#52.ピアノレッスン

 憚りながら、マロニエ君はぜひにと言ってくださる方のみ、ピアノのレッスンなるものをさせてもらっているので、この点に自分なりの所見を述べておきたい。
 
 マロニエ君は現在の平均的なピアノレッスンの現場事情を網羅的に把握しているわけでは当然ないから、あまり断定的なことはいえないが、人から伝え聞くところによると、そこにはやはりひとつの特徴が浮かび上がる。
 そこでは(今も昔も)テクニックがレッスンの中心課題を占め、教材を使った指の反復練習、曲ではテンポ、ペダル、指使い、強弱などの表面的指導がせいぜいで、その奥にある曲の音楽的な表現性や、曲の解釈等に関する注意や指導はほとんどないというのが実体のようだし、経験的にもそれは察しがつく。
 最も大切だと思われる音楽に対するスタンスや音楽性の本源にかかわる部分、すなわち曲に関する音楽上の指導や意見交換、解釈に対する考察など、より平易な言葉でいうなら音楽に対する愛情とその愛情表現の方策がまったないまま、専ら楽譜上の音符を使っての指運動の道場のような印象である。
 これではまるで、「ピアノスポーツジム」とでも名前を変えた方がいいようだ。
 
 そのような教室では、先人の残した偉大な芸術作品ですら、単なるカリキュラムの一手段に過ぎない。本来の音楽の深い価値やそれに触れる喜びに生徒を開眼させる指導という、ピアノ教師の最も重要な部分に着手する意志も考えもあまりないことが圧倒的に多いようだ。ともかく指導者にその意志がないのだから、生徒にその芽が出るはずがないのは自明の理である。
 これはしかし、先生ばかりを責めるわけにもいかない、きわめて根の深い問題に帰結する。というのも先生自身が修業時代からそういう教育環境で育ってきているものだから、ピアノのレッスンとはそういうものだと頭から思いこんでいるという現実があるのである。音楽の本源的な喜びの確認とか、作品の核心に触れさせることがいかに重要かということを体験的にご存じないのだから、どうしようもないわけだ。
 単純な話だが、ピアノ先生と純粋に音楽の話をした経験のある生徒は果たしてどれぐらいいるだろうか。おそらくは絶無に近いものがあると察せられる。むしろ音楽そのもの話などしようものなら御機嫌を損じかねない。ピアノの先生とはえてしてそういう人達なのである。
 おまけに先生ともなればレッスンはいわば商売だから、いよいよその軸足は音楽の根本から遠ざかり、一人の生徒に手間暇かける余裕はない。より多くの生徒獲得とその効率的な消化に神経は集中するのだろうか。
 
 しかしながら、それは先生側の都合であって、ピアノが上手くなりたいと願って通ってくる生徒にしてみれば、たまったものではないだろう。こういう環境下で長く過ごすと、しだいに美しい音楽を美しいと感じる当たり前の心のセンサーが減退し、やがては死滅して「音が苦」などと揶揄されるのもじっさい笑い事ではなくなる。
 レッスンに用いられた曲は、先生およびレッスンの持つ殺伐とした雰囲気とセットになり「楽しくないもの」として刻み込まれ、それらの曲ばかりか、クラシック音楽全体を嫌いになるという最悪の道を経ることも決して珍しいことではない。ピアノ学習者がピアノを離れても、任意にクラシックを聞いて楽しんでいるという話はあまり聞いたことがない。多くは練習やレッスンから解き放たれるや、不自由な和服からパッとジーンズに着替えるように、音楽も流行のポップなものに早変わりするなどが多いらしい。
 要するにレッスンがちっとも楽しくないから、そこで関わるような曲にも愛着が持てず、しだいに敬遠するわけだろう。
 
 マロニエ君は今どきの音楽を否定する気は毛頭無いし、素晴らしいものは新旧問わず素晴らしいことは言うまでもない。しかしクラシック音楽は長い時を経て繰り返し奏でられ、愛聴され、受け継がれ、尚飽きられることなく生き残った人類の財産であり、いわば音楽美の結晶のようなものだから、それらがつまらない環境のせいでそんな位置付けになってしまうことほどもったいないことはないのである。あれだけの素晴らしい芸術作品の中から、たとえわずかでもピアノレスナーは自分の指でその音符を弾き、作品に直に接触し、自らの手で奏するという大変恵まれた状況にあるのだから、これは実は大変な幸運ではないか。にもかかわらず、心は刺激を受けることもないまま音楽は機械的に素通りしまう。こんなバカな話はない。これはマロニエ君にいわせればひとえに先生およびピアノ教育界全体がもつ価値観と環境の責任であると思うし、最も憂慮すべき大変な問題であるはずだ。
 美人を見てもさっぱり美人と感じないばかりか、毛嫌いするのと同じようなものだから、生徒の才能を引き出し伸ばすことが指導者の第一の責務であるにもかかわらず、まったく逆の不感症域へと追い込む加害者とでもいうべき現状は、考えてみれば恐ろしいことだ。
 ピアノの先生に接したお陰で、なるほど指は少々動くようになったとしても、こんな深刻な副作用があるのでは本末転倒だろう。
 
