#70.フランスの好み

 どういうわけか…というのもちょっと変かもしれないが、このところフランスではピアノといえば──コンサートや録音の現場では──ヤマハを好む一派が主流をなしているようで、この国でのヤマハの支持のされ方は我々日本人から見るとちょっと意外でもあり、驚きでもある。
 
 この現象、いつごろからとははっきりわからないけれども、気がつくと現役のフランス人有名ピアニストの大半が、申し合わせたようにみんなヤマハを弾いているのにはどうしたわけかと不思議に思うところであるし、同時に、これは非常に興味をそそられる点でもある。
 
 フランス人は、横並び大好きの日本人とは正反対のメンタリティを持った人達で、ことさら人と違うもの、自分独自のものでなくては気がおさまらないところがあるから、世界的なスタインウェイ偏重の流れに一定の抵抗心と実践力があるのだとすれば、それはフランスならあり得ることのような気がする。しかし同時に、個人レヴェルで見た場合、多くがヤマハという同一メーカーばかりを談合したように弾くのは、これはこれで一種の横並びじゃないかと解釈できないこともないところではあるが。
 とはいえ、何事においても独自性を重んじ、あくまでも自分達の感性や眼力で選び抜いたものを、独特の流儀で使いこなすというのはいかにもフランス人らしい点であろう。
 
 そしてそれが、自国のプレイエルではなく、他ならぬヤマハであるというところが正直言って驚かされるところだが、彼らのヤマハの使い方を見ていると、なるほどと思わせられる点もなくはない。
 
 まったくの想像だが、フランス人のヤマハ好みの火付け役は遠くはエリック・ハイドシェック、近くはジャン=マルク・ルイサダあたりではなかろうかとも思ってしまうがどうだろう。
 彼らはキャリアのはじめの頃はスタインウェイを使っていたし、ルイサダはさらにファブリーニ(イタリアの高名な調律家で、名匠タローネの弟子)のスタインウェイを弾くなどして録音をやっていた。マロニエ君の印象としては、ファブリーニのピアノはイタリア的な華やかさというよりは、非常にコントロールの行き届いたなめらかさがあり、同時に極めて精密で均一な鳴り方をするという印象がある。ハンブルクのスタインウェイをベースに、より精度を高めると共に、ところどころの音域間にある音色の段差などは極力抑えられてムラなく繋ぐなど、どちらかというと整然とした印象で、ファブリーニ氏の理想と個性に彩られたピアノになっていると感じられる。
 
 そのせいか、彼が手がけたプレイエルを2種類ほど録音で聴いたことがあるが、おそらく極上の調整がされているのだとは思うけれども、それがいささかやり過ぎなのか、ひどくつまらない、面白味のないピアノになっていたことは残念に感じたものだった。
 こういうことを言うと多くの技術者から叱られるかもしれないが、それでも敢えて言わせてもらえば、楽器というのは基本は素晴らしく調整されていなくてはいけないけれども、音造りの面にまで綿密を極めた仕事を行き届かせるあまり、生来の個性までもを押さえ込んでしまうことに繋がっていくやり方は感心できない。あくまで大局的見地に立って楽器が持って生まれたものを尊重しながらピアノに自由と健康を与え、最後のところでは良い意味でのアバウトさみたいなものさえも必要ではないだろうか。それが上手く作用することによって楽器が本来の声で開放的におおらかに鳴るものだと感じるし、こういう在り方のほうをマロニエ君は好む。
 
