#83.実験室

 懇意の調律師さんのご協力を得て、おもしろい実験をおこなってみましたので、以下、事の経緯と報告です。
 
 マロニエ君が日頃使っているカワイのグランドGS-50については、軽すぎるタッチと音がやや薄っぺらであることが日頃から気にかかっている点でした。カワイのグランドは、それが伝統なのかどうかは知りませんが、重いタッチの個体がかなり多いことは現在でも事実のようです。中にはこれがメーカーが設定したものとは俄には信じられないほど重いものもあり、技術者の間ではカワイのタッチの重さは半ば常識のようになっているという話も聞いたこともあります。
 
 ところが、マロニエ君の愛用するGSシリーズは、ちょうどヤマハがGシリーズからCシリーズに発展したように、それまでのKGシリーズの重さのある音色から脱して、より現代的で華やかな音を目指して作られた派生シリーズだと聞いています。
 たしかにカワイによくある曇天のような重さの音色ではなく、どちらかというと明るめ音色のようでもありますが、それも別に大したものではないし、なにより奥行きが2m以上もあるわりには、全体的に音が軽く、お世辞にも重厚だとか深みのある音色とは言えない印象です。唯一奥行きがものをいうのは低音域で、これはさすがに2m未満のモデルには望めない響きがあるにはありますが、それもとくに自慢するほどのものでもありません。
 
 さて、その現代的で華やかな音を目指した故かどうかはわかりませんが、とにかくこのGSシリーズはタッチがカワイとしては例外的に軽く、むしろ軽すぎて心もとないほどでした。これについてはずいぶん前から調律師さんに相談して、ついにはキーに埋め込まれた鉛をドリルで一定量削り落とすなどして、軽さを減ずるための処置をやってみたりもしましたが、効果のほどはごく軽微に留まり、その後も軽すぎるタッチと音は概ねそのままで解決には至っていませんでした。
 一般的に、タッチの重いピアノを軽くするのはずいぶん骨の折れる作業のようですが、その逆もなかなかどうして簡単ではないことを悟りました。
 
 いっぽう、音色のほうもとくに悪い音とまでは思いませんが、なにぶんにも音に太さや深みがなく、全体的にサラリとした軽い感じの音でしたので、この点もなんとか解決できないものかと、打弦距離やスプリングの調整などで精一杯の肉付けになるであろうことをやってもらってはみたものの、こちらも効果の程はごく僅かで、とくにめざましいものではなく、基本的には不満は不満のまま残存し、今日に至っていました。
 
 マロニエ君の直感では、ハンマーが賞味期限を過ぎているであろうことに加えて、そもそもサイズ自体もちょっと小ぶりなのではないかという疑いがありました。要するに、主たる問題点はハンマーにあり、これを使う限りなにをやっても無駄ではないかという諦めムードが広がり、それを調律師さんにぐずぐずとぼやいてみたのです。すると、とくだんハンマーが寿命ということはないと思うが、サイズに関しては、たしかに少し小さいほうかもしれないというのが調律師さんの見解でした。
 
 それからほどなくして、調律師さんがマロニエ君のピアノの問題点がハンマーに起因するものかどうかを試すために、一度テストをしてみましょうということでレンナーのハンマーを持参して来られました。ひとつだけハンマーを取り替えてみることによって、音の変化を見てみようというわけで、中央よりオクターブ上のEs(変ホ)がこのレンナーハンマーに交換されました。
 するとその効果はてきめんで、これまでに聴いたことのないような太い力のある音になりました。しかもそのレンナーハンマーは、肉眼でもあきらかに今ついている純正ハンマーよりサイズがわずかながら大ぶりで、ハンマーが小さい気がするというマロニエ君の予感は裏付けられたかたちとなりました。 
 
 ちなみに調律師さんが持ってこられたレンナーのハンマーはなんとグランド一台分で、実はこれ、自分の工房にあるカワイのセミコンのオーバーホールのために新品を取り寄せたものでした。このハンマーに取り替えて一年近く使ってみたものの、整音やらなにやらで試行錯誤を繰り返したあげく、どうしてもご自身の納得できる結果が得られず、ついにこのハンマーに見切りをつけて、次にはアベル社のハンマーへと全て交換されたのですが、そのときに取り外したハンマーの一揃いを持参して来られたというわけです。
 
