#48.今年聴いたショパン(2)

No.7[ニコライ・デミジェンコ]TV/CD
 今年2月にワルシャワで行われた「ショパン生誕200年ガラ・コンサート」の模様が放送された。アントニ・ヴィトの指揮によるワルシャワ・フィルとの共演で、2曲の協奏曲が演奏され、最初に第1番を弾いたのがこのデミジェンコだった。
 デミジェンコは実力派の立派な芸術家ではあるが、どちらかというとマイナーなタイプのピアニストで、このようなお祭り的なイベントにふさわしいピアニストとは思えないので、彼の起用はまずもって意外だった。いかにも地味な職人風の風貌は、歳を重ねていよいよステージの華といったものとは無縁になっており、ワルシャワでの記念すべきコンサートで華麗にショパン演奏を披露する大役にはちょっと場違いなその雰囲気に、会場もいささか不満げな様子に見えたのはマロニエ君ばかりではあるまい。
 漏れ聞くところによれば、この記念すべきイベントには錚々たるキャリアをもつ世界的ピアニスト数人にオファーがあったらしいが、知る限りでも数人が辞退するなどしたらしく、主催者も思惑通りのピアニストが連れて来られなかったという実情もあったのだろう。どうひっくり返して考えても、デミジェンコはこういうイベントで真っ先に名前の挙がるピアニストではない。
 4分近い序奏の後、深い和音とオクターブの跳躍で始まるピアノの出だしも、平均的な期待値からはずいぶん離れた、あっさりと枯れた感じの入り方で、これはちょっと…と危機感が募った。ところが曲が進むにつれ、この曲の本来の姿が徐々にだが切々と描き出されていくところはさすが実力者という他はなく、しだいにこちらの聴く姿勢も正されていく。耳が好意的になると音も思ったより美しく、ショパンのスタイルや語法もそれなりになかなかよく身に付いていることがわかる。随一という演奏ではなかったものの、これはこれで決して悪くはない演奏だった。
 あらためてソロのCDを引っ張り出して聴いてみたが、やはりこの人はショパンの音楽が大ホールに轟かせるものではなく、サロンのものであることを熟知しているように感じた。Op.19のボレロなどもかなり華やかには弾いているが、あくまで大向こうを狙った類のものではなく、スピーカーの前の一人に向かってプライヴェートに弾いてくれているように感じる点はショパンの作品に相応しい。
 ショパンの演奏に欠かせないのは「詩的」であることと「私的」であることの両方である。
 
 
No.8[エフゲーニ・キーシン]TV/CD
 上記の「ガラ・コンサート」でデミジェンコに続いて、第2番を弾いたのがキーシンだった。ステージに登場しただけで前任者とは違って、いかにもスター然としたオーラが溢れて、あたりは真打ち登場といった趣に包まれる。
 キーシンのショパンといえばいやが上にも思い出すのは、彼が12歳のときにモスクワ音楽院の大ホールで弾いた2つの協奏曲で、同意見の人はおそらく世界中に多いことだろう。とりわけ第2番は空前絶後とでもいうべき奇跡的名演で、国際コンクール歴もない少年が一夜にして世界の檜舞台に躍り出る直接的なきっかけになったのが正にこの曲だったといっても過言ではない。最近のキーシンはいやにもってまわった思索的解釈をぶち上げるかと思えば、無意味に力みかえって子供のころよりも子供のようにガンガン弾きまくるなど、いったいどっちを向いているのやらわけがわからないこともあるが、さすがにこの2番では、あの12歳のときのベースがしっかりと体の芯に刻み込まれているらしく、そこから逸脱することのない、大変充実したそれは華麗な演奏で見事だった。
 キーシンもはや40歳を目前にした年齢だから、昔に較べるとずっと落ち着きのある丁寧な表現が随所に見られたが、基本はしかし12歳のときとなにも変わっていなかった。いかなるパッセージに際しても一音一音が艶やかな美音と粒立ちのある深いタッチによって、懇切丁寧に叙情的に語られるところはキーシンのなによりの魅力だろう。会場の反応と拍手も、先の1番とはまったく次元の異なるもので、キーシンの手によってついにこのイベントに似つかわしい熱狂を引き寄せた観があった。アンコールは革命と7番/14番のワルツの都合3曲に及んだが、ソロでは最近の悪いクセが戻り、協奏曲の時に見られたしなやかな格調高い音楽が影を潜め、随所に異論を感じる部分があったのは残念という他はない。まあメインが上手くいったのだから良しとせねばなるまいが。
 因みに上記の12歳のときの演奏を聴いてみたが、これはやはり空前絶後のできごとであった。
 
