#63.2010年ショパンコンクール雑感

 ショパンコンクールの結果についていまさら云々する気はないというのは、ブログなどですでに書いてきたことである。
 
 それは基本的に、すでに出た結果に対していまさら部外者がつべこべ言っても仕方がないことと、納得できるピアニストが優勝をしたとは今でも思っていないからだ。
 もちろんそれは優勝者のユリアンナ・アヴデーエヴァが良くないピアニストだと言っているわけでは、まったくないし、そもそも出場者の全部を聴いているわけでもない。厳正な相対評価をしたらなるほど結果は妥当なものであったのかもしれないが、それはマロニエ君ごときにはわからない。しかしながら、このところの優勝者はいわゆる我々が期待するような傑出した大物(過去のショパンコンクールが輩出したような)ではないという落胆も大いにあるような気がする。
 
 あらゆる面に於いて時代が変わり、ショパンコンクールとてその例外ではいられない。ここ20年ほど、若い世代のピアノ弾きの体質が確実に変化してきているということが言えるようだ。
 これはピアニストに限ったことではなく、時代的に効率よく訓練されたスペシャリストは育っても、そういうものを超越したところに屹立する大物やスーパースターがぱったり現れなくなったのも、それを産み落とすための力、すなわち時代的必然性がなくなったということだろう。ピアノを弾く能力も素晴らしく優れているけれど、その上手さの質感や出てくる音楽の味わいになにか違和感が残るし、なにか共通した疑問を感じるのもあいかわらずである。
 
 このコンクールを特集した雑誌を読んでいると、さまざまなレポートや参加者あるいは審査員のコメントがかなり丁寧に掲載されていて、ひとつひとつは一応おもしろく読むことができたけれど、いかにもいまどきの出版物らしく字数だけはあるが、どれひとつとして勇気と責任をもって真相に迫ったものがなく、なんとなくわかったようなわからないような釈然としないものが残るのも事実であった。
 なにか最も重要な部分を知っていても敢えて避けているようで、コンクールを客観的に分析し、核心に迫ったものがない。これも今どきの風潮で、あまり核心に迫ったり辛辣なことを書いたら、執筆依頼が来なくなるという恐れがあるのだろう。今は上から下までみんなそうだ。
 話は脱線するが、演奏会批評も同様で、基本的に褒めまくりのちょうちん記事のようなものばかりで、申し訳程度にこれこれの問題点や未消化部分もあったと軽く流すだけである。それは雑誌が広告収入で成り立っており、広告主といえばコンサートを行う演奏家もそのはしくれである。小さくとも料金を支払って広告を出す相手は、出版社からみればお客さんであって、そのお客さんの演奏を批判するような批評文は書けないという、まことに経済原理以外のなにものでもない構造だけが機能している。
 
 ところが、たったひとつだけ、最後の最後に、これだと思える著述があった。このコンクールの審査歴の長い一人の日本人ピアニスト(今回は審査員ではなかった)の短い文章は、まさに正鵠を得て真相を付いており、すべてに納得がいった。この人の演奏は嫌いというのを通り越して音楽とさえも思っていないけれど、才気あふれる人であることは確かなので、発言の中にはときとして問題の核心が含まれていたりするので、ピアノよりは話のほうがまだしも値打ちがあると思っている。
 そこにはマロニエ君が春頃から予想していたことがあまりにも的中していたので、「やっぱり、それみたことか!」という気分と、いまさらながらコンクールというものは実態を知るとなんとつまらないものかという現実をあらためて噛みしめるに至ったわけである。
 もっともマロニエ君が的中させたのは下記の(2)だけであるが。
 
 その日本人ピアニストの文章を含んだ上で、マロニエ君なりに今回のショパンコンクールを動かしている思惑の実体をまとめてみると以下のようなものになる。
 
1)85年のブーニンの優勝を最後に、1990年/1995年と二度にわたって優勝者を出さなかったために、この世界的なコンクールへの危機感を募らせた関係者は、2000年以降は「必ず優勝者を出すこと」がコンクールの第一の方針となった。これはつまり審査基準の絶対評価から相対評価への変換を意味し、場合によっては優勝者の質の低下をも容認するということになるだろう。いうなればコンクールの権威を犠牲にしてでも、イベントとしての完結性を重視したというわけだ。ましてや今年はショパン生誕200年に開催される歴史的コンクールとなるのだから、優勝者ナシは絶対にあってはならないことである。
 
