#58.オオシロピアノ

 ちょうど東京から音楽好きの友人が帰福していたので、久々に糸島のピアノ工房に行った。
 ここは、「過去のマロニエ君」にも書いたことのあるオオシロピアノだから、出来る限り重複する内容は避けるべく、専ら今回の訪問で感じたことを中心に述べたい。本来マロニエ君の部屋の「はじめに」にも書いている通り、ここでは固有の名称は極力排するように努めているが、今回はそれなしには伝わらない話であるため、大城氏の了解を得て──かなり渋られたが──実名表記で書き進めることにする。
 
 名は体を表すの言葉があるように、ここは工房ピアノギャラリーという名が示す通り、工房(作業場)とギャラリー(ショールーム)が併設された造りになっている。中に入ると、この不景気をよそに工房内には美しく磨き上げられた10台を越えるピアノがあり、その中には納品待ちのものも数台ある。ただ無意味にピアノが並んでいるのではなく、作業中のものから納品待ちまで、工房としてのリズムと流れがあることが一瞥して見て取れる。
 
 この日あったグランドは三台で、以前にも紹介した日本の名器ホルーゲル、新しく陣営に加わったカワイのNo.750、それにヤマハの名器C3である。前の2台は非売品で、C3はまもなく購入者のもとに届けられる由。C3は、いわゆるオーバーホールを終えたばかりのピアノだが、いかにもスッキリと仕上がった状態で、大城氏の迷いのない良心的な作業スタンスが滲み出た、いわゆるキチッと前を向いたピアノになっている。言うまでもないが多くの消耗品は新品に交換されており、弦やハンマーには輸入物のパーツさえ組み込まれているのだから、巷でいうところのスペシャル仕様である。
 中を覗けば、新しく張り替えられた弦と、銀食器のように輝く無数のチューニングピンがまぶしく光る。ハンマーはレンナーに交換済みだそうで、余分な響きを排したやわらかさの中に芯のある明晰な音に仕上がっていた。とくに中音域から高音にかけての、ピアノの旋律に関わる音域では、通常のヤマハにはない種類の歌う要素が明確に加わっていて、これひとつとってもただのありふれたC3とはひと味もふた味も違うことを理解するのに大した時間はかからない。
 残る作業は、購入者の希望で、黒鍵を黒檀に交換することだそうで、まさに「カスタムピアノ」として生まれ変わり、ここで新たな命を吹き込まれて次なる旅に出発する直前だった。
 
 さて、オオシロピアノの良心的価格はつとに知っているつもりだったが、そのC3の販売価格を聞いてあらためて驚かされた。
 具体的な金額こそ書かないが(価格を知りたい方はオオシロピアノへ直接問い合わせされたい。リンク済み。)、およそこの手のリニューアルピアノの一般的な相場からは遠くかけ離れたもので、おまけに運送費まで込みというのだからちょっと呆れるばかり。しかも上記の通りのカスタム仕様になっていることを考慮すれば思わず唸ってしまう。これが本来の適正価格であるとはとても思わないが、単に大城氏に欲がないのか、そのへんのことはよくわからない。しかし、普通なら自前のピアノのオーバーホールを依頼してもそれなりの金額になるはずだから、やはりこれは望外の価格と言うべきであろう。こういう良質なピアノをそんな条件で手にできるとは、購入された方がなんともうらやましい限りだ。
 
 一般的な販売現場では、入荷した中古ピアノにほとんど何もせず、軽いクリーニングやボディの磨き、あとは簡単なハンマー形整などをしただけで、ちゃっかり相場価格で売りさばいていく店も決して珍しくない。そんな実情の中で、ここまで徹底的に手を入れた良質なピアノを、きわめて良心的な価格で提供する店も現実に存在するのだから、中古ピアノほど、店選びがものをいう世界もないということをまざまざと認識させられる。
 ありふれた中古ピアノ店から、ろくに整備もしていないくたびれ気味のピアノを買って、中古だからこんなものだろうと妥協しながら使うのと、このように完全に仕上げられたピアノと生活を共にするのでは、同じピアノ購入とはいっても、まるで過ごす時間の質が違ってくる。
 ピアノはひとたび技術者が隅々まできっちりと手を入れておけば、かなり長いことそのピアノの良好なコンディションは維持される──音が狂ったり硬くなったりしても調律と整音で元に戻る──ので、それがあるとないとでは雲泥の差であるし、わけてもピアノは長い付き合いになる相手だから、その違いによって、購入者の音楽生活の質や大げさにいうなら運命が変わるといっても過言ではないだろう。
 
