#39.ボヴァリー夫人とエラール

 知人からのメールで、フローベールの『ボヴァリー夫人』を読んでいたら、夫人がピアノを弾くシーンの注釈に「ERARD」という表記があったと教えてくれた。マロニエ君もちょうど半年ほど前にこの作品を読んだところだったが、そういう注釈があった記憶はなく、知人はフランス語をライフワークとしているらしいので、おそらくは原文の中にそんな記述を見出したのかもしれない。
 
 ERARD=エラールはプレイエル、ガヴォーと並び賞せられる戦前のフランスの三大ピアノメーカーで、ショパンがプレイエルとこのエラールの両方を使っていたのは広く知られているところである。
 この3つのピアノメーカーは、マロニエ君にはつい車の三大メーカー、シトロエン、プジョー、ルノーに例えたくなってしまう。
 
《シトロエン》は最も有名なフランス車で、厳密にはフランスというよりは、その佇まいや身のこなし、精神性においても紛れもないパリの車。夜と高速道路が似合い、華やかでシック、きわめて独創的で前衛的。エリゼ―宮の主(歴代大統領)からオペラ座通いのプレイボーイ、果てはギャングのボスまでを広くカバーする、まさにパリの代表的な顔。サスペンションは気体とオイルで浮いたごとくに支えられ、走らせることそれ自体が知的刺激を伴う快楽にもなるが、それには一見さんお断りの操作や取扱いがあり、一定の慣れと習熟と理解を要求する。ピアノならプレイエル。
 
《プジョー》はパリに拘らず、文字通りフランス全土を駆け回る健康な美女。あるいは堅実で働き者の主婦であり聡明な頭脳の持ち主。平均以上の文化教養にも優れるが、同時にスポーツの価値も良くわきまえており、いささか保守的。道徳心も備え、節約も心得る中産階級の理想型。時には羽目を外す喜びも知っているが、夜更かしをして身をもち崩す遊びに耽ったり、不健康な文化や享楽に足を取られるような破滅行為はしない、何事も節度を身上とする。ピアノならエラール。
 
《ルノー》は専ら国民車という趣で、保守・革新・官僚から農民まですべてをカバーする万能選手で、いささか地味だが作りは良心的で乗り手には忠誠をつくし、フランス人の生活様式を骨の髄まで知りぬいた、まさにすべてのフランス人の足。派手さはないがスポーツ・文化・アート面も決して疎かにせず、常に一定の貢献をしながらフランス車の基底を支える、まことに頼りになる車。ピアノならガヴォー。
 
 
 小説では、主人公エマが味気ない田舎暮らしと恋愛の曲折に難渋する場面に登場するのがピアノで、この作品の設定が田舎の中流階級という仕立てであるからには、それは決してプレイエルであってはならない。フローベールがそのためにピアノの銘柄にまで細かな配慮を行き渡らせたと考えられ、エラールはまさに正鵠を得た判断だと思われる。ここではエラールのある種の凡庸ささえも、小説の小道具として巧みな効果を顕している。
 ルイ・マルの映画『恋人たち』でも、ジャンヌが愛人のいるパリから自宅のある田舎へ戻ってくる途中、車が故障し立ち往生するが、これはプジョーであり、しかもコンバーティブルというところに地方の新聞社社主の有閑マダムの贅沢車という色あいを出している。これがシトロエンではやり過ぎで、それでは彼女の本拠地がパリから遠く離れた田舎であるというイメージにそぐわないだろう。
 
 さて、知人がその小説の中の註釈を追って説明してくれたところによれば、エラールが1821年にアクションを改良し、ダブルエスケープメント・アクションを発明したといった事まで説明があるらしいのには驚いた。
 今日のピアノでは広く常識となっているダブルエスケープメントは、まさにこのエラールによる画期的な発明であり、ピアノの発展に著しい貢献をしたという点では異論を挟む余地がないだろう。これによりピアノの連打性が飛躍的に向上したことで、エラールの名はピアノ史からその名が消えることはまずない。それ以前のピアノではキーが完全に戻らなくては次の打鍵ができなかったのに対して、この機構はキーが完全に戻らずとも次の打鍵が可能となって俊敏な連打が可能となり、それはとりもなおさずピアノの可能性や表現力の幅、果ては作曲にまではかりしれない影響を押し広げた。例えばラヴェルの「夜のギャスパール」のスカルボの冒頭に出てくる不気味な悪魔の連打も、このシステム無しには生まれなかった作品だろう。オンディーヌの出だしの冷ややかな水のさざめきも同様。
 