2)2000年、ついにアジア人のユンディ・リが優勝したように、このところの日中韓のアジア勢の台頭(とりわけ中国と韓国)はめざましい──ヨーロッパ人から見れば目に余る──ものがあるが、実際の演奏技術としては上手いし、同時に欧米がふるわないのだから表だっては文句の付けようがない。しかし、ヨーロッパ最高権威の(つまりは世界最高を自認する)ショパンコンクール、わけてもショパン生誕200年という節目の年に開催される歴史的イベントとしては、再度アジア人に優勝させるのはヨーロッパ人から見れば歴史的にも感情的にも到底容認できないものがある。理想としてはポーランドの優勝が望ましいが、これは前回ブレハッチが優勝したし、そう都合良くは行かないだろうから、せめてヨーロッパ圏内からの優勝者という範囲にとどめたい。
 
3)だからといって審査に明らかな不正操作を介入させられる時代でもない。昔ならまだしも、現代のようにあらゆる情報が瞬時に世界中を飛び交う時代になると、高度な政治家でもないコンクール関係者のレベルでそのような工作をしたとしても到底極秘裏に成功させることはできないだろう。
 もう一つの問題は、ショパンコンクールに於いては単なるピアノ演奏技術の優劣のみならず、ショパンらしさを問うコンクールでもあるわけだから、そうなると、すでに西洋音楽にも十分親しんでいるアジア人が、ショパンらしい正当な解釈という点では白紙から徹底的に研究を尽くして攻めてくるアジア勢の熱心さにはとてもヨーロッパ勢は気質的にもかなわない。「ショパンらしさ」が裏目に出たかたちともなる。
 これは困ったことになった。
 
4)そこでとられた手段が、審査員の主観に依存するという工作のバレる心配のないやりかた。
 エキエルやハラシェヴィッチのような中心人物以外は、審査員の顔ぶれを一新することで従来型のベテラン審査員や、有名教師やショパンの権威者を極力排除し、可能な限り世界的に活躍する著名な現役ピアニストを新たに呼んでくる。そのリーダー的存在としてアルゲリッチを口説き落とす。
 現役ピアニストは自身がすぐれた芸術家としてステージに立っているほどだから、人並み外れた鋭敏な感性や審美眼は当然持っているとしても、他者を冷静に評価することや政治的配慮を働かせたりするなど、客観的かつ総合的な判断力やバランス感覚などに必ずしも優れているとは限らない。自分がピアニストという現場人の経験から、ピアニストとしてのテクニックや体力などの適性、あるいは芸術家としての個性や明確な表現力を重視する傾向にもあるだろう。
 もっとはっきりいうと、彼らはピアノは世界的レベルでも、審査の一流人であるか否かは甚だ疑問の残る点ではあるまいか。
 彼らの価値観の前では、伝統的なショパンの解釈は尊重されるとはいっても、どの程度斟酌されるのかは甚だ曖昧だし、むしろあくまでステージプレーヤーとしての個性や感性を重視してものを見る傾向が強いだろう。そうなれば俄然ヨーロッパ勢が有利となり、その評価軸の前ではアメリカでさえも不利となる。
 彼らを審査員席に座らせることは、上記のような要素だけでなく、イメージの上でもコンクールのこの上ない看板になるし、今回の豪華な顔ぶれはいかにも審査陣が一新されたという印象にも繋がり、まさに一石二鳥というところであろう。マロニエ君の個人的な印象としては、信頼に足る審査の面々というよりは、有名ピアニストを華やかに並べただけという一抹の不安を拭うことはできなかったように今でも思われる。
 ついでながら、審査員をピアニストだけに任せるというのは疑問の余地があるだろう。これはもちろんショパンコンクールに限ったことではないが、とにかくピアニスト審査員が多すぎる。むろんズブの素人では困るが、指揮者、作曲家、音楽プロデューサーなど業界関係者など、もう少し広い範囲からさまざまな判断を求めるべきだろう。ピアニストが好むピアニストだけが最上のピアニストとはマロニエ君は絶対に思わないからだ。
 
5)これまでは、ファイナルで2番の協奏曲を弾いたら優勝できない(ダン・タイ・ソンが唯一の例外)とか、ファイナルでスタインウェイを弾かなかったら優勝できない、師事する先生にも学閥のようなものがあって誰々の系統でなければ評価されない、といった裏基準があったようだが、事は深刻、上記のような重大問題の前では、それらはもはや呑み込むしかないということになったのだろう。ピアノも今年から新しいピアノとしてファツィオリが参加しているし、ヤマハやカワイも力をつけてきているし、資金面などを含むいろんな事情も絡むだろうから従来のようなことは言ってはいられないのだろう。
 