 こうしていつまでもレッスンの実情を嘆いたところで仕方がないが、ともかくこのような状況の中で、理想的とまでは言わずとも良質な指導者に出会うことは、別項で述べた優秀なピアノ技術者に出会うことよりも、さらに数段難しいことなのかもしれない。芸大や桐朋あたりまで行けば、中には素晴らしい先生もあるいはおいでかもしれないが、普通の市井のピアノの先生となると、その望みは絶望に近いものがあるだろう。
 マロニエ君自身も不味い文章を書き散らしながらしみじみと思うことだが、(1)良いピアノ(高級品という意味ではなく)を買う事、(2)良い主治医(技術者)に巡り会って、(3)良い先生に恵まれて音楽の素晴らしさに触れながら自分の技術を磨くという、この3つによって成り立つ総合的理想的環境を獲得することは、ほとんど奇蹟に近いような気がする。
 とりわけ学習者にとっての良い先生というのは、生涯にわたってなんらかの深い影響があり、その人のピアノと音楽へのスタンス、進むべき道をある程度決定づけるのだから、この存在は大きい。
 いささか極端に言うなら、良い先生の存在とは、音楽上の親と言って差し支えないだろう。子供が親からいかに多くのはかりしれない影響を受けながら成長するかを考えれば自ずと分かることだ。
 それがピアノの場合、好むと好まざるとにかかわらず教師の存在ということになる。
 
 優れた教師は、より直接的な指導に留まらず、本質的なものへの誘導如何によって音楽への目を開かせるかどうかにかかっているのだから、その影響は途方もなく大きいし、終局的にはそちらのほうが目先のテクニックなどより、よほど大事だとマロニエ君は思っている。
 
 さて、大半のピアノ教師は技術面の指導だけと言ったが、実はこれも誤りがあって、単に指運動と曲の消化にこれ尽きる。技術というなら、たとえば楽曲に即した音色やデュナーミク/アゴーギクを適切に使い分けることも演奏技術であるし、楽器の特性や可能性を感知すること、個々の楽器の状態に対する判断力、タッチコントロールや音色作りの問題、作曲家ごとに変化する解釈や奏法、これらもすべてひっくるめての総称がテクニックであり、スポーツ的に難曲を弾き飛ばせるようになることだけがテクニックではないことは努々忘れないでほしい。
 
 従ってマロニエ君の採るレッスンの中核にあるものは、曲の解釈とその表現のための具体的な考察と指導ということになっている。その流れのなかで出てくるテクニックや指使いはあっても、あくまで音楽のありかたに大半を費やす。よりわかりやすい言葉で言うならば、表現指導というものにこれ尽きるということだろう。したがって弾く人がどういうイメージがあって、どう弾きたいかという点も当然ながら考慮し、その中での最大限の指導と、明らかと思われる間違いの指摘になどに努めている。
 
 おぞましいのは、誰が決めたのか知らないが、ピアノの膨大なレパートリーが指運動のテクニック別に分類整理され、その等級如何によって演奏やレベルの尺度とすることなどだ。これは当人はもちろん親まで一緒になって、その等級にのみ関心を払い、どの曲はどれどれのレベルというような話を親同士が必死になってするなど、まったく音楽とはなんの関わりもない、柔道や空手の有段者のノリでピアノを語っている。
 
 
 さて、テレビなどで放映される現役ピアニストによる上級者向けのレッスン風景を見ていると、大いなる疑問を抱いてしまうことがあって(むろん勉強にある部分もあるが)、マロニエ君は実はあの手の番組はあまり熱心に見る気がしない。それは教師は生徒を前にして自分の好みや解釈を必要以上に押しつける場合が多く、同時に音楽の多様性への配慮と注意があまり感じられない。そういう押しつけはあまりやって良いこととはマロニエ君は思わないのだ。
 テレビ番組という性質上のこともあるのかもしれないが、生徒や視聴者のためというよりは、カメラに向かっての指導者による宣伝映像のようにしか見えないときがあるのはマロニエ君だけだろうか。
 
