#57.今年聴いたショパン(4)

No.19[マウリツィオ・ポリーニ]CD
 70年代の中頃、ペトルーシュカとプロコフィエフのソナタをひっさげての、彼の本格デビューは全世界に猛烈な衝撃を与えた。続いてショパンのエチュードやプレリュードがリリースされ、そのギリシャ彫刻のような解釈のもとに繰り広げられる驚異的な技巧と完璧を思わせる演奏は聴く者を身震いさえさせた。このポリーニと、いま一人のアルゲリッチ、この両者の登場によって、世界のピアニスト勢力図は一気に書き換えられ、葬り去られたピアニストも少なくはなかった。それから30年余、ポリーニは60代後半の老境を迎えたが、指の衰えは想像以上に大きかった。
 最新のショパンアルバムはOp.33?38までのソナタ、マズルカ、ワルツ、即興曲を集めたもので、企画としてはなかなか面白いが、演奏はそれなりに美しいだけのまったく面白くない期待はずれなもので、ポリーニが今なにをどうしたいのかさえまったくわからないものだった。少なくとも昔のポリーニ・ショックを味わった世代には、ある種の痛ましささえ覚える。マロニエ君がはじめにポリーニの技術の衰えを感知したのは、2回目のベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲を、アバドとのライブでリリースされたときだった。おそらくこのときポリーニは40代であったから、衰えの始まりはかなり早期に訪れたといえるわけで、ひょっとするとなにか身体上の故障なのかもしれない。全盛期のポリーニの圧倒的な演奏はやはりただものではなかった。その桁外れの技巧を格調高く見事に支えたのがイタリアの建築的な美意識で、これでもかとばかりに繰り出される気品のある音色や音響的なピアニズム、ある種の官能性と構造的造形によって曲がまるで大小の建築物のように立ち上がる様は圧巻だった。リサイタルなどでたびたび味わった充実と感動、プログラムを弾き終えた頃には汗まみれになったその姿は、それだけで熱狂に相応しい英雄だった。しかしながら、同時に垣間見えていたのは、ポリーニへの熱狂の根底には、音楽への賞賛というより、人類未踏の記録樹立への筋肉の勝利と言った非常に男性的な要素があり、やはりこの人は基本的にはテクニックの英雄だったのだろう。
 ネット上にあるこのCDのユーザーレビューに『技術だけで内容が全く無かったピアニストが、技術を失い、何も無くなった。』とあったのは、まさに正鵠を得た言葉だと言うべきだろう。昔あれほど熱狂したピアニストが老いてこんな演奏をすること自体、人生の儚さを思い知らされる。とりわけ壮年期以降目立ってきたのは、音の粒立ちが明らかに悪くなり、やたら団子状態になることや、気が急いてコントロールが利かなくなる、唐突で意味のないフォルテの多用などだ。中でももっとも顕著なのが、かつてはなにかといえば比較されたミケランジェリとポリーニだが、ミケランジェリがペダルを魔術師さながらに巧みに操ったのに対し、ポリーニのそれは平均以下で、音が濁ったり、突如響きが分断されるなど、およそこのクラスのピアニストとは信じがたい杜撰なペダルさばきである点だろう。前作のノクターン集を聴いたとき「ポリーニは終わった」と思っていたのに、懲りずにまた買ってしまった自分が間違いだった。それでもCD評などを見ると、さすがはポリーニ、素晴らしいの連発で技術面まで含めて褒めちぎっているものがいくつかあることは強い違和感を覚える。こういう人はかつてのポリーニの魅力に参ってしまって、信仰的になり判断力を失っているのだろうか。
 最後に言っておきたいことは、それでも尚、ポリーニほどピアノを甘く美しく音響的にならすことの出る人はいないように思われる。この「響き」を聴くことが、今のポリーニの最大の値打ちかもしれない。
 
