#55.アンドレ・ジッドのショパン

 「狭き門」などの作品で知られるフランスの文豪、アンドレ・ジッド(1869~1951年)はノーベル文学賞受賞(1947年)作家でありながら大変な反骨精神に富み、キリスト教の倫理道徳、スターリン、ナチズム、ファシズムなどあらゆる巨大権力に反抗する勇敢な人格の持ち主であったらしい。
 まことに不勉強で恥じ入るばかりだが、そのジッドが実はピアノの名手で、わけても大変なショパンの信奉者であったことは、ある一冊の本を通じてはじめて知るところとなった。
 ジッドはオスカー・ワイルドなどとも親交があり、ワイルドに関する著作も残しているが、ワイルドがショパンに関する極めて深い言葉を残しているのは、あるいはジッドとの親交の中から得られたものがきっかけであったのかもしれないなどと、いまごろ貧しい想像を巡らすばかりである。
 
 「ショパンについての覚え書き」というのがタイトルの、そのさして大きくない本は、ジッド自身がピアノを弾き、ショパンの音楽にじかに触れながら感じたところを、様々な角度から文章として書き留められ、綴られたものである。
 
 内容は6つの章に分かれ、冒頭の「献辞」の内容に思わず心が高ぶる。
 ジッドは青年時代にイタリアのカッシーノ山の修道院に一週間ほど滞在するが、出発する直前になってようやく院長との目通りが叶い、案内されて院長の居間へ滞在の挨拶に行く。院長は高齢かつ病で起きあがれないほどに弱っていたが、たちまち音楽の話に転ずる。
 それによると院長も音楽をなによりも好み、かつては自身でピアノ弾いたが、今はそれもできなくなり楽譜を読むことで音楽を楽しんでいるのだと話す。とくに横になるときは聖典書など読まず、楽譜を持ってきてもらうが、それはバッハでもモーツァルトでもなく、ショパンであることをジッドに告げる。
 そして、その理由というのが読者を鮮烈な感激に導く。
『ショパンは最も純粋な音楽です。』と。
 
───ジッドはこう続ける。
『これこそ私が敢えて口にする勇気がなく、年齢も格式も高いこの権威ある名僧の前では胸に秘めておこうとした言葉だ。しかも、この一見思いがけない発言は、ショパンが音楽会で演奏されているような、華美で通俗的な音楽ではないと思っている人々こそが納得し得るであろう。
 だが、一番の驚きは、これがドイツ人の口から出たことであった。何故なら、私はショパンほど非ドイツ的な音楽は存在しないような気がしていたからである。』
 
───以下、ジッドの語るショパンについての様々な言葉を紹介したい。
 
『私はショパンの作品にポーランド特有の霊感や閃きは感じているものの、その本質的なところでは、やはりフランス的な一面や様式を認めたくなるのである。』
───まったく同感で、このあたりからマロニエ君はこの本を読み続けることに一種の興奮を覚え始めることになる。昔から感じていたことだが、ポーランド人の演奏するショパンには一種の違和感を感じていた。あまりにも確信的な正統派ショパンというその自身が、却ってショパンに似つかわしくないローカリティと泥臭さを帯びていたからだ。
 
───ジッドはショパンを反ドイツ的な傾向にあると考え、ヴァーグナーをドイツ的な物の象徴として例に引いている。ヴァーグナーのドイツ的な理由としてその膨大さ等を挙げつらう。
『単に作品が桁外れに長いというだけでなく、あらゆる形式の濫用、表現の執拗さ、楽器の数の大幅な増加、肉声の酷使や楽想の過度の悲壮感を示唆している。』
『音楽はヴァーグナー以前から出来うる限り濃厚に、かつ強烈に、感情を露呈しながらことさら大胆に表現する傾向にあったが、その全ての誇張の展開を初めて廃したのがショパンであった。思うに彼は、もっぱら作品の規模を限定し、その表現手段を必要不可欠なものへと極めることに心を砕く。』
『譬えていえば、ヴァーグナーの様に感情を音にするどころか、音に感情を吹き込む。』
───これこそショパンの芸術を構成する核心であって、まさに膝を打つ思いだった。ショパンの音楽が精緻な織物のような美を湛えているのは、感情を音にするという手続きではとうてい達成できないものだろう。音はショパンの独創的かつ圧倒的な天分によって、音楽の法則に従い正確に配置されていったに違いない。
 
