーゼンドルファーは例の澄んだ中にもやや鼻にかかる尖った音がしており、ベヒシュタインは2階にあったものと同じモデルであるが、こちらはもっと引き締まった透明感のある音がするピアノだった。2台とも単独でみれば素晴らしい楽器であることに間違いはないが、なにぶんにもコンサートグランドと席を同じくするするピアノは、どうしてもその風圧におされて不利であることは免れない。
 人間の感覚というのはどうしても相対的なものだから、ましてや同じ場所に並ぶものとは無意識に比較してしまうのが本能で、EXを弾いたあとでは、まずなによりそのサイズからくる限界のほうを先に感じてしまうものだ。
 ちなみにピアノは奥行き2m前後が設計上の最良バランスのように言われるし、それはそうなのかもしれないが、やはりピアノは圧倒的に奥行きがものをいう世界で、コンサートグランドだけが持つ深みと余裕と途方もない潜在力は、他の追従を許さないものがある。これにくらべると、より小型のピアノはどんなに良くできているものでもどこかに無理をしているように感じてしまうし、音質もサイズが小さいほうがキツくてうるさい感じの音になる。温泉に対する家庭風呂の限界みたいなものだろうか…。
 
 それにしても藤井ピアノサービスはなんとも不思議な残像をのこすピアノ店であった。
 通行人の誰の目にも触れる、ある意味で普通のピアノ店である1階から、許可を得た者だけが踏み入れることの出来る2階と3階。そのあまりな急激な変化は、現世、空中、天界とでも呼びたくなるものであった。
 
 ピアノ店に限らず、店の構造というのはごく一般的な形体としては、外から見た感じや店内に入った第一印象を最も重視して作られ、まずそこで来訪者のインパクトを得るべく最大のエネルギーが払われているのが定石である。それがこの藤井ピアノサービスでは正反対になっていて、それだけでも訪れる者を、奥へ分け入るほど驚きの淵に落とし込んでしまうという流れはちょっと他に例がない。
 
 もしかするとこの店の構造それ自体が、藤井氏の諧謔なのかもしれない。
 藤井氏は決して寡黙な人ではなく、陽気でおおらかではあるが、だからといって必要以上に店やピアノの事をしゃべり立てたり、説明のオンパレードになることは決してない。普通は技術者の店に行くと、話の大半は主殿の果てしない独り語りに費やされるのも決して珍しくはないのだが、そういう意味ではこれだけのピアノを擁しながら、そのあたりは実にあっさりとしている。良いピアノは、くだくだしい説明はせずとも触ってみれば、聴いてみれば、自ずとわかるはずといった自信に満ちた心底があるのかもしれない。
 
 聞けば藤井氏はこの川内の生まれで、根っからの薩摩隼人のようである。
 むかし司馬遼太郎の文章で読んだことがあるが、薩摩人というのは独特の気質と精神性を持っているのだそうで、例えば──具体的な場所は忘れたけれど──ある場所へよそ者がくると、目指す場所への行き方を簡単に教えるだけで、それ以上は敢えて何も語らないそうなのである。そしてその場にたどり着いた人達は、そのあまりの絶景に圧倒され、深い感動のうちに戻ってくるらしい。そうなることはよくわかっているので、薩摩人はあえてよけいな説明は加えず、サラリと知らん顔をして、あとのことは当人の素直な感性に委ねたりするのだという。
 そういう薩摩人の体質をこの藤井氏の中にも見た気がしたマロニエ君であった。
 薩摩に生まれ住む人達は、心の裡に気概と矜持を有し、しかも表向きは情緒豊かでおかしみのある人達なのである。
 
 しかも何度もいうが、薩摩川内市という人口わずか10万ほどの小さな町(といっても表向きの面積は福岡市の倍ほどもある!!)に、こういう異色のピアノ店が存在すること、この摩訶不思議は帰宅後数日を経ても尚、ずっと続いている。
 
 できればもう一度、今度はもう少し冷静にこの店を訪ねてみたいものだ。
 もちろん藤井氏が「どうぞ、またいらっしゃい」と言ってくださればの話だが…。

新しさの価値と熟成の価値

 ピアノほど、コンサートや録音で年代物の美しい声を持った楽器を使わない世界がほかにあるだろうかと、いつながら思ってしまうものだ。
 
 はじめに断っておきたいのは、ここでいう「年代物のピアノ」というのは、ただ単に古いという意味ではもちろんなく、もともと名器として生まれ、優れた管理の元に置かれ、きちんとしたメンテを受けながら使い込まれた、熟成された楽器特有の美しい音を持つピアノのことである。ちなみにここでマロニエ君が言いたいのは、フォルテピアノのようないわゆる古楽器のことでもなく、あくまでモダンピアノでありながら、経年変化と弾き込みによって豊かな表情と美しい音を出すまでに熟成されたピアノを意味している。
 そういう古いピアノを使用した演奏、あるいはそのCDというのは少し異常なのでは?と感じるぐらい少なく感じるし、感じるだけでなく、実際にそうであるのは間違いない。これは折に触れて書いてきたように、ピアノという楽器の持つ宿命で、もし他の楽器のように自由に持ち運びができるものであったなら、ピアニストも自分の様々な楽器に感心とこだわりを持つようになるに違いないだろうし、それぞれのピアニストの理想や美学やスタイルに基づいて、もっといろいろな古今さまざまな楽器が大切にされ、世界中で活躍するだろうと思われる。
 
 ピアニストはごく一部の例外を除けば、否応なく演奏会場にある楽器を使うのが大前提だから、ホールや貸出業者が準備しているピアノはどうしても不特定多数のニーズをカバーする標準仕様のものとなり、仮に優れた楽器であっても特徴のあるピアノは出番が制限され、最大公約数的な楽器が幅を利かせることになる。つまりピアノは極めてハイレヴェルな八方美人であることが求められていると言っても差し支えないだろう。
 ピアニストという職業自体がこういう環境の上に成り立っているため、他の器楽奏者のように一台の優れた楽器に愛着愛情を持って接し、その楽器から最上の音楽を引き出すような本来の音楽家らしい、こだわりの精神が育たず、どんな会場のどんなピアノでも意に介さず弾きこなせる逞しさを備えることが良いとされ、実際それは必要なことなのだろう。
 それはそれで、現実への対処なのだから仕方がない。
 
 ところが、近年はそういう妥協的判断の結果ではなく、絶対的尺度としても、ピアノは消耗品で、新しいもののほうがよいとされるおかしな風潮があるのは、いくらなんでも認識が間違っているのでは?と思わずにはいられない。先日も雑誌に掲載されたある著名ピアニストへのインタビューによると、「ピアノは基本的に消耗品だから自分は個別の楽器にこだわりも愛着も一切なく、新しいものがいい」などと、所詮は使い捨て品のような言い方を堂々とする御仁がいて、その暴論には大変驚かされたばかりだ。
 日本を代表する著名ピアニストでさえも、要するに楽器に対してはこの程度のドライな認識であるということの証であるが、マロニエ君はそういう人の演奏にはとうてい多くを期待する気にもなれない。
 
 しかし、このピアニストは昔ホロヴィッツが初来日した際に、彼が持参した戦前のニューヨークスタインウェイの音色にいたく感銘を受けて、「ホロヴィッツは帰ってもあのピアノは日本に置いていって欲しい」などと発言したのをマロニエ君はしっかり覚えているし、その後しばらくは自分でもニューヨーク製を使ったりしていたほどだから、このピアノ業者の営業マンのような主張への変説には呆れてしまうばかりだ。
 
 ピアノは張弦力がたいへん強く、フレームに負担がかかっているからせいぜい数十年?100年ほどしか保たないとか、さらにそれを論理的に正当化する言い分はいろいろあるようだが、現実にはどれも真から説得力のあるものではないし、消耗品というのなら億の値の付くヴァイオリンだって、300年近く前の名器であっても、これまた消耗品であることにかわりはなく、未来永劫同じものであるはずがないのである。
 また現実に100年前後経過したピアノでもリニューアルされて、おどろくほど健康に元気よく鳴っているピアノは珍しくなく、わずかながら録音などにも使われているが、とても寿命が来ているなどとは思えない。
 
 然るに、ピアノだけが品質および新しさが楽器の良否を判断する際の基準のようになってしまっているのはあまりに歪んだ価値が蔓延していると言わざるを得ない。これはたぶんにメーカーや販売店のビジネスも絡んだ、まるで霞ヶ関の役人のような、虚実様々に盛り込まれ巧みに仕組まれた論理としか思えない。
 しかし、世に吹く風というものは抗いがたいもので、現実にそういう流れが出来てしまっているために、有名なホールなどは一定期間で順次新しいピアノを導入していくようで、これではまるで、機体を短いスパンで次々に新造機に入れ換えて運行する航空会社が一流だといわれるようだが、飛行機ならなるほどそうかもしれないが、ピアノではどうだろう…。
 さらにはピアニストもホールに新旧のピアノがあれば、大抵新しいほうを選ぶようだから、いわばよってたかって作り上げたおかしな価値観と風潮であろう。新しいほうを選ぶ理由も、純粋な音の美しさや音楽性の問題というよりは、古いピアノは老いぼれで不安だが、新しいピアノのほうがとにかく安心で間違いないという、ほとんど根拠のない思いこみがあるからだ。
 
 その点、昔のピアニストはホールのピアノが新しいという理由で弾きたがらない、あるいは少なからぬ不安を抱くという、現在とはまったく逆の現象があったほどである。もちろんそこには、昔は新しいピアノを即戦力に仕上げるだけの技術もあまりなく、ピアノもある程度弾き込むことを前提としたような作りであったから、厳密には同じ条件とはいえない面もあるだろうが、その根底には使い込まれることで楽器は完成の域に達するという音楽家として正しい経験と認識があり、今のような割り切った消費財のような捉え方はまったくなかった。
 こういうおかしな価値観や感性がはびこっていることも、今どきのコンサートが、深い感銘や味わいがなく、ひどくつまらないものになってしまった一因ではないかとマロニエ君は思っているわけである。
 
 ホテルのようなピカピカの贅沢なホールで、ピカピカの新しいピアノを、サラサラと弾いて、とくに問題もなく終わってしまうコンサート。そして音楽の残像もなく、帰り道でははやくも意識から消えてしまう。その責任の一端は新しいピアノのもつ、ただキズのない新緑のようにきれいなだけの音にもあるような気がする。
 
 ともかく、現在はピアノは新しいものが良いという信仰が強いために、CDなどでも古いピアノを使った演奏というのは必然的にきわめて少なく、マニアックな存在にさえなっている。
 ひとつには、ピアニストも(所詮は借りものの楽器だから安全指向もあってか)できるだけ新しめの若さ溢れたピアノを弾きたがるようだし、とくに録音ともなれば古いピアノはくたびれているというイメージが刷り込まれていて嫌がるのだろう。
 さらにひどいのは録音関係者で、彼らはピアノに対してまるで新車のように新しい物がエライという感覚をもっていて、それは想像以上の頑固な思いこみがあるようで、彼らはものの価値をほんの一面からだけしか捉えることができないように感じる。
 
 古いピアノのどこがそんなに良くないと判断されてしまうのか。ひとつ言えるのは弦やハンマーがあまり経年したものだと本来の美しい音色が出ないというのは、確かにそうだと思う。だったらそれらが交換されたピアノであれば問題ないはずだし、マロニエ君の個人的な趣味でいうと、一定期間を経て弦やハンマーが交換されるあたりから、音楽的にもそのピアノの本領発揮のときだと思うし、そういう時期のピアノは本当に美しい音を出す「熟れ頃」だと思うのだが、そんなことより、新しいピアノがなにより安心で良いとする風潮はかなり強いというべきだろう。
 
 もうひとつの根拠として、ピアノ技術者やメーカーの人間の発言を聞いても一致する新しいピアノの長所としては「パワーがある」ことだと言う。しかし、これがまたマロニエ君としては大いに反発を感じるところである。
 
 では具体的に、そこそこ使われているホールの新しいピアノと10年経ったピアノを較べて、どれだけパワーが違うかといえば、それは少なくとも言葉で言うほどの違いがあるとはマロニエ君は到底思えない。そもそもパワーといったって車のエンジンじゃあるまいし、わずかな経年変化で生じる少しばかりのパワーの差など──仮にわずかにあったとしても──いったいどれだけの価値と重要性があるのかと問いたい。
 新しいピアノだけがもつパワーというものがあるとするなら、それはまだ青くて味わいのない新品特有のもので、それが最終的な音楽表現にどれほどの価値があるとも思えないし、逆に古い使い込まれたピアノが出す妙なる音色は、わずかなパワーの差など寄せ付けない味や表現力がある場合も多い。
 事は音楽なのだから、音の物理的なパワーよりは、表現力のある楽器で音楽を幅広く表現するほうが、聴き手が受ける音楽的パワー、すなわち感銘の度合いは比較にならないほどに大きいものとなるのは、ここでマロニエ君いうまでもない当然のことだ。
 ピアノはその微々たるパワーの差を云々するより、「基本的な音質」のほうが比較にならないほど重要で、表現力の豊かさのほうが遙かに重大問題であるとマロニエ君は断じて思っている。
 
 新品ピアノのパワーなど、ピアノ演奏を成立させる多くの要素(技術者の技術、ピアニストの才能、ホールの特性、弾かれる作品など)の前では、マロニエ君はさして問題とはしないし、逆に新しいピアノ特有のきれいだけれども聴いていてどうにもつまらないとしか感じないのが偽らざるところだ。ようするに10代の若者の肌の美しさみたいなもので、本当に人間の奥行きや魅力や生き様が積み上げられるのは正にこれからである。少なくともマロニエ君はそちらのほうによほど重きを置くが、化粧品会社のCMタレントにはこれぐらいの若い人のほうが好まれるのかもしれない。
 要するにマロニエ君は新しいピアノの魅力というのは、決して全否定はしないが、所詮その程度のものとしか思っていないということだ。
 
 ピアノ業界の専門家を名乗る人達が、どんな理由をもってきても、古い楽器には古い楽器なりの良さというのものが現実にあるわけで、稀に古いピアノで録音したCDなど聴いていると、やはりこれがなかなかいいのである。
 まず何がいいかというと、やはり新しい楽器からは逆立ちしても出てこない深みや憂いがあって、使い込んだ飴色の家具のような落ち着きと叙情性のある心に染みわたる音がするのである。それに古い楽器は新しい物に比較するとやはり材料がいいのか、良い材料で作られた楽器の真っ正直な音という点でも真実性がある。
 もっとハッキリ言うなら、古い楽器は表情が非常に豊かで雄弁なのである。人間の喜怒哀楽を表現するには古い楽器の持つ深い表現力にはどうがんばっても新しいものは敵わない。ただし指運動自慢のピアニストのスポーツ的な求めには新しいピアノのほうが応えてくれるだろうが。
 
 また、人によってはくたびれたと感じるかもしれないその音色は、本当にくたびれているかどうかは管理次第であって、管理が良ければとくにクラシック作品を弾くにあたってはなんとも収まりが良く、新しい楽器にはたしかに新緑のような若い美しさはあるけれども、ただそれだけで表情というものがまるでなく無愛想。作品の表現力ということになるとどうしても楽器としては未熟だと思われる。
 もちろん古ければ何でもいいというわけではないが、少なくとも手入れの行き届いた一定以上の楽器であれば、マロニエ君はやはり多少古い楽器から出てくる重厚な落ち着いた磨き込まれた音は、聴く者の心に響くものがあってとても魅力的に感じるのである。
 
 また、単なるサウンドとして聴くぶんにも、やはり古い楽器は聴いていてとても気分的にも快適で心地よく、理屈抜きに気分が安定してくる不思議な力があるように感じるし、新しい楽器は若いアスリートのような美しさはあるものの、表面的で陰翳がなく、人間の精神の奥深くまで届く何かを得るにはまだまだ不足するものがあるのは否めない。
 新しいピアノの美しさは、新しいマンションや新しい家具みたいなもので、チリひとつキズひとつ無い完璧性はあっても、無機質でどこかよそよそしく人の五感に馴染まない側面を持っているのは致し方ないこととしても、これを最上のように決めつける価値観だけはとても納得が行かない。
 悲しみ、哀惜、苦悩、絶望などの表現に関しては古い楽器は適しているが、新しい楽器ではどうも他人事のようでしっくりこないのは、もはや理屈ではないのかもしれない。のみならず、クラシック音楽では作品の大半は文字通り過去に書かれた古いものなので、ピアノだけが突出して新しくても、どうかすると逆に違和感だけが残る。
 
 たとえば学生がベートーヴェンの後期のソナタなどを機械的にサラサラと弾いても、感銘とは程遠く、どこかウソっぽいのと同じようなことかもしれない。しかし、これもピアノという楽器の論理でいうなら、20代ぐらいは指のテクニックなどは、おそらく肉体的に最高かもしれず、いわゆる「パワー」があるかもしれないが、音楽芸術の世界ではそんなことはほとんど問題ではないことは自明のことであるはずだ。
 
 人生経験の豊富な年輩の人のちょっとした言葉などには、若者にはとうてい真似のできない、力まずして人の心を動かすような本質的で深いものが宿っていたりするのと、この古い楽器に宿った不思議な力はどこか似ているような気がしなくもない。
また、近年ピリオド楽器が一向に衰える気配もなく注目され続けているのは、やはりピリオド楽器のもつ味わいや音色、表現性に芸術上の価値があると認められ必要とされているからではないだろうか。
 このピリオド楽器などは、新品ピアノのパワー云々などという観点から言えば、ほとんどヨレヨレの状態で、中には本当にこれが実力とはとても思えないほど老朽化しているようなものもあるが(それはさすがにマロニエ君も同意しかねる点があるけれども)、その音楽性の高い表現力には最近とくに関心を寄せているところである。
 
 ヴァイオリンなどでも、ものの本によれば有名なカリスマ的名器の数々であっても、現実にはおおくの楽器が寄る年波からくる疲れを抱えているのだそうで、科学的な意味でのパワーという点ではそれなりに落ちているのだとある。その点では新作ヴァイオリンはこの意味でのパワーはやはりあるらしい。しかし、それでも多くの名器が現役の楽器として世界中で今も尚、鳴りやむことなく使われているという事実は、いかに楽器の本領本質がどこにあるのかということを証明し、ピアノにおける同様の価値について考えても良いのではないだろうか。
 
