#51.ルイサダとCFX

 ジャン=マルク・ルイサダのリサイタルに行った。
ルイサダは率直に言うと、ピアニストとしてはあまり評価していなかったので、当初は行く気はなかった。とくにショパンのバラード全曲やアンダンテスピアナートと華麗な大ポロネーズというような予定プログラムは、この人の不安定な技巧で満足な演奏はとても無理だと思っていたし、マロニエ君は技術の低いピアニストの、無理をした演奏を聴く(見る)のがとても嫌なので、直感的にご遠慮しようという気持だったのである。
 
 ところが、それからしばらくたった頃、ヤマハから最新鋭のコンサートグランド・CFXが発表された。どうやらこのピアノはこれまでのCFシリーズの改良型のひとつというより、もっとドラスティックに生まれ変わったピアノのような印象があって強く興味がかき立てられて、これはなんとしても一日も早く聴いてみたい。そこで思いついたのがこのルイサダのコンサートだった。
 彼はここ数年というもの折に触れヤマハを弾き、レコーディングにまでCFIIISを使用しているので、もしやという予感が働いたのだ。さっそくヤマハに問い合わせてみると、予感的中、やはり当日はこのピアノを運び込んでのコンサートになるという回答だったので、これは何が何でも行かねばならないという気になった。
 通常はピアニストの演奏を聴くためにコンサートに行き、ピアノはそのための道具であるが、今回は逆で、ピアノを聴きにコンサートに行き、ピアニストはその音出し役というわけだ。マロニエ君にはごくたまにこのパターンがある。
 
 会場に入っての第一印象としては、遠目にはステージ上のCFXは従来のCFIIISとスケールデザインが一緒なので、ほとんどなにも変わりない感じがする。とくに大屋根の譜面台上のフタを開けたときの前後の幅が長すぎて、大屋根を全開にしたときにかかるこの折り返し部分が大きすぎて、舞台での大事な立ち姿であるピアノのプロポーションが鈍重である点も従来通りである。その他のディテールの新デザインは客席からではほとんど分かりづらいが、近づくと違いがはっきりする。鍵盤両脇のボディ外板上部の突き刺さるような形状、シンプルな足、ペダル部分などが、これまでとはまったくの別物になっている。デザインの良し悪しは別にしても、作りの美しさがつややかに滲み出て、そのまぶしいような質感があたりを払うようだ。
 ピアノのことは後述する。
 
 演奏はまったくもって予想通りというか、危惧した通りだった。
 ルイサダは技術が名声にまったく釣り合わぬほど危なっかしく、それでいて(それだから?)ちょっと異様とさえ言いたいほど粘着質な、ねばっこい節回しの演奏をこれでもかとばかりに繰り返す。あんなねちねちした演奏を2時間以上聴かせられると喉元が痒くなって、率直に言って非常に疲れる。この点は来ていた知人などもみな同様の批判があったが、中にはあんな演奏を「音楽的」だと勘違いする人もいるのだろう。
 音楽を聴く喜びではなく、神経に逆らう不快感に長時間さらされ、終わったときにはそれからやっと解放されたという心理が湧き上がるのが偽らざるところだ。
 フランス人であるにもかかわらず、フォーレのあの美しいノクチュルヌは、徒に伸ばしたり引っぱったりの無意味な表情をつけるので、ほとんど冗長なだけで何を弾いているのかわからなかった。むしろもっと集中的に知的にあっさりと弾き進むことが、この曲のあるべき姿とそこに散りばめられた詩情を際立たせることになるだろう。
 続くショパンは、当初予定されていたバラード全曲から当日は4番だけが外されていた。4番はバラード4曲の中でも最も難易度が高く、ほかの3曲も技術的にかなり怪しい演奏だったかったから、おそらくテクニック上の理由でキャンセルされたものと解釈する。理解に窮するするのは、ショパンのような完成された作品において、わざわざ和声上のある音だけとか、特定の音型を重要な内声ででもあるかのように極端に誇張して前面に押し出して、無意味に際立たせてみたりすることだ。そういう隠された声部にも意味があるのだと主張しているつもりなのだろうが、ショパンでは本来そういう目先の効果を狙ったアレンジはやるべき事ではないのが、あれほどの「ショパン通」になぜわからないのだろうか。シューマンならやり方さえ的確ならばこういう手法はある程度かまわないし効果も生むが、ショパンではむしろ御法度の部類だろう。
 
