#53.今年聴いたショパン(3)

No.13[ジャン=マルク・ルイサダ]CD
 フランスを代表するショピニストとしてその名を馳せる彼が、二回目のマズルカを日本(軽井沢大賀ホール)で録音したものがRCAから発売された。ルイサダの描くショパンの、随所に見られる儚くも美しいところ、なるほどと頷かせられるところがあることはわかるが、全体的としては再録の必要を痛感するまでには至らなかった。
 ショパンの美しさに対する敏感さを研ぎ込み、細やかに味わい、そのつど足を止め、留意に努めようとするのはわかるが、いささかくだくだしく、恣意的で、前の録音(マズルカ全曲・グラモフォン)のほうがまだ自然であった気がする。ひとことで言うなら抽象性が不足し、聴く者のイマジネーションに預けられる余地のない、多くを具体的に語り過ぎようとした演奏のように思う。これは彼の昔からのクセでもあった。
 ルイサダはなるほど一面に於いてはショパン芸術の熱心な擁護者であるかもしれないが、それはショパン全体のごくごく一面にしかすぎないとマロニエ君は感じる。とくに大切な線の流れや古典様式感がこの人には欠けていて、木を見て森を見ずの部分が多すぎる。ときには故意に流れを分断するような唐突な表現が飛び出したり、あるいはポリフォニー的な面への様々な試みや過剰表現などは、ショパンの多様性を表そうとしているのだろうが、逆に一元的な表現への断定に陥っているだけのようにも感じる。こういう一連の問題点は、ルイサダの名声には不釣り合いなテクニック上の現実問題も無関係ではないと思われ、テクニックの限界を解釈で補おうとしているフシが見られるのは致し方のないこととはいえ痛々しい。
 それでもこの人のショパンへの敬愛はただならぬものがあるようで、様々な究明と試みが繰り返されており、その点は素直に理解したいとも思うし尊敬もしよう。しかし、演奏家は演奏によって結果を出さねばならず、理想的なショパン演奏の本質として、ショパンの作品に不可避な節度をもった即興性、イマジネーションの広がりを想起させられるような要素が、聴く者の魂へと投げ込まれなければならないのではないか。投げ込まれた種は各人の心の裡で各々の芽を出し花を開かせる。ところが、ルイサダのそれはあくまでも自らの裡で作り込みすぎた、いわば手の入りすぎた完成品を押しつけられようとするところが、ときに暑苦しく、ショパンの自由な羽ばたきを阻害していると思える。
 とはいいながら、どうかすると本当に美しく輝く瞬間があるのもまぎれもない事実で、こういう点は高く評価したい。そういうときは心底ハッとさせられるから、まあ聴く側としてもこれらを相殺しながら聴かなければならないということか。同時に、このあたりがルイサダという人のいろんな意味での、精一杯の限界を見せられるような気がしてしまう。
 
 使用ピアノはヤマハのCFIIISだが、これはなるほどと思わせられる一面もあった。というのは、ルイサダのショパンに見せる繊細な演奏を表現するには、スタインウェイでは一面においてピアノが絢爛としすぎる部分があるだろう。基本的にスタインウェイの音は生まれながらに華麗な大舞台に適した性質をもっているため、ときにそれが奏者の意図するところを必ずしも正確に伝えきれないときがある。それと誤解を恐れずにいうなら、スタインウェイは基本的にピアニッシモ領域の静謐さを歌い込むピアノではないから、ルイサダにときおりみられる非常にデリケートな表現は、ヤマハの良い意味での日本美のやわらかさや律儀な正確さなどが功を奏しているようだ。機械的にも、精巧無比な頼もしいアクションが彼のやや自信のない指を、大いにサポートしているのだろうと思われる。
 
