#12.自主コンサートの害

 ピアノに限った話ではないが、ここ最近のクラシックコンサート来場者の減少に歯止めがかからない。一向に改善されない社会不安や、百年に一度といわれる経済危機、あるいは人々の娯楽や趣味の多様化等々、その原因と考えられそうなものは、考え出したら枚挙にいとまがない。
 だが、もっと直接的なことがあるとマロニエ君は思っている。

 ひとことで言ってしまえば、あまりにもくだらないコンサートが多すぎるということだ。さらに需給バランスの原則通り、音楽を聴きたい人と、聴かせたい人の量的関係が逆転しているからである。

 実は数年前のことになるが、マロニエ君はやむなき理由から、県内の音楽情報誌の編集発行を数年間行ったことがあるのだが、まあ今だから言えることだけれど、昔なら到底考えられなかったような人達、あるいは本来ステージなどに立つ資格のない人達が、臆面もなくコンサートを企て、それを目標に練習に励み、堂々とステージに現れ人前での演奏(のようなこと)に興じるのだ。
 その数たるや、まったく信じられないぐらい多い。連日連夜、同時多発的に必ずどこかでこの手合いがコンサートという自己露出会をやっている。しかもこの種族は少々のことでは懲りるということがなく、ひとかどの音楽家のつもりでステージを繰り返すのだから恐れ入る。

 たしかに音楽には医師や弁護士のように免許も資格もない。プロとアマチュアの境界も曖昧である。それをいいことに見栄や目立ちたがりや自惚れや自己満足がコンサートと名を変えて迷惑行為に及ぶ。さらに当人達はいっぱしの文化貢献をしているつもりであったりするから、その意識と現実の乖離たるやあっけにとられるばかりだ。音楽の世界に「先生」と呼ばれる人や、幼時から一定の専門教育を受けた経験者なら星の数ほどいる。中には高度な技巧に長けた人も少なくないが、だが、それはいずれもプロではない。
 音楽のプロとは、ただ入場料を取って演奏することではない。
 音楽のプロとは、全国的にその人の顔と名前が知れていて、友人知人の助けを求めずともチケットが売れてコンサートで黒字が出せる人。さらにはそれで生計を立てられる人である。こんな人はピアノでもヴァイオリンでも国内で年に一人も現れるかどうかあやしい。

 いっぽう音大の卒業生は毎年数千人規模だろう。その個人一人ひとりには共感と同情はするけれども、彼らの大半は演奏のプロとして活躍する道は現実にはまずない。オーケストラだって空いてる席なんてほとんど無いし、そもそもオーケストラ自体も存亡の危機に喘いでいるのが現状だ。映画『おくりびと』の主人公も所属オーケストラの解散によって、地元に帰り、納棺士へと転職していく話だ。
 クラシック音楽だけでなく、芸術のプロの数なんて、そもそも数にならないぐらいの数でしかない。

 だからかどうかは知らないが、自主コンサートがいたるところで開かれる。ここまでならなんとか事情としては理解できる。才能ある人でも、皆が皆、ステージチャンスが待っているわけでもないから、こうでもして演奏の機会を作るということになるのだろう。ところが自分もしくは自分達がステージに立つべき人間かどうかの良心的線引きができない人があまりに多い。ひどいのになると、曲が最後まで終わるかどうかさえ心許ない猛者もいる。客だっていい加減イヤになるのが当然だろう。
 この手合いは、そもそもコンサートというものに対する認識が信じられないほど低く、プロの演奏会といっても発表会の延長線上にあるようなものが大半である。音大を出たらとりあえずコンサート、海外留学から帰ったというだけでコンサート、コンクールに入賞したからコンサート、去年やったから今年もコンサート、先生や仲間が二三人集まってコンサート、オーケストラの何人かが組んでコンサート、トークを交えてコンサート、コンサート、コンサート、コンサートである!
 これだけつまらないコンサートが掃いて捨てるほど存在し、大半は大胆にも有料なのだから、そんなものにいちいち人が関心を示して来てくれるはずがない。当然である。すると親類縁者友人知人に動員令が下る。こうしてチケットは半強制的に人の手にねじ込まれ、集められるだけのサクラが集められてようやくコンサートの幕が上がる。こんな迷惑な話はないのに、ステージに立つ側は快感と達成感で酔いしれるのだから、これは実は非常に手の込んだ悪戯といえないだろうか。

 それだけではない。「悪貨は良貨を駆逐する」の言葉の通り、要するにこの手の低級なコンサートが氾濫したことで、しだいにコンサートそのものに対する人々のイメージを低下させ、幻滅を招き、本来のコンサートまでをも無関心にさせたという重大責任があるとマロニエ君は考えている。

 自主コンサートの開催はまったくの自由だ。規制ができない。だれでもお金を払ってホールやそれに準ずる会場を借り、チラシを刷ってチケットをばらまき、当日そこで演奏すればいいわけで、その気になれば誰にでも可能なのである。違法行為ではない。そして演奏がマズかろうが失敗しようが、この世界はお客からクレームが付いたり責任を問われることもない。いわば道義的無法地帯だ。素人が趣味の発表会を内輪で楽しむのは構わないが、中途半端な経歴の持ち主が自分はプロのつもりで有料のコンサートを開くことは、その内情を知れば知るほど不快でいたたまれないものがある。

 本来、音楽は誰のものでもないし、一握りの有名演奏家だけのものでもない。どんな楽しみ方もあるという文化的理想論にはかつてマロニエ君も大いに賛同していたものだ。「大ホールでやるコンサートだけが音楽ではない」などと思っていたしそれを声にもしていた。しかし、それは自称プロの音楽家達の生態を知るにつれて考えをあらためるようになった。原則やきれい事はもうたくさんだ。コンサートとして聴くのは入場料を出す価値のある本物のコンサートだけにしたい。
 現在、政府の行政刷新会議による事業仕分け作業が連日のように行われているが、できることなら文化庁かどこかに、コンサートの質的仕分け作業でもやってほしいものだ。