#45.素人の芸術表現

 マロニエ君のブログに知り合いが問題提起をしてくれたことに機会を得て、このテーマについて書いてみる。
 そもそも素人に芸術表現ができるか否か。
 
 マロニエ君はある程度までならじゅうぶんに可能だと思うし、逆にプロならばそれができているかと言えば、これもまた甚だ怪しいものがあると考える。ちなみにプロは「プロ臭い」演奏はしても、本来の芸術表現をしている人はほんの一握りだとマロニエ君は思っている。
 そもそも芸術表現とは、演奏者自身に表現すべき芸術性が備わっているという至極当たり前の理屈が大前提となる。これには素人もプロも無関係だろう。
 
 したがって、素人といえども、その内面に何らかの芸術的因子が棲みついていることが必要であり、それもなくして芸術表現のみを欲するのは、ないものを欲しがる甚だしい身勝手といわれても仕方がない。稀に受験やコンクールを目的として、完成された演奏解釈を指導者から徹底的に叩き込まれることもあるが、そこには自発性も主体性もない強制の結果であり、本来の姿ではない。
 表現というのはまさに内なるものを演奏を通じて外に表すことであり、表層的な表現のモノマネをいくら訓練としてやったところでナンセンスというもの。
 
《不適性》
 もっとも無理だと断じたいのは、機械的練習にしか関心のない人、指の運動能力の上達にしか目的を持たぬ人、素晴らしい演奏を聴いても指さばきやミスタッチの有無ばかりを問題にする人、少し上をいってもどれだけ楽譜の指示に忠実に弾いているか、トリルの数はいくつだったというような事にしか関心がない人で、この手の人はいわば芸術的不感症であって、さっさとピアノ蓋なんぞ閉めて、スポーツなど他の芸事に精を出すほうが賢明だろう。
 ついでながら、この手の人ほど、口先では「音楽性」だの「作曲者の意図」だの「テクニックは表現のために必要なもの」といった心にもないありふれたセリフを繰り返すが、実際ピアノに向かえば指運動これ一筋なことは一瞥してわかる。本当に言葉通りのことをやっている人は本当に極めて多い。
 この手合いはとにかく指がよく回り、難曲の音符を通常より早いテンポで鳴らすことができることに無上の価値を置き、さらにはミスタッチをせず、楽譜にある指示記号などを機械的に従っていれば、それで優れた演奏が自動的に成り立つものだと信じ切っている。優れた楽曲は、本来の目的外であることろの指運動の披露と証明のために便宜的に使われているだけで、これは芸術作品に対する真に不遜な態度といわざるを得ない。 また、ピアノの演奏技術を武道や算盤の有段者のごとく捉え、どこぞの組織や営利団体が定めた技術レベルの何級などということに絶対的価値を置いているので、そういう事が拠り所で喜びなら、そもそも何のためにピアノなどするのか、まったくわからない。
 
《基礎の確立》
 学生時代、国語力を付けるためには一冊でも多くの本を読むことに尽きると周りから再三再四言われたのと同様、音楽を音楽的・芸術的に演奏するには良い演奏をできるだけ多く聴き込み、その経験を感覚的に積み上げること、これにつきるのではないか。付随的に机の勉強することも必要だが、まずは音楽の本質を理解し、音楽の真髄を自らの内奥に植え付けるという、一種の本能的な訓練が必要で、これが基礎であり根底に流れるべきものだと言えるのではないだろうか。
 良い音楽とは作品のことでもあれば、演奏のことでもある。作品と、演奏と、楽器が一体となり有機的に結合したとき、本物の音楽が姿を現す。
 最上級の音楽には、生命と生々しい息づかいが宿り、光り輝くような才能と個性が横溢し、主観と普遍性が交錯する。限りない自由と、厳格な制約とが必然的に手を結ぶ。
 ひたすら優れた演奏を聴いて明け暮れ、それを代え難い喜びとし、同時に他の芸術にも侵食しながらほうぼうの大海を泳ぎ回ることも当然ながら必要となる。必然的にそれに割く時間も相当のものにならざるを得ないから、例えば激務に明け暮れるような生活を送る人は、まずこの点で不利といえるかもしれない。
 芸術的素養を作り上げるには、労力も時間も相当量をこの点に専一に注ぎ込む必要があるだろうと思われる。例えば楽譜やCDはコピーで、本は図書館で、コンサートは招待券か最上階の隅の席、こんな浅ましい効率重視の気構えでは、芸術の根底が築けるものではない。
 