 
No.20[イリナ・メジューエワ]CD
 このところ、ショパン生誕200年を機に、メジューエワも立て続けにショパンのCDを出している。この人は日本に在住しているというようなことも風の噂に聞いたことがあるが良くは知らない。ただ、そういう関係からなのか、常に国内の若林工房というレーベルから新譜が発売されるが、やはり国内製作のCDはご多分に漏れず、その価格は決して安くはない。マロニエ君なりにこの人の演奏の特徴はある程度とらえているつもりなので、なんでもかんでも興味を持つようなことは手控えるようにしている。一度、店頭の試聴盤でプレリュードだったかエチュードだったか忘れたが聴いてみたときは、なにやら作品に似つかわしくないねっとりした陰鬱な感じばかりがしてあまり好みでないと思った。そしてこの度、これはと狙って購入してみたのがノクターン集(2枚組)である。
 ともかくきれいだった。目の詰まった美しい織物のような演奏だった。
 メジューエワの演奏には、基底のところに悠然とした大河の流れのような雄渾とリズムがある。その色白で華奢なバレリーナのような姿からは想像できないような、何か雄大なものの息吹が脈々と流れている。音楽の方向性はロシア的なロマンティシズムに貫かれた耽美性を有していて、同時に極めて繊細な表現や処理をすることも忘れないが、そのために必要な軽快さや切れなどには不十分なものを感じることしばしばだ。
 特筆しておきたいのは、メジューエワは女性ピアニストには希有なことだが、その音には厚みと肉感があり、とりわけ痩身の女性の出しがちな、硬質の薄いガラスのような神経質な音とは正反対である点だ。ひとつにはこの良く鳴るまろやかな音色のせいで、音楽全体がずいぶんと温かなものとなり、おっとりと腰の座った安定感がまずもってメジューエワの特徴のように聞こえるが、これは彼女の大いなる長所であると同時に、短所として顔を出すこともある。
 近ごろの聴衆の好みを意識してか、遺作のレント・コン・グラン・エスプレシオーネからスタートするのは、このCD以外にもいくつか見かけたことのある曲配置なので、これは営業サイドの要請なのかもしれないが、マロニエ君はこんな病人のような曲が先頭に来ることには違和感を感じる。
 2曲目になる作品9のノクターンからが本来の始まりのように思うが、凛としていてなかなかの佳演である。作品9では3番などは曲想と演奏がどんぴしゃりで、まさに曲そのものを安心して聴き進んでいけるのが心地よい。ショパンの中でもノクターンは決して派手なピアニズムに流れ落ちた演奏になるべきではないが、その点メジューエワは常に理知的でそういう野生が目をむくことがないことが、このCDを一層格調高いものにしている一番の要因ではなかろうか。
 残念なのは、あきらかに普段弾いていない曲を、全集のために譜読みして間に合わせたような曲が幾つかあることだ。敢えてどれと指し示すことはしないが、そういう曲は、やはり表現に力がない。及び腰で、なんとか他と揃えて弾きましたというような感じになって終わるのは残念だが、こういうところが全集というものにつきものの、やむなき欠陥なのだろうし、メジューエワのようになんでもすぐ弾けてしまう人のひとつの弱点かもしれない。
 非常に正確で確かなテクニックを駆使して、音楽を正視し、ひたすら奉仕するメジューエワの演奏はひとつの尊敬にも値するものがある。
 概ね良好なCDだとは思うが、強いて残念な点はいささかロシア的陰鬱が支配している気配があり、より直截な霊感を感じさせるショパンであればさらに魅力的なものになっただろうと思われる。
 言い忘れていたが、この若林工房から出るメジューエワのCDは、毎回安定して録音もピアノも大変素晴らしいことは、今後このレーベルのCDを買うときも大きな信頼になりそうだ。
 
 
No.21[アレックス・シラジ]CD
 これは「真正プレイエルのコンサートグランド(戦前のモデル)」を使ったCDということで期待を込めて購入した。曲目は2枚組のマズルカ全集。ところがいざ音を出してみると、これがちっともおもしろくない。プレイエル特有のそこらに舞い散るようなフランスの香りもなく、あのショパンサウンドとして名を馳せた独特な音色──憂いと華麗さの共存もなければフランスピアノの甘い響きもなく、とにもかくにもがっかりだった。これはいったいどうしたことだろう。そこに聴かれるのは、ただキチンと遺漏なく整えられた、新品ピアノのようなカッチリとした面白味のない、ただ普通に美しいだけのデュープレックススケーリングを持たないピアノの音色だった。これといった欠点もないけれども、いかにも優等生的で、とりわけプレイエルらしい陰翳の妙などは微塵も感じられず、どこかの無名の良質なピアノという印象しかない。これならなばどこにでもあるスタインウェイで充分だし、ぜわざわざこういうピアノを使用し、それを看板にしたCDを作った理由や意義さえもわからなくなった。
 こんなプレイエルなら、まだしもエラールのほうがフランスピアノらしいだろう。本来ならその点でも、プレイエルのほうが華やかさ、軽さ、陰翳など数段勝っているはずだが。釈然とししないままライナーノートをチェックしていると、きわめて意外な、そして決定的な名前を発見した。どうやらこのピアノは、ファブリーニ(イタリアの高名な調律家で、いまやそれはプレミアムピアノとしての地歩も築いている。ポリーニなどの御用達。)の所有で、ファブリーニによる音造りなどの調整(いわば調教的コントロール)を受けている楽器らしい。
 それで思い出したのだが、以前やはりファブリーニのロゴのついたプレイエルを、アンドラーシュ・シフがショパンを弾いている映像がネット上にあったけれど、それもまたなんの味わいも魅力もない、およそプレイエルとは思われない、本来の自由を奪われたようなキチキチとしたピアノだった。プレイエル独特の響きの放出がまったくない、異形の枠に押し込まれてしまったような、なんの面白味もファンタジーもないピアノだった。
 