───そして
『ショパンより偉大な音楽家が存在することは疑う余地がないとしても、彼ほど完璧な音楽家は他にいない。』
 
『ショパンは独自の特異な宿命によって、弾き手が彼を聴衆に理解させようと努めれば努めるほど真価を認められ難い作曲家である。バッハ、スカルラッティ、ベートーヴェン、シューマン、リスト、フォーレなどは、多かれ少なかれ適切に解釈し得るし、少し不恰好に演奏したところで作品の意図が損なわれることはない。ショパンだけが演奏の質によって本来の楽想が歪曲されたり、根本から完全に台無しにされたりしてしまうのだ。」
───まったくその通り。だからコンサートにいってもショパンだけが満足できる演奏に邂逅するチャンスは滅多にないと経験的に言えるだろう。
 
『ピアノに向かうショパンは常に即興的な態度で臨んでいたという。すなわち彼の思いを絶えず探し求め、創意工夫し、少しずつ発見していくという風に。このような魅力的な躊躇いや恍惚は、作品が演奏されて徐々に形づくられて上で必然的に起こりうるもので、既に完璧で明晰、かつ客観的なものとして演奏されるならば生まれてはこない。
───マロニエ君が「今年聴いたショパン」のなかで、ロルティの演奏に感動できなかった理由がまさにここにあると言える。ショパンの演奏には隠された即興が不可欠といういうことだ。
 
『私には確信をっもって言う勇気はないが、ある種の緩やかさと不確実性をもって即興しているかのように演奏することが重要のようだ。』
『いずれにせよ、速いテンポ設定にありがちな、耐えがたくも確固たる自信に満ちた演奏をしてはならない。』
───これに該当するピアニストのなんと多いことか。嫌でも次々に錚々たる名前が去来して愕然とする。むしろそうではないピアニストの名を記憶の中から手繰り出すことのほうがマロニエ君にとってははるかに困難なことである。それにしてもジッドが言うからには戦前のピアニストの中にもそういう弾き方をする人が多かったということだろうから、これは甚だ意外である。
 ここでいう不確実性と即興の重要性は、多くのピアノ弾きがショパンを奏する場合に於いて、心しなければならないもっとも深いところにある問題で、言い換えるならショパンほど腕達者が確実な演奏をすることがお門違いな作曲家はないということではないか。このことが、いかに見向きもされないで大抵の場合が意気揚々と鍵盤を叩いていることか。同時にこのことは、ショパンがあれほど音符としては堅牢に出来上がった作品でありながら、演奏ではもろく壊れやすい作曲家であるということの根元の問題に触れているといえるのではないか。
 
『演奏は発見していく散歩なのである。』
『演奏者が前もって曲の展開を聴き手に予測させすぎたり、既に用意されたものをなぞっているのだと悟られたりしてはならない。』
───ショパンに限らず、大抵の音楽にはこの「発見」という楽しみが付与されたときに、その喜びは最高潮に達する気がする。発見は新鮮さであり、それのない音楽は姿形は見事でも、香りのない音楽の残骸に思えることがある。とくに名手とされるピアニストの中でもこの点にまったく無頓着な人の多いことに驚かされる。
 
『私は楽節が次々に弾き手の指先から生み出され、それが弾き手を超えて弾き手自身に驚きをもたらし、聴き手である我々がその魅惑の世界に招き入れられるように感じる瞬間(とき)が好きである。』
───音楽に関するこういう心の綾を、これほど明晰に言葉にしたものがあっただろうか。ピアニストにとってとくに難しいのは、指の厳しい練習を経ながらも、作品へのみずみずしい気持をどのようにして維持して行くかが最大の問題だろう。やはり指の記憶だけは若い頃にやりおおせるべきということか。
 
