#54.ピアノの先生

 まずはじめに断っておきたいのは、努々これはピアノの先生批判が目的ではないということである。
 ただ世間では、ピアノの先生に対する認識があまりに間違っていると思わざるを得ない事柄が多すぎるので、それをマロニエ君の知る限りの事実をもとに、ピアノの先生の実体に迫ってみるのも無駄ではないだろうと考えたわけだ。
 
 親が子供に、あるいは大人のレスナーであっても、先生についてピアノを習う場合にはある一定の期待があるはずだ。しかし、その期待の中には、ピアノの先生に対する過信があって、どだい無理という部分も少なくない。それは期待が大きすぎるというよりは、むしろピアノの先生が実はそれに値するような存在ではなく、要は多くを期待すべき相手ではないということだ。
 これは本来、「ピアノレッスン」の中に織り込もうと思った内容だが、別に書いた方がいいと判断したので新たに文章を起こした。
 
 別にマロニエ君はピアノの先生を、自分の感情の上での好き嫌いで言っているのでは決してない。ただ、ひとつの平均化されたイメージは形成されていて、世間一般のようにピアノの先生に対する幻想はこれっぽっちも持っていないというところだろうか。
 ある一面において言うなら、ピアノの先生もピアノという偉大すぎる楽器に弄ばれた犠牲者でもあり、日本のどこかおかしいピアノの教育システムの中にすっかり足を取られて、ほとんどがその、何らかのマイナス要因を引きずりながら過ごしているという意味に於いては、深い同情の念さえ抱いている。
 
 ここに書くピアノの先生は、ごく平均的一般的なピアノの先生のことなので、あまり目くじらを立てず、一般論として面白く読んでいただけたら幸いである。
 言うまでもないが、一握りの例外的な先生がいらっしゃることはよくわかっている。例外はどんな世界にも存在するものだ。それはどんなに腐敗した官僚の中にだって、公僕として献身的に国家のために尽くしている人がごく少数いるのと同じだろう。だが、全体の話、平均的な次元の話をしようというときに、そんな例外をいちいち持ってきたって意味はない。
 ここでは100人中1人いる例外の話をするのではなく、99人のほうの話をしたいのだ。
 
 ピアノの先生というのは、社会人としてはきわめて特種異端な人種であるという印象は、マロニエ君が子供の自分から現在にいたるまで、一貫して変化することのない確たる根拠のあることである。これまでには自分が習うという立場のみならず、ずいぶんいろんな先生と大小様々の付き合いや接触があったけれども、どれだけ接触を重ねようとも、その基本認識は変わらないし、ビクともしない。むろんピアノの先生とて人間だから個人差もあり、性格もそれぞれ、考えも各人各様であることは認めつつも、やはりあの「ピアノの先生」という共通因子がその人の中心を貫いているのは驚く他はない。
 やっぱりピアノの先生は、それ以外の何者でもない。
 
 まず留意すべきは、ピアノの先生はおしなべて、視野の狭い、社会経験に乏しい、人間関係の下手な、閉鎖社会の住人であることは、ほぼ間違いないだろう。間違えてはならないのは、それは芸術家的風変わりとはまったく別次元のもので、どちらかといえば学校の先生等にみられる社会性の欠如面などに共通した因子が多く、さらにその上に音楽の専門家という先鋭化された特異性を置き重ねた存在、それがピアノの先生というわけだ。だから社会的に大別すれば、文字通り「先生族」に分類されるべき種族であることは間違いない。
 
 ピアノの先生が共通して抱えている問題点のルーツは、なんといってもピアノがあまりに偉大な孤高の独奏楽器で、しかもその無限ともいうべき技術/レパートリーの習得は、ほとんど不可能の次元ということに帰着するだろう。年端もいかぬ子供の頃から、ピアノという大きな楽器の大きすぎる課題を背負わされて、普通に遊ぶこともままならずピアノに向い、終わりのない無限の練習に明け暮れる。
 学齢に達すれば学校生活との両立に苦心し、途中下車すればまだいいが、そうでなければやがて受験を迎え、実力に見合った音大の門などをくぐることになるが、それでも厳しい練習はいつ果てるともなく続く。普通の大学生なら、合格通知さえ勝ち取れば、あとは楽しい学生生活を謳歌するという楽しみも待っているだろうが、音大、わけてもピアノ科の学生は年がら年中、レッスンと練習と試験に明け暮れる。
 幼年期~青年期の暗く孤独な生活経験が祟ってだろう、人付き合いも下手で、ピアノの人は友人も極端に少ない。そして、その挙げ句に、自分の努力と犠牲がいつの日か報われるという事ともほとんど無縁なのだから、考えてみればまことに不条理な世界に身を置いているというべきかもしれない。
 
