#46.余裕の法則

 世の中には「他者をよく褒める人」と「褒めない人」がいるものだ。
 これは単なる性格上の差異などではなく、「褒めない人」には、得体の知れないマグマが渦巻いているものだ。
 
 これらに象徴される小さな心理劇には、人間のあらゆる実相が詰まっていることを感じることは少なくない。
 そこには人間心理の幾多の要素、大げさにいうなら人生そのものが、まるで高級時計のムーヴメントのごとく繊細な歯車をかみ合わせながら、音も立てずに絶え間なく働いている。当然ながらそこには心理のシステムが縦横無尽に機能している点が注目に値するだろう。
 
 マロニエ君が何を言いたいのかというと、人を「褒める」あるいは「褒めない」という一点を基準にして眺めるだけでも、その人を理解する上で大いなる助けになるということだ。
 ここが「マロニエ君の部屋」というピアノを題材に扱う場所であることから、甚だ恐縮だけれどもピアノ技術者を例にとって話をしてみたい。
 
 そもそも我々にとってピアノ技術者の要件とはなにか。むろん親切であるとか人柄のいい方であることは大切だが、何より重要な点は、その専門であるところの「技術」そのものであることは当然だろう。
 
 では、これといった明確な基準もないピアノ技術者の巧拙を判断する尺度は何か。 
なんらかのかたちでピアノと専門的にかかわる人でさえ、これを適切かつ正確に判断するというのは相当難しいのが実情ではないだろうか。
 無論、桁外れに上手い人と下手な人は、有無をいわさずわかりやすいのでこれは除外すると、最もわかりにくくやっかいなのはその頭と尻尾の間にあるグレーゾーンだろう。その技術は見えづらく、立ちこめる霧の中の小径のように、正確に捉えることがきわめて難しい。同時に大半の技術者がここに存在するといっていい。
 ここで尺度のひとつになりそうなのが、発言や態度に見られる他人への評価にありそうなことに数年前からマロニエ君はだんだん気がつき始めた。もちろんそれは技術に対する直接評価や正当な見極めではないことは言うまでもないから、あくまでも遊びの話としてお付き合いいただけると幸いである。
 
 ひとことでいうと、経験的に上級の技術を正しく持ち、自分に一定の自信が持てる人は、何事にも余裕があり、ガツガツしたところが無い、もしくはそのようなマイナス面が非常に少ない。こういう人は他者のことを気軽に良く褒めるものだ。間違ってもお手盛りの自慢話などせず、そういうことをする人間の見苦しさをよくご存じだ。
 余裕や自信のある人は褒め方にも自然さと素直さがある。それは同業者に対しても同様で、こういう人の口からは、あるときある所に調律に行ったら前の技術者がとてもいい仕事をしていて感心したとか、コンサートにいったらそこのピアノがなかなか良くて感心したとか、CDで聴いたピアノ調律が素晴らして勉強になったなどという言葉がすらすらと出てくる。 
 彼らは、他者を褒めたり感心したりすることで、なんら自分にキズが付かないこと、さらにはビジネス上もそんなことで不利益にならない事を本能的に知っている。しかし自分に自信のない人は、褒めたり感心ばかりしているようでは、自分はまだまだ下位に見られるという卑屈な恐れが常に意識の中で働くらしい。自分の力や評価に不満があるので、人のことを褒めることは彼我の上下を決定づけるようで、癪にもさわれば惨めを誘うのかもしれない。
 
 これがまだ修行途上の身なら将来を夢見て無邪気な発言もあるかもしれないが、プロとして仕事を始めて技術も評価もある程度定着してくると、出世にも限界が見え始め、人によってはだんだんにひがみっぽく恨みがましくなるのだろう。技術にめざましいもののない人は、それにつれて評価も相応のものに落ち着くので、仕事量も絞られ、経歴になるような派手な仕事の依頼もまずないのだろう。
 高等技術の持ち主はすべてが逆に作用し、評価も上がり、華々しい仕事を手がけるチャンスにも恵まれるだろう。ピアノ技術者に限らず、世の中大方がそういう図式になるものだが、だからとにかく仕事に花を咲かせ損なったが最後、陰に籠もった性格が形成されるのかもしれない。
 何を見ても、何を食べても、決して驚かず、認めず、平静を装い、否定することによってのみ自己主張する人がいるのと同じで、要はこれ、人間全般に当てはまる話なのである。
 
 一種の卑屈さから、インスタント食品やファミレスの食べ物を「おいしい」と素直に言えない人の、なんと多いことか! ひどい場合になると、インスタント、ファミレスという言葉や事実だけで、美味しいとは真実感じない場合もあるようだ。味覚だけに留まらず、そこには警戒の意識も機能しているようで、うっかり安物を美味しいなどと言おうものなら、そんな程度で美味しいと評するのは、普段ろくなものを食していないからというように見られることを極端に恐れているらしい。何事も不純で不健全な自意識の働きによって自分のグレードを嵩上げしているらしい。
 
