#22.現代を生きる道

 日本人ピアニストの中には、どうかすると世界のどこに出しても恥ずかしくない誠に見事な演奏をする人がいたりするが、残念ながらその実力に応じた演奏活動の機会に恵まれているとは言い難い面がある。あえてこの時代に演奏活動を続けていくためには、もはや優れた経歴や演奏だけでは通用せず、プラスアルファの要素として何らかの話題性や、人目を引く強烈な要素がなければステージへのチャンスはないのだろう。
 このような現状を考えると、なんとも言えない気持になることがある。
 現代は何の世界でも同様だが、一つのことに専念し、それを極めた暁にはキチンと世間が評価を下し、認められるという当たり前のことが機能しないようになってきていないだろうか。

 その理由はいろいろあるだろうが、一つは人々の興味をひく事柄があまりにも多様化し、クラシック音楽に対するニーズが激減したこと。さらにはピアニスト(この場合はコンサートピアニスト)が供給過剰となり、少々の才能や経歴の持ち主ぐらいでは、なんの訴求力も持ち得なくなってしまったという現実があるだろう。

 クラシック音楽じたいが下降線であるのに、それを評価する聴衆のレベルが上がろうはずがない。そもそも優れた演奏家とは一面においては、それを聴く聴衆が育てるものでもある。しかしマロニエ君の見るところ、現在の日本のクラシックの聴衆には本当に素晴らしいものを理解し、これを求めようとする大衆のまともな価値基準やそれに基づいた明確な要求があるとは思えない。したがって演奏家にとっては素晴らしいものを素晴らしいと認めて評価してもらう器も環境も無いに等しい。もちろん個人レベルでは、音楽に厳しい審美眼を持った本物の理解者・愛好家も数多くおられるだろうが、全体から見れば圧倒的に少数派で、とても大衆という単位となり、うねりを作り出せるような数ではない。
 どんな世界でもそうだろうが、自分の才能を正しく評価してくれる社会の環境がないとしたら、これほど悲しいことはないだろう。とくに天才級の人や、人並み外れた才能の持ち主というものは、文化という高尚な分野に計り知れない貢献をするのだから、ほんらい社会から特別の扱いを受ける権利があるとマロニエ君は思っている。
 しかし現実には経済至上主義が音楽の世界にも容赦なく忍び寄り、その価値や尺度を大きく変えてしまった。そこでは優れた音楽家も、質の高い演奏も、おそろしいことだけれどもほとんど二の次となる。価値があるのはホールを満杯にできるアーティスト、CDが売れるアーティストであって、それさえできれば演奏なんてほとんどどうだっていいのだろう。要するにタレントとしてビジネスになればいいわけで、金銭的利益が出ることが成功者となる。逆の場合は、どんなに素晴らしい芸術家であってもほとんど表舞台から必要とされることはなくなる。

 だからピアニストといえども、野心家はほうぼうにアンテナを張り巡らし、マスコミに擦り寄り、テレビに露出し、話題をふりまく芸能人ずれしたような人だけが勝ち残って演奏の機会にありつける。必然的に俗っぽい人脈作りに励み、スタイリストを雇い入れ、優れた企画と営業力こそがものをいう。少しでも良い演奏をするための日々の精進よりも、一度でも多くテレビはじめ雑誌などに出て顔を売り、意味のないことをぺらぺら喋ったり、奇抜なファッションに身を包んだほうが何倍も効果的というわけだろう。

 だがそんなことは、本物のピアニストや芸術家なら、できることではない。
 だから本物はますます内に埋もれ、あるいは絶望し、あるいは志を捨て、その素晴らしい芸術を世に問うチャンスはほとんど近づいても来ない。ついには我々の耳も、それら本物の演奏に触れることはまずなくなる。これこそ文化の悲劇である。
 本当に優れた芸術家らしい芸術家は、その作品(演奏)が正当に認められ、その活動によって生計が立てられなければウソである。それができないとしたら、国や大衆の文化レベルが低い証拠だ。

 まあ、近ごろは政治家になるにも、地盤をもつ二世候補の他は、タレントや弁護士がテレビに集中的に登場して顔と名前を売り、短期的に有名になることによって政界への転身を果たす。有名になりさえすれば当選可能な候補者として党のお声掛かりとなり、公認を得て出馬、筋書き通りに当選という経路をたどるのだから、ましてやクラシック音楽の演奏者ともなれば、ますます人々の関心は薄くなり、金になる可能性は低いということか。
 こんな時代だから、正当な評価によって認められ、あるいは淘汰されることがないのも、所詮は致し方のない事かもしれない。
 ああ、まったくやりきれない話である。