#61.今年聴いたショパン(6)

No.31[バルト・ファン・オールト]CD
 オールトは純粋なコンサート・ピアニストというよりは、高度な技術と豊かな学識の両面を備えたフォルテピアノ奏者&音楽学者である。ベルギーのコンクール優勝後は、名門コーネル大学でマルコム・ビルソンのもと、歴史的演奏の実践面における研究もおこなっているらしい。これまでにモーツァルトやハイドンなどですばらしい演奏を聴かせていたが、一転してショパンとその周辺に取り組んだようだ。ショパンは一般的な21曲のノクターンと、ノクターンの創始者として知られるジョン・フィールドのノクターンも15曲ほど収録されているが、ここでは主にショパンのみの印象とする。
 楽器選びがまた興味深い。フィールドのノクターンでは1823年製のブロードウッド、ショパンのノクターンではプレイエルとエラールを作品によって弾き分けている。Op.9/72/15/32/62他では1842年製のプレイエル、Op.27/37/48/55他では1837年製のエラールを使っている。
 オールトの特徴としてはフォルテピアノ演奏にありがちな脆弱さや朴訥な印象を回避して、生命感あふれるよりダイナミックな表現を試みている点だろう。基本的にはおおむねオーソドックスなショパンで、とくに風変わりなところがあるわけではないけれども、ときに表現過多な面が作品をはみ出してしまい、フォルテが強調されすぎる面などがあることはあるが、さりとて目くじらを立てるほどのものとはいえないだろう。繰り返し部分などにオリジナルにはない装飾音などが散見されて、これまでの型にはまったショパンにはなかった即興的な一面があり、これはこれでそれなりのおもしろさをもって聴くことができる。それよりも気になるのは、数箇所に明らかに楽譜の読み違えでは?と思われるところがあり、全体に好ましい演奏であるだけに残念な気がする。とりわけオールトが音楽学者であることを考えると、これはなんとも意外な気がする。
 ピアノの音はどれも百数十年経過した古楽器なので、あくまでこの3台に特定した印象しか書けないが、現代のモダンピアノに一番近いのはここではエラールである。全体に上品で軽い音色を持つフランスのピアノという気がするが、強い個性もなくバランスも非常によい。それに対してプレイエルはやはりある種の濃厚さがあるし、ここで聴くプレイエルは製造年は最も新しいがフォルテピアノらしさも強めで、現代人の耳には違和感を与える一面もあるだろう。しかし、この特徴がしだいに発展して、後のモダンピアノでのプレイエルが到達したあの華麗であるのに陰翳のある、一種の毒性の混ざったプレイエルサウンドに結実していくのだという予感がある。それに対して、思いがけない美しい音を聴かせたのがフィールドのノクターンで弾かれたブロードウッドだった。ブロードウッドがイギリスのピアノで、しかもベートーヴェンが愛用したメーカーともなるといやでも重厚な音色を予想するが、ここにきくブロードウッドは大変華やかで可愛らしい音のピアノだった。フィールドというアイルランドの作曲家の遺したノクターンは、ショパンのそれのような高度な芸術性や美の結晶のような高みに達しているとは思えないが、どれも素朴な美しさに溢れた魅力的な佳作であると言えるだろう。
 
No.32[ダヴィッド・ゲリンガス(チェロ)&イアン・ファウンテン(ピアノ)]CD
 これを書いた時点で、つい数日前に発売されたばかりの新譜。チェロ・ソナタ ト短調 作品65、序奏と華麗なるポロネーズ ハ長調 作品3、歌曲集『ポーランドの歌』作品74(チェロとピアノ版)より7曲、マイアベーアの歌劇『悪魔のロベール』の主題による大二重奏曲ホ長調が収録されたCD。かのロストロポーヴィチに学び、1970年のチャイコフスキー国際コンクールで優勝していらい、国際的な活動を続けるドイツのチェリスト、ダヴィド・ゲリンガスが、ショパンのチェロとピアノのための代表作を網羅した作品集を新たに録音している。歌曲集『ポーランドの歌』は歌曲からの7つの編曲で、歌劇『悪魔のロベール』の主題による大二重奏曲は22歳のショパンとチェリストのアウグスト・ジョセフ・フランショームとの合作という珍しい曲で、これらの曲は通常演奏されることは滅多にないので、これだけとっても貴重なCDだと言えるような気がする。
