#64.今年聴いたショパン(7)

 昨年はショパンの生誕200年ということで取り組みはじめた「今年聴いたショパン」。それが年を越しても続くのはおかしい気もするが、その後も少しずつ増えてきたので、いまさらだがもう少し続ける。
 
No.37[ヴァディム・サハロフ]CD
 マロニエ君の場合、サハロフの名前は演奏よりも公開講座やマスタークラスの講師として耳にするのが先だった。ロシアには実力派のガッチリしたピアニストがウヨウヨいて、講師として極東の島国まで稼ぎにくるピアニストも少なくないので、それほど気にとめることもなかった。その名の記憶だけが残っていたサハロフのCDをたまたま店頭で見かけたので、どんな演奏をするのかちょっと興味がでたわけだ。2枚あっていずれもショパン。ひとつはソナタ2番とバラード全曲、もう一方はソナタ3番と幻想曲などで、とりあえず前者を購入してみた。
 ソナタ2番の出だしのオクターブの響きからして厳しさが漲り、それはそのまま第一主題へと流れ込む。いかにもロシアのピアニストらしい楷書で進む重量級の演奏で、一音たりともゆるがせにされることはない。いわゆるショパンの優雅とは掛けはなれた演奏であるが、基本的にルバートを多用したよく歌う演奏であることも功を奏して、これはこれでひとつの立派な音楽表現であることがわかるし、聴いていて独特な充実感があるのはさすがだと思わせられる。ロシアピアニズムのよき伝統のひとつが確実で深いタッチであるが、このサハロフも例外ではないどころか、中でも傑出している一人だといえよう。ライナーノートによるとギレリスがこのサハロフを高く評価していたということであるし、CDにかけられた帯によると「スケールが大きい、男性的な魅力に満ち溢れた個性派のショパン」とあるが、それはたしかに納得でき同意できる演奏である。なるほどギレリスが気に入るというのもわかるような気がするし、ある種共通するものも感じられるが、すべてが鋼鉄の戦車のようにガチガチのギレリスに較べて、サハロフのほうがいくぶん柔軟性があるし世代からくるものか多少の現代性を備えていると感じる。
 また最近では、これだけピアノをこれだけ隅々まで十全に鳴らしきることのできるピアニストは極端に少なくなったので、その点だけでも聴く値打ちがあるように思う。今の大半のピアニストが旧世代と違って、ピアノと格闘せず、ピアノからするすると無理のない美音を引き出すことは上手くなったと思うが、同時に失ったものもあり、昔の巨匠などに見られた時として鳴り響く轟音、音楽の炸裂などはすっかり影を潜め、演奏家と音楽ががっつりと向き合うような熱血漢が少なくなった。現代はテンポも早めでまるで野菜中心の健康食のような趣になった。これはこれで素晴らしいと思うときもあるが、音楽はうわべのきれい事ばかりではなく、ときには想像をこえたエネルギッシュな音楽に思うさま翻弄されてみたいという聴き手の願望もある。そういう野生のようなものがこのサハロフにはじゅうぶん残っている。もちろん絶えずガンガン弾いているわけではないのだが、ここぞというときにはガツンとした強力パンチがあるのは聴きごたえがあるし、それがこの人の演奏に強い輪郭と説得力を与えている。まさに男性的なショパンである。
 しかし第2ソナタの終楽章などは一風かわった解釈による演奏で、平均的な解釈とは大いに異なる。バラードでも感じることだが、たしかにこの人は既成概念(解釈)にとらわれることのない自分の流儀で演奏しているが、ではそれがひどく個性的なのかといえば決してそんなこともなく、ときどきオヤッと思うようなパッセージやアクセントなどが顔を出す程度であって、基本的にはまっとうな表現のほうが勝っている建築的なショパンであった。同意できない点がいくらかあったにしても、その人のゆるぎない個性によって音楽が貫かれていれば、多少のことには目をつむってでも聴きたいという気持のほうが強くなるものだ。
 