 ところで、このC3は無論のこと、非売品のカワイのセミコンも、そのタッチがまた憎らしいほど素晴らしいものだった。しかもヤマハのC3と50年も前のカワイの750とではアクション機構が違うから、それぞれの特性に応じた調整が必要となる。C3は現代的で非常に素直なムラのない俊敏なタッチ、750はよりやわらかに入ってその奥に若干の抵抗があるというもので、個人差はあるだろうけれども、マロニエ君にとってはどちらもちょっと文句のつけようがないほど素晴らしい。大城氏によれば750は機敏性(主に戻りの追従性)に一抹の不満があって満足していないとのことだったが、どのみちマロニエ君などはそこまでの運動性が問われるほどの演奏は出来ないから問題ではないけれど。
 大城氏の作り出す、軽やかなのにしっとりとしたタッチは、昔から一目置くに値するものがあったけれども、ここ最近になって、さらに磨きがかかってきたらしく、奏者の快適な弾き心地というものをより深い領域まで追い込んだ観があり深い感銘を受けずにはいられない。
 こういうピアノを弾いていると、文字通り自分のイメージをそのまま反映した演奏が可能となり、まるでひとまわり上手くなったように感じるものだ。それは、通常はピアノごとのタッチに合わせて弾き方を加減する習性が身に付いてしまっているものだが、大城氏のピアノに触れるといつしかそういう小細工をすることを忘れている。音楽的なイメージを心に描いて虚心に弾いてみると、それらが自然にピアノの音として乗ってくる。すると奏者はそれにまた反応して、さらにより高い感興を呼び込むというプラスの連鎖が起こる。このように演奏者を刺激し啓発することは、まずもって良い楽器の証である。
 
 一般論として、ピアノの音とタッチというものは、切るに切れない深い相関関係があるわけで、ごく単純な例で言えば、奏者のイメージよりも大きな音が出てくれば、相対的にタッチは軽く感じ、イメージ以下の小さな音しか出なければタッチは重く感じるという心理作用が付随的に働くという。
 マロニエ君の印象としては、それは否定の出来ない事実として理解できるとしても、しかし技術者は全般的に、必要以上にこのことを結びつけて我々ユーザーを説き伏せたがる傾向があると感じる場合がある。これは機械的なタッチの調整をするよりも、音の変化による心理作用で解決できれば、そのほうが作業もイージーだからという実情もあるのかもしれない。しかし音との関係でどんなに説得を受けようとも、タッチの問題の中には、純粋に物理的根拠に根ざしたものがあることも事実なのであって、その場合はいくら音色や調律を変えられても納得できないが、こちらも日本人故につい弱気になり、人間関係を優先して徹底的に追い込む勇気がない場面がある。
 弾く者にとって理想的なタッチは、演奏という実際的な物理行為においては何物にも代えがたい直接的な重要性がある。繰り返すが、理想的なタッチは奏者を助け、演奏の喜びと新たなイマジネーションをもたらし、音楽の間口と可能性をいかようにも押し広げるものだと言えるのではないか。
 なぜこのようなことを書くかというと、大城氏の仕上げた各ピアノの秀逸なタッチは、マロニエ君の見るところでは、いずれも音とタッチとの相関関係に甘えず、まず優れたタッチの土台として、物理的──純粋に機械的な調整がごまかしなくキッチリと済まされているところにはじめて成り立つ種類のものだからだと声を大にして言いたいわけだ。具体的な方法としては大城氏がタッチを作られる場合は、まず整音を先にやり、音色を決定してからタッチ作りに入るという。これにより音色の相互関係が確実に決められるからだそうだ。
 
