#41.ニコラーエワのベートーヴェン

 タチアナ・ニコラーエワ(1924年 – 1993年)といえばロシアの音楽歴史上にその名の残す大ピアニストの一人である。とりわけ有名なのはバッハの演奏で、ロシア(当時はソヴェート連邦)ではまだ主流とはいえなかったバッハを積極的に演奏し、ついにはその権威にまで上りつめた。また彼女は協奏曲だけでも60曲以上という膨大なレパートリーの持ち主でもあり、さらには自ら作曲もするという、その才能は当然ながら並外れたものだった。
 ショスタコーヴィチとの親交が深く、彼がピアノのために書いた最高傑作《24の前奏曲とフーガ》はニコラーエワによる試奏と意見によって推敲が重ねられて完成を見たと言われるし、この作品は彼女へ献呈されていて初演も彼女が行い、生涯4回にわたって録音したことはつとに有名である。
 
 また、ロシアではほとんど信じがたいことだけれども、1950年代あたりまでバッハと並んでベートーヴェンもそれほど音楽の主流となる作曲家ではなかったらしい。当時のソヴェート連邦は厳しい社会体制下が続き、自国にもあまたの優れた作曲家を擁する文字通りの大国ゆえ、音楽も「輸入品」に頼らずとも自給自足でじゅうぶんに事足りたということかもしれない。
 
 さて、そのベートーヴェンにいち早く注目し、その最高度の芸術性に魅せられて演奏に採り入れたロシアピアノ界の巨星にマリア・グリンベルクがいる。それまでもソヴェートでベートーヴェンが演奏されることは無いわけではなかったが、あくまでも散発的なものにすぎなかったらしい。そして、このグリンベルク女史こそがソヴェートで初めてベートーヴェンの32のソナタを全曲録音という偉大な業績を残した最初の人だった。あのいわばピアニスト大国といってもいいソヴェートで、ベートーヴェンのソナタ全曲録音がなされたのが60年代になってからというのも俄には信じがたい気がする。
 それに続いて全集を完成させたのがタチアナ・ニコラーエワで、いずれもが女性ピアニストだったという点も注目すべきだろう。あのギレリスやリヒテルでさえ全曲録音は行っていないのだから、この事実をなんと見るべきか。ニコラーエワ盤は83年とより新しく、それはモスクワ音楽院大ホールで行われた一連の全曲演奏会の様子をライブ録音したものとなる。これもソヴェートらしいというべきか、ほとんど(まったく?)修正らしきことを行っていないので、演奏にはステージでの一期一会ともいえる迫真性があり、ミスタッチもはっきりいって数多い。しかし、そんなことがまったく問題ではないほど、その演奏は素晴らしいし、その会場に自分がいるような広い気持で聴けるところが嬉しい。のみならず純粋に音だけでいうならば、実際の演奏会ではこれほどピアノの音をクリアーに正確に聴き拾うことは出来ないのだから、まさにスピーカーの前の特等席といった趣だ。
 更に嬉しいのは、ソナタ全曲のみならず、「自作の主題による32の変奏曲」「エロイカ変奏曲」さらには最後のソナタの後に書かれた大曲「ディアベッリ変奏曲」まで兼録されているので、ベートーヴェンのソロピアノ曲の大半が網羅されていることになる点も驚かされる。
 
 以前はこのディスク(メロディア・レーベル)を手に入れるのは至難の技で(グリンベルク盤はさらに困難だった)、手にしたときは感慨もひとしおだったが、最近では再販されてわりに広く出回っているようなので、苦労なく入手できるはずだ。この全集以外にも死の間際に録音された「熱情」と「ワルトシュタイン」やザルツブルク音楽祭で弾いた最後のソナタOp.111などがある。いずれも何度でも繰り返し聞くに値する極めて充実した演奏だ。
 
