#73.ピアニストの忘れ物

 数ある楽器の中でも、ピアノ弾きは最も自分の出す音や演奏を客観的に聞いていないといわれる。
 これは言い換えると、音楽家の中ではピアニストが一番耳を鍛えられていない種族ということかもしれないし、アマチュアレベルでもピアノ弾きは他の器楽奏者より、どうも耳が鈍いように思われる。
 
 ただし、ここでいう耳の良さとは正しい音程を聞き分ける耳のことに留まらず、ようするに自分がどれけの演奏ができているかという音楽的、もしくは評論家的な客観的な耳という意味も含んでいる。
 ピアノの音程は専門技術者によって固定されているから、演奏の過程で音程を作る必要がない(できない)上に、アクションという史上最高の打弦機構を備えることで、誰が弾いてもとりあえずピアノの音は間違いなく出るというピアノ固有の特性がもたらした結果であると言えるだろう。
 
 まったくの初心者にとって、管・弦楽器は音らしい音が出せない場所からのスタートとなるけれど、ピアノはタッチがどんなに拙劣でも、よしんば肘で叩いても、出てくる音はピアノの音になっているといういわば最低保証がある。これは鍵盤を押し下げさえすれば直ちにアクションという究極的な発音機構が働いて、その力をハンマーの適切な跳躍運動に変換し、これを機械的に作り出してくれるという他に例を見ない恩恵ゆえであるが、この助けが仇となって音色に対する感性が低くなっているという可能性は否定できない気がする。
 
 また、両手指に背負わされた音数ときたら他の楽器にくらべて突出して多く、それだけでもピアノの演奏は複雑かつ多忙を極めて余裕がないということにもなるだろう。オーケストラに匹敵する多種多様の音符の数々をたった一人でまかなうのだから、考えてみれば曲芸的な演奏形態を課せられているともいえるわけだ。
 
 さらには、ずば抜けて膨大なレパートリーを常に勉強する必要に迫られていること。こうした要素が折り重なって、ピアノ弾きはなかなか自分の演奏を客観的に聞くことができにくい環境に置かれているように思われる。
 ピアノ弾きは根本的に余裕がないのだろうが、それだけに自分の出している音や、ひいては音楽そのものに対する客観性が失われがちな楽器だといえるだろう。よほど積極的に自分の音を聴こうとしない限り、弾くという運動だけにエネルギーを費やして、あとのことに無頓着でいようと思えば、それもまったく不可能なことではない。
 
 そもそもピアノのあの大きな図体をみても察せられるというものだが、基本的に人間は、自分の体より大きなものを使いこなすということには、一部の例外はあるにしても、概ね無理な場合のほうが多いのである。
 そこには自ずと限界というものがあり、自分を見失う危険率がひじょうに高いというべきだろう。
 
 とくにソロなどでは、演奏行為そのものが多忙を極めており、自分の出す音色に耳を傾けたり、音楽の全容に思いを巡らし把握しながら演奏を進めるということは、かなり至難であるのは間違いない。ピアニストは自分の演奏を客観的に正しく判断することが難しく、独りよがりに陥りやすい上に音楽的な耳も比較的鍛えられていないから、仮に録音などして反省点があったとしても枝葉末節の点であることが多く、その判断が客観的に妥当なものかどうかは甚だ疑わしい。
 
 今年の5月に87歳で亡くなられた御大の田村宏氏は、ひと時代前の我が国ピアノ界屈指の名伯楽で、40数年にわたって東京芸大/芸高で後進の指導に当たられただけでなく、ピアニストとしても戦後は盛んに活躍された一人である。
 井口基成、安川加寿子、永井進などと並んで、文字通り日本のピアノ界の一つの時代を作り育て上げた人であることは異論を待たない。
 
 田村氏はとても厳しい教師としても有名で、その教え子の数だけでもおそらく大変な数にのぼることは間違いない。
 マロニエ君が子供のころ、ツェルニーの模範演奏として我が家にあった数枚のLPレコードも田村氏の演奏によるものだったことを思い出すし、とにかく人生をピアノに捧げた氏の功績は大変なものである。
 
 ごく最近、この田村宏氏の著書である『ある長老ピアニストのひとりごと』を読んだが、日本のピアノ演奏が今日のレベルを達成するために、その長い道のりを懸命に駆け登ってきたその時代こそが、氏がまさに現役として生きてこられた時代そのものだった。
 
 氏はピアニストとしての絶頂期にあって、ソロリサイタルを引退し、以降は専ら室内楽と後進の指導に全精力をつぎ込むという一大決心をする。
 この厳しい先生がさすがだと思ったのは、その最後のソロリサイタルを前にして、今は自分が他者からのレッスンを受ける必要があると判断し、自ら同業の井口秋子女史にその指導を依頼する。リサイタルを前に演奏を聴いてもらい、様々な意見やアドバイスを得たということが書かれていた。
 