 そういう意味では、あまりに厳しく統制されたガチガチのピアノはまるで自由のない盲導犬のようで、どこか技術者の技術にしめつけられた窮屈さみたいなものを抱えていて好きにはなれない。それに、細緻を極めた調整をやりすぎると楽器の器までもが矮小化する場合があると感じるのはマロニエ君だけだろうか。機械的な調整はやりすぎるということはないけれど、そういう場合、往々にして調律師も相当の凝り性であろうし、彼らの中には楽器の個性を超越したところに理想の音というのがあって、それがどうしてもピアノに投影されすぎるような場合があるように感じる。
 楽器本来の持って生まれた音色や響きを絶対優先──場合によっては「理解」というべきかもしれない──させずに、優秀ではあっても調律師個人の主観と理想によって仕上げられたピアノというのは、一見とてもクリアーで素晴らしいように感じるが、不思議と深い感銘が得られない場合が少なくなく、結局はただ技術者の技ばかりを見せつけられるだけに終わってしまう。
 これはピアノ本来の特性や持ち味と、音造りの方向性や思想が、根本のところで噛み合っていないためだと思われる。
 
 ちなみに、横山幸雄氏が日本で現在進めている戦前のプレイエルを使ってのショパンの録音は、すでに3枚がリリースされたところだが、その調整の見事さには本当に舌を巻くし、日本人の技術というのはまさに世界の頂点だと言っても差し支えないと思う。よくぞここまで戦前のプレイエルを完璧といいたいまでに端正に仕上げたものだと思うが、ただひとつ残念というか心に添わない点は、では、これがこの楽器の本来の響きかどうかということになると、少なくともマロニエ君はどうしてもそうは思われないところがあるのである。
 
 フランスのヤマハに戻す。
 上記のファブリーニを弾いた後あたりから、ルイサダはヤマハを使うようになったとおぼろげに記憶しているが、もしかしたら間違っているかもしれない。ただ、ルイサダは現在彼が獲得しているピアニストとしての地位からすれば、指のメカニックは悲しいかな相応のものではないのは周知の事実だろう。彼の演奏するショパンの評価が高いのも、ひとつには彼が技巧的な劣勢をカバーするために追求され磨き込まれたところの成果ではなかろうかという推測がマロニエ君にはある。
 
 同じスタインウェイでも、技術者の手が存分に入ったピアノは、弾きやすさの点、音色の美しさという点では他の平均を大きく上回るものがあるが、当然ながら逆の場合もある。そういう機械的な確実性という観点から彼らがヤマハに辿り着いたのだとしたらじゅうぶん考えられることだろう。というのも、ヤマハは単なるアクションの問題だけでなく、その音色も含めた総合的な意味において、少なくともコンサートグランドの場合、とても弾きやすくピアニストに寛大なピアノであるということは言えるような気がする。
 
 ルイサダはコンサートはもちろん、録音なども現在はほとんど日本でやっているようだし、中堅のミシェル・ダルベルトや古典作品を得意とするアレクサンドル・タローもヤマハをヤマハを多用、いま最も期待される実力派フランス人ピアニストのひとりであるジャン=フレデリック・ヌーブルジェに至っては、年代や収録場所の異なるCDでもピアノはすべてと言っていいほど徹底してヤマハを弾いているようだ。
 逆にこの流れに入らないのはピエール=ロラン・エマールとエレーヌ・グリモーで、彼らは一貫して定番のスタインウェイを弾いているものの、フランス人ピアニストとしてはこちらのほうがちょっと異端な感じがするし、彼らの演奏はスケールこそ大きくはないものの、そのスタイルは国際規格であって、フランスという枠内にとどまってはいない。
 
 ひとついえることは、フランスで録音されたヤマハを聴いている限りにおいては、日本で聴くヤマハとはかなり違うという印象がなくもない。ひとくちに言うと、これがヤマハかと思うほど、とても繊細で音が柔らかく、やや小ぶりに上品にまとまっている。そしてピアノの個性があまり前面に出ることなく、演奏をあくまでも黒子的に支えているピアノという感じだ。
 これらの要素を考えていくと、もうおわかりかも知れないが戦前のエラールを連想させるタイプという気がしてくるわけで、ピアノは完全に脇にまわり、あくまで作品と演奏が主役となっている。
 