 ピアノの命が音にあることは言うまでもないことだが、音や響きにばかりこだわりすぎてタッチへの配慮が手薄になれば、本当に良いピアノにはなり得ないことは言うまでもない。良いピアノたるべき条件の中に省略して良い事柄はないのである。
 繰り返すようだが、技術者の中には、ユーザーや奏者の要望が正しく理解できず、あるいは耳を貸さず、対症療法的に解決しようとする人が少なくない。しかし、奏者は日々いろいろなピアノに触れる技術者とは違って、年中同じピアノを弾いているのだから、専門知識はなくてもそのピアノのことにはとても詳しくなっているものだ。医学知識はなくても自分の体や体質にはすこぶる詳しいように。
 物理的要求には物理的な処置によって応えてもらわないことには、真の解決は得られない。タッチの物理的な改良を要求をしても、音の違いによるものとすり替えられ、整音や調律でお茶を濁そうとされるときほど釈然とせず嫌なものはないが、大城氏はそういう混同を決してしない、気持ちの良い希有な技術者でもある。
 
 大変残念なことに、大城氏は手がけるピアノを日本製ピアノに限定していて、輸入物のピアノには手をつけようとはしない。それは大城氏が強いポリシーの持ち主で、自分にとって未経験の楽器に対して無責任な仕事はしないというマイルールを作っているためらしい。その理由は、ピアノにはそれぞれ固有の設計上・製造上・機構上のセオリーがあって、故に修理や調整もそのセオリーに沿ったものでなくてはならず、個別のメーカーに対する正式な知識や経験のないまま、独善的な作業をしていては、却って楽器の能力を損ねる恐れがある(それが自分にとっては誠実な作業だとしても)というのが主な理由のようだ。
 これは非常に正しいことだが、普通はなかなか実行できることではないだろう。それだけ大城氏は技術に対する責任意識が強く、自分の仕事には誠実かつ良心に従って取り組んでおられるということでもある。たかだか数日間の講習等に参加しただけで、特定メーカーの認定技術者の肩書きをもらい、さっそくそれを名刺に刷り込むようなセンスの人ではないのである。
 たとえば輸入ピアノの雄であるスタインウェイを、大城氏が決して手がけられない理由として、氏は次のように説明してくれた。
 『スタインウェイが世界一のピアノであるにもかかわらず、現実には「スタインウェイはさほど良いとは思わない。」という人の数が実に多い。思うに、その元凶は自称「スタインウェイもできる調律師」があまりにも大勢いて、その人達によって本来の実力を引き出されていない状態のスタインウェイが多すぎるからなのです。だから自分はその人達と同じ調律師にはなりたくない、ただそれだけなんですよ。』
 
 ピアノ技術者の仕事の難しさと奥の深さを感じさせる言葉ではないだろうか。
 その、ピアノ技術者の仕事とは、ひとことで言うならピアノの生まれ持つ潜在能力を最大限に引き出すことであり、それを技術的に正しく導き、美しく健康な状態にすることだろう。
 ピアノ技術者の基本的な仕事は、オーバーホールのような大修理を別とすれば、整調・整音・調律の3つが基本であり、ピアノ技術者はそのすべてを心得ていなくてはならないことは今更云うまでもない。そして、世の中には非常に優れたピアノ技術者がおられるが、厳密に云うと、各人にも実は得意分野というものがあるように感じる。そして大城氏の場合、ご本人はどう思っておられるか知らないけれども、マロニエ君は「整調の人」すなわち「タッチの人」だと思っている。もちろん整音と調律も立派な仕事をされるのはいうまでもないが、それでも整調にみられる冴えが最も抜きんでて優れていると感じている。これは何年も前、最初にオオシロピアノに行ったときから一貫して感じていたことだが、それは今でもまったく変わるところはない。
 詳しい専門領域のことはわからないけれど、一般的には軽いタッチと弱音域のコントロール性は背反する場合が多く、タッチは軽くてもストンと落ちてイメージ通りの音が出せないなど、タッチコントロールに難渋するピアノのなんと多いことか。また軽いタッチのピアノには往々にして音色の変化のつけにくいものが多く、音色の移ろいや色数、奏者のタッチの微妙な変化に反応できず、単調な音しか出せないピアノのなんと多いことか。むろん大城氏のピアノはこれらのいずれにも当てはまらぬ豊かな可能性と表現性をもっている。
 