 こういうことは、ピアノではなかなかないことで、ましてやプロのピアニストで芸大の教授ともなれば、いまさら同業他者の指導を仰ぐなど、まったくゼロではないにしても多くの場合、発想さえないことではあるまいか。
 自意識やプライドの問題はもとより、深い思い込みなど、あらゆることがその必要を認めないのだろう。
 また、一般的なピアニストにしても海外留学を含む修業時代が終われば、あとは自分ひとりで練習してステージに立つというのが当たり前だと思っているようだけれど、これがそもそも表現者としての大間違いである。
 
 その点でも、田村氏はさすがに見識の深い人物で、ピアノ指導界で当時これ以上ないという地位にありながらも、自分がコンサートで弾くとなると、やはり他者の客観的な意見をもとめたということ、その必要があると判断されたことは、この一点をもってもなるほど名にし負う大物だけのことはあると思わせられた。
 
 しかしこれはピアノに限ったことではなく、どんな楽器、どんな分野でも、他者の意見を求めるというのは自分のパフォーマンスの客観的な姿を知る上でひじょうに重要な事なのである。
 
 ましてや、ピアニストが危険なのは冒頭にも書いたように、客観的に自分の演奏と向き合うということが甚だしく難しい上に、人の意見というものに対する謙虚さがどちらかというと欠如しているからである。
 ピアノは他者との交流や協調がなくとも、自分一人で演奏が完結できるという、見方によれば極めて特殊で孤独な楽器ということでもあり、なかなか人の意見や評価というものに慣れていないということがあるように思われる。だが、本当に良い演奏を目指すなら、音楽のわかる信頼できる人に演奏を聴いてもらって意見を仰ぐことは最も重要なことだと思われるし、そういう手間暇をかけることが演奏者としての道義でもあるように思う。
 
 アメリカの作曲家兼批評などの文筆活動をするE.ベイコンも著書「ピアノに関するノート」の中で次のように書いている。
 『君の演奏の技術的判断に対しては、仲間の芸術家の意見を聞け。 君の芸術の判断に対しては素人か、さもなければ、嫉妬よりも成長ぶりに心奪われている芸術家の意見を聞け。 ごく無邪気な人か非情に賢明な人のみが、党派、宗教、同人仲間を越えて真実を告げるだろう。』
 
 海外の一流といわれるピアニストの多くが、常に自分の演奏を然るべき相手に聴いてもらい客観的な意見を求めているというのはあまり知られていないが、どうも事実であるらしい。しかもそれはベイコンの言う通り、大抵の場合ピアニストではないようだ。ポリーニなどは昔から自分の奥さんがそれで、どんなに素晴らしく弾けても彼女がOKを出さない限り、彼は決してステージでそれを弾くことはなく、このために当日になって曲目を変更することさえあるのだという。
 また海外でも活躍する日本の著名ピアニストの場合も然りで、演奏に際しては常に信頼をおく人物の意見を聞くことが長年のスタイルになっているとかで、その人物とは本当に音楽のわかる、実は音楽の素人なのだそうだ。
 
 このアドヴァイザーは同業者は余り望ましくないことはさほど説明の必要のないことで、何事においても同業者というのは良いことはないのである。単純に言えば、同業者とはすなわちライバルなのだから。
 ピアニストは音楽に通じた審美眼のある信頼の置ける人物を、ひとり捕まえておくことは自分のよりよい音楽活動のためには極めて重要なことだろう。人の意見というのは、自分が思いもよらない部分を突いてくるものであるし、それがなによりの彫琢に繋がる。
 
 
 およそピアノリサイタルなどをきくと、どこか不自然でしっくりこないことが多いように感じられるものだ。
 練習不足とも思えないし、それなりの才能もあるように見受けられるが、解釈が生煮えであったり独善性が散見されたり、なにかをまったく見落としていたり、大いなる過ちを犯していたりと、なにしろその人なりの音楽がきちんと整っていない場合が多い。それを本人の音楽性といってしまえばそれまでだけれども、そうはいってもまだまだ才能の余地があると認められる場合が少なくないし、マロニエ君はこうしたケースを見受けるたびにひじょうに残念な、惜しい気がするのである。
 その点では、まだそれを感じないのはコンクールの演奏で、良し悪しは別としても、その人なりの方向性のはっきりした練り込まれた演奏だと思われる。それは言うまでもなく、自分一人の練習ではない、指導者をはじめとする余人のチェックを経ながら仕上げてきた演奏だから、それなりの鍛えられた姿をしている。
 
