今年聴いたショパン-No.25~30

 「今年聴いたショパン」は24のプレリュードにちなんで、前回のNo.24をもって終了としたはずだったが、もう少し続きそうな気配だったので、マロニエ君なりにあとは行けるところまで行ってみようということにした。
 いま少しお付き合いいただければ幸いです。
 
No.25[アブデル・ラハマン・エル・バシャ/児玉桃]TV
 ラ・フォル・ジュルネ音楽祭2010で行われたリサイタルからアブデル・ラハマン・エル・バシャによる練習曲集Op.25と児玉桃の演奏で華麗な変奏曲Op.12と2つのノクターンOp.27。
 エル・バシャはレバノン出身で、20歳のときにエリーザベト王妃国際コンクールで優勝。現在は年齢的にもピアニストとして絶頂期にあると思われる。ショパンは彼の最も得意とする作曲家であり、各地の音楽祭などでもソロの全曲演奏などを披露しているほか、10年ほど前にはショパンのソロ全曲のCDも発売されている。
 この人の魅力はスケールの大きなテクニックに支えられたおおらかな演奏で、この東京での演奏も自らの能力の限界まで追いつめるような演奏ではなく、Op.25のエチュード全曲というような気負いはあまり感じさせずに、聴く者にも余裕を残しながらの悠然とした演奏だった。そのためかこの人には珍しいわずかなミスタッチなども散見されたが、それも気になるようなレベルのものでなく、ショパンのエチュード全曲といえばなにかしらの緊張感があるものだが、ゆったりとこの曲集を楽しめる演奏というのは珍しい気がする。
 また非常に骨格のしっかりした体格にも恵まれたピアニスト特有の、落ち着いた美しい音色を持っているところが、ショパンの演奏を引き立てているといえるだろう。尖ったところのない、優しい美音が余裕をもって楽々と出てくるところはこういう男性ピアニストの優位な特徴であろう。ちなみに女性ピアニストのほうが全般的に音が痩せていて、しかもきつい音を出すのは専らこうした物理的な根拠のあるところだろうと思われる。
 音楽的にも音色の点でも、鷹揚さがあるのは結構だが、いまひとつ集中度が欠けるきらいもあったことが残念だ。しかし、各曲のフォルムなどはいかにも落ち着きのある大人の音楽で、これと対極にあるのがニュウニュウのエチュードだろう。とりわけNo.11とNo.12は正統な美しさを持った、力強さと懐の深さを併せ持つ優れた演奏だった。
 だが、CDでも感じていたことだが、ショパンにはできればいまひとつの洗練がほしいところ。
 
 児玉桃は幼い頃からヨーロッパで育ち、13才という年齢でパリ国立高等音楽院に最年少で入学し、19才のときにミュンヘン国際コンクールに最高位に入賞し、こちらもまた最年少という才能豊かなピアニストである。
 華麗な変奏曲Op.12はショパンの作品の中では、普段それほど頻繁に演奏される曲ではないが、児玉の演奏は非常に明晰であいまいさを残さないきりりと引き締まった演奏だった。この人は、前出のエル・バシャとはまた違ったタイプの輝くような美しい音をもっていて、それでいて刺々しさがない点が好ましい。
 好ましいと言う点では、非常によく弾き込まれ、じゅうぶん熟成された演奏をするのは説得力があって聴きごたえがある。プロのピアニストなら誰でもしっかりと練習した曲だけをステージに上げるというわけではなく、けっこう首を傾げるようなことも珍しいことではないが、この児玉の演奏には、そのような好い加減さが微塵もないのは非常に好感が持てる。
 どの曲も非常に成熟した音楽に仕上げられており、こまやかな和声の移り変わりなどにも非常に敏感に反応し、それらが片時もおろそかにされることがないのは立派だと思う。こういう神経の行き届いた上質な演奏というのは優れた日本人ピアニストの中に見られる誇るべき特徴で、外国人にはなかなか望み得ない美点であろう。ただし、Op.27-2のノクターンなどでは、あまりにもねっとりしすぎてやや音楽が重くなりがちなところがあったのが残念。ショパンを丁寧に大切に弾くということの中に、ショパンに必要な「適度な軽さ」が忘れられることなく保持されている演奏はなかなか少ないものだ。
 
No.26[エドナ・スターン]CD
 ショパン生誕200年に乗じて、次々に新しいCDが発売される。それも、このような節目の年でなければまずCDになることはなかっただろうというような珍品もこの機に次々と登場し、その点では非常に面白くありがたい事なので、基本的にはこの傾向を歓迎している。ただし、なんの一貫性も脈絡もないセット物の乱発はいただけないが。
 エドナ・スターンはイスラエル出身の閨秀ピアニストで、この人も主にフォルテピアノの演奏者のようだ。最近の演奏者の表記を見ていると、フォルテピアノを弾き、場合によってはモダンピアノもチェンバロも弾くというような人が珍しくないので、それらは一括して「鍵盤奏者」という聞き慣れない言葉で表現されている。日本でいえば小倉喜久子のような人だろうと思うが、それぞれになかなか優れた才能と演奏技術を有する人達が多く、意外に感心させられることしばしばである。
 エドナ・スターンがここで使うのは1842製のプレイエルで、パリの楽器コレクション所有の一台のようだ。マロニエ君は基本的にはフォルテピアノをあまり好まないことは以前にも書いたが、それはどう聴いてみても、とても楽器の状態がいいとは思えない、あるいは本来の音とは思われないような、古びた、かび臭い音を出すだけの骨董楽器としか思えない音を聞くことが多いという理由があるからだ。端的にいえば楽器としてはほとんど死んでいる状態に聞こえるのだ。古楽器というのは、そういう意味ではピアノに限らず、ヴァイオリンでもフルートでも、非常に一種独特な死の香りのする世界でもあり、そういうものがこと音楽に関してはマロニエ君はあまり興味をそそられない。
 いっそチェンバロや弦・管楽器になると、宮大工のような楽器製造家によってレプリカが次から次に製造され、こちらのほうが音色としては、朽ちかかったような楽器を珍重するよりは、はるかに信頼に足るものであろうことが予想される。
 なぜこのようなことを書いたかといえば、ここで演奏されるプレイエルがまた、まったくマロニエ君には価値を肯定できない(歴史的価値ではなくレコーディングに使用するという意味において)、ほとんど亡霊のような音を出す楽器だったからだ。コル・デ・グロートのマズルカで使われたような雰囲気のあるプレイエルはやはり滅多にあるものではないのだろうが、すでに150?160年が経過したこれらの楽器は、保管状態も様々だろうし、くぐり抜けてきた時間や環境もあまりにも多くがありすぎるのだろう。録音に供するぐらいだから一定の手入れはされているだろうが、おそらくは響板の大半が死んでしまっているのだろう。しかし歴史的価値を考慮して響板の張替などもしないでオリジナルを維持しているのではないだろうか。このあたりはマロニエ君のあくまで想像にすぎないが。
 この半ば死に体のような音を別にすれば、エドナ・スターンの演奏自体は非常に優れたものだと言えるから、これだけの演奏ができるのなら、もう少し別の楽器による演奏が聴いてみたかった。例えば同じプレイエルでも、より後年のモダンピアノになってから戦前までの一連のピアノで演奏してくれれば、おそらくは有難味もひと桁ちがったものになったことだろう。
 ショパンの雰囲気はよく伝わるし、趣味もなかなかいいエレガントな演奏だった。とりわけワルツ12番op.70-2などは美しさに息をのむような演奏だった。逆にいうと、モダンピアノの奏者でなぜこういう真っ当なあるべきショパンの演奏ができる人がいないのか、そこがまたわからなくなる点でもある。
それにしても、こういう腑抜けのような楽器で臆面もなく演奏し、録音までする「鍵盤奏者」という人達の感性というものも、正直いっていまだに良くわからないし、そこがマロニエ君の好みではないのだ。
 
No.27[イド・バル=シャイ]CD
 マズルカの中から30曲を収録したCD。このバル=シャイも前出のエドナ・スターンと同じくイスラエルの出身。ラ・フォル・ジュルネ音楽祭2010にも出演しマズルカが佳演だったので印象にあったが、偶然彼のマズルカ集を見つけたので、あらためて聴いてみたくなり購入。全体的にマズルカの雰囲気は掴んでいるようだけれども、残念なことに音楽に腰の座りがない。そのためか、いいときはいいが、ちょっとした風のひと吹きでグラリと崩れるところがある。表現の巧みさ、細やかさがあるが、いささか唐突であったり意味もなく慌ててつんのめるような部分がしばしば散見さるのが惜しい。いわゆる天才的な人でないぶん早々に老成したところもなく、いまだ若さと未熟さが残っているようだが、33才という年齢からすればいま少しの完成度があってもいいような気がしなくもない。こういう人は人生の後半になる頃に、より理解が深まって味のある大人の演奏をするようになる可能性もないことはない。
 ライナーノートには何枚もの写真が掲載されているが、見たところ年よりもやや幼いというか子供っぽい印象を受けるので、それはそのままこのピアニストの内的年齢が表れているのかもしれない。
 耳を凝らして聴いてみると、かなり幅広いデュナーミクを用いているが、そこに異なる要素の入れ替わりや交差がなく、どちらかというと同じことの強弱に過ぎないことが分かってくる。先に腰の座りという表現もしたが、別の言い方をするなら、音楽の進行に寄り添うべき呼吸の助けがないので、しばしばあらぬところで息切れを起こすような破綻というか崩れが起こってしまっている。こういう人は目先の表現の必要にあまり捕らわれることなく、もう少し素直に自然に弾いた方が清純で好ましい演奏になることもあるだろう。激しいパッセージでは呼吸が追いつかず、さりとて緩徐部分でも大きく悠然とした呼吸ができずに、ちびちびと区切ったような語りになってしまう。ようするにいまだ青年の演奏ということになるのだが、まあマロニエ君としては、あまり老人のような口も聞きたくないものだ。ラ・フォル・ジュルネ音楽祭の映像ではマズルカの佳演に対して、ワルツが大変な勇み足で首を傾げたものだったが、こうして80分近いCDを何度か通して聴いていると、こういうクセを持った人だということがよくわかった。しかしマズルカのどうかしたところでは、非常にいいものをもったピアニストだと思うので、やはり適正な意見を与える人間が周囲にいたら、欠点が是正されていい演奏家になると思う。
 楽器奏者の中でも、とりわけピアニストには優れたコーチやなんらかの助言者が必要だというのはいつも思うことだ。
 
No.28[アダム・ハラシェヴィチ]CD
 古い人であるが、これも今年のショパン生誕200年記念とした発売されたアルバムである。ハラシェヴィチはご承知の通りポーランドのピアニストで、1955年の第5回ショパンコンクールで優勝、このとき第2位だったのがアシュケナージである。録音は1966年だからコンクールから11年後、34才のときの演奏。
 内容はノクターン、マズルカ、バラード、エチュード、ポロネーズ、アンプロンプチュ、プレリュードといった、ほぼショパンの各作品様式の主要なところを並べたものだ。
 冒頭いきなりop.62-1 h-mollのノクターンからスタートするところがいやが上にも期待を煽る。全体に非常に落ち着いた調子で弾き進められ、後半では主要テーマを維持しながら内声にトリルが入ってきて、最後はゆるやかに上下するスケールで幕を閉じるこの後期のノクターンでは、初期の傑作である1番の協奏曲の第2楽章の終盤を彷彿とさせるものがあった。この一見変則的に移ろいゆく曲調のノクターンの、あるがままの姿がこれほど克明かつ自然にショパンらしく描き出された演奏があっただろうか。最後の最後まで変わることなくショパンのやわらかな語りが続くこのような演奏を聴くと、いかに最近のピアニストが、程度の差こそあれショパンに対する重きの置き方が不十分で、平均化された演奏に相乗りしつつ、よりピアニスティックに弾きのけているかという事実を認識させられる。
 ハラシェヴィチのすごいところは、決してマズルカのような曲をほんの小品としても取り扱わなければ、バラードの1番のような曲でも大曲として腕まくりして弾くようなところが微塵もなく、どれもショパンの遺したかけがえのない最上級の芸術作品として真っ当に向き合い、それをそのまま真摯な演奏に表しているという点だ。
 また、ポーランド出身のピアニストによくある、本家本元のショパンを標榜しながらもどこか野暮ったいローカル臭のあるピアニスト──例えばポブウォツカとかツィメルマンとかオレイニチャクなど──のような泥臭さのない、あくまでも洗練された詩的で美しいショパンを展開していく。
 バラードにしろ英雄にしろ、やみくもに大向こうを狙ったような大仰な振る舞いは慎み、自然だが決して油断のない当たり前な演奏なのだが、こういう当たり前さが今日の耳には却って新鮮に響くところが面白い。こういう演奏を聴いていると現在のピアニストはみな自己顕示が大層強く感じるし、昔の人の中にはハラシェヴィチのように自己よりも作曲家を尊重し音楽に奉仕していた音楽家が確かにいたのだということがわかる。それでいて、耳を凝らしてきいてみると、非常に正確な、ごまかしのない、大変な練習を積んだ末の演奏であることもわかるのであるが、それを決して外に出していないところが敬服させられる。
 ただ、こういう純度の高いショパン演奏をする人というのは、どうしてもピアニストとしては地味な存在に陥りがちなことも事実で、聴く者の心を一瞬にして鷲づかみにするや前後左右に振り回すというような激しさがないから、とりわけ現代のように常に過当競争にさらされる時代にあっては、なかなか生息するのが難しいタイプの演奏家だといえるだろう。こういう節度ある上品なショパンは、もしかしたら時代がそれを許したといえる面もあるのかもしれず、もしハラシェヴィチが50年あとに生まれてきていたら、同じような演奏をするかどうかは甚だ疑問だ。もちろんそこには時代毎の作曲者に対する解釈の基準や考証もかわっているから、一元的に較べることはできないけれども。
 
No.29[エリザベト・レオンスカヤ]CD
 ロシア出身のレオンスカヤが、ショパンの21曲のノクターンを納めた二枚組アルバム。レオンスカヤというピアニストはなんとなく先生タイプで、あまりマロニエ君の好みだったという記憶はない。そうはいっても聴いたのはブラームスのコンチェルトぐらいであまりじっくり付き合ってみたこともなかったような気がして、ものは試しと思い購入した。果たして、第1番変ロ短調の出だしからして「ああ、やはり…」と感じた。
 非常に丁寧でごまかしのない、真摯な演奏であることはすぐにわかった。しかもショパンの音楽を害するような恣意的な解釈や奇抜なディテールなども微塵もなく、音楽的純度というようなありふれた言葉を使うなら、たしかに純度の高い演奏であることも認めよう。音も大変美しいし、ピアノもすばらしく調整の行き届いたほとんど申し分のないような涼やかな楽器を使っている。
 しかし、聴いていて要するに酔えない、いざないのない演奏であることに気づき始めるのに大した時間はかからない。まずテンポが非常に遅いようで、まだるっこしい気分になるが、冷静にテンポとして耳を傾けるとそれほど極端に遅いというわけでもないが、とにかく実際以上に遅く感じる。
 では何がそう感じさせるのか。それは音楽が時間芸術であるにもかかわらず、曲が進行方向に向かっていないからだろうと思われる。言いかえるなら演奏それ自体に、前に進もうという推進力と情熱がほとんど働いていないように見受けられるのである。ひとつの音が次の音に、ひとつのフレーズが次のフレーズに繋がらず、ただそこにあるものをただ誠実に美しく並べてさあどうぞと見せられているだけという気がする。
 開始から終了までの曲を旅する感触がないから一曲々々に今そこで演奏され生まれ出た音楽という感じがなく、我を忘れて流れの中に入り込んでしまうということがない。常に冷静な視点で真正面から、いかにもゆっくりと教科書の朗読を聞くように秀才的に曲を取り扱うので、なんだか聴いている方が白けてくるのだ。しかしどの曲もとてもよく弾き込まれており、まったく危なげのない確かな指さばきであることは尊敬に値する。
 まさにレオンスカヤの風貌そのままの、あまりにきっちりとした隙のない演奏はご立派で、お説教でもされているような気分になる。きっとヨーロッパの名門の寄宿学校などにいくと、ああいう先生──いつも背筋が伸びて、年中キチンとスーツを身につけた、頭がいいのに融通が利かない、まさに厳格な聖女のような先生──がいるのだろうと思う。これはまさにそういう演奏だと思った。
 マロニエ君はといえば、そういう先生がなにしろ苦手で、あまりに正統派真面目派を周囲にふりまかれると、からかったりいたずらしたりしないではいられない性格だから、こういう演奏が生理的に合うはずがないのも致し方ないだろう。レオンスカヤの演奏を聴いていると、ヴィルヘルム・ケンプなどでさえ、もっと自由でのびのびしたピアノだったということに気がつくのだから不思議なものだ。
 正直を言うと、この二枚組を一度通して聴くだけでも疲れて骨が折れた。実際の演奏会なら、何度もあくびが出てそっと時計を見たりするに違いない。
 実はレオンスカヤは、ベートーヴェンの最後の三つのソナタを新しく録音してこの夏発売されたばかりで、しかも1901年のスタインウェイが使われているというので、興味をそそられて購入を検討していたところだったが、このCDを聴いてすっかりその気が失せてしまった。
 
No.30[ダン・タイ・ソン]CD
 全55曲からなるマズルカ全集。録音は昨年日本でおこなわれている。
 ひとつ前がレオンスカヤということもあるが、それにしてものっけから非常に好ましい演奏で目が醒めるようだった。はじめから終わりまで、いかにもダン・タイ・ソンらしい繊細で端正な演奏に仕上がっているのはさすがという他はない。しかもダン・タイ・ソンは繊細さをいくら追い込んでも、決してそれが神経質にはならず、絶えずある種の温かさと肉感が失われないところがよい。すみずみまで神経の行き届いた上品で美しい演奏だ。
 ショパンの多感な音楽が鳴りやまないのに、表現過多にも陥らず、いかにも東洋的な神経のキメの細かさと節度感が隅々まで行き渡っている。この人は昔に較べて、彼の美質はそのままに保たれながら、力強さやスケール感が加わり、ひとまわり大きなピアニストに成長したようだ。
 何年か前にN響と一緒にプロコフィエフの3番の協奏曲を弾いているのを見て、それまでとはまったく違った逞しさや大きさなど新しい面を見せていたのに驚いたことがあるが、そういうダン・タイ・ソンの成長は、やはりショパンの繊細な音楽の中にも好ましい効果をもたらしているようだ。その後発売された、ショパンの3曲のソナタ全集というアルバムにも、彼がそれまではどちらかというと得意ではなかった、堅固さや構築感などがいつの間にか蓄えられ十全に発揮されて、ショパンのソナタというやや不安定な大曲にも大いに活かされて、聴く者を確かな足取りで誘導するようだった。
 そしてそれは、このマズルカ全集のような小品の群れにおいても大きな効果を顕していると言えそうだ。とくに表現のパワーが以前より確実に勝り、同時にそれはきわめて自然である。各曲の個性を確信に満ちながら見事に弾きわけ、ひとつひとつの作品が、真っ直ぐに伸びた美しい花のように、ゆるぎない確かさをもっているところは聴いていて深い安心感を覚えるし、いわゆる聴き心地がとてもよろしい。
 今回あらたに感銘を受けたことのひとつに、マズルカの命綱ともいえる左手が刻む絶妙のリズムがあった。ダン・タイ・ソンの左手はマズルカを弾かせると、いかなるときもマズルカの命がそこに生きているような、しかも自然さを伴ったリズムの刻みを達成している。このマズルカのリズムというのがなかなかのくせ者で、その上に展開される素顔のショパンを、いかに内容をもって的確に表現すべきかが多くのピアニストを悩ませる課題ではなかろうか。
 だいたいショパンの弾ける人なら、マズルカは音符としてはそう難しいものではないが、このリズムをはじめとするマズルカだけが要求してくる固有の要素がある。例えばその微妙なニュアンスの維持は、ノクターンなどよりも表現の幅や変化が甚だしく、絶えず感性を研ぎ澄ましてショパンの移ろう心情を伝えなくてはならず、それ故の難しさがあるのかもしれない。ダン・タイ・ソンの生まれたベトナムという土壌になにかがあるのか、あるいは彼の天賦の資質なのか、そのへんのことはわからないけれども、ダン・タイ・ソンのマズルカには他のピアニストのような妙に気負ったところがなく、流れのままに詩を朗読しているように聞こえる。
 この無理のなさが全曲を下支えしているのは間違いなく、細やかな抑揚の波と節度ある歌い込みの中でショパンの言葉を自在に語っている。これに対して、以前発売されたワルツ集などは、なんとも方向違いでいただけないものだった。ワルツの三拍子もどこかマズルカ風だったというか、こちらはどうにも形に嵌らないワルツだったのである。しかし、芸術家というのは何もかもをオールマイティーにこなす優等生のことではないのだから、大いに出来不出来があってかまわないはずだ。そしてこのマズルカのように上手くいったときには、何か圧倒的な光を放つ仕事になっているのだから、我々はそれを享受し堪能すればよいのである。