 おかしいのは、そんな人ご推奨の品やレストランに行ってみると、まるでカッコだけのまやかしが実に多くて、却って驚かされることも少なくない。だからその手の人達にとってはファミレスが不味いのも、拘りのレストランが美味しいのも、どちらも気持的には本心であり真実なのかもしれぬ。
 味覚というのは、他の教育と同じで、幼年期からの経験がダイレクトにものをいう領域だ。本当に舌の肥えた人は、最高のものを常に求めるという事の一種の下品さ・貧しさも同時に知っているし、本物を経験すれば、それに較べたらどれも大同小異だと悟っているので、TPOを重んじ、何を食べても気軽に「美味しい」と楽しく反応すべきことを知っている。幼年期から美味しいものを食べて育つということは、こういう周辺の教養も併せて育まれるということではないか。言うまでもないが、審美眼に於いても全く同様のことが言えよう。
 なんでも最高のものを基準にしておけば、あとは全部ダメということになる。
 
 犯罪心理学でも述べられることだが、幼年期にかけられるべき愛情の不足した人間は、後年、人に対して警戒感や敵意、さらには残忍性・攻撃性を持つようになると言われるが、精神の構造形態はこれとどこか似たような気がしなくもない。
 
 自分の技術に自信のある人は、広い意味でもコンプレックスが少なく、まわりもその技術を理解して認めるので、待遇もよくなり友好的。ビジネスも順調で応分の名声も得て、自然に心に余裕が生まれるのではないか。褒めるだけではなく、所作や言動にも水の流れのような自然さがある。自分自身を粉飾し、計算された発言によって自分への評価をコントロールしようというような浅ましさがない。
 
 マロニエ君の知る範囲でもこれとは逆の人が数人おられたが、それはなんとも印象深いものがあった。いささか高慢な言い方をするなら、人間ウォッチとしてはこちらのほうがよほど興味をそそられる。
 彼らの口からは、まず「他者を褒める」ような言葉などはついぞ聞いたことがない。おそらく他者を褒めるということは他者を援護し、肥え太らせ、それはそのまま自分の被るべき損失のように感じているのではないか。褒めることがないばかりではない。言葉は巧みだが、言っていることは自分の間接宣伝と他者批判のオンパレードでとても疲れる。別に人の批判だから疲れるという意味ではなく、その根底にあるピリピリした貪欲さと緊張感がこちらに伝わって疲れさせられるのだ。
 とりわけ業界や同業者のことになると、いよいよその傾向には拍車がかかる。「ここだけの話だが」という話が引きも切らず登場し、自分の経験から業界の理不尽な事例や、愚かで憤慨すべき事柄がいかに社会のあちこちで際限なく繰り広げられ、それが大小の権力によってまかり通り、正直者は黙って耐え凌いでいるかという風をさりげなく聞く者へ送りこむ。そして自分はその正直者故に割を食っている側であり、それはそのまま善良な技術者という結論に達することで好印象を植え付けようという真にご苦労な目論見だ。
 
 だが、中にはその技がもはや芸術的領域に達している人もあり、それはほとんど希代の名優の芸を見ている観がある。
 例えば、態度物腰は柔らかく、不必要なほどに用心深げで腰が低い。
おまけに話好きで、ご自慢の誠実トークは人を惹きつけるための手の込んだ、いかにも謙虚ぶった話し方がまったく抜け目なく板に付いている所など舌を巻く。
 この人のキャラクターとしては、自分ほど純粋で処世術の苦手な者はなく、どんなに長時間でも耐久レースのように節度ある紳士的な態度をとり続けることができる、まさに善人の鑑のごとき趣である。ところが、言行不一致は直ちに本性を現し始める。曰く、行く先々のピアノの酷さには目を覆わんばかりに驚いてみせることしばしばで、その現実に心さえも傷め、嘆かずにはいられないというピュアな自分を演出。
自分はまるで傷ついたピアノの救世主のようで、これがビジネスという事実もいつの間にか消えているかのごとくで、せめて自分が関わったピアノの救済行脚をやっているような口振りになる。こういう意味のことを言うときの真に迫った神妙な語り口とそれを裏付ける迫真の表情などはちょっとした見もので、文字にすればばかばかしいかもしれぬが、実際には思わずつり込まれてしまう魔力がある。大半はピアノが悪いのではなく、悪辣な業者や低劣な技術者が儲け主義の仕事をするせいでそのような状態になっているのだと「聖人」は諄々と主張する。可哀想なのはピアノであり、それを使う他ない哀れな持ち主であるという現実が容認できない正義感の強い自分との対比。
 