 
No.9[マリア・ジョアン・ピリス]CD
 Op.58のソナタからOp.68-4の絶筆のマズルカまで、チェロソナタを含む後期の作品ばかりを集めた二枚組。
 実を言うとマロニエ君は以前同曲の最高の演奏のように絶賛され、やたらともてはやされたピリスのノクターン集が、内心では評判通りのものだとはまったく思っていなかった。たしかにどれもが非常に丁寧に扱われ、そこにはある種の精神的なものまで垣間見える演奏で、芸術家として極めて真面目な仕事だということは感じるのだが、この人とショパンとは、根底のところでなにか微妙なものが食い違っているようだった。それを感じてしまうと、何回聴いても、そこには弾き手と聴き手の間にどうしても和解のできない乖離があるままだった。
 ピリスはいつのことだったか南米に移り住み、自然派の生活をするようになったらしい。肌は日に焼けて浅黒くなり化粧っ気もなく、まるで田舎の漁師のような風貌になった。しかしそこで新たな心境の芽生えがあったのか、音楽に対するスタンスもいよいよ精神性の高まりを強めたかのように事ある毎に伝わっていたので、新境地のお手並み拝見という意味合いもあって新しいCDを購入したわけだ。
 
 たしかにそれまでのピリスとは違っていた。
 不必要なものが洗い流されたような清冽な音のきらめき、流れの美しさやデリケートな呼吸の移ろい、極限まで追い込んだセンシティヴな表現はさすがと思わせられる点もあり、ピリスがどこか厳しさの伴った新しい精神世界を切り開いたということは理解できる。
 しかし、全体として見ると、あるいは作品と演奏家という関係性で眺めると、過剰なまでの菜食主義者のようなストイックな音楽作りが、いささかお説教臭く鼻につく。自分の生き方としてなら一向に構わぬが、まるでショパンに都会生活やサロンを捨てさせて、土臭い田舎暮らしや農作業などを正しいと信じ込んでやらせているようだった。そんな前提があるから、ピリスの静寂の表現も本当の意味で生きた効果を生み出しているとは言い難い気がする。
 それはそれとして、内田光子とは違ったスタイルでの弱音域のコントロールの妙技と、それをささえ際立たせる決然としたフレーズのかけ方には、これはこれで感銘する。が、しかし、いかんせんスケールが小さく、ピアノは鳴らないしで、だんだん欲求不満になる。ピリス自身が小柄な女性ということもあるのかもしれないが、ダイナミックレンジが弱音寄りに大幅に移動していて、まるで音楽のミニチュアを聴いているようだ。 強弱の要となる中心音が小さくて総体としてもピアノが本体から鳴る直前のところですべてが処理され終わっている。いかにも女流の域を出ないピアニズムだが、驚くべきはその制約の中で少しも無理のない自然な音楽作りと精神性の高い芸術を確立している点で、これには素直に恐れ入る。ピリスの至芸は観賞できても、ショパンを聴くという意味では根底にあるべきものが永遠に違っている気がする。
 最も印象に残ったのは小犬のワルツ。これはマロニエ君の知る限りにおいて同曲の最高の演奏だと思った。ピリス自身がまさに小犬のようなピアニストというべきか。
 
