#37.スタインウェイは聴くピアノ(2)

 マロニエ君はほとんど本能のようにいろいろなピアノに興味があるけれども、下手な自分が弾いてみたところで、とてもではないが分厚い限界があるので、やはりそこは一流のピアニストによって鳴らされる芸術性の高い演奏を通じて様々なピアノを聴いてみたいし、そこには尽きせぬ興味と魅力を感じる。
 したがってスタインウェイ以外のメーカーのピアノを使った数少ないコンサートには敢えて足を運ぶようにしているけれども、結果的には残念ながらあまり納得できぬまま不完全燃焼で帰ることのほうが多い。
 
 CDも同様で、滅多にないメーカーのピアノを使用した録音などは、少々曲やピアニストが気に入らなくても極力購入するようにしているが、CDのほうがコンサートよりはだいぶ条件は良くなる点もある。それはホールという音響空間によってピアノの性能が差し引かれたり音の輪郭がぼやけてしまうことがなく、ひとまず良い環境下でそのピアノの音が克明に記録されているからだ。しかしその数は絶望的に少ないから、たまさかそういうCDを発見するとワクワクして抑えがたい胸の高鳴りを感じる。
 こういうCDの中でときどき輝くような美しい音を出すピアノと出会うことがあるが、しかしその大半に共通して感じるのは、あくまで「素晴らしさの一面」にすぎない場合があり、全体としては不完全だと感じることがある。楽器に限ったことではないが、演奏や解釈の点でも同様で、完成度の高いものはたとえ自分の好みでなくても納得でき、それはそれとして楽し むことが出来る。しかし不完全なものは自分が同意できるものであっても本当の満足は得られない。
 とくにコンサートピアノの場合、それらのピアノの長所は垣間見ることができたとしても、ただちに演奏家が録音やリサイタルで使用するために積極的に選択するほどの価値があるかどうかとなれば、マロニエ君の耳にはやはり疑わしいことのほうが多いのも事実だ。なにしろピアノは表現の幅もダイナミックレンジも例外的に広くて多彩という点で他に例を見ない楽器なので、とりわけピアニストが人に聴かせるために使うピアノではトータルの性能が厳しく求められる。ともかくそれぐらいピアノというのは求められる要素があまりにも複雑で、それらを高次元で満たすものでなくてはならない点が、非常に難しいやっかいな楽器だと言えるだろう。
 
 例えば、中音~次高音にかけて美しい音を出すピアノはわりに多いが、低音域となると、その音域に相応しい音を出すことはかなり厳しくなるように思える。
 よくあるパターンとしては、低音域はおしなべて音が肥満していたり、低音だからこそ必要な豊かさと明晰を兼ね備えた音を出すピアノは少ない。響きは豊かでも芯がないから大味な音になってみたり、より高い音域とのマッチングがあべこべだったり、音色はそれなりのものが出ていても音が痩せて迫力を欠いていたりする。あるいは前記のように、音が複雑に込み入ってくるような曲になると、単音で聞こえていたときの美しさは一気に失われ、ただワンワンとうるさいだけになってしまうというパターンもある。それを知ってか、このような珍しいメーカーのピアノを使ったCDは曲も比較的シンプルで音数の少ないような曲ばかり収録されていることが経験的にも多く、やはりそのあたりは制作サイドもわかっていることなのかもしれない。
 