 後半も大同小異で、繰り返し語る意味はない。
 音型の単純なところでは決まって時間をかけて表現らしきことをねっとりやるが、音が混み合ってくる難所になると、たちまち言語不明瞭になり、ふわっとうわべで通過してしまう。この人のわかりやすい奏法は、ようするにほとんど曲を正統的なノーマルな状態で聴ける箇所がないことをも意味している。不足する技巧と解釈の辻褄を無理に合わせて、なんとか折り合わせようとしているが、そんな小手先のことで本物の音楽が表出できるはずもない。
 とりわけ奏法で疑問を感じるのは、まるで熱いものにでも触るように、始終忙しく手首を上下させることで、見ていてもストレスであるし、まるで手首が指の上下運動を代行しているようだ。あのような奏法では手首が物理の支点になり得ず、落ち着いた旋律の深いところを歌ったり、速いパッセージを安定的に弾くことも不可能だろうと思われる。 
 意外だったのは、アンコールでショパンの作品24のマズルカ4曲が連続して弾かれたことだった。これは時間的にも10分を超え、ちょうどバラード4番の穴埋めの意味もあったのでは?と思えた。最後にバッハのフランス組曲第5番からアルマンドが弾かれてコンサートはお開き。
 マズルカは今年発売されたCDよりは雑な演奏だったが、大曲でないぶん技術的にも多少の余裕が出て、この日の演奏では最も聴きやすいものだった。だが、バッハもやはり表情過多でげんなりさせられる。せめて最後のバッハぐらい俗を取り払って聴く者を清涼な気分にさせてほしかった。昨年同じものを内田光子が弾いたけれど、彼女のそれはまったく次元の異なる高尚な演奏だったことをしみじみと思い出させられた。
 視覚的に抵抗を感じたのが、アンコールを含めた全ての曲を弾くにあたって、やけに大きな楽譜を置くことで、かたわらに譜めくりを伴っての演奏だったが、これもソロのピアノリサイタルとしては抵抗を覚える。たしかに晩年のリヒテルや現役ではメジェーエワなどがこのスタイルを採るが、あちらはどだい腕が違うし、出てくる音楽もおよそ活きが違うから、それも止む無しという気になるぐらい音楽で圧倒するが。
 そもそもショパンコンクールに5位になり、ショパンのスペシャリストとして名を馳せたルイサダともあろうお方が、バラードのひとつやふたつ暗譜で弾けないはずはないだろう。
 
 
 さて、お目当てのピアノである。
 結論から先にいうと、新鋭CFXはこの日のコンサートで聴いた限りでは、想像以上に素晴らしい特級クラスのピアノだった。あれはCFIIISとはまったく別物と言うべきで、いわゆる発展型とか進化モデルといった類ではないと言えるのではないだろうか。車でいうならマイナーチェンジではなく、フルモデルチェンジの類だろう。プログラムはじめのフォーレのノクチュルヌの出だしの数音からして、ハッとするような、いかにも練り込まれた豊かな音だった。
 楽器としての基礎体力もずいぶん上がっているようで、従来のCFIIISが持っていた、どこか線の細い感じがなく、朗々と威厳をもってピアノが鳴っているところが心地いい。このコンサートが行われたホールは、いわゆるピアノリサイタルにとっては必ずしも条件の良いホールではなく、すぐに輪郭のぼやけるその音響には多くの不満の声が聞かれるところだが、その悪条件をもってしても実に明解によく鳴っていた。
 そしてピアノが大きく見えなかった──というのも鳴りの悪いピアノ、音の線の細いピアノというのは、黒い大きな図体が意味を成さず、ただの巨大な物体のように見えてしまうものだが、鳴りの良いピアノはその逆で、大きなパワーに比してピアノが寧ろ小さいぐらいに感じられることさえある。
 
 とくに印象的だったのは、音に華やかさと上品さが両立していて、うるさい感じとは逆の、とろみがあることだ。それでいて決して線の細い音ではなく、適度なパンチも効いており、非常に響きの良い「通る音」をしたピアノだった。その点では、ヤマハははじめてスタインウェイの領域に少し踏み込んだといえるのではないだろうか。
 クセのないくっきりとした美音でホールの空間が満たされるのは、かつてのヤマハでは一度も聞いたことのない新しい経験で一種の興奮を覚える。特筆したいのは、これまでのヤマハに見られたどこか義務的で冷めた感じのする無機質な鳴り方が姿を消して、音楽的な体温のようなものさえ感じたことだった。
 ヤマハのホームページ内の説明などでは、響板と響棒などが完全に見直された由で、支柱の形状なども異なっていたので、とくに「響き」という点には格別の心血が注ぎ込まれたのではないだろうか。
 
 低音域はかなり柔らかい響きを持った音質に感じたが、しかしフォルテになれば頼もしげな芯もあって支えるべきは支える力もじゅうぶんある。しかし、この低音域のやわらかさ故か、いささか低音側にボリュームが足りないような気もしたが、あきらかに不足していると断定するほどのものでもないので、この点は今後の推移を見守りたい。
 逆に、次高音が非常に前に出てくる感じがするのが印象に残った。日本のピアノはこれまでもどちらかといえばその傾向があり、次高音およびその前後が相対的に強めなために、安易に歌う演奏をしている気分になりやすいという特徴がある。その点、スタインウェイなどのヨーロッパの名器はおしなべてこのエリアのパワーが前後相対的に押さえ気味のような印象がある。ところが、演奏として第三者として聴いてみると、これが不思議なほどバランス的に良くできているので唸らされることしばしばだった。 
 CFXで低音とのバランスに若干の疑問を感じるのはこのような相対的な理由もあってのことかもしれない。
 それにしても、独特な豊麗な響きの土台の上に、やや輪郭のはっきりとしたデリケートな旋律が加わってくるところなど、まさに音が中空を浮遊するようで、その独特な美しさはこのピアノならではの真骨頂だろうと思う。