 ゲリンガスとファウンテンのふたりは、既にベートーヴェンのチェロソナタ全集などを筆頭に、メンデルスゾーンやラフマニノフのチェロソナタなど、主だったチェロの大作を共演・録音しているだけあって、互いをよく理解し合い、音楽的な質の点でもバランスの取れた演奏を聴かせる。とりわけ印象的なのは、あくまでもがっちりとした線の太い、骨格のある楷書の演奏で、ショパンらしい詩情の発露や音色の妙を楽しむ音楽ではなく、ほとんど建築的な構成美を追及した、どこまでも男性的な力強い演奏となっているところがおもしろい。それもおよそ中途半端なものではなく、徹底して自分の演奏スタイルをがっちりと守り通しているのには、さすがはドイツ人と恐れ入る。こういうふうに演奏されると、ショパンがまるでドイツ音楽のように聞こえてしまうから、演奏表現とは真に不思議なものである。
 はじめから終わりまで、一瞬たりともおろそかな部分とか曖昧さの一切ない、どっしりと腰の座った演奏なので、ショパンのあのそこはかとなく立ちのぼってはゆらめくような繊細で壊れやすい美とは程遠く、おそらくは一般的なショパンのイメージに沿った演奏をする気など微塵もないといった風情だ。どの曲のどの部分を聴いても常に隆々と溢れんばかりの充実した力感に満ちた響きが繰り広げられるのはあっぱれというべきか。ソナタなどはこれまで聴いたどの演奏よりも勇壮な大曲に聞こえる。最近ではピリオド楽器による軽快で活き活きとした演奏などが優勢を占める潮流があることもあり、こういう正面切った重厚無比な演奏は、それだけでひどく時代がかった懐かしいものにも思えてしまう。ソナタの出だしの、ピアノの序奏の付点音符の数音を聴いただけでもいかにも四角四面という印象で、これはなにやらご大層な意味深長なものの始まる予感があったし、全体を流れるピアノパートのいかにもショパン然とした流麗な表現も悉く排除されている。ピアノ自体はスタインウェイだが、ピアニストが出してくる音はドイツのそれで、硬い実直な真面目一本のピアノである点は、ファウンテンの個性もあるのかもしれないが、むしろゲリンガスが要求するものだろうという気がする。
 これだけ徹底してショパンから繊細甘美で繊弱な因子を濾過器を通したように排除すると、ショパンの音符はそのままでも厳めしいドイツの作品のようになってしまうだけでなく、シューマンやメンデルスゾーンにみられるようなドイツ的ロマンティシズムや典雅ささえもないのは、それだけショパンが古典主義的な技法によって論理的に筆を進めたということの証明のような気もしなくはない。
 それはともかく、ショパンはショパンらしく聴きたいマロニエ君としては、これはなかなか面白いCDではあるけれども、何度も聴くような愛聴盤にはならないだろうと直感していた。ところが二度目三度目を聴くにしたがって、だんだんこの演奏の本意がわかってきて、感覚的にも拒絶しないものになってきたのは自分でも驚いた。そしてこれは決してドイツ人演奏家の独善でも独りよがりでもないことがわかったのである。まずもって立派な解釈として成立しており、きちんとした仕事はなんであれ気持ちがいいように、この演奏の誠実さがしみじみと心に滲みてくるようになった。それからというもの、このドイツ的なショパンをしばしば聴くようになっている。
 
No.33[ジャン=フレデリック・ヌーブルジェ]CD
