#59.今年聴いたショパン(5)

 「今年聴いたショパン」は24のプレリュードにちなんで、前回のNo.24をもって終了としたはずだったが、もう少し続きそうな気配だったので、マロニエ君なりにあとは行けるところまで行ってみようということにした。
 いま少しお付き合いいただければ幸いです。
 
No.25[アブデル・ラハマン・エル・バシャ/児玉桃]TV
 ラ・フォル・ジュルネ音楽祭2010で行われたリサイタルからアブデル・ラハマン・エル・バシャによる練習曲集Op.25と児玉桃の演奏で華麗な変奏曲Op.12と2つのノクターンOp.27。
 エル・バシャはレバノン出身で、20歳のときにエリーザベト王妃国際コンクールで優勝。現在は年齢的にもピアニストとして絶頂期にあると思われる。ショパンは彼の最も得意とする作曲家であり、各地の音楽祭などでもソロの全曲演奏などを披露しているほか、10年ほど前にはショパンのソロ全曲のCDも発売されている。
 この人の魅力はスケールの大きなテクニックに支えられたおおらかな演奏で、この東京での演奏も自らの能力の限界まで追いつめるような演奏ではなく、Op.25のエチュード全曲というような気負いはあまり感じさせずに、聴く者にも余裕を残しながらの悠然とした演奏だった。そのためかこの人には珍しいわずかなミスタッチなども散見されたが、それも気になるようなレベルのものでなく、ショパンのエチュード全曲といえばなにかしらの緊張感があるものだが、ゆったりとこの曲集を楽しめる演奏というのは珍しい気がする。
 また非常に骨格のしっかりした体格にも恵まれたピアニスト特有の、落ち着いた美しい音色を持っているところが、ショパンの演奏を引き立てているといえるだろう。尖ったところのない、優しい美音が余裕をもって楽々と出てくるところはこういう男性ピアニストの優位な特徴であろう。ちなみに女性ピアニストのほうが全般的に音が痩せていて、しかもきつい音を出すのは専らこうした物理的な根拠のあるところだろうと思われる。
 音楽的にも音色の点でも、鷹揚さがあるのは結構だが、いまひとつ集中度が欠けるきらいもあったことが残念だ。しかし、各曲のフォルムなどはいかにも落ち着きのある大人の音楽で、これと対極にあるのがニュウニュウのエチュードだろう。とりわけNo.11とNo.12は正統な美しさを持った、力強さと懐の深さを併せ持つ優れた演奏だった。
 だが、CDでも感じていたことだが、ショパンにはできればいまひとつの洗練がほしいところ。
 
 児玉桃は幼い頃からヨーロッパで育ち、13才という年齢でパリ国立高等音楽院に最年少で入学し、19才のときにミュンヘン国際コンクールに最高位に入賞し、こちらもまた最年少という才能豊かなピアニストである。
 華麗な変奏曲Op.12はショパンの作品の中では、普段それほど頻繁に演奏される曲ではないが、児玉の演奏は非常に明晰であいまいさを残さないきりりと引き締まった演奏だった。この人は、前出のエル・バシャとはまた違ったタイプの輝くような美しい音をもっていて、それでいて刺々しさがない点が好ましい。
 好ましいと言う点では、非常によく弾き込まれ、じゅうぶん熟成された演奏をするのは説得力があって聴きごたえがある。プロのピアニストなら誰でもしっかりと練習した曲だけをステージに上げるというわけではなく、けっこう首を傾げるようなことも珍しいことではないが、この児玉の演奏には、そのような好い加減さが微塵もないのは非常に好感が持てる。
 どの曲も非常に成熟した音楽に仕上げられており、こまやかな和声の移り変わりなどにも非常に敏感に反応し、それらが片時もおろそかにされることがないのは立派だと思う。こういう神経の行き届いた上質な演奏というのは優れた日本人ピアニストの中に見られる誇るべき特徴で、外国人にはなかなか望み得ない美点であろう。ただし、Op.27-2のノクターンなどでは、あまりにもねっとりしすぎてやや音楽が重くなりがちなところがあったのが残念。ショパンを丁寧に大切に弾くということの中に、ショパンに必要な「適度な軽さ」が忘れられることなく保持されている演奏はなかなか少ないものだ。
 
No.26[エドナ・スターン]CD
