#60.湿度管理

 このところ晴天に恵まれるはずの秋にもかかわらず、憂鬱な天候が続いて毎日空気が生ぬるかったり、急に寒くなったりと、どうも過ごしやすさというものがない。ある夜など、終始霧雨のようなものが降っていて、これがマロニエ君は一番嫌いで気分が塞いでしまう。降るならいっそ、はっきりと潔く降ってくれたほうがまだいいと思うのは、おそらくマロニエ君だけではないだろう。さらに嫌なのは、雨が降り出す直前のあのムンムンとした、腐った果実みたいな妙に蒸し暑い気配だ。
 
 秋の雨は一晩過ぎればカラリと晴れるのだろうぐらいに軽く思っていると、翌日もまた朝からしとしとと止まらぬ涙のような雨が降っていたりするとひどくがっかりする。秋に限らず長雨というのはとにかく嫌いで、人の心までべっとりと重く浸されるような感じがする。
 
 我が家のエアコンは旧式の集中管理タイプなので、この時代遅れのエアコンはエコとは正反対の代物で、電気代ばかりかかるくせに、今どきのエアコンのような除湿モードなんていう便利なものはない。そのためエアコンだけでは除湿が不足するので、昔からピアノの横にはいつも除湿器をおいて年中これを回し続けている。
 年中というのは文字通り冬もという意味で、冬場は石油ファンヒーターのやわらかな温かさを好むので、エアコンでなくこちらを使っているが、石油ファンヒーターは灯油が燃焼する際に湿気を放出するらしく、それゆえカラカラにならず心地よい温かさが得られるのだろうが、そのぶん湿度が上がり気味になることがあり、この場合も補助的に除湿器を回すことがしばしばある。
 
 マロニエ君の除湿器の使い方が激しいのか、製品そのものに大した耐久力がないのかよくわからないが、これまでに実に3台の除湿器が寿命を全うし、現在4台目の除湿器を使っている。激しいとはいっても24時間365日まわりっぱなしというわけではないが、まあとにかく稼働率が高いことは間違いない。
 湿度がじゅうぶん低くなっているのでたまさか除湿器を止めていると、夜中に雨が降りだした翌朝などは部屋に入ったとたん、ベッタリと皮膚にまとわりつくような湿度が充満していることがあり、ひどく後悔することがある。油断をすると皮肉にもこういう朝を迎えたりするものだ。しまったと思って湿度計を見ると、やはりというべきか湿度は60%をオーバーしていたりする。
 
 あわてて除湿器のスイッチを入れると、案の定、自動測定のランプは「高湿」が点灯し、通常よりも強い調子で懸命に回り始める。湿度というのはやっかいで、気温のように短時間で上げ下げできるものではないので、旧に復するには半日はかかる。
 
 どうがんばってみても自宅はしょせん日常生活の現場だから、ホールのピアノ庫のようなわけにはいかないが、それでも目標としては50%前後を基準においている。だが、それとて、これを一年を通じて維持するのはなかなか容易なことではなく、かなり骨の折れる仕事だ。しかし満杯になった除湿器のタンクの水を捨てるときなど、その盛大な重さや水量を両手に感じながら、これだけの水分が部屋の空気中に漂い、ピアノの奥深くまで達するのかと思うと、思わずゾッとしてしまう。
 
 主に木と金属とフェルトでできたピアノにとって、湿度や急激な温度変化が大敵であるのはいまさらいうまでもない常識だが、湿度が高いと木やフェルトが水気を吸って鳴りやタッチが悪くなるだけでなく、空気それ自体にも裾を引きずるような重さが加わって、つい人間側の気分まですっかり打ち沈んでしまうようだ。そんな状態の人間が調子の悪いピアノを弾いても相乗作用で良いことはなにもないのは当然である。
 