 果たして結果は主催者のほぼ思惑を満たすものとなったのではないだろうか。
 
 意外だったのは、今回のコンクールでの下馬評では優勝候補とも目されたボジャノフに対する評価だった。ほとんどのピアニストたちはボジャノフの演奏を高く評価しているし、とりわけ表現力という点にかけては稀な芸術家とまで言っている。しかし、彼の演奏を聴き直してみても、少なくともマロニエ君には一向にそのようには感じられなかったし、むしろあまり好きなタイプではなかった。とくに主張の強いピアニストというのは、一旦聴く方の好みを外れると、ときに不快感ばかりが強調される。だが、現役ピアニストというのは一面においてああいう人を評価するのだというひとつの傾向を知ることはできたように思う。
 そのボジャノフだが、自身も優勝を確信していたのかどうかは知らないが、4位という結果に反発して(2009年のクライバーンコンクールでも4位)、表彰式にも表れなかったというのは、いささか傲慢というか思い上がりであって、こういう振る舞いはいただけない。来年早々に日本で始まるヴィト指揮ワルシャワフィルと共にやってくる入賞者たちによるコンサートも、アヴデーエヴァ以下5位までの名前が並んでいるが、彼の名前だけは見あたらない。参加を断固拒絶しているのか、もしくは表彰式をボイコットしたことでコンクール側からメンバーを外されてしまったかの、どちらかだろう。
 彼のようなよく言えば個性的、言葉は悪いがある種独善的なピアノを弾く人は、良し悪しは別としても、コンクールには向かないのではないかと思われるし、それが嫌ならば出場するべきではないだろう。彼が本当に審査員のピアニストたちが言うように実力のある芸術家なのであれば、敢えてコンクールに出場しないという道もあるだろうと思うし、本当に希有な才能があるというのなら彼にはそのほうがふさわしいようにも感じる。
 ちなみにこのボジャノフ、どこかで見たような顔だと思っていたらブルガリアの出身だとわかって膝を打った。大相撲の琴欧州に顔の雰囲気が似ているから、ブルガリアにはああいう顔筋の人が多いのだろう。
 
 ルーカス・ゲニューシャスも大変褒められているピアニストだったが、演奏を聴いているとソ連崩壊後のロシアで復興してきた特徴的なピアニズムの持ち主であることがわかる。少しでもこの特徴を知っている人の耳には「なあんだ、あれか…」と思える演奏で、基本的には作品への奉仕というより、きわめて技術偏重である。かつてのロシアピアニズムが誇っていた雄渾で深いロマンティシズムに貫かれた情感あふれる強烈な演奏、時には重戦車のようなまわりを蹴散らすような姿は消え、まずはよりスリムで、一見現代的になった。しかし解釈に深みがなくどの曲もどの作品も同じようなステレオタイプの処理をされる。現在のロシアのピアニストは概ねこのような傾向があり、指はよく回るし大業のテクニックも備えていて、ピアノを弾くということ自体は相変わらず大変上手いのだが、中身がなくて聴いていてあまり心を打つものがない。驚くべきはロシアに留学した日本人も似たような、一見意味深長なようで実は何もない空虚な演奏を、これが本場仕込みとばかりに堂々とやってのけて疑問にも思っていないその様子には、本人やまわりの努力を考えると深いため息がでる。ゲニューシャスも音楽一族の出身でゴルノスターエヴァの孫という血統を持つらしいが、残念ながらマロニエ君には同じ現在のロシアピアニストのあまり感心できない面しか感じることができなかった。
 昔のロシアピアニズムは賛否両論ではあったけれども、あれはあれで強烈無比な存在感と魅力と信頼感はあった。現代のそれはより洗練されたアスリート的であるぶん、小粒になったことは否めないし、なにより失われたのはかつての十八番であり、ピアノを弾く上での根底に脈々と流れていたあの雄大な感情の奔流であるように感じる。ひとことでいうなら魂がない。
 
