#67.新しさの価値と熟成の価値

 ピアノほど、コンサートや録音で年代物の美しい声を持った楽器を使わない世界がほかにあるだろうかと、いつながら思ってしまうものだ。
 
 はじめに断っておきたいのは、ここでいう「年代物のピアノ」というのは、ただ単に古いという意味ではもちろんなく、もともと名器として生まれ、優れた管理の元に置かれ、きちんとしたメンテを受けながら使い込まれた、熟成された楽器特有の美しい音を持つピアノのことである。ちなみにここでマロニエ君が言いたいのは、フォルテピアノのようないわゆる古楽器のことでもなく、あくまでモダンピアノでありながら、経年変化と弾き込みによって豊かな表情と美しい音を出すまでに熟成されたピアノを意味している。
 そういう古いピアノを使用した演奏、あるいはそのCDというのは少し異常なのでは?と感じるぐらい少なく感じるし、感じるだけでなく、実際にそうであるのは間違いない。これは折に触れて書いてきたように、ピアノという楽器の持つ宿命で、もし他の楽器のように自由に持ち運びができるものであったなら、ピアニストも自分の様々な楽器に感心とこだわりを持つようになるに違いないだろうし、それぞれのピアニストの理想や美学やスタイルに基づいて、もっといろいろな古今さまざまな楽器が大切にされ、世界中で活躍するだろうと思われる。
 
 ピアニストはごく一部の例外を除けば、否応なく演奏会場にある楽器を使うのが大前提だから、ホールや貸出業者が準備しているピアノはどうしても不特定多数のニーズをカバーする標準仕様のものとなり、仮に優れた楽器であっても特徴のあるピアノは出番が制限され、最大公約数的な楽器が幅を利かせることになる。つまりピアノは極めてハイレヴェルな八方美人であることが求められていると言っても差し支えないだろう。
 ピアニストという職業自体がこういう環境の上に成り立っているため、他の器楽奏者のように一台の優れた楽器に愛着愛情を持って接し、その楽器から最上の音楽を引き出すような本来の音楽家らしい、こだわりの精神が育たず、どんな会場のどんなピアノでも意に介さず弾きこなせる逞しさを備えることが良いとされ、実際それは必要なことなのだろう。
 それはそれで、現実への対処なのだから仕方がない。
 
 ところが、近年はそういう妥協的判断の結果ではなく、絶対的尺度としても、ピアノは消耗品で、新しいもののほうがよいとされるおかしな風潮があるのは、いくらなんでも認識が間違っているのでは?と思わずにはいられない。先日も雑誌に掲載されたある著名ピアニストへのインタビューによると、「ピアノは基本的に消耗品だから自分は個別の楽器にこだわりも愛着も一切なく、新しいものがいい」などと、所詮は使い捨て品のような言い方を堂々とする御仁がいて、その暴論には大変驚かされたばかりだ。
 日本を代表する著名ピアニストでさえも、要するに楽器に対してはこの程度のドライな認識であるということの証であるが、マロニエ君はそういう人の演奏にはとうてい多くを期待する気にもなれない。
 
 しかし、このピアニストは昔ホロヴィッツが初来日した際に、彼が持参した戦前のニューヨークスタインウェイの音色にいたく感銘を受けて、「ホロヴィッツは帰ってもあのピアノは日本に置いていって欲しい」などと発言したのをマロニエ君はしっかり覚えているし、その後しばらくは自分でもニューヨーク製を使ったりしていたほどだから、このピアノ業者の営業マンのような主張への変説には呆れてしまうばかりだ。
 
 ピアノは張弦力がたいへん強く、フレームに負担がかかっているからせいぜい数十年?100年ほどしか保たないとか、さらにそれを論理的に正当化する言い分はいろいろあるようだが、現実にはどれも真から説得力のあるものではないし、消耗品というのなら億の値の付くヴァイオリンだって、300年近く前の名器であっても、これまた消耗品であることにかわりはなく、未来永劫同じものであるはずがないのである。
 また現実に100年前後経過したピアノでもリニューアルされて、おどろくほど健康に元気よく鳴っているピアノは珍しくなく、わずかながら録音などにも使われているが、とても寿命が来ているなどとは思えない。
 
