#72.個体差と選定

 このところ、ピアノの個体差や選定に関する事で話題になることがあり、いろいろと考えさせられるところを思いつくまま書いてみた。
 
■まず個体差について。
 ピアノの個体差といっても実に様々であって、これはとても一概に言えるようなことではないけれど、ピアニストや技術者は、主にホールにあるピアノに関しても個体差が激しいと言いい、それはもちろんある意味で当然だろう。
 
 ただし、なぜかスタインウェイが槍玉に上がることが多く、ひとつにはホールなどではそれだけこのピアノの数が多いということでもあるのだろう。ただ、スタインウェイに対して、日本製ピアノが持っているような独特な逞しさを期待しているのだろうか?と思われるふしもあり、その言葉のニュアンスには製品の日本的耐久性と、楽器としての評価が、微妙な加減にオーバーラップしているようでもある。ただ単にスタインウェイをばらつきの多い楽器と捉えて、これがいかにも欠点であるかのように語られてしまう感じがなくもない。
 
 こういう捉え方は、楽器の個性を深く理解することなく、一括りに判断された結果のような気もするが、もう少し内奥まで踏み込んで考えてみる必要があるように思われる。
 とくにスタインウェイに対しては、このピアノに携わっていない、もしくはメインではない技術者の意見というものには、どうも妙に手厳しい響きがあるように感じるのはマロニエ君だけだろうか。管理が充分でないことに原因があることはあまり考慮せず、スタインウェイといっても実際には出来不出来があり、玉石混交であるかのように示唆的に語る専門家などは意外に少なくない。
 
 そもそも、楽器それ自体にある個性と特性、個々のピアノの状態のばらつきは区別して考える必要があるように思う。
 環境や調整如何によっても左右されやすいピアノは、言い換えるならナイーヴで演奏表現に長けたピアノということでもあるだろうし、欧米の名器といわれる楽器は日本製ピアノが持っているような逆境に対する逞しさのようなものは持ち合わせていないだろう。
 人間でも同じだが、鈍感な人は状況にも左右されにくい反面、こまやかな感受性とか繊細な反応、触れれば切れるような鋭敏さもない。
 
 ひとくちに個体差といっても、その内容や原因は後天的なものが大半ではないだろうか。
 製造時期による違いはあるとしても、管理の違い、使用頻度の違い、パーツの消耗の度合い、そしてなにより技術者の違い、これらが複合的にあいまって一台のピアノの状態を成立させているのであって、時が経てば経つほど各個体の状態差は強まっていくものである。マロニエ君は直感として思うのだけれども、よい楽器、優れた楽器というのは、物としては弱いものだということだ。
 しかし、日本人は物として強いこと、作りが堅牢なこと、如何なる場合もコンディションにばらつきが少ないことを、品質の本質のように考る習性があり、これをそのままピアノにも当てはめる向きも少なくない。日本製ピアノの劣悪な環境や取扱いに対する影響の少なさを品質とする変な評価基準があるものだから、スタインウェイなどのもつ、物としての弱さが気に入らないのかもしれない。故障のない日本車が一番という考え方と同じだろう。
 これはなんでも平均化してグラフのように物事を判断する日本人の特徴のような気もするがどうだろうか。
 
 しかし良い楽器というのは、ある意味で脆弱さを抱え持っていることは当然なのであって、そもそも楽器というのはそういうものだという認識が弱いような気がする。人間でもそうで、芸術家、わけても天才は人間的にはバランスが良いとは言えないし、昔は多くが夭折もしている。仮にショパンやシューベルトが病気のひとつもしたことのない頑健な体と精神を持った逞しい男だったら、あんな作品を遺し得たとはとても思えない。
 
 スタインウェイでいう個体差とは、繰り返すが管理や使われ方の問題であって、表現力のないゴツイ家具のようなピアノと較べられてはメーカーもさぞかし心外のことだろうと思われる。
 もちろん如何なる理由を並べ立ててみたところで、演奏者が快適に演奏できないのであれば意味はないけれども、そのことと、楽器の生まれ持った能力とは本来別問題であり、コンディションの悪いピアノがあったとすれば、それは広く管理上の責任だと思われる。そして管理の悪さに対する不平不満が突出して少ないのが日本製大手メーカーのピアノなのだろう。
 技術者に言わせると日本製のピアノというのはずば抜けて作業がし易いのだそうで、それをもって高い評価をする人が多いが、それはただ技術者の仕事が楽にできるというだけのことではないか。もちろん、めちゃくちゃな作りでは困るけれども、ピアノの良し悪しは音楽を奏でたときの芸術的な評価が第一であってほしい。
 