 そのカワイのセミコンは調律師さんのピアノなので、勉強や研究を兼ねて、お客さんのピアノではしないような針刺しなどをずいぶん繰り返えされたのだそうで、もはや本来の能力は有していないとのことですが、なにしろほとんど使っていないので、見たところは真っ白で新品のようです。しかし調律師さん自身はこれを良いハンマーだとは決して思っておられず、この日はただ単に付け替えてその変化を確認するために持ってきただけとのこと。
 しかしマロニエ君にしてみれば、これでもじゅうぶんに好ましいふくよかな音が出ているし、話によると、もう使わないからそのうち廃棄するつもりとのことで、「欲しいならあげますよ」なんて言われたものだからもう大変です。現在のハンマーよりも格段に素晴らしい音を生み出す、この新品みたいなハンマーが一台ぶんゴッソリ棄てられるだなんて、そんなもったいないことがあるものかと思いました。
 
 だったら、差し当たりこれでいいからハンマーを交換して欲しいと申し出たのですが、もともと気に入らないから外してしまったハンマーであるのに、それを別のピアノ(それも調律師さんにしてみればお客さんのピアノ)に取りつけるなんぞ、技術者として賛同しかねるというわけで、あまりいい顔はされなかったのですが、マロニエ君があんまりわあわあ言うものだから、粘り勝ちで、とりあえず前向きに検討してみるというところまで押し切りました。
 
 それから数日後、調律師さんから連絡があったのですが、それによるとひとつ問題があって話はそう簡単ではないことが判明しました。というのも、このレンナーのハンマーヘッドを使うためには、当然シャンク(ハンマーを先端に取りつけるための細長い棒)に取りつけて接着しなくてはなりませんが、マロニエ君のピアノのシャンクとは穴の大きさがわずかに異なるので、このまま単純に交換はできず、そのためにはシャンクを新しく一台分購入しなくてはならないとのこと。
 
 ちなみにまっさらのハンマーヘッドには、シャンクを通す穴はあいておらず、使うピアノ(シャンク)によって穴の直径や角度が異なり、取りつけるピアノに合わせて穴を開けることになります。穴は技術者が自分で開ける場合もありますが、多くの場合は部品業者に発注する際に指定の大きさと角度が伝えられ、それに従って穴開けされた上での納品というのが一般的な流れのようです。
 
 もうおわかりだと思いますが、この場合のレンナーのハンマーヘッドは、一度カワイのセミコンに取り付けされて、数ヶ月後に取り外したものなので、そのピアノに合わせた穴が開けられており、その穴の大きさがシャンクと一致しなければ取り付けはできないわけです。 普通は使うシャンクに合わせてハンマーヘッドに穴開けをするわけですが、この場合、すでに開いている穴に合わせたシャンクを買い揃えなくてはならないという逆の手順になるわけです。
 
 ところが、このシャンクもピアノ一台分ということになると、ハンマーヘッド一式ほどではないものの、決して安いものではないらしく、そんなあべこべなお金をかけるぐらいなら、現在の純正のシャンクをそのまま使う前提で新品のハンマーヘッドを購入し、一から整音した方がどれだけ賢明であるかという説明を受けました。まったくその通りで、ぐうの音も出ないほどに、もっともなご意見でした。
 
 こういうわけで、ハンマーの交換については下手な廃物利用はしないで、実行する場合は新品を取りつけるということで両者考えの一致を見て、これは一件落着しましたが、その前段階の実験としてひとつの提案をしました。
 それは、ひとつだけ交換したレンナーハンマーによる「音の変化」にまつわる課題です。
 
 このレンナーハンマーは、現在付いているカワイの純正ハンマーよりモノが新しくてフェルトにも弾力もあり、品質もいいであろうことは当然としても、興味を覚えたのは、ハンマーの質量でした。GS-50の純正ハンマーがやや小ぶりであることは先に述べた通りで、交換されたレンナーがひとつだけサイズが大きくなったぶん、音にもタッチにも明らかな変化が起こり、ハンマーそのものがもたらす固有の音質の問題を別とするなら、あとはハンマーヘッドの重さに重要な意味があるように思ったのです。
 
 すると調律師さんはその点は否定されず、実は自分の工房にある別のピアノにもその面である細工をしているという話を聞きました。その方法は、他言無用とのことなのでここでは書きませんが、同じ発想によってちょっと手を加えることで、ひとつの実験をしてみることになりました。
 それは簡単にいうと、ハンマーヘッドになんらかの方法で僅かな重さを加えることによって、打弦そのものの圧力とパワーが増すのではないかということです。
 さらにその副産物として、軽すぎるタッチも重いほうへと変化させることにも繋がり、だとすれば一石二鳥というわけです。一般的に、ハンマー部分の重さの増減は、鍵盤側ではその5倍の影響が出るという法則があります。すなわちハンマーが1g重くなれば、キーのダウンウェイト(鍵盤の重さ)は5g重くなるというセオリーがあります。
 