 ショパン生誕200年に乗じて、次々に新しいCDが発売される。それも、このような節目の年でなければまずCDになることはなかっただろうというような珍品もこの機に次々と登場し、その点では非常に面白くありがたい事なので、基本的にはこの傾向を歓迎している。ただし、なんの一貫性も脈絡もないセット物の乱発はいただけないが。
 エドナ・スターンはイスラエル出身の閨秀ピアニストで、この人も主にフォルテピアノの演奏者のようだ。最近の演奏者の表記を見ていると、フォルテピアノを弾き、場合によってはモダンピアノもチェンバロも弾くというような人が珍しくないので、それらは一括して「鍵盤奏者」という聞き慣れない言葉で表現されている。日本でいえば小倉喜久子のような人だろうと思うが、それぞれになかなか優れた才能と演奏技術を有する人達が多く、意外に感心させられることしばしばである。
 エドナ・スターンがここで使うのは1842製のプレイエルで、パリの楽器コレクション所有の一台のようだ。マロニエ君は基本的にはフォルテピアノをあまり好まないことは以前にも書いたが、それはどう聴いてみても、とても楽器の状態がいいとは思えない、あるいは本来の音とは思われないような、古びた、かび臭い音を出すだけの骨董楽器としか思えない音を聞くことが多いという理由があるからだ。端的にいえば楽器としてはほとんど死んでいる状態に聞こえるのだ。古楽器というのは、そういう意味ではピアノに限らず、ヴァイオリンでもフルートでも、非常に一種独特な死の香りのする世界でもあり、そういうものがこと音楽に関してはマロニエ君はあまり興味をそそられない。
 いっそチェンバロや弦・管楽器になると、宮大工のような楽器製造家によってレプリカが次から次に製造され、こちらのほうが音色としては、朽ちかかったような楽器を珍重するよりは、はるかに信頼に足るものであろうことが予想される。
 なぜこのようなことを書いたかといえば、ここで演奏されるプレイエルがまた、まったくマロニエ君には価値を肯定できない(歴史的価値ではなくレコーディングに使用するという意味において)、ほとんど亡霊のような音を出す楽器だったからだ。コル・デ・グロートのマズルカで使われたような雰囲気のあるプレイエルはやはり滅多にあるものではないのだろうが、すでに150?160年が経過したこれらの楽器は、保管状態も様々だろうし、くぐり抜けてきた時間や環境もあまりにも多くがありすぎるのだろう。録音に供するぐらいだから一定の手入れはされているだろうが、おそらくは響板の大半が死んでしまっているのだろう。しかし歴史的価値を考慮して響板の張替などもしないでオリジナルを維持しているのではないだろうか。このあたりはマロニエ君のあくまで想像にすぎないが。
 この半ば死に体のような音を別にすれば、エドナ・スターンの演奏自体は非常に優れたものだと言えるから、これだけの演奏ができるのなら、もう少し別の楽器による演奏が聴いてみたかった。例えば同じプレイエルでも、より後年のモダンピアノになってから戦前までの一連のピアノで演奏してくれれば、おそらくは有難味もひと桁ちがったものになったことだろう。
 ショパンの雰囲気はよく伝わるし、趣味もなかなかいいエレガントな演奏だった。とりわけワルツ12番op.70-2などは美しさに息をのむような演奏だった。逆にいうと、モダンピアノの奏者でなぜこういう真っ当なあるべきショパンの演奏ができる人がいないのか、そこがまたわからなくなる点でもある。
それにしても、こういう腑抜けのような楽器で臆面もなく演奏し、録音までする「鍵盤奏者」という人達の感性というものも、正直いっていまだに良くわからないし、そこがマロニエ君の好みではないのだ。
 
No.27[イド・バル=シャイ]CD
 マズルカの中から30曲を収録したCD。このバル=シャイも前出のエドナ・スターンと同じくイスラエルの出身。ラ・フォル・ジュルネ音楽祭2010にも出演しマズルカが佳演だったので印象にあったが、偶然彼のマズルカ集を見つけたので、あらためて聴いてみたくなり購入。全体的にマズルカの雰囲気は掴んでいるようだけれども、残念なことに音楽に腰の座りがない。そのためか、いいときはいいが、ちょっとした風のひと吹きでグラリと崩れるところがある。表現の巧みさ、細やかさがあるが、いささか唐突であったり意味もなく慌ててつんのめるような部分がしばしば散見さるのが惜しい。いわゆる天才的な人でないぶん早々に老成したところもなく、いまだ若さと未熟さが残っているようだが、33才という年齢からすればいま少しの完成度があってもいいような気がしなくもない。こういう人は人生の後半になる頃に、より理解が深まって味のある大人の演奏をするようになる可能性もないことはない。