 ファブリーニのような音の名手名工を批判することには一種の躊躇もあるけれど、思い切って言うならプレイエルの個性がまったく理解できていないのではないか。印象派絵画のような華麗と屈折、あでやかでありながら陰のある響きこそがプレイエルであり、極論するならその雑音まで含めてのプレイエルであるはずのものを、自分固有の美学によって、いとも退屈なピアノに仕上げてしまった観がある。まるでバロックのパールネックレスを、無理に削って形を整えたみたいで、あまりに窮屈で楽器本来の持つ自由や解放感がまるでない。やはりそこにはフランスとイタリアの美意識の、根元的な違いが横たわっている気がする。
 
 シラジの演奏は、とくに言うべき事が見つからない。特に良いとも悪いとも思わない。ただの70点ぐらいの演奏だ。ピアノのせいもあるのかもしれないが、とにかくなんの変哲もない演奏だった。世界にはこれぐらい弾ける一流ピアニストはごろごろしていることだろう。このCDのシリーズはほかにポロネーズ集とワルツ集があり、聴いてよければ購入予定だったが、今回限りで打ち止めとしたい。
このピアノを聴いて思い出したのは、ピアノの音に対する基準に柔軟性のない技術者、楽器固有の個性への理解と尊重をもたない技術者の存在で、ベーゼンドルファーをスタインウェイのように、スタインウェイをヤマハのようにしてしまう技術者が現実にたくさんいることだ。
 もうひとつ考えられることは、優れたピアニストは楽器の個性を超越したところに自分の固有の音を持っているものだが、それと同様に、ファブリーニほどの世界的なピアノテクニシャンになれば、メーカーの個性や楽器の特性を飛び越えたところに、自分の音を構築してしまうものかもしれない。
 マロニエ君は条件さえ許すなら、最も手に入れたいピアノのひとつがプレイエルだけれども、こういう輝きも陰翳もない権力者の統制下に置かれたような、コチコチのプレイエルならちっとも欲しいとは思わない。
 
 
No.22[イングリット・フリッター]CD
 ユンディ・リが優勝した折のショパンコンクールで第2位を獲得したのがイングリット・フリッターだった。アルゼンチンのブエノスアイレス出身の女性ピアニストとくれば、いやが上にもアルゲリッチとイメージを重ねがちになるが、まあ南米特有のテンペラメントはあるにしても、聴いてみれば共通項のほうが少ないし、そもそも格が違うのは致し方ない。ショパンの新譜は昨年秋に収録された20のワルツ(遺作を含む)である。
 このちょっとジェーン・フォンダのような顔をしたピアニストは、しかしどういう方向の演奏をしたいと思っているか、それが聴いていてあまりよくわからないところがあり、それはコンクールのライブなどを聴いても同様だった。異なる要素がひとつの演奏の中に混在するのはまあ当然としても、それが結果的に音楽として一貫したひとつの道を示していなくてはならないが、マロニエ君にはこのフリッターという人の演奏の道が見えないわけである。ある場所では非常に慎重に、お堅く歩を進めるかと思えば、あるときは非常に大胆でもあり情熱的にもなる。これは一見当然のことのようにも思えるが、その使い分けが適切で説得力がなければ聴く者はただあっちへこっちへとふりまわされるだけだ。演奏家もさまざまで、書に喩えるなら、楷書の美しさで聴かせる人と、行書・草書の流れやデフォルメで聴かせるタイプもいる。あるいは構築的に音楽を組み上げていくタイプと瞬間の閃きによって音楽を産み落とそうとする人もいる。フリッターはそれが皆目わからない。曲によって、あるいは途中で、パッと表情が変わってくる。大筋においては呼吸や息づかいによって音楽を導き形作ろうとしているところは感じられるのもも、困るのはそれが気まぐれな息づかいだからである。
 たとえばこの面の大御所であるアルゲリッチは息づかいと言っても音楽そのものに潜む呼吸を本能的に見つけ出し、自身が作品に内在する必然性に満ちた呼吸によって演奏しているが、フリッターの場合は自分の呼吸に音楽を合わせようとする強引さが顔を出すので、どきどきそれが噛み合わなくなる場合や、矛盾を生じることがある。しかし、どうかした小品や曲中のあるパッセージなどでハッと息をのむような吐息のような美しい表現があったりして、そのときのフリッターは非常に大人っぽい魅力を持っている。しかし如何に呼吸主導とはいってもあまりに恣意的では困るし、例えば左手によるワルツのテンポの刻みがむやみに変化しすぎるのはいかがなものか。
 