 新しいピアノが唯一優れていて、古いピアノがどうしても敵わない点があるとすれば、それはアクションだろう。アクションは直接の発音体ではなく、やはり純粋の機械であるから、あたらしい物が摩耗やガタなどもなく安心だと思われるし、新品のよく調整されたアクションの弾き心地というのは格別なものであることは、むろんマロニエ君も良く承知しているつもりである。また直接音に関わる弦とハンマーは一定期間を経たなら役目は終わりとして、新しいものに交換する必要があることはいうまでもない。
 
 最近はいろいろな機会に聞く、気になるお説がひとつあって、それは概ね次のようなもの。
「巷では新しいピアノよりも昔のピアノのほうが良いように言われることがあるが、現実には新しいピアノはむしろだんだん良くなってきている!」という意味ありげなもの。しかもこれは実際にピアノの裏の裏まで触る技術者の言葉だから、いかにも根拠がある話のように聞こえる。
 
 マロニエ君的に言わせてもらうなら、これは言葉のトリックというか、一元的な見方であって、含まれる意味の半分は肯定するとしても、残り半分は同意できないということになる。
 「新しいピアノがだんだん良くなってきている」というのはおそらく無数にあるパーツの品質や、組み立て精度のことで、いわば工業製品としての完成度あるいは確実性だと思われる。これはたしかに近年は一層の技術向上の結果があったような印象が全くないわけでもない。ようするに使用される材質レベルに対して最高の音と響きが確実に得られるように、より高いセッティング精度によって綿密な精度によって製造されているという意味であり、もはや昔のような手作りに不可避だった個体のバラツキは、無いといえばウソになるだろうけれども、断然少なくなっていると思われる。
 
 だからここ5年ぐらいのS社のピアノなどは、大まかにいうとどこの個体を聞いてもほとんど同じ音がする。「一台一台違います」などと表向き言っているけれど、それは良い意味での昔の話で、いささか誇張が過ぎはしまいかという印象だ。
 違うとすればヴォイシングや調律などの技術者のセンスとか音造りの段階で発生してくるレベルであって、それによる結果は確かに一台一台違うだろうけれども、それは手がける技術者が違うのだから意味が違う。
 
 例えば、S社の新品同型を数台並べて、ひとつのアクションだけを使ってそれを出し入れしながら較べてみたなら、果たしてどれだけの違いがあるのか、そのあたりの結果にはたいへん興味を覚えるところである。
 均質なことでは圧倒的な日本製ピアノの新品でも、同型ピアノの仮に3台を3人の技術者がそれぞれが調整をすれば、一台一台違った個性になるのは当然だろう。それをもってピアノ本体の能力を論じるかのように「それぞれの個性」だというのにはちょっと話の筋が違うような気がするのであるが、ピアノの世界はそのあたりのことはたいへん曖昧な部分であるのが昔からの慣習のような気がする。
 マロニエ君としてはピアノ一台一台の個性とは、そのピアノが生来持っている潜在力であり、技術者の能力やセンスでは変更の出来ない分野のことだと理解したい。
 
 そういう意味では、大もとの楽器の潜在力の問題ではなく、一台ごとの個体差というか、全体の均質性では、パーツの加工品質や組み付け精度のレベルアップによって、大いに縮まっているとマロニエ君は見ている。これをして細部にまで手を触れる技術者が「だんだん良くなってきている」と感じてもなんら不思議はない。
 これはしかし製造精度の均質化の勝利であって、いわばトヨタの車が持っているような精度品質の素晴らしさなのであって、車それ自体の性能とかハンドリングや乗り味の魅力ではない。
 技術者は往々にしてディテールの出来具合など工作技術上の進歩と、本来の楽器としての進歩を、どうしても混同しがちなものであるが、ここは間違えないでほしいものだ。
 というわけで、「新しいピアノがだんだん良くなってきている」というのは、ひと時代前のいわゆる楽器らしい意味でのピアノの良否とは似て非なるものになっているような気がするが、どうだろう…。

新しいBとB

 世界に冠たるピアノメーカーの中の代表格であると言うべきドイツのベヒシュタインと、オーストリアのベーゼンドルファー。
 この両方のメーカーのコンサートグランドは、他社と同様、メーカーの威信を背負って立つコンサート用のピアノで、各社の伝統や叡智が個々の技術へ変換されて惜しみなく注がれていることは言うまでもないだろう。
 
 以前はベヒシュタインのそれはENと呼ばれるモデルで、片やベーゼンドルファーはモデル275というものであった。
 それが、いつごろだったか正確にはわからないが(おそらくこの10年前後のことだろう)、いずれも新しいモデルにリプレイスされた。車や他の工業製品と違って、楽器の世界、わけても頑ななまでに自社の歴史と伝統を重んじるヨーロッパの老舗ピアノメーカーにあって、そのフラッグシップであるコンサートグランドのモデルチェンジをするというのは、滅多にあることではなく、それでも敢行したというのはよほどの止むに止まれぬ事情があったからだと想像される。
 彼らの自社製品に対するプライドは並大抵のものではなく、なんでも新型や改良型を歓迎しありがたがる傾向の日本やアメリカとは大違いであるし、そのアメリカでも、伝統的なピアノ作りともなると、そう簡単に仕様を変更することはない。ましてやヨーロッパの老舗ともなると、それはほとんど自己否定にも繋がりかねない大事であるから、少々のことではまずあり得ない話である。
 そのあり得ない事がヨーロッパの二つの歴史あるメーカーで立て続け意に起こったわけである。
 
 ベヒシュタインはD280、ベーゼンドルファーはモデル280というモデルに生まれ変わり、これらは単なる従来品の改良版ではなく、構造そのものから新しく作り替えられたまったくの新型ピアノであるから注目に値するのはいうまでもない。わけてもベーゼンドルファーの変化は著しい。
 それらの音をたまたま立て続けにCDやテレビで聴くことができたので、その印象を記してみたい。
 
 まずベヒシュタインのD280はリーリャ・ジルベルシュタインがベートーヴェンのソナタを収録したCDである。非常にクリアでリアルな録音なので、ピアノの音色や響きの特徴が捉えやすい。
 先のバックハウスのベルリンライブやバーンスタインの振り弾きで、その圧倒的なドイツピアノの野性的な魅力にノックアウトされていたマロニエ君は、大きな期待と興味をもってこのCDを購入したのはいうまでもない。
 しかし、スピーカーから出てきた音は、いかにもキラキラとした今風な音であるのにはいきなり面食らった。あの良い意味で素朴で男性的な響きの中で、ピアノの音が神々しく浄化されたような理想美の世界が立ち上る、まるでドイツそのものみたいな音。上等な素材の旨味とドイツ的な峻厳さで直球勝負をしてくる、あのベヒシュタインの音とはかけ離れたものだった。
 
 ベヒシュタインらしい名残があるとすれば、たしかに音の骨格はそのままという感じもないではなく、それは例えば立ち上がりの鋭いボンという感じの頭の太い音かもしれないが、かつての中音から高音にかけての澄明なトーン、ストイックな虚飾を廃した純粋無比の音はほとんど消え去り(もしくは特徴的でなくなり)、すべての音がブリリアントで明るく、スマートさをも兼ね備えたような音になっているのは驚きだった。
 華麗さに溢れる音色ばかりが耳につき、ベヒシュタイン本来の骨太な音の実体は、よほど耳を凝らさなければ(それを聞きわけようとする積極性がなければ)あまり聞こえてこない。
 
 なんでも個性的だったものが変革を遂げるときというのは、多少の違和感や落胆・批判が生じるから、これを正しく評価をするのはきわめて難しいものがあるだろう。「これこそ新しくかつ正しいベヒシュタインの音だ」と言われれば、なるほどそうなのかもしれないし、このピアノを頭から否定する気は毛頭ないが、やはり今はまだ抵抗感のほうが強いことも事実である。
 率直に言うなら、あのドイツそのもののようなメーカーでさえも、やせ我慢をしてでも伝統を守り抜くことより、時流に乗ることに抗しきれなかったという印象である。
 
 マロニエ君が考えるに、これはどう考えても世界のステージの覇者であるスタインウェイの影響があるように思われる。数年前にほんの少しだけ触れたことのあるD280は、たしかに理解しにくいピアノだった。それまでベヒシュタインの特徴だった剥き出しのピン板(チューニングピンを差し込む多層構造の板)が多くのピアノと同様にフレーム下に覆い隠されてしまい、この板を目で見ることはできなくなったことと、スタインウェイの特徴であるデュープレックスシステムが採り入れられている点には、メーカー自らすこぶる不本意なことをしている印象があった。
 これにより中音以上の倍音を豊かに鳴らすことで、より華麗で力強い演奏効果を追加する目論見であろうが、おそらくは現代の要求に沿って(沿ったつもりで)大幅な設計変更、もしくは白紙からの新設計の果てに苦悶の末装着されたのではないか…。しかし各ピアノメーカーの音や響きには長年培われた個性や性格があり、少なくとも従来のベヒシュタインの場合は、純粋な清流のような一途な音がすることも特徴だったが、それだけでは現代のステージを生き抜くには欠けるものがあるという判断が働いたに違いない。
 よく宣伝文句に使われるドビュッシーのベヒシュタインを賛する言葉は、しかしこの澄みわたった音色なしには得られなかったものだと想像する。
 
 CDを聴いた印象では、従来のベヒシュタインに較べて、なるほど全域に渡って音がゴージャスになり、同時にパワー感も増していることが感じられる。しかし、品格と深みはやや失われたかもしれず、一定時間聴いていると少々うるさい感じも強調されたようにも思う。これをもってベヒシュタインというのはいささか馴染みにくいし、本当にメーカーが納得しているのかどうか、それはよくわからない。
 いずれにしろ、まるで「大改造、劇的ビフォーアフター」といった趣である。
 
 もちろんそこはピアニストの弾き方の問題もあるし、全般的に女性ピアニストのほうが攻撃的なきつめの音を出す場合が多いので、次はぜひとも男性ピアニストの深くやわらかなタッチで演奏された音を聴いてみたいと思っていることをつけ加えておきたい。
 
 音を言葉で表現するのは難しいが、料理に喩えると、従来のベヒシュタインにドバッと糖分を混ぜ込んで、誰にでもわかりやすい味にしたという感じだが、残念なるかな料理人がその糖分の扱いをまだ完全にものにしていないのかもしれない。この手の音色ならばうやはりスタインウェイのほうがまだまだ気品もあるし、一本筋が通っているように感じる。
 もちろんソロのCDを聴く場合はそうであっても、大ホールで生を聴く場合には、これらの変更が功を奏しているのかもしれないから、だとするとそれなりの目的は遂げているということなのだろう。しかし、少なくともD280に至って、あのベヒシュタインの生真面目で高貴で、しかもどこか無骨で素朴な宗教的でもあるあの音が、聴く者へ向かって一直線に投げつけられるような味わいはもはや失われたと感じる。
 現行生産されるピアノで唯一このドイツピアノらしい特質を残しているのは、もはやシュタイングレーバーだけかもしれない。
 
 ベヒシュタイン単独で見るならこれは正常な進化なのかもしれないが、同時にその進化に伴ってピアノが生まれ持つ個性にも大きな変調が起こっているわけで、今のところマロニエ君にはD280をもってベヒシュタインを積極的に選ぶ明確な理由がわからなくなったというか、すくなくともいささか不鮮明になったことは否めない。とはいえスタインウェイよりは明らかに甘味は少ないから、このジルベルシュタインのように、ベートーヴェンなどを弾く際にはマッチングがいいと感じる意見があったとしても驚きはしない。
 
 いっぽうのベーゼンドルファーは、ベヒシュタイン以上にまったくの新型と考えていいかもしれない。
 だいいち全長が5センチ伸びているのだから、これはもうフレームの鋳型からしてまったく異なるし、旧型ではボディの優美なラインの中に3ヶ所あったベーゼンドルファー特有の折り紙のような角張った折り返し点も後部1ヶ所のみに減っていて、そのぶん全体が一般的なグランドピアノのありきたりな曲線で構成されている。また他のピアノと異なる大きな特徴のひとつだった92鍵も、新型では通常の88鍵と普通になっている。通常弾かれることのないこの最低音域の黒い鍵盤が、共鳴やら何やらでいかに有益なものであるかを語ってきたあの説はなんだったのかという気にならなくもない。「なあんだ、やっぱり使わないものは要らないんじゃん」といったところである。
 因みに超大型インペリアルと225の2機種は旧モデルのままだから、いまだに97鍵と92鍵が残っているが、これらも順次新型にリプレイスされて姿を消すのかもしれない。
 
 そのほか280で気が付いたところでは、旧型の275では他社の一般的なコンサートグランドに較べて非常に薄く作られていたボディのリム(外枠)の厚みがかなり増しており、鍵盤は4鍵少なくなっているにもかかわらず、全幅は逆に4センチも広くなっているから、それだけボディがマッチョマンのように太く逞しくなっているということだろう。それが具体的に音にどう影響しているかはわからないが、ボディが四方に若干大きくなったことで、そのぶん響板の面積も増しているのだろう。当然ながら外観は全体にごつい感じで、275の比類ない繊細な鶴のような美しさはものの見事に消滅した。
 
 言い忘れたが、280を聴いたのはテレビ放送で、N響定期公演からアンドレ・プレヴィンの振り弾きでガーシュインのピアノ協奏曲が演奏された。音はなかなか良かったというか、このモデルチェンジは音に関してはおそらく成功しているようにも思われた。
 275ではいかにも上品で繊細だったが、その代償として線の細さが気になったし、言いかえるとピアノとしてのパワーという点では今日の標準ではいささか物足りないものがあった。これはインペリアルでも同様で、上手く調整された状態で優しく美しく弾くぶんには特上の音色を聞かせる反面、ここぞという場面では虚弱というか、やや体力不足がどうにも否めないピアノだった。
 さらには音色の特徴として、美しい音ではあるけれども、根本にあるものがどこかフォルテピアノを源流とする古典的な因子があって、ちょっとでも調整を怠るとその面が悪い方に露呈してしまうようなところがあったよう記憶している。有り体に言うなら、ベーゼンドルファーならではの固有の魅力がある反面、現代のピアノとしてはそれなりの弱点もあったというわけだ。
 
 その弱点が280では克服され、ベーゼンドルファーのビロードのような魅力はそのままに、根本をより現代的なモダンピアノに仕立て直した観があり、基礎体力がうんと増してとろりとした音色の美しさがより際立ち、しかもそれが安定して供給されるようになっている印象だった。
 車で言うなら、新型エンジンに積み替えたようで、より効率的にベーゼンドルファーらしさを表現できて、なおかつ従来の欠点がうまく潰されたわけで、ピアニストや聴衆は以前よりも安心して楽々とベーゼンドルファーを堪能できるようになったのだろう。それでいて繊細さは相変わらずだから、なかなかキラリと光るピアノのようである。
 
 テレビ放送にはピアノの特質が分かり易いときとそうでない時があって、このガーシュインのピアノ協奏曲ではかなり特徴を捉えやすかったが、その後放映された、同じくプレヴィンの演奏でモーツァルトのピアノ四重奏曲ではあまりこのピアノの特徴が伝わることがなかった。
 いずれにしろプレヴィンはよほどこのピアノがお気に入りのようで、それはよくわかるような気がする。
 
 ここまで書いた時点で、2月19日のブログにも書いたが、エル=バシャの新録音によるバッハの平均律を聴くに至ったが、そこで使われているのはベヒシュタインのD280だった。日本で収録されたこのCDは、その演奏の見事さもさることながら、聞こえてくるピアノの音色の美しさ、さらにはバッハの音楽との相性の良さにとても良い印象を覚えることになった。
 ただし音の方向性としてはやはりスタインウェイに代表されるような、現代的なトーンがあくまでも基本となり、その奥へと耳を凝らせばベヒシュタインの響きもなるほど感じ取れるといった程度であって、昔のように聴くなりピアノの個性が溢れ出すというものではなくなっている。
 そうは言っても、例えばショパンコンクールの実況CDなどと聴いた直後にこのバッハを聴くと、やはりベヒシュタイン特有の減衰の短めな頭の太い音が健在であることが明確になる。
もともとチェンバロやクラヴィコードなどで演奏されたバッハの鍵盤楽器作品には、音の甘さや伸びよりも、タッチの明瞭さを感じる楽器のほうが相応しいと判断したであろうエル=バシャの見識と感性はさすがである。
 
 新時代のベヒシュタインの変貌ぶりには、あたかも英語による世界共通語のように、現代のモダンピアノの主軸となるトーンというのがまずあって、その大前提のもとに各楽器の個性云々という、各々の個性の領域に分け入っていくような時代の流れそのものを見るようだった。たしかにここに聴くベヒシュタインを含む、スタインウェイ、ファツィオリ、ヤマハ、カワイなどは、少なくともCDでぱっと聴いただけでは、もはや即判別が容易ではなくなってきているという気がする。
 これには言い始めれば短所もあるわけだが、とりあえず耳に届く音としては、どのピアノも本当に追求され尽くした美しい音であることは素直に認めたいし、昔はもっとピアノも野性的だったと思わずにはいられない。

Note BY Note

 『Note BY Note』というDVDを観た。
 これはニューヨークのクィーンズにあるスタインウェイの工場で、一台のL1037という番号のD型が製造され、完成するまでを追いながらそこに携わる多くの人々のドキュメンタリーとして描いた映像作品である。
 これと似たような内容で、ジェイムズ・バロン著『あるピアノの伝記 スタインウェイができるまで』という、やはりニューヨークの工場でK0862という一台のD型の完成までを詳細に綴られた一冊の本があり、既にそれを読了していたので、マロニエ君としてはある程度のベースがある感じで観ることができた。
 (因みに各ピアノに振り分けられた、いわゆるシリアルナンバーはピアノの完成後に与えられるもので、製造段階では上記のようなアルファベットと4桁の数列で個々のピアノは区別される。)
 
 工場内での各工程での作業の様子や、それぞれの担当者のインタビューに混じって、ピアニストのエレーヌ・グリモー、ラン・ラン、ピエール=ロラン・エマールのような著名ピアニストが登場してきて、あれこれとピアノについて話をしたり、何日も通ってきてはコンサートに使うピアノ選びをしたりと、興味深い内容が満載だった。
 因みにラン・ランはこういうインタビューなどはむしろ好きなようで嬉々として話をする。自分がピアノをはじめるきっかけは、トムとジェリーに出てくるピアノコンサートのアニメを見て「ネコに弾けるなら自分にも出来るはず」と子供心に思ったことだったとおもしろ可笑しく語っているが、この話は別の機会でも同じような調子で言っていた記憶があり、あまりに出来過ぎたたようなストーリーで、いかにもアメリカ人好みに脚色された感じが否めない。
 実際のラン・ランは、厳しい父親の意志によって母親とも別居し、寝ても覚めてもスパルタ式にピアノの練習に明け暮れる、苛酷な幼年期をピアノのために北京で過ごしたと言われている。まさに中国のピアノ版「巨人の星」である。
 