 音大などを卒業してみても、一般の就職もままならない。郷里に戻るにしろ、さらに大学院や留学の道を選ぶにしろ、いずれにしても最終的にいわゆるピアニストになれる見込みは99%以上ない。これだけははっきりしている。なぜなら、本物のコンサートピアニストになることのできる、まず第一の資格は「天才であること」であり、天才ならば小中学生の頃からすでに騒がれて、早くから頭角を現しているはずだからだ。だから一般的な音大生活を過ごして、なおかつ辛うじてピアニストになれたという人は、まったくのゼロではないかもしれないが、これもまた例外中の例外であって、それはもしかしたら天才に生まれつくことに匹敵するほど、確立としては低い事ではないだろうか。
 さて、苦労をともにしたピアノと連れだってパッと道が開ける可能性もないまま、これまでやってきたことをなんとかして少しでも活かすべく、やむを得ず教えるということに活路を見出さざるを得ない袋小路に追い込まれ、こうしてまた一人「不本意なピアノの先生」が誕生する。つまり子供の頃から、将来は「ピアノの先生になること」を夢見て精進してきたわけではないのに、フタを開けてみればピアノの先生ぐらいしか、できることがないという厳しい現実を目の前に突きつけられるという流れである。
 
 ピアノの先生固有の不幸はいろいろあるが、その第一はピアノという楽器を演奏することにまつわる、際限のない苦難の連続から解き放たれることがないことだろう。ほぼ一生を通じて、仲間やグループといった単位でほがらかに遊んだり物事を共同で成し遂げるという体験も喜びの記憶もまずほとんどない、もしくは極端に少ないこと、ピアノ以外の価値に対する理解力認識力に乏しく、知らず知らずのうちに自分がやってきた努力や苦しみに高い価値を貼り付けるようになる。これが薄暗いプライドの第一歩のように見えてしまう。
 
 ピアノの先生は、いうまでもなく昔はピアノの生徒であった。
 しかし、そのピアノの教育現場というのが日本の場合、ほとんど音楽の本質に踏み込んだ指導がない。もうすこし分かりやすく言うなら、音楽に対する愛情と関心を持たせないまま、義務上の素材としてだけ音楽作品と関わってきているから、音楽ほんらいの喜びを知るより先に、拒絶や苦しみを覚えている。だから素直に音楽を深く愛する先生、言いかえるなら音楽上の幸福な先生というのは、現実的には限りなくゼロに近いほど少ない。
 
 そもそもの話、先生自身が音楽に対して心を閉ざして非常に冷淡なのだから、その生徒が音楽を好きにならないのはごく当たり前である。マロニエ君の知る限りでも、音楽が本当に好きで、自分の自由時間にこそ好きな作品を聴いて、その喜びに心を震わせているようなピアノ先生など、ほとんどお目に掛かったことはない。
 先生も生徒も親も、揃いも揃って、曲=レベルの代名詞であって、ベートーヴェンの何番とか、ショパンのエチュードがどうとか、バッハの平均律云々など、どれもこれもがレベル獲得の「課題」であって、どれが弾けるか、どこまで行ったかということにしか関心が払われない。およそ敬愛すべき作品、人生上の影響を受けた偉大な作品といったようなものとは、はるかにかけ離れた対象としての作品認識であり、まことに粗末な取扱いなのである。
 
 ピアノはいつも義務の対象であり、だからピアノの先生はいつも人生を悔いているようなピリピリした顔つきの人が多い。小さい頃からピアノという大きな楽器を相手に奮闘してきたのだし、それは生徒に置き換わったのみで今も終わっていないのだから、さぞやストレスも多いことだろう。コンサートや楽器店などでも、ピアノの先生というのは独特の匂いがあって、一瞥してすぐにそうだとわかるものだ。
 その点ではおなじピアノ先生でも大手の楽器販売会社の教室の先生などは、ちょっとピアノの弾ける単なる勤め人という立場だから、まだいくらか気楽な人も多いようだ。
 