 考えてみると、ピアノは他の楽器にくらべると管理面ではとても恵まれない楽器といえる。そのどうしようもなく大きな図体と、ほとんど破滅的な重量のせいで、小さな楽器にくらべて持ち主からのこまやかな寵愛をうけるレベルが物理的にも精神的にも低いようだ。一般論として人間は自分より小さい物には容易に愛情を注いでも、ピアノのような特大の重量物には発揮しにくいものなのかもしれない。
 だからかどうかはわからないが、ピアノ弾きは元来、楽器に対する愛情の注ぎ方が他の器楽奏者よりもおしなべて低いのが相場で、湿温度管理などはコストの問題も絡むから、なかなか難しい面があるように見受けられる。人間のためにはエアコンをつけても、ピアノのためにそれを迷いなくできる人はそう多くはないだろう。
 
 高湿が温度変化がピアノによくないと理屈でわかっていてもそうなのだが、実際には認識さえない人のほうが圧倒的に多いということもあり、中には冷房自体が好きじゃないとか、健康のためなどと称して冷房をほとんど使わないという吝嗇家、湿度に対して自身がなんのセンサーも持たない人、あるいは寒冷地で床暖房などを設備した部屋に平然とピアノを置く人も少なくないと聞くから、それらからみれば我が家のピアノなどは、完璧ではないと思いつつ、まだマシなほうだといえるだろう。
 
 驚くべきは、リサイタルをするようなピアニストでさえ、ピアノの管理には徹底的に無頓着な猛者もいるらしく、雨の日に窓を開けっぱなしでガンガン練習したり、雨漏りの水がチューニングピンのあたりに落ちてきてピンが固着しても平気だったりと、これがウソのような本当の話なのだから呆れてものが言えない。ここまでくるとほとんどマンガレベルの笑い話だが。
 
 ところで、ピアノの湿度管理で思い出したが、湿度というのは木材だけでなく、金属に対してもいろいろな影響があるようで、より明確に言うと深刻なダメージさえ与えるものだということを、思いがけないところから知ることとなった。
 
 話は飛躍するようだが、現在アメリカのボーイング社が社運をかけて開発中の旅客機にボーイング787という新鋭機がある。これが従来の旅客機にくらべて、あまりにも革新的なハイテク機でありすぎたために、想定外の問題やトラブル発生が後を断たず、そのつど設計の見直しや改修作業などを余儀なくされて、航空会社への引き渡しはかつてないほどの規模で遅れに遅れている。
 当初の予定では2007年8月に初飛行。新型の航空機はその後、耐空証明などを取得するため厳しい試験飛行が1年近くおこなわれるから、順調にいけば翌年の中頃にはライン就航(商業運行)しているはずだったが、延期に次ぐ延期の悪夢が続き、ついには当初の予定から実に2年以上遅れて2009年12月にやっと初飛行までこぎつけた。ところがまたしてもボーイング社から延期が通告され、エアラインへの引き渡しと路線就航は、ついに来年になる見通しとなってしまった。
 
 まあ、そんなことはここではどうでもいいのだが、この787はこれまでの旅客機では常識だった金属製の機体や翼を捨て去り、より軽量かつ強度のある複合素材を採用した旅客機となった。この787以前にも新素材を使用した旅客機は存在しないわけではないが、あくまでメインは金属製で、新素材は部分利用に過ぎなかった。だが787では胴体など主要な部分の大半が新素材で占められ、そのうちの50%がカーボンファイバー製となる。その他の部分も様々な複合材が適材適所に使用され、アルミなどの金属はごくごくわずかしか使われない。
 いささかこじつけのようだが、カワイピアノのウルトラレスポンシブアクションも現在二世代目に進化し、使われる素材はカーボンファイバー入りの新素材になっている。精度や均質性に優れ、軽量で強度があり、木材に較べて環境の変化に強いというのがカワイの言い分のようだ。第二世代ではカーボン系ABS樹脂になったことで、色は従来の間の抜けた肌色から一転して墨色となり、こころなしか新素材による精悍さと説得力が出た気がする。弾いてみても従来型よりも軽さが加わったような印象があり、よくなっていると思うが、果たして技術者の目にはどのように映っているかはわからない。第一世代の樹脂製アクションは技術者の間ではすこぶる評判が悪かったとも聞いているが、そのへんの問題点は克服されているのだろうか。以前も書いた記憶があるが、ショールームにあるやや弾きこまれたSK-6では、他のまっさらの新品とは違って、アクションからほんのわずかだがカタカタという音がしていたから、いまだになんらかの課題を残しているのかもしれない。
 
