#80.映画「ピアノマニア」(1)

 ピアノ界で話題の映画『ピアノマニア』を観てきました。
 映画に出るほうも、観るほうも、その名の通りピアノマニアのための映画でした。
 
 個人的には予想以上に楽しめた作品でしたが、楽器としてのピアノへの興味、あるいはピアニストや調律師の仕事ぶりに関心がなくては面白味も半減するのではと思われる、まさに特定の客層だけに的を絞った、ある種いさぎよい映画であったと思います。
 しかし、厳密にはまったくの専門的映画かといえばさにあらず。もしかすると時代の多様化にともなって、このようなマイナー作品が密かに持てはやされる時代なったのかもしれないとも考えてしまいました。
 
 だからかどうかはわかりませんが、前評判から察するに、よほど職人の専門的な仕事が満載で、難しい内容が具体的に語られるのかと思っていましたが、個別の作業の技術的説明などはあまりなく、概ねピアニスト&調律師が繰り広げる音の追求という面にピントを合わせた人間ドラマ風な映像作品だったという印象でした。そういう意味では、ピアノの知識がなくても楽しめるギリギリの仕立てになっているということなのかもしれません。
 
 一般的な尺度でみれば、上映場所も極端に少ないという事実が示すとおり、この映画は一般常識でいうところの集客性としてはかなり厳しいものだろうということは容易に察しがつきますが、意外や意外、マロニエ君が行った日には平日の午後だったにもかかわらず、80席ほどのシートはほぼ満席でしたし、福岡のシネマでは、当初は一週間の上映予定でその後は未定とされていたものが、終わってみればプラス二週間も延長されており、これは予想外の結果だったのではないかと思います。
 ただでさえウワサや情報好きで、その伝達能力は弦の振動のように素早い調律師業界では、この映画のことは早くからかなりの話題になっていたらしく、地域的物理的ハンディがない限り、日本中でおそらくはこれを観ないで終わる技術者のほうが圧倒的に少ないだろうと思います。
 
 内容は、シュテファン・クニュプファーという元スタインウェイの調律師が、さまざまなピアニストたちの要求を達成すべく、音造りのプロフェッショナルとしてアイデアと技術の限りを尽くして東奔西走するというドキュメンタリーでした。
 なかでもピエール=ロラン・エマールによるバッハの「フーガの技法」の録音のために、シュテファンが1年がかりで1台のピアノを準備し、調整を繰り返しながら望みうる最良の状態に仕上げていって、ついには録音セッションに供されるまでがこの映画の中核になっていました。
 
 エマールが次々に出してくる困難な要求は、シュテファンに決して安息を与えませんが、彼は決してそれをできないとは言わず、工夫と研究を繰り返しながらそれになんとしても応えるべく、あらゆる試行錯誤と努力を惜しみません。むしろ困難な要求が突きつけられるほどに、彼らは技術者魂に火がつき、テンションも上がってくるのかもしれませんし、ひいてはそれが彼らの技術や経験を磨きあげているともいえるでしょう。
 この世界はピアニストにしろ技術者にしろ、これが絶対というものは永遠にありません。ピアノの音にはもともとさまざまな要素が押しあいへしあいの状態で同居しているわけで、理想的なピアノの音なんてものは、つまるところ最終的には楽器と調整と奏者の妥協の産物だとマロニエ君は思っているわけですが、その妥協点がいかにその瞬間のピアニストの意向に叶っているかということかもしれません。
 
 はじめに出てくる109番というピアノはエマールのお気に入りでしたが、さらにシュテファン氏はスタインウェイ社に出向いてサブピアノを購入することで、エマールの求めに応えるべく音造りに最善を尽くそうとするようです。
 ところがメインピアノであった109番は突如として売却され(いわゆるレンタルピアノ会社の所有物だった由)、後半は245番というピアノがこれに代わります。
 
 明確な言葉などはなかったものの、マロニエ君の間違いでなければ、サブピアノは新しいものをシュテファン自身で購入したように解釈しました。売却される憂き目に遭わないためには自己所有するしかないからでしょうか…。
 