オオシロピアノ

 ちょうど東京から音楽好きの友人が帰福していたので、久々に糸島のピアノ工房に行った。
 ここは、「過去のマロニエ君」にも書いたことのあるオオシロピアノだから、出来る限り重複する内容は避けるべく、専ら今回の訪問で感じたことを中心に述べたい。本来マロニエ君の部屋の「はじめに」にも書いている通り、ここでは固有の名称は極力排するように努めているが、今回はそれなしには伝わらない話であるため、大城氏の了解を得て──かなり渋られたが──実名表記で書き進めることにする。
 
 名は体を表すの言葉があるように、ここは工房ピアノギャラリーという名が示す通り、工房(作業場)とギャラリー(ショールーム)が併設された造りになっている。中に入ると、この不景気をよそに工房内には美しく磨き上げられた10台を越えるピアノがあり、その中には納品待ちのものも数台ある。ただ無意味にピアノが並んでいるのではなく、作業中のものから納品待ちまで、工房としてのリズムと流れがあることが一瞥して見て取れる。
 
 この日あったグランドは三台で、以前にも紹介した日本の名器ホルーゲル、新しく陣営に加わったカワイのNo.750、それにヤマハの名器C3である。前の2台は非売品で、C3はまもなく購入者のもとに届けられる由。C3は、いわゆるオーバーホールを終えたばかりのピアノだが、いかにもスッキリと仕上がった状態で、大城氏の迷いのない良心的な作業スタンスが滲み出た、いわゆるキチッと前を向いたピアノになっている。言うまでもないが多くの消耗品は新品に交換されており、弦やハンマーには輸入物のパーツさえ組み込まれているのだから、巷でいうところのスペシャル仕様である。
 中を覗けば、新しく張り替えられた弦と、銀食器のように輝く無数のチューニングピンがまぶしく光る。ハンマーはレンナーに交換済みだそうで、余分な響きを排したやわらかさの中に芯のある明晰な音に仕上がっていた。とくに中音域から高音にかけての、ピアノの旋律に関わる音域では、通常のヤマハにはない種類の歌う要素が明確に加わっていて、これひとつとってもただのありふれたC3とはひと味もふた味も違うことを理解するのに大した時間はかからない。
 残る作業は、購入者の希望で、黒鍵を黒檀に交換することだそうで、まさに「カスタムピアノ」として生まれ変わり、ここで新たな命を吹き込まれて次なる旅に出発する直前だった。
 
 さて、オオシロピアノの良心的価格はつとに知っているつもりだったが、そのC3の販売価格を聞いてあらためて驚かされた。
 具体的な金額こそ書かないが(価格を知りたい方はオオシロピアノへ直接問い合わせされたい。リンク済み。)、およそこの手のリニューアルピアノの一般的な相場からは遠くかけ離れたもので、おまけに運送費まで込みというのだからちょっと呆れるばかり。しかも上記の通りのカスタム仕様になっていることを考慮すれば思わず唸ってしまう。これが本来の適正価格であるとはとても思わないが、単に大城氏に欲がないのか、そのへんのことはよくわからない。しかし、普通なら自前のピアノのオーバーホールを依頼してもそれなりの金額になるはずだから、やはりこれは望外の価格と言うべきであろう。こういう良質なピアノをそんな条件で手にできるとは、購入された方がなんともうらやましい限りだ。
 
 一般的な販売現場では、入荷した中古ピアノにほとんど何もせず、軽いクリーニングやボディの磨き、あとは簡単なハンマー形整などをしただけで、ちゃっかり相場価格で売りさばいていく店も決して珍しくない。そんな実情の中で、ここまで徹底的に手を入れた良質なピアノを、きわめて良心的な価格で提供する店も現実に存在するのだから、中古ピアノほど、店選びがものをいう世界もないということをまざまざと認識させられる。
 ありふれた中古ピアノ店から、ろくに整備もしていないくたびれ気味のピアノを買って、中古だからこんなものだろうと妥協しながら使うのと、このように完全に仕上げられたピアノと生活を共にするのでは、同じピアノ購入とはいっても、まるで過ごす時間の質が違ってくる。
 ピアノはひとたび技術者が隅々まできっちりと手を入れておけば、かなり長いことそのピアノの良好なコンディションは維持される──音が狂ったり硬くなったりしても調律と整音で元に戻る──ので、それがあるとないとでは雲泥の差であるし、わけてもピアノは長い付き合いになる相手だから、その違いによって、購入者の音楽生活の質や大げさにいうなら運命が変わるといっても過言ではないだろう。
 
 ところで、このC3は無論のこと、非売品のカワイのセミコンも、そのタッチがまた憎らしいほど素晴らしいものだった。しかもヤマハのC3と50年も前のカワイの750とではアクション機構が違うから、それぞれの特性に応じた調整が必要となる。C3は現代的で非常に素直なムラのない俊敏なタッチ、750はよりやわらかに入ってその奥に若干の抵抗があるというもので、個人差はあるだろうけれども、マロニエ君にとってはどちらもちょっと文句のつけようがないほど素晴らしい。大城氏によれば750は機敏性(主に戻りの追従性)に一抹の不満があって満足していないとのことだったが、どのみちマロニエ君などはそこまでの運動性が問われるほどの演奏は出来ないから問題ではないけれど。
 大城氏の作り出す、軽やかなのにしっとりとしたタッチは、昔から一目置くに値するものがあったけれども、ここ最近になって、さらに磨きがかかってきたらしく、奏者の快適な弾き心地というものをより深い領域まで追い込んだ観があり深い感銘を受けずにはいられない。
 こういうピアノを弾いていると、文字通り自分のイメージをそのまま反映した演奏が可能となり、まるでひとまわり上手くなったように感じるものだ。それは、通常はピアノごとのタッチに合わせて弾き方を加減する習性が身に付いてしまっているものだが、大城氏のピアノに触れるといつしかそういう小細工をすることを忘れている。音楽的なイメージを心に描いて虚心に弾いてみると、それらが自然にピアノの音として乗ってくる。すると奏者はそれにまた反応して、さらにより高い感興を呼び込むというプラスの連鎖が起こる。このように演奏者を刺激し啓発することは、まずもって良い楽器の証である。
 
 一般論として、ピアノの音とタッチというものは、切るに切れない深い相関関係があるわけで、ごく単純な例で言えば、奏者のイメージよりも大きな音が出てくれば、相対的にタッチは軽く感じ、イメージ以下の小さな音しか出なければタッチは重く感じるという心理作用が付随的に働くという。
 マロニエ君の印象としては、それは否定の出来ない事実として理解できるとしても、しかし技術者は全般的に、必要以上にこのことを結びつけて我々ユーザーを説き伏せたがる傾向があると感じる場合がある。これは機械的なタッチの調整をするよりも、音の変化による心理作用で解決できれば、そのほうが作業もイージーだからという実情もあるのかもしれない。しかし音との関係でどんなに説得を受けようとも、タッチの問題の中には、純粋に物理的根拠に根ざしたものがあることも事実なのであって、その場合はいくら音色や調律を変えられても納得できないが、こちらも日本人故につい弱気になり、人間関係を優先して徹底的に追い込む勇気がない場面がある。
 弾く者にとって理想的なタッチは、演奏という実際的な物理行為においては何物にも代えがたい直接的な重要性がある。繰り返すが、理想的なタッチは奏者を助け、演奏の喜びと新たなイマジネーションをもたらし、音楽の間口と可能性をいかようにも押し広げるものだと言えるのではないか。
 なぜこのようなことを書くかというと、大城氏の仕上げた各ピアノの秀逸なタッチは、マロニエ君の見るところでは、いずれも音とタッチとの相関関係に甘えず、まず優れたタッチの土台として、物理的──純粋に機械的な調整がごまかしなくキッチリと済まされているところにはじめて成り立つ種類のものだからだと声を大にして言いたいわけだ。具体的な方法としては大城氏がタッチを作られる場合は、まず整音を先にやり、音色を決定してからタッチ作りに入るという。これにより音色の相互関係が確実に決められるからだそうだ。
 
 ピアノの命が音にあることは言うまでもないことだが、音や響きにばかりこだわりすぎてタッチへの配慮が手薄になれば、本当に良いピアノにはなり得ないことは言うまでもない。良いピアノたるべき条件の中に省略して良い事柄はないのである。
 繰り返すようだが、技術者の中には、ユーザーや奏者の要望が正しく理解できず、あるいは耳を貸さず、対症療法的に解決しようとする人が少なくない。しかし、奏者は日々いろいろなピアノに触れる技術者とは違って、年中同じピアノを弾いているのだから、専門知識はなくてもそのピアノのことにはとても詳しくなっているものだ。医学知識はなくても自分の体や体質にはすこぶる詳しいように。
 物理的要求には物理的な処置によって応えてもらわないことには、真の解決は得られない。タッチの物理的な改良を要求をしても、音の違いによるものとすり替えられ、整音や調律でお茶を濁そうとされるときほど釈然とせず嫌なものはないが、大城氏はそういう混同を決してしない、気持ちの良い希有な技術者でもある。
 
 大変残念なことに、大城氏は手がけるピアノを日本製ピアノに限定していて、輸入物のピアノには手をつけようとはしない。それは大城氏が強いポリシーの持ち主で、自分にとって未経験の楽器に対して無責任な仕事はしないというマイルールを作っているためらしい。その理由は、ピアノにはそれぞれ固有の設計上・製造上・機構上のセオリーがあって、故に修理や調整もそのセオリーに沿ったものでなくてはならず、個別のメーカーに対する正式な知識や経験のないまま、独善的な作業をしていては、却って楽器の能力を損ねる恐れがある(それが自分にとっては誠実な作業だとしても)というのが主な理由のようだ。
 これは非常に正しいことだが、普通はなかなか実行できることではないだろう。それだけ大城氏は技術に対する責任意識が強く、自分の仕事には誠実かつ良心に従って取り組んでおられるということでもある。たかだか数日間の講習等に参加しただけで、特定メーカーの認定技術者の肩書きをもらい、さっそくそれを名刺に刷り込むようなセンスの人ではないのである。
 たとえば輸入ピアノの雄であるスタインウェイを、大城氏が決して手がけられない理由として、氏は次のように説明してくれた。
 『スタインウェイが世界一のピアノであるにもかかわらず、現実には「スタインウェイはさほど良いとは思わない。」という人の数が実に多い。思うに、その元凶は自称「スタインウェイもできる調律師」があまりにも大勢いて、その人達によって本来の実力を引き出されていない状態のスタインウェイが多すぎるからなのです。だから自分はその人達と同じ調律師にはなりたくない、ただそれだけなんですよ。』
 
 ピアノ技術者の仕事の難しさと奥の深さを感じさせる言葉ではないだろうか。
 その、ピアノ技術者の仕事とは、ひとことで言うならピアノの生まれ持つ潜在能力を最大限に引き出すことであり、それを技術的に正しく導き、美しく健康な状態にすることだろう。
 ピアノ技術者の基本的な仕事は、オーバーホールのような大修理を別とすれば、整調・整音・調律の3つが基本であり、ピアノ技術者はそのすべてを心得ていなくてはならないことは今更云うまでもない。そして、世の中には非常に優れたピアノ技術者がおられるが、厳密に云うと、各人にも実は得意分野というものがあるように感じる。そして大城氏の場合、ご本人はどう思っておられるか知らないけれども、マロニエ君は「整調の人」すなわち「タッチの人」だと思っている。もちろん整音と調律も立派な仕事をされるのはいうまでもないが、それでも整調にみられる冴えが最も抜きんでて優れていると感じている。これは何年も前、最初にオオシロピアノに行ったときから一貫して感じていたことだが、それは今でもまったく変わるところはない。
 詳しい専門領域のことはわからないけれど、一般的には軽いタッチと弱音域のコントロール性は背反する場合が多く、タッチは軽くてもストンと落ちてイメージ通りの音が出せないなど、タッチコントロールに難渋するピアノのなんと多いことか。また軽いタッチのピアノには往々にして音色の変化のつけにくいものが多く、音色の移ろいや色数、奏者のタッチの微妙な変化に反応できず、単調な音しか出せないピアノのなんと多いことか。むろん大城氏のピアノはこれらのいずれにも当てはまらぬ豊かな可能性と表現性をもっている。
 
 タッチを作り出す「整調」とは、ピアノの鍵盤を押してから、ハンマーが動いて弦を叩くまでにかかわってくる、さまざまな機械部分の動きに関する多種多様な調整の総称である。この部分がピアノの中でも唯一の精密機械の領域で、キーからアクションにかけての精妙を極める調整如何によって、タッチや音色はいかようにも変わってくるのはいまさらいうまでもないだろう。そして奏者の弾き心地も、調律や整音から受ける音の感覚に左右される面はあるものの、主に(とりわけ物理的には)この整調によってピアノ演奏の根底となるタッチ、すなわち弾いたときのフィールというものの大半が決まってくる。タッチがすばらしく、それに連なる形で思い通りの音が出せるピアノほど弾いていて気持ちの良いものはない。
 
 大城氏は会って話せば大変気さくで陽気な人で、いわゆる繊細で神経質な人には見えない。ざっくばらんでいつも大声で話したり笑ったりの連続だ。しかし、ピアノの技術に関することは我々の目に見えないところで絶えず勉強や試行錯誤を繰り返され、自分の築いてきた技術に満足するというところがない。その甲斐あって、もう決して上り坂のつづく年齢ではないにもかかわらず、常にその技術レベルは更新され、確かな進歩を遂げているのは驚くばかりだ。こういうことを書くと買いかぶりだと大声で否定されることだろうが、まあご本人の認識は置いておくとしても、マロニエ君はこのように思っている。
 率直な話をすれば、むかしは、タッチなどは素晴らしいけれども、見た目の仕上げなどは最上の部類とは言い難く、いささか粗っぽいようなところも見受けられた。ところが、ここ数年はそういう面さえすっかり影を潜め、非常にキチッとした、質の高い、緻密な仕上げがなされるようになり、こういう領域にまで進歩するというのは、若い頃ならいざ知らず、一定の年齢に達してからそれを向上させていくのは普通はちょっとできることではない。人間に長年染みついたクセややり方はそうそう変わるものではないから、これはまさに瞠目に値する事だろう。
 何事にも慢心せず、謙虚な気持と、旺盛な好奇心があれば人間というのは何歳になっても向上前進していくというひとつの証明であろう。
 
 最後につけ加えておくと、ピアノ技術者の中には、業界内で一定の評価を得て一目置かれたり、有名ピアニストの御指名を抱えるようになったり、少しその名が知れわたってくるようになると、次第に勘違いをはじめる人もいる。いつしか自分を半ば芸術家のように思ってみたり、自らを何か別格で特別な人間のように思い込んだり、その道の指導的な高い位置に存在しているように錯覚するなど、さまざまな人がいる。こういう要素が見えてくると、功名心の満足が優先され、進歩もだいたい行き詰まる。謙虚さの中にあった輝きは失なわれ、自分のすることが正義で未知の技術やお客さんの要望などに真剣に注意を傾けなくなったりするものだ。
 大城氏はというと、このような人の心に差し込む邪念がものの見事にないばかりか、むしろ欠落しているといってもいいだろう。常にピアノ技術者としての自分を客観的に見つめ、その仕事を最も強く批判しているのは大城氏自身なのである。これこそまさに職人魂というものだろう。
 
 ジャンルを超えて本物が少ない今日、福岡でこのような良心的なピアノの工房と優れた技術者のいることを素直に喜びとしたいが、おそらくはこの先、大城氏のような人間くさくて情に厚い「本物の技術者」は時代的にも出てこないような気がする。
 大城氏はもしかするとこれから数年間がトータル的な意味に於いてピアノ技術者としての絶頂期を迎えるのかもしれない。マロニエ君の状況さえ許すなら大城氏が納得の行くまで仕上げたピアノをぜひ一台購入したいところだが、なかなか思うに任せない自らの境涯が悔しいばかりである。

今年聴いたショパン-No.19~24

No.19[マウリツィオ・ポリーニ]CD
 70年代の中頃、ペトルーシュカとプロコフィエフのソナタをひっさげての、彼の本格デビューは全世界に猛烈な衝撃を与えた。続いてショパンのエチュードやプレリュードがリリースされ、そのギリシャ彫刻のような解釈のもとに繰り広げられる驚異的な技巧と完璧を思わせる演奏は聴く者を身震いさえさせた。このポリーニと、いま一人のアルゲリッチ、この両者の登場によって、世界のピアニスト勢力図は一気に書き換えられ、葬り去られたピアニストも少なくはなかった。それから30年余、ポリーニは60代後半の老境を迎えたが、指の衰えは想像以上に大きかった。
 最新のショパンアルバムはOp.33?38までのソナタ、マズルカ、ワルツ、即興曲を集めたもので、企画としてはなかなか面白いが、演奏はそれなりに美しいだけのまったく面白くない期待はずれなもので、ポリーニが今なにをどうしたいのかさえまったくわからないものだった。少なくとも昔のポリーニ・ショックを味わった世代には、ある種の痛ましささえ覚える。マロニエ君がはじめにポリーニの技術の衰えを感知したのは、2回目のベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲を、アバドとのライブでリリースされたときだった。おそらくこのときポリーニは40代であったから、衰えの始まりはかなり早期に訪れたといえるわけで、ひょっとするとなにか身体上の故障なのかもしれない。全盛期のポリーニの圧倒的な演奏はやはりただものではなかった。その桁外れの技巧を格調高く見事に支えたのがイタリアの建築的な美意識で、これでもかとばかりに繰り出される気品のある音色や音響的なピアニズム、ある種の官能性と構造的造形によって曲がまるで大小の建築物のように立ち上がる様は圧巻だった。リサイタルなどでたびたび味わった充実と感動、プログラムを弾き終えた頃には汗まみれになったその姿は、それだけで熱狂に相応しい英雄だった。しかしながら、同時に垣間見えていたのは、ポリーニへの熱狂の根底には、音楽への賞賛というより、人類未踏の記録樹立への筋肉の勝利と言った非常に男性的な要素があり、やはりこの人は基本的にはテクニックの英雄だったのだろう。
 ネット上にあるこのCDのユーザーレビューに『技術だけで内容が全く無かったピアニストが、技術を失い、何も無くなった。』とあったのは、まさに正鵠を得た言葉だと言うべきだろう。昔あれほど熱狂したピアニストが老いてこんな演奏をすること自体、人生の儚さを思い知らされる。とりわけ壮年期以降目立ってきたのは、音の粒立ちが明らかに悪くなり、やたら団子状態になることや、気が急いてコントロールが利かなくなる、唐突で意味のないフォルテの多用などだ。中でももっとも顕著なのが、かつてはなにかといえば比較されたミケランジェリとポリーニだが、ミケランジェリがペダルを魔術師さながらに巧みに操ったのに対し、ポリーニのそれは平均以下で、音が濁ったり、突如響きが分断されるなど、およそこのクラスのピアニストとは信じがたい杜撰なペダルさばきである点だろう。前作のノクターン集を聴いたとき「ポリーニは終わった」と思っていたのに、懲りずにまた買ってしまった自分が間違いだった。それでもCD評などを見ると、さすがはポリーニ、素晴らしいの連発で技術面まで含めて褒めちぎっているものがいくつかあることは強い違和感を覚える。こういう人はかつてのポリーニの魅力に参ってしまって、信仰的になり判断力を失っているのだろうか。
 最後に言っておきたいことは、それでも尚、ポリーニほどピアノを甘く美しく音響的にならすことの出る人はいないように思われる。この「響き」を聴くことが、今のポリーニの最大の値打ちかもしれない。
 
 
No.20[イリナ・メジューエワ]CD
 このところ、ショパン生誕200年を機に、メジューエワも立て続けにショパンのCDを出している。この人は日本に在住しているというようなことも風の噂に聞いたことがあるが良くは知らない。ただ、そういう関係からなのか、常に国内の若林工房というレーベルから新譜が発売されるが、やはり国内製作のCDはご多分に漏れず、その価格は決して安くはない。マロニエ君なりにこの人の演奏の特徴はある程度とらえているつもりなので、なんでもかんでも興味を持つようなことは手控えるようにしている。一度、店頭の試聴盤でプレリュードだったかエチュードだったか忘れたが聴いてみたときは、なにやら作品に似つかわしくないねっとりした陰鬱な感じばかりがしてあまり好みでないと思った。そしてこの度、これはと狙って購入してみたのがノクターン集(2枚組)である。
 ともかくきれいだった。目の詰まった美しい織物のような演奏だった。
 メジューエワの演奏には、基底のところに悠然とした大河の流れのような雄渾とリズムがある。その色白で華奢なバレリーナのような姿からは想像できないような、何か雄大なものの息吹が脈々と流れている。音楽の方向性はロシア的なロマンティシズムに貫かれた耽美性を有していて、同時に極めて繊細な表現や処理をすることも忘れないが、そのために必要な軽快さや切れなどには不十分なものを感じることしばしばだ。
 特筆しておきたいのは、メジューエワは女性ピアニストには希有なことだが、その音には厚みと肉感があり、とりわけ痩身の女性の出しがちな、硬質の薄いガラスのような神経質な音とは正反対である点だ。ひとつにはこの良く鳴るまろやかな音色のせいで、音楽全体がずいぶんと温かなものとなり、おっとりと腰の座った安定感がまずもってメジューエワの特徴のように聞こえるが、これは彼女の大いなる長所であると同時に、短所として顔を出すこともある。
 近ごろの聴衆の好みを意識してか、遺作のレント・コン・グラン・エスプレシオーネからスタートするのは、このCD以外にもいくつか見かけたことのある曲配置なので、これは営業サイドの要請なのかもしれないが、マロニエ君はこんな病人のような曲が先頭に来ることには違和感を感じる。
 2曲目になる作品9のノクターンからが本来の始まりのように思うが、凛としていてなかなかの佳演である。作品9では3番などは曲想と演奏がどんぴしゃりで、まさに曲そのものを安心して聴き進んでいけるのが心地よい。ショパンの中でもノクターンは決して派手なピアニズムに流れ落ちた演奏になるべきではないが、その点メジューエワは常に理知的でそういう野生が目をむくことがないことが、このCDを一層格調高いものにしている一番の要因ではなかろうか。
 残念なのは、あきらかに普段弾いていない曲を、全集のために譜読みして間に合わせたような曲が幾つかあることだ。敢えてどれと指し示すことはしないが、そういう曲は、やはり表現に力がない。及び腰で、なんとか他と揃えて弾きましたというような感じになって終わるのは残念だが、こういうところが全集というものにつきものの、やむなき欠陥なのだろうし、メジューエワのようになんでもすぐ弾けてしまう人のひとつの弱点かもしれない。
 非常に正確で確かなテクニックを駆使して、音楽を正視し、ひたすら奉仕するメジューエワの演奏はひとつの尊敬にも値するものがある。
 概ね良好なCDだとは思うが、強いて残念な点はいささかロシア的陰鬱が支配している気配があり、より直截な霊感を感じさせるショパンであればさらに魅力的なものになっただろうと思われる。
 言い忘れていたが、この若林工房から出るメジューエワのCDは、毎回安定して録音もピアノも大変素晴らしいことは、今後このレーベルのCDを買うときも大きな信頼になりそうだ。
 