 率直に言わせてもらうなら、一部の例外はあるにせよ、世にピアノの先生ほど音楽のわからない人、ピアノという楽器をびっくりするぐらい知らない人はいないだろう。驚くべきことだが、これはまぎれもない事実なのだ。
 とくに楽器に関する知識は皆無と言って差し支えなく、それで人からレッスン代を取って商売をしているのだから、その有りようはなんとも滑稽というか無惨というか、ちょっと言葉が見つからない。あれならば、ちょっとピアノに興味を持ったシロウトが、にわか仕込みに本を一冊読み、本気でピアノ屋巡りの2~3回でもしたならば、圧倒的にその人のほうが知識も耳も上を行くだろう。
 ピアノの先生ほどすさまじくピアノの事を知らず、ピアノの良し悪し、音やタッチの良し悪しがわからない人達はいないだろうというのは、いつしかマロニエ君の持論となった。音やタッチ云々の前に、そもそもピアノはキーを叩いたらなぜ音が出るかという初歩的な仕組みさえご存じないのではあるまいか。
 
 運転免許は持っていても、なぜアクセルを踏んだら車は動き出すかという機械構造を知らないのと同じだろう。車ならそれで構わないけれども、ピアノの場合は楽器であり、いやしくも専門家の看板をぶら下げているのだから、その発音機構も知らないではお話になるまいとは思うけれども、実際そうなのだから仕方がない。飛行機はなぜ空を飛ぶかという原理を知らないパイロットみたいなものだ。
 「キーを叩いたらなぜ音が出るか?」「そりゃピアノだからでしょ?」ぐらいが関の山だろうし、実際こういうレベルが本当に多い。
 タッチで言うなら極端に重いか、極端に軽いかの違い、音でいうなら極端にキンキン音か、極端にモコモコ音ぐらいの猛烈な差があればわかるかもしれないが、楽器の個性や持味の違いなんてとんでもない。わかるのは鍵盤のフタの真ん中についているマークの違いだけだろう。
 
 これを読んで、もし信じられない人がいたら、親しいピアノの先生などおられるなら、「キーを叩いたらなぜ音が出るか?」の質問をしてみられるといいだろう。合理的な答えが返ってくることがないことはマロニエ君が保証しよう。
 
 しかし、これは間口を広げると、ピアノの先生の無知どころか、その疑いはピアニストにまで広がってくるのだから、ますます問題は深刻だ。
 楽器通でも知られるピアニストのツィメルマンは、ピアニストにさえこういうことを言っている。
 「ピアニストには大きな問題がある。ピアノという楽器について本気で知ろうとしない。きちんとした知識がない。そればかりか、ときに、ナンセンスとでも言うべき、見当違いの意見をメーカーに伝えたりまでする。」
 
 ピアニストでさえこの体たらくなのだから、ピアノの先生のそれなど推して知るべしであろう。しかし、一般人や生徒の親などは、ピアノの先生はすなわちピアノや音楽の専門家で、そのために音大にも行っているわけだし、だから音楽のこともピアノのことも普通の人よりは遙かに詳しいはずと頭から信じ込んでいる。
 
 ピアノの先生は、実はほとんどピアノには興味がないから、長いことピアノを弾いているくせに、ピアノの良し悪しなんて皆目わからないのはもちろん、自宅にある自分のピアノのコンディションすら素人以下の認識しか持っていないということを我々は知る必要がある。とりわけ生徒の親にその認識は必要だ。
 調律師が調律(音程合わせ)以外にどういう仕事をするのかも具体的には知らないし、作業に際してこうしてほしいというような希望も何もなく、全部お任せであるのは、技術者の人なら一様に頷かれるところだろう。べつに太っ腹で「お任せ」しているのではなく、何もわからないからお任せする以外にないわけで、つまり選択肢を持たない人の、他人任せなお任せなのだ。
 調律師の話では、どんなに聞いてもなにも希望らしいものはないそうで、たまになにか言ったと思ったらまったくトンチンカンな内容だったりして返答に窮することもしばしばで、だんだん調律師も要領を心得るようになり、何も聞かないで、もっぱら自分の裁量で黙って仕事を進めることになることが多いようだ。
 
 以前も書いたが、ある人から聞いた話では、先生宅の二台のピアノがまったく異なる似ても似つかないタッチであることから、生徒の一人がなぜこの二台はこれほどタッチが違うのか理由を聞いたところ、返ってきた答えは「は?…調律師さんが違うからでしょ?」というものだったらしい。質問した当人は、もっとピアノ弾きとして意図するものがあって、あえて二つの異なるタッチに振り分けているのだと思ったらしい。尤もなことである。しかし、ピアノの先生にしてみればタッチの妙なんてよくわからないし、それはピアノや調律師さんが決めることでしょ?ということのようだ。まあ単純な重いか軽いかぐらいはわかるだろうけれど。
 