 CFXは良い意味での日本美の結晶のようなピアノであり、西洋音楽の楽器であるピアノにおいてこれだけ日本的なデリケートな美しさを実現できたことは、それがまさに国際性といえるのではないか。舶来品のコピーを脱して、いよいよ独自の個性を構築しはじめているのだとしたら、これは実に喜ばしいことだと言えよう。スタインウェイの真似ばかりしているうちは絶対に本物は生まれないと思っていたが、ついに独自の新境地を切り開く糸口を見つけたような気がする。
 舶来品のコピーでちょっと思い出したが、全体には日本的な繊細さと美しさを兼ね備えながら、どこかベーゼンドルファーの陰がちらつくことは最後まで否定できなかったことも告白しておきたい。ベーゼンドルファーがヤマハの子会社になったことは周知のことだけれども、やはりそのことによってヤマハとて企業なのだから、その製品作りの秘密を覗き、ていねいな研究がなされ、それがヤマハのピアノ作りにフィードバックされたとしても、これは何人たりとも否定はできないことだろう。
 全体に感じるやわらかなイメージ、全音域にわたって従来より格段にアップした観のある音の伸び、楽器としてのデリカシーなどは、まさにベーゼンドルファーの秘伝をこのピアノがそっと呑み込んでいる故の成果のような気がする。
 
 CFXは、おそらくはレコーディングなどに大きな人気を博しそうな気がする。
 これだけ欠点らしい欠点もない美音の揃ったピアノというのもなかなかないし、それが録音のような環境ではとりわけ強味を発揮するに違いない。繊細な表現を録音というコンサートとはまったく違う媒体に記録するというのは、ある種のタイプのピアニストにとっては大変な魅力だろうし、だいいちこういうムラのない完璧にコントロールされたピアノは、なによりも口うるさい音響関係のスペシャリスト達も好むところだろう。
 
 現時点で考え得る最大のライバルは何だろうか?
 まずカワイには気の毒だが、カワイのSK-EXは完成度の点で大きく劣っており、目下の敵ではないだろう。
 マロニエ君は直感的に真っ直ぐにぶつかると思えるのはファツィオリだ。というのは両者は目指すものが非常に似ていて、あとは両者の国民性と文化的バックボーンの違いの勝負だとも言える。
 ファツィオリの最終的なライバルがスタインウェイという程度になら、むろんスタインウェイも究極的にはライバルと言えなくもないが、直接対決はやはりファツィオリだろう。それでなくてもファツィオリの信奉者には叱られるかもしれないが、CFIIISの時代から、ファツィオリのピアノとしての構成要素が、ヤマハのある部分に通じるものがあると感じないわけではなかったマロニエ君としては、ここで一気に両者のライバル関係が克明になってきたように思える。
 
 そこでさっそくというわけでもないだろうが、今年10月のショパンコンクールからは、ファツィオリが公式認定ピアノとして追加されたようだから、これは必然的にワルシャワの舞台で、ヤマハvsファツィオリの激しいバトルが見られるということを意味するだろう。おそらくファツィオリは初参加を華やかに飾る意味もあって、いっそう豪華絢爛な派手な音造りをしてくるかもしれないが、ヤマハはなにものにも惑わされずに、ひたすら己の信じる道を進んで欲しい。
 
 以前(1980年まで)はベーゼンドルファーも公式ピアノだったが、CFXの成り立ちが上記の印象通りだとすると、ヤマハのボディの中にDNAとして30年ぶりに間接参加しているようなものかもしれない。
 ショパンコンクールには、スタインウェイはハンブルク製しか持ち込まないから、となると日・独・伊三国同盟ならぬ、三国バトルという様相になるということか。規模は小さいけれども、しかし現在これ以上の舞台はないだろうと思える勝負の機会でもあり、まさにピアノのワールドカップとでも言うべき側面が今年のショパンコンクールにはありそうな気がする。
 
 マロニエ君個人の印象としては、ファツィオリとの比較で言えば、少なくともショパンという特定の作曲家を演奏するためのピアノとしてだけならば、現在のところこのCFXが勝っていると思う。それはなによりもCFXの内的要素を含んだ内向きにも外向きにも変化のできる音質や、精妙でデリカシーに富み、奏者と親密な関係を作れそうなピアノであるという点が、ショパンの求める要素に合致していると思うからだ。
 
 現在このCFシリーズは3機種とのことで、価格もべらぼうなものだから、ホール需要は別としても、それ以外は果たしてどんな人が買うのだろうかという点ではどうにもイメージが湧かないけれども、もし将来、その核となるべき新技術がやがて普及品へもなんらかのかたちで降ろされて、効果的に広く活かされるようになれば、これはまさにヤマハにとって大変な新時代ということになるのかもしれない。
 こういう素晴らしいピアノが我が国から生まれたことは、ヤマハひとりの努力のみならず、日本の高度な文化の証、あるいは日本人のモノ作りの際立つ優秀性の証のようでもあり、素直に喜びたいと思う。