 ライナーノートには何枚もの写真が掲載されているが、見たところ年よりもやや幼いというか子供っぽい印象を受けるので、それはそのままこのピアニストの内的年齢が表れているのかもしれない。
 耳を凝らして聴いてみると、かなり幅広いデュナーミクを用いているが、そこに異なる要素の入れ替わりや交差がなく、どちらかというと同じことの強弱に過ぎないことが分かってくる。先に腰の座りという表現もしたが、別の言い方をするなら、音楽の進行に寄り添うべき呼吸の助けがないので、しばしばあらぬところで息切れを起こすような破綻というか崩れが起こってしまっている。こういう人は目先の表現の必要にあまり捕らわれることなく、もう少し素直に自然に弾いた方が清純で好ましい演奏になることもあるだろう。激しいパッセージでは呼吸が追いつかず、さりとて緩徐部分でも大きく悠然とした呼吸ができずに、ちびちびと区切ったような語りになってしまう。ようするにいまだ青年の演奏ということになるのだが、まあマロニエ君としては、あまり老人のような口も聞きたくないものだ。ラ・フォル・ジュルネ音楽祭の映像ではマズルカの佳演に対して、ワルツが大変な勇み足で首を傾げたものだったが、こうして80分近いCDを何度か通して聴いていると、こういうクセを持った人だということがよくわかった。しかしマズルカのどうかしたところでは、非常にいいものをもったピアニストだと思うので、やはり適正な意見を与える人間が周囲にいたら、欠点が是正されていい演奏家になると思う。
 楽器奏者の中でも、とりわけピアニストには優れたコーチやなんらかの助言者が必要だというのはいつも思うことだ。
 
No.28[アダム・ハラシェヴィチ]CD
 古い人であるが、これも今年のショパン生誕200年記念とした発売されたアルバムである。ハラシェヴィチはご承知の通りポーランドのピアニストで、1955年の第5回ショパンコンクールで優勝、このとき第2位だったのがアシュケナージである。録音は1966年だからコンクールから11年後、34才のときの演奏。
 内容はノクターン、マズルカ、バラード、エチュード、ポロネーズ、アンプロンプチュ、プレリュードといった、ほぼショパンの各作品様式の主要なところを並べたものだ。
 冒頭いきなりop.62-1 h-mollのノクターンからスタートするところがいやが上にも期待を煽る。全体に非常に落ち着いた調子で弾き進められ、後半では主要テーマを維持しながら内声にトリルが入ってきて、最後はゆるやかに上下するスケールで幕を閉じるこの後期のノクターンでは、初期の傑作である1番の協奏曲の第2楽章の終盤を彷彿とさせるものがあった。この一見変則的に移ろいゆく曲調のノクターンの、あるがままの姿がこれほど克明かつ自然にショパンらしく描き出された演奏があっただろうか。最後の最後まで変わることなくショパンのやわらかな語りが続くこのような演奏を聴くと、いかに最近のピアニストが、程度の差こそあれショパンに対する重きの置き方が不十分で、平均化された演奏に相乗りしつつ、よりピアニスティックに弾きのけているかという事実を認識させられる。
 ハラシェヴィチのすごいところは、決してマズルカのような曲をほんの小品としても取り扱わなければ、バラードの1番のような曲でも大曲として腕まくりして弾くようなところが微塵もなく、どれもショパンの遺したかけがえのない最上級の芸術作品として真っ当に向き合い、それをそのまま真摯な演奏に表しているという点だ。
 また、ポーランド出身のピアニストによくある、本家本元のショパンを標榜しながらもどこか野暮ったいローカル臭のあるピアニスト──例えばポブウォツカとかツィメルマンとかオレイニチャクなど──のような泥臭さのない、あくまでも洗練された詩的で美しいショパンを展開していく。
