#23.実演かCDか

 CDは、日常的に好きな音楽に接する手段としては、もはや欠かすことのできないものだ。
 ところが、音楽好きを標榜する人の中には「私は本物の楽器の音が好きなのでCDはほとんど聴きません!」とか「音楽は生き物なのにCDにはそれが感じられないから興味がない」あるいは「どんなに立派な演奏だろうが高級なスピーカーだろうが、そりゃあ実演に勝るものはないですよ」などと高らかに弁じて憚らない人がいる。それも一人や二人ではない。
 マロニエ君はこういう主張を聴くたびに少なからず違和感を覚える。

 だいたいこういうことを言う人は、自分の口から出る主義やスタンスが、音楽という一過性の芸術の大原則に適ったものだということを充分意識しており、誰もが反論できない正論を大上段から振りかざしている場合が多い。こういうふうに言っておけば間違いないというところだろうし、ある程度は本気でそんなふうに思っているフシも見受けられるから、この手合いはまったく手に負えない。

 では伺いたいが、自身が演奏の大名人でもなければ、歴史上の貴族のごとく名だたる音楽家を多数召し抱えているわけでもあるまいし、どれほど「実演」というかたちで音楽に触れているのだろう? あるいはオペラ座の怪人よろしく一流ホールの一隅に人知れず棲みついて、来る日も来る日も生の名演を思うさま貪っているわけでもないだろう。
 本当に音楽が好きな人なら、実際問題としてそんなきれい事は言ってられない。好きな音楽は毎日でも聴きたいし、よろず制約の多い現代人は、尚のこと限られたわずかな自由時間に好きな音楽を聴くという任意性は不可欠のものだ。つまりそれぐらい切実に音楽を求めていない、音楽のない毎日でもなんら痛痒を感じない人ならではの言葉だとマロニエ君は解釈している。
 魚は大好物としながら、新鮮な釣れたれの飛び跳ねる魚をその場でさばいたものしか食べません!などと言っているようなものだ。
 
 わざわざ言うまでもないことだが、実演などにこだわっていたら、とてもじゃないけれどCDで聴くことのできる途方もない量の作品や名演の数々に接することは絶対にできない。これは断言できる。さらには同じCDを繰り返し、あるいは長い年月を経ながら聴くうちに得られる多くの発見や理解は、一度きりの実演では触れることのできない領域に存在する真実の深さを我々に教えてくれることがある。
 もちろん実演には実演にしかない価値や感動がある。その場所その瞬間に生まれる音楽に触れ、その空気で自分も呼吸をし、その演奏にじかに立ち会う喜び。そこに異論はない。
 だが、一般人にとって、いかに音楽好きといったってコンサートともなればそうそう頻繁に行くエネルギーも時間もないし、経済も許さない。また行きたい気にさせるコンサートも多くはない。少なくともマロニエ君に言わせれば、そんな喜びに打ち震えるような実演に巡り会うチャンスなんて年に何回あるかも極めて怪しい。世の中にはもしかしたらコンサートに行くたびに満足するような人もおられるのかもしれないが、個人的には十中八九げんなりして帰ってくる。期待は裏切られ、幻滅に沸々とし、苦痛にすっかり疲れ果てて、終演後はまともな食欲さえ湧かないことが大半だ。こんなことなら家で寝っ転がって好きなCDでも聴いてりゃよかったと何回思ったことか。それでも懲りずに、またノコノコと出かけていく自分が哀れとも思うばかりだが。

 ごく稀に実演で名人の至芸、あるいはこれはと思うような名演に接することももちろんゼロではない。だが別項で書いたように現代のホールはほとんどの場合、音という音がワンワン響くだけの、無神経きわまりない音響設計が悪さをして、演奏者のかけがえのない妙技がなかなかストレートに客席にまでは伝わらない。つい先日も日本を代表する世界的な閨秀ピアニストのリサイタルに行ったけれども、もっとも聴きたい繊細なタッチの織りなすフレージングや精妙きわまりない羽のような装飾音、あるいはこの人しか描くことのできない歌い込みの肝心の部分が、この銭湯のような音響(音狂)にじゃまされて、半分も聴き取れなかった。しかもこの日はピアノはドイツから運び、調律師もS社第一の名人が随行、ピアニストと合わせて三拍子揃った演奏会だったのだから、ほとほとイヤにもなる。見た目の立派さなどどうでもいいから、昔の市民会館などで聴けたらどんなによかっただろうかと思ったりもするが、それも詮無いことだ。
 要するに演奏の価値も半減するのが、現在の実演現場の状況である。
 それに比べればCDは優劣様々あれども、いちおうのクオリティが保証されているから、いいものに当たれば心底堪能することができる。演奏も最良のテイクが選ばれているので、コンサートでよくある手抜き演奏ではない。
 もちろんここでもCD不信の御仁に言わせると、CDはどんな色付けでも編集でもできるのだから、そんなものは信用できないと強弁する。もちろん人の好みなので、好き嫌いは自由だが、オリンピックの試合じゃあるまいし、マロニエ君としては多少の編集がされていても、再生ボタンを押せば納得の音楽が流れ出てくるならそこは一向に構わない。
 CDにはCDの世界というものがあるから、必要なメイクアップぐらいはするだろうし、ライブ録音でも編集はつきものだからそういうことを言い出したらキリがない。
 編集がダメというなら、それこそピアニスト自身が編集スタッフのようでもあったグールドなどはまったく無価値ということか。あるいはチェリビダッケのように録音自体を認めない巨匠がいたけれども、結局は死後、家族の了解のもとにあれほどの量の放送録音などがCDとなっ て出てきたのは、やはりCDの価値というものが否定しようにも否定できないものである所以だろう。
 
 言い忘れていたが、往年の名手の演奏に触れられるのも、録音があったればこその楽しみである。
 本当に音楽が好きだったら、CDは有無を言わさぬ圧倒的な存在である。