 マロニエ君に言わせると、本当の小規模なメーカーの手作りピアノの類は別として、今どきの近代的な工法から生まれるピアノの場合、同じ時期に作られた同型の場合、楽器の潜在力としての個体差はゼロとまでは言わないが、それが人が言うほどの甚大な違いがあるようにはとても思えない。日本の大手メーカーはむろんのこと、近年はスタインウェイもこちらに分類して差し支えないのではないだろうか。
 厳密には響板に使われる木材の部位のわずかな違いから生じるものとか、ボディの誤差や組み付け精度による微かな差はあるわけで、車や電気製品とは違うけれど、逆にいえばいまどきの車や電気製品だって、厳密にいえば個体差がないとは言えないのである。
 そんなピアノでも、中にはごく稀に突出して良いものと悪いものの両極はあるだろうけれども、それは確率的には猛烈に低いと感じる。
 
 それよりも、個体差というなら、いわば先天的なものより、上記のような環境その他、様々な要素がもたらす状態の違いのほうが、本質的にどれだけ大きな要因だろうかと思われてならない。
 さらには弦やハンマーなど消耗品の消耗の度合いや、アクションの状態や調整具合によっても大きな差が出るだろうし、技術者の技量やセンスによっても無視できない違いが現れてくる。ただしそれは技術者しだいで、どんなに立派な肩書きをたくさん名刺に刷り込んでいるような人でも、どうしようもなくセンスのない、冴えない技術者というのもいらっしゃるのはまぎれもない事実だから、こういう人に長々と引きずられるとピアノも所有者も不幸である。
 
 したがって個々のピアノの状態は、専ら所有者・使用者・技術者の三者責任であると思われるわけで、それによる悪い結果を、一言のもとにメーカーのせいにするのはいささか筋違いというもの。
 どんなにすばらしい楽器が存在しても、そのコンディションを維持するための調整を折々に技術者に依頼しなくては、ピアノは荒れていく一方でどうにもならない。逆にいうとどんなにすばらしい技術者がいたにしても、仕事の依頼がなくては技術者のみなさんは動けないわけだから、これは専ら所有者の責任である。
 ホールに於いてはそこがシステム化されているわけだが、それも技術者しだいの部分は小さくないし、それ以外のピアノでは管理者の認識ひとつだろう。逆に、どんなに管理を心がける所有者がいても、やってくる技術者のセンスや技量が劣れば、ピアノはまちがいなく輝きを放たない。
 ピアノが生まれもった能力、所有者の意識、高い技術をもった技術者、この3つがうまく揃ったときにピアノは文字通りの素晴らしいピアノになるわけで、そのうちのどれが欠けても決して達成できないだろう。
 
 
■新品ピアノの「選定」について。
 よく、もっともらしく「ここのピアノは誰々(有名ピアニストなど)の選定」などと言うけれど、マロニエ君に言わせれば、それがどれほどの意味があるのか、その価値や意義が判然としない。
 ピアニストはピアノの機構面での専門家ではないし、一体どこをどう選定しているのかということが、もう少し具体的に説明されてもよいのではないだろうか。ホールなどのピアノ選定とはいっても、その判断基準は甚だあいまいで、これという根拠があるようには思えないし、ピアニストによっても判断はあれこれと変わるだろう。
 結局のところ、ピアニストが選ぶピアノというのは、そのピアニストの主観とか好みに負うところが多く、特定のホールに収められ、そこで長い年月をさまざまな弾き手に使用されるにあたって、本当に相応しいピアノが正しく適切に選択されているなどと関係者は言い切れるのだろうか。
 
 こう言っては身も蓋もないが、ホールとピアノの関係にわずかな権威性をつけるため、ちょっとありがたい感じのエピソードを添えるため、慣習的にやっている欺瞞行為としか思えない。現代のホールに収められるようなメジャーなメーカーのピアノで、しかも新品なのだから、数台あるうちのおおよそどれを持ってきたって間違いなどあるはずもないだろうし、現実的に選んだ違いがもたらす明白な結果なんて後で誰にわかるというものでもないだろう。ほとんどなんの意味もないことを、さも意味ありげにご大層にやっている事としかマロニエ君は思わない。
 
 さらに、ピアノは技術者の調整次第で前後左右上下に変化するわけで、選定に準備されたピアノは、たまたまその場(瞬間)での状態に過ぎず、それは喩えていうなら女優や芸能人に付いて仕事をするスタイリストとかメイクのやり方みたいなもので、仕上がりはさまざまに変化するものであるし、だけど中の人間は同じ人だから、メイクで変化は付けても別人にはならないということ。それをある日一日の様子や姿かたちだけを見ただけで、将来までの結論を出してしまうようなものだろう。これはよほどの目利きでなければできる判断ではなく、本来の容姿の真価とか演技の実力、あらゆる可能性などを知るには長いお試し期間が普通は必要なのであって、それは一朝一夕にわかるものではない。
 