 
No.14[イヴ・アンリ]CD
 同じくフランスの、今日では代表的な扱われかたをするショピニストのひとり?
 この人の名が日本にも知られるようになったのは、マロニエ君の記憶ではここ2~3年のことだと思うが、紹介文によるとフランスではショパンの権威として知られる存在で、ほうぼうで独自のスタイルによるマスタークラスを開き、CD・書籍を出版するかたわら、ワルシャワショパン協会理事に就任、今年の生誕200年のプロジェクトに絡んだり、フランスからは学問騎士勲章を受けるなど、いわゆる純粋のコンサートピアニストというより、広範な研究や活動もこなす、学者肌のピアニストのように見受けられる。
 演奏はショパンのスペシャリストを自認しているのだろうが、まったくマロニエ君の好みではない。あまりに瞑想的自己陶酔的で、テンポは遅く、細部に表情をつけすぎていささか演出過剰の感がある。また表現が時として混濁して収集がつかなくなる面もあり、いまひとつの整理整頓とまとまりを求めたい。聴いている側は繰り出される演奏と自分の耳が乖離するばかりで、音楽にまったく身を委ねることができず、妙な乗り物酔いのような疲労感に襲われる。
 演奏家は聴く側の、いわば聴き心地というものもプロならば配慮すべきで、あまりにも独りよがりの、独善的なショパンという気がする。例えば「雨だれ」の出だしの旋律の3つの音も、それぞれに一呼吸づつするようなねばねばした調子だから、聴いていて演奏による誘いがなく、気が抜けるというか、もどかしくなるばかりだ。
 この人の経歴からして、まさかこういう一風変わったショパン演奏がフランスでは支持されているのかと思うと、ちょっと暗澹たる気分になるが、他のフランス人ピアニストのショパンを思い出して、そうではないと思いたい。
 
 ピアノは2種のプレイエルを使って24のプレリュードを弾いており、1838年のフォルテピアノと2004年のD280だが、揃ってマロニエ君の好みではなかった。1838年のフォルテピアノは先のグロートの使ったプレイエルとは比較にならない、古びてパワーのなくなった黴くさい骨董品の音としか思えず、これをもって作曲当時の音色の再現だとはちょっと思えなかった。
 新しい方は発展途上であろうか、コルトーの弾いていた戦前のプレイエルのようなきびきびとした華やかさや、軽快な中に潜む憂いなどの陰翳、音色そのものからくる個性と表現性の楽しみがないのががっかりだった。かなり現代的な要素が盛り込まれて重厚さと普遍性を備えているようにも思えるが、ひとことで言うならキレの悪い肥満体のような印象。それでもやはり音がやわらかで伸びがよいのはフランスピアノの最大の特徴だろうか。ただし現状ではマロニエ君としては到底満足できるものではないし、だいいちなぜあれほど極端なモコモコ音にしなくてはいけないのかまったく理解に苦しむ。これでは国際舞台で他社のピアノと互角に戦うには、まだまだ課題は山積というところだろう。ただし、ショパンに限っていえば、やはり潜在力としては好ましい方向にあるピアノという、あくまでも「予感」はするが、しかし予感だけではどうしようもない。
 
 
No.15[小山実稚恵]CD
 ショパンコンクールにブーニンが優勝、小山実稚恵が4位入賞してはや25年が経つのだから、マロニエ君も歳をとったということがしみじみわかる。
 小山がそれから25年目にして、ショパンの2つのピアノ協奏曲をポーランドのオーケストラと収録したCDが発売された。これには今年の同コンクールに小山が審査員として参加する節目でもあるということと関わりがあるのかどうかは知らないが、これまで相当数のCDを出しているにもかかわらず、この得意のはずの2曲をリリースしていなかったのは、ずいぶん意外だという気がする。共演はヤツェク・カスプシクが指揮するシンフォニア・ヴァルソヴィアというポーランドのオーケストラで、これはかの大ヴァイオリニスト、ユーディ・メニューインが創設した楽団の由。
 今回の録音ではショパン・ナショナル・エディションというヤン・エキエルが中心になって編纂した原点版ということになっているが、パッと耳につくのはオーケストレーションが従来のものと随所で異なっており、あるところでは異様に歯切れよく、またあるところではより分厚い響きとなり、さらにはこれまで耳にしなかった音があれこれと聞こえて、耳慣れたものとはずいぶん異なっている。この新しい版は「ポーランド政府が国家の威信をかけて取り組んでいる」とあるので、相応の研究や根拠があって到達したひとつの到達点なのだろうとは思うが、第1番の第1楽章などはオーケストラがいやに表に出てきて、マロニエ君などはまだまだ長年の慣れから脱却するの難しく、現段階では従来の版のほうがはるかに気品とまとまり感、ショパンに相応しい洗練があって好ましく思える。思い出すのは、クララ・ハスキルが演奏した第2番の協奏曲でも、ショパンのオーケストレーションが貧弱ということで、オーケストラパートを逞しく「補強」されたものだったが、これも最後まで好きにはなれなかった。
 