 タッチを作り出す「整調」とは、ピアノの鍵盤を押してから、ハンマーが動いて弦を叩くまでにかかわってくる、さまざまな機械部分の動きに関する多種多様な調整の総称である。この部分がピアノの中でも唯一の精密機械の領域で、キーからアクションにかけての精妙を極める調整如何によって、タッチや音色はいかようにも変わってくるのはいまさらいうまでもないだろう。そして奏者の弾き心地も、調律や整音から受ける音の感覚に左右される面はあるものの、主に(とりわけ物理的には)この整調によってピアノ演奏の根底となるタッチ、すなわち弾いたときのフィールというものの大半が決まってくる。タッチがすばらしく、それに連なる形で思い通りの音が出せるピアノほど弾いていて気持ちの良いものはない。
 
 大城氏は会って話せば大変気さくで陽気な人で、いわゆる繊細で神経質な人には見えない。ざっくばらんでいつも大声で話したり笑ったりの連続だ。しかし、ピアノの技術に関することは我々の目に見えないところで絶えず勉強や試行錯誤を繰り返され、自分の築いてきた技術に満足するというところがない。その甲斐あって、もう決して上り坂のつづく年齢ではないにもかかわらず、常にその技術レベルは更新され、確かな進歩を遂げているのは驚くばかりだ。こういうことを書くと買いかぶりだと大声で否定されることだろうが、まあご本人の認識は置いておくとしても、マロニエ君はこのように思っている。
 率直な話をすれば、むかしは、タッチなどは素晴らしいけれども、見た目の仕上げなどは最上の部類とは言い難く、いささか粗っぽいようなところも見受けられた。ところが、ここ数年はそういう面さえすっかり影を潜め、非常にキチッとした、質の高い、緻密な仕上げがなされるようになり、こういう領域にまで進歩するというのは、若い頃ならいざ知らず、一定の年齢に達してからそれを向上させていくのは普通はちょっとできることではない。人間に長年染みついたクセややり方はそうそう変わるものではないから、これはまさに瞠目に値する事だろう。
 何事にも慢心せず、謙虚な気持と、旺盛な好奇心があれば人間というのは何歳になっても向上前進していくというひとつの証明であろう。
 
 最後につけ加えておくと、ピアノ技術者の中には、業界内で一定の評価を得て一目置かれたり、有名ピアニストの御指名を抱えるようになったり、少しその名が知れわたってくるようになると、次第に勘違いをはじめる人もいる。いつしか自分を半ば芸術家のように思ってみたり、自らを何か別格で特別な人間のように思い込んだり、その道の指導的な高い位置に存在しているように錯覚するなど、さまざまな人がいる。こういう要素が見えてくると、功名心の満足が優先され、進歩もだいたい行き詰まる。謙虚さの中にあった輝きは失なわれ、自分のすることが正義で未知の技術やお客さんの要望などに真剣に注意を傾けなくなったりするものだ。
 大城氏はというと、このような人の心に差し込む邪念がものの見事にないばかりか、むしろ欠落しているといってもいいだろう。常にピアノ技術者としての自分を客観的に見つめ、その仕事を最も強く批判しているのは大城氏自身なのである。これこそまさに職人魂というものだろう。
 
 ジャンルを超えて本物が少ない今日、福岡でこのような良心的なピアノの工房と優れた技術者のいることを素直に喜びとしたいが、おそらくはこの先、大城氏のような人間くさくて情に厚い「本物の技術者」は時代的にも出てこないような気がする。
 大城氏はもしかするとこれから数年間がトータル的な意味に於いてピアノ技術者としての絶頂期を迎えるのかもしれない。マロニエ君の状況さえ許すなら大城氏が納得の行くまで仕上げたピアノをぜひ一台購入したいところだが、なかなか思うに任せない自らの境涯が悔しいばかりである。