 その実験のために、調律師さんは幾日もの間、あれこれとアイデアを講じてくださり、ついにひとつの方法が決定されました。それはコロンブスの卵みたいなものですが、鉛の板に両面テープを貼り、それをハサミで小さなかけらほどの大きさに切って、ハンマーフェルトのすぐ下の木の部分の前後に貼り付けるというものです。この調律師さん曰く、何をするにしても自分のモットーは「絶対にピアノを壊さないこと!」なのだそうで、結果が芳しくないときは、すぐにも旧に復することができる方法でなければ着手実行しないという強い信念があるそうで、たしかにこれならば嫌なときは直ぐ剥がせばいいわけです。
 
 薄い鉛の板に両面テープを貼り付けた状態から小さな四角形が切り出され、それを88の各ハンマーの前後2ヶ所ずつ、合計176個が丹念に貼り付けられました。使った鉛の正確な総量は不明ですが、ハンマーひとつあたり約1gといったところのようです。
 
 初めに次高音の1オクターブにこの状態を作って様子を見ましたが、明確な効果がありそうなのでこれでやってみることになり、すべてのハンマーに同様の作業が施されました。
 作業は2時間足らずで終わり、アクションが定位置に押し込まれたところで軽く弾いてみると、あっと驚く手応えが指先に伝わり、いきなり圧倒されました。さらには鍵盤蓋を取りつけて、譜面台を差し込んで、いつも弾くときと同じ状態に戻して弾いてみると、指先の抵抗はいよいよ強まり、今までの弾き方ではとても間に合わないことが判明。しかしこれは「実験」なのだから、しばらくの間はこれで弾いてみることを決意して、とりあえずこの日の作業は終了となりました。
 
 マロニエ君も自分が希望して納得したことではあるし、調律師さんは「嫌なときはいつでも元に戻せますから!」と言い置いてこの日は帰って行かれました。一人になってじっくり試してみることにしましたが、弾きはじめからものの2、3分ぐらいが経過したところでしょうか、これはとても弾けない!と早くも後悔の念が頭にのぼってきたほど、その変化は甚しいものでした。簡単に言えばまるで別のピアノになったほど、一斉にタッチが重くなっています。
 
 冒頭に述べたように、このピアノのタッチは長いこと「軽すぎる」ことが悩みでしたが、それに馴れてしまって弱くフニャフニャになった指が、この急変した重さにたちまち音を上げたわけです。
 さっそく専用の錘でダウンウェイトを計測してみると、平均して52g前後という値が出ました。それまでこのピアノは概ね45~47gといったところでしたから、おしなべて5gかそれ以上重くなっていることがわかりました。ハンマーの重さの違いに対して鍵盤側ではその約5倍の変化がおこるということはピアノ技術の常識だそうですが、追加した重さはハンマー1本あたり、やはり1g前後と考えて差し支えないようです。
 
 それにしても、昔の日本のピアノは、キーの重さが50g後半から、中には60gを超すものもざらだったのですから、これは今から考えてみるとすごいなあと思わずにはいられません。レッスンのメトードも今ほど発達していなかったこともあるでしょうが、このかなり重いキーも、ピアノの練習がスポ根的な要素を帯びた原因のひとつであるような気もします。「鍵盤に赤い血が付いた」なんて話も誇らしげな武勇伝の様相を帯びていましたから、まさに鍵盤との格闘だったのでしょう。
 
 いずれにしろ、この重さは一時的なもので、これを機会に多少を指を鍛えるにも好都合ぐらいに今は思っていますが、毎日この重さのキーを弾いていると、まるで柔道家が鉄の下駄を履いているような、そんな自虐的な気分になってしまいます。
 