 
No.10[遠藤郁子]CD
 遺作を含む全20曲のノクターン集。ある意味でピリスとは対極に位置する重厚きわまる演奏。極端なまでの入魂の演奏で、ショパン本来の洗練された流れやスタイルが大いにスポイルされてしまっているのは残念。この人なりのショパンへの敬愛の念は痛いほど感じるけれど、いささか的が外れているのではないだろうか。遠藤はパリへの留学経験もあるようだが、ちょっとこの演奏からは想像できないほど、フランスとかパリといったものとは掛け離れたものを感じる。こぼれんばかりの真摯な思いのたけを捧げても、あくまで片思いの演奏として終わっている。ここまで精神を研ぎ込んで挑む、暗い瞑想のような演奏には、ショパンの作品はあまりに垢抜けた都会的センスを要求し、宝石のように美しすぎる。
 かつて遠藤自身が生命にかかわる病に冒され、その際に体験したらしいなんらかの精神世界が、その後の生き方や演奏に投影されていると聞く。よくは知らないが立派な活動もしているのだろうし、著書の題名にも「いのち」やら「霊」といった文字がやたら目につく。それはその人の人生だからなんら構わないが、そういうセンスとショパンの音楽の「精神的コラボ」というのは、なにか噛み合わぬものを感じて仕方がない。演奏のCDジャケットで毎度見せる派手な創作和服(伝統的ではないの意)の出で立ちに表れる角川映画の横溝正史シリーズのような奇妙な和洋折衷趣味は、およそショパンの音楽の本質からはもっとも対極にあるものと感じる。趣味というのはその人の創造行為に大きな影響を及ぼすのだから。
 ピリスとは別の意味でショパンから華麗さや精妙なバランス感覚が失われているのが惜しい。一曲一曲があまり大仰で力み過ぎると、ショパンに不可欠の軽さやポエジーが無くなり、大げさな門構えのような曲になってしまうのは決してショパンの本意ではないだろう。ひとつひとつが説明的で、まるで苦悩する人間が重い荷車を曳いていくようだ。ショパンをあまり暗い精神論的に落とし込むのはショパンへの畏敬の念とは言えず、すなわち妥当な処理とは思えないのだ。ずっしりと胃に堪えるようなノクターンは、ショパンというよりはブルックナーなどを連想する。
 最も好ましく感じたのは転調の美しいOp.37-2。全体を通じてかっちりとしたな丁寧な書体のような美しさがあるのはこの人の美点だろう。本来ごまかしのない誠実ないい演奏をする人だけに残念だ。
 しかし人によってはこの20曲のノクターンを、静寂な茶室で立てられたお点前に恭しく供するように観賞することを好む向きもあるかもしれない。
 ピアノはカワイのEXだが、マロニエ君の好みではこのピアノはミスマッチ。EXにはショパンの求める甘美な音色が不足しているので、いいピアノだとは思うが、ショパンはできれば別のピアノで聴きたい。尤も遠藤自身はそのEXの渋い響きこそ自分の精神的ショパンには相応しいと考えているのかもしれないが。
 
 
No.11[コル・デ・グロート]CD
 マロニエ君はフォルテピアノという楽器のことはよくは知らないし、ただCDなどを聴くぶんには全般的にあまり好きではない。それよりは20世紀以降のモダンピアノのほうを遙かに好む。
 さて、このCDはプレイエルの1847年製を使っての演奏だが、しかしこのフォルテピアノは違った。現代人がよくわからないことをいいことにして、名ばかりのプレイエル(フォルテピアノ)によるCDはあれこれと聴いてきたが、これこそまさにプレイエルの音だと思えるものだったし、だからこそ嬉しい驚きだった。1847年ということはこの楽器が誕生したとき、まだ晩年のショパンは残り2年を残して生きていた。収録内容は作品番号を有するマズルカ41曲だが、これがまたなかなかの名演でもある。
 この楽器の音はショパンの本源に迫る明確な音色を持っていて、このようなプレイエルで弾くと、ショパンという生身の個人が直叙的に語りかけてくるようだ。かつてコルトーのショパンがあれだけの圧倒的支持を得たのも、その卓越した詩的で美しい演奏ばかりではなく、それを支えたプレイエルの華やかでシックな響きがあったからだとマロニエ君は確信している。コルトー晩年の演奏でスタインウェイを弾いたものもあるが、すでにあのセンスと輝きは、過去の残像以外には見出せない。
 フォルテピアノではプレイエルとはいっても、黴くさい骨董的な音ばかりが表に出て、あまり興味をそそられる音色に出会ったことがないのが率直なところだが、このCDでのプレイエルではまさにショパンの息づかいが聞こえるようだ。件のコルトーの弾くモダンピアノでのプレイエルの音にそのまま繋がっていく音色のまぎれもない原点がそこにはあった。演奏もちょっと文句のつけようのない見事なもので、ショパンのマズルカとはいかなるものかを、あらためて白紙から勉強し直したような新鮮な気分で聴くことが出来た。フレーズの上り下り、呼吸の妙、間の取り方、ほどよい繊細なルバートや多様な陰翳など、まさにそこには生きたショパンがある。グロートという人が卓越したショパン像をもって演奏しているのはいうまでもないが、ひとつにはこういう楽器を弾くことでショパンらしいイマジネーションが喚起されるということもあるはずだ。
 