 バラードにしろ英雄にしろ、やみくもに大向こうを狙ったような大仰な振る舞いは慎み、自然だが決して油断のない当たり前な演奏なのだが、こういう当たり前さが今日の耳には却って新鮮に響くところが面白い。こういう演奏を聴いていると現在のピアニストはみな自己顕示が大層強く感じるし、昔の人の中にはハラシェヴィチのように自己よりも作曲家を尊重し音楽に奉仕していた音楽家が確かにいたのだということがわかる。それでいて、耳を凝らしてきいてみると、非常に正確な、ごまかしのない、大変な練習を積んだ末の演奏であることもわかるのであるが、それを決して外に出していないところが敬服させられる。
 ただ、こういう純度の高いショパン演奏をする人というのは、どうしてもピアニストとしては地味な存在に陥りがちなことも事実で、聴く者の心を一瞬にして鷲づかみにするや前後左右に振り回すというような激しさがないから、とりわけ現代のように常に過当競争にさらされる時代にあっては、なかなか生息するのが難しいタイプの演奏家だといえるだろう。こういう節度ある上品なショパンは、もしかしたら時代がそれを許したといえる面もあるのかもしれず、もしハラシェヴィチが50年あとに生まれてきていたら、同じような演奏をするかどうかは甚だ疑問だ。もちろんそこには時代毎の作曲者に対する解釈の基準や考証もかわっているから、一元的に較べることはできないけれども。
 
No.29[エリザベト・レオンスカヤ]CD
 ロシア出身のレオンスカヤが、ショパンの21曲のノクターンを納めた二枚組アルバム。レオンスカヤというピアニストはなんとなく先生タイプで、あまりマロニエ君の好みだったという記憶はない。そうはいっても聴いたのはブラームスのコンチェルトぐらいであまりじっくり付き合ってみたこともなかったような気がして、ものは試しと思い購入した。果たして、第1番変ロ短調の出だしからして「ああ、やはり…」と感じた。
 非常に丁寧でごまかしのない、真摯な演奏であることはすぐにわかった。しかもショパンの音楽を害するような恣意的な解釈や奇抜なディテールなども微塵もなく、音楽的純度というようなありふれた言葉を使うなら、たしかに純度の高い演奏であることも認めよう。音も大変美しいし、ピアノもすばらしく調整の行き届いたほとんど申し分のないような涼やかな楽器を使っている。
 しかし、聴いていて要するに酔えない、いざないのない演奏であることに気づき始めるのに大した時間はかからない。まずテンポが非常に遅いようで、まだるっこしい気分になるが、冷静にテンポとして耳を傾けるとそれほど極端に遅いというわけでもないが、とにかく実際以上に遅く感じる。
 では何がそう感じさせるのか。それは音楽が時間芸術であるにもかかわらず、曲が進行方向に向かっていないからだろうと思われる。言いかえるなら演奏それ自体に、前に進もうという推進力と情熱がほとんど働いていないように見受けられるのである。ひとつの音が次の音に、ひとつのフレーズが次のフレーズに繋がらず、ただそこにあるものをただ誠実に美しく並べてさあどうぞと見せられているだけという気がする。
 開始から終了までの曲を旅する感触がないから一曲々々に今そこで演奏され生まれ出た音楽という感じがなく、我を忘れて流れの中に入り込んでしまうということがない。常に冷静な視点で真正面から、いかにもゆっくりと教科書の朗読を聞くように秀才的に曲を取り扱うので、なんだか聴いている方が白けてくるのだ。しかしどの曲もとてもよく弾き込まれており、まったく危なげのない確かな指さばきであることは尊敬に値する。
 まさにレオンスカヤの風貌そのままの、あまりにきっちりとした隙のない演奏はご立派で、お説教でもされているような気分になる。きっとヨーロッパの名門の寄宿学校などにいくと、ああいう先生──いつも背筋が伸びて、年中キチンとスーツを身につけた、頭がいいのに融通が利かない、まさに厳格な聖女のような先生──がいるのだろうと思う。これはまさにそういう演奏だと思った。
 マロニエ君はといえば、そういう先生がなにしろ苦手で、あまりに正統派真面目派を周囲にふりまかれると、からかったりいたずらしたりしないではいられない性格だから、こういう演奏が生理的に合うはずがないのも致し方ないだろう。レオンスカヤの演奏を聴いていると、ヴィルヘルム・ケンプなどでさえ、もっと自由でのびのびしたピアノだったということに気がつくのだから不思議なものだ。