 ピアニストが音楽家で、音楽家が芸術家であれば、ステージの演奏に際しては、これぐらいの謙虚な手間をかけるのは当然であるはすだが、それを実行しているのはきっと驚くほど少ないだろうと思われる。とくに日本人には少ないはずだ。
 独善性ひとつでも、自分のスタイルを確立できた演奏者が確立した納得ずくのものであれば、なるほどそれもいいだろうが、どうもそういう類のものではない場合が多すぎる。本人が気付いていない部分、あるいは確信がもてないままの状態というのがあまりに多すぎるが、それもある意味当然なのだから、そこはステージに乗せる前に人に聴いてもらうことが重要なのである。
 どんなに料理の達人でも、味見もせず人に試食もさせないでメニューを作り、お客さんに料理を出すということは暴挙だし、そんなことはまずしないだろう。
 
 ところがピアノの場合はその暴挙が普通だし、演奏者自らが味見をすることは出来ない。ホールのピアノの位置や響きを確認しようにも、自分の出す音を客席から確認することさえ不可能なのである。したがって、どうしても他者の評価を求める意外に道はなく、それに基づいて自分が同意した部分を手直ししていくということになる。
 
 連日連夜、はたまた長い期間、孤独の練習を重ねているとしだいに判断力が鈍るのは致し方ないことだ。自分の紡ぎ出す音を、第三者の耳を通して確認することは、単に人の評価を求めるということに留まらない、もっと広義の本源的な間違いや勘違いも洗い出すことに繋がるのである。
 これは別に芸術の世界に限ったことではなく、ありふれた事務書類でも、経理でも、別の人間によって確認の目を通すことが必要なことはもはや社会常識であるといいたい。
 そんな中、ピアニストだけがなんらチェックもなしにレッスン室から一気にステージへと向かうことは、端から見ると度胸を通り越して無謀であり、傲慢とも思い上がりとも言えるわけだが、ご当人達はおそらく自分の行動になんの疑問も感じていないのだろう。そして疑問にも感じていないことは、あらためようもないのである。
 
 レッスンを受けるのは修業時代のみのことであり、それ以降は自分で自分を管理する、それがプロに課せられた責務というような認識ではないだろうか。現在はよく知らないが、美術の世界では他人の意見というのは作家はひじょうに気に掛かっているもので、これはべつに通俗的な意味でのウケを狙っているのとは違い、自分のやっていることが果たして正しいかどうか、常に第三者のフレッシュな感じ方や意見を参考にしながら自分を問いただして軌道修正しているわけである。
 物書きもそうで、ある程度原稿ができると編集者や身近の人間などに読ませて、つねにその意見や感想というものを尊重している。それは確かな自己表現のためにも人の感覚をも頼りにしているわけだろう。むろん誰に意見を求めるか、その人選と信頼性はひじょうに重要な点であるが。
 
 そんな中で、マロニエ君の知る限りでは音楽家だけが、わけてもピアニストなどはまずそういう類のことを最もしようとせず、そんなスタンスでいい仕事(演奏)などできるわけがないと言いたい。
 また神童演奏家などが、二十歳を過ぎると急速に輝きを失うことは珍しくないが、それはそもそも天才にとって20代というのは不毛の時代であることもあるけれど、それに加えて、陰で支え続けた信頼に足る教師の導きを離れるなどの変化があるためだとも思われる。いかに才能はあっても、それを正しく矯正しながら誘導する人間の一人や二人はいないことには、嶮しい道を迷わず進むことなど出来ようはずもない。
 
 スポーツ界ではこれは常識で、どんなに優れた選手や天才的なプレイヤーでも、監督やコーチなどの導きなしに、自分一人の判断のみで引退までの期間をトッププレイヤーとして活躍することなど絶対に無理である。これはいかなるスポーツでも同様でおそらく例外はない。
 こういうことはちょっとジャンルを変えればみんなわかっているはずなのに、なぜか音楽では人の意見や評価を必要ともせず、へたをすると拒絶さえするらしいから、その勘違いにはまったく開いた口がふさがらない。
 
 多くのピアニストの演奏というのは、マロニエ君は自信を持っていうけれども、本人が思っているよりは、はるかに、いたるところがよほど不完全な歪んだ演奏をしているということだ。プロもアマも同様で、人の意見を素直に聞くということは、それだけ演奏に磨きをかけることでもある。
 
 そもそも音楽をやっている人に、心から音楽に献身して謙虚な気持ちでこれに当たり、素晴らしい演奏をしたいと純粋に思っている人がどれだけいるかも甚だ疑わしい。
 むかし聞いた話だが、我が国最高といわれる現役音大生(女性)によれば、結婚する相手は同じ学内ではないどころか、音楽とは縁もゆかりもない男性が望ましいというのが圧倒的多数とのだった。その理由というのがまた驚愕の内容で、へたに音楽のわかる人だと自分の演奏を批判される可能性があり、それが彼女達のもっとも忌み嫌っていることなのだという話だった。とにかく自分の演奏について人からとやかく言われたくない、これが当時の彼女達の共通した気分だったのだ。
 
 そもそもこういうことを言う時点で、どんなに優れた演奏技術を持っていたとしても、気構えの点でその人はすでに終わっている。批判こそは芸術家を鍛える、欠くべからざるトレーニングでもあるのだから。