 ところでこの人はショパンコンクールのときからずっとカワイを使い、マロニエ君がずいぶん昔リサイタルに行った折もカワイのEXを弾いていたから、よほどお気に入りかメーカーとの何らかの関係があるのだろうと思っていた。ところが、このCDでは記載こそないものの、あきらかにスタインウェイを使っているが、この人にはどちらかというとスタインウェイのほうが合っている印象を持った。
 
 
No.23[ダニエル・バレンボイム]TV
 この人のことは書こうかどうしようかとずいぶん迷った。が、この企画も終わりに近づき、やはりありのまま、感じたままを書き留めることのほうがこの「マロニエ君の部屋」の主旨にも適うし自分の性にも合っており、ささやかな抗議の意味合いもあって書くことにした。
 「ショパン生誕200年ガラ・コンサート」のデミジェンコ/キーシンのコンチェルトに続いて、続くソロ・コンサートの様子として、このバレンボイムのショパンプログラムによる演奏の様子が流された。
 この記念すべきコンサートが果たしてどれくらいの規模で行われたのか、詳しいことは知らないが、いずれにしてもショパンの聖地ワルシャワで開かれるエポックなイベントであることにはかわりないだろう。だからこそ、名だたるピアニストが大会からの要請を振り切って四散したのだろうということも察しがつく。
 世界が注目するワルシャワのイベントで、オールショパン・プログラムによるソロリサイタルを行うというのは並の神経で務まることではないだろう。耳の肥えた聴衆はもとより、その様子は録画されて後々全世界にばらまかれるのだから、大変な名誉であると同時に自分の才能と力量と限界を晒し、生け贄にする自虐行為のようにも思ったピアニストが多いはずだ。
 このオファーを受けるのは、よほどの真摯な腕達者か功名心に肥え太った厚顔者でしかないはずだ。
 
 とはいえ有名ピアニストなら誰でもいいわけではないはずで、そこにはその人の音楽の歩みや取り組んだ作曲家への献身の度合いなどが加味されてしかるべきではないだろうか。その点で、どこからどう見ても、なぜバレンボイムなのかは訳も理由もまるでわからない。つくづくと理解に苦しむ。
 演奏については、あまり具体的に書く気もないし、そもそもそんな値打ちもなかった。バレンボイムの「なんでも屋」ぐせは今にはじまったことではなく、とにかく自分の才能にあかして手当たり次第になんでもかんでも手をつけるのは知っていたが、その魔の手がついにショパンにまで及ぼうとは、さすがのマロニエ君も想像し得なかった。
 一番の不幸はこのイベントを前々から楽しみに、さぞかし高額で入手困難であろうチケットを取って、いざコンサートに赴いた多くの人達であろう。ほかのことならともかく「ショパン生誕200年ガラ・コンサート」ともなると、来年やり直しというわけにはいかない。
 ピアノと指揮という二足のわらじを履いて、世界を股にかける大音楽家も結構だが、すでにピアノも指揮も酷評され続けて久しく、だからもうそれにも慣れてしまったのか、ご当人は一向にお構いなしのように見えるが、人間の一番恐いのは恥を恥と感じる神経を失ってしまったときかもしれない。
 ピアノはどれを聴いても何を聴いても粗っぽくて強引、指揮は自分がなくフルトヴェングラーのモノマネだと嗤われて久しいが、さりとて演奏活動じたいはまったく収まる気配がない。言わせてもらうと、加齢してもいっかな柔和にならず、年々増す貪欲な目つきは、彼の今が出ていると思う。
 このワルシャワがまったく反省とならなかったのか、続く3ヶ月後の5月のルール音楽祭では、さらにショパンの二つの協奏曲と、またぞろオールショパンによるリサイタルが行われたようだが、いずれも出来が悪く、練習不足が露呈して、当地の新聞批評などは非常に厳しいものだった由、それは当然至極である。
 いかな名人でも巨匠でも、「謙虚さ」と「自分の客観視」ができなくなったときは、惨めな演奏はせずに静かにお引き取りいただきたい。
 