 
No.21[アレックス・シラジ]CD
 これは「真正プレイエルのコンサートグランド(戦前のモデル)」を使ったCDということで期待を込めて購入した。曲目は2枚組のマズルカ全集。ところがいざ音を出してみると、これがちっともおもしろくない。プレイエル特有のそこらに舞い散るようなフランスの香りもなく、あのショパンサウンドとして名を馳せた独特な音色──憂いと華麗さの共存もなければフランスピアノの甘い響きもなく、とにもかくにもがっかりだった。これはいったいどうしたことだろう。そこに聴かれるのは、ただキチンと遺漏なく整えられた、新品ピアノのようなカッチリとした面白味のない、ただ普通に美しいだけのデュープレックススケーリングを持たないピアノの音色だった。これといった欠点もないけれども、いかにも優等生的で、とりわけプレイエルらしい陰翳の妙などは微塵も感じられず、どこかの無名の良質なピアノという印象しかない。これならなばどこにでもあるスタインウェイで充分だし、ぜわざわざこういうピアノを使用し、それを看板にしたCDを作った理由や意義さえもわからなくなった。
 こんなプレイエルなら、まだしもエラールのほうがフランスピアノらしいだろう。本来ならその点でも、プレイエルのほうが華やかさ、軽さ、陰翳など数段勝っているはずだが。釈然とししないままライナーノートをチェックしていると、きわめて意外な、そして決定的な名前を発見した。どうやらこのピアノは、ファブリーニ(イタリアの高名な調律家で、いまやそれはプレミアムピアノとしての地歩も築いている。ポリーニなどの御用達。)の所有で、ファブリーニによる音造りなどの調整(いわば調教的コントロール)を受けている楽器らしい。
 それで思い出したのだが、以前やはりファブリーニのロゴのついたプレイエルを、アンドラーシュ・シフがショパンを弾いている映像がネット上にあったけれど、それもまたなんの味わいも魅力もない、およそプレイエルとは思われない、本来の自由を奪われたようなキチキチとしたピアノだった。プレイエル独特の響きの放出がまったくない、異形の枠に押し込まれてしまったような、なんの面白味もファンタジーもないピアノだった。
 
 ファブリーニのような音の名手名工を批判することには一種の躊躇もあるけれど、思い切って言うならプレイエルの個性がまったく理解できていないのではないか。印象派絵画のような華麗と屈折、あでやかでありながら陰のある響きこそがプレイエルであり、極論するならその雑音まで含めてのプレイエルであるはずのものを、自分固有の美学によって、いとも退屈なピアノに仕上げてしまった観がある。まるでバロックのパールネックレスを、無理に削って形を整えたみたいで、あまりに窮屈で楽器本来の持つ自由や解放感がまるでない。やはりそこにはフランスとイタリアの美意識の、根元的な違いが横たわっている気がする。
 
 シラジの演奏は、とくに言うべき事が見つからない。特に良いとも悪いとも思わない。ただの70点ぐらいの演奏だ。ピアノのせいもあるのかもしれないが、とにかくなんの変哲もない演奏だった。世界にはこれぐらい弾ける一流ピアニストはごろごろしていることだろう。このCDのシリーズはほかにポロネーズ集とワルツ集があり、聴いてよければ購入予定だったが、今回限りで打ち止めとしたい。
このピアノを聴いて思い出したのは、ピアノの音に対する基準に柔軟性のない技術者、楽器固有の個性への理解と尊重をもたない技術者の存在で、ベーゼンドルファーをスタインウェイのように、スタインウェイをヤマハのようにしてしまう技術者が現実にたくさんいることだ。
 もうひとつ考えられることは、優れたピアニストは楽器の個性を超越したところに自分の固有の音を持っているものだが、それと同様に、ファブリーニほどの世界的なピアノテクニシャンになれば、メーカーの個性や楽器の特性を飛び越えたところに、自分の音を構築してしまうものかもしれない。
 マロニエ君は条件さえ許すなら、最も手に入れたいピアノのひとつがプレイエルだけれども、こういう輝きも陰翳もない権力者の統制下に置かれたような、コチコチのプレイエルならちっとも欲しいとは思わない。
 
 
No.22[イングリット・フリッター]CD
 ユンディ・リが優勝した折のショパンコンクールで第2位を獲得したのがイングリット・フリッターだった。アルゼンチンのブエノスアイレス出身の女性ピアニストとくれば、いやが上にもアルゲリッチとイメージを重ねがちになるが、まあ南米特有のテンペラメントはあるにしても、聴いてみれば共通項のほうが少ないし、そもそも格が違うのは致し方ない。ショパンの新譜は昨年秋に収録された20のワルツ(遺作を含む)である。
 このちょっとジェーン・フォンダのような顔をしたピアニストは、しかしどういう方向の演奏をしたいと思っているか、それが聴いていてあまりよくわからないところがあり、それはコンクールのライブなどを聴いても同様だった。異なる要素がひとつの演奏の中に混在するのはまあ当然としても、それが結果的に音楽として一貫したひとつの道を示していなくてはならないが、マロニエ君にはこのフリッターという人の演奏の道が見えないわけである。ある場所では非常に慎重に、お堅く歩を進めるかと思えば、あるときは非常に大胆でもあり情熱的にもなる。これは一見当然のことのようにも思えるが、その使い分けが適切で説得力がなければ聴く者はただあっちへこっちへとふりまわされるだけだ。演奏家もさまざまで、書に喩えるなら、楷書の美しさで聴かせる人と、行書・草書の流れやデフォルメで聴かせるタイプもいる。あるいは構築的に音楽を組み上げていくタイプと瞬間の閃きによって音楽を産み落とそうとする人もいる。フリッターはそれが皆目わからない。曲によって、あるいは途中で、パッと表情が変わってくる。大筋においては呼吸や息づかいによって音楽を導き形作ろうとしているところは感じられるのもも、困るのはそれが気まぐれな息づかいだからである。
 たとえばこの面の大御所であるアルゲリッチは息づかいと言っても音楽そのものに潜む呼吸を本能的に見つけ出し、自身が作品に内在する必然性に満ちた呼吸によって演奏しているが、フリッターの場合は自分の呼吸に音楽を合わせようとする強引さが顔を出すので、どきどきそれが噛み合わなくなる場合や、矛盾を生じることがある。しかし、どうかした小品や曲中のあるパッセージなどでハッと息をのむような吐息のような美しい表現があったりして、そのときのフリッターは非常に大人っぽい魅力を持っている。しかし如何に呼吸主導とはいってもあまりに恣意的では困るし、例えば左手によるワルツのテンポの刻みがむやみに変化しすぎるのはいかがなものか。
 
 ところでこの人はショパンコンクールのときからずっとカワイを使い、マロニエ君がずいぶん昔リサイタルに行った折もカワイのEXを弾いていたから、よほどお気に入りかメーカーとの何らかの関係があるのだろうと思っていた。ところが、このCDでは記載こそないものの、あきらかにスタインウェイを使っているが、この人にはどちらかというとスタインウェイのほうが合っている印象を持った。
 
 
No.23[ダニエル・バレンボイム]TV
 この人のことは書こうかどうしようかとずいぶん迷った。が、この企画も終わりに近づき、やはりありのまま、感じたままを書き留めることのほうがこの「マロニエ君の部屋」の主旨にも適うし自分の性にも合っており、ささやかな抗議の意味合いもあって書くことにした。
 「ショパン生誕200年ガラ・コンサート」のデミジェンコ/キーシンのコンチェルトに続いて、続くソロ・コンサートの様子として、このバレンボイムのショパンプログラムによる演奏の様子が流された。
 この記念すべきコンサートが果たしてどれくらいの規模で行われたのか、詳しいことは知らないが、いずれにしてもショパンの聖地ワルシャワで開かれるエポックなイベントであることにはかわりないだろう。だからこそ、名だたるピアニストが大会からの要請を振り切って四散したのだろうということも察しがつく。
 世界が注目するワルシャワのイベントで、オールショパン・プログラムによるソロリサイタルを行うというのは並の神経で務まることではないだろう。耳の肥えた聴衆はもとより、その様子は録画されて後々全世界にばらまかれるのだから、大変な名誉であると同時に自分の才能と力量と限界を晒し、生け贄にする自虐行為のようにも思ったピアニストが多いはずだ。
 このオファーを受けるのは、よほどの真摯な腕達者か功名心に肥え太った厚顔者でしかないはずだ。
 
 とはいえ有名ピアニストなら誰でもいいわけではないはずで、そこにはその人の音楽の歩みや取り組んだ作曲家への献身の度合いなどが加味されてしかるべきではないだろうか。その点で、どこからどう見ても、なぜバレンボイムなのかは訳も理由もまるでわからない。つくづくと理解に苦しむ。
 演奏については、あまり具体的に書く気もないし、そもそもそんな値打ちもなかった。バレンボイムの「なんでも屋」ぐせは今にはじまったことではなく、とにかく自分の才能にあかして手当たり次第になんでもかんでも手をつけるのは知っていたが、その魔の手がついにショパンにまで及ぼうとは、さすがのマロニエ君も想像し得なかった。
 一番の不幸はこのイベントを前々から楽しみに、さぞかし高額で入手困難であろうチケットを取って、いざコンサートに赴いた多くの人達であろう。ほかのことならともかく「ショパン生誕200年ガラ・コンサート」ともなると、来年やり直しというわけにはいかない。
 ピアノと指揮という二足のわらじを履いて、世界を股にかける大音楽家も結構だが、すでにピアノも指揮も酷評され続けて久しく、だからもうそれにも慣れてしまったのか、ご当人は一向にお構いなしのように見えるが、人間の一番恐いのは恥を恥と感じる神経を失ってしまったときかもしれない。
 ピアノはどれを聴いても何を聴いても粗っぽくて強引、指揮は自分がなくフルトヴェングラーのモノマネだと嗤われて久しいが、さりとて演奏活動じたいはまったく収まる気配がない。言わせてもらうと、加齢してもいっかな柔和にならず、年々増す貪欲な目つきは、彼の今が出ていると思う。
 このワルシャワがまったく反省とならなかったのか、続く3ヶ月後の5月のルール音楽祭では、さらにショパンの二つの協奏曲と、またぞろオールショパンによるリサイタルが行われたようだが、いずれも出来が悪く、練習不足が露呈して、当地の新聞批評などは非常に厳しいものだった由、それは当然至極である。
 いかな名人でも巨匠でも、「謙虚さ」と「自分の客観視」ができなくなったときは、惨めな演奏はせずに静かにお引き取りいただきたい。
 
 
No.24[アラン・プラネス]CD
 フランスのピアノ界で、今では巨匠と呼んでも差し支えないピアニストの一人がこのアラン・プラネス(フランス読みではアラン・プラネというべきか…)だろう。
 フランスのピアニストといえば、感性の主張が中心的で、いわばセンス主導の個性的な演奏をする人が非常に多い。良くいえば個性的、悪くいえば偏重主義だろうか。これには伝統があるようでコルトー、ロン、フランソワ、ハイドシェック、ルイサダ、アンリも皆そのタイプだが、それとは対を成すように、非常に客観的なアプローチをしてくるピアニストも多くいることを忘れてはならない。ナット、コラール、デュシャーブル、ウーセ、ルサージュ、グリモーなどは皆正統なアプローチで音楽に相対し、客観性を主軸としながら自身の解釈を演奏として聴かせるタイプだろう。その客観派の代表格がこのプラネスであるといえるかもしれない。
 誤解してはいけないのは客観的というのは、べつに教科書通りのガチガチの演奏という意味ではない。とりわけこのプラネスのショパンは客観的であると同時におおらかな自由があり、なにからも縛られていない心地よさがある。体の芯まで音楽が染み渡った人が、ごく自然に呼吸をすると、それがあまねく音楽の法則に適い、ショパンの音楽にもさりげなく生命が吹き込まれている。それでいて耳を凝らして聴いてみると実に正確で粒立ちの良いタッチと適切な配慮のあることもわかり、これぞ本物の音楽家だといいたい。このいかにも自然体のアプローチはプラネスというピアニストの最大の特徴であろう。大半のピアニストならば、それが個性的であれ客観的であれ、演奏にはそれなりのエネルギーが投入されているから、一種の個人的な演奏行為のもたらす消耗感や暑苦しさのようなものが滲み出ているものだ。プラネスにはそれがないので、このショパンも常に風通しの良い木陰でリラックスするように楽に身を任せられる。それでいてショパンに必要なツボは遺漏なく押さえられ、随所に見事にメリハリが効いているのだから大したものだ。
 またこの自然な演奏に大きく貢献しているのが使用された楽器であるとマロニエ君は思っている。ここで使われているのは1906年製とあるから、実に100年以上前のスタインウェイであるが、予備知識無しに聴いたら、普通はとてもそんな古いピアノだとは思わないだろう。本当に美しく良く鳴っているから、昔のスタインウェイの驚異的な生命力をまざまざと見せつけられる。それでも基本的には木が長い時を経ているから、音に厚ぼったさや空気を圧迫するような押し出しがなくて清涼な透明感があり、さらに響きに揺らめきがある。それがなによりも聴く者に安らぎを与える。マロニエ君はこのCDに限らず古いピアノ(必ずしも古楽器のことではない)を使った録音を好むのだが、それは本当に気持ちの安らぐような美しさがあるからだ。
 驚くべきは、100年以上経過したスタインウェイが、現代のスタインウェイと基本的な音の本質はなにも変わっていないということだ。スタインウェイは100年前に完成され尽くしたというのは、こういう音を聞くといかにも納得できる。
今回、自分の立てた企画を意識して、いろいろな演奏に接してみたが、やはりいくぶん古い楽器で演奏されたものは、精神的にもよりショパンに近づいているという事実を痛感させられた。ふだん録音に供される真新しいモダンピアノの音ばかり聴いていると、その屈折のない明るい新緑のような美音に耳が慣れてしまうが、多少のキャリアを積んだ古い楽器で鳴らされる音楽は、根底のところで本質的な何か大事なものが息づいていることをあらためて理解した。
 
 
 ともかく聴いたピアニストも目標の24人にひとまず達したが、以上のようなことからもわかる通りショパンの演奏というのは世界的なピアニストをもってしても、本当に聴き応えのある深みのあるショパンとして聴かせるのは容易なことではない。技術的には見事な演奏は多くとも、ショパンがショパンとして澄み渡って聞こえることは滅多にはないものだ。いろいろな意味で良く比較されるモーツァルトとは、このあたりも共通するところだろう。指が達者だからといって鮮やかな技巧で弾き鳴らすことも、必要以上に深刻な精神主義に浸り込むことも、ショパンの音楽は頑として受けつけない。焦点を見誤ると、作品のフォルムはたちまち儚いガラスのように割れ落ちてしまう。きわめて狭いストライクゾーンの向こうに、この二人の作曲家の真の姿と輝きはひっそり待っているように感じる。とくにショパンが要求する深い悲しみの淵で明滅する美の陰翳と陶酔は、純真な子供なら可能というわけにもいかない。やはりショパンは基本的に、都会的洗練と、繊細巧緻な美学に依拠する、大人のための音楽である。

ウエンドル&ラング

 ウエンドル&ラングという名のピアノをご存じだろうか?
 低価格の輸入ピアノとして名前だけは聞いたことがあったが、よくあるアジア製の廉価ピアノだろうと思って正直なところ気にもとめていなかった。ところが、ちかごろ雑誌「ショパン」などでもかなり大きく記事として紹介されていて、巻末にはカラー広告まで出ていたので、どういうピアノなのかとにわかに興味が湧き、輸入元に問い合わせをしてみた。果たして販売代理店は福岡市内にあるにはあったが、現在そこにはアップライトしか置いていないとのこと。
 
 マロニエ君はなんといってもグランドに触ってみたかったので再度その旨を輸入元に伝えたが、結果的に福岡市近郊にはグランドを置いている店舗がなく、最も近いところで大分、次が広島ということで、まさか興味本位でそこまで遠征するわけにもいかない。片道100キロ以内ならあるいは行ったかもしれないが。
 その代理店とは別に、ふと福岡市近郊のピアノ店にこのピアノを取扱商品として掲載したネット情報があったことを思い出し、そちらへも電話してみたら、なんと最近までグランドを置いていたがあいにく売却後とのこと。次の入荷予定は来年春あたりになる由だから、どうやらここしばらくは試弾できる縁がなく、あきらめざるを得ない状況のようである。
 
 さて、このウエンドル&ラングというのはオーストリアのピアノメーカーということで、創業から100年の歴史があるらしい。カタログによると、名前の由来はステファン・ラングとヨハン・ウェンドルの両者によって設立されたピアノメーカーということで、ステファン・ラングは19世紀にオーストリアでピアノマイスターになった二人目の女性らしい。現在の社長はこのステファン・ラングの子孫にあたるピーター・ベレツキーという名の人物で、1994年に社長就任とある。
 ちなみに、ウエンドル&ラングのピアノは2005年にウィーンの学友協会「黄金のホール(ウィーンフィルのニューイヤーコンサートが行われる会場)」に納入され、翌年にはデンマーク王国によって、このピアノをマルグレーテ2世女王に献上したとある。両方とも写真もあるので、まあそこは信じるとしよう。
 
 だがしかし、このピアノ、現在はオーストリアでの生産ではない。厳密にいつからというのはわからないが、ともかく今は中国で生産されており、これを中国製のピアノと見るか、オーストリアのピアノと見るかは意見の分かれるところだろう。
 そもそも中国には、雑多なピアノメーカーが存在し、中にはヨーロッパの倒産したメーカーのブランド名だけを買い取って実際の製品とはなんの繋がりもない名前をピアノに貼り付けるだけというやり方も珍しくはないようだ。ウエンドル&ラングもはじめはその手合いかと思っていたのだが、製造は中国でしているけれどもオーストリアに本社が存在し、そこが正式に認知しているピアノのようでもあり、そういう意味では少し事情が違うような気もする。
 ヤマハなどもアジア製のアップライトがあったらしいが、品質はどうであれヤマハはヤマハだと思われただろうし、ボストンも日本製だが、欧米の顧客はその事実を知ってはいても「純粋に日本のピアノ」という、いわば生産地第一主義的な捉え方ではなく、あくまで本社はニューヨークという認識なのではなかろうか。いずれも本家はあるべきところにあり、量産設備とそのための技術の整った日本や、生産コストのために賃金の安い中国で作られたという事情をもった廉価ピアノという成り立ちではないだろうか。
 
 そうは言っても、常識的に見れば多少の理由をつけてみたところで、所詮は中国ピアノに分類されるべきかもしれない。そのあたりはネットの情報を掻き集めてみると、面白いものが出てくる。例えば、中国製には間違いないが、ウエンドル&ラングはハイルンピアノというメーカーが製造を担当しており、その品質は中国最大のピアノメーカーであるパールリバーなどより数段上だと断言する専門家の意見があったり、スタインウェイの最廉価ブランドであるエセックス(パールリバー製)よりも確実に優れているというような意見も見られた。
 また、実際にグランドを買った人も、その音やタッチにとても満足していたり、ピアノ購入のためにいろいろなピアノを見て回っている人なども、その結果としてウエンドル&ラングの音やタッチには一定の評価を与えていたりする。
 また動画サイトに出てくるウエンドル&ラングの音も、ひどいものもある一方で、なかなか良いと思えるものもある。情報やうわさも錯綜してくると、単純に「ウィーンブランドとは名ばかりの中国製ピアノ」として関心の外に打ち捨てる気にもなれず、何か心に引っかかり、どうしても自分で触れてみたくなったのだ。 
 
 ただ、このピアノが本当に良いものであるのなら、はじめから中国製であることはつまびらかにするほうが、却って妙な疑いを抱かれずに済むのでは?と単純に思う。カタログをみても中国製である記述は、極めて消極的なものでしかなく、あくまでウィーン・オーストリアというイメージばかりを前面に出しているのは本当に効果的なことなのだろうか。
 