 いきなり話が脱線して申し訳ない。
 ご承知のようにスタインウェイにはアメリカ製とドイツ製の二種類が存在し、それぞれニューヨークとハンブルクに工場が存在し、すべてのスタインウェイはこの両所いずれかで製造されているが、製造番号はひとつの通し番号になっている。
 両者は基本設計はまったく同一ながら、国民性の違いからと思われるディテールのデザインや材質、さらには仕上がり具合などが異なり、それは当然ながら音にも明確な違いとなって現れている。
 
 音の違いについてはすでに様々な記述があるので、あたらめてマロニエ君ごときが述べる必要もないと思うが、敢えてごく簡単にいうと、ニューヨーク製はやわらかで明るくおおらかな響き、ハンブルク製はカチッと明晰で渋く重厚な響きというような違いがある。私見だが良い意味で古典的なおっとりした印象を感じさせるニューヨーク製に対して、ハンブルク製は良くも悪くも現代的でクリアな音色を持つ。
 一部で誤解されているのは、ニューヨーク製はかのホロヴィッツやグールドが使った音色として多くの人の耳に残っていために、こちらのほうがよりシャープでメタリックな音がすると思い込まれていることだが、これはあくまでもピアニストがことさら自分の好みのピアノの音を求めた結果であって、彼らのピアノはいずれもニューヨーク・スタインウェイとしては際立ってイレギュラーな楽器であるということを認識しておくべきである。
 しかし、実際とは異なるイメージを持っている人は意外に多く、その人達の印象ではハンブルクのほうがヨーロッパ的な柔らかい音だという認識らしいが、ヨーロッパのピアノが必ずしも柔らかい音でないことも認識しておきたいし、とりわけピアノ製造が盛んなドイツのピアノはおしなべて柔らかい音ではなく、単刀直入なむしろきつめの音がするピアノが多いと思う。
 
 スタインウェイも実際は逆で、ニューヨーク製のほうがまろやかで淡い音色とゆらめくような響きを持ったピアノで、それに較べるとハンブルク製は硬質で輪郭のはっきりした音がする。ニューヨークの名調律師として有名なフランツ・モア氏はホロヴィッツの日本公演に同行して来日し、日本のホールにあるハンブルク・スタインウェイの音を聴いて、まるでガラスが割れるような音だと表現していることも、そのことを裏付けているように思う。スタインウェイに限らずアメリカのピアノは響きが豊かでやわらかい音がする楽器が主流だとマロニエ君は言っておきたい。
 
 音はまあ好みの問題もあって、それぞれの特徴と個性があって優劣はつけがたいし、いずれにも根本に於いてスタインウェイの響きと音の構造は共通している。しかし、製品としての仕上げということだけでいうならハンブルク製のほうが造りは丁寧で美しく、さすがはドイツの製品という印象があるし、ニューヨーク製はどことなく、全体にちょっと仕上げ品質の詰めが甘い感じがあるのは否めない。まさにメルセデス・ベンツとキャデラックの違いだろうか。
 
 その違いはこのDVDを観ていても感じられた。
 ドイツ工場のほうも製造現場を紹介した映像があるが、そこにあるのは我々が一般的にイメージするドイツの楽器製造の現場であって、スタインウェイという名声のわりには意外やこぢんまりした印象があるが、働く技術者達はドイツのいかにもマイスターという感じがあるし、海外からの労働者があったにしても、なにしろ大元をドイツ人が厳しく統括しているという感じがある。
 それに対して、このNote by Noteに出てくるニューヨークのファクトリーの連中は、良くも悪くもいかにもアメリカという印象だった。いかにもニューヨークらしく外国人労働者も多く、まさに「人種の坩堝」を地でいく感じだ。
 各部門の責任者はどれも勤続数十年というベテラン揃いだが、はじめはピアノなんてろくに触れたこともないような低所得層の出身者であったり、海外から移住し、ほうぼうで食い詰めたあげくここにやって来たというような経歴の持ち主が珍しくなく、日本やヨーロッパのように若いころから親方について厳しい修行を重ねてきたというようなストイックな職人という感じではない。とりあえず給料目当てに働いているうちに仕事も覚え、しだいに責任ある立場にも立つようになり、同時に責任意識や自覚も備わったという趣だった。
 
 いかにもアメリカという感じは、バラバラで自由なカラフルな服装、マッチョマンのような人や、作業をしている体のあちこちにタトゥが入れてあったりと、一見したところではこれが世界最高のピアノの製作現場で働く職人のエリート集団という感じは、正直あまりしない。
 いまや幻の名著ともいえる「スタインウェイ物語」で著者の高城重躬氏によると、ニューヨーク・スタインウェイはいかにもアメリカらしい思想があらわれていて、音のために必要なところには惜しまず手間とお金をかけるが、そうではないところはドライに割り切ったところのあるピアノだという意味のことが書かれていたことを思い出す。
 その点、ハンブルク製はさすがというべきか、満遍なく丁寧に作り込まれていて、そういう点も重視する日本人にも満足できる製品になっているところがいかにもドイツ流というところだろう。しかしハンブルク・スタインウェイをもってしてもアメリカの血が流入しているのか、純血種のベヒシュタインやベーゼンドルファーは工作の美しさでもさらに一枚上手で、それはまさに美術品レベルの息を呑むような美しさをあたりにまき散らす。スタインウェイにはそういう視覚面での超高級感はなく、もっぱら楽器という実用に徹している印象だ。
 
 日本人は音の違いもあろうが、感覚の問題としても西洋音楽に供する楽器という点では発祥の地というイメージも手伝ってなにかとヨーロッパを好み、ときに崇拝する傾向があるし、とりわけドイツ製品に対する信頼は信仰的なまでに厚いから、以前はこちらを好む人が圧倒的に多かった。だが、しだいにニューヨーク製の特徴や長所も理解されてきたのか、今ではそういう差別意識なしに純粋な好みで選ばれているケースも増えているように感じるがどうだろう。
 
 そもそもスタインウェイといえば、日本にあるのは大半がハンブルク製であることから、多くの日本人はこのメーカーをドイツの会社だと思ってきたらしいが、スタインウェイの現在も本社はあくまでニューヨークにあり、19世紀後半のアメリカの工業力があってはじめて完成したピアノということで、その繁栄はニューヨークで花開く。昔はひとつの地区をスタインウェイ社が文字通り専有し、スタインウェイの名が地名にもなり、その中に学校が出来たり、あるいは列車の駅の名前にもスタインウェイの名が用いられたりもした。現在は市民社会の娯楽の多様化とともにピアノ需要の規模は縮小を重ねているが、それでもまだ「スタインウェイ通り」というようなストリートが残っているのはその栄花の名残だろう。
 
 このように、あくまでアメリカで繁栄してその最盛期を過ごしたピアノであり、それをたまたまドイツでも生産しているだけだと捉える向きもある。
 これは見方によってはまったくその通りのようだけれども、しかし創始者のハインリヒ・シュタインヴェークとその息子達、すなわちスタインウェイ&サンズはすでにドイツでピアノ製造者として一定の仕事を成し遂げた後にアメリカへ移り住んだ、あくまでもドイツ人ファミリーなのだから、そういう彼らが作り出したピアノを純粋のアメリカピアノと見ることにも若干の違和感を覚える。これをアメリカピアノと分類するにはあまりにもドイツ人の血が多く流れすぎているように思うがどうだろうか。
 マロニエ君としてはスタインウェイピアノは要するにドイツとアメリカのハーフだと思いたい。それは産業革命後のアメリカの豊かな社会と優れた工業力無くしてはこのピアノは生まれなかったという事実と同時に、ドイツ民族の一途な探求心と抜きんでた才能、彼らの物づくりにおいては他を圧する優秀性、とりわけ息子達の天才的な才能があってこそ数々の奇跡的な設計が成し遂げられ、あのスタインウェイをこの世に作り出したとも言えるわけで、いわばドイツの種がアメリカの畑で実ったという解釈である。
 だれもラフマニノフやホロヴィッツ、トスカニーニやブルーノ・ワルターをあくまでアメリカの音楽家とは思わないのと同じである。
 
 また話が逸れた。
 DVDはピアノ製作の第一歩からカメラが捉えている。5人の男が長さ6mになんなんとする細長い板切れの束を持ってきて、これを中央に置かれた型枠にそって押しつけ、機械を使いながら途方もない力で密着させていく。巨大な無数の止め具で縛り付けられた状態で一定時間放置され、留め具が外されるころには20枚もの板が分厚い一枚板となり、あのピアノの外枠の形になっている。
 ただちにコンディショニングルームに移動され、そこで8週間放置される。そこには同様に整形されたリム(ピアノの外枠)がサイズごとにズラリと並んでいて、単なる木材がピアノの形と優美なカーブを与えられ、これから始まるピアノ製作に備えて一時的に寝かされているといったところだ。
 いちいちは書かないが、駆け足で言うと、ここから再び引き出されたリムはディテールをピアノの形に整形され、支柱が組まれ、アクションをのせる筬がつけられ、塗装をされ、駒のついた響板が組み入れられ、フレームがセッティングされ、弦が張られ、ダンパーがつけられ、鍵盤およびアクション一式が入り、大屋根、足、ペダルなどを得てピアノの姿を与えられる。調律や音出しも折に触れ何段階にも分けて随時行われ、最後にヴォイシングという音作りをされるといよいよピアノは完成となる。
 言葉で書けばあっという間だが、このすべての工程を通過するのに、実に約一年を要すると説明される。
 
 驚いたのはヴォイシングでの針刺しで、マロニエ君は自分の拙い経験から、ハンマーへの針刺しほど慎重を要するべき神聖な作業はなく、経験を積んだ技術者はほとんどこの作業に魂を投入するに等しい精妙な仕事だと思っていたら、この部門の年老いた担当者は、えらく素早く簡単な調子で無造作にバンバン針を刺している様子には、思わずとまどってしまったほどだ。もちろん、すべてわかってやっているのだろうけれども。
 
 これらの製作現場の映像と交錯するように、フランス人ピアニストのエマールがマンハッタンのスタインウェイホール(本社のこと)を訪ね、地下にあるあの有名なピアノの海に入っていく。ピアノの海とは、スタインウェイ本社の地下にあるピアノの貸出部門のことで、コンサートで使用されるためのピアノが佃煮のようにぎっしり並んでいる場所だ。ここの歴史も大変古く、向かいにあるカーネギーホールをはじめ、近隣でコンサートをするピアニストは、ほとんどここを訪れて自分が使うピアノを選び出す。
 ここに所属するピアノは、完成品の中からとくに優れていると判断された個体が選ばれ、個性の異なるあらゆるタイプのピアノが揃っているらしい。その中から選び出されたピアノは、専任技術者によってさらにピアニストの要求に沿ってより細かい点まで調整されてホールへと運び込まれるといわけだ。
 
 このコンサートデパートメント部門というピアノの海での任期は、およそ5年だそうで、その間、ここにあるピアノはお座敷がかかると、どこにでも送り出され、コンサートに出演し、済めばまた帰ってくるという。
エマールは数回日を変えてここにやってきては、つぎつぎにピアノを試すが、驚いたことに映像にある限りにおいては曲は一切弾かず、もっぱら低音/中音/高音ごとの和音の響きなどばかりを繰り返し確認していたのが印象的だった。
 
 日本のホールも大抵は素晴らしいピアノが揃っていて、この面でのレベルはおそらく世界一かもしれないが、ニューヨークのようにスタインウェイ本社による選りすぐりのピアノの中から、自分が最適と思うピアノを念入りに選んで、それをステージに運んでおこなうコンサートともなれば、それだけ意気込みも違ったものになるだろう。
 
 工場に戻るが、現代のようなハイテクの時代にあって、スタインウェイの工場でおこなわれていることは、少なくとも映像で見る限りにおいては、そういう分野とは無関係の、すべてがローテクずくめのものであるし、さらには一台一台はまさに手作りでゆるゆると生産され、大きな工作ロボットの類が登場するシーンなどは少しもなかった。
 穿った見方をすれば、多少映像は編集され、そういう部分は仮にあってもカットされている可能性もまったくゼロではないかもしれないし、ビデオで語られたものがすべてと信じるのはいささか単純すぎるだろう。しかし、それでも工場の大半が大昔と変わらぬ地道な手作業の世界であることも、おおむね間違いではないだろう。
 
 先進国のアメリカの、中でもニューヨークという地において、高額な人件費をかけながら、それでもなお手作りを貫くピアノともなれば、それだけでも一定のプライスになることは納得できる。
 
 アメリカピアノには独特な歌心があって、これはこれで一定の魅力を感じるマロニエ君だが、残念なことに近ごろではその名を聞かなくなって久しいブランドもある。チッカリングはボールドウィンの、クナーベはサミックの軍門に下ってしまっているらしい。ボールドウィンやメイソン&ハムリンもかつての隆盛は過ぎ去って久しいかのごときの印象だ。
 そんな中でスタインウェイがビデオで見るような手間暇かけた生産を続けていけるのも、その品質と圧倒的なブランド力によってかろうじて生きながらえているだけで、それ以外の量産ピアノはアメリカ市場では輸入ピアノが他のメーカーに取って代わっている気がする。
 
 かつては想像も出来なかったハイテクの浸透によって、もの作りは今後もおそらくは行くところまで行くことだろう。そしてその行き着く先に最後に生き残り、再び価値を認められるのは、まわり回って結局スタインウェイのようなローテクずくめの手作業の世界にまた帰結するような予感がした。
 マロニエ君の目にはそんなことを思わせるビデオだった。
 
 以下に映像に出てきたさまざまな人物の印象的な言葉の大意を付記しておきたい。
 
▲現代の製造物の中で100年間変わらない方法で今も作られているのは、我々のピアノなどごく僅かなものだけである。
▲一見ピアノに見えるものは誰にでも容易に作ることができる。しかし、それを優れた楽器として組み立てることは難しい。
▲完全な手作りなので、規定通りに作業をおこなっても僅かな誤差が生まれる。しかしひとつの誤差が次の誤差を生み、不合格となることがある。それはあってはならないことだ。
▲ピアノは俳優のようでなければならならず、多種多様の幅広い表現が求められる。
▲ピアノ製造の全盛期は1800年代で、1600前後のブランド名で製造されていたものだが、現在はごく僅かしかない。かつてはスタインウェイ(ニューヨーク)の周辺にも多くのピアノメーカーが存在したが、現在では我々のみだ。
▲(製造は)他のどのメーカーよりも手作業でおこなっている。とくに響板やパーツの取り付けなどは、他社では機械を用いているが。
▲測定器には限りがあるが、職人の精巧さは手が覚えているので、計測器以上のものとなる。
▲我々の最大の的は我々自身かもしれない。現代社会において過去の規定とメソッドによって楽器造りをしているが、環境を現代的にしたいという誘惑にそそのかされるのは当然だし、それを頭から否定はしない。ただし、気をつけないと抑制がきかなくなり、我々のピアノが違うものになってしまうだろう。
▲スタインウェイは世界で唯一、全製造過程を通して耳だけで調律されるピアノだろう。他のメーカーはむしろ機械での調律を好むだろうけど、それらの楽器からは魂や音の温かみが出てこない。コンピューター任せだとシンセサイザーのような人工的な音にしかならない。
 
 また、ピアノ製造に携わる人なら先刻ご承知のことだろうが、マロニエ君がこのビデオで初めて知り得たこともいくつかあり、たとえば「チッピング」という作業がそれだった。
 フレームに新しく張られた弦に初めて音程を与える作業で、一見すると調律のように見えるが、この作業をおこなうのは調律師ではないらしい。アクションがまだ入っていないのか、作業は左手に持つ小さな木のヘラのようなもので弦をはじきながら、それを聴いて右手がチューニングハンマーを動かしてピッチを合わせている。この作業をもってピアノに初めて生命が吹き込まれるのだそうで、はじめは4日ごとにチッピングがおこなわれ、その後に下調律の運びとなる。スタインウェイではチッピング、下調律ともに一切機械に頼らず、すべて耳だけで純音と呼ばれる音を探す作業がおこなわれ、このサイクルだけで約一ヶ月を要するらしい。
 ほかにも「ピザ・ウィール」という弦を伸ばす作業など、いろいろと勉強になるビデオ作品であった。
 
 ちなみに、このビデオで焦点を当てられていたL1037は優秀なピアノとして生を受けたようで、めでたくマンハッタンの本社地下にある貸出部門に配属となったということだった。

越年して聴いたショパン-No.37~40

 昨年はショパンの生誕200年ということで取り組みはじめた「今年聴いたショパン」。それが年を越しても続くのはおかしい気もするが、その後も少しずつ増えてきたので、いまさらだがもう少し続ける。
 
No.37[ヴァディム・サハロフ]CD
 マロニエ君の場合、サハロフの名前は演奏よりも公開講座やマスタークラスの講師として耳にするのが先だった。ロシアには実力派のガッチリしたピアニストがウヨウヨいて、講師として極東の島国まで稼ぎにくるピアニストも少なくないので、それほど気にとめることもなかった。その名の記憶だけが残っていたサハロフのCDをたまたま店頭で見かけたので、どんな演奏をするのかちょっと興味がでたわけだ。2枚あっていずれもショパン。ひとつはソナタ2番とバラード全曲、もう一方はソナタ3番と幻想曲などで、とりあえず前者を購入してみた。
 ソナタ2番の出だしのオクターブの響きからして厳しさが漲り、それはそのまま第一主題へと流れ込む。いかにもロシアのピアニストらしい楷書で進む重量級の演奏で、一音たりともゆるがせにされることはない。いわゆるショパンの優雅とは掛けはなれた演奏であるが、基本的にルバートを多用したよく歌う演奏であることも功を奏して、これはこれでひとつの立派な音楽表現であることがわかるし、聴いていて独特な充実感があるのはさすがだと思わせられる。ロシアピアニズムのよき伝統のひとつが確実で深いタッチであるが、このサハロフも例外ではないどころか、中でも傑出している一人だといえよう。ライナーノートによるとギレリスがこのサハロフを高く評価していたということであるし、CDにかけられた帯によると「スケールが大きい、男性的な魅力に満ち溢れた個性派のショパン」とあるが、それはたしかに納得でき同意できる演奏である。なるほどギレリスが気に入るというのもわかるような気がするし、ある種共通するものも感じられるが、すべてが鋼鉄の戦車のようにガチガチのギレリスに較べて、サハロフのほうがいくぶん柔軟性があるし世代からくるものか多少の現代性を備えていると感じる。
 また最近では、これだけピアノをこれだけ隅々まで十全に鳴らしきることのできるピアニストは極端に少なくなったので、その点だけでも聴く値打ちがあるように思う。今の大半のピアニストが旧世代と違って、ピアノと格闘せず、ピアノからするすると無理のない美音を引き出すことは上手くなったと思うが、同時に失ったものもあり、昔の巨匠などに見られた時として鳴り響く轟音、音楽の炸裂などはすっかり影を潜め、演奏家と音楽ががっつりと向き合うような熱血漢が少なくなった。現代はテンポも早めでまるで野菜中心の健康食のような趣になった。これはこれで素晴らしいと思うときもあるが、音楽はうわべのきれい事ばかりではなく、ときには想像をこえたエネルギッシュな音楽に思うさま翻弄されてみたいという聴き手の願望もある。そういう野生のようなものがこのサハロフにはじゅうぶん残っている。もちろん絶えずガンガン弾いているわけではないのだが、ここぞというときにはガツンとした強力パンチがあるのは聴きごたえがあるし、それがこの人の演奏に強い輪郭と説得力を与えている。まさに男性的なショパンである。
 しかし第2ソナタの終楽章などは一風かわった解釈による演奏で、平均的な解釈とは大いに異なる。バラードでも感じることだが、たしかにこの人は既成概念(解釈)にとらわれることのない自分の流儀で演奏しているが、ではそれがひどく個性的なのかといえば決してそんなこともなく、ときどきオヤッと思うようなパッセージやアクセントなどが顔を出す程度であって、基本的にはまっとうな表現のほうが勝っている建築的なショパンであった。同意できない点がいくらかあったにしても、その人のゆるぎない個性によって音楽が貫かれていれば、多少のことには目をつむってでも聴きたいという気持のほうが強くなるものだ。
 