 話は戻るが、この主にカーボン素材でできたボーイング787は金属よりも強度が期待できるぶん、客室窓の大きさが従来のものに較べて実に1.6倍以上大型のものになるほか、同じ理由で機内の気圧もより高くすることが可能となり、それだけ乗客の快適性が向上するといわれている。分かりやすくいうなら従来よりも低い山の頂上で呼吸できるようなもので、それだけ酸素が多いということだろう。また従来の旅客機では飛行中の湿度が6~8%、時にはゼロだったものが、787では最低でも12~15%まで維持できるようになったとのことである。
 その理由は、金属製の胴体では湿度を上げすぎると腐食の問題が出てくるのだそうで、ほんのわずかな機内湿度の違いが胴体の腐食の危険を招くという航空機のシビアな世界というのは驚きである。787ではボディがカーボンファイバー製になったおかげで腐食の心配がなくなったというわけだろう。
 
 したがって、ちょっとした湿度管理しだいでもピアノの弦の錆の進行も大きく左右されるということもじゅうぶんあり得るのではないだろうか。ただしピアノには木材と金属が同居しており、湿度が低いほど金属にはダメージがないかもしれないが、木材は人の皮膚同様まったく逆の状況にさらされることになる。
 実はマロニエ君は飛行機に乗ると、目的地についたころには手の甲や指が必ずといっていいほど痒くなるという現象が起こるのだが、理由がわからずに長いこと謎だったのだが、なんのことはない極端な乾燥状態にさらされることによるものだったようだ。
 湿度がしばしばゼロにもなるカラカラの機内を主な職場として、絶えず激務にさらされるキャビンアテンダントなどは、この点はさぞかし辛いことだろう。職業必要上、最も保湿などのケアに詳しいのはもしかすると彼女たちかもしれない。
 
 ピアノにとっての一番の大敵はとりあえず湿気ように思われるかもしれないが、その中でもより恐ろしいのが過剰な乾燥状態である。床暖房が最もピアノにとって過酷であるのもそのためで、乾燥のしすぎというのはある意味で尋常の多湿よりも木材にはよほど厳しいものとなる。乾燥したところにピアノを長いことおいておくとピアノの命である響板にクラックが入ったり割れたりという最も致命的なことが起こるので、関東から西にはそういう心配はあまりないかもしれないが、東北から北海道地方ではこれはよほど気をつけなければならないだろう。
 もし仮に、豪華船のごとき旅客機ができて、そこにピアノでも設置しようものなら、その強烈なエアコンによる乾燥に晒されてひとたまりもないだろう。空のピアノとして思い出したが、かの有名なドイツの巨大飛行船ヒンデンブルク号には、特別に軽量設計されたピアノ(ブリュートナー)が乗せられていたというが、これは飛行船が与圧の要らない低空飛行を前提としたものだからこそ可能だったのだろう。
 
 それほど湿度がピアノに与える影響というのは大きいというわけで、これはさる技術者から聞いた話だが、近年のスタインウェイは響板のニスをかなり厚塗りするようになったらしい。ニスの厚塗りは響きに影響するのは当然で、かつてのヴァイオリンの名工達がいかにこのニスの調合と塗り方に試行錯誤を繰り返し、想像を絶するような心血を注いだかを考えれば、自ずとその重要性がわかるはずである。それでも敢えて厚塗りするというのは環境からの保護目的以外にはないだろう。
 