 さて小山のピアノであるが、さすがに若い頃から弾き込んだ曲ならではの安定感と見通しの良さが際立つ。彼女は今ピアニストとしても絶頂期にあるのか、長年ピアノを続けてきたテクニシャンだけが可能な、落ち着きと輝きのある充実度の高い演奏をしている。録音も秀逸で小山独特の肉の薄いメタリックな音色を聴くと、目の前に生きた彼女がいるようだ。隅々まで神経の行き渡ったクオリティの高い演奏は小山の美点だが、惜しむらくは全体にある種の無味乾燥を感じるのは昔からちっとも変わっていない。できればもっと深いところからくる優しみやふくよかな歌心が欲しいところだが、小山はもともと詩情的な演奏をするピアニストではなく、爽快な指さばきによる精巧な音並びの美しさで聴かせる人だったので、それを求めるのは無理な注文かもしれない。
 それにしても深い歌い込みの必要な箇所になると、決まって音量が落ち、やたらと臆病な表現になるところは小山に限らず、このタイプの人の共通した特徴で、アマチュアにも日本人にはとても多い傾向だ。残念な点はフレーズの語尾や装飾音の処理などに女性独特の粗さが残るのは、いささかショパンの作品とは相容れないものもある。小山の演奏の特徴だが、装飾音やそれに準ずる細かなパッセージはふしぎなほど意味を成さず、鋭くアクセント的に強まるのがいただけない。とりわけショパンのそれは、むしろより入念で柔らかな感受性を丁寧にあらわすべきところであるにもかかわらず。逆にテンポの速い終楽章などに小山の魅力が発揮されている。
 ※本録音では、現在ポーランド政府が国家の威信をかけて取り組んでいる由のエキエル編による原典版「ショパン・ナショナル・エディション」(PWM社)を使用している。日本では初めての録音。
 
 
No.16[ボリス・ベレゾフスキー]TV/CD
 今年のラ・フォル・ジュルネ音楽祭2010は、生誕200年を記念してショパンをメインテーマとしている。チャイコフスキーコンクールの優勝者にして、いまやロシアの中堅、ベレゾフスキーはこのところしばしば来日し、このラ・フォル・ジュルネ音楽祭にもお馴染みの顔となっている。今回はドミトリ・リス指揮、ウラル・フィルとの共演でショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏し、その様子がTV放映された。
 大柄なロシア男のベレゾフスキーも歳を重ねて年々迫力が増し、どこかふてぶてしさが出てきた。髪は短く刈りその表情や視線は妙にドスがきいている。ネクタイさえ無しで、ボタンを外した白シャツに上下黒レザーの三つ揃いスーツという、まるで内ポケットにピストルでも持っていそうなちょっとワルっぽい出で立ちで、およそショパンを奏する繊細多感な芸術家というイメージはなく、まるでアクション映画の脇役か、体を張って危ない取引でもする男くさい雰囲気で、だから、ピアノを弾いている姿もなんだか収まりが良くなくて、ミスマッチという印象が強かった。
 演奏もまたそのルックスの通りで、とにかく粗っぽく大胆でマッチョなもの。まるで嫌がるショパンを強引に別の世界に引っ張って行くようだった。テンポも妙に速めだが文句は言わせないという雰囲気。ほとんど丁寧さというものがなく、あちこちでかなり力任せに押し切る場面が多い。いかにも本人がこの演奏に真摯なエネルギーを注ぎ込んでいないということがありありとしているので、そういう意味では見ていて聴いていて、ちっとも有り難い感じがしないのはやむを得ない。いかにもぶらりと「ギャラ稼ぎに来たぜ」という感じだ。
 ベレゾフスキーは若い頃にはまだキッチリ弾いたCDなどもあるが、最近ではどれも大味というか、弾ける自分を武器にして、なんでも引き受け、なんでもそこそこに弾いてはお茶を濁している感じがする。それでも、大きな破綻などは起こさずに、とりあえずなんとか完了してしまうのは、変なほめ方だけれども、それだけの実力があるのだろうからある意味では大したものというべきかもしれない。しかし、ピアニストにそれをやってもらっても聴く側にしてみればなんの値打ちもなく、まるで仕事という仕事を片っ端から引き受けて、連日テレビに出まくるコメンテイターのようだ。せっかく打ち立てたボリス・ベレゾフスキーという名声を、今は自分自身で食いつぶしているように見えるのはマロニエ君だけだろうか。
 終わってみれば、上記のようなベレゾフスキーの印象は残っても、ショパンとしての残像はなにひとつ残ってはいなかった。完全にショパンからそっぽを向かれたということだろう。
 余談ながら、しかしあんなふうに、気楽に、勝手に、適当に、思い通りに、つまりぞんざいにでもピアノがバリバリ弾けたらさぞかし気分はいいだろうなあと思ってしまうけれど。
 