 ルイサダが日本でおこなった録音の中には、同じヤマハでも本当に美しい華やかな音色のピアノがあるかと思うと、いかにも日本的な味噌汁みたいなヤマハの音で思わず抵抗を覚えるものもあるが、その点、フランスでのヤマハには目のつまった上質な布地のようなしなやかさと上品さがあって、独特の節度ある美しさがはっきり聴き取れるのはマロニエ君も認めないわけにいかない。
 その代価というべきか、楽器としての大きさはないけれども、ベーゼンドルファーのような一種独特の臭味もなしに、弱音域の繊細さを表現できる垢抜けたピアノになっている点は大いに評価したい。
 ひょっとすると、はじめからフランス人たちは確信犯的に、ヤマハにスタインウェイ的なスケール感を見切った上で、ピアノにより華やかでセンシティヴな面だけを活かした音造りをやっているのかもしれないし、それに適った演奏によって洗練された音楽表現をしていることも考えられる。
 
 こういう成り立ちの演奏を聴いていると、なるほどスタインウェイのいかにもスケールの大きな華麗な音色は、フランス人ピアニストの好むデリケートなニュアンスには若干齟齬を生んでいたのかもしれないという気がしてくるし、それがしだいに理解できてくるところがおもしろい。
 楽器そのものが強靱かつブリリアントで、すでにスタインウェイという色の付いたピアノであること、またこのピアノの持ついかにも英雄的な性格が、彼らの軽妙で陰翳を必要とする感性にはやや合わないことは充分考えられる。
 
 さらにフランス人は、ピアノに対するイメージを、今日的なコンサートの基準であるホールよりも、ショパンの時代に見られるようなサロン的な規模のこまやかさのある楽器と捉えて、よりコンパクトでデリカシーに溢れた楽器であることを求めているようにも思われてくる。決して既存の基準に盲従することなく、そのようなイメージの問い直しができる点もフランスの文化の深さを感じさせられるところで思わず唸ってしまう。
 
 そういう意味では、フランス人のイメージにあるヤマハは、ヤマハ自身が本来目指しているものとは少々違ったニュアンスに落とし込まれている可能性もあるのかもしれない。つまり、フランス人はヤマハをあくまで自分達流にちょっと上手に使いこなしているように感じられるのだが、そういう実に巧みな、他では思いつかないような使い方を発見する彼らの独創性にはいまさらながら敬服する。要はヤマハを使っていても、それは決してヤマハに対する全的肯定ではないのだろう。
 
 かつて、ミシェル・ベロフやジャン=フィリップ・コラールが彗星のごとく世に出てきた70年代の録音などは、ピアノはスタインウェイだったが、その音はかなり通常のスタインウェイとは違うものだった。いかにもフランスピアノ的華やかさに溢れたもので、スタインウェイの持つ音の太さや荘重さを犠牲にしてでも、線は細いけれども贅肉をそぎ落としたようなシャープかつ華やかなピアノだった。とうてい他の国では受け容れられないピアノだったと思う。
 
 その他にもジャン・ドワイヤン、セシル・ウーセ、フランソワ=ルネ・デュシャーブルなどは一時期ベーゼンドルファーを使っていたが、ドワイヤン以外はこのウィーンの強いイントネーションに最終的に馴染めなかったのか、その後はスタインウェイを弾いたようだ。ベーゼンドルファーはもちろん素晴らしいピアノだが、ウィーン特有なある種の個性──野暮ったいことを逆手にとって崇高な美にまで高めたような──は、おそらくフランス的センスの前では、民族学的にも相容れないもののほうが大きいはずだ。
 名匠イーヴ・ナットはエラールとスタインウェイを引き分けていたようであるし、コルトーは大半をプレイエル、晩年にスタインウェイ、フランソワは多くをスタインウェイで弾いていたように思う。
 
 これほどフランス人ピアニストがスタインウェイを使いつつもそこに安住せず、さまざまなピアノの音色に試行錯誤してきたのは、自国のピアノが大戦を境に弱体化してしまい、同じDNAを持つピアノを失ってしまったためかもしれない。
 
 そして、このところ彼らが目をつけたのがヤマハということだろうか。少なくともフランスに於けるヤマハへの支持の高さは並々ならぬものがあるのは間違いないようで、この勢いなら少なくともパリでは、コンサート会場はもしかしたらヤマハのほうがスタンダードという可能性もあるだろう。
 