 フランスから器の大きな新人ピアニストが出たらしいというので、さっそくCDを数種を取り寄せて聴いてみた。まずはショパンのエチュード全27曲。Op.10-1の出だしからしてまず感じさせることは、フランスには珍しいストレートな技巧派であることを特徴としていると第一に感じる。曲が進むにつれわかってくることは、この人にはまずなによりも高度な技巧を最大の持ち味とし、そこに多くを依存した演奏であるという点で、多くのフランス人ピアニストにあるような様々な個性や、どこか他とは違ったセンスや意表をつく発想で切り込んでくるアプローチとは違い、いわゆる無国籍風、コンクール出場者風のピアノである。
 エチュード全27曲はいかにも次々に手早くパッパと片づけられていくといった風情である。ヌーブルジェは作曲も手がける俊英とのことだけれど、決して悪い演奏とは思わないが、いわゆる今風の指の達者な若者の演奏という印象が前面に出ているようで、この音楽家固有の何かが聞こえてきて、それが聴く者の心に何らかの形でもって食い込んでいくるといった気配はこのエチュードではあまりない。表現もいわゆる奥行きや立体感といったものがあまり感じられず、いわゆる平明な印象である。
 オーヴェル・シュル・オワーズ音楽祭のライブ盤は2枚組で、一枚がすべてショパンを弾いているが、やはり技巧優先の印象はあるが、しかしエチュードよりもいくらか味のある演奏になっているのは二年という歳月のなせる技か。こちらのCDではじめてフランス人らしさを感じたのは、全体に野暮ったいところが一切無く、ディテールも小味で気が利いているのは確かなようだ
 ヌーブルジェは現在24歳で、このライブ盤演奏時はわずか19歳だったのだからその点はいくらか考慮したい気もするが、ピアニストは大体この歳で基本は固まり老成した音楽を聴かせるのも決して珍しくはないから、通常の社会人のような感覚で見るのは適当ではないだろう。この中ではアンダンテスピアナートと華麗な大ポロネーズは非常に落ち着きのある美しい演奏だった。
 さらに二年後に東京のサントリーホールでおこなわれたリサイタルのライブ盤があるが、基本的にはやはり大きな違いはないが、精密度はさらに一歩進んでいると感じた。ここでも、じっくりと作品と向き合うとか路傍の花に目を向けるよりは、もっぱら爽快なスピードと鮮やかな技巧を楽しむ演奏であろう。だが、バラードの2番などでも、なぜそんなに急がなくてはいけないのかと思うほどスピードを出して、マロニエ君にはスピードを楽しむというよりはただせかせかとした落ち着かない気分になるだけだ。同じヘ長調で合わせたのか、続けてノクターンのOp.15-1も弾かれるが、中間部になると待ってましたとばかりに爆発的にテンポアップし、難所を一気呵成に弾き抜ける。ああ、ここをこう弾きたいものだからこの曲を選んだのだろうなと思ってしまうような、そんな演奏だった。
 それらに較べると、バッハの半音階的幻想曲とフーガやイギリス組曲、リストのロ短調ソナタなどは遙かに立派でサマになった説得力のある演奏だったし、それはおそらく同じ弾き手であっても、バッハやリストのほうが作品が演奏の多様性を受け容れ、許容量が大きいということでもあるような気がする。それほどショパンは演奏家に求める作品固有の要素が厳しく独特で、これに合致しなければ頑として拒絶反応を示すような神経質なまでの美の有りようを内包しているということなのだろう。
 だがヌーブルジェにはなにか不思議と人を惹きつける魅力があることも確かだから、今後も注目していきたい数少ない若手ピアニストである。言い忘れていたが、フランス人ピアニストには少なからずヤマハ好きがいるようで、ヌーブルジェもわりにヤマハを使っているようだが、たしかにスタインウェイのダイナミズムよりも、ヤマハの均質感を好むピアニズムというのが聴いていて理解できる。
 
No.34[ジャニーナ・フィアルコフスカ]CD
 気が付いてみれば、カナダという国もなかなかのピアニスト輩出国のようで、このフィアルコフスカという閨秀ピアニストもその一人であるらしい。かのアルトゥール・ルビンシュタインから「生まれながらのショパン弾き」と称されたという。CDは二枚組で、一枚目は作品10/25のエチュード全曲、もう一枚はソナタ2番、4つの即興曲、ソナタ3番という明解かつ充実した内容である。
