#66.新しいBとB

 世界に冠たるピアノメーカーの中の代表格であると言うべきドイツのベヒシュタインと、オーストリアのベーゼンドルファー。
 この両方のメーカーのコンサートグランドは、他社と同様、メーカーの威信を背負って立つコンサート用のピアノで、各社の伝統や叡智が個々の技術へ変換されて惜しみなく注がれていることは言うまでもないだろう。
 
 以前はベヒシュタインのそれはENと呼ばれるモデルで、片やベーゼンドルファーはモデル275というものであった。
 それが、いつごろだったか正確にはわからないが(おそらくこの10年前後のことだろう)、いずれも新しいモデルにリプレイスされた。車や他の工業製品と違って、楽器の世界、わけても頑ななまでに自社の歴史と伝統を重んじるヨーロッパの老舗ピアノメーカーにあって、そのフラッグシップであるコンサートグランドのモデルチェンジをするというのは、滅多にあることではなく、それでも敢行したというのはよほどの止むに止まれぬ事情があったからだと想像される。
 彼らの自社製品に対するプライドは並大抵のものではなく、なんでも新型や改良型を歓迎しありがたがる傾向の日本やアメリカとは大違いであるし、そのアメリカでも、伝統的なピアノ作りともなると、そう簡単に仕様を変更することはない。ましてやヨーロッパの老舗ともなると、それはほとんど自己否定にも繋がりかねない大事であるから、少々のことではまずあり得ない話である。
 そのあり得ない事がヨーロッパの二つの歴史あるメーカーで立て続け意に起こったわけである。
 
 ベヒシュタインはD280、ベーゼンドルファーはモデル280というモデルに生まれ変わり、これらは単なる従来品の改良版ではなく、構造そのものから新しく作り替えられたまったくの新型ピアノであるから注目に値するのはいうまでもない。わけてもベーゼンドルファーの変化は著しい。
 それらの音をたまたま立て続けにCDやテレビで聴くことができたので、その印象を記してみたい。
 
 まずベヒシュタインのD280はリーリャ・ジルベルシュタインがベートーヴェンのソナタを収録したCDである。非常にクリアでリアルな録音なので、ピアノの音色や響きの特徴が捉えやすい。
 先のバックハウスのベルリンライブやバーンスタインの振り弾きで、その圧倒的なドイツピアノの野性的な魅力にノックアウトされていたマロニエ君は、大きな期待と興味をもってこのCDを購入したのはいうまでもない。
 しかし、スピーカーから出てきた音は、いかにもキラキラとした今風な音であるのにはいきなり面食らった。あの良い意味で素朴で男性的な響きの中で、ピアノの音が神々しく浄化されたような理想美の世界が立ち上る、まるでドイツそのものみたいな音。上等な素材の旨味とドイツ的な峻厳さで直球勝負をしてくる、あのベヒシュタインの音とはかけ離れたものだった。
 
 ベヒシュタインらしい名残があるとすれば、たしかに音の骨格はそのままという感じもないではなく、それは例えば立ち上がりの鋭いボンという感じの頭の太い音かもしれないが、かつての中音から高音にかけての澄明なトーン、ストイックな虚飾を廃した純粋無比の音はほとんど消え去り(もしくは特徴的でなくなり)、すべての音がブリリアントで明るく、スマートさをも兼ね備えたような音になっているのは驚きだった。
 華麗さに溢れる音色ばかりが耳につき、ベヒシュタイン本来の骨太な音の実体は、よほど耳を凝らさなければ(それを聞きわけようとする積極性がなければ)あまり聞こえてこない。
 
 なんでも個性的だったものが変革を遂げるときというのは、多少の違和感や落胆・批判が生じるから、これを正しく評価をするのはきわめて難しいものがあるだろう。「これこそ新しくかつ正しいベヒシュタインの音だ」と言われれば、なるほどそうなのかもしれないし、このピアノを頭から否定する気は毛頭ないが、やはり今はまだ抵抗感のほうが強いことも事実である。
 率直に言うなら、あのドイツそのもののようなメーカーでさえも、やせ我慢をしてでも伝統を守り抜くことより、時流に乗ることに抗しきれなかったという印象である。
 