 いっぽう出所は不明ですが、245番はエマールにもいちおう受け容れられはするものの、フーガの技法録音までの1年間、ハンマーの交換を含むその調整は精緻を極め、最終的には音の崩壊ギリギリの領域をかすめていきます。(ちなみにこのピアノの番号はレンタルピアノ会社におけるナンバーという情報もありましたが、マロニエ君は単なるスタインウェイによる6桁のシリアル番号の、下3桁ではないかと思います。)
 
 印象的なシーンは多々ありましたが、いざ書こうとするとなかなかサッとは思い出せません。
 
 順不同でいうと、個人的にまっ先に思い出すのは、この映画に登場した主役級の2台のピアノ、すなわち109番と245番はいずれもかなり古いD型で、比較的新しいモデルは、上記のサブピアノと思われるものをエマールがコンチェルトで弾いたり、ブレンデルが弾いていたシーンを除いては出てこなかったと思いますが、ポスター用の写真は新しいモデルであるし、そのあたりはどうなっているのか正確なところは不明です。
 
 やっぱりこれは映画なんだと思ったのは、同じ場所、同じ登場人物による短いやりとりのシーンの中で、傍らのピアノだけが新旧違うものにパッと入れ替わっている場面があり、要するに別々の映像をいかにもひとつの場面であるかのように巧みにつなぎ合わせたものでしょう。ピアノが入れ替わっているなんて、普通はまず気付かないでしょうし。
 それはともかく、少なくともこの109番&245番の2台に関しては、ディテールから察するに、おそらく20年以上前、すなわち1980年代後半あたりのピアノだったように思います。
 
 それは言いかえれば、ここまで極限的かつ芸術的な音造りをするための素材として、ピアニストと技術者、さらには録音のプロ達(ドイツではトーンマイスターと言われる由)の要求を真実満たすことのできるスタインウェイの、最後の世代がこのあたりであるのかもしれないと推察されました。もちろんエマールというピアニスト個人の趣向と、曲がバッハという条件に於いてのチョイスといえるのかもしれませんが。
 いずれにしろスタインウェイ社は、映画を観た人にスタインウェイは現行品より古いもののほうが良いという印象を与えてはならないという営業サイドの判断なのか、サイドのロゴマークは現行モデル風の大きな書体のものになっていましたが、正確にいうと本来のそれとは少し異なっていましたから、2台とも映画撮影用にサイドだけを化粧直しされたものかもしれません。
 
 個人的にもこの時期を輝ける最後の世代として、以降スタインウェイのD(とりわけ今世紀に入ってから)は楽器としての潜在力が下降線を辿っていくという印象をもっていましたが、それをさりげなく裏付けていたように感じました。
 ちなみに普段いろいろなCDなどを聴いていると、この世代のピアノを使った録音では、音に現在のそれとは違う線の太さや馥郁とした響きがあり、音色もあきらかにメロウかつ楽器としての容量が大きいことがわかります。調整次第では交響楽的な響きから、詩的で甘いドルチェな音色にもすることも可能で、それにくらべると現行品は音の線が細くて肉感がなく、響きも固く小ぶりな印象です。これはメーカーがどのように抗弁しようとも厳然たる事実だと思われます。
 
 面白かったのは、大屋根を外したピアノでのコンチェルトの振り弾きの際に、音が散ってしまう問題に対する解決策として、ピアノのボディの上に被せて置く「反響板」なるものが制作され、それらは前後数箇所で分割されていて、それぞれ反響板の開く量が変えられるようになっていました。鍵盤側を客席に向けるかたちで配置される振り弾きのピアノでは、たしかに音がステージ上で理想的な方向に飛ばず、下手をするとオーケストラの音に埋没することも少なくないと思われます。さらには会場の音響特性によってはこれらの条件がいよいよマイナスに重なって、ピアノが思ったように鳴らないという問題が出るわけで、その対策としてこのような装置が考案されたようでした。
 これはピアノの上部に取りつける、いわば音のダクトみたいなもので、任意に音の流動を操作しようというのが目的ですが、見た瞬間あまり感心できないような気がしました。
 これもたしかシュテファンとエマールという二人のピアノマニアによる共同開発だったようで、コンチェルトでは一定の成果を上げたようでしたが、見てくれのほうはなんとも不恰好に思えました。
 