 そうとも知らずに、生徒の親がピアノを買うときなどには、専門家の意見がほしいということで先生に同行を求めたりすることがあるらしいが、これほど失笑を禁じ得ない最悪の人選もないだろう。いかに素人でも自分達の努力で選んだ方が、よほどましな結果が出るはずだ。
 
 しかるに「ピアノの先生」→「ピアノの専門家」だから「楽器としてのピアノにも詳しいはずだ」という図式が成立するらしく、いま読みかけているピアノの構造や調律に関する本の中でも、著者である東大工学部卒の音響やら何やらの専門家でさえ、やはりピアノ購入時は先生などに相談することを推奨しているのだから、この根の深い認識違いときたら、どうにも手の施しようがない。
 また実際にそうして先生のアドバイスのもとにピアノを購入する向きも少なくはないだろうと思われる。ただし、大半が大した失敗もなく事が済んでいるしたら、それは先生によるどんな不適切な助言や判断であるにせよ、日本の大手メーカーのピアノを購入するという最もありがちな結果であるならば、それは先生の無知を超越したところに、世界的にも非常に優れたこれらの企業が作り出すピアノが、品質として優れている事で多くが助けられているからであろう。
 これが例えば中国のピアノ店のように、文字通り優劣様々なピアノを置いている店などであれば、果たしてどんなひどいものを掴まされるか、想像してみただけでも恐ろしい。
 
 ピアノの先生は、とにかく小さい頃からピアノ(のキー)に触れるだけは触れてきているから、自他共にある程度ピアノの専門家という認識がなまじあって、いまさらピアノの良し悪しなど皆目わからないなどとは逆立ちしても公言できないのだろうと思う。しかし、おそらくは自分でもピアノの良し悪しなどほとんどわからないことは半分は自覚があり、あとの半分はおそらく何も考えてはいないのだろう。
 多くのピアノの先生達は良い楽器に触れたい、あるいは良い楽器とは何か、という根本的な問題に関する興味(というか、本来ならばそれは演奏者の本能であるはず)がまったく開発されないまま長い年月を過ごしてしまったために、いまさらちょっとやそっとではどうにもならない場所──感覚的にも能力的にも修正のきかない、楽器オンチとしての絶望的なところにまで来ていると言えそうだ。自宅であれ、学校であれ、とにかくそのつどあるピアノを疑問も感じずに、ただ無闇にバンバン弾いてきたのだろうし、興味の中心は指のスポーツ的発達のみにあったのだろう。
 
 ピアノの先生がピアノにこだわらない理由のひとつに、自分の音を聴いていないということがあるように思う。ピアノは他の楽器と違って演奏者によって音程を作る必要がないので、修行の第一歩からして自分の出す音を注意深く聴くという習慣がない。キーは押そうが叩こうが、音は必ず出る。すると指先のスポーツへと関心は向かってしまうのかも知れない。
 これは、もともとピアノが自分の楽器を持ち運びできず、さらに内部構造は100%専門家の領域で手出しが出来ないという、ピアノ固有の宿命も手伝って、楽器のことに心を通わす必要もチャンスもなかったという笑うに笑えぬ実情もあるのだろう。ピアノなど普通に弾ければ要はなんでもよく、ただ自分のテクニックが上達することだけを唯一無二の目的として生きてきた、そしてそのテクニックも上達しなかった。それがピアノの先生だろう。
 
 少数擁護派の人に言わせれば、ピアノの先生の中にも心から音楽を愛し、ピアノの良し悪しも区別の付けられる方もいらっしゃる!ということになるだろうが、マロニエ君に言わせれば、そういう方がまったくゼロではないというだけにすぎない。
 逆に普通の趣味人で音楽好きな方の中にピアノに詳しい方がおられても、マロニエ君ちっとも驚かないし、それは経験的にも知っているつもりだし、尊敬に値する方はいくらもおられる。意外なことには、とくに理系大出身の方や医師の中には、音楽や楽器としてのピアノに深い愛情と造詣をお持ちの方が少なからずおられることも併せて報告しておきたい。
 そういう方々の整然とした知識や確かな鑑識眼の前では、ピアノの先生のそれなど、まさに赤子同然である。