 マロニエ君はエラールの経験は豊富ではないから、あまり断定的なことは言えないが、まず驚くのはそのタッチの羽のように軽いデリケートな点だった。さらにはそのタッチにいかにも相応しい、ハッと息をのむようなやわらかな美しい音がフワッと飛び出してくるのにはつい気分が引き込まれてしまいそうだ。しかし音量は大型のグランドでもそれほど大きくはない。エラールの全盛期には現代のコンサートホールのような巨大空間での演奏は想定されなかったのだろう。
 しかし、その繊細でやわらかな音色は、現代のピアノに比べると、むしろ弦楽器に近いような気がしたものだ。一様に昔の楽器はどこかしら生き物から出てくる声のようなやさしみがあり、それがまた瀟洒な印象を添えていたことがうかがわれる。
 
 エラール使用のCDを聴いても、なにしろその優しげな音色と伸びやかな響きは印象的で、ドイツ系のピアノのような厳めしさや重厚さはないかわりに、愛らしい歌心のあるフランスピアノならではの特徴に溢れている。エラールのもつフランスのお菓子のような軽やかさと美しさ、バランスの良さは特筆に値する。
 しかし、プレイエルに較べるとはるかにクセが無く、良くも悪くも優等生といった印象があり、そのあたりもシトロエンとプジョーの関係に似ているように感じる。エラールの美点が全体のバランスと節度感、やわらかさだとすると、プレイエルはより際立った個性が表に立ち、音にもさらに明確なブリリアンスがあるのが最大の違いではなかろうか。それもパリの芸術家のセンスそのもののように、一歩まちがえれば下品の奈落に落ちるギリギリのところに平然と踏みとどまった危うさを伴ったブリリアンスだから、よけいに異彩と妖しさを放つ。
 その点ではエラールはそんな危険地帯には寄りつかず、もっと安定した確かな美しさに満ちている。
 
 ガヴォーについてはマロニエ君は実物に触れたことがなく、文章を綴るほどの印象はまだ無い。手許にあるCDはあまりにも疑問の残る音しか出さないピアノで、それがとてもカヴォーの実力とは思えないし、もうひとつはジョルジュ・シフラの古い映像で、パリのリサイタル(サル・ガヴォー?)でカヴォーのコンサートグランドを使っていたが、良くも悪くもこれという強い印象はなかった。この文章を書くついでにそのビデオをもう一度見てみようと思ったが、山と積まれたがらくたの中からとてもそれを探し出す自信がなかったので今回はやめにした。
 
 エラールを好んで使い続けたピアニストとしてはイーヴ・ナットが有名だろう。
 彼がもっとも得意としたベートーヴェンのソナタでは、ピアノはフランス的な軽さがあるのでおそらくはエラールだろうと単純に考えていたが、その後よく耳を澄ませてみるとすべてではなく、曲によっては響きの特性などからスタインウェイを使っていると断じざるを得ないものもあった。
 エラールのナット、プレイエルのコルトー、ベヒシュタインのケンプなど、いずれも晩年の録音にはあっさり宗旨替えしてスタインウェイを使うようになったために、録音技術が向上した晩年の演奏でこれらの名器の音色を存分に楽しむことが激減することになったのは残念という他はない。
 
 このような潮流にも抗しきれなかったのか、エラールのような歴史と伝統に彩られた優秀なピアノがなくなって、個性のない同じようなピアノばかりが世界中にはびこるのはなんともつまらない話である。
 
追記:ナットのベートーヴェンでは明らかに複数のピアノが使われており、到底スタインウェイとは思えないものがある。たとえば最後の3つのソナタ(Op.109-111)はエラールではないだろうか。それに対して同じディスクのOp.101はあきらかにスタインウェイであろうし、後期のソナタでいうとハンマークラヴィールも同様である。もう一つの特徴としては最後の3つのソナタではタッチの軽さが災いしているのか、いくぶん早めのテンポで弾き進められるが、スタインウェイと思われるソナタでは厳格なテンポになっている。