No.38[アルトゥール・モレイラ=リマ]CD
 このディスクはなんと30年来のベストセラーということが書いてあるが、なぜかマロニエ君は見たことも聴いたこともなかったので、たぶん実際にはあまり出回ってはいなかったのだろうと察する。というわけで、大変遅くなった観があるがこのたび購入した。
 モレイラ=リマは1965年のショパンコンクールで2位となり、この時の優勝がアルゲリッチである。ちなみに彼らの世代、すなわち1940年代前半というのは南米から世界的なピアニストが一気に輩出されたときでもあり、このモレイラ=リマも1940年ブラジル生まれ、他にはブルーノ・レオナルド・ゲルバー:1941年アルゼンチン、マルタ・アルゲリッチ:1941年アルゼンチン、ダニエル・バレンボイム:1942年アルゼンチンン、ネルソン・フレイレ:1944年ブラジルと錚々たる顔ぶれであることに驚かされる。少し後にはリカルド・カストロ、セルジオ・ティエンポ、ガブリエラ・モンテーロなどが続くわけだし、そもそも御大のクラウディオ・アラウもチリの出身だから、南米は隠れたピアニスト輩出地域ということが言えるだろう。
 さてこのモレイラ=リマのショパンは1976~7年に日本で収録されたものであるが、いかにもこの時代らしい説明的解釈が前面に出ている。全体に明解だが同時に柔軟性に乏しく、当時ルービンシュタインのいささか陽気で通俗的な味の付いたショパンから、時代の好みが少しずつ変化しはじめた頃だと思う。技巧が重視されはじめて硬質でピアニスティック、客観的な演奏がもてはやされだした時代となったけれども、まさにその時代を反映した演奏だと感じる。モレイラ=リマの演奏を聞いているとエッシェンバッハのようなピアニストがいたこともなんとなく思い出したりする…そんな時代の匂いがする。
 全体としてはどの曲も一貫しており、確かな演奏ではあるが霊感や叙情的な歌心といった点ではやや自由のない、やや四角四面な表現が目立つ。しかしながら南米出身ということもあって、ちょっとしたパッセージの次への移り変わりや抑揚などには、時として情熱的な激しさを含んだ瞬間が顔を出し、それがいかにきちんと弾き込まれた演奏ではあってもドイツ的な風土とは根本を異にすることがわかる。
 モレイラ=リマの美点は恣意的な表現を極力排するような、きわめて客観的なアプローチが主軸となっていると同時に、タッチにこの時代ならではの力強さと確かさがあり、充実した男性的な重みのある美音である点は、ひじょうに聴きごたえがあるし、安心して聴き進むことができる。
 おそらく当時はこういう演奏を社会のほうでも求めていたのであろうし、結果として非常にしっかりした端正な演奏となってこのような録音に残っている点は注目に値すべきだろう。しかし現代の耳で聴いていると、ショパンのさまざまなニュアンスに溢れる詩情の変化とか、理知的で確かな音符の裏にそっとひそむ儚さ、風のひと吹きで方向を変えてしまうような繊細さを楽しむ要素などはまったく欠落していると言わねばなるまい。モレイラ=リマはその実力や華々しい経歴からみれば、ほとんどこれといった旺盛な活動はしなかったピアニストだともいえるだろう。こういう演奏が身に付くとなかなかそこに新しい時代の要素を吸収していくことが難しかったのかもしれない。あるいはそれ以外のなにか事情があったのかもしれないが、それはマロニエ君の知るところではないし、ただ残念さだけが残る。
 このディスクの曲目は、それにしてもうんざりさせられた。おそらくこれはモレイラ=リマの責任ではなく、日本側のレコード会社の要望によるものだろうと思われるが、まさに絵に描いたような紋切り型のショパン名曲集であり、そういえば昔はこういう名曲集の類が数多くあったことを思い出させられた。14曲からなる曲目はどれも名前の付いた曲や、誰でも知っている2番のスケルツォやノクターン、嬰ハ短調のワルツなどで完全に埋め尽くされており、ちょっとうんざりしてしまった。