 この人の演奏はぜひ聴いてみたくてずいぶん前に注文していたが、輸入元に在庫が無く3回ほどのキャンセル勧告を退けて尚購入の意志を示し続け、やっと届いたCDであった。それなのにエチュードに関してはまったくの期待はずれだった。優れたピアノ演奏の根拠を指のメカニックにあるとは思わないけれど、しかしショパンのエチュードを全曲録音してCDとして連続して聴かせるには、そこはやはり抜きんでたテクニックが必要であることは疑いの余地がない。第一曲からして粒立ちの悪い、無理を重ねた苦しいテンポの演奏ということが痛いようにわかるし、全体的にも指に余裕がないことから来る落ち着きの無さ、必死さばかりが伝わって、演奏と作品の関係に高い接点が得られず楽しめない。
 こういう演奏を聴くと、ショパンのエチュードに内包される芸術性に慣れている耳にも、やはり演奏する上での実体は、あらゆるテクニックを要求してくる容赦ない技巧曲集でもあることがわかるものだ。
 エチュードですっかり出鼻をくじかれた感があったけれど、我慢して二枚目をかけてみると、意外なことに別人のように良好な演奏を聴かせてくれたことは嬉しい驚きだった。ソナタがエチュードに較べて技巧的にやさしいということは決してないけれども、技巧を24曲に凝縮して割り振られたようなエチュードに較べると、ソナタは曲も大きく構造的な要素も出てくるし各所の対比や広がり、あるいはストーリー性などの要素が入ってくるので、こういう曲のほうが彼女の本領が出るのだろう。どれもこれといった異論のない、神経になにも逆らうもののない、まとまりのある演奏であるが、強いていうならそれだけで終わっているのが残念である。ショパン演奏に必要な勉強はきちんとできているが、聴く者の心に訴えかける、演奏から来るファンタジーはあまりない。
 ずいぶん前にルイ・ロルティのショパンの新しい録音を少々批判した覚えがあるが、彼ほどではないにせよ、なにかそこには共通したものがある。それがカナダという土壌のせいにするのはあまりにも話が安易すぎる気もするが、しかし演奏者のバックボーンになるものというのは、見過ごすことができないものがあるのだ。カナダがどのような国かもほとんど知らないし、ましてや音楽教育がどのようにおこなわれているかももちろんマロニエ君は知っているわけではない。ただ、感じるのは、本来彼らには無いはずのものを勉強や努力によって身につけて、ようやく一人前のピアニストとして大成したという感じが拭いきれないのである。生まれながらに自分に備わったものではないものには、道を誤らないことに意を注ぐあまり、大胆さや独創性が発揮しがたいことがあるが、そういう場合につきものの小さく無難にまとまってしまう感じが残ってしまう。
 これはいわば言語上のネイティブと同様で、母国語でしゃべるときの自由闊達がないステレオタイプに陥ってしまうということかもしれない。
 ついでながらルビンシュタインとの共通点もある。ショパンをなによりも自分の中心に置きながら、エチュードが苦手で、即興曲などは耳で聴く限りでは、ルビンシュタインと同じ版をつかっているようだ。とりわけ幻想即興曲の中間部などはまったく同じバージョンであるところがおもしろかった。
 しかし、いろいろと言ってはみても、2つのソナタはまことに素晴らしい美しい演奏であることもやはり間違いないと思う。ピアノはいずれもニューヨーク・スタインウェイで、この楽器ならではの豪勢な低音の鳴りや、かすかにゆらめく響きの特徴と、あくまでもまろやかな音色が楽しめる。
 
No.35[リーズ・ドゥ・ラ・サール]TV