 さてそれを、フーガの技法の収録でも使ってみるシーンがあったのですが、反響板付きのとそうでないものが、控え室でプレイバックの聴き比べがおこなわれました。果たして映画用の理想的ではない音でも、あきらかに反響板付きは好ましくない不自然な品位のない音だということがわかり、これはたちまち却下されました。
 その際に誰かが印象的なコメントをこぼしました。正確な言葉は忘れましたが、要するに「見てくれの良くないものは、その効果も大したことはない」というような意味で、たしかに言えていると思いますし、機能を有するものにおける、これはひとつの真理だと思われます。
 ピアノ全般でも、スタインウェイのあの図抜けて美しいプロポーションは、その楽器としての性能に見事に裏付けられていると思われます。他社のピアノとスタインウェイでは、音が出る前から、そのスマートで凛とした佇まいの時点で、すでに勝敗は決まっている観さえあります。
 
 もうひとつ印象的なシーンで思い出すのは、シュテファンがエマールを伴って自分(?)の工房に連れてきますが、そこでは新しめのDの高音弦に向けて、BOSCHの電動工具の先端に黄色いテニスボールをつけた奇妙な装置がセットされていました。高音側の弦を機械に取り付けたテニスボールで連打して馴染ませている様子で、こうして新しいうちは延びやすい弦に集中的にストレスをかけて馴染ませているものと思われました。なにごともアイデア次第というところでしょうか。
 
 ピアニストはエマール以外にも数人が出てきました。
 引退間際の巨匠ブレンデルなどは、演奏シーンがあまりに少なくて却って不満が残りましたし、ブッフヒンダーなども立ったままの試し弾きだけで、そのあたりは観る人のことも考慮して、もう少しぐらいは映して聴かせて欲しかったと思いました。この点では準主役ともいえるエマールも同様で、あれだけピアノにこだわり抜いて演奏に挑んでいるわけですから、その結果としての演奏や音を聴かせる時間を少しは設けるべきではないかと思いました。
 およそ1時間40分弱の作品でしたが、せめてあと10~15分ぐらいを演奏を聴かせるシーンを作品の各所に配置してほしかったと思います。
 
 首を傾げたのは、ところどころにイグデスマン&ジョーというクラシック音楽をネタにするコメディの二人組が登場しますが、空手チョップでピアノを弾いたり木製の和音発生装置でラフマニノフを演奏するなど、必ずしもこのピアノマニアという極限の音造りというテーマにはそぐわないお笑いユニットが出てきたことは個人的には違和感がありました。
 たしかに専門的なことに偏りがちなこの映画の中で、ところどころで息抜きに笑いを取って観客を和ませるという狙いと演出なんだろうとは思いますが、YouTubeで見ている分はいいとしても、この映画にふさわしいものであったかといえば甚だ疑問でした。それにコメディアンのお笑い芸とはいえ、ああいう乱暴なピアノの弾き方というのはマロニエ君は体質的に嫌だし、ましてやそれをこの映画の中で見ることは、あまり嬉しいものではありませんでした。
 笑いは大いに必要ですが、その笑いの質は重要で、これは専らセンスの問題だと思います。笑えない笑いほど見ていてお寒くなるものもありません。
 
 笑いといえば思い出すのはラン・ランで、彼はなるほど現在の商業主義優先のクラシック界においては稀有な「タレント」なのかもしれませんが、芸術家の正味の価値として見た場合、マロニエ君は彼を正面切ってピアニストと捉える気分には到底なれませんし、あのマンガみたいな滑稽なパフォーマンスをするために、関係者が見守る中を、恭しくピアノ選びをしてどうのこうのといわれても、いまひとつしっくりきません。大きなイベントの主役なら、どんなピアノでも構わずガンガン弾くであろう強烈なキャラクターとの間に、大きなズレみたいなものを感じてしまいます。映画の中にあったハンガリー狂詩曲の終わりの部分、狂乱的に両手両足をバタバタさせる喜劇的な動きは笑うしかなく、あれこそがラン・ランの本質でありウリだろうと思います。
 