 行く先々で言葉巧みに善良な自分を印象づけた後は、すかさず前任者の仕事を遠慮なく非難(言葉はソフトに)するが、この時点で相手はすっかり手の内に収まり、一種の軽い魔法にかかっているので、いちいち尤もだという気分で聞いてしまう。持ち主の不安を煽るだけ煽って、それが頂点に達したとき「大丈夫です」「安心してください」と静かに優しく語りかけ、今日を限りに自分がその挽回の任にあたるので、以降心配する必要はまったくないという、人の心をジェットコースターのように翻弄するやりかただ。聞けば相手が女性となるといよいよそのテクニックは輝きを増し、ジェントルな物腰にも拍車がかかるらしい。
 これではピアノ技術というよりは、別の技巧を使っているとしか思えない。
それでなくとも、今どきの時代にあって、調律ばかりはネットで片の付く仕事ではなく、昔ながらに各家庭に技術者が赴き、合法的に内部に入り込むことができる数少ない業種である。ましてや平日ともなると多くは主婦一人を相手に、いわば他人の男が堂々と自宅に上がり込み、サシで話ができるというわけだから、テクニシャンにかかれば悪質なことも可能なら、そういうことに免疫のない女性(男性でも)はすでに相手に心を捕まれたも同然だろう。
 専門家の立場を悪用し、不安感を煽り立て、自分ならその解決が可能で、そのような救いの手を差し伸べることができる自分と出会ったことはほとんど僥倖であったことのように思わせる、まるで怪しげな宗教か家屋の補強工事などに絡む詐欺団のような遣り口である。
 
 こんな人でも名のある団体や有名な一流ピアノの技術会員には抜け目無く属し、そういう肩書きをひっさげて毎日東奔西走しているのだから、かかわったお客さんや餌食にされる技術者達はたまったものではない。
 この手合いはもちろん、褒める人の正反対の例であり、まさに真綿で首を絞めるようにすべてのことを「けなす」ことで自分のビジネスに繋いでいくタイプだ。
まさにソフトな悪徳業者と見ていいだろう。
 
 まあ、これは極端な例だけれども、ピアノ技術者に限らず、「褒めない人」というのはいたるところに棲息しているものだ。こういう人は褒めるという社交術以前の問題として、褒めないことに歪んだプライドさえ抱いていることが多い。音楽でも、何を聴いても、演奏が、作品が、解釈が、あれが、これが、とにかく大半をダメだという人。しかもダメだというだけの専門知識と根拠を持っているんだぞという歪んだ自身と自己主張。食べ物でもありふれたものというだけで見下し、認めようとする意志そのものが欠落した人。こういう人は、一皮むけば自分に自信のない、ただのブランド指向だったり権威主義だったりするのだから笑いもするが疲れるものだ。
 「否定する」ということが、自分のレベルの高さに直結していることのように思いこんでいる人のなんと多いことか。
 そういう人達の共通点は肥大化したコンプレックスと認められたいという熾烈かつ慢性的な欲求である。
 それをどこか心の底では知っていても、公には絶対に認めたくない。
 
 極端な場合でなくても、自信のない人は、どちらかというと精神的に攻撃的である。常に緊張と恐れを胸の内に抱え込み、およそおっとりしたところがない。人を褒める/認めることは本能的に嫌いで、それでも褒めるときは大抵やむを得ない場合だからしぶしぶの一回きりだったりする。しかし、けなすときは自発性/積極性があり、自己主張の到来とばかりに生き生きしてくる。
 とりわけこの手合いの棲息密度が高まるのは、専門領域かもしれない。まったくの素人なら無邪気にもしていられることが、中途半端に専門領域に足を突っ込んでいるばかりに、その焦りは募る一方で、見ているだけでも疲れてくるし、こういう人と接触しているとすぐにはわからなくても、やはり後味の悪さでそれとわかる。
 こちらもこの手合いは本能的に察知できるので、質問したり反論したりすることはない。なぜならまるで弱者をいじめることと同然のような気配を動物的に察知するからだろう。
 
 特徴的なのは、複雑な心理の綾で、専門領域に於ける一定のプライドと劣等感が縺れ合うように一体化している点だ。隣り合う木の枝が絡み合ったまま成長したようで、互いに共存しているのか、ストレスを掛け合っているのか一向にわからない。
 こういう人は大抵普通の挨拶もあまりしないか、してもいかにも中途半端なものだ。挨拶というものはひとつには相手を快適にすることでもあり、互いの位置関係をはっきりと明確にするものでもある。きっとそういうものが肌感覚で嫌いなのだろう。
 
 褒めるということで話の口火を切ったけれど、ようするに無邪気さのない人というのは何かそれなりの訳や屈折があると見るべきではないだろうか。
だからマロニエ君は、無邪気でない人、他人を無邪気に褒めない人とは、さらに言えばさばさばと心地よい挨拶のできない人とは、できるだけ関わりを持ちたくないと思っている。
 結局、ろくな事がないからだ。