 然るに、ピアノだけが品質および新しさが楽器の良否を判断する際の基準のようになってしまっているのはあまりに歪んだ価値が蔓延していると言わざるを得ない。これはたぶんにメーカーや販売店のビジネスも絡んだ、まるで霞ヶ関の役人のような、虚実様々に盛り込まれ巧みに仕組まれた論理としか思えない。
 しかし、世に吹く風というものは抗いがたいもので、現実にそういう流れが出来てしまっているために、有名なホールなどは一定期間で順次新しいピアノを導入していくようで、これではまるで、機体を短いスパンで次々に新造機に入れ換えて運行する航空会社が一流だといわれるようだが、飛行機ならなるほどそうかもしれないが、ピアノではどうだろう…。
 さらにはピアニストもホールに新旧のピアノがあれば、大抵新しいほうを選ぶようだから、いわばよってたかって作り上げたおかしな価値観と風潮であろう。新しいほうを選ぶ理由も、純粋な音の美しさや音楽性の問題というよりは、古いピアノは老いぼれで不安だが、新しいピアノのほうがとにかく安心で間違いないという、ほとんど根拠のない思いこみがあるからだ。
 
 その点、昔のピアニストはホールのピアノが新しいという理由で弾きたがらない、あるいは少なからぬ不安を抱くという、現在とはまったく逆の現象があったほどである。もちろんそこには、昔は新しいピアノを即戦力に仕上げるだけの技術もあまりなく、ピアノもある程度弾き込むことを前提としたような作りであったから、厳密には同じ条件とはいえない面もあるだろうが、その根底には使い込まれることで楽器は完成の域に達するという音楽家として正しい経験と認識があり、今のような割り切った消費財のような捉え方はまったくなかった。
 こういうおかしな価値観や感性がはびこっていることも、今どきのコンサートが、深い感銘や味わいがなく、ひどくつまらないものになってしまった一因ではないかとマロニエ君は思っているわけである。
 
 ホテルのようなピカピカの贅沢なホールで、ピカピカの新しいピアノを、サラサラと弾いて、とくに問題もなく終わってしまうコンサート。そして音楽の残像もなく、帰り道でははやくも意識から消えてしまう。その責任の一端は新しいピアノのもつ、ただキズのない新緑のようにきれいなだけの音にもあるような気がする。
 
 ともかく、現在はピアノは新しいものが良いという信仰が強いために、CDなどでも古いピアノを使った演奏というのは必然的にきわめて少なく、マニアックな存在にさえなっている。
 ひとつには、ピアニストも(所詮は借りものの楽器だから安全指向もあってか)できるだけ新しめの若さ溢れたピアノを弾きたがるようだし、とくに録音ともなれば古いピアノはくたびれているというイメージが刷り込まれていて嫌がるのだろう。
 さらにひどいのは録音関係者で、彼らはピアノに対してまるで新車のように新しい物がエライという感覚をもっていて、それは想像以上の頑固な思いこみがあるようで、彼らはものの価値をほんの一面からだけしか捉えることができないように感じる。
 
 古いピアノのどこがそんなに良くないと判断されてしまうのか。ひとつ言えるのは弦やハンマーがあまり経年したものだと本来の美しい音色が出ないというのは、確かにそうだと思う。だったらそれらが交換されたピアノであれば問題ないはずだし、マロニエ君の個人的な趣味でいうと、一定期間を経て弦やハンマーが交換されるあたりから、音楽的にもそのピアノの本領発揮のときだと思うし、そういう時期のピアノは本当に美しい音を出す「熟れ頃」だと思うのだが、そんなことより、新しいピアノがなにより安心で良いとする風潮はかなり強いというべきだろう。
 
 もうひとつの根拠として、ピアノ技術者やメーカーの人間の発言を聞いても一致する新しいピアノの長所としては「パワーがある」ことだと言う。しかし、これがまたマロニエ君としては大いに反発を感じるところである。
 
 では具体的に、そこそこ使われているホールの新しいピアノと10年経ったピアノを較べて、どれだけパワーが違うかといえば、それは少なくとも言葉で言うほどの違いがあるとはマロニエ君は到底思えない。そもそもパワーといったって車のエンジンじゃあるまいし、わずかな経年変化で生じる少しばかりのパワーの差など──仮にわずかにあったとしても──いったいどれだけの価値と重要性があるのかと問いたい。
 新しいピアノだけがもつパワーというものがあるとするなら、それはまだ青くて味わいのない新品特有のもので、それが最終的な音楽表現にどれほどの価値があるとも思えないし、逆に古い使い込まれたピアノが出す妙なる音色は、わずかなパワーの差など寄せ付けない味や表現力がある場合も多い。
 事は音楽なのだから、音の物理的なパワーよりは、表現力のある楽器で音楽を幅広く表現するほうが、聴き手が受ける音楽的パワー、すなわち感銘の度合いは比較にならないほどに大きいものとなるのは、ここでマロニエ君いうまでもない当然のことだ。
 ピアノはその微々たるパワーの差を云々するより、「基本的な音質」のほうが比較にならないほど重要で、表現力の豊かさのほうが遙かに重大問題であるとマロニエ君は断じて思っている。
 