 そういえば、スタインウェイに鞍替えして、生産国の日本でさえもヤマハを弾かなかったショパンコンクールの覇者アヴデーエワは、パリでのリサイタルでは、あのオフィス着みたいな黒いパンツ姿からお姫様風ドレスに大変身して、再びヤマハを弾いているのにはまたまた驚いてしまった。
 まったく何がどうなっているやらこの業界のことはさっぱりわからないが、いずれにしてもフランスはやはり独自のものを失っていないということだろうか。
 
 面白いのは、これほどヤマハが異例の高い評価を受けながら、カワイは見向きもされず、その気配もないのはどうみるべきだろう?
 マロニエ君の想像では、カワイにはわずかながら伝統的ピアノの源流を思わせる色があるからだと思う。その色というのは、ドイツ的とまで明確には言い切れないけれども、強いていうなら中央ヨーロッパ的とてもいうべきで、少なくとも西ヨーロッパの明るくて軽い色彩と燦々たる光りのまぶしさはない。どちらかというと、わずかな陰鬱さと深いものを求める生真面目なピアノである点をフランス人は敏感にかぎ取って、自分達の求めるものとはやや異なる要素の存在を見逃していないのだろう。
 その点、ヤマハは明るめといえば語弊があるが、少なくとも現代的な音色でありながら、しかもこれという楽器が放つ主張がない。音だけを聞いているといったいどこのピアノかまるでわからないような匿名的かつ無国籍的な音だし、しかも古臭さのない音がするところを、フランス人は自分達の必要なところだけ上手く捉えて使っているように思われる。
 ヤマハの持つこれらの要素、さらにはピアノとしてのある種の寛大さ、楽器としての潜在力があまり大きくないことがフランス人の求める色合いにたまたま適合したのではないだろうか
 
 かつてのプレイエルのようにフランス人そのものから出てきたような個性ならば相性も抜群だろうが、そうではない場合は、却って特徴的な音色がないほうがいいことは、エラールのようなピアノが昔からプレイエルの陰でしっかりと同時並行的に支持されてきたフランスの土壌ならではと言えるかもしれない。
 
 現代のプレイエルはついにコンサートグランドをカタログに載せるに至り、その音色はたいそう柔らかなものではあったが、まだまだ完成の域には達しているとは言い難い印象だった。フランス人にはどんな評価を下しているのか聞いてみたいところである。
 ちなみに、プレイエルのコンサートグランドP280はバイロイトの老舗、シュタイングレーバーによって委託生産されているということを耳にしたので、日本のシュタイングレーバー輸入元であるS氏にその旨を聞いてみたところ、現在のプレイエルにはまだコンサートグランドを製造する力がないので、おそらくそういうことだろうという回答が返ってきた。
 
 それが事実だとするなら、やはりピアノは民族性が色濃く出てこその楽器なので、わけてもコンサートグランドともなればぜひとも自前で作って欲しいものだし、それができないのなら、他国の工房に委託してまで作る必要があるのかと思われる。ドイツで作られたプレイエルという構図は昔も一度あったことだが(シンメル)、それでは一体何のためのプレイエルかとも思うし、だいいちこれではドイツピアノなのかフランスピアノなのかも甚だわかりにくいものとなる。
 
 シュタイングレーバーはドイツピアノらしい規律と実直さの中に、柔らに薫るような肉感的な響きを併せ持ち、あたかもドイツの威厳と優雅と官能が共存しているといった印象があるが、あのプレイエルP280の柔らかな要素はシュタイングレーバーの潜在力を活かしつつ、フランス的に味付けを変えて出来上がったものというわけか。
 ただし、いまだ発展途上というべきで、フランス人ピアニストたちが歓迎しているようにもあまり感じない。
 
 そのうちこの新生プレイエルにフランス人が触手を伸ばすのかどうかは知らないが、ここ当分はヤマハを使い続けることになるような気もする。