 じっさいネットの情報の中には、技術者の談として、お客さんが大変気に入り、喜んでこのピアノを使っているのはいいけれども、ウィーンのピアノと信じ込んでいるらしく、「死んでも中国製とは言えない」というような書き込みが複数あった。こういう暗い側面があっては、このピアノの価値を、いよいよ怪しい三流品のように押し下げてしまってはいないだろうか。価格も安いのだから、多くの生産品のように生産国が中国であることは包み隠さず明らかにして、その上で堂々と品質の良さを訴えたほうが、むしろ得策のようにも思えるが。
 
 価格で思い出したが、これがまた日本製ピアノ以上に安いので、それも大いに疑念を持つ理由のひとつだった。
 下記はウエンドル&ラングと日本製のほぼ同サイズの、グランドピアノの価格を大雑把に比較したもの。
 
ウエンドル&ラング              日本大手メーカーのグランド
奥行き151cm 126万円(*  88万円)  奥行き約150cm 約110~126万円
奥行き161cm 147万円(*103万円)  奥行き約160cm 約140~150万円
奥行き180cm 185万円(*130万円)  奥行き約178cm 約157~168万円
奥行き198cm 210万円(*147万円)  奥行き約198cm 約215~230万円
奥行き218cm 252万円(*176万円)  奥行き約211cm 約260~273万円
 
 一見、定価そのものはあまり変わらないようにも見えるが、ウエンドル&ラングはなにぶんにも輸入ピアノなのだから、それだけでもこの価格はいかにも怪しい安さとして目に映るし、さらにネットを見ているうちに判明したことは、実売価格はおしなべて3割引き程度(*)のようだから、かなりの低価格であることは一目瞭然だろう。
 
 こうなるとピアノの出自を云々するより、きっぱりとコストパフォーマンスの尺度で見た方がいいのかもしれない。実際に購入した人の話として、タッチや音色が日本のピアノよりもずっといいと気に入っていて大変満足しているという書き込みがいくつかあったが、まあそれもどこまで信憑性のあるものかどうかはわからないから、あくまで参考意見にしかならないだろう。
 だから、結局のところ自分が実際に見て触れて弾いてみるしかないわけだ。そこで気に入り、トータル的に納得できるピアノならば、あるいは掘り出し物的な良いピアノなのかもしれないとは思う。かくいうマロニエ君自身も差し当たり興味津々であることは間違いない。
 
 ただし、たとえどんなに気に入ったとしても、絶対に日本製ピアノに太刀打ちできない点がある。
 それはリセールバリューの問題だろう。
 日本の大手二社の需給バランスに基づく確かな相場形成とは違って、この手のピアノは、ひとたび手放すとなれば、ほとんど値段らしい値段はつかないことは覚悟しておくべきではないだろうか。だからよほどこのピアノに惚れ込み、一生添い遂げるぐらいのつもりか、もしくは手放す際の評価はゼロになっても構わないという覚悟があるなら結構だが、安いからといって中途半端な気持で購入するなら、日本製ピアノにしておいたほうが安全なのは間違いないだろう。
 もちろん楽器の命は音をはじめとする中身なのだから、安全ばかりが第一とは限らないという考え方もあるだろう。楽器は買う人が惚れ込めば良いのであって、はじめからリセールバリューのことまで考えるのは浅ましいというぐらいのはっきりした考えのある人なら迷うことはないかもしれないが。
 
 実は、ともかく実物に触れてみたいという思いが抑えきれなくなり、アップライトであることを承知で、とうとう市内の販売代理店に行ってみた。ところがあるにはあったが、ピアノは展示用の台座のようなものの上に載せられていて、椅子に座って弾くことも出来ず、さらには調律もしていないという状況だった。
 
 このピアノは、高さが115cmという最も小型の、最も安いタイプだったが、作りはきれいだった。
 低音部の弦にはアグラフ(真鍮の丸いネジで、上部はシルクハットのような形をしていて中に穴が開いており、その中に弦を通してフレームに固定するためのパーツ。グランドでは必ず使われるが、アップライトではより簡略な張弦方法を採られることが多い。)が使用されるなど、機構的にも高級な構造ということに一応はなっているようだ。
 なにしろピアノが台座の上に載っているので、立ったまま鍵盤を触る程度しかできなかったが、タッチは粒の揃った好感の持てるものだったし、音も調律はしていないけれど、基本的にそう悪い音でもなく、へんなクセのないものだったように思う。音量もそれなりだとは思ったが、マロニエ君は普段このタイプのピアノにはほとんど触れていないので、自分の中に比較軸というか、評価の尺度になるべきものをもっていないので、あまり断定的なことを言うのは控えようと思う。
 少なくとも、積極的に否定する要素も、肯定する要素も、なかったというのが正直なところだった。ただし、これまで触れてきた中国製のピアノの多くは、触れるなりアッと驚くようないただけない感じのものが多かったという経験が多くあったことは強く付記しておきたいし、少なくともウエンドル&ラングはその手のピアノではないと思う。
 プライスタグにはかなり安めの金額が記されていたが、店主によると「お安くしますよ」とのことで、さらなる値引きが期待できそうな気配だった。
 
 つけ加えておくと、ネットで調べてみるとこのウエンドル&ラングを取り扱っているピアノ店が全国にちらほらあるという点だ。それも決して激安店のたぐいではなく、あくまでもまともな良質な輸入・国産ピアノを丁寧に販売していると見受けられる店での取扱いをいくつも見かけたので、これはもしかしたらコストパフォーマンス的に一定の評価を勝ち得たピアノなのかもしれない。
 
 このウエンドル&ラングがピアノとしてどうであるかの結論は他に譲るとしても、ここ最近の中国は技術の質的向上も目を見張るものがあると聞く。
 もしかするとウエンドル&ラングはユニクロのように、生産のみ一括して中国に委ねることで、安くてコストパフォーマンスの高いピアノを作っているという、現代流の新しい発想から生まれるピアノなのだろうか。
 なにしろ詳細がわからないので、また何かわかれば追って報告したい。

アンドレ・ジッドのショパン

 「狭き門」などの作品で知られるフランスの文豪、アンドレ・ジッド(1869~1951年)はノーベル文学賞受賞(1947年)作家でありながら大変な反骨精神に富み、キリスト教の倫理道徳、スターリン、ナチズム、ファシズムなどあらゆる巨大権力に反抗する勇敢な人格の持ち主であったらしい。
 まことに不勉強で恥じ入るばかりだが、そのジッドが実はピアノの名手で、わけても大変なショパンの信奉者であったことは、ある一冊の本を通じてはじめて知るところとなった。
 ジッドはオスカー・ワイルドなどとも親交があり、ワイルドに関する著作も残しているが、ワイルドがショパンに関する極めて深い言葉を残しているのは、あるいはジッドとの親交の中から得られたものがきっかけであったのかもしれないなどと、いまごろ貧しい想像を巡らすばかりである。
 
 「ショパンについての覚え書き」というのがタイトルの、そのさして大きくない本は、ジッド自身がピアノを弾き、ショパンの音楽にじかに触れながら感じたところを、様々な角度から文章として書き留められ、綴られたものである。
 
 内容は6つの章に分かれ、冒頭の「献辞」の内容に思わず心が高ぶる。
 ジッドは青年時代にイタリアのカッシーノ山の修道院に一週間ほど滞在するが、出発する直前になってようやく院長との目通りが叶い、案内されて院長の居間へ滞在の挨拶に行く。院長は高齢かつ病で起きあがれないほどに弱っていたが、たちまち音楽の話に転ずる。
 それによると院長も音楽をなによりも好み、かつては自身でピアノ弾いたが、今はそれもできなくなり楽譜を読むことで音楽を楽しんでいるのだと話す。とくに横になるときは聖典書など読まず、楽譜を持ってきてもらうが、それはバッハでもモーツァルトでもなく、ショパンであることをジッドに告げる。
 そして、その理由というのが読者を鮮烈な感激に導く。
『ショパンは最も純粋な音楽です。』と。
 
───ジッドはこう続ける。
『これこそ私が敢えて口にする勇気がなく、年齢も格式も高いこの権威ある名僧の前では胸に秘めておこうとした言葉だ。しかも、この一見思いがけない発言は、ショパンが音楽会で演奏されているような、華美で通俗的な音楽ではないと思っている人々こそが納得し得るであろう。
 だが、一番の驚きは、これがドイツ人の口から出たことであった。何故なら、私はショパンほど非ドイツ的な音楽は存在しないような気がしていたからである。』
 
───以下、ジッドの語るショパンについての様々な言葉を紹介したい。
 
『私はショパンの作品にポーランド特有の霊感や閃きは感じているものの、その本質的なところでは、やはりフランス的な一面や様式を認めたくなるのである。』
───まったく同感で、このあたりからマロニエ君はこの本を読み続けることに一種の興奮を覚え始めることになる。昔から感じていたことだが、ポーランド人の演奏するショパンには一種の違和感を感じていた。あまりにも確信的な正統派ショパンというその自身が、却ってショパンに似つかわしくないローカリティと泥臭さを帯びていたからだ。
 
───ジッドはショパンを反ドイツ的な傾向にあると考え、ヴァーグナーをドイツ的な物の象徴として例に引いている。ヴァーグナーのドイツ的な理由としてその膨大さ等を挙げつらう。
『単に作品が桁外れに長いというだけでなく、あらゆる形式の濫用、表現の執拗さ、楽器の数の大幅な増加、肉声の酷使や楽想の過度の悲壮感を示唆している。』
『音楽はヴァーグナー以前から出来うる限り濃厚に、かつ強烈に、感情を露呈しながらことさら大胆に表現する傾向にあったが、その全ての誇張の展開を初めて廃したのがショパンであった。思うに彼は、もっぱら作品の規模を限定し、その表現手段を必要不可欠なものへと極めることに心を砕く。』
『譬えていえば、ヴァーグナーの様に感情を音にするどころか、音に感情を吹き込む。』
───これこそショパンの芸術を構成する核心であって、まさに膝を打つ思いだった。ショパンの音楽が精緻な織物のような美を湛えているのは、感情を音にするという手続きではとうてい達成できないものだろう。音はショパンの独創的かつ圧倒的な天分によって、音楽の法則に従い正確に配置されていったに違いない。
 
───そして
『ショパンより偉大な音楽家が存在することは疑う余地がないとしても、彼ほど完璧な音楽家は他にいない。』
 
『ショパンは独自の特異な宿命によって、弾き手が彼を聴衆に理解させようと努めれば努めるほど真価を認められ難い作曲家である。バッハ、スカルラッティ、ベートーヴェン、シューマン、リスト、フォーレなどは、多かれ少なかれ適切に解釈し得るし、少し不恰好に演奏したところで作品の意図が損なわれることはない。ショパンだけが演奏の質によって本来の楽想が歪曲されたり、根本から完全に台無しにされたりしてしまうのだ。」
───まったくその通り。だからコンサートにいってもショパンだけが満足できる演奏に邂逅するチャンスは滅多にないと経験的に言えるだろう。
 
『ピアノに向かうショパンは常に即興的な態度で臨んでいたという。すなわち彼の思いを絶えず探し求め、創意工夫し、少しずつ発見していくという風に。このような魅力的な躊躇いや恍惚は、作品が演奏されて徐々に形づくられて上で必然的に起こりうるもので、既に完璧で明晰、かつ客観的なものとして演奏されるならば生まれてはこない。
───マロニエ君が「今年聴いたショパン」のなかで、ロルティの演奏に感動できなかった理由がまさにここにあると言える。ショパンの演奏には隠された即興が不可欠といういうことだ。
 
『私には確信をっもって言う勇気はないが、ある種の緩やかさと不確実性をもって即興しているかのように演奏することが重要のようだ。』
『いずれにせよ、速いテンポ設定にありがちな、耐えがたくも確固たる自信に満ちた演奏をしてはならない。』
───これに該当するピアニストのなんと多いことか。嫌でも次々に錚々たる名前が去来して愕然とする。むしろそうではないピアニストの名を記憶の中から手繰り出すことのほうがマロニエ君にとってははるかに困難なことである。それにしてもジッドが言うからには戦前のピアニストの中にもそういう弾き方をする人が多かったということだろうから、これは甚だ意外である。
 ここでいう不確実性と即興の重要性は、多くのピアノ弾きがショパンを奏する場合に於いて、心しなければならないもっとも深いところにある問題で、言い換えるならショパンほど腕達者が確実な演奏をすることがお門違いな作曲家はないということではないか。このことが、いかに見向きもされないで大抵の場合が意気揚々と鍵盤を叩いていることか。同時にこのことは、ショパンがあれほど音符としては堅牢に出来上がった作品でありながら、演奏ではもろく壊れやすい作曲家であるということの根元の問題に触れているといえるのではないか。
 
『演奏は発見していく散歩なのである。』
『演奏者が前もって曲の展開を聴き手に予測させすぎたり、既に用意されたものをなぞっているのだと悟られたりしてはならない。』
───ショパンに限らず、大抵の音楽にはこの「発見」という楽しみが付与されたときに、その喜びは最高潮に達する気がする。発見は新鮮さであり、それのない音楽は姿形は見事でも、香りのない音楽の残骸に思えることがある。とくに名手とされるピアニストの中でもこの点にまったく無頓着な人の多いことに驚かされる。
 
『私は楽節が次々に弾き手の指先から生み出され、それが弾き手を超えて弾き手自身に驚きをもたらし、聴き手である我々がその魅惑の世界に招き入れられるように感じる瞬間(とき)が好きである。』
───音楽に関するこういう心の綾を、これほど明晰に言葉にしたものがあっただろうか。ピアニストにとってとくに難しいのは、指の厳しい練習を経ながらも、作品へのみずみずしい気持をどのようにして維持して行くかが最大の問題だろう。やはり指の記憶だけは若い頃にやりおおせるべきということか。
 
『ショパンにおける転調はそれぞれが凡庸でも予測可能でもあってはならず、その新鮮さと生み出されたばかりの閃きに対する畏れともいうべき感情や、状況が刻々と変化するような前人未踏の道を辿るときのわくわくするような密やかな気持が確保され、維持されていなければならない。』
───これも不確実性と即興の重要性に関する記述のひとつだと言える。これが凡人にとってもっとも端的に現れる状態が、名曲に飽きが来てしまい、より難解な捉えにくい作品などに興味をもつことがあるものだが、そこに一種の期待と興奮を覚えるのは、この予測可能という心情から距離を置き、己にとって未踏の地へ分け入って進み、なにかそこに新しい感動を発見したいからである。そういう状態をショパンのごとく知悉した作品の演奏によって、新たな感興を呼び覚ますことが何度でも可能な状態を作る演奏こそが必要だとジッドは言っているのだと思われる。これは具体的には、完成された演奏を聴き手の前にただ並べ立てるのではなく、作りたて料理のように、ピアニストによって下ごしらえの準備だけされた曲が、聴き手の目の前の演奏として、流れ出すと同時に完成を見るように仕向けなければいけないということか。
 
『ショパン弾きといわれる類の有名ピアニスト達を前にしてうっとりしているような聴衆は私を苛立たせる。いったいそこに愛すべき何があるというのだろう? ただの世慣れた社交辞令があるだけだ。』
───これは悪しき意味での聴衆とピアニストの同化であろう。知悉した楽曲に対しては、作品そのものへの期待より、演奏され自体の妙技あるいは芸術に精神的な求めの方向性を向けているのであろう。曲がどう立ち現れるかではなく、わかりきった作品をどう見事に処理するかという点が関心の的であり、ピアニストもじゅうぶんその事を心得ているといえるのだろう。いわば奏者と聴く者の馴れ合い芝居のようなもので、そこから幾ばくかの、演奏上の、発見と刺激を求めているのである。
 
『前奏曲第1番は、ショパンのあらゆる作品の中最も誤解されやすく、最も容易に台無しにされがちな曲である。しかもこの解釈の過ちは、私にとってはきわめて許しがたく思われるのだ。曲の冒頭に記されたアジタートを口実に、演奏家達は(私の知っている限り)例外なく激しい混乱したテンポで始める。最も澄みきった調性で始まるこの曲集の一曲目から、ショパンはこれほどに動揺した表現を本当に望んだのだろうか?─略─自由にのびのびと弾くべきで、そこには些かの努力や緊張も感じさせてはならない。』
 ───ジッドの考えは至極最も言わねばならないが、マロニエ君にいわせるとなぜこの第一番にアジタートの表示があるのかが今のこの瞬間もわからない。この第1番のもっとも重要なものはひとつひとつのベース音に応じるかのように内声が呼応して、さらにそれを高音旋律が追認していくべき透明な響きを伴いながら、ひとつの山を登っては下る音楽である。大半のピアニストはジッドのいうテンポもさることながら、主役であるはずの内声の呼応がまったく聴かれず、低音と高音が一緒くたにされた激情の上下降に終始する。マロニエ君はこの「最も澄みきった調性」という点には些かの疑問があるが、「最も済みきった表現」ではあるべきだと考えている。
 
『ピアニストたちの多くがショパンの曲を自己流のフレーズで区切ったり、勝手に句読点を打って旋律を歌ったりしているのは耐えがたき習慣である。ショパンの最も洗練された比類なき作曲技法は、まさにこの途絶えることのないフレーズや、一方の旋律的楽句が他方へといつの間にかすべり込むことによって、作品に川の流れのような外観が、ある時は意図することなく、またあるときは意図的に与えられている点にこそ存在し、そこに私は他の作曲家とは著しく異なる、彼の抜きんでた才能を見出す──』
───すべての作曲がそうだとは云わないが、ことショパンに限っては、その音符を自由な自己表現の素材として利用することは厳に慎むべきだろう。ショパンの書き残した端然とした楽譜は、壊れやすくもほぼ完璧な美の世界であり、それはつねに生体の血流のように、常に微動して呼吸しているかのようだ。それをありのままの姿で再現させるのさえ至難の技であるのに、ましてや身勝手な解釈をここに混入させようとは、なんたる冒涜か。
 
『(ショパンの)転調や和音を支配するのはいわゆる感情などではなく、音楽的に適合する正しい感性であり、感情とはひとりでに宿るものであると強く主張したい。』
───この著作の中でも最も感銘を受けた言葉のひとつがこれだった。感覚的には何かを察知していても、しかし、まさか転調や和音の支配が感情ではなく、音楽的に適合する正しい感性というのは、いわれてみればまさに完璧にその通りだけれど、自分ではついぞ思いもよらないことだった。しかし、たしかにその通りだろう。ショパンの作品を聴いて感じることは、ただの詩情の移ろいやセンチメンタリズムで終わることなく、根底にある才能の基盤が並大抵ではない堅固なものであることで、だからどの曲も宝石のような孤高の美しさと輝きを放っているのだろう。この点が、例えばシューマンなどとは正反対にあるショパンの特質といえるのではないか。
 
『私はヴァーグナーの人間も音楽も嫌いである。その激しい嫌悪は子供の時から募るばかりだ。この非凡な天才は人を感動させるどころか圧倒する。彼は多くの気取り屋の階級主義者や文学者、愚人たちに音楽を愛していると思いこませ、一部の芸術家に天分は習得できると信じ込ませた。ドイツはおそらく、これほど偉大であると同時に野蛮な人物を他に生み出さなかったであろう。』
───1908年だから第二次大戦前。ジッドはかのアドルフ・ヒトラーの出現を知らずしてヴァーグナーをこのように書いていることになる。だが、言い換えるなら、ヴァーグナーこそ音楽上のヒトラーであったのかもしれない。ドイツという国の風土は、似たような人物を繰り返し輩出するものだ。もっともヒトラーは厳密に云えばオーストリアの出身だけれども。きわめて高尚なものに対する純粋と憧憬の念、いっぽう強権的で貪欲な俗の権化のような部分も共通していよう。
 
『良い演奏とは全て、曲の解釈でなければならぬ。ところがピアニストは舞台俳優のように演奏効果を求めている。そしてこの効果はたいてい楽譜を犠牲にしなければ得られない。──略──芸術における驚きはそれが直ちに感動に取って代わらなければ価値はない。ところが多くの場合、驚きは感動を妨げるのだ。』
───つくづくその通りだと深く同意したい。演奏の意味は終局的には解釈にこれ尽きる。解釈の良い下手な演奏を聴くことは許容できるけれども、解釈の間違ったあるいは犠牲にされた指の達者な演奏は聴くに堪えない。メカニックが優れていればいるだけより解釈の問題点が浮き彫りになる。最近の若いピアニスト達の多くは、すでに解釈された音型を用いながら、その合間に自己顕示性を編み込んでいくという手の込んだ手法を採るので、一見解釈も尽くされているかのような体裁は取っているが、実際はいささかもそうとは言えない場合が多い。それを証拠立てているのは、ジッドのいう「直ちに感動に代る」か否かで、演奏がいかに精密で立派でも、必然性の裏付けがないものに感動などほとんどありはしない。
 