《資格》
 芸術界の住人たりえるには現実問題として時間もお金もかかり、ある種の贅沢と精神の地獄をかけもち役者のように往来する必要さえあるだろう。それは美醜の区別なく本物や物事の真髄に畏れず手を触れるということを意味するからだ。手を触れるや大やけどをするか、恍惚の快楽にいざなわれるか、そんなことはだれもわからないし保証できない。
 表現の根底となる自己の芸術的背景はこのようなことの積み重ねでしか得られないことと思われる。
むろん、経験さえ積めばいいというものではなく、それを敏感に吸収するための資質も不可欠であって、ある時点ですげなく線引きされ、入場を拒否されるのも芸術固有の冷酷な点である。もともと芸術世界というものは公平などといった道徳概念とは無関係の超越すべき次元のことなのだから。
 裏を返せば、芸術表現する人は、壊れやすい最上級の楽器のような感性を持っていなくてはならない。芸術的な演奏や作品に触れても、何も汲み取ることのできない無能な大根役者のような感性の持ち主なら、そこに望みはないだろう。芸術の持つ悪性の毒素や細菌に対して、それを跳ね返す分厚い皮膚や逞しい抵抗力は罪悪で、感染しやすく傷つきやすい崩壊すれすれの危険水域にある体質だけが見込みがあり芸術の弟子となる。
 
 芸術は学問とは違うから、努力さえすれば一定の成果が得られると期待すること自体、その第一歩からして間違いであろう。
 
 
《実践》
 上記のような資質があるとして、直接的な練習方法としては、まず第一に、自分の技量に余裕のもてる作品を選ぶことではないか。
 多くのアマチュアピアノ弾きの特徴として、自身の技術を資本とすると、とても手に負えないような大曲難曲に挑戦する傾向があることは、音楽表現を目的に置いた場合ではまったくの誤りであるといえる。偉大な作品を自ら弾きたいという単純な欲求は理解できるが、それでは持てない荷物を山と抱えて身動きがとれないのと同じである。もちろんアマチュアならどういう選曲をしようが楽しめれば良いという点では自由だろうが、少しでも芸術としての音楽に自分の演奏を近づけたいという志があるのであれば、まず自分の技巧を客観視することから始めなくてはいけない。
持てる技術に対してギリギリの作品を選ぶことも避けたいところだが、明らかにそれをオーバーした作品に挑戦するのは論外である。そもそも、その欲張った浅ましい選曲自体がすでに芸術的だとはいえない。
 
 曲が難しいと、指先と神経は複雑な音符を追いかけ回すだけで精一杯で、そんな弾き方をしていてはとうてい音楽としての息吹が生まれてくるわけがないのは誰が考えても明らかだろう。
 音楽的でも芸術的でも、言葉はどちらでも構わないが、要するに上記のような表現要素と技術的余裕がなければ高尚な表現行為など絶対にできない。したがって、芸術表現の研鑽のためには、まず自分にとって技術的に安全度の高い作品を選び、それを素材として表現の追求をすべきだろう。自分にとって書かれた音符を普通のテンポで鳴らすだけなら大して苦労のない曲をまず選び、それを繰り返し練習して体に覚えさせる。ここまでが料理で言う下ごしらえだ。表現の領域に踏み込むのはそれからだ。
 
 第一の訓練は、自分の演奏を極力客観的に聴く訓練だ。
 ピアノの恐ろしいところは自分の演奏が正しく自分の耳に聞こえていないことで、このために演奏はしばしば独りよがりの歪なものになる。自分の演奏を客観視できなければ欠点にも気付きようがない。
 多くの人が自分の演奏は「指」で聴いている。つまり指事情によって改ざんされた音だけを、甘ったるい善意の耳で聴いているから欠点がわからないわけだ。
ピアニストが自分の練習を録音して問題点の洗い出しに用いるのは、もっとも手っ取り早い方法かもしれない。
 自分の演奏を冷徹に聴き、欠点を認識し、問題解決に着手し、進歩を確認。それでもなお満足できない理想的な演奏が、絶えず自らの裡で鳴り響いていなければいけない。
 指先の事情でテンポが崩れたり、旋律の運びにもたつきが出たり、次のパッセージへの切り替えが立ち後れる(あるいは速まる)などするようでは、練習不足か技術不足という判定を自ら厳しく下すことだ。だからといってメトロノームなどを動かすのはマロニエ君に言わせればまったく無意味だ。なぜなら芸術的な演奏がメトロノームのカチカチいう音の通りに進むはずなどないのだから。
 あくまで作品の要求する音楽的流れと呼吸の中で厳格な拍を刻まなくてはならない。
楽譜の指示に従うことは当然だが、それが自分の自然な欲求と同意できるまで解釈を突き詰めることができなくては、必然的な抑揚や表情にはならない。
 