 新品ピアノのパワーなど、ピアノ演奏を成立させる多くの要素(技術者の技術、ピアニストの才能、ホールの特性、弾かれる作品など)の前では、マロニエ君はさして問題とはしないし、逆に新しいピアノ特有のきれいだけれども聴いていてどうにもつまらないとしか感じないのが偽らざるところだ。ようするに10代の若者の肌の美しさみたいなもので、本当に人間の奥行きや魅力や生き様が積み上げられるのは正にこれからである。少なくともマロニエ君はそちらのほうによほど重きを置くが、化粧品会社のCMタレントにはこれぐらいの若い人のほうが好まれるのかもしれない。
 要するにマロニエ君は新しいピアノの魅力というのは、決して全否定はしないが、所詮その程度のものとしか思っていないということだ。
 
 ピアノ業界の専門家を名乗る人達が、どんな理由をもってきても、古い楽器には古い楽器なりの良さというのものが現実にあるわけで、稀に古いピアノで録音したCDなど聴いていると、やはりこれがなかなかいいのである。
 まず何がいいかというと、やはり新しい楽器からは逆立ちしても出てこない深みや憂いがあって、使い込んだ飴色の家具のような落ち着きと叙情性のある心に染みわたる音がするのである。それに古い楽器は新しい物に比較するとやはり材料がいいのか、良い材料で作られた楽器の真っ正直な音という点でも真実性がある。
 もっとハッキリ言うなら、古い楽器は表情が非常に豊かで雄弁なのである。人間の喜怒哀楽を表現するには古い楽器の持つ深い表現力にはどうがんばっても新しいものは敵わない。ただし指運動自慢のピアニストのスポーツ的な求めには新しいピアノのほうが応えてくれるだろうが。
 
 また、人によってはくたびれたと感じるかもしれないその音色は、本当にくたびれているかどうかは管理次第であって、管理が良ければとくにクラシック作品を弾くにあたってはなんとも収まりが良く、新しい楽器にはたしかに新緑のような若い美しさはあるけれども、ただそれだけで表情というものがまるでなく無愛想。作品の表現力ということになるとどうしても楽器としては未熟だと思われる。
 もちろん古ければ何でもいいというわけではないが、少なくとも手入れの行き届いた一定以上の楽器であれば、マロニエ君はやはり多少古い楽器から出てくる重厚な落ち着いた磨き込まれた音は、聴く者の心に響くものがあってとても魅力的に感じるのである。
 
 また、単なるサウンドとして聴くぶんにも、やはり古い楽器は聴いていてとても気分的にも快適で心地よく、理屈抜きに気分が安定してくる不思議な力があるように感じるし、新しい楽器は若いアスリートのような美しさはあるものの、表面的で陰翳がなく、人間の精神の奥深くまで届く何かを得るにはまだまだ不足するものがあるのは否めない。
 新しいピアノの美しさは、新しいマンションや新しい家具みたいなもので、チリひとつキズひとつ無い完璧性はあっても、無機質でどこかよそよそしく人の五感に馴染まない側面を持っているのは致し方ないこととしても、これを最上のように決めつける価値観だけはとても納得が行かない。
 悲しみ、哀惜、苦悩、絶望などの表現に関しては古い楽器は適しているが、新しい楽器ではどうも他人事のようでしっくりこないのは、もはや理屈ではないのかもしれない。のみならず、クラシック音楽では作品の大半は文字通り過去に書かれた古いものなので、ピアノだけが突出して新しくても、どうかすると逆に違和感だけが残る。
 
 たとえば学生がベートーヴェンの後期のソナタなどを機械的にサラサラと弾いても、感銘とは程遠く、どこかウソっぽいのと同じようなことかもしれない。しかし、これもピアノという楽器の論理でいうなら、20代ぐらいは指のテクニックなどは、おそらく肉体的に最高かもしれず、いわゆる「パワー」があるかもしれないが、音楽芸術の世界ではそんなことはほとんど問題ではないことは自明のことであるはずだ。
 
 人生経験の豊富な年輩の人のちょっとした言葉などには、若者にはとうてい真似のできない、力まずして人の心を動かすような本質的で深いものが宿っていたりするのと、この古い楽器に宿った不思議な力はどこか似ているような気がしなくもない。
また、近年ピリオド楽器が一向に衰える気配もなく注目され続けているのは、やはりピリオド楽器のもつ味わいや音色、表現性に芸術上の価値があると認められ必要とされているからではないだろうか。
 このピリオド楽器などは、新品ピアノのパワー云々などという観点から言えば、ほとんどヨレヨレの状態で、中には本当にこれが実力とはとても思えないほど老朽化しているようなものもあるが(それはさすがにマロニエ君も同意しかねる点があるけれども)、その音楽性の高い表現力には最近とくに関心を寄せているところである。
 