 彼の実力には、バラードやスケルツォ、舟歌や幻想曲、エチュードやソナタなどの全集がふさわしいだろうと思われるが、そういったディスクはどこにも見あたらないのが残念である。
 
No.39[シプリアン・カツァリス]CD
 ショパンイヤーでしかありえないような異色のCDがリリースされた。ピアノマニアのカツァリスならではの珍企画で、ショパンの第2協奏曲を4つのバージョン──1:ピアノとオーケストラ(基本形)、2:ピアノソロ、3:ピアノと弦楽五重奏、4:2台のピアノ──で演奏されたもので、それぞれ使用ピアノが異なる。はじめてこのCDの存在を知ったときはなんとマニアックなものがでてきたことかと驚き、大いに胸が高鳴ったけれど、すぐにピアニストがカツァリスとわかって興味がいくらか割り引かれてしまっていた。
 とはいえ、さっそく購入したのはいうまでもないが、はじめのピアノとオーケストラを聴いて、期待の半分はこの時点でうち砕かれたも同然だった。ひとつの曲に4つのバージョンというのみならず、そこへ4台ものピアノを使い分けるという期待を高まらせる企画にもかかわらず、オーケストラ版に聞こえてくるスタインウェイの音はまったく覇気のない、眠とぼけたような、まるで焦点のずれたようなマヌケな音のピアノだった。なんでこんなピアノをわざわざ使うのかその意図が計りかねるだけでなく、演奏がまたなんともセンスがないというか、平坦で、味わいも霊感もなにもない。ただ譜面の音符を弾いただけという以外に言うべき言葉もないものだった。おまけに録音も悪く、広がり感や透明感もなく、小さく狭いところにぎゅっと押し込められたような素人の隠し録音のようだった。中でも、もっとも許せないのはその演奏で、世間には彼をカリスマ的に高く評価する人もおられるようだが、マロニエ君にいわせれば彼はピアノは弾けても決して芸術家とは思わない。ピアノの軽業師というほうがよほど的確だろう。
 ピアノソロはショパンの編曲とのことだが、ちょっと間が抜けているというしかないようなもので、要するにコンチェルトのソロを練習する人が、合間合間のオーケストラ部分が抜けないよう、ソロの手が空いたときに適当にオーケストラパートを埋めているだけというようなもので、わざわざ録音までして人に聴かせるようなものとは思えない。ただここで使われるベーゼンドルファーは前記のスタインウェイよりは明晰さがあってずっとよかった。いかにもベーゼンドルファーというべき艶とトーンがよく出ていると思うが、強いてマロニエ君の好みを言うと、若干雑な感じのするピアノという印象でもあり、もうすこし丁寧な調整をされたピアノだったならばさらに美しさが際立つように感じる。ただし、繰り返すようだがこのソロバージョンはまともに聴きたくなるような代物ではないというのがマロニエ君の率直な印象だ。
 それに対して、ピアノと弦楽五重奏はこれはこれなりのまとまりのある演奏形態で、オーケストラまでは呼べないような規模のコンサートにはもってこいであろうし、ピアニストもより繊細な演奏表現が可能になる。カツァリスもこの頃になると(はじめのオーケストラから3ヶ月後)だいぶこの曲にも馴染んだと見えて、全体の見通し感が出てきて演奏が格段に良くなっていて、かなり抵抗なく聴けるまでに進歩していた。オーケストラ版ではしばしば聴かれたあっと驚くような浅薄なパッセージ処理や妙な恣意的な表現の数がずっと少なくなり、至ってまともな演奏となっているのは良いことだけれど、この変化はなぜか無性に可笑しかった。おそらくピアノパートの音符自体は限りなくオーケストラ版と同じはずだから、それでこうまで改良されたということは、カツァリスのようなベテランでも一曲に対しての熟成がいかに大切かということを証明している。ヤマハはまさに我々の耳に慣れ親しんだピアノの音だが、演奏が格段に説得力のあるものに進化しているので、まるでピアノまで良いように聞こえる。個性的ではないが、これはこれで普通に安心して聴けるピアノであることは確かと思える。変に癖のあるピアノの音を押しつけられるよりは、いっそ快適である。
