#26.スコダとベーゼンドルファー

 バドゥラ=スコダというウィーンのピアニストを聴きに行った。
 かつてグルダ、デームスと並んで「ウィーンの三羽がらす」と呼ばれた名手の一人だが、マロニエ君はこれまで実演に接したことがなく、御歳80余のご高齢とあっては、今回を逃せばあるいはもう聴くことはできないかもしれぬという思いもあった。…が、いささか期待が大きすぎたようだ。
 もともと3人の中でも華のある人ではなかったし、マロニエ君にとってその夜の演奏は、老巨匠ならではの含蓄や味わいを満喫できないままに終り、少々期待はずれなコンサートであった。
 前半の終わりに弾かれたベートーヴェンの作品111のソナタは、この日マロニエ君が最も期待していた曲だったが、意気込んでいたのはこちらばかりのようで、なんということもなく淡々と弾き進められて行くばかり。あの第二楽章のこの世の地平を遠く見渡すような諦観の境地や、終焉の壮大さがもたらす深い感動もあっけなく素通りしてしまったようで、ただ単にプログラムの一曲が終わったという印象。ベートーヴェンの慟哭も、ロマンも、そして後半に立ちのぼってくるべき形而上学的といわれる精神世界も、この巨匠の指を通じて体験することは叶わなかった。
 後半のもうひとつの期待であったシューベルトの4つの即興曲(D.899)も、ウィーンのピアニスト、シューベルトの名曲、ベーゼンドルファーのピアノという三種の神器は揃ったけれども、それほどの感銘は受けなかった。長年のキャリアからくる安定感や、いかにも弾き込んだ曲らしいという感じは無くもなかったが、なにしろ全体的にこちらに訴えてくるものがもうひとつ希薄で、消化不良のままリサイタルは終わりを迎える。

 ピアノは上記のようにベーゼンドルファーのインペリアルだったが、音の伸びの良さ、音色の艶やかさはさすがだったものの、いくつかの疑問もあった。
 この日のピアノは、かつて聴いたベーゼンの中でも最も全体にムラがなく、ある意味でお見事ともいうべき調整がなされているという点では感心した。その反面あまりに優等生的で、音楽的な抑揚やこの楽器のなによりの特徴であるところの温かで生々しい歌謡性がまったくない。均質でムラのない調整は、技術者サイドの評価は高いのかもしれないが、一般の音楽ファンとしては、あまりの均質感がもたらす無機質で消極的な美しさより、少しぐらい欠点はあっても、よりおおらかで魅力ある楽器本来の音を聴きたいものだ。
 おそらくは大変優秀な日本人調律師の仕事だろうと、マロニエ君は日本人として本能的に感じた。その理由は、日本人的な美しさ、繊細さ、仕事の質の高さ、気配り目配りの細やかさに溢れていたが、同時に、日本人的なスケールの小ささ、背の低さ、臆病、引っ込み思案を感じるからだ。

 ウィーンの人はもっと大柄で、碧眼で、自信に満ちて、彫りが深いはずである。
 楽器自体は悪かろう筈のないものだったが、この日のインペリアルは、その巨体とは裏腹に、表情の乏しい、小さなピアノに感じられた。