 若手音楽家の育成を目指し、バーンスタインによって1990年からはじめられたPMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)は毎年夏に札幌で開かれていて、今年の演奏会の様子が放映された。指揮はイタリアの名匠ファビオ・ルイージで、曲目はショパンのピアノ協奏曲第2番とブルックナーの交響曲第7番。ピアノはフランスの新星、リーズ・ドゥ・ラ・サールで今年の初め頃、同じくファビオ・ルイージの指揮、シュターツカペレ・ドレスデンで同曲のCDがリリースされているので、彼女にとってはいま最も弾き込んだコンチェルトなのだろう。
 演奏はきわめてデリケートかつリリックな表現が主流をなしているが、全体としてはなにか強いものが音楽を引っぱっていくようなパワーはあまりない線の細い印象は拭えない。さらに、いわゆるフランスのピアニストの弾くショパンの風みたいなものはあまり感じなかったが、随所に繊細な表現を聴かせるところがあることは確かなようである。この人はいわゆる美少女系ピアニストといわれるらしいが、華奢な体に長い金髪をたらしてピアノを弾いている人形のような姿は、ピアニストとしてはあまり収まりがよくなく、オーケストラと共に大舞台に立つ演奏家としてはいささか心もとない印象がした。強いて言うならばアメリカの美少女コンテスト風とでも言うべきか、これはこのピアニストにとって決してプラスの要素にはなっていない印象がした。そこで機械を替えて、音だけで聴いてみると、実はこのほうがはるかに好ましい演奏であることが確認できたのは思いがけない、そして嬉しい驚きだった。
 視覚的な要素が余計な先入観を差し挟まないぶん、繊細な表現はいっそう説得力を持ち、細やかな神経が行き渡り、そこにはたしかにひとつのショパンが鳴っていることが頷ける。次第にはじめに抱いた必ずしもプラスではなかった印象は変化しはじめ、ショパンのサウンドに対して非常に鋭敏な感性をもっている点と、的を得たルバートが多用される点では、むしろ往年のショパン弾きであったコルトーやローゼンタールのような、主情的な美意識に溢れた耽美性を感じるといったら言い過ぎだろうか。総論としてなかなか美しい痩身のショパンを聴かせるピアニストだということはわかったが、しかしそれは同時に彼女の演奏の美点や魅力が、大ホールのステージで効果を上げるわかりやすいタイプの演奏ではないということも意味しているようだ。映像を見る限りではなかなかわかりにくいが、音だけを聴くと、一貫した流れと非常に誠実な解釈に基づいた音楽が聞こえてくるのはあまりにも意外であった。
 なによりも彼女の美点だと言いたい点は、現代の若い世代の、無機質だけれども競争を勝ち抜くことに汲々としたピアニストの中にあって、珍しいほど自己に忠実であり、自分の情感とショパンの精神を丁寧にすり合わせながら、ひとつひとつの表情をゆっくりと描き出してみせる。それがそのまま作品への忠誠と奉仕へも反映されて、これはもしかしたらかなり質のよいショパン弾きになるのかもしれないとも思う。CDではコンチェルトの他にバラード全曲も収められているようなので、ソロもぜひ聴いてみたいと思うようになってきた。音色も女性ピアニストにありがちな、ピアノに自分の情念をぶつけるような荒々しさがなく、落ち着いた肉のある美音であるが、願わくはもう少しだけ肉厚になれば、いっそう甘く美しい音色になるだろうと思われる。
 はじめの映像を見た段階で、これほど判断を誤ったことは我ながら珍しい経験だったが、それほど視覚的要素と音楽が噛み合っていない証左だとも言えるだろう。
 
No.36[ギャリック・オールソン]CD
 批判に終わってしまったバレンボイムのような商業主義の奴隷のごときピアニストを別とすれば、ギャリック・オールソンほどマロニエ君の好みに合わないショパン弾きも珍しかった。オールソンのことは長いこと見向きもしないできたが、1990年代に主要なショパン作品をアメリカで再録したらしく、今回購入したのは24のプレリュードと4つの即興曲他が収められたものと、ポロネーズ集の2枚だが、プレリュードのハ長調の出だしからして早々にいやな予感がした。本来の実力というか、ピアニストとしての潜在力はあるはずだが、とにかくこれほど華のないモッサリとしたピアニストというのもちょっと珍しいのではないか。聞こえてくる演奏から察するに、非常に真面目に音楽に取り組み、自分なりの解釈と表現をしているのはわからないではないが、撃つ玉撃つ玉が的を外れてしまう。