No.38[アルトゥール・モレイラ=リマ]CD
 このディスクはなんと30年来のベストセラーということが書いてあるが、なぜかマロニエ君は見たことも聴いたこともなかったので、たぶん実際にはあまり出回ってはいなかったのだろうと察する。というわけで、大変遅くなった観があるがこのたび購入した。
 モレイラ=リマは1965年のショパンコンクールで2位となり、この時の優勝がアルゲリッチである。ちなみに彼らの世代、すなわち1940年代前半というのは南米から世界的なピアニストが一気に輩出されたときでもあり、このモレイラ=リマも1940年ブラジル生まれ、他にはブルーノ・レオナルド・ゲルバー:1941年アルゼンチン、マルタ・アルゲリッチ:1941年アルゼンチン、ダニエル・バレンボイム:1942年アルゼンチンン、ネルソン・フレイレ:1944年ブラジルと錚々たる顔ぶれであることに驚かされる。少し後にはリカルド・カストロ、セルジオ・ティエンポ、ガブリエラ・モンテーロなどが続くわけだし、そもそも御大のクラウディオ・アラウもチリの出身だから、南米は隠れたピアニスト輩出地域ということが言えるだろう。
 さてこのモレイラ=リマのショパンは1976~7年に日本で収録されたものであるが、いかにもこの時代らしい説明的解釈が前面に出ている。全体に明解だが同時に柔軟性に乏しく、当時ルービンシュタインのいささか陽気で通俗的な味の付いたショパンから、時代の好みが少しずつ変化しはじめた頃だと思う。技巧が重視されはじめて硬質でピアニスティック、客観的な演奏がもてはやされだした時代となったけれども、まさにその時代を反映した演奏だと感じる。モレイラ=リマの演奏を聞いているとエッシェンバッハのようなピアニストがいたこともなんとなく思い出したりする…そんな時代の匂いがする。
 全体としてはどの曲も一貫しており、確かな演奏ではあるが霊感や叙情的な歌心といった点ではやや自由のない、やや四角四面な表現が目立つ。しかしながら南米出身ということもあって、ちょっとしたパッセージの次への移り変わりや抑揚などには、時として情熱的な激しさを含んだ瞬間が顔を出し、それがいかにきちんと弾き込まれた演奏ではあってもドイツ的な風土とは根本を異にすることがわかる。
 モレイラ=リマの美点は恣意的な表現を極力排するような、きわめて客観的なアプローチが主軸となっていると同時に、タッチにこの時代ならではの力強さと確かさがあり、充実した男性的な重みのある美音である点は、ひじょうに聴きごたえがあるし、安心して聴き進むことができる。
 おそらく当時はこういう演奏を社会のほうでも求めていたのであろうし、結果として非常にしっかりした端正な演奏となってこのような録音に残っている点は注目に値すべきだろう。しかし現代の耳で聴いていると、ショパンのさまざまなニュアンスに溢れる詩情の変化とか、理知的で確かな音符の裏にそっとひそむ儚さ、風のひと吹きで方向を変えてしまうような繊細さを楽しむ要素などはまったく欠落していると言わねばなるまい。モレイラ=リマはその実力や華々しい経歴からみれば、ほとんどこれといった旺盛な活動はしなかったピアニストだともいえるだろう。こういう演奏が身に付くとなかなかそこに新しい時代の要素を吸収していくことが難しかったのかもしれない。あるいはそれ以外のなにか事情があったのかもしれないが、それはマロニエ君の知るところではないし、ただ残念さだけが残る。
 このディスクの曲目は、それにしてもうんざりさせられた。おそらくこれはモレイラ=リマの責任ではなく、日本側のレコード会社の要望によるものだろうと思われるが、まさに絵に描いたような紋切り型のショパン名曲集であり、そういえば昔はこういう名曲集の類が数多くあったことを思い出させられた。14曲からなる曲目はどれも名前の付いた曲や、誰でも知っている2番のスケルツォやノクターン、嬰ハ短調のワルツなどで完全に埋め尽くされており、ちょっとうんざりしてしまった。
 彼の実力には、バラードやスケルツォ、舟歌や幻想曲、エチュードやソナタなどの全集がふさわしいだろうと思われるが、そういったディスクはどこにも見あたらないのが残念である。
 
No.39[シプリアン・カツァリス]CD
 ショパンイヤーでしかありえないような異色のCDがリリースされた。ピアノマニアのカツァリスならではの珍企画で、ショパンの第2協奏曲を4つのバージョン──1:ピアノとオーケストラ(基本形)、2:ピアノソロ、3:ピアノと弦楽五重奏、4:2台のピアノ──で演奏されたもので、それぞれ使用ピアノが異なる。はじめてこのCDの存在を知ったときはなんとマニアックなものがでてきたことかと驚き、大いに胸が高鳴ったけれど、すぐにピアニストがカツァリスとわかって興味がいくらか割り引かれてしまっていた。
 とはいえ、さっそく購入したのはいうまでもないが、はじめのピアノとオーケストラを聴いて、期待の半分はこの時点でうち砕かれたも同然だった。ひとつの曲に4つのバージョンというのみならず、そこへ4台ものピアノを使い分けるという期待を高まらせる企画にもかかわらず、オーケストラ版に聞こえてくるスタインウェイの音はまったく覇気のない、眠とぼけたような、まるで焦点のずれたようなマヌケな音のピアノだった。なんでこんなピアノをわざわざ使うのかその意図が計りかねるだけでなく、演奏がまたなんともセンスがないというか、平坦で、味わいも霊感もなにもない。ただ譜面の音符を弾いただけという以外に言うべき言葉もないものだった。おまけに録音も悪く、広がり感や透明感もなく、小さく狭いところにぎゅっと押し込められたような素人の隠し録音のようだった。中でも、もっとも許せないのはその演奏で、世間には彼をカリスマ的に高く評価する人もおられるようだが、マロニエ君にいわせれば彼はピアノは弾けても決して芸術家とは思わない。ピアノの軽業師というほうがよほど的確だろう。
 ピアノソロはショパンの編曲とのことだが、ちょっと間が抜けているというしかないようなもので、要するにコンチェルトのソロを練習する人が、合間合間のオーケストラ部分が抜けないよう、ソロの手が空いたときに適当にオーケストラパートを埋めているだけというようなもので、わざわざ録音までして人に聴かせるようなものとは思えない。ただここで使われるベーゼンドルファーは前記のスタインウェイよりは明晰さがあってずっとよかった。いかにもベーゼンドルファーというべき艶とトーンがよく出ていると思うが、強いてマロニエ君の好みを言うと、若干雑な感じのするピアノという印象でもあり、もうすこし丁寧な調整をされたピアノだったならばさらに美しさが際立つように感じる。ただし、繰り返すようだがこのソロバージョンはまともに聴きたくなるような代物ではないというのがマロニエ君の率直な印象だ。
 それに対して、ピアノと弦楽五重奏はこれはこれなりのまとまりのある演奏形態で、オーケストラまでは呼べないような規模のコンサートにはもってこいであろうし、ピアニストもより繊細な演奏表現が可能になる。カツァリスもこの頃になると(はじめのオーケストラから3ヶ月後)だいぶこの曲にも馴染んだと見えて、全体の見通し感が出てきて演奏が格段に良くなっていて、かなり抵抗なく聴けるまでに進歩していた。オーケストラ版ではしばしば聴かれたあっと驚くような浅薄なパッセージ処理や妙な恣意的な表現の数がずっと少なくなり、至ってまともな演奏となっているのは良いことだけれど、この変化はなぜか無性に可笑しかった。おそらくピアノパートの音符自体は限りなくオーケストラ版と同じはずだから、それでこうまで改良されたということは、カツァリスのようなベテランでも一曲に対しての熟成がいかに大切かということを証明している。ヤマハはまさに我々の耳に慣れ親しんだピアノの音だが、演奏が格段に説得力のあるものに進化しているので、まるでピアノまで良いように聞こえる。個性的ではないが、これはこれで普通に安心して聴けるピアノであることは確かと思える。変に癖のあるピアノの音を押しつけられるよりは、いっそ快適である。
 2台のピアノはいわゆる多重録音で、つまり一人のピアニストが二つのピアノパートを別々に演奏したものを重ね合わせて収録しているものだ。本来オーケストラの序奏部分などは、新しく練習した部分と見えて、それなりには弾いてはいるが、やはりどこか勢いと張りがない。本来のピアノパートの演奏としてはピアノ五重奏版が最高の出来だと思うが、この2台のピアノもそれに次ぐ演奏だと言えるだろう。しかし、やはり2台ピアノというのは二人の異なる奏者によって、互いに反応し合いながら弾き進められていくことが望ましい。一人のピアニストの二役では音楽的解釈が衝突することがないから、その点ではひじょうにスムーズである代わりに、アンサンブルというものに不可欠なエキサイティングな刺激のやり取りがないので、やはりどこか醒めた人工的な音楽であることは否めない。マロニエ君の知る限りにおいて、この面で唯一成功していると思えるものは、ファジル・サイの編曲/演奏によるストラヴィンスキーの春の祭典だけではないだろうか。
 シュタイングレーバーの音はヤマハを聴いた後では、なんとも清々しく美しいばかりだが、ではそれがショパンに相応しいかと言えばそこは疑問が残る。ショパンももちろん美しいピアノの音を必要とすることはいうまでもないが、それにはより屈折した陰翳と非ドイツ的洗練がほしい。シュタイングレーバーの場合、まるで究極のドイツ語の美しさを清冽な発声で聴かされているようで、その美しさを勝ち得るためには非常に理想主義的というか、このピアノ特有なストイックな音色があって、それがショパンには齟齬を生んでいるように聞こえる。ちょうどフルトヴェングラーのフィガロ(ドイツ語上演だがオリジナルはイタリア語)のような、素晴らしいけれどもいつまで経っても、どこかしっくりこないものが残ってしまう。
 やはりこういうピアノだと、情熱的に弾かれるベートーヴェン、あるいは清流の流れ落ちるようなシューベルトなどを聴きたい。
 
 まあ総論としては、このカツァリスという人はユニークなピアニストには違いないが、本当の意味で音楽を芸術として表し、ピアノを心底鳴らす人ではないと思う。だが、その反面こういうおもしろいCDを作ってくれるあたりはピアノ好きにはそれなりの楽しみを与えてくれる存在として、得難いマニアだという点では感謝せねばなるまい。
 カツァリスはテレビなどで観ると男性のわりには非常に手の小さな人で、それでいて超絶技巧の駆使を目的とするような曲をサーカス的に弾くことが得意のようだから、むしろピアノ芸人のような活動の仕方があるだろうと思うし、ある程度は実際にそうなっていると言えるだろう。聞くところによれば、大変な努力家で毎日もの凄い練習をする練習魔なのだそうだが、指を曲芸的に目まぐるしく動かすことは彼にとってなにより重要でウリなわけだから、これこそ自分の最も大切な部分と認識しているんだろうという気がする。
 
No.40[ラファウ・ブレハッチ]コンサート/DVD
 ワルシャワで第16回ショパンコンクールの優勝者が決したその同日、奇しくも福岡では前回優勝者であるブレハッチのソロリサイタルがおこなわれた。バラード1番、ワルツ2?4番、スケルツォ1番、ポロネーズ1/2番、作品41の4つのマズルカ、バラード2番というプログラムは、曲も時間もやや少な目で、どこかもう一つ構成感に欠けるものだった。
 冒頭のバラード1番と3つのワルツまではかろうじて良い面もあったが、前半最後のスケルツォ1番に至っては、リズムと息づかいが崩れ、無意味に先を急ぐようなところが目についた。実はマロニエ君はこのブレハッチという人は前回のショパンコンクールに優勝した後、わずかにテレビなどでその様子を見て、あまり自分の好みのタイプのピアニストではないことを直感していたので、その後もCDなどは一枚も買わなかった。前回のショパンコンクールでいうなら、兄弟で3位入賞を果たした韓国人の兄のほうのイム・ドンミンが好みだった。彼はいわゆる器用なピアニストではないけれども、貫かれた信念と本物の音楽を表出する力があり、人間の内側から湧き起こってくる生々しい音楽の魅力があった。それに対してブレハッチはなんの面白味もない優等生的な演奏で、感情表現もごく通り一遍の、いわゆる模範演奏タイプでしかないという印象だった。
 今年の優勝者にも納得できないものを抱えたまま出かけたブレハッチのコンサートだったが、昔なら、良くも悪くもショパンコンクールの優勝者というのはそれなりの傑出した才能と器とテクニックが備わっているのは当然で、それを前提とした上での各人の好みや諸々の評価に分かれていくのが常だった。ブレハッチでまず最も驚いたのはピアニストとしての器の小ささだった。ステージに現れた姿もまるで子供のような小さな体格で驚いたけれども、その体格そのままのような小さくまとめられたいかにも元気のない演奏を聴いて、よくぞこれで優勝できたものだと思ったし、近ごろはこんな程度が優勝するのなら、ユリアナ・アヴデーエヴァというロシアの女性が優勝するのも不思議ではないのかもしれないと思う。
 ショパンというものが元来バリバリ弾くたぐいのものでないことは無論わかっているつもりだが、それにしてもブレハッチの演奏にはまるきり覇気というものがなく、どこを聴いても体力のない病人のような弱々しい演奏だった。ショパン自身、体質は病弱でも、心の裡には男性的な激しい情熱と繊細な感受性が交錯し、音楽に表すべき強靱な精神を抱えていたことは忘れるべきではない。そしてショパンの音楽は、彼の体質とは裏腹に非常に堅固で高い完成度を持つ理の通った作品なので、決めるべき点は決めないことには本来のショパンにはならないわけで、ただやたらめったら上辺のやさしさばかりを追いかけて、花を飾るようにショパンのイメージに重ねるのは、まさに少女趣味的勘違いである。
 たしかに音はきれいだったが、タッチには明晰さがなく、音数の多い場面になるとたちまち響きが混濁してくる。これはポリフォニックな弾きわけと、場面ごとに芯になるべき音が確定されて力の配分がされていないからであろう。フォルテの中から右手がスケールで上昇するという形はショパンによくあるが、こういうところではほとんど右手のスケールは聞こえないか、或いはただか細いグリッサンドのようにぼやけてしか聞こえない。ブレハッチはショパンをショパンらしく繊細に演奏しようという表層的な意識だけは旺盛なようだが、詩的で繊細であることと、用心ばかりしてまともな音すら出さない事とはまったく違うと言いたい。音楽には必ず押さえるべきツボというのがあって、それはほとんど解釈の余地のない普遍的なものであると思うが、ブレハッチに限らず、これをことごとく外してしまう若いピアニストのなんと多いことだろう。これが外れると聴く側の気分が安定できずに、居心地の悪い手抜き工事の建築物のようになってしまう。
 ブレハッチの演奏で最も印象に残るのは、下品ではないけれども、とうてい男性ピアニストとは思えぬ打鍵および表現の弱々しさであり、声の小さい、言葉のはっきりしない人の話を綿々と聞いているようだ。まるでレースのブラウスを着て貴婦人の横でこまごまとしたお世話をする小姓みたいだ。解釈もいかにも優等生的というか「よい子」的で、教えられたことだけを忠実に守っているようで、演奏に不可欠のいまそこで生まれ出てくるような力と感動と新鮮さがない。一見いかにもショパンの繊細な世界が現出しているかのように見せかけているが、じつはあまりそうはなっていない。それはこの人自身の感性や解釈から滲み出てくる必然性が感じられないからだと想像できるし、今以上の何かが今後この人から出てきそうな予感はまったくない。指のテクニックも決して万全なものとは思えず、あれくらいの技術は名だたるコンクールに行けばゴロゴロしているだろう。アンコールで英雄を弾いたが、このショパンの中では希有な直情肯定的な作品を、いかにも線の細いなよなよとした調子で、およそ英雄という名前とは程遠いものだった。アンコールといえば、もともとのプログラムが少ないのでそのぶんを少しはアンコールで補うのかと思っていたら、これが大間違いで、いちいち勿体ぶってなかなか弾こうとせず、そんなことはいやにカッコつけるというか、はっきり言えばとてもケチくさい感じがした。会場ではいやに女性ファンの姿が目についたが、女性はあんなピアニストが好きなのかと思うと、いよいよわけがわからなくなる。
 経歴を見るとルビンシュタイン・コンクールでも浜松のコンクールでも2位になった人で、世の中にはどうしても1位になれない人というのがいるものだ。それは残念ながら勝利者にあるべき諸要素や潜在力を持ちあわせない人の場合が多く、要するにブレハッチはそれなのだと思う。本来ならショパンコンクールの第15回はイム兄弟が優勝して、ブレハッチが3位というほうが断然説得力があると思うが、そこには連続して東洋人を優勝させる事への欧米の抵抗もあったかもしれないし、ショパンコンクールではポーランドのナショナリズムが深く関わってくることも決して無視するわけにはいかないだろう。これはツィメルマンのころから言われ続けていることである。
 いずれにしろブレハッチがこれからもショパンコンクールの優勝者という経歴を背負って行くのは、あの力量ではいささか荷が重すぎるのではないだろうか。同様のことはチャイコフスキーコンクールに優勝した日本人にも言えることだが、こちらはさらにその違和感は強く、心底から納得している人はだれもいないだろう。実力に対して分不相応な結果を与えることはいわば自然の理に反するようなもので、喜ぶのは本人と、コンクールの主催者と、楽器メーカーと、コンサートの元締めであり、それらは要するにすべてビジネスがらみということが一目瞭然なだけで、聴衆や音楽愛好家こそいい迷惑というものだ。こういう状況を生みだしてまで伝統あるコンクールが不本意な優勝者を出すということになんら危機感はないのだろうか。あまりこういうことが続くとコンクールそのものの権威にキズがつくと思うのだが。とはいっても、今年の16回ではまたしても同じ過ちをおかしたようで、優勝したユリアナ・アヴデーエヴァもまた似たような道を辿るのだろう。ステージチャンスは増えても真の評価と喝采を浴びねば本物のピアニストとしての価値はないと思うが。
 