 現代は情報の時代が行きつきすぎて、却って本当の情報はない。本当の情報というのは質の高い情報、負の部分までを含んだ信頼に足る情報、人の思想に関する情報等である。音楽雑誌に限ったことではないが、最近の雑誌類の評論というのもとにかく危なげのない、どこからも文句のでない、安全な文章をひねり出すばかりで、こんなところにも事なかれ主義が脈々と息づいているようだ。文章を書く人も、それを掲載する編集陣も、みんな責任を負いたくないので安全運転を心がけるから、責任ある批判的な文章を目にすることがまずない。今や批評の信頼性は失墜しており、従って昔以上に自分自身で確かめる他はないのは、翻って考えると情報が不足していることと同じ状態であるとも言えよう。CDなども激賞されているからといって買ってみたところ、まったく騙されてしまうという結果は珍しくなく、批評を心にもない社交辞令と取り違えているのではないか、あるいは単純に勉強不足の書き手が多いようにも思える。最近ではCD批評など金輪際に参考にしないと、あらためて心に決めているところだ。
 
 
 話はショパンコンクールに戻るが、実際にヨーロッパ人から優勝者を出したいという意志が強く働いたことは、証拠こそないけれども、ほぼ間違いないとマロニエ君は確信している。
 実際に、そういう情報を掴んで出場を見合わせた中国人/韓国人もいたらしいが、ここでも日本人は相変わらず大挙してワルシャワに詰めかけたようなので、政府の危機管理能力同様、肝心要の情報戦にはほとほと疎い、したたかさのない民族だというべきだろうか。あるいは、国際舞台における日本人特有な矜持のない価値の置き方をして、今回は場慣れのためにとりあえず参加するだけして全体の雰囲気なども掴んでおいて、実際にはさらに5年後を狙うなどといった向きもなくはないような気もする。そういうことを真顔で言う先生もいるようだから驚きだ。しかし、現実問題としては同じコンクールへの再挑戦は審査員の心証に、少なくとも有利に働くことはないというから、これはこれで小さなリスクではある。
 
 それにしても、マロニエ君は自信を持って言いたいが、年齢の問題は別としても、ユンディ・リがもし今回出場していたら、間違いなく優勝はできなかっただろうし、へたをすれば10人枠にひろがったファイナルにさえも進めなかった可能性があるのではないだろうか。それはユンディが東洋人であるというのみならず、今回の審査員各氏の述べている審査基準やピアニストとして求められているさまざまな価値の置き方からしても、彼がさほどその条件を満たしているとは思えないからである。その一例が、教えられた解釈をそのまま整然と演奏することより、自己主張の有無の問題などが問題視されればまっ先にはねられるに違いない。
 こういうコンクールでは、毎回ごとに審査基準も変動するし、政治的な思惑や配慮も大きな影を落とすのだからやむを得ないというべきか。
 ある本を読んでいても、世界的コンクールには行く先々で顔を合わせる出場者がいるそうで、毎回似通った顔ぶれになることも少なくないらしい。このあたりになると各人の実力も拮抗しているのだそうで、にもかかわらずある人は決勝まで残りある人は早々に敗退、別のコンクールでは一週間前のコンクールでのファイナリストが予選にすら受からなかったというようなことは日常茶飯で、まさに紙一重の要素で顔ぶれはガラリと変わってしまうようだ。これならまだオリンピックのほうが安定した結果が出てくるだろう。
 
 要するに、優勝者には時代とかその時の風も吹かなければ優勝はできず、ちょうどその風向きが自分に合致したときが出場年でなければならないという点も、非常に重要なところであり偶然性の強い事柄とも言えそうだ。
 織田信長ほどの周到な戦略家でさえ最終的に「戦(いくさ)は時の運」と言ったように、才能ある勝利者は運をも引き寄せる要素がなくては頂点に立つことはできないということだろう。
 相撲でも優勝力士には場所中一、二番は拾ったような白星が含まれるものだというから、やはり運も味方につかなくては頂点の栄誉は訪れないものなのだろう。
 
 ちなみに、使用されたピアノは(5)でもふれたように、今回から4社のピアノが使われたが、他の3社がこのコンクールのために厳選された最高の出来映えのピアノを、これまた最高の技術者付きでワルシャワへ送り込むのに対して、スタインウェイだけはこの会場の備品であるピアノを使うのが昔からの変わらぬ伝統である。今回は2年前にフィルハーモニーホールに収められたピアノが使われた由。未確認だがスタインウェイは2台で正確にいうと4社5台のピアノが使われたという記述もあるが真偽のほどはわからない。ただし、技術者だけは後半からはS社の看板技術者であるジョージ・アンマン(ジョルジュ・アマン)が会場に入って調整したという。
 また、新参のファツィオリは言うまでもなくイタリアのピアノだが、技術者は同社社長が厚い信頼を寄せる日本人なので、スタインウェイ以外のピアノ技術者は全員が日本人ということになり、いまさらながら日本人の優秀さは大したもので、同胞の活躍を心から誇らしく思うばかりだ。