 正直を言うと、この二枚組を一度通して聴くだけでも疲れて骨が折れた。実際の演奏会なら、何度もあくびが出てそっと時計を見たりするに違いない。
 実はレオンスカヤは、ベートーヴェンの最後の三つのソナタを新しく録音してこの夏発売されたばかりで、しかも1901年のスタインウェイが使われているというので、興味をそそられて購入を検討していたところだったが、このCDを聴いてすっかりその気が失せてしまった。
 
No.30[ダン・タイ・ソン]CD
 全55曲からなるマズルカ全集。録音は昨年日本でおこなわれている。
 ひとつ前がレオンスカヤということもあるが、それにしてものっけから非常に好ましい演奏で目が醒めるようだった。はじめから終わりまで、いかにもダン・タイ・ソンらしい繊細で端正な演奏に仕上がっているのはさすがという他はない。しかもダン・タイ・ソンは繊細さをいくら追い込んでも、決してそれが神経質にはならず、絶えずある種の温かさと肉感が失われないところがよい。すみずみまで神経の行き届いた上品で美しい演奏だ。
 ショパンの多感な音楽が鳴りやまないのに、表現過多にも陥らず、いかにも東洋的な神経のキメの細かさと節度感が隅々まで行き渡っている。この人は昔に較べて、彼の美質はそのままに保たれながら、力強さやスケール感が加わり、ひとまわり大きなピアニストに成長したようだ。
 何年か前にN響と一緒にプロコフィエフの3番の協奏曲を弾いているのを見て、それまでとはまったく違った逞しさや大きさなど新しい面を見せていたのに驚いたことがあるが、そういうダン・タイ・ソンの成長は、やはりショパンの繊細な音楽の中にも好ましい効果をもたらしているようだ。その後発売された、ショパンの3曲のソナタ全集というアルバムにも、彼がそれまではどちらかというと得意ではなかった、堅固さや構築感などがいつの間にか蓄えられ十全に発揮されて、ショパンのソナタというやや不安定な大曲にも大いに活かされて、聴く者を確かな足取りで誘導するようだった。
 そしてそれは、このマズルカ全集のような小品の群れにおいても大きな効果を顕していると言えそうだ。とくに表現のパワーが以前より確実に勝り、同時にそれはきわめて自然である。各曲の個性を確信に満ちながら見事に弾きわけ、ひとつひとつの作品が、真っ直ぐに伸びた美しい花のように、ゆるぎない確かさをもっているところは聴いていて深い安心感を覚えるし、いわゆる聴き心地がとてもよろしい。
 今回あらたに感銘を受けたことのひとつに、マズルカの命綱ともいえる左手が刻む絶妙のリズムがあった。ダン・タイ・ソンの左手はマズルカを弾かせると、いかなるときもマズルカの命がそこに生きているような、しかも自然さを伴ったリズムの刻みを達成している。このマズルカのリズムというのがなかなかのくせ者で、その上に展開される素顔のショパンを、いかに内容をもって的確に表現すべきかが多くのピアニストを悩ませる課題ではなかろうか。
 だいたいショパンの弾ける人なら、マズルカは音符としてはそう難しいものではないが、このリズムをはじめとするマズルカだけが要求してくる固有の要素がある。例えばその微妙なニュアンスの維持は、ノクターンなどよりも表現の幅や変化が甚だしく、絶えず感性を研ぎ澄ましてショパンの移ろう心情を伝えなくてはならず、それ故の難しさがあるのかもしれない。ダン・タイ・ソンの生まれたベトナムという土壌になにかがあるのか、あるいは彼の天賦の資質なのか、そのへんのことはわからないけれども、ダン・タイ・ソンのマズルカには他のピアニストのような妙に気負ったところがなく、流れのままに詩を朗読しているように聞こえる。
 この無理のなさが全曲を下支えしているのは間違いなく、細やかな抑揚の波と節度ある歌い込みの中でショパンの言葉を自在に語っている。これに対して、以前発売されたワルツ集などは、なんとも方向違いでいただけないものだった。ワルツの三拍子もどこかマズルカ風だったというか、こちらはどうにも形に嵌らないワルツだったのである。しかし、芸術家というのは何もかもをオールマイティーにこなす優等生のことではないのだから、大いに出来不出来があってかまわないはずだ。そしてこのマズルカのように上手くいったときには、何か圧倒的な光を放つ仕事になっているのだから、我々はそれを享受し堪能すればよいのである。