 と、ここまで書いた時点で、偶然にも知人がブレハッチのショパンコンクールときの協奏曲と3番のソナタが収録されたDVDを貸してくれた。協奏曲は1番のほうで、しかしこれは過日のリサイタルに較べるとはるかに出来が良かった。やはりコンクールでは気合いの入れ方が違うのだろうし、今ひとつは録音にはかなりの数のマイクが立っているから(映像に映っている)、そこから拾った音を強調することも可能だろう。音楽的にはとくに違和感のあるものではないが、あまりにも楽譜通りにきれいに納まりすぎているところにつまらなさを感じる。とにかくこの人は習ったことを厳格に守ることが上手のようで、先生から見ればたいへん良い生徒なのだろう。しかし、そこにピアニストとしてあるべき主体性が感じられず、下書きのある絵をきれいになぞって満足しているようだ。いかなるときもほとんど顔の表情も変わらず、音楽がどのような場面に差しかかろうとも写真を貼り付けたようだ。たいへんよく動く指と練習成果のお陰で、ほとんどキズらしいキズもなしに協奏曲を弾ききっているのは大したものだが、ミスしないですべてのジャンプを成功させるだけに全精力をつぎ込む、メダルは取れるが退屈なフィギュアスケート選手のようだ。

2010年ショパンコンクール雑感

 ショパンコンクールの結果についていまさら云々する気はないというのは、ブログなどですでに書いてきたことである。
 
 それは基本的に、すでに出た結果に対していまさら部外者がつべこべ言っても仕方がないことと、納得できるピアニストが優勝をしたとは今でも思っていないからだ。
 もちろんそれは優勝者のユリアンナ・アヴデーエヴァが良くないピアニストだと言っているわけでは、まったくないし、そもそも出場者の全部を聴いているわけでもない。厳正な相対評価をしたらなるほど結果は妥当なものであったのかもしれないが、それはマロニエ君ごときにはわからない。しかしながら、このところの優勝者はいわゆる我々が期待するような傑出した大物(過去のショパンコンクールが輩出したような)ではないという落胆も大いにあるような気がする。
 
 あらゆる面に於いて時代が変わり、ショパンコンクールとてその例外ではいられない。ここ20年ほど、若い世代のピアノ弾きの体質が確実に変化してきているということが言えるようだ。
 これはピアニストに限ったことではなく、時代的に効率よく訓練されたスペシャリストは育っても、そういうものを超越したところに屹立する大物やスーパースターがぱったり現れなくなったのも、それを産み落とすための力、すなわち時代的必然性がなくなったということだろう。ピアノを弾く能力も素晴らしく優れているけれど、その上手さの質感や出てくる音楽の味わいになにか違和感が残るし、なにか共通した疑問を感じるのもあいかわらずである。
 
 このコンクールを特集した雑誌を読んでいると、さまざまなレポートや参加者あるいは審査員のコメントがかなり丁寧に掲載されていて、ひとつひとつは一応おもしろく読むことができたけれど、いかにもいまどきの出版物らしく字数だけはあるが、どれひとつとして勇気と責任をもって真相に迫ったものがなく、なんとなくわかったようなわからないような釈然としないものが残るのも事実であった。
 なにか最も重要な部分を知っていても敢えて避けているようで、コンクールを客観的に分析し、核心に迫ったものがない。これも今どきの風潮で、あまり核心に迫ったり辛辣なことを書いたら、執筆依頼が来なくなるという恐れがあるのだろう。今は上から下までみんなそうだ。
 話は脱線するが、演奏会批評も同様で、基本的に褒めまくりのちょうちん記事のようなものばかりで、申し訳程度にこれこれの問題点や未消化部分もあったと軽く流すだけである。それは雑誌が広告収入で成り立っており、広告主といえばコンサートを行う演奏家もそのはしくれである。小さくとも料金を支払って広告を出す相手は、出版社からみればお客さんであって、そのお客さんの演奏を批判するような批評文は書けないという、まことに経済原理以外のなにものでもない構造だけが機能している。
 
 ところが、たったひとつだけ、最後の最後に、これだと思える著述があった。このコンクールの審査歴の長い一人の日本人ピアニスト(今回は審査員ではなかった)の短い文章は、まさに正鵠を得て真相を付いており、すべてに納得がいった。この人の演奏は嫌いというのを通り越して音楽とさえも思っていないけれど、才気あふれる人であることは確かなので、発言の中にはときとして問題の核心が含まれていたりするので、ピアノよりは話のほうがまだしも値打ちがあると思っている。
 そこにはマロニエ君が春頃から予想していたことがあまりにも的中していたので、「やっぱり、それみたことか!」という気分と、いまさらながらコンクールというものは実態を知るとなんとつまらないものかという現実をあらためて噛みしめるに至ったわけである。
 もっともマロニエ君が的中させたのは下記の(2)だけであるが。
 
 その日本人ピアニストの文章を含んだ上で、マロニエ君なりに今回のショパンコンクールを動かしている思惑の実体をまとめてみると以下のようなものになる。
 
1)85年のブーニンの優勝を最後に、1990年/1995年と二度にわたって優勝者を出さなかったために、この世界的なコンクールへの危機感を募らせた関係者は、2000年以降は「必ず優勝者を出すこと」がコンクールの第一の方針となった。これはつまり審査基準の絶対評価から相対評価への変換を意味し、場合によっては優勝者の質の低下をも容認するということになるだろう。いうなればコンクールの権威を犠牲にしてでも、イベントとしての完結性を重視したというわけだ。ましてや今年はショパン生誕200年に開催される歴史的コンクールとなるのだから、優勝者ナシは絶対にあってはならないことである。
 
2)2000年、ついにアジア人のユンディ・リが優勝したように、このところの日中韓のアジア勢の台頭(とりわけ中国と韓国)はめざましい──ヨーロッパ人から見れば目に余る──ものがあるが、実際の演奏技術としては上手いし、同時に欧米がふるわないのだから表だっては文句の付けようがない。しかし、ヨーロッパ最高権威の(つまりは世界最高を自認する)ショパンコンクール、わけてもショパン生誕200年という節目の年に開催される歴史的イベントとしては、再度アジア人に優勝させるのはヨーロッパ人から見れば歴史的にも感情的にも到底容認できないものがある。理想としてはポーランドの優勝が望ましいが、これは前回ブレハッチが優勝したし、そう都合良くは行かないだろうから、せめてヨーロッパ圏内からの優勝者という範囲にとどめたい。
 
3)だからといって審査に明らかな不正操作を介入させられる時代でもない。昔ならまだしも、現代のようにあらゆる情報が瞬時に世界中を飛び交う時代になると、高度な政治家でもないコンクール関係者のレベルでそのような工作をしたとしても到底極秘裏に成功させることはできないだろう。
 もう一つの問題は、ショパンコンクールに於いては単なるピアノ演奏技術の優劣のみならず、ショパンらしさを問うコンクールでもあるわけだから、そうなると、すでに西洋音楽にも十分親しんでいるアジア人が、ショパンらしい正当な解釈という点では白紙から徹底的に研究を尽くして攻めてくるアジア勢の熱心さにはとてもヨーロッパ勢は気質的にもかなわない。「ショパンらしさ」が裏目に出たかたちともなる。
 これは困ったことになった。
 
4)そこでとられた手段が、審査員の主観に依存するという工作のバレる心配のないやりかた。
 エキエルやハラシェヴィッチのような中心人物以外は、審査員の顔ぶれを一新することで従来型のベテラン審査員や、有名教師やショパンの権威者を極力排除し、可能な限り世界的に活躍する著名な現役ピアニストを新たに呼んでくる。そのリーダー的存在としてアルゲリッチを口説き落とす。
 現役ピアニストは自身がすぐれた芸術家としてステージに立っているほどだから、人並み外れた鋭敏な感性や審美眼は当然持っているとしても、他者を冷静に評価することや政治的配慮を働かせたりするなど、客観的かつ総合的な判断力やバランス感覚などに必ずしも優れているとは限らない。自分がピアニストという現場人の経験から、ピアニストとしてのテクニックや体力などの適性、あるいは芸術家としての個性や明確な表現力を重視する傾向にもあるだろう。
 もっとはっきりいうと、彼らはピアノは世界的レベルでも、審査の一流人であるか否かは甚だ疑問の残る点ではあるまいか。
 彼らの価値観の前では、伝統的なショパンの解釈は尊重されるとはいっても、どの程度斟酌されるのかは甚だ曖昧だし、むしろあくまでステージプレーヤーとしての個性や感性を重視してものを見る傾向が強いだろう。そうなれば俄然ヨーロッパ勢が有利となり、その評価軸の前ではアメリカでさえも不利となる。
 彼らを審査員席に座らせることは、上記のような要素だけでなく、イメージの上でもコンクールのこの上ない看板になるし、今回の豪華な顔ぶれはいかにも審査陣が一新されたという印象にも繋がり、まさに一石二鳥というところであろう。マロニエ君の個人的な印象としては、信頼に足る審査の面々というよりは、有名ピアニストを華やかに並べただけという一抹の不安を拭うことはできなかったように今でも思われる。
 ついでながら、審査員をピアニストだけに任せるというのは疑問の余地があるだろう。これはもちろんショパンコンクールに限ったことではないが、とにかくピアニスト審査員が多すぎる。むろんズブの素人では困るが、指揮者、作曲家、音楽プロデューサーなど業界関係者など、もう少し広い範囲からさまざまな判断を求めるべきだろう。ピアニストが好むピアニストだけが最上のピアニストとはマロニエ君は絶対に思わないからだ。
 
5)これまでは、ファイナルで2番の協奏曲を弾いたら優勝できない(ダン・タイ・ソンが唯一の例外)とか、ファイナルでスタインウェイを弾かなかったら優勝できない、師事する先生にも学閥のようなものがあって誰々の系統でなければ評価されない、といった裏基準があったようだが、事は深刻、上記のような重大問題の前では、それらはもはや呑み込むしかないということになったのだろう。ピアノも今年から新しいピアノとしてファツィオリが参加しているし、ヤマハやカワイも力をつけてきているし、資金面などを含むいろんな事情も絡むだろうから従来のようなことは言ってはいられないのだろう。
 
 果たして結果は主催者のほぼ思惑を満たすものとなったのではないだろうか。
 
 意外だったのは、今回のコンクールでの下馬評では優勝候補とも目されたボジャノフに対する評価だった。ほとんどのピアニストたちはボジャノフの演奏を高く評価しているし、とりわけ表現力という点にかけては稀な芸術家とまで言っている。しかし、彼の演奏を聴き直してみても、少なくともマロニエ君には一向にそのようには感じられなかったし、むしろあまり好きなタイプではなかった。とくに主張の強いピアニストというのは、一旦聴く方の好みを外れると、ときに不快感ばかりが強調される。だが、現役ピアニストというのは一面においてああいう人を評価するのだというひとつの傾向を知ることはできたように思う。
 そのボジャノフだが、自身も優勝を確信していたのかどうかは知らないが、4位という結果に反発して(2009年のクライバーンコンクールでも4位)、表彰式にも表れなかったというのは、いささか傲慢というか思い上がりであって、こういう振る舞いはいただけない。来年早々に日本で始まるヴィト指揮ワルシャワフィルと共にやってくる入賞者たちによるコンサートも、アヴデーエヴァ以下5位までの名前が並んでいるが、彼の名前だけは見あたらない。参加を断固拒絶しているのか、もしくは表彰式をボイコットしたことでコンクール側からメンバーを外されてしまったかの、どちらかだろう。
 彼のようなよく言えば個性的、言葉は悪いがある種独善的なピアノを弾く人は、良し悪しは別としても、コンクールには向かないのではないかと思われるし、それが嫌ならば出場するべきではないだろう。彼が本当に審査員のピアニストたちが言うように実力のある芸術家なのであれば、敢えてコンクールに出場しないという道もあるだろうと思うし、本当に希有な才能があるというのなら彼にはそのほうがふさわしいようにも感じる。
 ちなみにこのボジャノフ、どこかで見たような顔だと思っていたらブルガリアの出身だとわかって膝を打った。大相撲の琴欧州に顔の雰囲気が似ているから、ブルガリアにはああいう顔筋の人が多いのだろう。
 
 ルーカス・ゲニューシャスも大変褒められているピアニストだったが、演奏を聴いているとソ連崩壊後のロシアで復興してきた特徴的なピアニズムの持ち主であることがわかる。少しでもこの特徴を知っている人の耳には「なあんだ、あれか…」と思える演奏で、基本的には作品への奉仕というより、きわめて技術偏重である。かつてのロシアピアニズムが誇っていた雄渾で深いロマンティシズムに貫かれた情感あふれる強烈な演奏、時には重戦車のようなまわりを蹴散らすような姿は消え、まずはよりスリムで、一見現代的になった。しかし解釈に深みがなくどの曲もどの作品も同じようなステレオタイプの処理をされる。現在のロシアのピアニストは概ねこのような傾向があり、指はよく回るし大業のテクニックも備えていて、ピアノを弾くということ自体は相変わらず大変上手いのだが、中身がなくて聴いていてあまり心を打つものがない。驚くべきはロシアに留学した日本人も似たような、一見意味深長なようで実は何もない空虚な演奏を、これが本場仕込みとばかりに堂々とやってのけて疑問にも思っていないその様子には、本人やまわりの努力を考えると深いため息がでる。ゲニューシャスも音楽一族の出身でゴルノスターエヴァの孫という血統を持つらしいが、残念ながらマロニエ君には同じ現在のロシアピアニストのあまり感心できない面しか感じることができなかった。
 昔のロシアピアニズムは賛否両論ではあったけれども、あれはあれで強烈無比な存在感と魅力と信頼感はあった。現代のそれはより洗練されたアスリート的であるぶん、小粒になったことは否めないし、なにより失われたのはかつての十八番であり、ピアノを弾く上での根底に脈々と流れていたあの雄大な感情の奔流であるように感じる。ひとことでいうなら魂がない。
 
 現代は情報の時代が行きつきすぎて、却って本当の情報はない。本当の情報というのは質の高い情報、負の部分までを含んだ信頼に足る情報、人の思想に関する情報等である。音楽雑誌に限ったことではないが、最近の雑誌類の評論というのもとにかく危なげのない、どこからも文句のでない、安全な文章をひねり出すばかりで、こんなところにも事なかれ主義が脈々と息づいているようだ。文章を書く人も、それを掲載する編集陣も、みんな責任を負いたくないので安全運転を心がけるから、責任ある批判的な文章を目にすることがまずない。今や批評の信頼性は失墜しており、従って昔以上に自分自身で確かめる他はないのは、翻って考えると情報が不足していることと同じ状態であるとも言えよう。CDなども激賞されているからといって買ってみたところ、まったく騙されてしまうという結果は珍しくなく、批評を心にもない社交辞令と取り違えているのではないか、あるいは単純に勉強不足の書き手が多いようにも思える。最近ではCD批評など金輪際に参考にしないと、あらためて心に決めているところだ。
 
 
 話はショパンコンクールに戻るが、実際にヨーロッパ人から優勝者を出したいという意志が強く働いたことは、証拠こそないけれども、ほぼ間違いないとマロニエ君は確信している。
 実際に、そういう情報を掴んで出場を見合わせた中国人/韓国人もいたらしいが、ここでも日本人は相変わらず大挙してワルシャワに詰めかけたようなので、政府の危機管理能力同様、肝心要の情報戦にはほとほと疎い、したたかさのない民族だというべきだろうか。あるいは、国際舞台における日本人特有な矜持のない価値の置き方をして、今回は場慣れのためにとりあえず参加するだけして全体の雰囲気なども掴んでおいて、実際にはさらに5年後を狙うなどといった向きもなくはないような気もする。そういうことを真顔で言う先生もいるようだから驚きだ。しかし、現実問題としては同じコンクールへの再挑戦は審査員の心証に、少なくとも有利に働くことはないというから、これはこれで小さなリスクではある。
 
 それにしても、マロニエ君は自信を持って言いたいが、年齢の問題は別としても、ユンディ・リがもし今回出場していたら、間違いなく優勝はできなかっただろうし、へたをすれば10人枠にひろがったファイナルにさえも進めなかった可能性があるのではないだろうか。それはユンディが東洋人であるというのみならず、今回の審査員各氏の述べている審査基準やピアニストとして求められているさまざまな価値の置き方からしても、彼がさほどその条件を満たしているとは思えないからである。その一例が、教えられた解釈をそのまま整然と演奏することより、自己主張の有無の問題などが問題視されればまっ先にはねられるに違いない。
 こういうコンクールでは、毎回ごとに審査基準も変動するし、政治的な思惑や配慮も大きな影を落とすのだからやむを得ないというべきか。
 ある本を読んでいても、世界的コンクールには行く先々で顔を合わせる出場者がいるそうで、毎回似通った顔ぶれになることも少なくないらしい。このあたりになると各人の実力も拮抗しているのだそうで、にもかかわらずある人は決勝まで残りある人は早々に敗退、別のコンクールでは一週間前のコンクールでのファイナリストが予選にすら受からなかったというようなことは日常茶飯で、まさに紙一重の要素で顔ぶれはガラリと変わってしまうようだ。これならまだオリンピックのほうが安定した結果が出てくるだろう。
 