 
No.12[マレイ・ペライア]CD
 ニューヨーク出身のピアニストながら、およそ30年前に展開されたモーツァルトやシューマンを中心としたきわめて優れた演奏は、およそアメリカ人とは思えぬ洗練されたデリカシーとセンスに満ちたものだった。その後ベートーヴェンの協奏曲もリリースされるが、ペライアの本領は精緻なピアニズムで聴かせるモーツァルトだった。当時はロマン派の作品も少しずつ弾いてはいたようだが、この人の演奏を聴いていて、直感的にショパンに真価を発揮するピアニストという気はまったくしなかった。
 ところが、このところ盛んに録音しているのがバッハとショパンで、なにか心境の変化があったのか、あるいはレコード会社の営業サイドの求めがあってそれに応じているのか、そのあたりはわからない。
 この人の演奏の特徴は、とにかく比類のない美音と正確でしなやかなタッチ感が絶え間なく続き、その瑞々しく華やか音色と音並びはモーツアルトの協奏曲などでは最大の武器となった。
 さてショパンであるが、マロニエ君はこの人のショパンと聞いてもあまり食指を動かされなかったので、コンチェルト以外ほとんど手持ちが無く、今年発売された5枚セットを改めて購入した。どれもが極めてストレートで美しく前進していく音楽となっており、彼の持ち前の美音と確かな技巧に支えられて、聴いていて大変ストレスフリーな演奏だと言える。そのぶんショパンの屈折した心理の綾や繊細な音色の移ろい、他を寄せ付けない孤高の世界とそこに潜む陰翳などは、無い。もともとペライア自身が大変繊細で美しいピアニズムの持ち主なので、彼の手にかかれば大抵の曲はつやつやとした輝くような音楽になる。
 そういう意味ではショパン独特の世界から注意深く引き出される傷つきやすい美の結晶ではなく、ペライア自身の美の形式に流し込まれたショパンといえるのではないか。技術は素晴らしく、上品さもあり、音もきれいと何拍子も揃っているが、しかし、ショパンのあの屈折した美の真髄に心底触れたいと願ったときに決して選ばれる演奏ではなかろう。予想通りの見事なプロらしい演奏ではあるが、ショパンを堪能するには、なにもかもが確実すぎて、ショパンに不可欠の、ある種の不安定なもの不確実なものの中からハッと目を見張るような何かが皆無であった。
 
 それにしても楽器の鳴りも、調整もまことに素晴らしいから、この人は楽器にもよほどうるさい人だろうと思われる。若い頃はアメリカという土地柄もあってニューヨーク・スタインウェイも弾いていたが(シューマンのダヴィット同盟等)、やがてハンブルクのスタインウェイだけを弾くようになった。ペライアのピアニズムには楽器によってムラのある、どこかアバウトな要素のあるニューヨーク製より、ガチッと堅実なハンブルク製を好むというのも頷ける。