 2台のピアノはいわゆる多重録音で、つまり一人のピアニストが二つのピアノパートを別々に演奏したものを重ね合わせて収録しているものだ。本来オーケストラの序奏部分などは、新しく練習した部分と見えて、それなりには弾いてはいるが、やはりどこか勢いと張りがない。本来のピアノパートの演奏としてはピアノ五重奏版が最高の出来だと思うが、この2台のピアノもそれに次ぐ演奏だと言えるだろう。しかし、やはり2台ピアノというのは二人の異なる奏者によって、互いに反応し合いながら弾き進められていくことが望ましい。一人のピアニストの二役では音楽的解釈が衝突することがないから、その点ではひじょうにスムーズである代わりに、アンサンブルというものに不可欠なエキサイティングな刺激のやり取りがないので、やはりどこか醒めた人工的な音楽であることは否めない。マロニエ君の知る限りにおいて、この面で唯一成功していると思えるものは、ファジル・サイの編曲/演奏によるストラヴィンスキーの春の祭典だけではないだろうか。
 シュタイングレーバーの音はヤマハを聴いた後では、なんとも清々しく美しいばかりだが、ではそれがショパンに相応しいかと言えばそこは疑問が残る。ショパンももちろん美しいピアノの音を必要とすることはいうまでもないが、それにはより屈折した陰翳と非ドイツ的洗練がほしい。シュタイングレーバーの場合、まるで究極のドイツ語の美しさを清冽な発声で聴かされているようで、その美しさを勝ち得るためには非常に理想主義的というか、このピアノ特有なストイックな音色があって、それがショパンには齟齬を生んでいるように聞こえる。ちょうどフルトヴェングラーのフィガロ(ドイツ語上演だがオリジナルはイタリア語)のような、素晴らしいけれどもいつまで経っても、どこかしっくりこないものが残ってしまう。
 やはりこういうピアノだと、情熱的に弾かれるベートーヴェン、あるいは清流の流れ落ちるようなシューベルトなどを聴きたい。
 
 まあ総論としては、このカツァリスという人はユニークなピアニストには違いないが、本当の意味で音楽を芸術として表し、ピアノを心底鳴らす人ではないと思う。だが、その反面こういうおもしろいCDを作ってくれるあたりはピアノ好きにはそれなりの楽しみを与えてくれる存在として、得難いマニアだという点では感謝せねばなるまい。
 カツァリスはテレビなどで観ると男性のわりには非常に手の小さな人で、それでいて超絶技巧の駆使を目的とするような曲をサーカス的に弾くことが得意のようだから、むしろピアノ芸人のような活動の仕方があるだろうと思うし、ある程度は実際にそうなっていると言えるだろう。聞くところによれば、大変な努力家で毎日もの凄い練習をする練習魔なのだそうだが、指を曲芸的に目まぐるしく動かすことは彼にとってなにより重要でウリなわけだから、これこそ自分の最も大切な部分と認識しているんだろうという気がする。
 
No.40[ラファウ・ブレハッチ]コンサート/DVD
 ワルシャワで第16回ショパンコンクールの優勝者が決したその同日、奇しくも福岡では前回優勝者であるブレハッチのソロリサイタルがおこなわれた。バラード1番、ワルツ2?4番、スケルツォ1番、ポロネーズ1/2番、作品41の4つのマズルカ、バラード2番というプログラムは、曲も時間もやや少な目で、どこかもう一つ構成感に欠けるものだった。