 いっぽう中心人物の一人であるエマールは、ピアニストとしての能力には一級のものがあるし、ピアノに対する要求も、画家が微妙な色彩の妙に寝食を忘れて没頭するように大変なものがあって、これを理解し技術的にピアノの音やタッチに反映させるのは並の仕事ではないと思われます。しかし、芸術家独特の内なるものの非凡さとエゴイスティックなまでのあくなき探求心を感じさせ、彼が並み居るピアニストではないことをはっきりと証明しているようでした。
 なるほどと思ったのは、自らの音楽的なスタンスについて「自分はあまり深いところまでは入らない」と言っていたことで、これはまさに本人ならではの核心をついた言葉だと思いました。彼は素晴らしいピアニストであることは間違いありませんが、この点が彼の演奏の特徴であると同時に、ある意味ではもうひとつもの足りない点でもあり、彼はもしかしたら音楽を静かな絵画のように捉えているのかもしれないと考えてみると、あの演奏が納得できました。彼は決して野暮な熱演はせず、新劇の俳優のように大げさな直接話法では決して音楽を語りません。
 ほとばしるような生命感の躍動や情熱の奔流によって聴く者を圧倒するのではなく、曲の構造や様式を知的な演奏を通じてじっくり再構築していくには、建築家が素材にこだわるように、たしかに楽器の響きや個性にも多くのことを依存するだろうと思われます。
 
 この映画を観ていると、舞台はヨーロッパであり、大物ピアニストが何人も登場してくるので、まるですべてが次元の異なる高度なことをやっているようにも見えますが、あくまでも調律師の仕事のレベルとして見た場合(このシュテファン氏ももちろん素晴らしい技術者であることは間違いないのでしょうが)、日本の優秀な調律師もなかなかどうして大したもので、決して彼らに負けてはいないと思いました。
 もし違いがあるとすれば、それは技術というよりも、それを必要とする芸術的な土壌という点であって、これはヨーロッパのほうがやはり深い根をはっていると思われる点でしょうか。端的にいうと、ヨーロッパのほうがより自然にこのような音楽芸術にかかわる職人的な仕事がやりやすい空気であるように感じました(もちろん実際のところはわかりませんが)。
 
 そのせいなのか、シュテファン氏などはとても明るく健康的にこの仕事に打ち込んでいるようで、その点では日本のピアノ技術者は必ずしも恵まれた環境にあるとは言い難く、狭い業界のなかで柵にまみれ、多くの制約制限と日々戦いながら、黙してストイックに頑張らざるを得ないという現実があるようです。
 どんなに技術的な高みに達しようとも、それがわかる人や環境が極端に少なく、通常は自分の仕事が理解されないという悲哀や、希望の持てない諦めの中で自らを叱咤激励しながら最良の仕事を目指すという、報われることの少ない苦しい仕事だろうと思います。
 
 このシュテファン氏の活き活きとした奮闘ぶりを観て、日本の調律師の皆さんは果たしてどのように感じられたのかと思わずにはいられません。すごいことをやるもんだと舌を巻いた人もいれば、自分ならもっと高度な仕事をやれる(やっている)と心の中で静かにつぶやいた方もいらっしゃるでしょうし、あれはどうも…と場面によっては疑問に感じられた方などもおられることと思います。
 へええと思ったのは、調律の時の音出しですが、シュテファンはかなりフォルテで音出しをして調律をやっていたこと、もうひとつは基本的に水平に回すべきチューニングハンマーをときおり下に押し込むように捻っていたことなどでした。これらのやり方についての是非は、技術者の間でもさまざまな意見があるようで、まさに賛否両論に分かれる技術上の問題のようで、マロニエ君などはただハァ…と思って眺めるのみでした。
 
 いずれにしろ、あのように一流の演奏家と組んでひとつのものを作り上げていくという仕事をバリバリやって、そこに全身全霊を尽くすことができるという環境と条件、すなわちその必要と理解が明確に存在するという点では、ヨーロッパはさすがだと思わずにはいられませんでした。
 どんなに己の技を磨き上げても、それを理解する土壌なくしては技術者が(あるいは職人が)報われることはありません。そこが究極的に理解されなくても存在理由を失わない芸術家と技術者の、最も根元的な違いなのかもしれません。
 
 エマールは、もし仮に彼の演奏が理解されなくてもエマールたり得るでしょうが、シュテファンはその能力に対するピアニストたちの理解と求めなくしては、あのシュテファンで居続けることはできません。
 そういう意味で、私達はもっともっと調律師の方々の仕事の本質を理解する必要があるのだと思わせられる映画だったようにも思います。願わくは日本人調律師のドキュメントも誰か作らないだろうかと思います。