 パッと思いついただけでも、このような要件をすべて満たすような演奏を出来るようにすることが、芸術表現の成立条件としての実体だろう。また、それを実行したつもりでも結果はできていないことが普通であって、そういう努力と再挑戦の繰り返しが、音楽の練り込みである。
 その為には、技術的にやさしい曲を素材としなければ、この道の修行は一歩も進まないとマロニエ君は思っている。
 
 あるピアニストの著書に寄れば、例えばある時期の日記によるとベートーヴェンのOp.110の第一楽章の出だしの数小節の和音の音色と旋律のバランスを決定するだけでも、納得できるまでの試行錯誤に午前中すべてを費やすとあるが、芸術家といえる人のやっていることは、つまりそういう世界のものである。
 
 こういうディテールの仕上げにも細心の注意を払いながら、折々の自分に可能な完璧を常に目指すことを求道者のように追い求める行為を繰り返しながら、徐々に曲を仕上げるのだから、それはそれは生半可なことではないだろう。
こういう努力を続けるいっぽうで、冒頭に書いたように、絶えず最上級の演奏に触れて感性を磨き、自分の理想的な解釈を探ることも怠ることはできない。楽譜を眺めまわし、複数の良い演奏を聴き、曲を知悉することが、良否判断のものさしとなる。それほど良い演奏を聴くということは喜びであると同時に深い影響を受けて自己研鑽にもなることで、これこそ一挙両得ではないか。
 
《余談》
 世界的なヴァイオリニストであるイヴリー・ギトリスなどはこの逆の発想で指導をしており、自分の練習する曲は、同曲の他人の演奏やCDなどは極力聴かないようにと若者にアドバイスする場面もあった。その理由は人の演奏を聴くことで、純粋であるべき主体性に他者の解釈や考えが入り込むことを避けるということだが、まあ彼のような音楽的自己確立のできた世界屈指の音楽家ともなれば、それが弊害にもなるということだろう。同時に一級の演奏にはそれだけ影響力があるということの証明にもなるような気がする。だがしかし、それは一つのアンチテーゼとも見るべきで、我々素人はやはり優れた演奏を聴くべきであることにかわりはないだろう。 
 ホロヴィッツなどは、自分のレコードを聴くことはありますか?という問いに対して、即座にノーと答えた。「過去の自分に影響されたくないから」というのがその理由だった。ホロヴィッツのような瞬間ごとに鋭敏な感性が激しく化学反応を起こすような音楽を創出する人にとっては、常に何ものからも踏み荒らされない感性の純潔を準備する必要があるということだろうか。こちらも特異な天才であるが故の特殊な理屈であるが、いずれもやはり音楽は聴く人に少なからぬ影響を与えるという点では共通して示唆しているといえるだろう。
 
 だんだんと話に収拾がつかなくなってきたようなので、もうこのへんにしておきたい。
 要するに素人でもプロであっても、芸術表現を可能にする過程というか、成立の組立は同じ事だという気がする。プロが違うのは読譜力、暗譜の要領、そしてなにより指の運動能力と豊富な経験である。
 
 つまるところ、素人であっても正しい方向性を持って精進すれば、芸術的表現は可能だと思われる。もちろんプロのそれよりは制限はいろいろつくけれど、場合によってはプロを凌ぐことだって無いことではない。
 プロなんて言ってみても、芸術に対して真摯な姿勢でこれに相対している人ばかりではなく、俗で不純な動機が彼らを食い尽くしている場合もあるし、オリンピックを目指すようなノリでピアノを弾き、ステージに現れるピアノ弾きも多いのだから。現にあるピアニストはリサイタルのトークにおいて「ピアノは鍵盤の格闘技です」などと信じがたい言葉を吐いたが、まあこれが当人の本音なのだろう。
 そのような人達の演奏より、たとえ小品ひとつでも素人がはるかに芸術性の高い演奏をすることは充分ある。
 そこが音楽芸術がスポーツとは違う一面ではないだろうか。
 
 要は芸術を解する人なればこそ芸術表現は可能であって、それなくして虫のいい結果だけを猛練習の果てに掴み取ろうと夢見ても、それは無理だということだ。