 要するに、優勝者には時代とかその時の風も吹かなければ優勝はできず、ちょうどその風向きが自分に合致したときが出場年でなければならないという点も、非常に重要なところであり偶然性の強い事柄とも言えそうだ。
 織田信長ほどの周到な戦略家でさえ最終的に「戦(いくさ)は時の運」と言ったように、才能ある勝利者は運をも引き寄せる要素がなくては頂点に立つことはできないということだろう。
 相撲でも優勝力士には場所中一、二番は拾ったような白星が含まれるものだというから、やはり運も味方につかなくては頂点の栄誉は訪れないものなのだろう。
 
 ちなみに、使用されたピアノは(5)でもふれたように、今回から4社のピアノが使われたが、他の3社がこのコンクールのために厳選された最高の出来映えのピアノを、これまた最高の技術者付きでワルシャワへ送り込むのに対して、スタインウェイだけはこの会場の備品であるピアノを使うのが昔からの変わらぬ伝統である。今回は2年前にフィルハーモニーホールに収められたピアノが使われた由。未確認だがスタインウェイは2台で正確にいうと4社5台のピアノが使われたという記述もあるが真偽のほどはわからない。ただし、技術者だけは後半からはS社の看板技術者であるジョージ・アンマン(ジョルジュ・アマン)が会場に入って調整したという。
 また、新参のファツィオリは言うまでもなくイタリアのピアノだが、技術者は同社社長が厚い信頼を寄せる日本人なので、スタインウェイ以外のピアノ技術者は全員が日本人ということになり、いまさらながら日本人の優秀さは大したもので、同胞の活躍を心から誇らしく思うばかりだ。

ピアノビジネスの変化

 夏の終わりに、これまで一度も訪れたことのなかったあるピアノ店に行ってみた。
 ここはホームページで見る限り、その品揃えや雰囲気が個性的とまでは言わないが、ちょっとした特徴のようなものがあるようなインスピレーションを感じていた。以前から一度は行ってみたいと思っていたが、なかなかその機会がないままに時ばかりが過ぎ、この店を知って実際に行くまでにたぶん5年ぐらい経過していたように思う。
 
 ホームページによれば珍しい銘柄のグランドや、「仕上げ中」と但し書きされたものがあったりと、そこには一定の「技術」がはっきりと介在しているようで、なにかそそられるものを感じていたが、実際に行ってみるとマロニエ君が常にお目当てにするグランドは、折悪しく一台しか置かれていなかった。
 店は立ち並ぶ倉庫の一角をピアノ保管所兼事務所兼店舗に改造したような作りで、アップライトのほうは相当の数があった。初めての店でもあり、礼儀上あまりキョロキョロと詳しくは見なかったが、奥には工房とおぼしきエリアがあり、あきらかに職人の仕事場という気配が見て取れたので、日夜そこで様々な作業が執りおこなわれているのだと思われる。
 
 対応に出てこられた方はたいへん感じが良く、妙に気負ったところや売れよがしなところは微塵もなく、いかにも穏やかで好感の持てる自然な接客であったのはこちらにとってはまことに有り難いことだった。店によってはとにかく売ることにしか興味がないような露骨なやり方をするところもあり、そういう店はほぼ間違いなく技術はないがしろにされているとマロニエ君は経験的に思っている。
 
 さて、その人の話によると、最近のピアノの商売は、新品も中古も、以前に較べるとずいぶんやり方に変化が起こってきているということだった。業界も厳しい社会の実情に合わせながらなんとか踏ん張って商売をやっているという事が察せられる。
 
 まず最大の変化はメーカー自体が在庫をほとんど抱えなくなったということだった。
 ディアパソンなどはその最たるもので、通常のカタログモデルでも注文を受けてから製造にとりかかるらしく、どんなに早くても2?3ヶ月先の納品になるらしい。とくべつ自分のカスタム的な希望等がある場合は、これ幸いにその旨注文すれば製造段階で反映できるだろうから好都合かもしれないが、まずものを見て、弾いて、あれこれと迷い、確かめながら購入の決断に至るというようなことはもうできない時代を迎えてしまったことを悟らされる。昔ながらの、いろんなプロセスを経ながら購入に至るというところにもちょっとした情趣があったものだが、今ではピアノ購入もすっかりドライな世界になってしまったようで、寂しい気がするのは拭いようがない。
 そもそもピアノを買うということは、買う側にとっては効率とかドライな割り切りというようなこととは対極にあるところの心の作用から欲することだと思うのだが。だからそれを逆手にとって、手作りピアノ風に注文から生産という流れと時間を楽しむことができればいいのかもしれないが、それはディアパソンに限ってのことで、ヤマハやカワイでは必ずしもそうはいかないだろう。
 
 そのヤマハなども、効率という面では似たような傾向があるそうで、福岡の場合はショールームで全機種の試弾はできるけれども、見えないところで経営のダイエットが着々と進んでいるようだ。以前は福岡にも、ある場所に在庫の保管所のようなところがあって、各モデルがストックされていたそうだが、今はそういうことはなくなったという。おそらくは注文の入ったピアノだけを無駄なく工場から送り出すという効率重視の方法なのだろう。
 幸い福岡にはヤマハもカワイも全機種の試弾可能なショールームがあるからまだいいが、これはあくまで全国の主要都市の中でも、わずか5ヶ所前後というごく限られたエリアにしか存在していないのが実情だ。
 
 流通機構の発達により、ピアノのような大きなものでもきわめて迅速確実に全国各地へ届けられる時代だから、まずは在庫というリスクを含んだ無駄を省くということなのだろう。だが同時に、そういう方法を採らざるを得ない今時のピアノメーカーのせっぱ詰まった台所事情が伺えるようでもある。
 
 個人経営の販売店も、昔は在庫というか展示品というべきか、とにかく店にピアノがあって、あれこれ試弾などが可能だったが、いまは世の中全体が不景気のせいなのか、ピアノ販売のビジネスそのものが冬の時代なのかはわからないが、とにかく経営側は在庫という売れる保証のないものを抱え込むことを非常に嫌がるらしい。仕入れをしても適当なペースで売れていけばいいが、場合によっては2年3年と在庫として抱えこんでしまうケースもあるそうで、そうなるとその間、商品が換金できないばかりか、ピアノはそのぶん古くなるため、とくに新品などは必然的に価格が下がっていくという。もし仮に弾かれていない事実上の新品であっても、2年3年と経過したピアノが新品価格では売れないのは当然だから、そういうリスクを極力避けるような風潮がぐんぐん広まっているようだ。
 
 たしかに経営サイドから言わせると、このようなムダの排除は当然の帰結かもしれないが、購入者からすればなんとも味気ない灰色の世の中になってしまったことは間違いない。だが、業者側は死活問題を前にしてそんな悠長なことは言ってられないということだろう。
 本来ピアノ店にはピアノがひしめいてこそピアノ店であるはずだが、そこには厳しい社会事情が立ちはだかってギリギリの経営を迫られ、昔のよう楽器店といえばどこか文化的で余裕のある、落ち着いた店作りや運営はやっていけないということが察せられた。
 
 しかし、そうはいってもピアノはれっきとしたアコースティック楽器なのだから、それに相応しい売り方買い方というものがまだありそうなもので、注文があってから製造するとは、お客がよほどその楽器のことを知悉していればともかく、あれこれと弾き比べてから気に入ったものを購入したいという購入者側の至って正当な要望はどうなるのだろうかと思ってしまう。もし試弾もしないで注文し、ピアノが家に届いてから「こんなはずではなかった!」などということになったらどうなるのだろう?
 
 大手メーカーのセレクションセンターの類は、たとえ同一機種でも楽器には一台ごとに個性や個体差があり、だから購入者がわざわざ出向いてその中から好みの一台を選び出すという主旨から設営されているのだろうが、そのためには浜松などに出向くしかない。だがそこまでする本格派も決して多くはないだろうし、普通はただカタログを見てメーカーと値段とサイズで決めることになり、これではまるで通信販売のようなものに近いという印象しか抱けない。たまにピアノの先生が浜松まで行って選ぶなどという尤もらしい話を聞くことがあり、あれにはつい笑ってしまうが、まあその話は今回はやめる。
 
 仮にショールームで試弾して気に入ったピアノが見つかっても、そのピアノそのものではない、まっさらの同じモデルが届くだけだから、逆にそういうことが好きな人には歓迎かもしれないが、ピアノの場合はそうではない人も現実には多いのではないかと思うし、多くはやむなくメーカーの販売システムに大人しくしたがっているというところだろう。
 
 車の世界ではピアノよりも早い時期にこのようなシステムが採り入れられるようになったが、それでもどこかのディーラーに行けば試乗車はとりあえずあるわけだし、車は純粋な工業製品だから問題ないが、ピアノではちょっと馴染まない面もあろう。だがこれも、ご時世ならば仕方がないというべきか…。
 モノでも部品でも、必要なときに必要な場所へ必要量をシステマティックに届けることで、在庫という非効率を排除したのは、マロニエ君の記憶が間違いでなければ、たしかトヨタが考え出した方法ではなかっただろうか。トヨタは生産現場でまずこの画期的な手法を採り入れたというか、編み出したメーカーで「トヨタ方式」などという呼び名まであったように記憶する。
 それがあっという間に世の中全体に広がった。
 もう少し車の話を続けると、最近はどんなに些細な故障でも、ディーラーが部品をストックしているということはまずない。あるのはせいぜい電球か、オイルフィルターぐらいのものだろう。故障が発生して、問題箇所が特定できると、型式と車体ナンバーから割り出された該当部品がパーツセンターに発注され、そこから全国のディーラーへ出荷されるというシステムなので、ユーザーはひとつの故障が完治するまでに数日車を預けるか、何度もディーラーへ足を運ばなければならなくなった。部品の発注から到着まではだいたい3日かかるが、現在は日本中がこういうシステムのもとに動いている。
 
 ピアノの話に戻る。
 今回行った店には、グランドが多数あるようなホームページの記載だったが、この点は意外な話を聞いた。ここにも近ごろなにかと話題の中国の影がでてくるのだが、多くの日本製の中古グランドは、最近は中国などの市場で高級品として大変な人気らしく、かなりの高額で取り引きされているらしい。そのせいで中古グランドはどんどん中国に流れて、買い取り価格が上昇しているとのことだった。
 需給バランスの原則通り、仕入れの話があっても輸出業者のつける価格のほうが高いことがしばしばなんだそうで、いわゆる普通のピアノ店の買い取りに見合う価格をオーバーし、最終的な販売価格を考えると、とても利益が見込めないような価格で取り引きされてしまうので、必然的にグランドの入荷が極めて少なくなってしまったらしい。
 
 この日一台あったグランドは逆に中国製で、日本の大手の有名楽器店だけで扱う特種ブランドのピアノだった。ちょっと触らせてもらったが、まあ普通というか、基本的にはそこそこの中国ピアノという印象を免れることはなかった。これを整音・整調によってより良い状態に仕上げるようだが、店の人の話では、ひとくちに中国ピアノといっても実に様々で、おおむね上位4位ぐらいまでのメーカーなら、最近はかなりいいモノを作るようになったらしい。それはマロニエ君もそうだろうと思う。
 
 逆にそれ以下のメーカーのピアノはグッと品質が落ちるそうで、その差が激しいのも中国ピアノの特徴のようた。
 ちなみに、別項で書いたウエンドル&ラングのことを聞いてみると、あれはなかなか良いピアノでこの店も何台か販売経験があるとのことだった。やはり本社はオーストリアで、生産は中国のハイルンピアノ。ここは中国ピアノの中では材料材質も比較的いいものを使っているらしく、どうやら一定の評価ができるピアノのようで、コストパフォーマンスではかなり高い評価をしている様子だった。
 
 だったら、ぜひ弾いてみたいのだが仕入れをされる予定はないのかと聞いてみたところ、まったくないわけではないが今のところ具体的な予定はないということだった。それは、浜松にあるウエンドル&ラングの輸入元も、上記と同じような事情を抱えているらしく、昔のように大量にドカドカ仕入れをするというようなやり方は今はないのだそうで、常に注文とそれに準じる販売の見込める安全な数しか輸入していないらしい。
 しかも、他のこの手のピアノと同じで、基本は悪くなくても、出荷調整がよくないために、輸入したピアノはすべて輸入元の責任で再調整してから販売に供するという手間暇がかかっているらしく、だから台数にも制限があり、小さなピアノ店にまで展示品がまわってくるという数量的な余裕が激減しているという。
 
 グランドに引き換え、アップライトはずいぶんな数と在庫があったが、中国ではアップライトはご所望ではないのだろうか?まあ中国は日本と違って、何事においても大きいもの豪華なものが単純無条件に好きだから、ピアノもグランドが求められるのかもしれない。中国は車もエンジン(排気量)は小さくてもいいから、とにかくボディは大型で立派で豪華でなくては売れないという。この感覚で行けば、音もさることながら、グランドピアノという形状とメーカー名がステイタスシンボルとして求められるというのもじゅうぶん考えられる。
 
 話は戻るが、今は日本でもグランドのほうがもともとの数が少ないこともあるだろうが、風潮としても値段は高くても確実に売れていくようで、同様のことは以前カワイの営業マンの話でも聞いた記憶も新しい。やはりアップライトは、より安価で便利な電子ピアノから常に市場を食われているということだろうし、あえて生ピアノを買うとなると、一気に本物志向が働いて、置き場所が許す限りグランドというようなニーズもかなりあるようだ。
 現代社会はニュースを聞いても新聞を読んでも、「二極化」という言葉がさかんに使われているが、ピアノも電子ピアノか、いっそ本物なら思い切ってグランドという二極化現象が起こっているのかもしれない。
 
 この店の人の話を聞いたあとに気が付いたけれど、そういえば近ごろのようになんでもかんでもデフレでモノの値段が下がっている時代だが、グランドピアノの値段は一向に下がらないようだ。いや、下がらないどころか、わずかずつ上がってきているようにも感じるがどうだろうか?
 新品もずいぶん高くなり、中古はそれに比例しているのか、単なる需給バランスの問題かは知らないけれども、中古グランドは以前よりも高値安定という気がする。そういえば別の技術者の方も、やはりグランドは物がないしあっても高いからなかなか仕入れが難しくなってきたという話を聞いた覚えがある。
 何年か前なら、販売価格は安いものなら30万円台からあったグランドだが、今は50万円以下なんてまずないし、おしなべて80万前後が中心。ちょっと程度が良いものになると100万円を越えるものもゴロゴロしている。
 ネットオークションなどをみても、安いものは本当にもうホコリまみれでガタガタの、どうしようもないようなものしかない。しかも新品がかなり高くて、しかも大量に売れるものではないから、中古市場のタマ数が増えるということもないのだろう。ここ当分はこの状態が続くとしか思えない。
 中古のグランドを狙っている人は、これはと思うピアノに出会ったときは、つべこべ考えずに早く買ってしまったほうがいいのではないか。今後はより手に入れるのが難しくなることが予想される。
 
 その根底には、上記のように中国などへ日本製のグランドピアノが大量に流れるという現実も大きく関係しているように思える。尖閣諸島周辺のガス田開発をはじめ、アジア各地での資源獲得、あるいはアフリカ各地で繰り広げられる中国によるエネルギー利権の争奪戦同様、ほしいものはなんでも中国マネーによって根こそぎ持って行かれるとしたら、なんともおそろしいことだ。
 
 同時に欧米ではクラシック音楽への価値や憧憬が以前よりも薄くなり、かつて世界のトップに君臨した数社のピアノメーカーは、最高水準の品質と伝統を背景に、少数の高級品だけを恭しく作っていれば済む時代ではなくなった。その打開策が廉価モデルをラインナップすることで広範囲の顧客を囲い込み、より安定したビジネスを展開しようということのようで、似たような傾向が各メーカーに広がりつつある。これが思惑通りの結果を上げているかどうかはマロニエ君の知るところではないが、なんとなくそれほどのものでもないような印象がある。おそらく世界の一流メーカーはお客の心を掴むだけの廉価ピアノを作ることは得意でないような気配がある。やはり餅は餅屋というところか。
 逆に、安価なわりには高品質なピアノを大量生産することによって、世界のピアノビジネスの地図を塗り替えた日本の二大メーカーの躍進にも翳りが見え、この分野では中国や韓国のメーカーに押し出されるかたちで図らずも高級メーカーへとシフトしたように見受けられる。
 かつて築き上げた信頼性やメイド・イン・ジャパンの高品質を裏付けとしながら、より高級機種の投入などでイメージアップを図り、高級ピアノブランドへ参入する以外に進むべき道がないといった気配で、これは欧米の老舗メーカーが普及品を作ることと、まったく逆の現象のように見えながらも、終極的には類似した目的のために奮闘しているだけのように見える。
 
 幸いにも日本の二大メーカーは世界的にも知名度が高く、メイド・イン・ジャパンへの信頼は最高ランクの評価を得て、もはや信仰に近いものがあるから、その点では中韓のメーカーとは条件が違うだろう。追い打ちをかけるようにショパンコンクールでは史上初ヤマハを弾いたユリアンナ・アヴデーエヴァが優勝し、カワイも大いに健闘したから、ブランドとしてはじゅうぶん以上に認められていると言えるはずである。
 優秀な日本人が本気になれば、世界のトップクラスのピアノを作ることは不可能ではないし、すでに相当のところまで達成できているともいえるが、問題は真の頂点に立つための残りの数歩だろう。
 これこそが何の世界でも、最も難しいところであるのは異論を待たない。
 
 日本が最高品質のピアノを安定的に作るようになれば、他の外国メーカーもうかうかはしてられないわけで、それによってさらに高い次元を目指して互いの切磋琢磨がはじまれば、それはそれで素晴らしいことだと思うしピアノファンとしてはわくわくすることになりそうだ。