 ところが、今回の実験で最も驚くべきは、実はタッチよりも音色の変化でした。これこそこの実験の最大の目的だったわけですが、こちらは更に驚くべき変化が起こりました。
 このピアノの音色は、冒頭にも述べたようにその軽すぎるタッチが象徴しているように、これといって嫌味もないけれど深みとパワー感のないもので、今風に言うと「草食系」とでもいうべきか、少なくともそのサイズに相応しい音が出ているとは言えませんでした。ところが、ハンマーヘッドの下部にこの小さな鉛片を貼り付けたとたん、その音は一変したのです。
 ひ弱な町人が、いきなり眼光鋭い侍になったようで、力強い、いかにも逞しい芯のある音色に変化したことは期待以上で、俄に同じピアノとは思えないほどズシッと重みのある音に急変したのです。音だけに留まらず、音の粒にもキレが出てアタック音も明快になり迫力も出ましたが、強いて言うと音色の多様性という点ではそれほど色のパレットがあるとも思えません。それでも、今ならベートーヴェンなどでもサマになりそうな音で、ここまで変化するとは思いもよりませんでした。
 
 しかも特筆すべきは、ハンマーそのものはまったく同じものである上に、今回は調律も整音もまったく手をつけておらず、やったことといえばハンマーヘッド下部にわずか1gのウエイトが加えられたのみで、その他の要素はすべて同じ条件なのですから、こんなにわかりやすい比較もないと思います。
 
 鍵盤からアクションに至る各所に何ひとつ手をつけなくても、ハンマーのわずかな重さの違いが及ぼすその影響の大きさに驚き、ピアノという楽器がいかに精妙な様々なバランスの上に成り立っているのかということがあらためてわかりました。ハンマーにも材質やメーカー、形状やサイズなど様々なものがあるだけでなく、シャンクの材質などもあれこれ揃っているのは、重さひとつを取ってもその違いがピアノに少なくない影響を及ぼすからということを如実に感じることができたように思います。
 ハンマーそのものの性質に加えてシャンクを合体させた状態での重さがどうなるのか、またシャンクの材質によっても重さやしなり具合が変わり、さらに厳密にいうならただの棒っ切れに見える1本1本のシャンクにも厳密にいうと鳴りの良否があるのだそうで、これを追求し出すと文字通り際限がないようです。
 
 シャンクの材質にもいろいろあって、カバ、シデ、マホガニー、ローズウッドなどがあり、それぞれ木によってしなりの性質とか重さなどの違いがあるようで、どういう性格のハンマーを取りつけるかによっても、それを支えるシャンクの選択はいかようにも変わってくるでしょう。
 さらには、もともとのピアノの持っている潜在力や性格、使用環境や弾く人の好みまで考慮しながら適切な選択をするのは技術者のほうでも並々ならぬ経験と判断力を要することで、絶対という答えのない世界だけに難しいところです。
 
 今回は、ハンマーヘッドの下部に1gほどの重さを加えただけでも、ピアノの性格が変わってしまうほどの違いが現れるということがわかったのは大変な収穫でしたし、よい勉強にもなったと思います。繰り返しますが同じハンマーでも重さがわずかに増しただけでこれほどの違いなのですから、ハンマーそのものが別の上級品に変われば、その変化は推して知るべしで、ピアノはさらに様々な次元の中でとりどりの変化を起こすことは間違いありません。ただし、その結果がすべて良い結果へと向かうかどうかはまったく保証の限りではなく、そこが楽器の難しいところでしょう。
 
 それから数週間が経過しましたが、さすがに重い鍵盤にも馴れてはきたものの、現在の状態はあくまでも実験の途中の一時的なものと見るべきで、最終的にはもう少し軽い方が好ましいのは間違いないところです。そこで、そろそろウェイトを半分に減らそうかと考えていましたが、そんな矢先に大手楽器店主催によるピアノフェスタという大規模な展示会のようなものがあり覗いてみました。
 そこであれこれのピアノの鍵盤に触れてみたところ、意外なことに、輸入物を含む多くのアップライトピアノの鍵盤が思ったよりもずっと重いのには驚かされました。きっと現在の我が家のカワイと大差ないぐらいの重さのピアノが何台も会場にあり、普通に売られているのを目の当たりにすると、これしきの重さに疲れてきたという自分が急に意気地なしに思えてしまいました。(もともと意気地はないのですが)
 これらのピアノを購入される方々は、おそらくこれぐらいの重さを普通と思って弾き続けられるのだろうと思うと、なんだかもうわけがわからなくなってくるようですが、たかだか自分のピアノのことなのだから、なにもそれを基準にする必要もないわけで、やはり最終的には自分の好みの重さになれば、それでいいのだと改めて思い始めているところです。
 
 幸いにも思慮深い調律師さんのお陰で、その作業はわざわざ来ていただかなくても、マロニエ君のようなシロウトでも、前後二つある鉛板の片方を剥ぎ取ればいいだけのことですから、その気になればすぐにできるだろうと思います。