『最近、私を一番満足させてくれるのはバッハで、おそらく私は、その中でも彼の「フーガの技法」に夢中である。この曲はもうほとんど人間の存在を感じさせず、目覚めさせるものはもはや感情でもなく情熱でもなく、称賛なのだ。何という静けさだろう! 人間を超越した一切に対する、何という承認だろう! 肉体に対する、何という蔑みだろう! 何という平穏だろう!』
───冒頭の修道院の、ドイツ人の院長が晩年までショパンを愛したのに比して、ジッドは生涯ショパンを愛し続けた情熱が、次第にバッハに向っていったということなのだろうか。様々な音楽を旅してきた者が、次第に収束されて最後に到達するのがバッハなのかもしれない。フーガの技法はバッハの未完の大作であるが、ショパンも晩年の作にはわずかではあるが対位法の要素が散見されるけれど、これもまたショパンがバッハの領域に到達しつつあったということなのだろうか。もちろんそれはマロニエ君にはわかる由もないが。
 
 いずれにしても、この一冊は、コルトーのショパンを聴くことと同じように、それに触れる前と後では、ショパンの演奏に対するスタンスの何かが、どこかが、確実に変化している自分に気付かされる。

ピアノの先生

 まずはじめに断っておきたいのは、努々これはピアノの先生批判が目的ではないということである。
 ただ世間では、ピアノの先生に対する認識があまりに間違っていると思わざるを得ない事柄が多すぎるので、それをマロニエ君の知る限りの事実をもとに、ピアノの先生の実体に迫ってみるのも無駄ではないだろうと考えたわけだ。
 
 親が子供に、あるいは大人のレスナーであっても、先生についてピアノを習う場合にはある一定の期待があるはずだ。しかし、その期待の中には、ピアノの先生に対する過信があって、どだい無理という部分も少なくない。それは期待が大きすぎるというよりは、むしろピアノの先生が実はそれに値するような存在ではなく、要は多くを期待すべき相手ではないということだ。
 これは本来、「ピアノレッスン」の中に織り込もうと思った内容だが、別に書いた方がいいと判断したので新たに文章を起こした。
 
 別にマロニエ君はピアノの先生を、自分の感情の上での好き嫌いで言っているのでは決してない。ただ、ひとつの平均化されたイメージは形成されていて、世間一般のようにピアノの先生に対する幻想はこれっぽっちも持っていないというところだろうか。
 ある一面において言うなら、ピアノの先生もピアノという偉大すぎる楽器に弄ばれた犠牲者でもあり、日本のどこかおかしいピアノの教育システムの中にすっかり足を取られて、ほとんどがその、何らかのマイナス要因を引きずりながら過ごしているという意味に於いては、深い同情の念さえ抱いている。
 
 ここに書くピアノの先生は、ごく平均的一般的なピアノの先生のことなので、あまり目くじらを立てず、一般論として面白く読んでいただけたら幸いである。
 言うまでもないが、一握りの例外的な先生がいらっしゃることはよくわかっている。例外はどんな世界にも存在するものだ。それはどんなに腐敗した官僚の中にだって、公僕として献身的に国家のために尽くしている人がごく少数いるのと同じだろう。だが、全体の話、平均的な次元の話をしようというときに、そんな例外をいちいち持ってきたって意味はない。
 ここでは100人中1人いる例外の話をするのではなく、99人のほうの話をしたいのだ。
 
 ピアノの先生というのは、社会人としてはきわめて特種異端な人種であるという印象は、マロニエ君が子供の自分から現在にいたるまで、一貫して変化することのない確たる根拠のあることである。これまでには自分が習うという立場のみならず、ずいぶんいろんな先生と大小様々の付き合いや接触があったけれども、どれだけ接触を重ねようとも、その基本認識は変わらないし、ビクともしない。むろんピアノの先生とて人間だから個人差もあり、性格もそれぞれ、考えも各人各様であることは認めつつも、やはりあの「ピアノの先生」という共通因子がその人の中心を貫いているのは驚く他はない。
 やっぱりピアノの先生は、それ以外の何者でもない。
 
 まず留意すべきは、ピアノの先生はおしなべて、視野の狭い、社会経験に乏しい、人間関係の下手な、閉鎖社会の住人であることは、ほぼ間違いないだろう。間違えてはならないのは、それは芸術家的風変わりとはまったく別次元のもので、どちらかといえば学校の先生等にみられる社会性の欠如面などに共通した因子が多く、さらにその上に音楽の専門家という先鋭化された特異性を置き重ねた存在、それがピアノの先生というわけだ。だから社会的に大別すれば、文字通り「先生族」に分類されるべき種族であることは間違いない。
 
 ピアノの先生が共通して抱えている問題点のルーツは、なんといってもピアノがあまりに偉大な孤高の独奏楽器で、しかもその無限ともいうべき技術/レパートリーの習得は、ほとんど不可能の次元ということに帰着するだろう。年端もいかぬ子供の頃から、ピアノという大きな楽器の大きすぎる課題を背負わされて、普通に遊ぶこともままならずピアノに向い、終わりのない無限の練習に明け暮れる。
 学齢に達すれば学校生活との両立に苦心し、途中下車すればまだいいが、そうでなければやがて受験を迎え、実力に見合った音大の門などをくぐることになるが、それでも厳しい練習はいつ果てるともなく続く。普通の大学生なら、合格通知さえ勝ち取れば、あとは楽しい学生生活を謳歌するという楽しみも待っているだろうが、音大、わけてもピアノ科の学生は年がら年中、レッスンと練習と試験に明け暮れる。
 幼年期~青年期の暗く孤独な生活経験が祟ってだろう、人付き合いも下手で、ピアノの人は友人も極端に少ない。そして、その挙げ句に、自分の努力と犠牲がいつの日か報われるという事ともほとんど無縁なのだから、考えてみればまことに不条理な世界に身を置いているというべきかもしれない。
 
 音大などを卒業してみても、一般の就職もままならない。郷里に戻るにしろ、さらに大学院や留学の道を選ぶにしろ、いずれにしても最終的にいわゆるピアニストになれる見込みは99%以上ない。これだけははっきりしている。なぜなら、本物のコンサートピアニストになることのできる、まず第一の資格は「天才であること」であり、天才ならば小中学生の頃からすでに騒がれて、早くから頭角を現しているはずだからだ。だから一般的な音大生活を過ごして、なおかつ辛うじてピアニストになれたという人は、まったくのゼロではないかもしれないが、これもまた例外中の例外であって、それはもしかしたら天才に生まれつくことに匹敵するほど、確立としては低い事ではないだろうか。
 さて、苦労をともにしたピアノと連れだってパッと道が開ける可能性もないまま、これまでやってきたことをなんとかして少しでも活かすべく、やむを得ず教えるということに活路を見出さざるを得ない袋小路に追い込まれ、こうしてまた一人「不本意なピアノの先生」が誕生する。つまり子供の頃から、将来は「ピアノの先生になること」を夢見て精進してきたわけではないのに、フタを開けてみればピアノの先生ぐらいしか、できることがないという厳しい現実を目の前に突きつけられるという流れである。
 
 ピアノの先生固有の不幸はいろいろあるが、その第一はピアノという楽器を演奏することにまつわる、際限のない苦難の連続から解き放たれることがないことだろう。ほぼ一生を通じて、仲間やグループといった単位でほがらかに遊んだり物事を共同で成し遂げるという体験も喜びの記憶もまずほとんどない、もしくは極端に少ないこと、ピアノ以外の価値に対する理解力認識力に乏しく、知らず知らずのうちに自分がやってきた努力や苦しみに高い価値を貼り付けるようになる。これが薄暗いプライドの第一歩のように見えてしまう。
 
 ピアノの先生は、いうまでもなく昔はピアノの生徒であった。
 しかし、そのピアノの教育現場というのが日本の場合、ほとんど音楽の本質に踏み込んだ指導がない。もうすこし分かりやすく言うなら、音楽に対する愛情と関心を持たせないまま、義務上の素材としてだけ音楽作品と関わってきているから、音楽ほんらいの喜びを知るより先に、拒絶や苦しみを覚えている。だから素直に音楽を深く愛する先生、言いかえるなら音楽上の幸福な先生というのは、現実的には限りなくゼロに近いほど少ない。
 
 そもそもの話、先生自身が音楽に対して心を閉ざして非常に冷淡なのだから、その生徒が音楽を好きにならないのはごく当たり前である。マロニエ君の知る限りでも、音楽が本当に好きで、自分の自由時間にこそ好きな作品を聴いて、その喜びに心を震わせているようなピアノ先生など、ほとんどお目に掛かったことはない。
 先生も生徒も親も、揃いも揃って、曲=レベルの代名詞であって、ベートーヴェンの何番とか、ショパンのエチュードがどうとか、バッハの平均律云々など、どれもこれもがレベル獲得の「課題」であって、どれが弾けるか、どこまで行ったかということにしか関心が払われない。およそ敬愛すべき作品、人生上の影響を受けた偉大な作品といったようなものとは、はるかにかけ離れた対象としての作品認識であり、まことに粗末な取扱いなのである。
 
 ピアノはいつも義務の対象であり、だからピアノの先生はいつも人生を悔いているようなピリピリした顔つきの人が多い。小さい頃からピアノという大きな楽器を相手に奮闘してきたのだし、それは生徒に置き換わったのみで今も終わっていないのだから、さぞやストレスも多いことだろう。コンサートや楽器店などでも、ピアノの先生というのは独特の匂いがあって、一瞥してすぐにそうだとわかるものだ。
 その点ではおなじピアノ先生でも大手の楽器販売会社の教室の先生などは、ちょっとピアノの弾ける単なる勤め人という立場だから、まだいくらか気楽な人も多いようだ。
 
 率直に言わせてもらうなら、一部の例外はあるにせよ、世にピアノの先生ほど音楽のわからない人、ピアノという楽器をびっくりするぐらい知らない人はいないだろう。驚くべきことだが、これはまぎれもない事実なのだ。
 とくに楽器に関する知識は皆無と言って差し支えなく、それで人からレッスン代を取って商売をしているのだから、その有りようはなんとも滑稽というか無惨というか、ちょっと言葉が見つからない。あれならば、ちょっとピアノに興味を持ったシロウトが、にわか仕込みに本を一冊読み、本気でピアノ屋巡りの2~3回でもしたならば、圧倒的にその人のほうが知識も耳も上を行くだろう。
 ピアノの先生ほどすさまじくピアノの事を知らず、ピアノの良し悪し、音やタッチの良し悪しがわからない人達はいないだろうというのは、いつしかマロニエ君の持論となった。音やタッチ云々の前に、そもそもピアノはキーを叩いたらなぜ音が出るかという初歩的な仕組みさえご存じないのではあるまいか。
 
 運転免許は持っていても、なぜアクセルを踏んだら車は動き出すかという機械構造を知らないのと同じだろう。車ならそれで構わないけれども、ピアノの場合は楽器であり、いやしくも専門家の看板をぶら下げているのだから、その発音機構も知らないではお話になるまいとは思うけれども、実際そうなのだから仕方がない。飛行機はなぜ空を飛ぶかという原理を知らないパイロットみたいなものだ。
 「キーを叩いたらなぜ音が出るか?」「そりゃピアノだからでしょ?」ぐらいが関の山だろうし、実際こういうレベルが本当に多い。
 タッチで言うなら極端に重いか、極端に軽いかの違い、音でいうなら極端にキンキン音か、極端にモコモコ音ぐらいの猛烈な差があればわかるかもしれないが、楽器の個性や持味の違いなんてとんでもない。わかるのは鍵盤のフタの真ん中についているマークの違いだけだろう。
 
 これを読んで、もし信じられない人がいたら、親しいピアノの先生などおられるなら、「キーを叩いたらなぜ音が出るか?」の質問をしてみられるといいだろう。合理的な答えが返ってくることがないことはマロニエ君が保証しよう。
 
 しかし、これは間口を広げると、ピアノの先生の無知どころか、その疑いはピアニストにまで広がってくるのだから、ますます問題は深刻だ。
 楽器通でも知られるピアニストのツィメルマンは、ピアニストにさえこういうことを言っている。
 「ピアニストには大きな問題がある。ピアノという楽器について本気で知ろうとしない。きちんとした知識がない。そればかりか、ときに、ナンセンスとでも言うべき、見当違いの意見をメーカーに伝えたりまでする。」
 
 ピアニストでさえこの体たらくなのだから、ピアノの先生のそれなど推して知るべしであろう。しかし、一般人や生徒の親などは、ピアノの先生はすなわちピアノや音楽の専門家で、そのために音大にも行っているわけだし、だから音楽のこともピアノのことも普通の人よりは遙かに詳しいはずと頭から信じ込んでいる。
 
 ピアノの先生は、実はほとんどピアノには興味がないから、長いことピアノを弾いているくせに、ピアノの良し悪しなんて皆目わからないのはもちろん、自宅にある自分のピアノのコンディションすら素人以下の認識しか持っていないということを我々は知る必要がある。とりわけ生徒の親にその認識は必要だ。
 調律師が調律(音程合わせ)以外にどういう仕事をするのかも具体的には知らないし、作業に際してこうしてほしいというような希望も何もなく、全部お任せであるのは、技術者の人なら一様に頷かれるところだろう。べつに太っ腹で「お任せ」しているのではなく、何もわからないからお任せする以外にないわけで、つまり選択肢を持たない人の、他人任せなお任せなのだ。
 調律師の話では、どんなに聞いてもなにも希望らしいものはないそうで、たまになにか言ったと思ったらまったくトンチンカンな内容だったりして返答に窮することもしばしばで、だんだん調律師も要領を心得るようになり、何も聞かないで、もっぱら自分の裁量で黙って仕事を進めることになることが多いようだ。
 
 以前も書いたが、ある人から聞いた話では、先生宅の二台のピアノがまったく異なる似ても似つかないタッチであることから、生徒の一人がなぜこの二台はこれほどタッチが違うのか理由を聞いたところ、返ってきた答えは「は?…調律師さんが違うからでしょ?」というものだったらしい。質問した当人は、もっとピアノ弾きとして意図するものがあって、あえて二つの異なるタッチに振り分けているのだと思ったらしい。尤もなことである。しかし、ピアノの先生にしてみればタッチの妙なんてよくわからないし、それはピアノや調律師さんが決めることでしょ?ということのようだ。まあ単純な重いか軽いかぐらいはわかるだろうけれど。
 
 そうとも知らずに、生徒の親がピアノを買うときなどには、専門家の意見がほしいということで先生に同行を求めたりすることがあるらしいが、これほど失笑を禁じ得ない最悪の人選もないだろう。いかに素人でも自分達の努力で選んだ方が、よほどましな結果が出るはずだ。
 
 しかるに「ピアノの先生」→「ピアノの専門家」だから「楽器としてのピアノにも詳しいはずだ」という図式が成立するらしく、いま読みかけているピアノの構造や調律に関する本の中でも、著者である東大工学部卒の音響やら何やらの専門家でさえ、やはりピアノ購入時は先生などに相談することを推奨しているのだから、この根の深い認識違いときたら、どうにも手の施しようがない。
 また実際にそうして先生のアドバイスのもとにピアノを購入する向きも少なくはないだろうと思われる。ただし、大半が大した失敗もなく事が済んでいるしたら、それは先生によるどんな不適切な助言や判断であるにせよ、日本の大手メーカーのピアノを購入するという最もありがちな結果であるならば、それは先生の無知を超越したところに、世界的にも非常に優れたこれらの企業が作り出すピアノが、品質として優れている事で多くが助けられているからであろう。
 これが例えば中国のピアノ店のように、文字通り優劣様々なピアノを置いている店などであれば、果たしてどんなひどいものを掴まされるか、想像してみただけでも恐ろしい。
 
 ピアノの先生は、とにかく小さい頃からピアノ(のキー)に触れるだけは触れてきているから、自他共にある程度ピアノの専門家という認識がなまじあって、いまさらピアノの良し悪しなど皆目わからないなどとは逆立ちしても公言できないのだろうと思う。しかし、おそらくは自分でもピアノの良し悪しなどほとんどわからないことは半分は自覚があり、あとの半分はおそらく何も考えてはいないのだろう。
 多くのピアノの先生達は良い楽器に触れたい、あるいは良い楽器とは何か、という根本的な問題に関する興味(というか、本来ならばそれは演奏者の本能であるはず)がまったく開発されないまま長い年月を過ごしてしまったために、いまさらちょっとやそっとではどうにもならない場所──感覚的にも能力的にも修正のきかない、楽器オンチとしての絶望的なところにまで来ていると言えそうだ。自宅であれ、学校であれ、とにかくそのつどあるピアノを疑問も感じずに、ただ無闇にバンバン弾いてきたのだろうし、興味の中心は指のスポーツ的発達のみにあったのだろう。
 
 ピアノの先生がピアノにこだわらない理由のひとつに、自分の音を聴いていないということがあるように思う。ピアノは他の楽器と違って演奏者によって音程を作る必要がないので、修行の第一歩からして自分の出す音を注意深く聴くという習慣がない。キーは押そうが叩こうが、音は必ず出る。すると指先のスポーツへと関心は向かってしまうのかも知れない。
 これは、もともとピアノが自分の楽器を持ち運びできず、さらに内部構造は100%専門家の領域で手出しが出来ないという、ピアノ固有の宿命も手伝って、楽器のことに心を通わす必要もチャンスもなかったという笑うに笑えぬ実情もあるのだろう。ピアノなど普通に弾ければ要はなんでもよく、ただ自分のテクニックが上達することだけを唯一無二の目的として生きてきた、そしてそのテクニックも上達しなかった。それがピアノの先生だろう。
 
 少数擁護派の人に言わせれば、ピアノの先生の中にも心から音楽を愛し、ピアノの良し悪しも区別の付けられる方もいらっしゃる!ということになるだろうが、マロニエ君に言わせれば、そういう方がまったくゼロではないというだけにすぎない。
 逆に普通の趣味人で音楽好きな方の中にピアノに詳しい方がおられても、マロニエ君ちっとも驚かないし、それは経験的にも知っているつもりだし、尊敬に値する方はいくらもおられる。意外なことには、とくに理系大出身の方や医師の中には、音楽や楽器としてのピアノに深い愛情と造詣をお持ちの方が少なからずおられることも併せて報告しておきたい。
 そういう方々の整然とした知識や確かな鑑識眼の前では、ピアノの先生のそれなど、まさに赤子同然である。

今年聴いたショパン-No.13~18

No.13[ジャン=マルク・ルイサダ]CD
 フランスを代表するショピニストとしてその名を馳せる彼が、二回目のマズルカを日本(軽井沢大賀ホール)で録音したものがRCAから発売された。ルイサダの描くショパンの、随所に見られる儚くも美しいところ、なるほどと頷かせられるところがあることはわかるが、全体的としては再録の必要を痛感するまでには至らなかった。
 ショパンの美しさに対する敏感さを研ぎ込み、細やかに味わい、そのつど足を止め、留意に努めようとするのはわかるが、いささかくだくだしく、恣意的で、前の録音(マズルカ全曲・グラモフォン)のほうがまだ自然であった気がする。ひとことで言うなら抽象性が不足し、聴く者のイマジネーションに預けられる余地のない、多くを具体的に語り過ぎようとした演奏のように思う。これは彼の昔からのクセでもあった。
 ルイサダはなるほど一面に於いてはショパン芸術の熱心な擁護者であるかもしれないが、それはショパン全体のごくごく一面にしかすぎないとマロニエ君は感じる。とくに大切な線の流れや古典様式感がこの人には欠けていて、木を見て森を見ずの部分が多すぎる。ときには故意に流れを分断するような唐突な表現が飛び出したり、あるいはポリフォニー的な面への様々な試みや過剰表現などは、ショパンの多様性を表そうとしているのだろうが、逆に一元的な表現への断定に陥っているだけのようにも感じる。こういう一連の問題点は、ルイサダの名声には不釣り合いなテクニック上の現実問題も無関係ではないと思われ、テクニックの限界を解釈で補おうとしているフシが見られるのは致し方のないこととはいえ痛々しい。
 それでもこの人のショパンへの敬愛はただならぬものがあるようで、様々な究明と試みが繰り返されており、その点は素直に理解したいとも思うし尊敬もしよう。しかし、演奏家は演奏によって結果を出さねばならず、理想的なショパン演奏の本質として、ショパンの作品に不可避な節度をもった即興性、イマジネーションの広がりを想起させられるような要素が、聴く者の魂へと投げ込まれなければならないのではないか。投げ込まれた種は各人の心の裡で各々の芽を出し花を開かせる。ところが、ルイサダのそれはあくまでも自らの裡で作り込みすぎた、いわば手の入りすぎた完成品を押しつけられようとするところが、ときに暑苦しく、ショパンの自由な羽ばたきを阻害していると思える。
 とはいいながら、どうかすると本当に美しく輝く瞬間があるのもまぎれもない事実で、こういう点は高く評価したい。そういうときは心底ハッとさせられるから、まあ聴く側としてもこれらを相殺しながら聴かなければならないということか。同時に、このあたりがルイサダという人のいろんな意味での、精一杯の限界を見せられるような気がしてしまう。
 
 使用ピアノはヤマハのCFIIISだが、これはなるほどと思わせられる一面もあった。というのは、ルイサダのショパンに見せる繊細な演奏を表現するには、スタインウェイでは一面においてピアノが絢爛としすぎる部分があるだろう。基本的にスタインウェイの音は生まれながらに華麗な大舞台に適した性質をもっているため、ときにそれが奏者の意図するところを必ずしも正確に伝えきれないときがある。それと誤解を恐れずにいうなら、スタインウェイは基本的にピアニッシモ領域の静謐さを歌い込むピアノではないから、ルイサダにときおりみられる非常にデリケートな表現は、ヤマハの良い意味での日本美のやわらかさや律儀な正確さなどが功を奏しているようだ。機械的にも、精巧無比な頼もしいアクションが彼のやや自信のない指を、大いにサポートしているのだろうと思われる。
 