 
No.17[イド・バル・シャイ/フィリップ・ジュジアーノ/アンヌ・ケフェレック]TV 同じくラ・フォル・ジュルネ音楽祭2010で行われたリサイタルから、ショパンのソロコンサートの様子が紹介された。ここにあたえられたテーマは1830年~1835年に作曲された作品ということで、それを3人のピアニストが演奏する。
 最初にイド・バル・シャイのピアノで、この時期のマズルカ数曲とワルツ1番。バル・シャイはイスラエル出身のピアニスト。小柄ですこぶる椅子が高く、おまけに黒い座布団みたいなものまで敷いているのはなんだろう。演奏開始までにえらく時間がかかるけれど、始まってみればマズルカに関してはなかなかの好演であった。見ていてショパンの演奏に適している人だと思ったのは、非常に柔軟なタッチの持ち主で、必要に応じてやや太めの指がフニャフニャとタコの足のようにやわらかに動くが、そのせいでとても多様な音を使い分けがら、ショパンの心象の綴りようなこれらの作品を次々に披露する。とりわけ素晴らしいのは、弱音域での巧みな表現性で、息を殺すような静寂の中で、何通りもの音が巧みにコントロールされながら、ていねいにショパンを歌い上げていく。
 感心したのはテレビカメラの入ったラ・フォル・ジュルネ音楽祭のような巨大会場の演奏会にもかかわらず、まるで見えないカーテンをかけたごとく、きわめて私的な告白のような繊細なショパンを表現したことだ。ところがマズルカの好演とは裏腹に、ワルツでは一転して猛烈なスピードで飛ばし始めたのはまったく感心できず、マズルカでの演奏と同一人物とは信じられないようだった。勢い演奏も粗さが目立ち、説得力も失う。まるで音楽の早口言葉を聞かされているようで、なぜそんなに急がなければいけないものか…。
 
 二番手で現れたのがフランスのフィリップ・ジュジアーノ。長身だが内気な蒲柳の質の青年という趣で、どこか植物的。バラード1番のはじめの大切な第一音も芯がなかったし、なんとなくひどく緊張している感じがあった。しかし、曲が進むにつれて曲のフォルムは悪くないと思う。1995年のショパンコンクールでは優勝者なしの2位という経歴だが、指は逞しく廻る方ではないようだ。しかし、フランス人らしいよけいな贅肉のつかないスレンダーな表現はショパンには好ましいし、良い意味で強すぎない打鍵による均一感のある、ピアノから最も美しい部分の音を絶えず出し続けられる人だ。それは次のノクターン4番になるといよいよその強味を発揮する。
 ショパンはポリフォニックな表現を意識をするあまり特定の声部やアクセントをつけすぎると忽ち音楽がこわれるという意味のことをルイサダのところで書いたが、この人の安定性の高い美音はそういうところに落ち込む危険が無いので、その意味では非常に安心してショパンサウンドを聴いていられる。マズルカ/前奏曲もなかなかの演奏で、まるでフランスのピアノ(楽器)を弾いているかのようなほどよい「軽さ」があって、この二曲を聴いてちょっと見直した。ジュジアーノという人はいわゆるヴィルトゥオーゾ系のピアニストでないが、それなりの香りをもったショパン弾きだと思った。だからこれはこれで良いとは思うけれど、この人が1995年のショパンコンクールで優勝者なしの最高位だったという経歴があることを考えると、コンクール通過者独特な指の逞しさなどはあまり感じられず、なんとなくよくわからない気分になったことも事実だ。
 