 冒頭のバラード1番と3つのワルツまではかろうじて良い面もあったが、前半最後のスケルツォ1番に至っては、リズムと息づかいが崩れ、無意味に先を急ぐようなところが目についた。実はマロニエ君はこのブレハッチという人は前回のショパンコンクールに優勝した後、わずかにテレビなどでその様子を見て、あまり自分の好みのタイプのピアニストではないことを直感していたので、その後もCDなどは一枚も買わなかった。前回のショパンコンクールでいうなら、兄弟で3位入賞を果たした韓国人の兄のほうのイム・ドンミンが好みだった。彼はいわゆる器用なピアニストではないけれども、貫かれた信念と本物の音楽を表出する力があり、人間の内側から湧き起こってくる生々しい音楽の魅力があった。それに対してブレハッチはなんの面白味もない優等生的な演奏で、感情表現もごく通り一遍の、いわゆる模範演奏タイプでしかないという印象だった。
 今年の優勝者にも納得できないものを抱えたまま出かけたブレハッチのコンサートだったが、昔なら、良くも悪くもショパンコンクールの優勝者というのはそれなりの傑出した才能と器とテクニックが備わっているのは当然で、それを前提とした上での各人の好みや諸々の評価に分かれていくのが常だった。ブレハッチでまず最も驚いたのはピアニストとしての器の小ささだった。ステージに現れた姿もまるで子供のような小さな体格で驚いたけれども、その体格そのままのような小さくまとめられたいかにも元気のない演奏を聴いて、よくぞこれで優勝できたものだと思ったし、近ごろはこんな程度が優勝するのなら、ユリアナ・アヴデーエヴァというロシアの女性が優勝するのも不思議ではないのかもしれないと思う。
 ショパンというものが元来バリバリ弾くたぐいのものでないことは無論わかっているつもりだが、それにしてもブレハッチの演奏にはまるきり覇気というものがなく、どこを聴いても体力のない病人のような弱々しい演奏だった。ショパン自身、体質は病弱でも、心の裡には男性的な激しい情熱と繊細な感受性が交錯し、音楽に表すべき強靱な精神を抱えていたことは忘れるべきではない。そしてショパンの音楽は、彼の体質とは裏腹に非常に堅固で高い完成度を持つ理の通った作品なので、決めるべき点は決めないことには本来のショパンにはならないわけで、ただやたらめったら上辺のやさしさばかりを追いかけて、花を飾るようにショパンのイメージに重ねるのは、まさに少女趣味的勘違いである。
 たしかに音はきれいだったが、タッチには明晰さがなく、音数の多い場面になるとたちまち響きが混濁してくる。これはポリフォニックな弾きわけと、場面ごとに芯になるべき音が確定されて力の配分がされていないからであろう。フォルテの中から右手がスケールで上昇するという形はショパンによくあるが、こういうところではほとんど右手のスケールは聞こえないか、或いはただか細いグリッサンドのようにぼやけてしか聞こえない。ブレハッチはショパンをショパンらしく繊細に演奏しようという表層的な意識だけは旺盛なようだが、詩的で繊細であることと、用心ばかりしてまともな音すら出さない事とはまったく違うと言いたい。音楽には必ず押さえるべきツボというのがあって、それはほとんど解釈の余地のない普遍的なものであると思うが、ブレハッチに限らず、これをことごとく外してしまう若いピアニストのなんと多いことだろう。これが外れると聴く側の気分が安定できずに、居心地の悪い手抜き工事の建築物のようになってしまう。
 ブレハッチの演奏で最も印象に残るのは、下品ではないけれども、とうてい男性ピアニストとは思えぬ打鍵および表現の弱々しさであり、声の小さい、言葉のはっきりしない人の話を綿々と聞いているようだ。まるでレースのブラウスを着て貴婦人の横でこまごまとしたお世話をする小姓みたいだ。解釈もいかにも優等生的というか「よい子」的で、教えられたことだけを忠実に守っているようで、演奏に不可欠のいまそこで生まれ出てくるような力と感動と新鮮さがない。一見いかにもショパンの繊細な世界が現出しているかのように見せかけているが、じつはあまりそうはなっていない。それはこの人自身の感性や解釈から滲み出てくる必然性が感じられないからだと想像できるし、今以上の何かが今後この人から出てきそうな予感はまったくない。