 
No.14[イヴ・アンリ]CD
 同じくフランスの、今日では代表的な扱われかたをするショピニストのひとり?
 この人の名が日本にも知られるようになったのは、マロニエ君の記憶ではここ2~3年のことだと思うが、紹介文によるとフランスではショパンの権威として知られる存在で、ほうぼうで独自のスタイルによるマスタークラスを開き、CD・書籍を出版するかたわら、ワルシャワショパン協会理事に就任、今年の生誕200年のプロジェクトに絡んだり、フランスからは学問騎士勲章を受けるなど、いわゆる純粋のコンサートピアニストというより、広範な研究や活動もこなす、学者肌のピアニストのように見受けられる。
 演奏はショパンのスペシャリストを自認しているのだろうが、まったくマロニエ君の好みではない。あまりに瞑想的自己陶酔的で、テンポは遅く、細部に表情をつけすぎていささか演出過剰の感がある。また表現が時として混濁して収集がつかなくなる面もあり、いまひとつの整理整頓とまとまりを求めたい。聴いている側は繰り出される演奏と自分の耳が乖離するばかりで、音楽にまったく身を委ねることができず、妙な乗り物酔いのような疲労感に襲われる。
 演奏家は聴く側の、いわば聴き心地というものもプロならば配慮すべきで、あまりにも独りよがりの、独善的なショパンという気がする。例えば「雨だれ」の出だしの旋律の3つの音も、それぞれに一呼吸づつするようなねばねばした調子だから、聴いていて演奏による誘いがなく、気が抜けるというか、もどかしくなるばかりだ。
 この人の経歴からして、まさかこういう一風変わったショパン演奏がフランスでは支持されているのかと思うと、ちょっと暗澹たる気分になるが、他のフランス人ピアニストのショパンを思い出して、そうではないと思いたい。
 
 ピアノは2種のプレイエルを使って24のプレリュードを弾いており、1838年のフォルテピアノと2004年のD280だが、揃ってマロニエ君の好みではなかった。1838年のフォルテピアノは先のグロートの使ったプレイエルとは比較にならない、古びてパワーのなくなった黴くさい骨董品の音としか思えず、これをもって作曲当時の音色の再現だとはちょっと思えなかった。
 新しい方は発展途上であろうか、コルトーの弾いていた戦前のプレイエルのようなきびきびとした華やかさや、軽快な中に潜む憂いなどの陰翳、音色そのものからくる個性と表現性の楽しみがないのががっかりだった。かなり現代的な要素が盛り込まれて重厚さと普遍性を備えているようにも思えるが、ひとことで言うならキレの悪い肥満体のような印象。それでもやはり音がやわらかで伸びがよいのはフランスピアノの最大の特徴だろうか。ただし現状ではマロニエ君としては到底満足できるものではないし、だいいちなぜあれほど極端なモコモコ音にしなくてはいけないのかまったく理解に苦しむ。これでは国際舞台で他社のピアノと互角に戦うには、まだまだ課題は山積というところだろう。ただし、ショパンに限っていえば、やはり潜在力としては好ましい方向にあるピアノという、あくまでも「予感」はするが、しかし予感だけではどうしようもない。
 
 
No.15[小山実稚恵]CD
 ショパンコンクールにブーニンが優勝、小山実稚恵が4位入賞してはや25年が経つのだから、マロニエ君も歳をとったということがしみじみわかる。
 小山がそれから25年目にして、ショパンの2つのピアノ協奏曲をポーランドのオーケストラと収録したCDが発売された。これには今年の同コンクールに小山が審査員として参加する節目でもあるということと関わりがあるのかどうかは知らないが、これまで相当数のCDを出しているにもかかわらず、この得意のはずの2曲をリリースしていなかったのは、ずいぶん意外だという気がする。共演はヤツェク・カスプシクが指揮するシンフォニア・ヴァルソヴィアというポーランドのオーケストラで、これはかの大ヴァイオリニスト、ユーディ・メニューインが創設した楽団の由。
 今回の録音ではショパン・ナショナル・エディションというヤン・エキエルが中心になって編纂した原点版ということになっているが、パッと耳につくのはオーケストレーションが従来のものと随所で異なっており、あるところでは異様に歯切れよく、またあるところではより分厚い響きとなり、さらにはこれまで耳にしなかった音があれこれと聞こえて、耳慣れたものとはずいぶん異なっている。この新しい版は「ポーランド政府が国家の威信をかけて取り組んでいる」とあるので、相応の研究や根拠があって到達したひとつの到達点なのだろうとは思うが、第1番の第1楽章などはオーケストラがいやに表に出てきて、マロニエ君などはまだまだ長年の慣れから脱却するの難しく、現段階では従来の版のほうがはるかに気品とまとまり感、ショパンに相応しい洗練があって好ましく思える。思い出すのは、クララ・ハスキルが演奏した第2番の協奏曲でも、ショパンのオーケストレーションが貧弱ということで、オーケストラパートを逞しく「補強」されたものだったが、これも最後まで好きにはなれなかった。
 
 さて小山のピアノであるが、さすがに若い頃から弾き込んだ曲ならではの安定感と見通しの良さが際立つ。彼女は今ピアニストとしても絶頂期にあるのか、長年ピアノを続けてきたテクニシャンだけが可能な、落ち着きと輝きのある充実度の高い演奏をしている。録音も秀逸で小山独特の肉の薄いメタリックな音色を聴くと、目の前に生きた彼女がいるようだ。隅々まで神経の行き渡ったクオリティの高い演奏は小山の美点だが、惜しむらくは全体にある種の無味乾燥を感じるのは昔からちっとも変わっていない。できればもっと深いところからくる優しみやふくよかな歌心が欲しいところだが、小山はもともと詩情的な演奏をするピアニストではなく、爽快な指さばきによる精巧な音並びの美しさで聴かせる人だったので、それを求めるのは無理な注文かもしれない。
 それにしても深い歌い込みの必要な箇所になると、決まって音量が落ち、やたらと臆病な表現になるところは小山に限らず、このタイプの人の共通した特徴で、アマチュアにも日本人にはとても多い傾向だ。残念な点はフレーズの語尾や装飾音の処理などに女性独特の粗さが残るのは、いささかショパンの作品とは相容れないものもある。小山の演奏の特徴だが、装飾音やそれに準ずる細かなパッセージはふしぎなほど意味を成さず、鋭くアクセント的に強まるのがいただけない。とりわけショパンのそれは、むしろより入念で柔らかな感受性を丁寧にあらわすべきところであるにもかかわらず。逆にテンポの速い終楽章などに小山の魅力が発揮されている。
 ※本録音では、現在ポーランド政府が国家の威信をかけて取り組んでいる由のエキエル編による原典版「ショパン・ナショナル・エディション」(PWM社)を使用している。日本では初めての録音。
 
 
No.16[ボリス・ベレゾフスキー]TV/CD
 今年のラ・フォル・ジュルネ音楽祭2010は、生誕200年を記念してショパンをメインテーマとしている。チャイコフスキーコンクールの優勝者にして、いまやロシアの中堅、ベレゾフスキーはこのところしばしば来日し、このラ・フォル・ジュルネ音楽祭にもお馴染みの顔となっている。今回はドミトリ・リス指揮、ウラル・フィルとの共演でショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏し、その様子がTV放映された。
 大柄なロシア男のベレゾフスキーも歳を重ねて年々迫力が増し、どこかふてぶてしさが出てきた。髪は短く刈りその表情や視線は妙にドスがきいている。ネクタイさえ無しで、ボタンを外した白シャツに上下黒レザーの三つ揃いスーツという、まるで内ポケットにピストルでも持っていそうなちょっとワルっぽい出で立ちで、およそショパンを奏する繊細多感な芸術家というイメージはなく、まるでアクション映画の脇役か、体を張って危ない取引でもする男くさい雰囲気で、だから、ピアノを弾いている姿もなんだか収まりが良くなくて、ミスマッチという印象が強かった。
 演奏もまたそのルックスの通りで、とにかく粗っぽく大胆でマッチョなもの。まるで嫌がるショパンを強引に別の世界に引っ張って行くようだった。テンポも妙に速めだが文句は言わせないという雰囲気。ほとんど丁寧さというものがなく、あちこちでかなり力任せに押し切る場面が多い。いかにも本人がこの演奏に真摯なエネルギーを注ぎ込んでいないということがありありとしているので、そういう意味では見ていて聴いていて、ちっとも有り難い感じがしないのはやむを得ない。いかにもぶらりと「ギャラ稼ぎに来たぜ」という感じだ。
 ベレゾフスキーは若い頃にはまだキッチリ弾いたCDなどもあるが、最近ではどれも大味というか、弾ける自分を武器にして、なんでも引き受け、なんでもそこそこに弾いてはお茶を濁している感じがする。それでも、大きな破綻などは起こさずに、とりあえずなんとか完了してしまうのは、変なほめ方だけれども、それだけの実力があるのだろうからある意味では大したものというべきかもしれない。しかし、ピアニストにそれをやってもらっても聴く側にしてみればなんの値打ちもなく、まるで仕事という仕事を片っ端から引き受けて、連日テレビに出まくるコメンテイターのようだ。せっかく打ち立てたボリス・ベレゾフスキーという名声を、今は自分自身で食いつぶしているように見えるのはマロニエ君だけだろうか。
 終わってみれば、上記のようなベレゾフスキーの印象は残っても、ショパンとしての残像はなにひとつ残ってはいなかった。完全にショパンからそっぽを向かれたということだろう。
 余談ながら、しかしあんなふうに、気楽に、勝手に、適当に、思い通りに、つまりぞんざいにでもピアノがバリバリ弾けたらさぞかし気分はいいだろうなあと思ってしまうけれど。
 
 
No.17[イド・バル・シャイ/フィリップ・ジュジアーノ/アンヌ・ケフェレック]TV 同じくラ・フォル・ジュルネ音楽祭2010で行われたリサイタルから、ショパンのソロコンサートの様子が紹介された。ここにあたえられたテーマは1830年~1835年に作曲された作品ということで、それを3人のピアニストが演奏する。
 最初にイド・バル・シャイのピアノで、この時期のマズルカ数曲とワルツ1番。バル・シャイはイスラエル出身のピアニスト。小柄ですこぶる椅子が高く、おまけに黒い座布団みたいなものまで敷いているのはなんだろう。演奏開始までにえらく時間がかかるけれど、始まってみればマズルカに関してはなかなかの好演であった。見ていてショパンの演奏に適している人だと思ったのは、非常に柔軟なタッチの持ち主で、必要に応じてやや太めの指がフニャフニャとタコの足のようにやわらかに動くが、そのせいでとても多様な音を使い分けがら、ショパンの心象の綴りようなこれらの作品を次々に披露する。とりわけ素晴らしいのは、弱音域での巧みな表現性で、息を殺すような静寂の中で、何通りもの音が巧みにコントロールされながら、ていねいにショパンを歌い上げていく。
 感心したのはテレビカメラの入ったラ・フォル・ジュルネ音楽祭のような巨大会場の演奏会にもかかわらず、まるで見えないカーテンをかけたごとく、きわめて私的な告白のような繊細なショパンを表現したことだ。ところがマズルカの好演とは裏腹に、ワルツでは一転して猛烈なスピードで飛ばし始めたのはまったく感心できず、マズルカでの演奏と同一人物とは信じられないようだった。勢い演奏も粗さが目立ち、説得力も失う。まるで音楽の早口言葉を聞かされているようで、なぜそんなに急がなければいけないものか…。
 
 二番手で現れたのがフランスのフィリップ・ジュジアーノ。長身だが内気な蒲柳の質の青年という趣で、どこか植物的。バラード1番のはじめの大切な第一音も芯がなかったし、なんとなくひどく緊張している感じがあった。しかし、曲が進むにつれて曲のフォルムは悪くないと思う。1995年のショパンコンクールでは優勝者なしの2位という経歴だが、指は逞しく廻る方ではないようだ。しかし、フランス人らしいよけいな贅肉のつかないスレンダーな表現はショパンには好ましいし、良い意味で強すぎない打鍵による均一感のある、ピアノから最も美しい部分の音を絶えず出し続けられる人だ。それは次のノクターン4番になるといよいよその強味を発揮する。
 ショパンはポリフォニックな表現を意識をするあまり特定の声部やアクセントをつけすぎると忽ち音楽がこわれるという意味のことをルイサダのところで書いたが、この人の安定性の高い美音はそういうところに落ち込む危険が無いので、その意味では非常に安心してショパンサウンドを聴いていられる。マズルカ/前奏曲もなかなかの演奏で、まるでフランスのピアノ(楽器)を弾いているかのようなほどよい「軽さ」があって、この二曲を聴いてちょっと見直した。ジュジアーノという人はいわゆるヴィルトゥオーゾ系のピアニストでないが、それなりの香りをもったショパン弾きだと思った。だからこれはこれで良いとは思うけれど、この人が1995年のショパンコンクールで優勝者なしの最高位だったという経歴があることを考えると、コンクール通過者独特な指の逞しさなどはあまり感じられず、なんとなくよくわからない気分になったことも事実だ。
 
 最後はアンヌ・ケフェレック。久しぶりにみたらずいぶん歳をとって、かわいいおばあちゃん風になっていたが、演奏は達者だった。フランス人のショパンが二人続いたが、やはりフランス人のショパンは根本的な部分で格別な何かがあり、演奏の直接的な良し悪しというよりも、文化的に最もショパンに近いものを感じさせられる点では否定しがたいものがある。世間ではショパンといえばポーランド、ポーランドといえばショパンという風になってしまっているが、その根底にあるべき演奏様式や、文化全般に貫かれるセンスという点では、マロニエ君はむしろフランスこそが真の本場だと思っている。ケフェレックもその例に漏れず、フランスのピアニストは本当にさりげなく澄んだ音を出すのは、いつもながら感心するところである。力まぬ良さというか、野暮や熱血とは対極にあるスマートの妙、尊敬と軽蔑が常に表裏を成す思考回路や生活習慣などから紡ぎ出されるフランス人の特質が、ショパンの音楽にピタッとはまるというわけだろう。ショパン自身も父親がフランス人であるだけでなく、後半生をそのフランス社会の空気の中で呼吸し、そこで衣食住をしながら生きて死んだのだから。
 
 
No.18[コンスタンティーノ・マストロプリミアーノ]CD
 ショパンの初期の作品(1821年~29年までに作曲された作品)集めた珍しいアルバム。マストロプリミアーノは1750年から1850年の作品を最重要レパートリーとするイタリアの鍵盤楽器奏者で、フォルテピアノを演奏することが多いようだ。ここで使われる楽器は、コンラート・グラーフの1826年製というウィーン製のフォルテピアノで、いきなり違和感を覚える。ショパンが使ったピアノといえば無条件にフランスのプレイエルやエラールであって、グラーフで奏するショパンというのは甚だ奇異な感じがする。ところが、敢えてこのウィーンの楽器を使っている理由は、このCDで弾かれた作品は、ショパンがパリに赴く以前に作曲したものであるため、その当時の彼はこういう音を弾き鳴らした筈だという、奏者の時代考証によるものであるらしい。…なるほど。
 曲が鳴り出すや、ショパンには聴き慣れないグラーフのポトポトとした、お化け屋敷で亡霊の弾くピアノのような音がとび出てきて、はじめは思わずギョッとする。どう聴いても音色がショパンにはそぐわないと感じるが、マストロプリミアーノの演奏が期待以上にショパンの演奏のツボを心得ているのは予想外で、しばらく聴いていると音にも慣れてきて、いつしかショパンが聞こえてくるから不思議である。ここにある作品はショパンが11歳~19歳までに作曲したものだが、どれもがまだ青い果実のような印象を残してはいるものの、どの曲にものちのショパンの咲かせる大輪の花の萌芽が予見できるのはひじょうに興味深い。やはり天才芸術家は、10代にしてすでにゆるぎない個性が確立しており、これは本物の天才すべてに共通しているところだが、わけてもショパンほどの希有な天才ともなれば当然のことだろう。この時期はソロではポロネーズ、マズルカ、ロンド等が多いのが特徴だが、2番の協奏曲をはじめ大半のオーケストラ付きの作品は二十歳前に作曲されたのだから、まともに考えれば考えるほど天才というのは恐ろしいものだ。
 このアルバムの最後には、ベッリーニの歌劇『ノルマ』より「清らかな女神」(ヴィアルド編)が収められている。ショパンがベッリーニのオペラをとくに好んでいたことはよく知られているが、こうして有名なアリアを器楽作品として聴いてみると、ショパンのセンスに繋がる、あるいは結びつく要素がとても分かり易く聞こえてきておもしろい。とりわけ洗練された旋律の流れや精緻な和声進行、感傷的な美しさなど、想像以上にショパンに通じる流れのあることは、オペラで聴くよりもいっそう明晰になっている。
 この一曲のみでもこのCDを購入した価値があったというものだ。

ピアノレッスン

 憚りながら、マロニエ君はぜひにと言ってくださる方のみ、ピアノのレッスンなるものをさせてもらっているので、この点に自分なりの所見を述べておきたい。
 
 マロニエ君は現在の平均的なピアノレッスンの現場事情を網羅的に把握しているわけでは当然ないから、あまり断定的なことはいえないが、人から伝え聞くところによると、そこにはやはりひとつの特徴が浮かび上がる。
 そこでは(今も昔も)テクニックがレッスンの中心課題を占め、教材を使った指の反復練習、曲ではテンポ、ペダル、指使い、強弱などの表面的指導がせいぜいで、その奥にある曲の音楽的な表現性や、曲の解釈等に関する注意や指導はほとんどないというのが実体のようだし、経験的にもそれは察しがつく。
 最も大切だと思われる音楽に対するスタンスや音楽性の本源にかかわる部分、すなわち曲に関する音楽上の指導や意見交換、解釈に対する考察など、より平易な言葉でいうなら音楽に対する愛情とその愛情表現の方策がまったないまま、専ら楽譜上の音符を使っての指運動の道場のような印象である。
 これではまるで、「ピアノスポーツジム」とでも名前を変えた方がいいようだ。
 
 そのような教室では、先人の残した偉大な芸術作品ですら、単なるカリキュラムの一手段に過ぎない。本来の音楽の深い価値やそれに触れる喜びに生徒を開眼させる指導という、ピアノ教師の最も重要な部分に着手する意志も考えもあまりないことが圧倒的に多いようだ。ともかく指導者にその意志がないのだから、生徒にその芽が出るはずがないのは自明の理である。
 これはしかし、先生ばかりを責めるわけにもいかない、きわめて根の深い問題に帰結する。というのも先生自身が修業時代からそういう教育環境で育ってきているものだから、ピアノのレッスンとはそういうものだと頭から思いこんでいるという現実があるのである。音楽の本源的な喜びの確認とか、作品の核心に触れさせることがいかに重要かということを体験的にご存じないのだから、どうしようもないわけだ。
 単純な話だが、ピアノ先生と純粋に音楽の話をした経験のある生徒は果たしてどれぐらいいるだろうか。おそらくは絶無に近いものがあると察せられる。むしろ音楽そのもの話などしようものなら御機嫌を損じかねない。ピアノの先生とはえてしてそういう人達なのである。
 おまけに先生ともなればレッスンはいわば商売だから、いよいよその軸足は音楽の根本から遠ざかり、一人の生徒に手間暇かける余裕はない。より多くの生徒獲得とその効率的な消化に神経は集中するのだろうか。
 
 しかしながら、それは先生側の都合であって、ピアノが上手くなりたいと願って通ってくる生徒にしてみれば、たまったものではないだろう。こういう環境下で長く過ごすと、しだいに美しい音楽を美しいと感じる当たり前の心のセンサーが減退し、やがては死滅して「音が苦」などと揶揄されるのもじっさい笑い事ではなくなる。
 レッスンに用いられた曲は、先生およびレッスンの持つ殺伐とした雰囲気とセットになり「楽しくないもの」として刻み込まれ、それらの曲ばかりか、クラシック音楽全体を嫌いになるという最悪の道を経ることも決して珍しいことではない。ピアノ学習者がピアノを離れても、任意にクラシックを聞いて楽しんでいるという話はあまり聞いたことがない。多くは練習やレッスンから解き放たれるや、不自由な和服からパッとジーンズに着替えるように、音楽も流行のポップなものに早変わりするなどが多いらしい。
 要するにレッスンがちっとも楽しくないから、そこで関わるような曲にも愛着が持てず、しだいに敬遠するわけだろう。
 