今年聴いたショパン-No.31~36

No.31[バルト・ファン・オールト]CD
 オールトは純粋なコンサート・ピアニストというよりは、高度な技術と豊かな学識の両面を備えたフォルテピアノ奏者&音楽学者である。ベルギーのコンクール優勝後は、名門コーネル大学でマルコム・ビルソンのもと、歴史的演奏の実践面における研究もおこなっているらしい。これまでにモーツァルトやハイドンなどですばらしい演奏を聴かせていたが、一転してショパンとその周辺に取り組んだようだ。ショパンは一般的な21曲のノクターンと、ノクターンの創始者として知られるジョン・フィールドのノクターンも15曲ほど収録されているが、ここでは主にショパンのみの印象とする。
 楽器選びがまた興味深い。フィールドのノクターンでは1823年製のブロードウッド、ショパンのノクターンではプレイエルとエラールを作品によって弾き分けている。Op.9/72/15/32/62他では1842年製のプレイエル、Op.27/37/48/55他では1837年製のエラールを使っている。
 オールトの特徴としてはフォルテピアノ演奏にありがちな脆弱さや朴訥な印象を回避して、生命感あふれるよりダイナミックな表現を試みている点だろう。基本的にはおおむねオーソドックスなショパンで、とくに風変わりなところがあるわけではないけれども、ときに表現過多な面が作品をはみ出してしまい、フォルテが強調されすぎる面などがあることはあるが、さりとて目くじらを立てるほどのものとはいえないだろう。繰り返し部分などにオリジナルにはない装飾音などが散見されて、これまでの型にはまったショパンにはなかった即興的な一面があり、これはこれでそれなりのおもしろさをもって聴くことができる。それよりも気になるのは、数箇所に明らかに楽譜の読み違えでは?と思われるところがあり、全体に好ましい演奏であるだけに残念な気がする。とりわけオールトが音楽学者であることを考えると、これはなんとも意外な気がする。
 ピアノの音はどれも百数十年経過した古楽器なので、あくまでこの3台に特定した印象しか書けないが、現代のモダンピアノに一番近いのはここではエラールである。全体に上品で軽い音色を持つフランスのピアノという気がするが、強い個性もなくバランスも非常によい。それに対してプレイエルはやはりある種の濃厚さがあるし、ここで聴くプレイエルは製造年は最も新しいがフォルテピアノらしさも強めで、現代人の耳には違和感を与える一面もあるだろう。しかし、この特徴がしだいに発展して、後のモダンピアノでのプレイエルが到達したあの華麗であるのに陰翳のある、一種の毒性の混ざったプレイエルサウンドに結実していくのだという予感がある。それに対して、思いがけない美しい音を聴かせたのがフィールドのノクターンで弾かれたブロードウッドだった。ブロードウッドがイギリスのピアノで、しかもベートーヴェンが愛用したメーカーともなるといやでも重厚な音色を予想するが、ここにきくブロードウッドは大変華やかで可愛らしい音のピアノだった。フィールドというアイルランドの作曲家の遺したノクターンは、ショパンのそれのような高度な芸術性や美の結晶のような高みに達しているとは思えないが、どれも素朴な美しさに溢れた魅力的な佳作であると言えるだろう。
 
No.32[ダヴィッド・ゲリンガス(チェロ)&イアン・ファウンテン(ピアノ)]CD
 これを書いた時点で、つい数日前に発売されたばかりの新譜。チェロ・ソナタ ト短調 作品65、序奏と華麗なるポロネーズ ハ長調 作品3、歌曲集『ポーランドの歌』作品74(チェロとピアノ版)より7曲、マイアベーアの歌劇『悪魔のロベール』の主題による大二重奏曲ホ長調が収録されたCD。かのロストロポーヴィチに学び、1970年のチャイコフスキー国際コンクールで優勝していらい、国際的な活動を続けるドイツのチェリスト、ダヴィド・ゲリンガスが、ショパンのチェロとピアノのための代表作を網羅した作品集を新たに録音している。歌曲集『ポーランドの歌』は歌曲からの7つの編曲で、歌劇『悪魔のロベール』の主題による大二重奏曲は22歳のショパンとチェリストのアウグスト・ジョセフ・フランショームとの合作という珍しい曲で、これらの曲は通常演奏されることは滅多にないので、これだけとっても貴重なCDだと言えるような気がする。
 ゲリンガスとファウンテンのふたりは、既にベートーヴェンのチェロソナタ全集などを筆頭に、メンデルスゾーンやラフマニノフのチェロソナタなど、主だったチェロの大作を共演・録音しているだけあって、互いをよく理解し合い、音楽的な質の点でもバランスの取れた演奏を聴かせる。とりわけ印象的なのは、あくまでもがっちりとした線の太い、骨格のある楷書の演奏で、ショパンらしい詩情の発露や音色の妙を楽しむ音楽ではなく、ほとんど建築的な構成美を追及した、どこまでも男性的な力強い演奏となっているところがおもしろい。それもおよそ中途半端なものではなく、徹底して自分の演奏スタイルをがっちりと守り通しているのには、さすがはドイツ人と恐れ入る。こういうふうに演奏されると、ショパンがまるでドイツ音楽のように聞こえてしまうから、演奏表現とは真に不思議なものである。
 はじめから終わりまで、一瞬たりともおろそかな部分とか曖昧さの一切ない、どっしりと腰の座った演奏なので、ショパンのあのそこはかとなく立ちのぼってはゆらめくような繊細で壊れやすい美とは程遠く、おそらくは一般的なショパンのイメージに沿った演奏をする気など微塵もないといった風情だ。どの曲のどの部分を聴いても常に隆々と溢れんばかりの充実した力感に満ちた響きが繰り広げられるのはあっぱれというべきか。ソナタなどはこれまで聴いたどの演奏よりも勇壮な大曲に聞こえる。最近ではピリオド楽器による軽快で活き活きとした演奏などが優勢を占める潮流があることもあり、こういう正面切った重厚無比な演奏は、それだけでひどく時代がかった懐かしいものにも思えてしまう。ソナタの出だしの、ピアノの序奏の付点音符の数音を聴いただけでもいかにも四角四面という印象で、これはなにやらご大層な意味深長なものの始まる予感があったし、全体を流れるピアノパートのいかにもショパン然とした流麗な表現も悉く排除されている。ピアノ自体はスタインウェイだが、ピアニストが出してくる音はドイツのそれで、硬い実直な真面目一本のピアノである点は、ファウンテンの個性もあるのかもしれないが、むしろゲリンガスが要求するものだろうという気がする。
 これだけ徹底してショパンから繊細甘美で繊弱な因子を濾過器を通したように排除すると、ショパンの音符はそのままでも厳めしいドイツの作品のようになってしまうだけでなく、シューマンやメンデルスゾーンにみられるようなドイツ的ロマンティシズムや典雅ささえもないのは、それだけショパンが古典主義的な技法によって論理的に筆を進めたということの証明のような気もしなくはない。
 それはともかく、ショパンはショパンらしく聴きたいマロニエ君としては、これはなかなか面白いCDではあるけれども、何度も聴くような愛聴盤にはならないだろうと直感していた。ところが二度目三度目を聴くにしたがって、だんだんこの演奏の本意がわかってきて、感覚的にも拒絶しないものになってきたのは自分でも驚いた。そしてこれは決してドイツ人演奏家の独善でも独りよがりでもないことがわかったのである。まずもって立派な解釈として成立しており、きちんとした仕事はなんであれ気持ちがいいように、この演奏の誠実さがしみじみと心に滲みてくるようになった。それからというもの、このドイツ的なショパンをしばしば聴くようになっている。
 
No.33[ジャン=フレデリック・ヌーブルジェ]CD
 フランスから器の大きな新人ピアニストが出たらしいというので、さっそくCDを数種を取り寄せて聴いてみた。まずはショパンのエチュード全27曲。Op.10-1の出だしからしてまず感じさせることは、フランスには珍しいストレートな技巧派であることを特徴としていると第一に感じる。曲が進むにつれわかってくることは、この人にはまずなによりも高度な技巧を最大の持ち味とし、そこに多くを依存した演奏であるという点で、多くのフランス人ピアニストにあるような様々な個性や、どこか他とは違ったセンスや意表をつく発想で切り込んでくるアプローチとは違い、いわゆる無国籍風、コンクール出場者風のピアノである。
 エチュード全27曲はいかにも次々に手早くパッパと片づけられていくといった風情である。ヌーブルジェは作曲も手がける俊英とのことだけれど、決して悪い演奏とは思わないが、いわゆる今風の指の達者な若者の演奏という印象が前面に出ているようで、この音楽家固有の何かが聞こえてきて、それが聴く者の心に何らかの形でもって食い込んでいくるといった気配はこのエチュードではあまりない。表現もいわゆる奥行きや立体感といったものがあまり感じられず、いわゆる平明な印象である。
 オーヴェル・シュル・オワーズ音楽祭のライブ盤は2枚組で、一枚がすべてショパンを弾いているが、やはり技巧優先の印象はあるが、しかしエチュードよりもいくらか味のある演奏になっているのは二年という歳月のなせる技か。こちらのCDではじめてフランス人らしさを感じたのは、全体に野暮ったいところが一切無く、ディテールも小味で気が利いているのは確かなようだ
 ヌーブルジェは現在24歳で、このライブ盤演奏時はわずか19歳だったのだからその点はいくらか考慮したい気もするが、ピアニストは大体この歳で基本は固まり老成した音楽を聴かせるのも決して珍しくはないから、通常の社会人のような感覚で見るのは適当ではないだろう。この中ではアンダンテスピアナートと華麗な大ポロネーズは非常に落ち着きのある美しい演奏だった。
 さらに二年後に東京のサントリーホールでおこなわれたリサイタルのライブ盤があるが、基本的にはやはり大きな違いはないが、精密度はさらに一歩進んでいると感じた。ここでも、じっくりと作品と向き合うとか路傍の花に目を向けるよりは、もっぱら爽快なスピードと鮮やかな技巧を楽しむ演奏であろう。だが、バラードの2番などでも、なぜそんなに急がなくてはいけないのかと思うほどスピードを出して、マロニエ君にはスピードを楽しむというよりはただせかせかとした落ち着かない気分になるだけだ。同じヘ長調で合わせたのか、続けてノクターンのOp.15-1も弾かれるが、中間部になると待ってましたとばかりに爆発的にテンポアップし、難所を一気呵成に弾き抜ける。ああ、ここをこう弾きたいものだからこの曲を選んだのだろうなと思ってしまうような、そんな演奏だった。
 それらに較べると、バッハの半音階的幻想曲とフーガやイギリス組曲、リストのロ短調ソナタなどは遙かに立派でサマになった説得力のある演奏だったし、それはおそらく同じ弾き手であっても、バッハやリストのほうが作品が演奏の多様性を受け容れ、許容量が大きいということでもあるような気がする。それほどショパンは演奏家に求める作品固有の要素が厳しく独特で、これに合致しなければ頑として拒絶反応を示すような神経質なまでの美の有りようを内包しているということなのだろう。
 だがヌーブルジェにはなにか不思議と人を惹きつける魅力があることも確かだから、今後も注目していきたい数少ない若手ピアニストである。言い忘れていたが、フランス人ピアニストには少なからずヤマハ好きがいるようで、ヌーブルジェもわりにヤマハを使っているようだが、たしかにスタインウェイのダイナミズムよりも、ヤマハの均質感を好むピアニズムというのが聴いていて理解できる。
 
No.34[ジャニーナ・フィアルコフスカ]CD
 気が付いてみれば、カナダという国もなかなかのピアニスト輩出国のようで、このフィアルコフスカという閨秀ピアニストもその一人であるらしい。かのアルトゥール・ルビンシュタインから「生まれながらのショパン弾き」と称されたという。CDは二枚組で、一枚目は作品10/25のエチュード全曲、もう一枚はソナタ2番、4つの即興曲、ソナタ3番という明解かつ充実した内容である。
 この人の演奏はぜひ聴いてみたくてずいぶん前に注文していたが、輸入元に在庫が無く3回ほどのキャンセル勧告を退けて尚購入の意志を示し続け、やっと届いたCDであった。それなのにエチュードに関してはまったくの期待はずれだった。優れたピアノ演奏の根拠を指のメカニックにあるとは思わないけれど、しかしショパンのエチュードを全曲録音してCDとして連続して聴かせるには、そこはやはり抜きんでたテクニックが必要であることは疑いの余地がない。第一曲からして粒立ちの悪い、無理を重ねた苦しいテンポの演奏ということが痛いようにわかるし、全体的にも指に余裕がないことから来る落ち着きの無さ、必死さばかりが伝わって、演奏と作品の関係に高い接点が得られず楽しめない。
 こういう演奏を聴くと、ショパンのエチュードに内包される芸術性に慣れている耳にも、やはり演奏する上での実体は、あらゆるテクニックを要求してくる容赦ない技巧曲集でもあることがわかるものだ。
 エチュードですっかり出鼻をくじかれた感があったけれど、我慢して二枚目をかけてみると、意外なことに別人のように良好な演奏を聴かせてくれたことは嬉しい驚きだった。ソナタがエチュードに較べて技巧的にやさしいということは決してないけれども、技巧を24曲に凝縮して割り振られたようなエチュードに較べると、ソナタは曲も大きく構造的な要素も出てくるし各所の対比や広がり、あるいはストーリー性などの要素が入ってくるので、こういう曲のほうが彼女の本領が出るのだろう。どれもこれといった異論のない、神経になにも逆らうもののない、まとまりのある演奏であるが、強いていうならそれだけで終わっているのが残念である。ショパン演奏に必要な勉強はきちんとできているが、聴く者の心に訴えかける、演奏から来るファンタジーはあまりない。
 ずいぶん前にルイ・ロルティのショパンの新しい録音を少々批判した覚えがあるが、彼ほどではないにせよ、なにかそこには共通したものがある。それがカナダという土壌のせいにするのはあまりにも話が安易すぎる気もするが、しかし演奏者のバックボーンになるものというのは、見過ごすことができないものがあるのだ。カナダがどのような国かもほとんど知らないし、ましてや音楽教育がどのようにおこなわれているかももちろんマロニエ君は知っているわけではない。ただ、感じるのは、本来彼らには無いはずのものを勉強や努力によって身につけて、ようやく一人前のピアニストとして大成したという感じが拭いきれないのである。生まれながらに自分に備わったものではないものには、道を誤らないことに意を注ぐあまり、大胆さや独創性が発揮しがたいことがあるが、そういう場合につきものの小さく無難にまとまってしまう感じが残ってしまう。
 これはいわば言語上のネイティブと同様で、母国語でしゃべるときの自由闊達がないステレオタイプに陥ってしまうということかもしれない。
 ついでながらルビンシュタインとの共通点もある。ショパンをなによりも自分の中心に置きながら、エチュードが苦手で、即興曲などは耳で聴く限りでは、ルビンシュタインと同じ版をつかっているようだ。とりわけ幻想即興曲の中間部などはまったく同じバージョンであるところがおもしろかった。
 しかし、いろいろと言ってはみても、2つのソナタはまことに素晴らしい美しい演奏であることもやはり間違いないと思う。ピアノはいずれもニューヨーク・スタインウェイで、この楽器ならではの豪勢な低音の鳴りや、かすかにゆらめく響きの特徴と、あくまでもまろやかな音色が楽しめる。
 
No.35[リーズ・ドゥ・ラ・サール]TV
 若手音楽家の育成を目指し、バーンスタインによって1990年からはじめられたPMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)は毎年夏に札幌で開かれていて、今年の演奏会の様子が放映された。指揮はイタリアの名匠ファビオ・ルイージで、曲目はショパンのピアノ協奏曲第2番とブルックナーの交響曲第7番。ピアノはフランスの新星、リーズ・ドゥ・ラ・サールで今年の初め頃、同じくファビオ・ルイージの指揮、シュターツカペレ・ドレスデンで同曲のCDがリリースされているので、彼女にとってはいま最も弾き込んだコンチェルトなのだろう。
 演奏はきわめてデリケートかつリリックな表現が主流をなしているが、全体としてはなにか強いものが音楽を引っぱっていくようなパワーはあまりない線の細い印象は拭えない。さらに、いわゆるフランスのピアニストの弾くショパンの風みたいなものはあまり感じなかったが、随所に繊細な表現を聴かせるところがあることは確かなようである。この人はいわゆる美少女系ピアニストといわれるらしいが、華奢な体に長い金髪をたらしてピアノを弾いている人形のような姿は、ピアニストとしてはあまり収まりがよくなく、オーケストラと共に大舞台に立つ演奏家としてはいささか心もとない印象がした。強いて言うならばアメリカの美少女コンテスト風とでも言うべきか、これはこのピアニストにとって決してプラスの要素にはなっていない印象がした。そこで機械を替えて、音だけで聴いてみると、実はこのほうがはるかに好ましい演奏であることが確認できたのは思いがけない、そして嬉しい驚きだった。
 視覚的な要素が余計な先入観を差し挟まないぶん、繊細な表現はいっそう説得力を持ち、細やかな神経が行き渡り、そこにはたしかにひとつのショパンが鳴っていることが頷ける。次第にはじめに抱いた必ずしもプラスではなかった印象は変化しはじめ、ショパンのサウンドに対して非常に鋭敏な感性をもっている点と、的を得たルバートが多用される点では、むしろ往年のショパン弾きであったコルトーやローゼンタールのような、主情的な美意識に溢れた耽美性を感じるといったら言い過ぎだろうか。総論としてなかなか美しい痩身のショパンを聴かせるピアニストだということはわかったが、しかしそれは同時に彼女の演奏の美点や魅力が、大ホールのステージで効果を上げるわかりやすいタイプの演奏ではないということも意味しているようだ。映像を見る限りではなかなかわかりにくいが、音だけを聴くと、一貫した流れと非常に誠実な解釈に基づいた音楽が聞こえてくるのはあまりにも意外であった。
 なによりも彼女の美点だと言いたい点は、現代の若い世代の、無機質だけれども競争を勝ち抜くことに汲々としたピアニストの中にあって、珍しいほど自己に忠実であり、自分の情感とショパンの精神を丁寧にすり合わせながら、ひとつひとつの表情をゆっくりと描き出してみせる。それがそのまま作品への忠誠と奉仕へも反映されて、これはもしかしたらかなり質のよいショパン弾きになるのかもしれないとも思う。CDではコンチェルトの他にバラード全曲も収められているようなので、ソロもぜひ聴いてみたいと思うようになってきた。音色も女性ピアニストにありがちな、ピアノに自分の情念をぶつけるような荒々しさがなく、落ち着いた肉のある美音であるが、願わくはもう少しだけ肉厚になれば、いっそう甘く美しい音色になるだろうと思われる。
 はじめの映像を見た段階で、これほど判断を誤ったことは我ながら珍しい経験だったが、それほど視覚的要素と音楽が噛み合っていない証左だとも言えるだろう。
 