 ニコラーエワの何よりの美点は、音楽の重厚な生命感と演奏行為の実感が常に兼ね備わり、聴く者は確かな手応えを感じながら深い喜びに満たされるところだろう。しかもその佇まいや年齢からは想像できないほど、音楽は常に溌剌とした青年のような生気に満ちている。いかにも聴く者の眼前で音楽が紡ぎ出されるその瞬間瞬間に立ち会うような生々しさがあり、映画でなく芝居、印刷ではなく肉筆原画といった演奏そのものの実像感が充溢している。
 とりわけマロニエ君がこのピアニストを好むのは、大家だからといって枯淡の境地のようなものを芸術だといわんばかりに前面に出すことなど皆無で、あくまで現代のピアノの性能を余すところなく発揮させるべく壮麗で叙情的な演奏を熱っぽくする点にある。彼女は如何なる曲であっても、現代のピアノを朗々と歌わせる正面切っての演奏であり、これほどピアノという楽器を信じ切っているピアニストも珍しいのではなかろうか。したがってバッハやベートーヴェンを弾くにあたっても、チェンバロやフォルテピアノの影がちらつくことは皆無である。にもかかわらず、それが結果として作品の実像を赤裸々なまでにありありと描き出すのだから感嘆するほかはない。
 もうひとつ忘れてならないのは、女性としては例外的に肉厚な深いタッチ、そこから紡がれる充実した美しい音色である。もちろんその美しさは内田光子のような羽のような軽さや弱音コントロールでも、巧みな水彩画のような無限の色彩でも、あるいは精緻を極めたデリカシーの妙でもない。ニコラーエワの美音はつやつやとした油絵のようで力強くも弾力性に富み、鮮烈で瑞々しい。聴いていて、ピアノの音の美しさ、ピアノ音楽の美しさをいつも再認識させられる。表現はニコラーエワについては言い尽くされたことだが、壮大なロマンティックな情感が、オーソドックスな解釈の中で随所に見え隠れする。繰り返すがそのピアニズムは上記のような美音によって終始支えられる。
 
 早い話が、これほど美しく現代のコンサートグランドをなみなみとした響きで鳴らしきる人というのもそうざらにはいないと経験的に思う。マロニエ君は何度かニコラーエワの実演にも接したが、意外やレコードで聴くほどに壮大で華麗な力強い音を出すというのではなかった。曲目がバッハの平均律という事もあっただろうが、彼女の体格はどっぷりと貫禄のあるもので、ピアノの前に座ると視覚的にもえらく安定感のある姿勢となり、あとはほとんど上体を動かすということがなかった。まるで西洋の老女が暖炉の前でゆっくり編み物でもしているような、そんな落ち着きの中で淡々と弾き進められていくのだが、その光景とは裏腹に出てくる音楽は非常な力強さと威厳と若々しさがあり、尋常ではない説得力にあふれたものだったことを思い出す。
 おそらく彼女の美音は、その卓越した技巧やタッチによるものは間違いないけれど、加えてあの上半身の豊満な体つきが直接間接にあの艶やかな音造りに貢献しているものと思われる。
 
 マロニエ君がバッハに目を開かされたのは、まずなによりも天才グールドのあのモダンアートのような衝撃的なバッハ演奏だったが、その波がひと落ち着きした頃、よりオーソドックスなアプローチによってこれほどバッハが人の体温を感じさせる音楽家であると感じて親近感を持つようになったのは、ニコラーエワのおかげである。当時はまだ、バッハ演奏と言えば大勢を成していたのがヴァルヒャやレオンハルトやリヒターのような峻厳な司教のような正統派であった。まるで荘厳な教会建築を見るようで、素晴らしいとは思いつつ、親近感といったものは寄せ付けない厳格さが溢れていた。彼らの演奏はいまにして聴き直してみても賛否の分かれるところだろうが、当時は彼らがバッハ演奏の理想型とされ批判の対象にものなりにくかったことは紛れもない。
 
 そこに現れたニコラーエワのバッハは世の潮流を全く意識しない自然体のバッハだった。ことさらドイツの権威達と敢えて一戦交えることもなければ、反旗を翻すこともない、ごく普通に音楽に対して示す女史なりの冷静で正直なアプローチの結果だったように聴こえる。わけても彼女がバッハ演奏に対して貢献した最大の足跡は、バッハのロマンティックな表現だったのではないだろうか。現代のピアノの性能を十全に使い切った、情感に溢れるありのままの音楽がバッハの作品を通じて目の前に描き出された。
 