 最近発売された音楽雑誌モーストリークラシックのスタインウェイ特集では、工場の探訪記の中で仕上げ塗装の違いに触れられており「仕上げの違いは嗜好の違いだけで音響にはまったく影響しない」と書かれているが、これはいささか同意しかねる意見だった。
 現在のスタインウェイの場合、ハンブルク製はポリエステルの艶出し仕上げ、ニューヨーク製はラッカーのヘアライン仕上げ(艶消し)と決まっているが、最近はニューヨーク製にも艶出し仕上げが存在するし、逆にハンブルクは以前は艶消しが主流だった。経験的に同じ年代のハンブルク製でも艶消し仕上げのほうが音にやわらかさがあり、つや出しのほうが全体に硬質な音がすると思う。
 ニューヨーク製はもともと音はやわらかいが、ピアノ自体はたいへん良く響き良く鳴る。だが敢えていうならやや音に芯と重厚さがない。その音色の違いがでてくるはっきりした根拠はわからないが、ニューヨーク製はリム自体に楓が使われているということと、ラッカーの艶消し仕上げの塗装自体が比較的薄く塗ってあることにもその理由があるように思える。こう書くと両スタインウェイではハンマーの特性がまったく違うことを挙げられる方もおられることだろう。それはたしかにその通りだが、ニューヨーク製にハンブルクのハンマーを付けても、表面の音は変わるが楽器が生まれ持つ生来のこの音響特性は変わらないのだ。
 クライバーンコンクールで辻井伸行が弾いたピアノがニューヨーク製の艶出し仕上げだったが、このピアノはニューヨーク製としてはカッチリと腰の座った明瞭感のある音を出していたように記憶するので、やはりそこには外装の仕上げの違いもある程度は影響しているように思われる。
 男の隠れ家という雑誌の「音楽の空間」という特集号では、スタインウェイのシステムピアノ(塗装をしていない状態のピアノ)のD型を所有するピアニストの清水和音がこのピアノのことについて触れているが、「厚い塗料がないだけに湿度に弱く管理が難しいが、そのぶん楽器が軽いのでいい音がする」というようなことを述べている。要するにピアノの塗装は見た目の美しさだけでなく、木材の保護の意味もあるということだ。人間の着る服がおしゃれと防寒を兼ねるようなものだろう。
 ピアノメーカーが外装にも響板にも塗料を厚塗りするのは、それだけ塗装という衣装を着せ込むことで、理想の環境に期待していないということの表れだろうし、そうすることが必要なほど、あの大きくて重い、一見いかにも強そうなピアノは、実はとても弱々しいセンシティブな楽器だということがわかる。
 
 ピアノにとっていい環境は人にとってもいい環境というのはやはり間違いではないようだ。
 
 
 蛇足ながら、先に述べたボーイング787が誕生することになったのは、日本の全日空がキックオフカスタマーとなったからである。キックオフカスタマーとは、機体の製造会社による新型機開発の概要提案(まだ実際の飛行機は存在しない)に同意した航空会社が、その計画段階の飛行機を発注することによって、それが実際に開発され製造されることが決定するきっかけを作った航空会社であるということだ。裏を返せば航空会社が関心を示さないような飛行機は開発もされないわけで、787は全日空の大量発注を得ることで開発製造プロジェクトが動き出した。これは航空会社にとっても航空史にその名を刻む栄誉あることで、とりわけ787のような革新的な大型機の場合はその意味合いも大きい。ちなみに全日空の発注数は55機という大きなもので、さらに日本航空と合わせると日本からは90機の発注となり、GDPで日本を追い越し世界第二位となった中国では、主要航空会社5社の合計でも57機だから、まだまだこんなところに日本の経済力の底力を垣間見ることができるのである。
 というわけで、今回は少々ピアノの話から脱線したことをお許し頂きたい。