No.36[ギャリック・オールソン]CD
 批判に終わってしまったバレンボイムのような商業主義の奴隷のごときピアニストを別とすれば、ギャリック・オールソンほどマロニエ君の好みに合わないショパン弾きも珍しかった。オールソンのことは長いこと見向きもしないできたが、1990年代に主要なショパン作品をアメリカで再録したらしく、今回購入したのは24のプレリュードと4つの即興曲他が収められたものと、ポロネーズ集の2枚だが、プレリュードのハ長調の出だしからして早々にいやな予感がした。本来の実力というか、ピアニストとしての潜在力はあるはずだが、とにかくこれほど華のないモッサリとしたピアニストというのもちょっと珍しいのではないか。聞こえてくる演奏から察するに、非常に真面目に音楽に取り組み、自分なりの解釈と表現をしているのはわからないではないが、撃つ玉撃つ玉が的を外れてしまう。
 曲ごとの表情も演奏者の素直な、あるいは必然的な内面の表出ではなく、なにかわざわざ表現らしきものを敢えて考え出して弾いているようで、聴いていてまったく流れに乗ることができない。というか流れそのものがない感じだ。大人しいといえば大人しいというか、やみくもに慎重で、腫れ物にでも触るように抑制して弾くことが芸術的演奏とでも思っているのではないかと思ってしまう。まるで人間の機微におよそ疎い山男のようで、およそパリの社交界でその名が轟いたショパンの瀟洒な世界とは程遠い。とりわけ24のプレリュードはその傾向が顕著で、最後まで聴き通すだけでも神経が逆撫でされっぱなしで骨が折れた。その点では即興曲のほうがいくらかまともで、華がないことはないけれども、ともかくも普通のテンポで変人風なところも少なめに前に進むので、それだけでもホッと一息できるようだった。しかし気になる点もあるわけで、それはこの即興曲はマロニエ君の耳には先のフィアルコフスカ同様、かなりルビンシュタインを下敷きにしているように聞こえて仕方がなかった。もしそうだとするとよくよく彼には音楽的主体のない人なのかもしれない。
 このCDはベーゼンドルファー・インペリアルで演奏されているが、そもそもショパンにこのウィーン訛りそのものみたいなピアノを使うこと自体からして、ショパン弾きとしての基本センスを疑ってしまう。もういっぽうのポロネーズ集はアンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズのみオーケストラ付きでピアノはスタインウェイだが、1番から幻想に至るまでの7曲は、なんと珍しいことにメイソン&ハムリンが使われていて、実はCDとしてははじめてこのピアノを聴くことができて、その点では軽い興奮を覚える。
 基本的な傾向としてはやはりアメリカピアノという印象だが、例えばボールドウィンのようなやや酒場の蓮っ葉な女性のような声ではなく、よりクセの少ない、そこそこバランスのとれた良質なピアノだと感じ、スタインウェイを別格とするとアメリカピアノでは最上級の部類ではないかという気がした。アメリカのピアノはいわゆる緻密ではないがよく鳴って音色は柔らかく、やや鼻にかかったようなハスキーな音色というイメージがあり、背筋を真っ直ぐにのばし澄んだ硬質な音を基本とするドイツピアノとはある意味で対象的である。マロニエ君からみると、アメリカピアノには美味しいステーキのような豊かでざっくりした魅力があると思うけれど、日本人は楽器や高級品に関しては頑なにヨーロッパ指向だし、自国にも優れたピアノがあるから、これらが入り込む余地はないのだろう。
 オールソンの演奏はポロネーズのような、どちらかというと腕力を必要とする曲のほうがはるかに相性がいいように感じる。先に述べたように演奏にキラリと光る魅力はないけれども、垣間見えるテクニックにはやはり並のものではないことがはっきり確認できるから、まことに惜しいピアニストだと思うばかりだ。
 よくぞこういうタイプの人があのショパンコンクールの覇者となることができたもんだといまさらのように思った。そのことは本人もずいぶんその重圧に耐えて過ごしてきたのではないかと思われる。ちなみにそれは1970年のことで、このときの第2位が内田光子である。内田の今日のピアニストとしての評価と地位は立派なものだが、彼女とて、もともとショパンコンクールというようなタイプのピアニストとはまったく違うし、出場したことさえ違和感があるぐらいだから、よほどこの年はスターが不在だったのだろう。

湿度管理

 このところ晴天に恵まれるはずの秋にもかかわらず、憂鬱な天候が続いて毎日空気が生ぬるかったり、急に寒くなったりと、どうも過ごしやすさというものがない。ある夜など、終始霧雨のようなものが降っていて、これがマロニエ君は一番嫌いで気分が塞いでしまう。降るならいっそ、はっきりと潔く降ってくれたほうがまだいいと思うのは、おそらくマロニエ君だけではないだろう。さらに嫌なのは、雨が降り出す直前のあのムンムンとした、腐った果実みたいな妙に蒸し暑い気配だ。
 
 秋の雨は一晩過ぎればカラリと晴れるのだろうぐらいに軽く思っていると、翌日もまた朝からしとしとと止まらぬ涙のような雨が降っていたりするとひどくがっかりする。秋に限らず長雨というのはとにかく嫌いで、人の心までべっとりと重く浸されるような感じがする。
 
 我が家のエアコンは旧式の集中管理タイプなので、この時代遅れのエアコンはエコとは正反対の代物で、電気代ばかりかかるくせに、今どきのエアコンのような除湿モードなんていう便利なものはない。そのためエアコンだけでは除湿が不足するので、昔からピアノの横にはいつも除湿器をおいて年中これを回し続けている。
 年中というのは文字通り冬もという意味で、冬場は石油ファンヒーターのやわらかな温かさを好むので、エアコンでなくこちらを使っているが、石油ファンヒーターは灯油が燃焼する際に湿気を放出するらしく、それゆえカラカラにならず心地よい温かさが得られるのだろうが、そのぶん湿度が上がり気味になることがあり、この場合も補助的に除湿器を回すことがしばしばある。
 
 マロニエ君の除湿器の使い方が激しいのか、製品そのものに大した耐久力がないのかよくわからないが、これまでに実に3台の除湿器が寿命を全うし、現在4台目の除湿器を使っている。激しいとはいっても24時間365日まわりっぱなしというわけではないが、まあとにかく稼働率が高いことは間違いない。
 湿度がじゅうぶん低くなっているのでたまさか除湿器を止めていると、夜中に雨が降りだした翌朝などは部屋に入ったとたん、ベッタリと皮膚にまとわりつくような湿度が充満していることがあり、ひどく後悔することがある。油断をすると皮肉にもこういう朝を迎えたりするものだ。しまったと思って湿度計を見ると、やはりというべきか湿度は60%をオーバーしていたりする。
 
 あわてて除湿器のスイッチを入れると、案の定、自動測定のランプは「高湿」が点灯し、通常よりも強い調子で懸命に回り始める。湿度というのはやっかいで、気温のように短時間で上げ下げできるものではないので、旧に復するには半日はかかる。
 
 どうがんばってみても自宅はしょせん日常生活の現場だから、ホールのピアノ庫のようなわけにはいかないが、それでも目標としては50%前後を基準においている。だが、それとて、これを一年を通じて維持するのはなかなか容易なことではなく、かなり骨の折れる仕事だ。しかし満杯になった除湿器のタンクの水を捨てるときなど、その盛大な重さや水量を両手に感じながら、これだけの水分が部屋の空気中に漂い、ピアノの奥深くまで達するのかと思うと、思わずゾッとしてしまう。
 
 主に木と金属とフェルトでできたピアノにとって、湿度や急激な温度変化が大敵であるのはいまさらいうまでもない常識だが、湿度が高いと木やフェルトが水気を吸って鳴りやタッチが悪くなるだけでなく、空気それ自体にも裾を引きずるような重さが加わって、つい人間側の気分まですっかり打ち沈んでしまうようだ。そんな状態の人間が調子の悪いピアノを弾いても相乗作用で良いことはなにもないのは当然である。
 
 考えてみると、ピアノは他の楽器にくらべると管理面ではとても恵まれない楽器といえる。そのどうしようもなく大きな図体と、ほとんど破滅的な重量のせいで、小さな楽器にくらべて持ち主からのこまやかな寵愛をうけるレベルが物理的にも精神的にも低いようだ。一般論として人間は自分より小さい物には容易に愛情を注いでも、ピアノのような特大の重量物には発揮しにくいものなのかもしれない。
 だからかどうかはわからないが、ピアノ弾きは元来、楽器に対する愛情の注ぎ方が他の器楽奏者よりもおしなべて低いのが相場で、湿温度管理などはコストの問題も絡むから、なかなか難しい面があるように見受けられる。人間のためにはエアコンをつけても、ピアノのためにそれを迷いなくできる人はそう多くはないだろう。
 
 高湿が温度変化がピアノによくないと理屈でわかっていてもそうなのだが、実際には認識さえない人のほうが圧倒的に多いということもあり、中には冷房自体が好きじゃないとか、健康のためなどと称して冷房をほとんど使わないという吝嗇家、湿度に対して自身がなんのセンサーも持たない人、あるいは寒冷地で床暖房などを設備した部屋に平然とピアノを置く人も少なくないと聞くから、それらからみれば我が家のピアノなどは、完璧ではないと思いつつ、まだマシなほうだといえるだろう。
 
 驚くべきは、リサイタルをするようなピアニストでさえ、ピアノの管理には徹底的に無頓着な猛者もいるらしく、雨の日に窓を開けっぱなしでガンガン練習したり、雨漏りの水がチューニングピンのあたりに落ちてきてピンが固着しても平気だったりと、これがウソのような本当の話なのだから呆れてものが言えない。ここまでくるとほとんどマンガレベルの笑い話だが。
 
 ところで、ピアノの湿度管理で思い出したが、湿度というのは木材だけでなく、金属に対してもいろいろな影響があるようで、より明確に言うと深刻なダメージさえ与えるものだということを、思いがけないところから知ることとなった。
 
 話は飛躍するようだが、現在アメリカのボーイング社が社運をかけて開発中の旅客機にボーイング787という新鋭機がある。これが従来の旅客機にくらべて、あまりにも革新的なハイテク機でありすぎたために、想定外の問題やトラブル発生が後を断たず、そのつど設計の見直しや改修作業などを余儀なくされて、航空会社への引き渡しはかつてないほどの規模で遅れに遅れている。
 当初の予定では2007年8月に初飛行。新型の航空機はその後、耐空証明などを取得するため厳しい試験飛行が1年近くおこなわれるから、順調にいけば翌年の中頃にはライン就航(商業運行)しているはずだったが、延期に次ぐ延期の悪夢が続き、ついには当初の予定から実に2年以上遅れて2009年12月にやっと初飛行までこぎつけた。ところがまたしてもボーイング社から延期が通告され、エアラインへの引き渡しと路線就航は、ついに来年になる見通しとなってしまった。
 
 まあ、そんなことはここではどうでもいいのだが、この787はこれまでの旅客機では常識だった金属製の機体や翼を捨て去り、より軽量かつ強度のある複合素材を採用した旅客機となった。この787以前にも新素材を使用した旅客機は存在しないわけではないが、あくまでメインは金属製で、新素材は部分利用に過ぎなかった。だが787では胴体など主要な部分の大半が新素材で占められ、そのうちの50%がカーボンファイバー製となる。その他の部分も様々な複合材が適材適所に使用され、アルミなどの金属はごくごくわずかしか使われない。
 いささかこじつけのようだが、カワイピアノのウルトラレスポンシブアクションも現在二世代目に進化し、使われる素材はカーボンファイバー入りの新素材になっている。精度や均質性に優れ、軽量で強度があり、木材に較べて環境の変化に強いというのがカワイの言い分のようだ。第二世代ではカーボン系ABS樹脂になったことで、色は従来の間の抜けた肌色から一転して墨色となり、こころなしか新素材による精悍さと説得力が出た気がする。弾いてみても従来型よりも軽さが加わったような印象があり、よくなっていると思うが、果たして技術者の目にはどのように映っているかはわからない。第一世代の樹脂製アクションは技術者の間ではすこぶる評判が悪かったとも聞いているが、そのへんの問題点は克服されているのだろうか。以前も書いた記憶があるが、ショールームにあるやや弾きこまれたSK-6では、他のまっさらの新品とは違って、アクションからほんのわずかだがカタカタという音がしていたから、いまだになんらかの課題を残しているのかもしれない。
 
 話は戻るが、この主にカーボン素材でできたボーイング787は金属よりも強度が期待できるぶん、客室窓の大きさが従来のものに較べて実に1.6倍以上大型のものになるほか、同じ理由で機内の気圧もより高くすることが可能となり、それだけ乗客の快適性が向上するといわれている。分かりやすくいうなら従来よりも低い山の頂上で呼吸できるようなもので、それだけ酸素が多いということだろう。また従来の旅客機では飛行中の湿度が6~8%、時にはゼロだったものが、787では最低でも12~15%まで維持できるようになったとのことである。
 その理由は、金属製の胴体では湿度を上げすぎると腐食の問題が出てくるのだそうで、ほんのわずかな機内湿度の違いが胴体の腐食の危険を招くという航空機のシビアな世界というのは驚きである。787ではボディがカーボンファイバー製になったおかげで腐食の心配がなくなったというわけだろう。
 
 したがって、ちょっとした湿度管理しだいでもピアノの弦の錆の進行も大きく左右されるということもじゅうぶんあり得るのではないだろうか。ただしピアノには木材と金属が同居しており、湿度が低いほど金属にはダメージがないかもしれないが、木材は人の皮膚同様まったく逆の状況にさらされることになる。
 実はマロニエ君は飛行機に乗ると、目的地についたころには手の甲や指が必ずといっていいほど痒くなるという現象が起こるのだが、理由がわからずに長いこと謎だったのだが、なんのことはない極端な乾燥状態にさらされることによるものだったようだ。
 湿度がしばしばゼロにもなるカラカラの機内を主な職場として、絶えず激務にさらされるキャビンアテンダントなどは、この点はさぞかし辛いことだろう。職業必要上、最も保湿などのケアに詳しいのはもしかすると彼女たちかもしれない。
 
 ピアノにとっての一番の大敵はとりあえず湿気ように思われるかもしれないが、その中でもより恐ろしいのが過剰な乾燥状態である。床暖房が最もピアノにとって過酷であるのもそのためで、乾燥のしすぎというのはある意味で尋常の多湿よりも木材にはよほど厳しいものとなる。乾燥したところにピアノを長いことおいておくとピアノの命である響板にクラックが入ったり割れたりという最も致命的なことが起こるので、関東から西にはそういう心配はあまりないかもしれないが、東北から北海道地方ではこれはよほど気をつけなければならないだろう。
 もし仮に、豪華船のごとき旅客機ができて、そこにピアノでも設置しようものなら、その強烈なエアコンによる乾燥に晒されてひとたまりもないだろう。空のピアノとして思い出したが、かの有名なドイツの巨大飛行船ヒンデンブルク号には、特別に軽量設計されたピアノ(ブリュートナー)が乗せられていたというが、これは飛行船が与圧の要らない低空飛行を前提としたものだからこそ可能だったのだろう。
 
 それほど湿度がピアノに与える影響というのは大きいというわけで、これはさる技術者から聞いた話だが、近年のスタインウェイは響板のニスをかなり厚塗りするようになったらしい。ニスの厚塗りは響きに影響するのは当然で、かつてのヴァイオリンの名工達がいかにこのニスの調合と塗り方に試行錯誤を繰り返し、想像を絶するような心血を注いだかを考えれば、自ずとその重要性がわかるはずである。それでも敢えて厚塗りするというのは環境からの保護目的以外にはないだろう。
 
 最近発売された音楽雑誌モーストリークラシックのスタインウェイ特集では、工場の探訪記の中で仕上げ塗装の違いに触れられており「仕上げの違いは嗜好の違いだけで音響にはまったく影響しない」と書かれているが、これはいささか同意しかねる意見だった。
 現在のスタインウェイの場合、ハンブルク製はポリエステルの艶出し仕上げ、ニューヨーク製はラッカーのヘアライン仕上げ(艶消し)と決まっているが、最近はニューヨーク製にも艶出し仕上げが存在するし、逆にハンブルクは以前は艶消しが主流だった。経験的に同じ年代のハンブルク製でも艶消し仕上げのほうが音にやわらかさがあり、つや出しのほうが全体に硬質な音がすると思う。
 ニューヨーク製はもともと音はやわらかいが、ピアノ自体はたいへん良く響き良く鳴る。だが敢えていうならやや音に芯と重厚さがない。その音色の違いがでてくるはっきりした根拠はわからないが、ニューヨーク製はリム自体に楓が使われているということと、ラッカーの艶消し仕上げの塗装自体が比較的薄く塗ってあることにもその理由があるように思える。こう書くと両スタインウェイではハンマーの特性がまったく違うことを挙げられる方もおられることだろう。それはたしかにその通りだが、ニューヨーク製にハンブルクのハンマーを付けても、表面の音は変わるが楽器が生まれ持つ生来のこの音響特性は変わらないのだ。
 クライバーンコンクールで辻井伸行が弾いたピアノがニューヨーク製の艶出し仕上げだったが、このピアノはニューヨーク製としてはカッチリと腰の座った明瞭感のある音を出していたように記憶するので、やはりそこには外装の仕上げの違いもある程度は影響しているように思われる。
 男の隠れ家という雑誌の「音楽の空間」という特集号では、スタインウェイのシステムピアノ(塗装をしていない状態のピアノ)のD型を所有するピアニストの清水和音がこのピアノのことについて触れているが、「厚い塗料がないだけに湿度に弱く管理が難しいが、そのぶん楽器が軽いのでいい音がする」というようなことを述べている。要するにピアノの塗装は見た目の美しさだけでなく、木材の保護の意味もあるということだ。人間の着る服がおしゃれと防寒を兼ねるようなものだろう。
 ピアノメーカーが外装にも響板にも塗料を厚塗りするのは、それだけ塗装という衣装を着せ込むことで、理想の環境に期待していないということの表れだろうし、そうすることが必要なほど、あの大きくて重い、一見いかにも強そうなピアノは、実はとても弱々しいセンシティブな楽器だということがわかる。
 
 ピアノにとっていい環境は人にとってもいい環境というのはやはり間違いではないようだ。
 
 
 蛇足ながら、先に述べたボーイング787が誕生することになったのは、日本の全日空がキックオフカスタマーとなったからである。キックオフカスタマーとは、機体の製造会社による新型機開発の概要提案(まだ実際の飛行機は存在しない)に同意した航空会社が、その計画段階の飛行機を発注することによって、それが実際に開発され製造されることが決定するきっかけを作った航空会社であるということだ。裏を返せば航空会社が関心を示さないような飛行機は開発もされないわけで、787は全日空の大量発注を得ることで開発製造プロジェクトが動き出した。これは航空会社にとっても航空史にその名を刻む栄誉あることで、とりわけ787のような革新的な大型機の場合はその意味合いも大きい。ちなみに全日空の発注数は55機という大きなもので、さらに日本航空と合わせると日本からは90機の発注となり、GDPで日本を追い越し世界第二位となった中国では、主要航空会社5社の合計でも57機だから、まだまだこんなところに日本の経済力の底力を垣間見ることができるのである。
 というわけで、今回は少々ピアノの話から脱線したことをお許し頂きたい。