 それが例えばどこどこのホールに本当に相応しいピアノかどうかなど、そんなことが選定室でチョロチョロッと弾き比べたぐらいで正しくわかるなんて、マロニエ君は申し訳ないがとても信じられない。本気で選ぶなら、少なくとも3~4台の同型をホールへ持ってきてステージ上で弾き比べるぐらいのことをしないとわからないし、そこまでしても判断する人によって結果はコロコロ変わるはずだ。さらにそこへ技術者の調整の問題まで介入してくれば、事はさらに複雑化し、それはもう大変なことになるだろう。
 選定しているのは、ほとんどその日その場その瞬間での状態にすぎず、しかも大抵は一人の選定者のあやふやかつ主観的な判断に過ぎない。ピアニストは要するに弾いてみて自分が弾き心地のいいピアノ、自分の表現したいものを可能とするピアノが良いピアノということになるのはやむを得ないし、それを責めることはできないだろう。
 この点は、まだ信頼のおける技術者のほうが適任かもしれない。
 
 これがもし、欧米のように貸出ピアノが盛んな場所の話で、自分の演奏に使うピアノをピアニストが選定するのとは本質的な目的が違うのであって、この場合は一晩限りのピアニストとピアノの相性さえよければ良いわけだから、主観で結構、大いに納得できるわけだ。そこではその楽器の潜在力や普遍性にまで気を回す必要はない。
 
 そして、本当にピアノがわかる人は目先のタッチや音色ではなく、ボディそのものが生まれ持っている能力を冷徹に見抜くことができるのだろうが、少々のピアニストで本当にそんなことができているのだろうか…。調整まですべて自分で行うツィメルマンにいわせると、多くのピアニストのピアノに対する判断は見当違いでナンセンスだというような意味の発言をしてるぐらいだ。
 だから、「誰々の選定」は要するにひとつのセレモニーだと考えればすべてが納得がいく。著名ピアニストがわざわざこのホールのためにと最良のピアノを選んで、フレームにサインのひとつもすれば、それはもはや機械的に納入されるただのピアノではない特別なものとなり、それでめでたしめでたしということかもしれない。
 
 個人のピアノでも、よく浜松まで行って何台の中から選んだなどと恭しげに言うけれども、それでどれほどの選定ができたかとなると甚だ疑わしいし、首を捻るような話である。
 なぜなら、だいたい選定室にあるピアノはお客さんに違いが明確になるよう、明・華・深といった感じに数種類の音色に振り分けて音作りされているというから、たまたま事前に技術者によってそれらしきヴォイシングがなされたというだけのことで、そんな程度の差なら、要するに整音の違いだけということではないのか。
 そして、選定室で選んだピアノが、生涯その音を出し続けるのかといえば、そんなことはあるはずもないことで、ピアノの音というのは弾き進むうち、調整を重ねるうち、さらには環境でどんどん変わるものである。
 
 極端な話、同型が何台もあるなら、その場でアクションを入れ換えただけで、結果は二転三転するだろう。マロニエ君に言わせると、音色やタッチは一時的なもので、しかも技術者の調整によって変化するものなので、本来選定すべきはピアノのボディの能力を見極めることだが、これができるのはメーカーの人や相当の経験を積んだ技術者だけではないだろうかというのが正直なところ。どうまちがってもピアノ先生なんぞにできる判断ではない。
 
 現実には、お客さんはたまたまそのときにピアノに施されている調整の、おそらくは何通りもあり得たはずの結果の中の、あくまでひとつの状態を、まるで永遠の姿のように錯覚して選んでいるだけであって、いいかえるならその瞬間の整音、整調、調律の結果を選定しているにすぎない。上記のメイクと同じである。
 これは要するに、ピアノそのものではなくてアクションを選定している、もっと言うなら整音されたハンマーを選定しているだけのような気がするわけである。
 ところが、選んでいる側にしてみれば、そんな認識はまずまったくないはずで、そこで弾いて感じた差は、そのまま正味そのピアノそのものの個性だと信じているに違いない。
 冒頭に述べた個体差というものの認識がここにも出てくるのであって、ここでいう個体差は技術者の「仕事差」である場合が大半ではないのかとマロニエ君はいいたいわけである。
 
 こう書くと、そんなことはない!いかに新品であってもボディの個体差も必ずあるわけで、それらの要素の総和による一台一台の違いであるはずだと言われそうな気がするが、とりわけ日本の大手の作るピアノの場合、何から何まで大半の製造作業を精巧優秀な機械がやっており、そこに職人ならではの技術が介在する余地はほとんど無い。
 とりわボディは、昔のピアノの世界でいうところの誤差など無いに等しい精巧なパーツを、これもまた精巧な工作ロボットの寸分狂わぬ動きによって組み立てられており、あるとすれば具体的にどういう部分がどういう風に一台一台の差が出るのかマロニエ君のほうがぜひとも聞きたいほどだ。
 
