#3.ホールの音響

 近ごろのコンサートと来たら、「行きはよいよい帰りはこわい」ではないが、期待して行っても十中八九は落胆し、おまけにひどく疲れて帰途に就くことになる。止めどもなく生あくびが出て、良い音楽を聴いて楽しみたいという願いが裏切られ、こんなことなら家でCDでも聴いていれば良かったと後悔したことが今までに何回あったことだろう。

 もちろん第一には演奏それ自体のつまらなさもあるけれども、その陰に隠れたもう一つの理由は、ホール音響の劣悪さからくる不快感のせいで、脳が疲労させられるからだと特に最近思うようになった。
 昔はホールと言っても多目的ホールだったし、時代が時代だったから、建築に際しても音響などにはほとんど言うべき配慮はされなかったことだろう。オーケストラやリサイタルを聴いた同じホールで、また別の日にはバレエ公演や芝居を見ることはごく普通のことだった。そのために残響の少ない、コンサートにはあまり向いていないホールが多かったことも事実だった。ところが1980年代あたりを境に日本の音楽文化も成熟して新たな局面を迎えたということなのかどうかは知らないが、「コンサート専用ホール」というのが姿を現し始め、以降、雨後の竹の子のごとく全国にこの手のコンサートホールが乱立するようになった。
 この現象は、音楽ファンとしては喜ぶべき事であるはずだが、実情はそうではないとマロニエ君は思っている。
 このコンサート専用ホールの登場に伴い、必然的に音響学というジャンルが設計段階から採り入れられることになり、豪華さと併せて凝った反響板や美しい木材を随所に惜しげもなく使った眩いばかりの内装が施され、残響何秒というような数値が当たり前のように求められる時代を迎える。しかし、そこで活躍するのは肩書きは立派でも、おそらく本当の音楽を知らない理系の専門家達であり、科学的に理想とされる数値だけが一人歩きをしはじめたのではないだろうか。
 その結果、ともかくもホールはよく響くようにはなった。なったけれども、マロニエ君が本当に美しい響きだと思えるようなホールは知る限りでは全体の一割もない。
 音響の専門家というような人達が優秀な頭脳を注いで作り上げた空間であるはずなのに、そこに飛び交う音は、腰の座らない、つかみどころのない、輪郭のぼやけた騒音のオンパレードである。とくにピアノリサイタルの場合は悲惨で、一つのアタック音だけでも壁や床などへ幾重にもぶつかり合い、音の方向性も定まらない。ピアノから出た音は、客席に届く以前に散り散りとなり、パレットの絵の具を引っ掻き回したようにめちゃくちゃに混ざり合い、とてもじゃないがまともに聴いてはいられない。もはや演奏の良し悪し以前の問題で、これではピアニストもお客さんも、あまりにも不幸ではないか。
 まるでエコーをかけすぎたマイクか、さもなくば銭湯にピアノを置いて弾いているようなものだ。あんな音なら床や壁が木でもガラスでもコンクリートでも、大差はない。誤解しないでいただきたいのは、マロニエ君は本来ホールの音響などにはぜんぜんうるさいほうではなく、むしろ無頓着な部類だった。グルメではなく、なんでも美味しいとよろこぶ口だった。それでも近ごろのホールのあまりに次元の低い“雑音響”には、音楽を愛する者としてとても我慢できないし、そういう場所でしかコンサートが聴けなくなった現状が情けない。

 マロニエ君の居住地は福岡市であるが、市の中心部にも最高グレードを謳ったコンサートホールがあるけれど、その音響の酷さと言ったらない。先日も日本が誇る世界的閨秀ピアニストのリサイタルに行ったが、彼女の指から紡ぎ出されるデリケートな演奏の妙技は、このめちゃくちゃな音響のために半分も聞き取ることができなかった。
ここに限ったことではなく、近隣の大小様々なホールはだいたい似たような傾向である。今後は益々そういう会場でしかピアノリサイタルを聴けないのかと思うと暗澹たる気分になる。

 今年の音楽の友の誌上インタビューで、ポリーニがかつての東京文化会館のクリアーな響きがなつかしいというようなことを語っていたが、これも過剰な音響を暗に批判しているマエストロの精一杯の言葉だとマロニエ君は解した。
 いっぽう、売れない無名のピアニストが、ごく稀に古い会場を使うことがあるのだが、音響設計など皆無に等しい古びたホールの響きが、実はピアノにはとても素晴らしかったりする。世の中、いったいどうなっているのだろう!

 新しいホールはどこも豪華でモダンで立派だけれども、そこが音楽をぶちこわしにする場所だと思うとまったくやりきれない。