 マロニエ君は今どきの音楽を否定する気は毛頭無いし、素晴らしいものは新旧問わず素晴らしいことは言うまでもない。しかしクラシック音楽は長い時を経て繰り返し奏でられ、愛聴され、受け継がれ、尚飽きられることなく生き残った人類の財産であり、いわば音楽美の結晶のようなものだから、それらがつまらない環境のせいでそんな位置付けになってしまうことほどもったいないことはないのである。あれだけの素晴らしい芸術作品の中から、たとえわずかでもピアノレスナーは自分の指でその音符を弾き、作品に直に接触し、自らの手で奏するという大変恵まれた状況にあるのだから、これは実は大変な幸運ではないか。にもかかわらず、心は刺激を受けることもないまま音楽は機械的に素通りしまう。こんなバカな話はない。これはマロニエ君にいわせればひとえに先生およびピアノ教育界全体がもつ価値観と環境の責任であると思うし、最も憂慮すべき大変な問題であるはずだ。
 美人を見てもさっぱり美人と感じないばかりか、毛嫌いするのと同じようなものだから、生徒の才能を引き出し伸ばすことが指導者の第一の責務であるにもかかわらず、まったく逆の不感症域へと追い込む加害者とでもいうべき現状は、考えてみれば恐ろしいことだ。
 ピアノの先生に接したお陰で、なるほど指は少々動くようになったとしても、こんな深刻な副作用があるのでは本末転倒だろう。
 
 こうしていつまでもレッスンの実情を嘆いたところで仕方がないが、ともかくこのような状況の中で、理想的とまでは言わずとも良質な指導者に出会うことは、別項で述べた優秀なピアノ技術者に出会うことよりも、さらに数段難しいことなのかもしれない。芸大や桐朋あたりまで行けば、中には素晴らしい先生もあるいはおいでかもしれないが、普通の市井のピアノの先生となると、その望みは絶望に近いものがあるだろう。
 マロニエ君自身も不味い文章を書き散らしながらしみじみと思うことだが、(1)良いピアノ(高級品という意味ではなく)を買う事、(2)良い主治医(技術者)に巡り会って、(3)良い先生に恵まれて音楽の素晴らしさに触れながら自分の技術を磨くという、この3つによって成り立つ総合的理想的環境を獲得することは、ほとんど奇蹟に近いような気がする。
 とりわけ学習者にとっての良い先生というのは、生涯にわたってなんらかの深い影響があり、その人のピアノと音楽へのスタンス、進むべき道をある程度決定づけるのだから、この存在は大きい。
 いささか極端に言うなら、良い先生の存在とは、音楽上の親と言って差し支えないだろう。子供が親からいかに多くのはかりしれない影響を受けながら成長するかを考えれば自ずと分かることだ。
 それがピアノの場合、好むと好まざるとにかかわらず教師の存在ということになる。
 
 優れた教師は、より直接的な指導に留まらず、本質的なものへの誘導如何によって音楽への目を開かせるかどうかにかかっているのだから、その影響は途方もなく大きいし、終局的にはそちらのほうが目先のテクニックなどより、よほど大事だとマロニエ君は思っている。
 
 さて、大半のピアノ教師は技術面の指導だけと言ったが、実はこれも誤りがあって、単に指運動と曲の消化にこれ尽きる。技術というなら、たとえば楽曲に即した音色やデュナーミク/アゴーギクを適切に使い分けることも演奏技術であるし、楽器の特性や可能性を感知すること、個々の楽器の状態に対する判断力、タッチコントロールや音色作りの問題、作曲家ごとに変化する解釈や奏法、これらもすべてひっくるめての総称がテクニックであり、スポーツ的に難曲を弾き飛ばせるようになることだけがテクニックではないことは努々忘れないでほしい。
 
 従ってマロニエ君の採るレッスンの中核にあるものは、曲の解釈とその表現のための具体的な考察と指導ということになっている。その流れのなかで出てくるテクニックや指使いはあっても、あくまで音楽のありかたに大半を費やす。よりわかりやすい言葉で言うならば、表現指導というものにこれ尽きるということだろう。したがって弾く人がどういうイメージがあって、どう弾きたいかという点も当然ながら考慮し、その中での最大限の指導と、明らかと思われる間違いの指摘になどに努めている。
 
 おぞましいのは、誰が決めたのか知らないが、ピアノの膨大なレパートリーが指運動のテクニック別に分類整理され、その等級如何によって演奏やレベルの尺度とすることなどだ。これは当人はもちろん親まで一緒になって、その等級にのみ関心を払い、どの曲はどれどれのレベルというような話を親同士が必死になってするなど、まったく音楽とはなんの関わりもない、柔道や空手の有段者のノリでピアノを語っている。
 
 
 さて、テレビなどで放映される現役ピアニストによる上級者向けのレッスン風景を見ていると、大いなる疑問を抱いてしまうことがあって(むろん勉強にある部分もあるが)、マロニエ君は実はあの手の番組はあまり熱心に見る気がしない。それは教師は生徒を前にして自分の好みや解釈を必要以上に押しつける場合が多く、同時に音楽の多様性への配慮と注意があまり感じられない。そういう押しつけはあまりやって良いこととはマロニエ君は思わないのだ。
 テレビ番組という性質上のこともあるのかもしれないが、生徒や視聴者のためというよりは、カメラに向かっての指導者による宣伝映像のようにしか見えないときがあるのはマロニエ君だけだろうか。
 
 番組の途中や最後に、先生自身によるレッスンと同曲の演奏の様子が映し出されるが──世界的ピアニストだからそれも当然だろうが──これがいつも見ものだ。視聴者にしてみればたった今しがた生徒に注意した幾多の指示が、ピアニスト本人の演奏によってさてどのように再現されるのかと思いきや、自身の演奏ではそれらは多くの場合無視されていたり、生徒以下であったりする。結構本人もそれどころではないといった風情で、やけに必死になって弾いていることがしばしばあり、これにはいくらなんでも唖然とするではないか。
 この面では、ショパンのスペシャリストもひどかったし、別番組の指揮者兼ピアニストによる巨匠のベートーヴェンでは、生徒も学生ではなく若いピアニストが起用されるなど、それはいかにも本格的な仕立てだったにもかかわらず、あれこれと尤もらしいことを散々並べ立て、果ては哲学論とか啓示的な話まで踏み込んで、自分の音楽的教養を披露していた。中にはなるほどと思う部分もいくつかあることはあったが。
 しかし、続けて放映される自分のリサイタルでの同曲となると、ちょっと同じ人物とは思えないほど手荒で雑に弾きまくる。はっきり言って生徒の演奏のほうが遙かに誠実で好ましいではないか!と思ったことは一度や二度ではない。ただ、彼は有名ピアニストで長年のキャリアがあるし、場所はホールだし、ピアノも大型のものに変わったりすると、無意味なことでもなにやら意味がありげで、長年の演奏者生活は自分を大きくありがたいもののように見せる術だけはしっかり板についているから、それにのまれてつい感心してしまっている向きもあるのだろう。
 このように一流ピアニストが必ずしも一流の演奏をするとは限らないし、ましてや彼らが必ずしも一流の指導者ではないというのがマロニエ君の考えである。もちろん生徒に弾いて聞かせるだけの確かな腕を持っていることは大事だけれど、要はそれも、なにをどう伝え、どういう指導をしたいのかという、指導方針と指導内容のほうがはるかに重要ではないか。
 どうかすると指導というより、プロとしての自分の優位性を周囲に印象づけるために、やたら達者ぶり、生徒との違いを強調的に弾いて聴かせる作為性を感じることも少なくない。
 
 音楽(とくにクラシック)には常に一定のルールと制約があるが、それでも尚、各人の多様な感性やイメージ、欲求も当然あるはずで、それを敏感に慎重に探り出し尊重しつつ、誤りはきちんと正しながら音楽のルールと波に乗せて生きた演奏にしていくこと、つまりそのための誘導をすることが指導する側の最重要課題だと思っている。初心者を別とすれば、メカニックの指導はこれら音楽的な指導と一体のものとし、必要に応じてやっていくべきではないのか。これはメカニックの鍛錬は疎かで良いという意味では決してないが、常に音楽と一体のもの、音楽が要求してくるものとセットになった必然が要求するテクニックでなくてはならない。
 メカニック──すなわち指の運動機能面にばかり感心を向けていては、最も大事な音楽への繊細で敏感であるべき感受性に、好ましからざる影を落としかねないように思う。その退屈な運動練習の延長上に楽曲も居並ぶことになり、美しい芸術作品までが苦痛の対象となるばかりか、それが元で、いつになっても音楽の魅力に惹き込まれたり、音楽美の虜になるという、音楽を取り扱う側としては最も大切な当たり前の心を失ってしまうことになり、これほど恐ろしいことはない。
 
 
 つまり、ピアノ指導者はピアノの技術指導はまあ当然としても、それ以上に音楽的なアドバイスを事細かにレスナーに示すことが大切である。音楽上の必要が納得できれば、レスナーは必然的に自分の演奏と技術がどう不味いかを自然に知るところとなる。マロニエ君としては、技術的な訓練は、スポーツ的トレーニングから発するのではなく、あくまで音楽の要求からのみその必要を感じるべきだと考える。それに応えるためにはどうすべきかを本能的に察知する機能を備えられるようにすることが指導者には必要ではないか。この機能が身に付けば、やがて自分で問題点に気付き、自分で間違いを正し、その一環として不足した技術を補うという有効な道筋ができるのである。そういう経過を辿った末の機械的練習なら目的も明瞭でやり甲斐もあるというもの。
 要は、最終的に自分に様々な命令を下すのは自分の耳しかない。
 この「自分の耳」を発達させること、これがピアノ教師の最大の仕事だとマロニエ君は考えている。そのような意味に於いても、指導者は音楽と技術を分離させ、専ら技術ばかりに偏るのはマロニエ君に言わせれば指導者の風上にもおけない先生ということになる。音楽的な指導がほとんどないという先生の話は昔から聞き飽きるほど耳にしてきたが、現在只今までその傾向に変化らしいものがみられないのは、根の深いピアノ教育の構造的な欠陥が、恒久的に全国津々浦々まで影を落としているようでなんとも嘆かわしい。
多くの場合は、技術的に正確に曲を弾くことが最大の関心事で、音楽的な表情や味わいなどは、必要最小限をあとから取って付けたように追加する程度なので、これでは良い演奏が生まれるはずがないではないか。
 
 また、その対極にあるのが音楽指導を旨とする大家ぶった指導法だろう。
 やみくもに自分の権威をふりまき、これといって具体的な指導もせずに、教師が生徒に対してあれこれと抽象的な意味不明な問いかけなどをして生徒を困惑させるのを楽しみような指導にも疑問を感じる。大抵こういう場合、すぐには答えようもないような直接音楽そのもののことではない予期せぬ、答えようのない様な形而上学風の問いであったりする。ときには芸術指導の名の下に小説や美術の話にまで及んだりして、自分の幅広い知識を誇示しているだけのように見える。そこまでの広範囲な芸術的造詣がないと、ただピアノだけ弾いていても本当の演奏は出来ないよと言わんばかりだ。答えに窮する生徒の姿を見て楽しむイジメのような質問で、質問それ自体が笑顔の下に隠された教師の自慢と、指導への無責任のように聞こえる。マロニエ君に言わせれば、そんなことは本人の言葉に言わせるのではなく、音楽を通じて生徒側が感覚として察知すべきことであるし、音楽の美しさから他の芸術分野への感心を呼び覚ますように導くのも教師ではないか。
 ひどいときにはまるで禅問答か精神分析のような態をなしていて、言っている本人が本気でそう思っているかどうかさえ疑わしい。ご当人でさえ、生徒の時代に同じことを言われたら、それを理解して演奏に反映できたなどとはとても思えない。こういうレッスンは一向に要領を得ず、進展せずで、まったく馬鹿げている。
 本人の能力やセンスを、音楽の正しい法則の上に融合させながら波に乗せていく作業が教師の本分であるにもかかわらず。そのためのアドバイスこそ教師のなすべきことだと言いたい。
 
 かといって、あまりにも細かな指示は却って本人の主体性を踏みにじる結果を招くだろう。注意点の羅列によって、音楽をするという自発性を摘み取り、ただ萎縮させてしまっては逆効果である。したがって同じ曲でも相手によって指導内容が異なるのは当然である。
 ピアノレッスンはある意味に於いて医療行為と同じで、体質や症状によって治療や投薬の方法が異なるように、生徒の個性や性格によっても処方を変えるべきで、画一的な指導は生徒のために最良の結果は上がらないだろう。
 
 とかく失笑してしまうのは、もっぱら機械的練習とエチュードや曲の消化にこれ努めるスポーツ型先生か、はたまたピアノにはほとんど触れず、延々と曲にまつわるエピソードや作曲者のどうでもいいようなエピソードなどを必要以上ふりかざして、さも高尚な指導をしていると思いこんでいる教師や有名教授などである。何のことだかさっぱりわからない類の抽象論ばかりを延々とまくしたてられ、作品への理解がこの上なく崇高なものであるという話をいくら聞かされてもピアノは上手くならない。
 
 ある人が言っていたが、昔のソ連時代のロシアなどでは教師は生徒を雛鳥のように大事に扱い、親鳥がエサをひとつ口ずつ雛鳥に分け与えるようにして、文字通り愛情と手間暇を注ぎ込んで、徹底して具体的に教えていくということだった。いわゆる西側と違って当時の社会主義体制だからこそできたことかもしれないが、ひとたび生徒が決まれば一週間のうち半数以上の日数を、3?4時間ほど教えているという。これは間違った勝手な練習をしないよう、ほとんど教師が生徒の練習を傍らで見守っていると言ったほうが正しいだろう。
 
 また著名な日本人ピアニストの外遊記などを読んでも、留学先(ヨーロッパ)でも記憶に残る名教師は、上記の抽象論遊びのようなことはまったくなく、いかなるときでも、曲の具体的な指導に終始したと書いている。それも強制ではなく、自分の考えはこうだがという断定ではない(つまり生徒にもそのつど考えさせる余地を残した)スタイルらしい。音楽にひとつの答え、絶対の答えなどあるはずないのだから、音楽を知れば知るほど、命令はできないことにあるのは必然であろう。
 ただし心しておかなければならないことは、ある名教師の至言。
 どんな場合にでも「正しい間違い」というのははっきり存在するということ。
 
 ピアノレッスンの本分は、極論すれば解釈にこれ尽きる。そして解釈に基づく指導こそが実践的な指導であり、専らそれの積み重ねである。したがってマロニエ君のレッスンも専らそこに重点を置いている。
 そして解釈が決定すれば、最終的には自分の身をその音楽の呼吸の中に置くことである。間違っても自分の呼吸に音楽を合わせるのではない。
 音楽そのものが生まれもつ呼吸を譜面から探り出し、それに自分を乗せて曲と同じ呼吸をしながら演奏すること。この点を繰り返し伝え、それを体得することをレッスンの最終目標としている。

ルイサダとCFX

 ジャン=マルク・ルイサダのリサイタルに行った。
ルイサダは率直に言うと、ピアニストとしてはあまり評価していなかったので、当初は行く気はなかった。とくにショパンのバラード全曲やアンダンテスピアナートと華麗な大ポロネーズというような予定プログラムは、この人の不安定な技巧で満足な演奏はとても無理だと思っていたし、マロニエ君は技術の低いピアニストの、無理をした演奏を聴く(見る)のがとても嫌なので、直感的にご遠慮しようという気持だったのである。
 
 ところが、それからしばらくたった頃、ヤマハから最新鋭のコンサートグランド・CFXが発表された。どうやらこのピアノはこれまでのCFシリーズの改良型のひとつというより、もっとドラスティックに生まれ変わったピアノのような印象があって強く興味がかき立てられて、これはなんとしても一日も早く聴いてみたい。そこで思いついたのがこのルイサダのコンサートだった。
 彼はここ数年というもの折に触れヤマハを弾き、レコーディングにまでCFIIISを使用しているので、もしやという予感が働いたのだ。さっそくヤマハに問い合わせてみると、予感的中、やはり当日はこのピアノを運び込んでのコンサートになるという回答だったので、これは何が何でも行かねばならないという気になった。
 通常はピアニストの演奏を聴くためにコンサートに行き、ピアノはそのための道具であるが、今回は逆で、ピアノを聴きにコンサートに行き、ピアニストはその音出し役というわけだ。マロニエ君にはごくたまにこのパターンがある。
 
 会場に入っての第一印象としては、遠目にはステージ上のCFXは従来のCFIIISとスケールデザインが一緒なので、ほとんどなにも変わりない感じがする。とくに大屋根の譜面台上のフタを開けたときの前後の幅が長すぎて、大屋根を全開にしたときにかかるこの折り返し部分が大きすぎて、舞台での大事な立ち姿であるピアノのプロポーションが鈍重である点も従来通りである。その他のディテールの新デザインは客席からではほとんど分かりづらいが、近づくと違いがはっきりする。鍵盤両脇のボディ外板上部の突き刺さるような形状、シンプルな足、ペダル部分などが、これまでとはまったくの別物になっている。デザインの良し悪しは別にしても、作りの美しさがつややかに滲み出て、そのまぶしいような質感があたりを払うようだ。
 ピアノのことは後述する。
 
 演奏はまったくもって予想通りというか、危惧した通りだった。
 ルイサダは技術が名声にまったく釣り合わぬほど危なっかしく、それでいて(それだから?)ちょっと異様とさえ言いたいほど粘着質な、ねばっこい節回しの演奏をこれでもかとばかりに繰り返す。あんなねちねちした演奏を2時間以上聴かせられると喉元が痒くなって、率直に言って非常に疲れる。この点は来ていた知人などもみな同様の批判があったが、中にはあんな演奏を「音楽的」だと勘違いする人もいるのだろう。
 音楽を聴く喜びではなく、神経に逆らう不快感に長時間さらされ、終わったときにはそれからやっと解放されたという心理が湧き上がるのが偽らざるところだ。
 フランス人であるにもかかわらず、フォーレのあの美しいノクチュルヌは、徒に伸ばしたり引っぱったりの無意味な表情をつけるので、ほとんど冗長なだけで何を弾いているのかわからなかった。むしろもっと集中的に知的にあっさりと弾き進むことが、この曲のあるべき姿とそこに散りばめられた詩情を際立たせることになるだろう。
 続くショパンは、当初予定されていたバラード全曲から当日は4番だけが外されていた。4番はバラード4曲の中でも最も難易度が高く、ほかの3曲も技術的にかなり怪しい演奏だったかったから、おそらくテクニック上の理由でキャンセルされたものと解釈する。理解に窮するするのは、ショパンのような完成された作品において、わざわざ和声上のある音だけとか、特定の音型を重要な内声ででもあるかのように極端に誇張して前面に押し出して、無意味に際立たせてみたりすることだ。そういう隠された声部にも意味があるのだと主張しているつもりなのだろうが、ショパンでは本来そういう目先の効果を狙ったアレンジはやるべき事ではないのが、あれほどの「ショパン通」になぜわからないのだろうか。シューマンならやり方さえ的確ならばこういう手法はある程度かまわないし効果も生むが、ショパンではむしろ御法度の部類だろう。
 
 後半も大同小異で、繰り返し語る意味はない。
 音型の単純なところでは決まって時間をかけて表現らしきことをねっとりやるが、音が混み合ってくる難所になると、たちまち言語不明瞭になり、ふわっとうわべで通過してしまう。この人のわかりやすい奏法は、ようするにほとんど曲を正統的なノーマルな状態で聴ける箇所がないことをも意味している。不足する技巧と解釈の辻褄を無理に合わせて、なんとか折り合わせようとしているが、そんな小手先のことで本物の音楽が表出できるはずもない。
 とりわけ奏法で疑問を感じるのは、まるで熱いものにでも触るように、始終忙しく手首を上下させることで、見ていてもストレスであるし、まるで手首が指の上下運動を代行しているようだ。あのような奏法では手首が物理の支点になり得ず、落ち着いた旋律の深いところを歌ったり、速いパッセージを安定的に弾くことも不可能だろうと思われる。 
 意外だったのは、アンコールでショパンの作品24のマズルカ4曲が連続して弾かれたことだった。これは時間的にも10分を超え、ちょうどバラード4番の穴埋めの意味もあったのでは?と思えた。最後にバッハのフランス組曲第5番からアルマンドが弾かれてコンサートはお開き。
 マズルカは今年発売されたCDよりは雑な演奏だったが、大曲でないぶん技術的にも多少の余裕が出て、この日の演奏では最も聴きやすいものだった。だが、バッハもやはり表情過多でげんなりさせられる。せめて最後のバッハぐらい俗を取り払って聴く者を清涼な気分にさせてほしかった。昨年同じものを内田光子が弾いたけれど、彼女のそれはまったく次元の異なる高尚な演奏だったことをしみじみと思い出させられた。
 視覚的に抵抗を感じたのが、アンコールを含めた全ての曲を弾くにあたって、やけに大きな楽譜を置くことで、かたわらに譜めくりを伴っての演奏だったが、これもソロのピアノリサイタルとしては抵抗を覚える。たしかに晩年のリヒテルや現役ではメジェーエワなどがこのスタイルを採るが、あちらはどだい腕が違うし、出てくる音楽もおよそ活きが違うから、それも止む無しという気になるぐらい音楽で圧倒するが。
 そもそもショパンコンクールに5位になり、ショパンのスペシャリストとして名を馳せたルイサダともあろうお方が、バラードのひとつやふたつ暗譜で弾けないはずはないだろう。
 