 マロニエ君が考えるに、これはどう考えても世界のステージの覇者であるスタインウェイの影響があるように思われる。数年前にほんの少しだけ触れたことのあるD280は、たしかに理解しにくいピアノだった。それまでベヒシュタインの特徴だった剥き出しのピン板(チューニングピンを差し込む多層構造の板)が多くのピアノと同様にフレーム下に覆い隠されてしまい、この板を目で見ることはできなくなったことと、スタインウェイの特徴であるデュープレックスシステムが採り入れられている点には、メーカー自らすこぶる不本意なことをしている印象があった。
 これにより中音以上の倍音を豊かに鳴らすことで、より華麗で力強い演奏効果を追加する目論見であろうが、おそらくは現代の要求に沿って(沿ったつもりで)大幅な設計変更、もしくは白紙からの新設計の果てに苦悶の末装着されたのではないか…。しかし各ピアノメーカーの音や響きには長年培われた個性や性格があり、少なくとも従来のベヒシュタインの場合は、純粋な清流のような一途な音がすることも特徴だったが、それだけでは現代のステージを生き抜くには欠けるものがあるという判断が働いたに違いない。
 よく宣伝文句に使われるドビュッシーのベヒシュタインを賛する言葉は、しかしこの澄みわたった音色なしには得られなかったものだと想像する。
 
 CDを聴いた印象では、従来のベヒシュタインに較べて、なるほど全域に渡って音がゴージャスになり、同時にパワー感も増していることが感じられる。しかし、品格と深みはやや失われたかもしれず、一定時間聴いていると少々うるさい感じも強調されたようにも思う。これをもってベヒシュタインというのはいささか馴染みにくいし、本当にメーカーが納得しているのかどうか、それはよくわからない。
 いずれにしろ、まるで「大改造、劇的ビフォーアフター」といった趣である。
 
 もちろんそこはピアニストの弾き方の問題もあるし、全般的に女性ピアニストのほうが攻撃的なきつめの音を出す場合が多いので、次はぜひとも男性ピアニストの深くやわらかなタッチで演奏された音を聴いてみたいと思っていることをつけ加えておきたい。
 
 音を言葉で表現するのは難しいが、料理に喩えると、従来のベヒシュタインにドバッと糖分を混ぜ込んで、誰にでもわかりやすい味にしたという感じだが、残念なるかな料理人がその糖分の扱いをまだ完全にものにしていないのかもしれない。この手の音色ならばうやはりスタインウェイのほうがまだまだ気品もあるし、一本筋が通っているように感じる。
 もちろんソロのCDを聴く場合はそうであっても、大ホールで生を聴く場合には、これらの変更が功を奏しているのかもしれないから、だとするとそれなりの目的は遂げているということなのだろう。しかし、少なくともD280に至って、あのベヒシュタインの生真面目で高貴で、しかもどこか無骨で素朴な宗教的でもあるあの音が、聴く者へ向かって一直線に投げつけられるような味わいはもはや失われたと感じる。
 現行生産されるピアノで唯一このドイツピアノらしい特質を残しているのは、もはやシュタイングレーバーだけかもしれない。
 
 ベヒシュタイン単独で見るならこれは正常な進化なのかもしれないが、同時にその進化に伴ってピアノが生まれ持つ個性にも大きな変調が起こっているわけで、今のところマロニエ君にはD280をもってベヒシュタインを積極的に選ぶ明確な理由がわからなくなったというか、すくなくともいささか不鮮明になったことは否めない。とはいえスタインウェイよりは明らかに甘味は少ないから、このジルベルシュタインのように、ベートーヴェンなどを弾く際にはマッチングがいいと感じる意見があったとしても驚きはしない。
 
 いっぽうのベーゼンドルファーは、ベヒシュタイン以上にまったくの新型と考えていいかもしれない。
 だいいち全長が5センチ伸びているのだから、これはもうフレームの鋳型からしてまったく異なるし、旧型ではボディの優美なラインの中に3ヶ所あったベーゼンドルファー特有の折り紙のような角張った折り返し点も後部1ヶ所のみに減っていて、そのぶん全体が一般的なグランドピアノのありきたりな曲線で構成されている。また他のピアノと異なる大きな特徴のひとつだった92鍵も、新型では通常の88鍵と普通になっている。通常弾かれることのないこの最低音域の黒い鍵盤が、共鳴やら何やらでいかに有益なものであるかを語ってきたあの説はなんだったのかという気にならなくもない。「なあんだ、やっぱり使わないものは要らないんじゃん」といったところである。
 因みに超大型インペリアルと225の2機種は旧モデルのままだから、いまだに97鍵と92鍵が残っているが、これらも順次新型にリプレイスされて姿を消すのかもしれない。
 
