#5.調律師もいろいろ

 調律師といっても巧拙様々であることは別項で述べた。
 あるときマロニエ君が偶然目にして驚いたことだが、某有名メーカーのショールームに用があってたまたま行ったときのこと、ズラリと並んだグランドピアノ群の調律を二、三人で同時にやっているところだった。まさか調律という作業を同じ場所で同時に何人もがやっていることじたい衝撃だった。さらにそのやり方はこれまで我々が長年慣れ親しんだ方法、すなわち中央のAを基準に調律師の鍛えられた耳と技術によって、順次音程をとっていくのではなく、それぞれの目の前にはノート型のパソコンがあり、その画面に映し出される曲線を見ながら淡々と事務作業のように調律を行っていたのである。見れば男女混合の若い人ばかり。

 機械で合わせる調律があることは、マロニエ君の知人がやはりこの手のソフトを使って自分のピアノの調律をして楽しんでいることもあり存在ぐらいは知ってはいた。事の是非はともかくとして、すごい時代になったもんだとその時は思った。これには良い点も当然あるわけで、ひとつにはパソコンのデータに基づいたばらつきのない調律が誰でも可能というメリットがあり、下手な調律をするより安定した結果は得られるし、使い方次第という点で単純にこれを否定するつもりはない。さらにショールームのピアノには商品としての均一性などが求められるだろうから、これはこれで効率の良いことかもしれない。
 とは言ってみたものの、やはりちょっと驚きの光景ではあったし、それを営業時間中に何憚ることなくやっていることに、クールに割り切ったメーカーの企業方針を見せられてようで、あまり見たくはない現場に行き合わせてしまった感は否めない。おそらく本物の調律師なら、技術者としてまだまだ成長過程にある若い人達が、そういうものに頼って調律をするなど、受け容れがたいことだろうし、彼らがピアノ技術者として本物への高みへ向かって登っていく人達ではないだろうと直感した。

 マロニエ君はべつにコンピュータが無条件にダメで、昔ながらの職人の勘と経験による仕事ならすべて良しと単純に言うつもりはないし、ピアノ技術者を苦行の精神主義のように捉えているわけでもない。
 しかし、ある意味では調律の世界ほど奥の深い玄妙な世界もないのであって、調律に対する様々な考え方とか、僅かなさじ加減一つ、ユニゾンの取り方一つで、ピアノはいかようにも表情を変える楽器であるのは事実である。ピアノ技術者のなすべき幾多の作業の中でも、究極的には、調律こそは極めればそれ自体が芸術の領域に到達できる唯一の精髄であり、大げさに言えば孤高の領域だろう。しかし、若いうちにパソコン画面を見て機械的に音程を揃えるような経験をすれば、いつまでたってもその道の芸術家は生まれることはないだろう。それはコンピュータを使う事そのものより、そういう安易性を体験してしまうことで、技術習得への姿勢や意欲、ひいては音への価値観や審美眼になんらかのマイナス影響があるような気がしてならない。芸術の本質はデータにはあらわれない領域に棲んでいる。その最も重要な勘どころや調律の多彩な可能性など、経験的に学び取っていくことを独立して修得することは不可能だろう。データに依存する習慣のある人は、データがないことにはからきし歯が立たないし、不測の事態に遭遇しても応用がきかない。
 ある高名な調律家は言う、「キッチリ合った調律ほど聞いていてつまらないものはない」と。
 確かにそうだろう。声楽や弦楽器は、音程を取ること自体が音楽表現上のテクニックであるし、その音程とは音楽の命じるまま臨機応変に微妙に変化したり僅かにズレたりするものだ。そういう技巧的余地が悲しいかなピアノ演奏には残されていないぶん、調律家はピアニストや演奏される作品を念頭におきながら、精妙巧緻な調律を施すことによって、ピアノに輝かしい生命感と表現力を与えている。

 そうは言っても、現実に会社に勤務すれば会社の意向に従わなければならない。会社は企業体である以上、当然ながら効率や費用対効果の判断にはさだめし厳格だろう。しかし本物を輩出する背後にあるもの、それはどうしても採算を度外視した価値世界であり、飽くなき修練と追求と労苦の集積である。
 同じ調律師といっても、かくもたどる道が異なれば、最後に行き着く先は「調律家」と「調律社員」ということになるのは致し方ないことか。