 
 さて、お目当てのピアノである。
 結論から先にいうと、新鋭CFXはこの日のコンサートで聴いた限りでは、想像以上に素晴らしい特級クラスのピアノだった。あれはCFIIISとはまったく別物と言うべきで、いわゆる発展型とか進化モデルといった類ではないと言えるのではないだろうか。車でいうならマイナーチェンジではなく、フルモデルチェンジの類だろう。プログラムはじめのフォーレのノクチュルヌの出だしの数音からして、ハッとするような、いかにも練り込まれた豊かな音だった。
 楽器としての基礎体力もずいぶん上がっているようで、従来のCFIIISが持っていた、どこか線の細い感じがなく、朗々と威厳をもってピアノが鳴っているところが心地いい。このコンサートが行われたホールは、いわゆるピアノリサイタルにとっては必ずしも条件の良いホールではなく、すぐに輪郭のぼやけるその音響には多くの不満の声が聞かれるところだが、その悪条件をもってしても実に明解によく鳴っていた。
 そしてピアノが大きく見えなかった──というのも鳴りの悪いピアノ、音の線の細いピアノというのは、黒い大きな図体が意味を成さず、ただの巨大な物体のように見えてしまうものだが、鳴りの良いピアノはその逆で、大きなパワーに比してピアノが寧ろ小さいぐらいに感じられることさえある。
 
 とくに印象的だったのは、音に華やかさと上品さが両立していて、うるさい感じとは逆の、とろみがあることだ。それでいて決して線の細い音ではなく、適度なパンチも効いており、非常に響きの良い「通る音」をしたピアノだった。その点では、ヤマハははじめてスタインウェイの領域に少し踏み込んだといえるのではないだろうか。
 クセのないくっきりとした美音でホールの空間が満たされるのは、かつてのヤマハでは一度も聞いたことのない新しい経験で一種の興奮を覚える。特筆したいのは、これまでのヤマハに見られたどこか義務的で冷めた感じのする無機質な鳴り方が姿を消して、音楽的な体温のようなものさえ感じたことだった。
 ヤマハのホームページ内の説明などでは、響板と響棒などが完全に見直された由で、支柱の形状なども異なっていたので、とくに「響き」という点には格別の心血が注ぎ込まれたのではないだろうか。
 
 低音域はかなり柔らかい響きを持った音質に感じたが、しかしフォルテになれば頼もしげな芯もあって支えるべきは支える力もじゅうぶんある。しかし、この低音域のやわらかさ故か、いささか低音側にボリュームが足りないような気もしたが、あきらかに不足していると断定するほどのものでもないので、この点は今後の推移を見守りたい。
 逆に、次高音が非常に前に出てくる感じがするのが印象に残った。日本のピアノはこれまでもどちらかといえばその傾向があり、次高音およびその前後が相対的に強めなために、安易に歌う演奏をしている気分になりやすいという特徴がある。その点、スタインウェイなどのヨーロッパの名器はおしなべてこのエリアのパワーが前後相対的に押さえ気味のような印象がある。ところが、演奏として第三者として聴いてみると、これが不思議なほどバランス的に良くできているので唸らされることしばしばだった。 
 CFXで低音とのバランスに若干の疑問を感じるのはこのような相対的な理由もあってのことかもしれない。
 それにしても、独特な豊麗な響きの土台の上に、やや輪郭のはっきりとしたデリケートな旋律が加わってくるところなど、まさに音が中空を浮遊するようで、その独特な美しさはこのピアノならではの真骨頂だろうと思う。

 CFXは良い意味での日本美の結晶のようなピアノであり、西洋音楽の楽器であるピアノにおいてこれだけ日本的なデリケートな美しさを実現できたことは、それがまさに国際性といえるのではないか。舶来品のコピーを脱して、いよいよ独自の個性を構築しはじめているのだとしたら、これは実に喜ばしいことだと言えよう。スタインウェイの真似ばかりしているうちは絶対に本物は生まれないと思っていたが、ついに独自の新境地を切り開く糸口を見つけたような気がする。
 舶来品のコピーでちょっと思い出したが、全体には日本的な繊細さと美しさを兼ね備えながら、どこかベーゼンドルファーの陰がちらつくことは最後まで否定できなかったことも告白しておきたい。ベーゼンドルファーがヤマハの子会社になったことは周知のことだけれども、やはりそのことによってヤマハとて企業なのだから、その製品作りの秘密を覗き、ていねいな研究がなされ、それがヤマハのピアノ作りにフィードバックされたとしても、これは何人たりとも否定はできないことだろう。
 全体に感じるやわらかなイメージ、全音域にわたって従来より格段にアップした観のある音の伸び、楽器としてのデリカシーなどは、まさにベーゼンドルファーの秘伝をこのピアノがそっと呑み込んでいる故の成果のような気がする。
 
 CFXは、おそらくはレコーディングなどに大きな人気を博しそうな気がする。
 これだけ欠点らしい欠点もない美音の揃ったピアノというのもなかなかないし、それが録音のような環境ではとりわけ強味を発揮するに違いない。繊細な表現を録音というコンサートとはまったく違う媒体に記録するというのは、ある種のタイプのピアニストにとっては大変な魅力だろうし、だいいちこういうムラのない完璧にコントロールされたピアノは、なによりも口うるさい音響関係のスペシャリスト達も好むところだろう。
 
 現時点で考え得る最大のライバルは何だろうか?
 まずカワイには気の毒だが、カワイのSK-EXは完成度の点で大きく劣っており、目下の敵ではないだろう。
 マロニエ君は直感的に真っ直ぐにぶつかると思えるのはファツィオリだ。というのは両者は目指すものが非常に似ていて、あとは両者の国民性と文化的バックボーンの違いの勝負だとも言える。
 ファツィオリの最終的なライバルがスタインウェイという程度になら、むろんスタインウェイも究極的にはライバルと言えなくもないが、直接対決はやはりファツィオリだろう。それでなくてもファツィオリの信奉者には叱られるかもしれないが、CFIIISの時代から、ファツィオリのピアノとしての構成要素が、ヤマハのある部分に通じるものがあると感じないわけではなかったマロニエ君としては、ここで一気に両者のライバル関係が克明になってきたように思える。
 
 そこでさっそくというわけでもないだろうが、今年10月のショパンコンクールからは、ファツィオリが公式認定ピアノとして追加されたようだから、これは必然的にワルシャワの舞台で、ヤマハvsファツィオリの激しいバトルが見られるということを意味するだろう。おそらくファツィオリは初参加を華やかに飾る意味もあって、いっそう豪華絢爛な派手な音造りをしてくるかもしれないが、ヤマハはなにものにも惑わされずに、ひたすら己の信じる道を進んで欲しい。
 
 以前(1980年まで)はベーゼンドルファーも公式ピアノだったが、CFXの成り立ちが上記の印象通りだとすると、ヤマハのボディの中にDNAとして30年ぶりに間接参加しているようなものかもしれない。
 ショパンコンクールには、スタインウェイはハンブルク製しか持ち込まないから、となると日・独・伊三国同盟ならぬ、三国バトルという様相になるということか。規模は小さいけれども、しかし現在これ以上の舞台はないだろうと思える勝負の機会でもあり、まさにピアノのワールドカップとでも言うべき側面が今年のショパンコンクールにはありそうな気がする。
 
 マロニエ君個人の印象としては、ファツィオリとの比較で言えば、少なくともショパンという特定の作曲家を演奏するためのピアノとしてだけならば、現在のところこのCFXが勝っていると思う。それはなによりもCFXの内的要素を含んだ内向きにも外向きにも変化のできる音質や、精妙でデリカシーに富み、奏者と親密な関係を作れそうなピアノであるという点が、ショパンの求める要素に合致していると思うからだ。
 
 現在このCFシリーズは3機種とのことで、価格もべらぼうなものだから、ホール需要は別としても、それ以外は果たしてどんな人が買うのだろうかという点ではどうにもイメージが湧かないけれども、もし将来、その核となるべき新技術がやがて普及品へもなんらかのかたちで降ろされて、効果的に広く活かされるようになれば、これはまさにヤマハにとって大変な新時代ということになるのかもしれない。
 こういう素晴らしいピアノが我が国から生まれたことは、ヤマハひとりの努力のみならず、日本の高度な文化の証、あるいは日本人のモノ作りの際立つ優秀性の証のようでもあり、素直に喜びたいと思う。

カワイこぼれ話

 先日のカワイのショールームで聞けた話の中から興味深いものや、マロニエ君がちょっと気が付いた事などを拾い上げてご紹介しておく。
 
《グランドの伸び》
 まず意外だったのは、国内では売れなくなって久しいと思っていたピアノだが、なんと、グランドに限っては販売業績は現在上がっているのだそうだ。もともとが売れないピアノ、わけてもグランドは昔からなかなか売れないものと相場が決まっていたが、それは過去の認識だったようだ。
 現在最も冷や飯を食っているのはかつての売れ筋の主役であったアップライトピアノ。その理由は、昔はピアノといえば、最低でもアップライトを購入する必要があったわけだが、その位置を現在は電子ピアノが根こそぎ奪ってしまったらしい。まずは安くて便利な電子ピアノを買い求め、しばらくそれを使った人の中からふるいにかけられて、本当にピアノが欲しいという意志を持つまでになった人は、子供のためであれ自分自身のためであれ、むしろひとっ飛びにグランドに行ってしまう場合が非常に増えてきているのだそうだ。
 これには本物を志向するという単純な動機もあるだろうが、ひとつには、ネットなどで著しく情報の発達した時代になったことで、グランドとアップライトでは構造上超えられない差異などもあるということを理解・認識しているということもあるのではないだろうか。また昔と違うのは、ピアノが大人の趣味としても浸透し、一台のピアノで子供の稽古事+大人の趣味の両方を兼ねられるようになれば、そのために使用する道具の価値も高まるという側面も生まれてきたのではないだろうか。
 そこで空洞地帯になったのがアップライト市場で、かつてはカタログを賑わせた多種多様な機種も、今は消音機能の有無等を別にすれば、基本型はわずかに6種類にまで絞られてしまったらしい。
 なるほど見渡せば、ショールーム内の数十台のピアノのうち、過半数がグランドであった。
 
《輸出》
 昔は生産量の70%が国内で販売されていたのに対し、現在では輸出が85%を占めるまでに逆転しているということだった。多少の誇張があるかもしれないが、輸出先はまさに全世界に及ぶらしい。以前からマロニエ君もカワイは海外でも人気があり、とりわけアメリカで評価が高いという話は聞いていた。
 また中国でもカワイ人気は大変なものらしく、北京オリンピックと同時期にできた北京国家大劇院という巨大なドーム型のコンサート/演劇の大規模施設では、20数台ものグランドピアノが納入され、そのうちの実に17台がカワイだったらしい。とはいっても、その選定基準が何であったかまではわからないから、これを単純にカワイの実力がもたらした結果だと100%信じ込むほどマロニエ君も子供ではないつもりだが、いずれにしろそれだけ納入されたということは事実のようだから、むろんピアノとしての実力も認められてのことではあるだろう。
 
 中国は現在、空前の経済発展を成し遂げている文字通りの大国だが、そんな成長に比例して、ピアノ人口も空前の規模となっていることはよく知られている。一人っ子政策の結果、子供は親の世代より格段に大事に育てられ、勢い文化教育にも力を入れており、ピアノ学習者の数も桁違いのものらしい。ランランやユンディ・リの出現は、そんな現象の中から生まれ出た、中国ピアノ界の輝ける出世頭の象徴といえる。
 その中国に点在する名だたる音楽学校の教授たちの間では、シゲルカワイが人気の的なのだそうで、多くの教授連中の愛器として盛んに使われているということだった。また諸外国では、日本国内より定価が高い上に、さらに高い関税が課せられているらしく、国内で250万クラスのピアノでも、海外ではおしなべて400万ほどになるらしい。あまつさえ国によってはもともとの平均所得が低いわけで、その高額ぶりはわれわれの想像を超えたものになるのだが、それでも人気というのだから驚くばかりだ。
 この点に目をつけて、海外から直接購入しようとするお客がいるようで、カワイにもダイレクトオファーがあるのだそうだが、それは現地の代理店やディーラーとの契約に違反するようで、いっさいを断っているとのこと。そのような事情もあり、日本在住の外国人が帰国時に個人の所有物としてピアノを持ち帰るべく、購入していくということもあるようだ。
 これはあながちウソとも思えないことで、振り返れば、昔はわれわれ日本人が、やれベンツだポルシェだスタインウェイだと、根の張る高級輸入品を正規輸入会社を通さず、個人輸入で安く手に入れようとしていた時期があったし、それをまた商売にする個人輸入代行業のようなものもちらほら見かけたものだ。実際、現在でこそ多くの輸入品は生産国との価格差はそれほど目くじらを立てるほどでもないまでに均されたが、昔は二倍三倍なんてのはザラだったから、高額商品になればなるほどそういう策を弄したこともあったようだ。
 余談になるが、マロニエ君が子供の頃、ある有名なピアノの先生が海外に居住する自分の弟子に頼んで地元ディーラーからスタインウェイを購入させ、タダで2年間使わせてから日本に送らせたらしい。というのは所有して2年経過すれば個人の所有品として認められ、無税で日本に持ち込めたからである。いささか浅ましいような気もするが、そんな手間暇をかける価値があるほど、無視できない価格差があったということだろう。
 
《シゲルカワイの価格》
 ついでながら価格の話をしておくと、SKシリーズではピアノ本体の高品質はもとより、購入後の専任者による質の高いメンテナンスなど、ピアノ本体とメンテシステムを合わせて提供するということもあって、いかなる場合に於いても、例外なく値引き交渉にはいっさい応じないピアノだそうだ。これはお客さんにとってなによりも安心できることだと、意味がよく飲み込めないこと(たぶん不公平がないという意味だろう)を力説していた。本当にそうだとしたら、それはそれでひとつの見識だと思うし、もともとが実体に対して良心的な価格なのでこれは頷ける。だいいち、ここから際限なく値引き合戦などしていては値崩れを引き起こし、ひいては品質低下を招くというスパイラルに陥ってしまう危険は大であろう。曰く、だから困るのは入札制度を有する販売形態のときらしい。
 笑ってしまったのは、かのブーニンもヨーロッパではシゲルカワイのユーザーらしいが、「ブーニンでさえ定価で買ったはず!」とのことだった。ブーニンといえば夫人は日本人で、たしか日本にも生活拠点があり、近年はファツィオリにべったりのご様子だが、そんな人がわざわざ値段の高いヨーロッパで定価のシゲルカワイを買うだろうか?…ま、深くは追求しないでおこう。
 
《キガラシ》
 SKシリーズを観察していて気が付いたのだが、響板の前のほうの低音弦の下あたりに「Kigarashi」という斜体文字が転写シールで貼り付けられている。ちなみにRXシリーズにはこの文字はない。店員さんに聞いてみると、はじめはマロニエ君が何のことを言っているのかさえわからなかったらしい。よく説明しても要領を得ないので、とうとうピアノの現物を指さして、ようやく質問の意味は通じたけれど、これがちょっと大変なことになった。
 社内の誰に聞いても意味がわからないようで、そもそもそんな文字があることすら誰も気が付かなかったらしい。右往左往を見かねて「もうけっこうです」と何度か断ったが、向こうも「いえいえ」と自分達の不勉強を恥じて意地になっているのか、一向に引き下がる気配がない。これはやっかいなことになったと思った。
 しばらく待たされた挙げ句、とうとう責任者のような雰囲気の男性が登場してきた。なんでも浜松の本社に至急連絡して問い合わせをして、ついにその回答を得たというのだ。なんとも有り難い話である。
 果たしてその意味は、Kigarashi=木枯らし、だそうで、これは5年間自然乾燥に供した響板の出自を意味するらしい。それを使うSKシリーズのみに印字され、世界中に輸出を前提としたピアノであることから、この言葉を敢えて日本の「カタナ」や「サムライ」と同様の、プライドを込めた日本語としてそのまま伝えようという狙いがあるのだそうだ。
 「キガラシ」とは、まるでスズキのオートバイみたいだ。そもそもマロニエ君は、木枯し紋次郎は知っていたが、木を乾燥させることをキガラシと呼ぶことさえ知らなかった。たいへん勉強になった。
 
《気になる点-1》
 これは書こうかどうしようかと迷ったことだが、ついでなので記しておく。
 鍵盤蓋にはスローダウン方式という機構が組み込まれ、蓋がバタンと閉まらないよう、今どきのトイレの便座のような安全装置が付いている。ところが、いったん蓋を閉めて再び開けようとしたとき手先に感じるその重量と蓋の厚みは相当のもののように思えた。いつもピアノに触れていると、無意識のうちに手先が厚みや重さを覚えているものだが、我が家のピアノと比較してもかなりあれは重いはずだ。
 あんなものが一気に子供の手などに落ちかかってきたらそれこそ大変だろう。おそらくはこの蓋の材料も木の屑を集めて固めたような人工木材の類か、あるいはまったくの樹脂の塊でも使っているのか、そこまでは定かではないが、いずれにしても人工木材の重さは、主にそれを固める接着剤の重さといわれるから、恐らくは木の屑と人工樹脂の中間のようなものと思っていいのではないだろうか。
 昔のピアノはすべて真っ正直に天然の木材を使っていたので、大屋根でも鍵盤蓋でも、現在のピアノと較べると肩すかしをくらうほど軽いが、そちらがピアノとして本来のあるべき姿であることはいうまでもない。まあこういうことは現代の量産ピアノの場合、コストのほか環境問題などの絡みもあることなので、ある程度はやむを得ないとして理解できるが、やりすぎない節度だけはせめて失わないで欲しいものだ。
 
《気になる点-2》
 はじめに見た中古のKG-3の、フレームやフェルトの色彩のセンスや美しさからすると、現在のカワイのフレームのくすんで濁った灰汁のような金色は、どうみても野暮ったくて仕方がない。SKシリーズではさらにくすんだ色調の赤いフェルトを「意図的に」使っており、この組み合わせときたら、およそ美しさとか品格というものとは程遠い、見ているだけでどんよりした落ち込んだ気分になる。まさに田舎の洋品店のコーディネイト並だ。カワイにもきっと色彩や造形の専門家はいるはずだろうに、なぜあのようなむさくるしい色に決定されるのかまったく理解に苦しむ。「それは貴方の好みであり、貴方の主観では?」と言われそうだが、好みもなにも、良くないものは断じて良くないのである。
 さらにRXシリーズになると、SKとの差別化の意味もあるのだろう、フェルト類は黒になり、その暗い雰囲気はまるで中高生の学生服のようだ。ピアノに黒のフェルトというのはまったく例がないわけではなく、例えばドイツのシンメルなどは黒のフェルトを使っている。しかし、そのかわりに黒のフェルトが意味を成し、色調として収まりがつくように、フレームの色には赤みのある微妙な色合いのものが配されて、色彩的にもバランスがとれるよう心配りがなされている。
 どうも現在のカワイのフレームの色は、まるでおでんにつけるチューブ入りの和辛子などを連想させ、センスのない発展途上国が作った三流品のようで、あれは早急にどうにかならないものか。私見だが、すべての楽器には演奏するだけでなく、目を楽しませる要素が不可欠である。とくにピアノは外観デザインもさることながら、中を覗いたときの弦やフレームなどは見る人に美しさや気品、優雅さなど作り手の美学を感じさせる必要があるはずだ。
 その点では現在のヤマハのフレームは非常に美しい明るいブロンズ色で、フェルトやボディ内側の化粧板などとの調和もきちんと取れていて、個性はないけれども、手堅くまとめているのはさすがと言うべきだ。
 
《気になる点-3》
 これも直接音に関わることではないけれど、商品構成および価格帯としては、ほとんどのモデルが拮抗しているかに見える最大のライバルがヤマハだろうが、明らかにカワイが劣っていると思うのは、作りのていねいさや見た目の有無を言わさぬ品質感だ。ピアノの第一の本分である音を別にして、ただの無機質な工業製品としてみるなら、ヤマハはキッチリと隙なく見事に作られていて、そこには一種のありがたい感じさえ滲み出ているが、カワイはその点必要以上のものは見受けられず、高級品質という意味ではいま一歩という感じだ。それが具体的にどこがどうということより、もの作りというものは細部のデザインやクオリティの集積によって、はっきりとその差は製品の佇まいにも現れるものだから疎かにはできない。その点ではヤマハはとりあえず量産品としてはどこからも文句の出ない高い次元に達しているのは大したものだ。
 それにひきかえ、カワイは上質感がもうひとつ足りず、作り込みに精密感と深みがなく、どこか量産品然とした安っぽいところがあるのが残念だ。ではカワイの作りや品質が悪いのかといえば決してそうではないけれど、見るからに美しい品質感や組み付け精度の追い込みが足りないのが正直にそのまま表に出てしまっているのは間違いない。カワイのそういう鷹揚でぼんやりしたところが、ある面ではカワイの良さにも繋がっているのだろうとは思いたいけれども、単純にユーザーとしてはこの点でヤマハの後塵をあびるのはおもしろいことではない。楽器としての音色や音楽性では勝っていると思えるだけにこの点は非常に残念だ。驚いたのは、我が家のGS-50は製造から20年以上経過したモデルだが、そのころからクオリティがほとんどなにも変化していないように見えることで、普通ならこれだけ時の隔たりがあれば、著しいテクノロジーの発達によってなにか変わっていそうなものだが、変わったのは新素材の採用範囲だけか。
 
《結びに》
 いろいろと思うところを書かせてもらったが、マロニエ君としてはカワイのピアノには、いささか大げさだけれど日本人として誇りと好感を持っているし、心情としてもきわめて贔屓にしている。だからこそ実際に自分で所有して毎日使っているわけでもある。今後のさらなる成長には大いに期待しているということはわかっていただきたいものだ。