 番組の途中や最後に、先生自身によるレッスンと同曲の演奏の様子が映し出されるが──世界的ピアニストだからそれも当然だろうが──これがいつも見ものだ。視聴者にしてみればたった今しがた生徒に注意した幾多の指示が、ピアニスト本人の演奏によってさてどのように再現されるのかと思いきや、自身の演奏ではそれらは多くの場合無視されていたり、生徒以下であったりする。結構本人もそれどころではないといった風情で、やけに必死になって弾いていることがしばしばあり、これにはいくらなんでも唖然とするではないか。
 この面では、ショパンのスペシャリストもひどかったし、別番組の指揮者兼ピアニストによる巨匠のベートーヴェンでは、生徒も学生ではなく若いピアニストが起用されるなど、それはいかにも本格的な仕立てだったにもかかわらず、あれこれと尤もらしいことを散々並べ立て、果ては哲学論とか啓示的な話まで踏み込んで、自分の音楽的教養を披露していた。中にはなるほどと思う部分もいくつかあることはあったが。
 しかし、続けて放映される自分のリサイタルでの同曲となると、ちょっと同じ人物とは思えないほど手荒で雑に弾きまくる。はっきり言って生徒の演奏のほうが遙かに誠実で好ましいではないか!と思ったことは一度や二度ではない。ただ、彼は有名ピアニストで長年のキャリアがあるし、場所はホールだし、ピアノも大型のものに変わったりすると、無意味なことでもなにやら意味がありげで、長年の演奏者生活は自分を大きくありがたいもののように見せる術だけはしっかり板についているから、それにのまれてつい感心してしまっている向きもあるのだろう。
 このように一流ピアニストが必ずしも一流の演奏をするとは限らないし、ましてや彼らが必ずしも一流の指導者ではないというのがマロニエ君の考えである。もちろん生徒に弾いて聞かせるだけの確かな腕を持っていることは大事だけれど、要はそれも、なにをどう伝え、どういう指導をしたいのかという、指導方針と指導内容のほうがはるかに重要ではないか。
 どうかすると指導というより、プロとしての自分の優位性を周囲に印象づけるために、やたら達者ぶり、生徒との違いを強調的に弾いて聴かせる作為性を感じることも少なくない。
 
 音楽(とくにクラシック)には常に一定のルールと制約があるが、それでも尚、各人の多様な感性やイメージ、欲求も当然あるはずで、それを敏感に慎重に探り出し尊重しつつ、誤りはきちんと正しながら音楽のルールと波に乗せて生きた演奏にしていくこと、つまりそのための誘導をすることが指導する側の最重要課題だと思っている。初心者を別とすれば、メカニックの指導はこれら音楽的な指導と一体のものとし、必要に応じてやっていくべきではないのか。これはメカニックの鍛錬は疎かで良いという意味では決してないが、常に音楽と一体のもの、音楽が要求してくるものとセットになった必然が要求するテクニックでなくてはならない。
 メカニック──すなわち指の運動機能面にばかり感心を向けていては、最も大事な音楽への繊細で敏感であるべき感受性に、好ましからざる影を落としかねないように思う。その退屈な運動練習の延長上に楽曲も居並ぶことになり、美しい芸術作品までが苦痛の対象となるばかりか、それが元で、いつになっても音楽の魅力に惹き込まれたり、音楽美の虜になるという、音楽を取り扱う側としては最も大切な当たり前の心を失ってしまうことになり、これほど恐ろしいことはない。
 
 
 つまり、ピアノ指導者はピアノの技術指導はまあ当然としても、それ以上に音楽的なアドバイスを事細かにレスナーに示すことが大切である。音楽上の必要が納得できれば、レスナーは必然的に自分の演奏と技術がどう不味いかを自然に知るところとなる。マロニエ君としては、技術的な訓練は、スポーツ的トレーニングから発するのではなく、あくまで音楽の要求からのみその必要を感じるべきだと考える。それに応えるためにはどうすべきかを本能的に察知する機能を備えられるようにすることが指導者には必要ではないか。この機能が身に付けば、やがて自分で問題点に気付き、自分で間違いを正し、その一環として不足した技術を補うという有効な道筋ができるのである。そういう経過を辿った末の機械的練習なら目的も明瞭でやり甲斐もあるというもの。
 要は、最終的に自分に様々な命令を下すのは自分の耳しかない。
 この「自分の耳」を発達させること、これがピアノ教師の最大の仕事だとマロニエ君は考えている。そのような意味に於いても、指導者は音楽と技術を分離させ、専ら技術ばかりに偏るのはマロニエ君に言わせれば指導者の風上にもおけない先生ということになる。音楽的な指導がほとんどないという先生の話は昔から聞き飽きるほど耳にしてきたが、現在只今までその傾向に変化らしいものがみられないのは、根の深いピアノ教育の構造的な欠陥が、恒久的に全国津々浦々まで影を落としているようでなんとも嘆かわしい。
多くの場合は、技術的に正確に曲を弾くことが最大の関心事で、音楽的な表情や味わいなどは、必要最小限をあとから取って付けたように追加する程度なので、これでは良い演奏が生まれるはずがないではないか。
 