 曲ごとの表情も演奏者の素直な、あるいは必然的な内面の表出ではなく、なにかわざわざ表現らしきものを敢えて考え出して弾いているようで、聴いていてまったく流れに乗ることができない。というか流れそのものがない感じだ。大人しいといえば大人しいというか、やみくもに慎重で、腫れ物にでも触るように抑制して弾くことが芸術的演奏とでも思っているのではないかと思ってしまう。まるで人間の機微におよそ疎い山男のようで、およそパリの社交界でその名が轟いたショパンの瀟洒な世界とは程遠い。とりわけ24のプレリュードはその傾向が顕著で、最後まで聴き通すだけでも神経が逆撫でされっぱなしで骨が折れた。その点では即興曲のほうがいくらかまともで、華がないことはないけれども、ともかくも普通のテンポで変人風なところも少なめに前に進むので、それだけでもホッと一息できるようだった。しかし気になる点もあるわけで、それはこの即興曲はマロニエ君の耳には先のフィアルコフスカ同様、かなりルビンシュタインを下敷きにしているように聞こえて仕方がなかった。もしそうだとするとよくよく彼には音楽的主体のない人なのかもしれない。
 このCDはベーゼンドルファー・インペリアルで演奏されているが、そもそもショパンにこのウィーン訛りそのものみたいなピアノを使うこと自体からして、ショパン弾きとしての基本センスを疑ってしまう。もういっぽうのポロネーズ集はアンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズのみオーケストラ付きでピアノはスタインウェイだが、1番から幻想に至るまでの7曲は、なんと珍しいことにメイソン&ハムリンが使われていて、実はCDとしてははじめてこのピアノを聴くことができて、その点では軽い興奮を覚える。
 基本的な傾向としてはやはりアメリカピアノという印象だが、例えばボールドウィンのようなやや酒場の蓮っ葉な女性のような声ではなく、よりクセの少ない、そこそこバランスのとれた良質なピアノだと感じ、スタインウェイを別格とするとアメリカピアノでは最上級の部類ではないかという気がした。アメリカのピアノはいわゆる緻密ではないがよく鳴って音色は柔らかく、やや鼻にかかったようなハスキーな音色というイメージがあり、背筋を真っ直ぐにのばし澄んだ硬質な音を基本とするドイツピアノとはある意味で対象的である。マロニエ君からみると、アメリカピアノには美味しいステーキのような豊かでざっくりした魅力があると思うけれど、日本人は楽器や高級品に関しては頑なにヨーロッパ指向だし、自国にも優れたピアノがあるから、これらが入り込む余地はないのだろう。
 オールソンの演奏はポロネーズのような、どちらかというと腕力を必要とする曲のほうがはるかに相性がいいように感じる。先に述べたように演奏にキラリと光る魅力はないけれども、垣間見えるテクニックにはやはり並のものではないことがはっきり確認できるから、まことに惜しいピアニストだと思うばかりだ。
 よくぞこういうタイプの人があのショパンコンクールの覇者となることができたもんだといまさらのように思った。そのことは本人もずいぶんその重圧に耐えて過ごしてきたのではないかと思われる。ちなみにそれは1970年のことで、このときの第2位が内田光子である。内田の今日のピアニストとしての評価と地位は立派なものだが、彼女とて、もともとショパンコンクールというようなタイプのピアニストとはまったく違うし、出場したことさえ違和感があるぐらいだから、よほどこの年はスターが不在だったのだろう。