『ショパンにおける転調はそれぞれが凡庸でも予測可能でもあってはならず、その新鮮さと生み出されたばかりの閃きに対する畏れともいうべき感情や、状況が刻々と変化するような前人未踏の道を辿るときのわくわくするような密やかな気持が確保され、維持されていなければならない。』
───これも不確実性と即興の重要性に関する記述のひとつだと言える。これが凡人にとってもっとも端的に現れる状態が、名曲に飽きが来てしまい、より難解な捉えにくい作品などに興味をもつことがあるものだが、そこに一種の期待と興奮を覚えるのは、この予測可能という心情から距離を置き、己にとって未踏の地へ分け入って進み、なにかそこに新しい感動を発見したいからである。そういう状態をショパンのごとく知悉した作品の演奏によって、新たな感興を呼び覚ますことが何度でも可能な状態を作る演奏こそが必要だとジッドは言っているのだと思われる。これは具体的には、完成された演奏を聴き手の前にただ並べ立てるのではなく、作りたて料理のように、ピアニストによって下ごしらえの準備だけされた曲が、聴き手の目の前の演奏として、流れ出すと同時に完成を見るように仕向けなければいけないということか。
 
『ショパン弾きといわれる類の有名ピアニスト達を前にしてうっとりしているような聴衆は私を苛立たせる。いったいそこに愛すべき何があるというのだろう? ただの世慣れた社交辞令があるだけだ。』
───これは悪しき意味での聴衆とピアニストの同化であろう。知悉した楽曲に対しては、作品そのものへの期待より、演奏され自体の妙技あるいは芸術に精神的な求めの方向性を向けているのであろう。曲がどう立ち現れるかではなく、わかりきった作品をどう見事に処理するかという点が関心の的であり、ピアニストもじゅうぶんその事を心得ているといえるのだろう。いわば奏者と聴く者の馴れ合い芝居のようなもので、そこから幾ばくかの、演奏上の、発見と刺激を求めているのである。
 
『前奏曲第1番は、ショパンのあらゆる作品の中最も誤解されやすく、最も容易に台無しにされがちな曲である。しかもこの解釈の過ちは、私にとってはきわめて許しがたく思われるのだ。曲の冒頭に記されたアジタートを口実に、演奏家達は(私の知っている限り)例外なく激しい混乱したテンポで始める。最も澄みきった調性で始まるこの曲集の一曲目から、ショパンはこれほどに動揺した表現を本当に望んだのだろうか?─略─自由にのびのびと弾くべきで、そこには些かの努力や緊張も感じさせてはならない。』
 ───ジッドの考えは至極最も言わねばならないが、マロニエ君にいわせるとなぜこの第一番にアジタートの表示があるのかが今のこの瞬間もわからない。この第1番のもっとも重要なものはひとつひとつのベース音に応じるかのように内声が呼応して、さらにそれを高音旋律が追認していくべき透明な響きを伴いながら、ひとつの山を登っては下る音楽である。大半のピアニストはジッドのいうテンポもさることながら、主役であるはずの内声の呼応がまったく聴かれず、低音と高音が一緒くたにされた激情の上下降に終始する。マロニエ君はこの「最も澄みきった調性」という点には些かの疑問があるが、「最も済みきった表現」ではあるべきだと考えている。
 
『ピアニストたちの多くがショパンの曲を自己流のフレーズで区切ったり、勝手に句読点を打って旋律を歌ったりしているのは耐えがたき習慣である。ショパンの最も洗練された比類なき作曲技法は、まさにこの途絶えることのないフレーズや、一方の旋律的楽句が他方へといつの間にかすべり込むことによって、作品に川の流れのような外観が、ある時は意図することなく、またあるときは意図的に与えられている点にこそ存在し、そこに私は他の作曲家とは著しく異なる、彼の抜きんでた才能を見出す──』
───すべての作曲がそうだとは云わないが、ことショパンに限っては、その音符を自由な自己表現の素材として利用することは厳に慎むべきだろう。ショパンの書き残した端然とした楽譜は、壊れやすくもほぼ完璧な美の世界であり、それはつねに生体の血流のように、常に微動して呼吸しているかのようだ。それをありのままの姿で再現させるのさえ至難の技であるのに、ましてや身勝手な解釈をここに混入させようとは、なんたる冒涜か。
 