 それでも僅差があるというのなら、その程度は主に金属で作られる車にだってあるわけだ。すなわち同じ新車の中から、タイヤメーカーぐらいしか違わないものを「これ」だと選んでいるような気がする。
 
 本当にボディを選ぶなら、理想的には数台のアクションを入れ換えて較べてみるべきで、ヴァイオリンなら1本の弓であれこれの楽器を弾き比べる、あるいは複数の弓と本体の組み合わせでさまざまな角度から楽器の価値や性格を確かめることができるが、ピアノは現実的になかなかそういうことができないし、頼んでもメーカーはやってはくれないだろう。ピアノ本体とアクションは、まるで生涯の伴侶のごとく、ピアノが生まれたときから深く結びつけられている。
 こういうところがピアノ選定のからくりのような気がしてしまうのだ。うすぼんやり感じることは、選定という言葉の概念と実体が本質的に齟齬を生んでいるということ。
 
 高名なピアニストがどこそこのホールのピアノを選定してフレームにサインしたり、どこどこ先生のピアノはわざわざ浜松まで行って選んできたピアノというのは、もちろんすべてが無意味だとはいわないけれども、その実体たるや甚だあいまいで根拠薄弱なものとしか受け止めることができない。だから、いかにもそれが特別なものであるかのように恭しく語られてしまうと、マロニエ君はつい心の中で無性に苦笑してしまいたい気分になってしまうのである。
 
 とりわけ選定室を置いているような大メーカー、もしくは輸入元の取り扱うようなピアノで、新品の同じモデルで、一台は素晴らしい出来、一台はお粗末な出来というようなことがあるとは到底思えないし、同様に生まれながらに性格の違うピアノがあるなんて思えない。それをいうのは、きっとピアノを楽器として語るときのファンタジーだろう。
 
 そんなことよりも購入後の楽器との付き合い方、日ごろの手入れだとか、音楽に愛情を感じるような演奏をすることのほうがよほど大事だと思われるが、先生などは選定などは勇んでするが、この点はおどろくほど大胆なことが多くて驚くような話ばかり聞こえてくるのは、まるで笑い話である。
 
 そういう意味では選定というのは、せっかくピアノを買うお客さんに、「自ら選定する」という楽しみと、いわば思い出作りのために、ささやかに仕組まれ演出されたサービスイベントのような気がしてしまう。そして数台の中から自分が選んだということに、得も言われぬ満足を心に刻みつけるための儀式というほうがよほどわかりやすいだろう。
 
 もちろんそれがすべてだと言いきる気はなく、同じ大手メーカーのピアノでも、価格の高い、職人の手間暇のかかったピアノではやはり多少の違いがあるかもしれないが、普及品ではどこまで意味があるのかどうか甚だ疑わしい。
 技術者が整音などをちょっとやりかえたら、きっとまた全然違った結果がでるはずだし、広い選定室と自宅では音響特性じたいも大いに変わるのだから、これは考え出したら疑問点ばかりが増えていく。
  こう考えると、ほとんど自己満足の世界ではないかと思うばかりだが、しかし自己満足というのも人間にとっては幸福をもたらす大切なものだろうから、それはそれで大きな意味があるといえばあるのだろう。
 
 最後にひとつマロニエ君が驚いた経験を書くと、以前ある新しいホールに新品のスタインウェイが納入され、そのピアノ開きのコンサートを聴きに行ったのだが、なんとも薄っぺらで響きがなく音も貧相で、これまでで最低ではないかと思えるようなピアノだった。ついには品質がここまで落ちたのかとさえ思った。ちなみに、このピアノも有名ピアニストによる選定というお墨付きがあるらしいのだが、一体なにを選定したのかとその面でも呆れたものだった。
 数年後に再びそのホールでのコンサートに行くことになったが、はじめの印象が強烈だったので当然ピアノにはまったく期待していなかった。ところがそれはものの見事に裏切られ、同じピアノとは俄には信じられないような、しっとりと深い音を出す本物の素晴らしいピアノに一大変身を遂げていたのである。聞けばひじょうに名のある優秀な技術者の方がこのピアノを入念に調整されているとのことで、ははあ…どおりでと思った。技術者によってここまで変わるという、まさに典型的な事例を見るようだった。
 かくのごとく、ピアノの状態と選定とはこんな関係なのであって、素晴らしいピアノであり得るか否かは、ひとえに優れた技術者の腕にかかっている。