 また、その対極にあるのが音楽指導を旨とする大家ぶった指導法だろう。
 やみくもに自分の権威をふりまき、これといって具体的な指導もせずに、教師が生徒に対してあれこれと抽象的な意味不明な問いかけなどをして生徒を困惑させるのを楽しみような指導にも疑問を感じる。大抵こういう場合、すぐには答えようもないような直接音楽そのもののことではない予期せぬ、答えようのない様な形而上学風の問いであったりする。ときには芸術指導の名の下に小説や美術の話にまで及んだりして、自分の幅広い知識を誇示しているだけのように見える。そこまでの広範囲な芸術的造詣がないと、ただピアノだけ弾いていても本当の演奏は出来ないよと言わんばかりだ。答えに窮する生徒の姿を見て楽しむイジメのような質問で、質問それ自体が笑顔の下に隠された教師の自慢と、指導への無責任のように聞こえる。マロニエ君に言わせれば、そんなことは本人の言葉に言わせるのではなく、音楽を通じて生徒側が感覚として察知すべきことであるし、音楽の美しさから他の芸術分野への感心を呼び覚ますように導くのも教師ではないか。
 ひどいときにはまるで禅問答か精神分析のような態をなしていて、言っている本人が本気でそう思っているかどうかさえ疑わしい。ご当人でさえ、生徒の時代に同じことを言われたら、それを理解して演奏に反映できたなどとはとても思えない。こういうレッスンは一向に要領を得ず、進展せずで、まったく馬鹿げている。
 本人の能力やセンスを、音楽の正しい法則の上に融合させながら波に乗せていく作業が教師の本分であるにもかかわらず。そのためのアドバイスこそ教師のなすべきことだと言いたい。
 
 かといって、あまりにも細かな指示は却って本人の主体性を踏みにじる結果を招くだろう。注意点の羅列によって、音楽をするという自発性を摘み取り、ただ萎縮させてしまっては逆効果である。したがって同じ曲でも相手によって指導内容が異なるのは当然である。
 ピアノレッスンはある意味に於いて医療行為と同じで、体質や症状によって治療や投薬の方法が異なるように、生徒の個性や性格によっても処方を変えるべきで、画一的な指導は生徒のために最良の結果は上がらないだろう。
 
 とかく失笑してしまうのは、もっぱら機械的練習とエチュードや曲の消化にこれ努めるスポーツ型先生か、はたまたピアノにはほとんど触れず、延々と曲にまつわるエピソードや作曲者のどうでもいいようなエピソードなどを必要以上ふりかざして、さも高尚な指導をしていると思いこんでいる教師や有名教授などである。何のことだかさっぱりわからない類の抽象論ばかりを延々とまくしたてられ、作品への理解がこの上なく崇高なものであるという話をいくら聞かされてもピアノは上手くならない。
 
 ある人が言っていたが、昔のソ連時代のロシアなどでは教師は生徒を雛鳥のように大事に扱い、親鳥がエサをひとつ口ずつ雛鳥に分け与えるようにして、文字通り愛情と手間暇を注ぎ込んで、徹底して具体的に教えていくということだった。いわゆる西側と違って当時の社会主義体制だからこそできたことかもしれないが、ひとたび生徒が決まれば一週間のうち半数以上の日数を、3?4時間ほど教えているという。これは間違った勝手な練習をしないよう、ほとんど教師が生徒の練習を傍らで見守っていると言ったほうが正しいだろう。
 
 また著名な日本人ピアニストの外遊記などを読んでも、留学先(ヨーロッパ)でも記憶に残る名教師は、上記の抽象論遊びのようなことはまったくなく、いかなるときでも、曲の具体的な指導に終始したと書いている。それも強制ではなく、自分の考えはこうだがという断定ではない(つまり生徒にもそのつど考えさせる余地を残した)スタイルらしい。音楽にひとつの答え、絶対の答えなどあるはずないのだから、音楽を知れば知るほど、命令はできないことにあるのは必然であろう。
 ただし心しておかなければならないことは、ある名教師の至言。
 どんな場合にでも「正しい間違い」というのははっきり存在するということ。
 
 ピアノレッスンの本分は、極論すれば解釈にこれ尽きる。そして解釈に基づく指導こそが実践的な指導であり、専らそれの積み重ねである。したがってマロニエ君のレッスンも専らそこに重点を置いている。
 そして解釈が決定すれば、最終的には自分の身をその音楽の呼吸の中に置くことである。間違っても自分の呼吸に音楽を合わせるのではない。
 音楽そのものが生まれもつ呼吸を譜面から探り出し、それに自分を乗せて曲と同じ呼吸をしながら演奏すること。この点を繰り返し伝え、それを体得することをレッスンの最終目標としている。