 特に全音域にわたって音楽的に一貫性のある表現ができるピアノは多くはないように感じる。それはデジタルピアノのようにムラのない単純な均一性という意味とはまったく違うのであって、それぞれの音域には特有の個性や表情があって一見バラついたように感じるものが、音楽として演奏されることで収束され、説得力のある響きが形作られるという 意味での一貫性ということだ。
 このあたりについては、ピアノ技術者や理系の専門家は、全音域が切れ目なく滑らかにハープのように繋がっていることを理想とする傾向があるし、文献においても良いピアノの条件としてそのようなことが書かれている事が多く目にするが、マロニエ君は必ずしもそうは思わない。
 各音域に絶妙に異なる個性が待機していて、尚かつ全体としての発音体としてはひとつの強固な理念に貫かれた美の世界、これはまさにオーケストラのさまざまな楽器編成のようなものであって、そのような要素も含まれているからこそピアノは偉大なのだと言えないだろうか。ほんとうに全域が完璧にムラのないピアノというのはないと思うが、もしあ れば、それはなんとも面白みに欠ける平坦で退屈な音楽にしかならないだろう。
 この点でも、スタインウェイの持つある種の音や音域のムラは、実はただのムラなのではなく、それが音楽になったとき互いに有機的に機能し合うことが前提とされていて、それは数多くの演奏・名演が結果的にもそれを裏書きしている。この音域ごとの個性の交錯、やわらかい鳴りの統一感、鍛えられた筋肉のようなしなやかさの上に立った強靱性、こ れらによって演奏は音楽としての多様な色彩感や輪郭、構造の透明感が与えられ、それらが明晰さを伴いながら渾然となるとき、スタインウェイだけがもつ官能的な美音があたりに溢れ出し、光りのように空間を飛び交う。
 
 面白い話を思い出した。これは、何年も前にネット上の書き込みで読んだ話なので、マロニエ君の直接経験ではないが、匿名のアメリカ在住のピアノ技術者だったと思うが、あるときコンサートホールでピアノの弾き比べが行われたらしい。目的がなにかはわからない。比べられたのはニューヨーク・スタインウェイのD型とボールドウィンのSD10型(ホルヘ・ボレットやバーンスタインが好んだアメリカの有名なピアノ)で共にコンサートグランドであったらしいが、間近で聴くぶんには意外にもボールドウィンの方が音量も豊かでパワーもこちらが一段上では?という印象だったらしい。ところがホールの最後部で聴き直してみると形勢は逆転、スタインウェイのほうが遙かに力強く明晰に聞こえたというもので、居合わせた一同がこの結果に認識を新たにしたというものだった。
 これはスタインウェイの特性を象徴的に表すものだと言えるだろう。
 
 「スタインウェイの遠鳴り」という言葉があるが、スタインウェイの音は遠くへ力強く鳴り響くことを前提として作られた希有なピアノというわけだ。この特性がアメリカという先進国の中でも木造建築の多いお国柄から生まれたことは知られている。ヨーロッパのような石の響きがピアノを甘やかさず、厳しい環境が通りのいい声と響きを育て上げた。まさにドイツ人がアメリカという土地で完成させたのがスタインウェイ の希有な音の出自である。だから狭い部屋で鳴らすスタインウェイは、部屋の中で飛ばした紙飛行機がたちまち壁や物に当たって本来の飛行ができないのと同じようなものかもしれない。
 
 実はプロの技術者の中にも、ときにこの楽器の真の実力を解していないのではと言葉の端々から感じる人がおられるような気がする。それは技術者には技術者の直接的な作業上の手応えというものがあり、上記のように一般的な狭い空間で使用されるピアノを触っていると、音もその名声から期待するほど大したものではないように感じるケースも多いの
だろうし、むしろそのような環境では例えば国内メーカーのピアノの方が構造や理論も明解で、与えた作業に思い通りに反応したりすると感じられる事もあるのではないだろうか。スタインウェイは技術者に対しても専門的な修練を要求し、いわゆる誰の言うことでも素直に従う従順さはあまりないようだし、調整の方法もやはり特殊であったりするらし い。したがってこのピアノの価値を熟知しているのは、ホールのような広い空間で弾かれるピアノの仕事数を多く積み、その潜在力を身をもって経験した人ということになるのではないだろうか。
 
 近ごろでは、伝統ある老舗メーカーにもかかわらず、時流に追随すべく表面的な絢爛とした音ばかりを追い求めるメーカーが後を絶たないが、スタインウェイの音というのは、実はこういう驚くべき音響特性によって達成された華麗さだということを理解して「いい音って何だろう」という永遠のテーマをより深く考えてみたいものだ。
 そして弾く人/聴く人にとってのいい音、小さな空間でのいい音、コンサートでのいい音とは、必ずしも同じではないのだから、純粋に自分の理想のピアノ像を描いておられる方は、使用環境も視野に入れた本当にふさわしいピアノを探し出すべきだろう。
 
 予想した通り、あまり手際のいい文章にはならなかったが、少しでも マロニエ君の感じていることが伝われば幸いである。