『(ショパンの)転調や和音を支配するのはいわゆる感情などではなく、音楽的に適合する正しい感性であり、感情とはひとりでに宿るものであると強く主張したい。』
───この著作の中でも最も感銘を受けた言葉のひとつがこれだった。感覚的には何かを察知していても、しかし、まさか転調や和音の支配が感情ではなく、音楽的に適合する正しい感性というのは、いわれてみればまさに完璧にその通りだけれど、自分ではついぞ思いもよらないことだった。しかし、たしかにその通りだろう。ショパンの作品を聴いて感じることは、ただの詩情の移ろいやセンチメンタリズムで終わることなく、根底にある才能の基盤が並大抵ではない堅固なものであることで、だからどの曲も宝石のような孤高の美しさと輝きを放っているのだろう。この点が、例えばシューマンなどとは正反対にあるショパンの特質といえるのではないか。
 
『私はヴァーグナーの人間も音楽も嫌いである。その激しい嫌悪は子供の時から募るばかりだ。この非凡な天才は人を感動させるどころか圧倒する。彼は多くの気取り屋の階級主義者や文学者、愚人たちに音楽を愛していると思いこませ、一部の芸術家に天分は習得できると信じ込ませた。ドイツはおそらく、これほど偉大であると同時に野蛮な人物を他に生み出さなかったであろう。』
───1908年だから第二次大戦前。ジッドはかのアドルフ・ヒトラーの出現を知らずしてヴァーグナーをこのように書いていることになる。だが、言い換えるなら、ヴァーグナーこそ音楽上のヒトラーであったのかもしれない。ドイツという国の風土は、似たような人物を繰り返し輩出するものだ。もっともヒトラーは厳密に云えばオーストリアの出身だけれども。きわめて高尚なものに対する純粋と憧憬の念、いっぽう強権的で貪欲な俗の権化のような部分も共通していよう。
 
『良い演奏とは全て、曲の解釈でなければならぬ。ところがピアニストは舞台俳優のように演奏効果を求めている。そしてこの効果はたいてい楽譜を犠牲にしなければ得られない。──略──芸術における驚きはそれが直ちに感動に取って代わらなければ価値はない。ところが多くの場合、驚きは感動を妨げるのだ。』
───つくづくその通りだと深く同意したい。演奏の意味は終局的には解釈にこれ尽きる。解釈の良い下手な演奏を聴くことは許容できるけれども、解釈の間違ったあるいは犠牲にされた指の達者な演奏は聴くに堪えない。メカニックが優れていればいるだけより解釈の問題点が浮き彫りになる。最近の若いピアニスト達の多くは、すでに解釈された音型を用いながら、その合間に自己顕示性を編み込んでいくという手の込んだ手法を採るので、一見解釈も尽くされているかのような体裁は取っているが、実際はいささかもそうとは言えない場合が多い。それを証拠立てているのは、ジッドのいう「直ちに感動に代る」か否かで、演奏がいかに精密で立派でも、必然性の裏付けがないものに感動などほとんどありはしない。
 
『最近、私を一番満足させてくれるのはバッハで、おそらく私は、その中でも彼の「フーガの技法」に夢中である。この曲はもうほとんど人間の存在を感じさせず、目覚めさせるものはもはや感情でもなく情熱でもなく、称賛なのだ。何という静けさだろう! 人間を超越した一切に対する、何という承認だろう! 肉体に対する、何という蔑みだろう! 何という平穏だろう!』
───冒頭の修道院の、ドイツ人の院長が晩年までショパンを愛したのに比して、ジッドは生涯ショパンを愛し続けた情熱が、次第にバッハに向っていったということなのだろうか。様々な音楽を旅してきた者が、次第に収束されて最後に到達するのがバッハなのかもしれない。フーガの技法はバッハの未完の大作であるが、ショパンも晩年の作にはわずかではあるが対位法の要素が散見されるけれど、これもまたショパンがバッハの領域に到達しつつあったということなのだろうか。もちろんそれはマロニエ君にはわかる由もないが。
 
 いずれにしても、この一冊は、コルトーのショパンを聴くことと同じように、それに触れる前と後では、ショパンの演奏に対するスタンスの何かが、どこかが、確実に変化している自分に気付かされる。