 
No.24[アラン・プラネス]CD
 フランスのピアノ界で、今では巨匠と呼んでも差し支えないピアニストの一人がこのアラン・プラネス(フランス読みではアラン・プラネというべきか…)だろう。
 フランスのピアニストといえば、感性の主張が中心的で、いわばセンス主導の個性的な演奏をする人が非常に多い。良くいえば個性的、悪くいえば偏重主義だろうか。これには伝統があるようでコルトー、ロン、フランソワ、ハイドシェック、ルイサダ、アンリも皆そのタイプだが、それとは対を成すように、非常に客観的なアプローチをしてくるピアニストも多くいることを忘れてはならない。ナット、コラール、デュシャーブル、ウーセ、ルサージュ、グリモーなどは皆正統なアプローチで音楽に相対し、客観性を主軸としながら自身の解釈を演奏として聴かせるタイプだろう。その客観派の代表格がこのプラネスであるといえるかもしれない。
 誤解してはいけないのは客観的というのは、べつに教科書通りのガチガチの演奏という意味ではない。とりわけこのプラネスのショパンは客観的であると同時におおらかな自由があり、なにからも縛られていない心地よさがある。体の芯まで音楽が染み渡った人が、ごく自然に呼吸をすると、それがあまねく音楽の法則に適い、ショパンの音楽にもさりげなく生命が吹き込まれている。それでいて耳を凝らして聴いてみると実に正確で粒立ちの良いタッチと適切な配慮のあることもわかり、これぞ本物の音楽家だといいたい。このいかにも自然体のアプローチはプラネスというピアニストの最大の特徴であろう。大半のピアニストならば、それが個性的であれ客観的であれ、演奏にはそれなりのエネルギーが投入されているから、一種の個人的な演奏行為のもたらす消耗感や暑苦しさのようなものが滲み出ているものだ。プラネスにはそれがないので、このショパンも常に風通しの良い木陰でリラックスするように楽に身を任せられる。それでいてショパンに必要なツボは遺漏なく押さえられ、随所に見事にメリハリが効いているのだから大したものだ。
 またこの自然な演奏に大きく貢献しているのが使用された楽器であるとマロニエ君は思っている。ここで使われているのは1906年製とあるから、実に100年以上前のスタインウェイであるが、予備知識無しに聴いたら、普通はとてもそんな古いピアノだとは思わないだろう。本当に美しく良く鳴っているから、昔のスタインウェイの驚異的な生命力をまざまざと見せつけられる。それでも基本的には木が長い時を経ているから、音に厚ぼったさや空気を圧迫するような押し出しがなくて清涼な透明感があり、さらに響きに揺らめきがある。それがなによりも聴く者に安らぎを与える。マロニエ君はこのCDに限らず古いピアノ(必ずしも古楽器のことではない)を使った録音を好むのだが、それは本当に気持ちの安らぐような美しさがあるからだ。
 驚くべきは、100年以上経過したスタインウェイが、現代のスタインウェイと基本的な音の本質はなにも変わっていないということだ。スタインウェイは100年前に完成され尽くしたというのは、こういう音を聞くといかにも納得できる。
今回、自分の立てた企画を意識して、いろいろな演奏に接してみたが、やはりいくぶん古い楽器で演奏されたものは、精神的にもよりショパンに近づいているという事実を痛感させられた。ふだん録音に供される真新しいモダンピアノの音ばかり聴いていると、その屈折のない明るい新緑のような美音に耳が慣れてしまうが、多少のキャリアを積んだ古い楽器で鳴らされる音楽は、根底のところで本質的な何か大事なものが息づいていることをあらためて理解した。
 
 
 ともかく聴いたピアニストも目標の24人にひとまず達したが、以上のようなことからもわかる通りショパンの演奏というのは世界的なピアニストをもってしても、本当に聴き応えのある深みのあるショパンとして聴かせるのは容易なことではない。技術的には見事な演奏は多くとも、ショパンがショパンとして澄み渡って聞こえることは滅多にはないものだ。いろいろな意味で良く比較されるモーツァルトとは、このあたりも共通するところだろう。指が達者だからといって鮮やかな技巧で弾き鳴らすことも、必要以上に深刻な精神主義に浸り込むことも、ショパンの音楽は頑として受けつけない。焦点を見誤ると、作品のフォルムはたちまち儚いガラスのように割れ落ちてしまう。きわめて狭いストライクゾーンの向こうに、この二人の作曲家の真の姿と輝きはひっそり待っているように感じる。とくにショパンが要求する深い悲しみの淵で明滅する美の陰翳と陶酔は、純真な子供なら可能というわけにもいかない。やはりショパンは基本的に、都会的洗練と、繊細巧緻な美学に依拠する、大人のための音楽である。