 最後はアンヌ・ケフェレック。久しぶりにみたらずいぶん歳をとって、かわいいおばあちゃん風になっていたが、演奏は達者だった。フランス人のショパンが二人続いたが、やはりフランス人のショパンは根本的な部分で格別な何かがあり、演奏の直接的な良し悪しというよりも、文化的に最もショパンに近いものを感じさせられる点では否定しがたいものがある。世間ではショパンといえばポーランド、ポーランドといえばショパンという風になってしまっているが、その根底にあるべき演奏様式や、文化全般に貫かれるセンスという点では、マロニエ君はむしろフランスこそが真の本場だと思っている。ケフェレックもその例に漏れず、フランスのピアニストは本当にさりげなく澄んだ音を出すのは、いつもながら感心するところである。力まぬ良さというか、野暮や熱血とは対極にあるスマートの妙、尊敬と軽蔑が常に表裏を成す思考回路や生活習慣などから紡ぎ出されるフランス人の特質が、ショパンの音楽にピタッとはまるというわけだろう。ショパン自身も父親がフランス人であるだけでなく、後半生をそのフランス社会の空気の中で呼吸し、そこで衣食住をしながら生きて死んだのだから。
 
 
No.18[コンスタンティーノ・マストロプリミアーノ]CD
 ショパンの初期の作品(1821年~29年までに作曲された作品)集めた珍しいアルバム。マストロプリミアーノは1750年から1850年の作品を最重要レパートリーとするイタリアの鍵盤楽器奏者で、フォルテピアノを演奏することが多いようだ。ここで使われる楽器は、コンラート・グラーフの1826年製というウィーン製のフォルテピアノで、いきなり違和感を覚える。ショパンが使ったピアノといえば無条件にフランスのプレイエルやエラールであって、グラーフで奏するショパンというのは甚だ奇異な感じがする。ところが、敢えてこのウィーンの楽器を使っている理由は、このCDで弾かれた作品は、ショパンがパリに赴く以前に作曲したものであるため、その当時の彼はこういう音を弾き鳴らした筈だという、奏者の時代考証によるものであるらしい。…なるほど。
 曲が鳴り出すや、ショパンには聴き慣れないグラーフのポトポトとした、お化け屋敷で亡霊の弾くピアノのような音がとび出てきて、はじめは思わずギョッとする。どう聴いても音色がショパンにはそぐわないと感じるが、マストロプリミアーノの演奏が期待以上にショパンの演奏のツボを心得ているのは予想外で、しばらく聴いていると音にも慣れてきて、いつしかショパンが聞こえてくるから不思議である。ここにある作品はショパンが11歳~19歳までに作曲したものだが、どれもがまだ青い果実のような印象を残してはいるものの、どの曲にものちのショパンの咲かせる大輪の花の萌芽が予見できるのはひじょうに興味深い。やはり天才芸術家は、10代にしてすでにゆるぎない個性が確立しており、これは本物の天才すべてに共通しているところだが、わけてもショパンほどの希有な天才ともなれば当然のことだろう。この時期はソロではポロネーズ、マズルカ、ロンド等が多いのが特徴だが、2番の協奏曲をはじめ大半のオーケストラ付きの作品は二十歳前に作曲されたのだから、まともに考えれば考えるほど天才というのは恐ろしいものだ。
 このアルバムの最後には、ベッリーニの歌劇『ノルマ』より「清らかな女神」(ヴィアルド編)が収められている。ショパンがベッリーニのオペラをとくに好んでいたことはよく知られているが、こうして有名なアリアを器楽作品として聴いてみると、ショパンのセンスに繋がる、あるいは結びつく要素がとても分かり易く聞こえてきておもしろい。とりわけ洗練された旋律の流れや精緻な和声進行、感傷的な美しさなど、想像以上にショパンに通じる流れのあることは、オペラで聴くよりもいっそう明晰になっている。
 この一曲のみでもこのCDを購入した価値があったというものだ。