 そのほか280で気が付いたところでは、旧型の275では他社の一般的なコンサートグランドに較べて非常に薄く作られていたボディのリム(外枠)の厚みがかなり増しており、鍵盤は4鍵少なくなっているにもかかわらず、全幅は逆に4センチも広くなっているから、それだけボディがマッチョマンのように太く逞しくなっているということだろう。それが具体的に音にどう影響しているかはわからないが、ボディが四方に若干大きくなったことで、そのぶん響板の面積も増しているのだろう。当然ながら外観は全体にごつい感じで、275の比類ない繊細な鶴のような美しさはものの見事に消滅した。
 
 言い忘れたが、280を聴いたのはテレビ放送で、N響定期公演からアンドレ・プレヴィンの振り弾きでガーシュインのピアノ協奏曲が演奏された。音はなかなか良かったというか、このモデルチェンジは音に関してはおそらく成功しているようにも思われた。
 275ではいかにも上品で繊細だったが、その代償として線の細さが気になったし、言いかえるとピアノとしてのパワーという点では今日の標準ではいささか物足りないものがあった。これはインペリアルでも同様で、上手く調整された状態で優しく美しく弾くぶんには特上の音色を聞かせる反面、ここぞという場面では虚弱というか、やや体力不足がどうにも否めないピアノだった。
 さらには音色の特徴として、美しい音ではあるけれども、根本にあるものがどこかフォルテピアノを源流とする古典的な因子があって、ちょっとでも調整を怠るとその面が悪い方に露呈してしまうようなところがあったよう記憶している。有り体に言うなら、ベーゼンドルファーならではの固有の魅力がある反面、現代のピアノとしてはそれなりの弱点もあったというわけだ。
 
 その弱点が280では克服され、ベーゼンドルファーのビロードのような魅力はそのままに、根本をより現代的なモダンピアノに仕立て直した観があり、基礎体力がうんと増してとろりとした音色の美しさがより際立ち、しかもそれが安定して供給されるようになっている印象だった。
 車で言うなら、新型エンジンに積み替えたようで、より効率的にベーゼンドルファーらしさを表現できて、なおかつ従来の欠点がうまく潰されたわけで、ピアニストや聴衆は以前よりも安心して楽々とベーゼンドルファーを堪能できるようになったのだろう。それでいて繊細さは相変わらずだから、なかなかキラリと光るピアノのようである。
 
 テレビ放送にはピアノの特質が分かり易いときとそうでない時があって、このガーシュインのピアノ協奏曲ではかなり特徴を捉えやすかったが、その後放映された、同じくプレヴィンの演奏でモーツァルトのピアノ四重奏曲ではあまりこのピアノの特徴が伝わることがなかった。
 いずれにしろプレヴィンはよほどこのピアノがお気に入りのようで、それはよくわかるような気がする。
 
 ここまで書いた時点で、2月19日のブログにも書いたが、エル=バシャの新録音によるバッハの平均律を聴くに至ったが、そこで使われているのはベヒシュタインのD280だった。日本で収録されたこのCDは、その演奏の見事さもさることながら、聞こえてくるピアノの音色の美しさ、さらにはバッハの音楽との相性の良さにとても良い印象を覚えることになった。
 ただし音の方向性としてはやはりスタインウェイに代表されるような、現代的なトーンがあくまでも基本となり、その奥へと耳を凝らせばベヒシュタインの響きもなるほど感じ取れるといった程度であって、昔のように聴くなりピアノの個性が溢れ出すというものではなくなっている。
 そうは言っても、例えばショパンコンクールの実況CDなどと聴いた直後にこのバッハを聴くと、やはりベヒシュタイン特有の減衰の短めな頭の太い音が健在であることが明確になる。
もともとチェンバロやクラヴィコードなどで演奏されたバッハの鍵盤楽器作品には、音の甘さや伸びよりも、タッチの明瞭さを感じる楽器のほうが相応しいと判断したであろうエル=バシャの見識と感性はさすがである。
 
 新時代のベヒシュタインの変貌ぶりには、あたかも英語による世界共通語のように、現代のモダンピアノの主軸となるトーンというのがまずあって、その大前提のもとに各楽器の個性云々という、各々の個性の領域に分け入っていくような時代の流れそのものを見るようだった。たしかにここに聴くベヒシュタインを含む、スタインウェイ、ファツィオリ、ヤマハ、カワイなどは、少なくともCDでぱっと聴いただけでは、もはや即判別が容易ではなくなってきているという気がする。
 これには言い始めれば短所もあるわけだが、とりあえず耳に届く音としては、どのピアノも本当に追求され尽くした美しい音であることは素直に認めたいし、昔はもっとピアノも野性的だったと思わずにはいられない。