 ヴァイオリンなどでも、ものの本によれば有名なカリスマ的名器の数々であっても、現実にはおおくの楽器が寄る年波からくる疲れを抱えているのだそうで、科学的な意味でのパワーという点ではそれなりに落ちているのだとある。その点では新作ヴァイオリンはこの意味でのパワーはやはりあるらしい。しかし、それでも多くの名器が現役の楽器として世界中で今も尚、鳴りやむことなく使われているという事実は、いかに楽器の本領本質がどこにあるのかということを証明し、ピアノにおける同様の価値について考えても良いのではないだろうか。
 
 新しいピアノが唯一優れていて、古いピアノがどうしても敵わない点があるとすれば、それはアクションだろう。アクションは直接の発音体ではなく、やはり純粋の機械であるから、あたらしい物が摩耗やガタなどもなく安心だと思われるし、新品のよく調整されたアクションの弾き心地というのは格別なものであることは、むろんマロニエ君も良く承知しているつもりである。また直接音に関わる弦とハンマーは一定期間を経たなら役目は終わりとして、新しいものに交換する必要があることはいうまでもない。
 
 最近はいろいろな機会に聞く、気になるお説がひとつあって、それは概ね次のようなもの。
「巷では新しいピアノよりも昔のピアノのほうが良いように言われることがあるが、現実には新しいピアノはむしろだんだん良くなってきている!」という意味ありげなもの。しかもこれは実際にピアノの裏の裏まで触る技術者の言葉だから、いかにも根拠がある話のように聞こえる。
 
 マロニエ君的に言わせてもらうなら、これは言葉のトリックというか、一元的な見方であって、含まれる意味の半分は肯定するとしても、残り半分は同意できないということになる。
 「新しいピアノがだんだん良くなってきている」というのはおそらく無数にあるパーツの品質や、組み立て精度のことで、いわば工業製品としての完成度あるいは確実性だと思われる。これはたしかに近年は一層の技術向上の結果があったような印象が全くないわけでもない。ようするに使用される材質レベルに対して最高の音と響きが確実に得られるように、より高いセッティング精度によって綿密な精度によって製造されているという意味であり、もはや昔のような手作りに不可避だった個体のバラツキは、無いといえばウソになるだろうけれども、断然少なくなっていると思われる。
 
 だからここ5年ぐらいのS社のピアノなどは、大まかにいうとどこの個体を聞いてもほとんど同じ音がする。「一台一台違います」などと表向き言っているけれど、それは良い意味での昔の話で、いささか誇張が過ぎはしまいかという印象だ。
 違うとすればヴォイシングや調律などの技術者のセンスとか音造りの段階で発生してくるレベルであって、それによる結果は確かに一台一台違うだろうけれども、それは手がける技術者が違うのだから意味が違う。
 
 例えば、S社の新品同型を数台並べて、ひとつのアクションだけを使ってそれを出し入れしながら較べてみたなら、果たしてどれだけの違いがあるのか、そのあたりの結果にはたいへん興味を覚えるところである。
 均質なことでは圧倒的な日本製ピアノの新品でも、同型ピアノの仮に3台を3人の技術者がそれぞれが調整をすれば、一台一台違った個性になるのは当然だろう。それをもってピアノ本体の能力を論じるかのように「それぞれの個性」だというのにはちょっと話の筋が違うような気がするのであるが、ピアノの世界はそのあたりのことはたいへん曖昧な部分であるのが昔からの慣習のような気がする。
 マロニエ君としてはピアノ一台一台の個性とは、そのピアノが生来持っている潜在力であり、技術者の能力やセンスでは変更の出来ない分野のことだと理解したい。
 
 そういう意味では、大もとの楽器の潜在力の問題ではなく、一台ごとの個体差というか、全体の均質性では、パーツの加工品質や組み付け精度のレベルアップによって、大いに縮まっているとマロニエ君は見ている。これをして細部にまで手を触れる技術者が「だんだん良くなってきている」と感じてもなんら不思議はない。
 これはしかし製造精度の均質化の勝利であって、いわばトヨタの車が持っているような精度品質の素晴らしさなのであって、車それ自体の性能とかハンドリングや乗り味の魅力ではない。
 技術者は往々にしてディテールの出来具合など工作技術上の進歩と、本来の楽器としての進歩を、どうしても混同しがちなものであるが、ここは間違えないでほしいものだ。
 というわけで、「新しいピアノがだんだん良くなってきている」というのは、ひと時代前のいわゆる楽器らしい意味でのピアノの良否とは似て非なるものになっているような気がするが、どうだろう…。