指のテクニックも決して万全なものとは思えず、あれくらいの技術は名だたるコンクールに行けばゴロゴロしているだろう。アンコールで英雄を弾いたが、このショパンの中では希有な直情肯定的な作品を、いかにも線の細いなよなよとした調子で、およそ英雄という名前とは程遠いものだった。アンコールといえば、もともとのプログラムが少ないのでそのぶんを少しはアンコールで補うのかと思っていたら、これが大間違いで、いちいち勿体ぶってなかなか弾こうとせず、そんなことはいやにカッコつけるというか、はっきり言えばとてもケチくさい感じがした。会場ではいやに女性ファンの姿が目についたが、女性はあんなピアニストが好きなのかと思うと、いよいよわけがわからなくなる。
 経歴を見るとルビンシュタイン・コンクールでも浜松のコンクールでも2位になった人で、世の中にはどうしても1位になれない人というのがいるものだ。それは残念ながら勝利者にあるべき諸要素や潜在力を持ちあわせない人の場合が多く、要するにブレハッチはそれなのだと思う。本来ならショパンコンクールの第15回はイム兄弟が優勝して、ブレハッチが3位というほうが断然説得力があると思うが、そこには連続して東洋人を優勝させる事への欧米の抵抗もあったかもしれないし、ショパンコンクールではポーランドのナショナリズムが深く関わってくることも決して無視するわけにはいかないだろう。これはツィメルマンのころから言われ続けていることである。
 いずれにしろブレハッチがこれからもショパンコンクールの優勝者という経歴を背負って行くのは、あの力量ではいささか荷が重すぎるのではないだろうか。同様のことはチャイコフスキーコンクールに優勝した日本人にも言えることだが、こちらはさらにその違和感は強く、心底から納得している人はだれもいないだろう。実力に対して分不相応な結果を与えることはいわば自然の理に反するようなもので、喜ぶのは本人と、コンクールの主催者と、楽器メーカーと、コンサートの元締めであり、それらは要するにすべてビジネスがらみということが一目瞭然なだけで、聴衆や音楽愛好家こそいい迷惑というものだ。こういう状況を生みだしてまで伝統あるコンクールが不本意な優勝者を出すということになんら危機感はないのだろうか。あまりこういうことが続くとコンクールそのものの権威にキズがつくと思うのだが。とはいっても、今年の16回ではまたしても同じ過ちをおかしたようで、優勝したユリアナ・アヴデーエヴァもまた似たような道を辿るのだろう。ステージチャンスは増えても真の評価と喝采を浴びねば本物のピアニストとしての価値はないと思うが。
 
 と、ここまで書いた時点で、偶然にも知人がブレハッチのショパンコンクールときの協奏曲と3番のソナタが収録されたDVDを貸してくれた。協奏曲は1番のほうで、しかしこれは過日のリサイタルに較べるとはるかに出来が良かった。やはりコンクールでは気合いの入れ方が違うのだろうし、今ひとつは録音にはかなりの数のマイクが立っているから(映像に映っている)、そこから拾った音を強調することも可能だろう。音楽的にはとくに違和感のあるものではないが、あまりにも楽譜通りにきれいに納まりすぎているところにつまらなさを感じる。とにかくこの人は習ったことを厳格に守ることが上手のようで、先生から見ればたいへん良い生徒なのだろう。しかし、そこにピアニストとしてあるべき主体性が感じられず、下書きのある絵をきれいになぞって満足しているようだ。いかなるときもほとんど顔の表情も変わらず、音楽がどのような場面に差しかかろうとも写真を貼り付けたようだ。たいへんよく動く指と練習成果のお陰で、ほとんどキズらしいキズもなしに協奏曲を弾ききっているのは大したものだが、ミスしないですべてのジャンプを成功させるだけに全精力をつぎ込む、メダルは取れるが退屈なフィギュアスケート選手のようだ。