 そのニコラーエワがベートーヴェンを演奏すれば、当然ながらロマンティシズムあふれる壮大な叙事詩が現出するのは当然だろう。しかもニコラーエワの演奏は叙情性が優先されながらも、あくまで正統的な解釈から演奏がはみ出すことはなく、様式感を歪めたり主観に溺れることはない。それに加えて彼女独特の厚みのある美音が加わるのだから、まるでベートーヴェンの音楽が新鮮に目の前に現れるようだ。
 ニコラーエワの手にかかるとこれらのソナタ群が初期だの後期だのという意識すら遠退いて、ただ人間ベートーヴェンの独白の変遷として聴く者の耳に迫ってくるようだ。そういう意味に於いては現代のピアニストは情報過多の犠牲者というべきか、前期・中期・後期の弾き分けなどに必要以上に留意しすぎるあまり、自然な音楽の流れを欠いている場合があると感じる場合が非常に多い。前期のソナタを故意にハイドンのように、後期のソナタを精神修養の道場のような深淵な意味づけをする、いわば不正直に脚色された演奏が多すぎる。むろん私見だが、ベートーヴェンのソナタ演奏の流れが変わったのはブレンデルの二度目の全集が世に出て注目されたあたりだったのではないかという気がしてならない。
 ニコラーエワのベートーヴェンに戻ると、弾き慣れた曲とそうでない曲との間には多少の差が聞こえるし、もちろんある程度の出来不出来はあるが、とくに前期のソナタはとても頻繁に弾いたレパートリーばかりとは思えないが、その素晴らしさは特筆しておきたい。熱情や最後の3つのソナタなどはかなり弾き込んだ作品のようで、わけても30番などは出だしからまるでショパンをきいているような優雅に流れるような演奏で、第二楽章もスケルツォのようだ。また第三楽章にはベートーヴェンがいかにロマンティックな作曲家だったかということを否応なしに指し示され、涙なしには聴けない楽章であり演奏だ。多少の疲れが出たのか最後のOp.111の第二楽章は、この全32曲の最終楽章としての意味も考えるなら、あと一歩のテンポの抑制が欲しかった。
 
 ついでながら、マロニエ君がこの全集(全10枚)をさらに気に入っている点は、彼女の演奏の秀逸さのみならず、それをあますことなく正確かつ現場の臨場感までもそっくり見事に収められている録音技術だ。これはきっと録音の専門家にいわせるといろいろ文句はあるのだろうし、そんなことはわかっているが、オーディオマニアではないマロニエ君にしてみれば音楽的にもほとんど文句のない理想的な録音だった。別項でも書いたが、名のある専門家ほど聴いていてどうしようもなくつまらない、音楽の喜びとはかけ離れた矮小化されたケチ臭い、まるで盆栽のような録音をする人が多い。演奏どんなに素晴らしくても、ひとたびそういう録音をされたが最後、聴く喜びは半分以下に転落する。
 もうひとつは使用されたピアノだが、これまた本当に素晴らしいスタインウェイだった。
 スタインウェイといっても製造された時期によってその音の特徴は少しづつ違うものだが、これはマロニエ君の印象によると70年代後半のハンブルクだと思う。むろん83年の演奏だからそれ以前のピアノであることは必然だが、ハンブルク製の場合には第二次大戦後のピアノはどちらかというと豊かな響きを背景に渋めの音を出すピアノが多かったように思うが、それがだんだんと新たな輝きを持ち始めるのが50年代後半ではないだろうか。その時代のピアノとしては60年代の前半をもって最高潮に達したと見る向きもあるほど。続く70年代では経営的にも不遇の時期を迎えるが、ピアノ音はより現代的な要素を加え、奥行きのある鳴りの中に絢爛とした輝きが加わって来る。この時期のスタインウェイの音を聴いてこのピアノに魅せられファンになった人も多いのではないだろうか。
 
 ある技術者の言によると、多くのスタインウェイファンが抱く音の原点は、ここ10年ぐらいのピアノもしくは新品の発する音ではなく、概ね3~40年前の、ある程度弾き込まれた状態の音であるらしい。これはマロニエ君も同様で、この時期に聴いたスタインウェイの音色が最も強烈なイメージの土台になっていることは、自分自身を思い返しても容易に回想できる。
 このニコラーエワのベートーヴェンに聴くピアノの音は、かなりそのイメージに近いもの(やや新しい感じもあるが)のような気がする。すなわち多くのスタインウェイファンが満足できる範囲の音ではないだろうか。もちろん、戦前のモデルの音を愛する人には該当しないが、マロニエ君は個人的に最も好きなのは80年前後十年ぐらいの音だ。それがこの優れたホールと録音、さらにはニコラーエワの透徹したピアニズムによってベートーヴェンの大伽藍が鳴り響くだから、こんな喜びはめったにない。